吉川よしかわ元春もとはる

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吉川よしかわ 元春もとはる
吉川よしかわ元春もとはるぞう早稲田大学わせだだいがく図書館としょかんぞう
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん とおるろく3ねん1530ねん
死没しぼつ 天正てんしょう14ねん11月15にち1586ねん12月25にち
改名かいめい 毛利もうり元春もとはる吉川よしかわ元春もとはる
別名べつめい しょう輔次ろう通称つうしょう
戒名かいみょう ずいなみいん殿どのぜん駿しゅんしゅう太守たいしゅ四品拾遺海翁正恵大居士
墓所はかしょ 広島ひろしまけん山県やまがたぐん海応寺かいおうじ海応寺かいおうじあと吉川よしかわ元春もとはるかんあと隣接りんせつ
京都きょうと妙心寺みょうしんじ
官位かんい したがえよん治部じぶしょう駿河するがもり
主君しゅくん 毛利もうり元就もとなりりゅうはじめ輝元てるもと
氏族しぞく 大江おおえせい毛利もうり藤原ふじわらみなみ工藤くどうりゅう吉川よしかわ
父母ちちはは ちち毛利もうり元就もとなりははみょう吉川よしかわこくけいむすめ
養父ようふ吉川よしかわきょうけい
兄弟きょうだい 毛利もうりたかしもと五龍ごりゅうきょく宍戸ししどたかししつ)、元春もとはる
小早川こばやかわ隆景たかかげ二宮にのみや就辰井田いだもときよし
毛利もうりもとあき出羽でわもと天野あまのもとせい末次すえつぐ元康もとやす小早川こばやかわしげるつつみ
つま 正室せいしつ新庄しんじょうきょく熊谷くまがいしんただしむすめ
元長もとながしげるさわはじめ益田ますだもとさちしつこういえ
松寿しょうじゅまる吉見よしみもとよりゆきしつ
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吉川よしかわ 元春もとはる(きっかわ もとはる)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての武将ぶしょう毛利もうり元就もとなり次男じなんはは吉川よしかわこくけいむすめみょう同母どうぼ兄弟きょうだいあに毛利もうりたかしもとおとうと小早川こばやかわ隆景たかかげ、その異母いぼ兄弟きょうだいおおくいる。

ちち元就もとなりによって藤原ふじわらみなみながれを安芸あきこく名門めいもん吉川よしかわ養子ようしとしておくまれ、家督かとくかたち相続そうぞくした。以後いご毛利もうり両川りょうかわ一人ひとりとして、おとうと隆景たかかげとも毛利もうり発展はってん基礎きそをきずきあげ、おも山陰さんいん地方ちほう司令しれいかんとして貢献こうけんした。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

幼少ようしょう[編集へんしゅう]

とおるろく3ねん1530ねん)、毛利もうり元就もとなり次男じなんとして安芸あき吉田よしだぐん山城やましろまれる。

天文てんもん9ねん1540ねん)、出雲いずもこく尼子あまこ晴久はるひさ侵攻しんこうしたさいおこなわれた吉田よしだぐん山城やましろたたかにおいて、元服げんぷくまえながらちち反対はんたいって出陣しゅつじんし、見事みごと初陣ういじんかざった。

天文てんもん12ねん1543ねん8がつ30にちあに毛利もうりたかしもとより「もと」のへんいみなけて元春もとはる名乗なのった(異説いせつあり[注釈ちゅうしゃく 1])。

天文てんもん13ねん1544ねん12月20にち実子じっしがいない元就もとなりおとうときた就勝養子ようし契約けいやくおこない、きた就勝の死後しご所領しょりょうゆずける契約けいやくおこなった[1][2]

天文てんもん16ねん1547ねん)、みずかのぞんで熊谷くまがいしんただしむすめ新庄しんじょうきょく結婚けっこんする(後述こうじゅつ)。

吉川よしかわ相続そうぞく[編集へんしゅう]

天文てんもん16ねん1547ねん)7がつ母方ははかた従兄じゅうけい吉川よしかわきょうけい養子ようしとなる。これはきょうけいなかわるかった叔父おじ経世けいせいはじめとする吉川よしかわ家臣かしんだんすすめもあって、きょうけいがやむなく承服しょうふくしたものであるとされている。条件じょうけんきょうけい生命せいめい保証ほしょうすること、きょうけいせん法師ほうしもとはる養子ようしとして、成長せいちょう家督かとく相続そうぞくさせることであった。

同年どうねんうるう7がつ22にち吉川よしかわ経世けいせい市川いちかわけいこのみ今田いまだけいだか連署れんしょ血判けっぱん起請文きしょうもんによって、元就もとなりりゅうはじめもとはるへの忠誠ちゅうせいちか[3]うるう7がつ25にち元就もとなりりゅうはじめ元春もとはる返答へんとう連署れんしょ起請文きしょうもんおくっている[4]

天文てんもん19ねん1550ねん)、元就もとなりきょうけい強制きょうせいてき隠居いんきょさせると、もとはる家督かとくがせて吉川よしかわ当主とうしゅとした。そして熊谷くまがいしんじきらにめいじてきょうけいせん法師ほうし殺害さつがいしており、これが毛利もうり元就もとなり調しらべりゃくであったといえる[5]以後いご安芸あきこく大朝おおあさ小倉おぐら山城やましろはいった元春もとはるであったが、より要害ようがいである日野ひの山城やましろきずき、拠点きょてん移動いどうしている。そしておとうと小早川こばやかわ隆景たかかげともに「毛利もうり両川りょうかわ」とばれ、山陰さんいん地方ちほう政治せいじ軍事ぐんじ担当たんとうした。

大内おおうち尼子あまことのたたか[編集へんしゅう]

弘治こうじ元年がんねん1555ねん)、厳島いつくしまたたかにおいては吉川よしかわぐんひきいて小早川こばやかわぐん協力きょうりょくし、とう晴賢はるかたひきいる大内おおうちぐん撃滅げきめつした。弘治こうじ2ねん1556ねん)からは石見いわみこく遠征えんせいし、尼子あまこ晴久はるひさなんたたかうもはれひさ退しりぞけられる(しのぶげんくずくだざかたたか)。弘治こうじ3ねん1557ねん)にちち隠居いんきょすると、隆景たかかげとも両川りょうかわとして毛利もうり実質じっしつてきささえることとなった。

えいろく5ねん1562ねん)、元春もとはる胸部きょうぶ腹部ふくぶ激痛げきつうともなせきやまい(いわゆるしゃく)にかかり、毛利もうり元就もとなりのりおもね少林寺しょうりんじ楊井やぎいたけもりといった専従せんじゅうではない、領内りょうない医師いし動員どういんしてもとはる治療ちりょうにあたらせ、さらに京都きょうと医師いし大和やまとはるもと新荘しんじょう火ノ山ひのやまじょう往診おうしんかわせもとはる治療ちりょうにあたらせた[6]

えいろく8ねん1565ねん)、だい月山がっさん富田とみたじょうたたかでは主力しゅりょくとして参戦さんせんして武功ぶこうげ、えいろく9ねん1566ねん)に尼子あまこ義久よしひさ降伏ごうぶくせしめている。

しかし、えいろく12ねん1569ねん)からは尼子あまこ再興さいこうねが尼子あまご旧臣きゅうしん山中やまなかみゆきもりひきいる尼子あまこ再興さいこうぐんたたかうことになる。布部ぬのべさんたたか尼子あまこ再興さいこうぐん撃破げきはするも、同年どうねんには毛利もうり敵対てきたいする大友おおとも宗麟そうりんした寄食きしょくしていた大内おおうち一族いちぞく大内おおうち輝弘てるひろ周防すおうこく侵攻しんこうしてくる。これにたいしてぐんけんあたえられていた元春もとはるは、大友おおとも援軍えんぐん十分じゅうぶんつどっていないうちに輝弘てるひろめて自害じがいんだ。(大内おおうち輝弘てるひろらん

もとかめ2ねん1571ねん)には謀略ぼうりゃくもちいて尼子あまこ勝久かつひさこも末石すえいししろ攻撃こうげき山中やまなかみゆきもり捕虜ほりょとし、勝久かつひさ敗走はいそうさせたのである(そのこうもり謀略ぼうりゃくもちいて脱走だっそう)。

織田おだ信長のぶながとのたたか[編集へんしゅう]

もとかめ2ねん1571ねん)、ちち元就もとなり死去しきょすると、そのあといだおい毛利もうり輝元てるもとたかしもと嫡男ちゃくなん)をおとうと隆景たかかげとも補佐ほさする役目やくめになった。

しかしもとはるやぶれた尼子あまこ勝久かつひさらは、中央ちゅうおう勢力せいりょく拡大かくだいしていた織田おだ信長のぶながたより、その援助えんじょ背景はいけいにして抵抗ていこうつづけるようになる。また、天正てんしょう4ねん1576ねん)に最後さいご室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐんである足利あしかが義昭よしあき毛利もうりたよって備後びんごこく下向げこうすると、織田おだとの対立たいりつ決定的けっていてきとなる。天正てんしょう5ねん1577ねん)からは織田おだ信長のぶながいのちけた織田おだ重臣じゅうしん羽柴はしば秀吉ひでよしひきいる中国ちゅうごく遠征えんせいぐん播磨はりまこく侵攻しんこうする。もとはるはこれを迎撃げいげきし、天正てんしょう6ねん1578ねん)には尼子あまこ勝久かつひさ山中やまなかみゆきもりこめ上月こうづきしろ攻撃こうげきし、尼子あまこ勝久かつひさらは降伏ごうぶく自刃じじん宿敵しゅくてき山中やまなかみゆきもり処刑しょけいされ、尼子あまこ再興さいこうぐんうごきをめた(上月こうづきじょうたたか)。

そのもとはる織田おだぐん各地かくちたたかつづけたが、天正てんしょう8ねん(1580ねん)には三木みきしろ落城らくじょうし、城主じょうしゅ別所べっしょ長治ながはる自害じがい。そして備前びぜんこく宇喜多うきた直家なおいえ伯耆ほうきこく南条なんじょうもとつづけ織田おだくみし、豊後ぶんごこくからは大友おおとも宗麟そうりん織田おだ信長のぶなが呼応こおうして毛利もうりりょう侵攻しんこう天正てんしょう9ねん1581ねん)には因幡いなば鳥取とっとりじょう吉川よしかわ一族いちぞく吉川よしかわけい自刃じじんするなど、毛利もうり次第しだい劣勢れっせいとなる。

天正てんしょう10ねん1582ねん)、清水しみず宗治むねはるらがこも備中高松びっちゅうたかまつじょう羽柴はしば秀吉ひでよし攻撃こうげきされたため、元春もとはる輝元てるもと隆景たかかげらととも救援きゅうえんおもむいた(備中高松びっちゅうたかまつじょうたたか)。しかし、秀吉ひでよし水攻みずぜめによって積極せっきょくてき行動こうどうることができず、また秀吉ひでよしもとはるらとたたかうことで被害ひがい拡大かくだいすることをおそれて迎撃げいげきしなかったため、戦線せんせん膠着こうちゃく状態じょうたいとなる。

そのようななか、6月2にち織田おだ信長のぶなが明智あけち光秀みつひで謀反むほん死亡しぼうした(本能寺ほんのうじへん)。羽柴はしば秀吉ひでよし本能寺ほんのうじへん毛利もうりがわかくしつつ、「毛利もうり武将ぶしょうのほとんどが調しらべりゃくけている」と毛利もうり外交がいこうそう安国寺あんこくじ恵瓊えけいらせる。これで毛利もうりがわ疑心暗鬼ぎしんあんきおちいり、和睦わぼく受諾じゅだくせざるをなかった[7]結果けっか備中高松びっちゅうたかまつじょう開城かいじょうし、清水しみず宗治むねはるらは切腹せっぷく織田おだぐん備中びっちゅうこくから撤退てったいした。なお本能寺ほんのうじへんつたえるしらせが毛利もうりかたにもたらされたのは秀吉ひでよし撤退てったい翌日よくじつで、紀伊きい雑賀さいかしゅうからの情報じょうほうであったことが、吉川よしかわひろ覚書おぼえがき案文あんぶん)から確認かくにんできる[8]

川角かわすみ太閤たいこう』によれば、元春もとはるはこのさい追撃ついげき主張しゅちょうしたが、隆景たかかげ制止せいしされたという。一方いっぽうで、『吉川よしかわ文書ぶんしょ』では、りょう追撃ついげき無謀むぼうであり、失敗しっぱいすれば毛利もうりつぎこそほろぼされると懸念けねんし、光秀みつひで討伐とうばつかえしてゆく秀吉ひでよし見逃みのがしたと記述きじゅつされている。

最期さいご[編集へんしゅう]

天正てんしょう10ねん1582ねんまつ家督かとく嫡男ちゃくなん元長もとながゆずって隠居いんきょした。これは、秀吉ひでよしつかえることをきらってのことであるとされている。そして、吉川よしかわ一族いちぞくいしおさめていたゆずけ、隠居いんきょかん建設けんせつ開始かいしした。このかんのちに「吉川よしかわ元春もとはるかん」とばれたが、元春もとはる存命ぞんめいちゅう完成かんせいすることはなかった。

その毛利もうり秀吉ひでよし天下取てんかとりに協力きょうりょくし、天正てんしょう13ねん1585ねん)に隆景たかかげ積極せっきょくてき秀吉ひでよし四国しこく征伐せいばつ参加さんかしたが、吉川よしかわぐん元長もとながそう大将たいしょうとして出陣しゅつじんするにとどまり、元春もとはる出陣しゅつじんしなかった。

天正てんしょう14ねん1586ねん)、天下てんかじんへのみちすす豊臣とよとみ秀吉ひでよしつよ要請ようせいけ、おとうと隆景たかかげおい輝元てるもとらの説得せっとくにより、隠居いんきょでありながら九州きゅうしゅう平定へいてい参加さんかした。しかしこのころ元春もとはる化膿かのうせい炎症えんしょうがんとも)に身体しんたいむしばまれていた。

そのため、同年どうねん11がつ15にち出征しゅっせいさき豊前ぶぜん小倉こくらじょうまる死去しきょした。享年きょうねん57。

逸話いつわ[編集へんしゅう]

もとはる嫁取よめと[編集へんしゅう]

もとはる熊谷くまがいしんじきむすめ新庄しんじょうきょく)を正室せいしつめとり、生涯しょうがい側室そくしつかず4なん2じょ子宝こだからめぐまれた。

この正室せいしつ新庄しんじょうきょく不美人ふびじんであったという逸話いつわがある。せんおもねの『陰徳いんとく太平たいへいまきじゅうろく元春もとはるめと熊谷くまがいしん直之なおゆきおんなごと」によると、児玉こだま就忠縁談えんだんすすめたさい不美人ふびじん評判ひょうばんだった熊谷くまがいしんじきむすめもとはるみずかのぞみ、おどろいた就忠が確認かくにんすると、「しんじきむすめみにくだれ結婚けっこんしようとはしないので、もしもとはるめとればしんじきよろこび、元春もとはるのためにいのちがけでくすだろう」とはなしたとある。この嫁取よめとりは勇猛ゆうもうられる熊谷くまがいしんじき勢力せいりょく味方みかたにつけるための政略せいりゃく結婚けっこんであったとわれているが、その一方いっぽうみずからを女色じょしょくおぼれさせないようにいましめる意味いみもあったとされている。しかし、そのようなこととは無関係むかんけいおもえるほどに夫婦ふうふなか円満えんまんで、元春もとはるとそのむすめとのあいだには吉川よしかわ元長もとなが毛利もうりはじめ吉川よしかわひろまれている。その吉川よしかわひろ度々たびたびいさめたさいは、夫婦ふうふ連名れんめい書状しょじょうおくるなど、新庄しんじょうきょく吉川よしかわ家中かちゅうでは良妻賢母りょうさいけんぼであったようである。

ただ、武田たけだ光和みつかずとついだしんじきいもうと絶世ぜっせい美人びじんということであり[注釈ちゅうしゃく 2]叔母おばめい容色ようしょくがそこまでちがうのかという疑問ぎもんもあり、本当ほんとう不器量ぶきりょうであったかどうかは不明ふめいである。吉川よしかわひろ存命ぞんめいちゅう成立せいりつした可能かのうせいがある『安西あんざいぐんさく』にはもとはる夫人ふじん熊谷くまがい)の器量きりょうわるかったとの記述きじゅつはない。しかし香川かがわただしのりの『陰徳いんとく』に「器量きりょうわるい」との記述きじゅつあらわれ、『陰徳いんとく太平たいへい』に継承けいしょうされている。一説いっせつによると疱瘡ほうそうんだせいでかおみにくくなり、しんじきはこれを理由りゆう婚約こんやく辞退じたいしようとしたが、元春もとはるがわがそのような理由りゆう約束やくそくたがえるのをいさぎよしとせず、結婚けっこんしたともう。

なお、あえて不美人ふびじんめとった逸話いつわとしては「しょかずら孔明こうめいよめえらび」がある。史料しりょう容貌ようぼう記載きさい後年こうねん作品さくひん不細工ぶさいくとされたのは、龐統れいがある。やまいによる容貌ようぼう悪化あっか承知しょうちめとったれいとしては、明智あけち光秀みつひで高橋たかはし紹運にも同様どうよう逸話いつわがある。以上いじょうのように歴史れきしじょうにおいて類似るいじ逸話いつわおおく、実情じつじょうについては不明ふめいである。

吉川よしかわほん太平たいへい[編集へんしゅう]

太平たいへい』は南北なんぼくあさ争乱そうらんえがいた軍記物語ぐんきものがたりで、戦国せんごく時代じだい武人ぶじんにもひろ愛読あいどくされた。

尼子あまこ討伐とうばつ陣中じんちゅうもとはるは『太平たいへい』40かん書写しょしゃし、これは現在げんざいに『吉川よしかわほん』としてつたわっている。吉川よしかわほん太平たいへいもとはる自身じしん書写しょしゃしたもので、現在げんざい財団ざいだん法人ほうじん吉川よしかわほうこうかい所有しょゆうとなっており、岩国いわくに吉川よしかわ史料しりょうかん保管ほかんしている。太平たいへい本文ほんぶんはカタカナじりで、ふる形式けいしきつたえている。

奥書おくがき朱筆しゅひつによれば、吉川よしかわ元春もとはるだい1さつえいろく6ねん1563ねん)12月にふでくだし、その各巻かくかん書写しょしゃおこなって、えいろく8ねん1565ねん)7がつだい39さつ書写しょしゃ完成かんせいしたとしている。べつ自筆じひつ太平たいへい目録もくろく1さつもある。

太平たいへいには多少たしょう異本いほん存在そんざいみとめられ、そのうちもっと原作げんさくちかいとみとめられていたのは神田かんだ太平たへいであったが、神田かんだほんには14かんかけしつがあった。吉川よしかわほん神田かんだほんちか内容ないようゆうし、しかもほぼ全巻ぜんかん完備かんびしていることから、古典こてん文学ぶんがく研究けんきゅうじょうきわめて貴重きちょう資料しりょうとされる。昭和しょうわ34ねん1959ねん)12月18にちくに重要じゅうよう文化財ぶんかざいしょあと)に指定していされた。

居館きょかんあと調査ちょうさ[編集へんしゅう]

吉川よしかわ元春もとはるかんあと居城きょじょう日野ひの山城やましろ西南せいなんふもと所在しょざいし、志路原川しじはらがわ河岸かわぎし段丘だんきゅうじょうなる斜面しゃめん築造ちくぞうされていた。かわほり役割やくわりたしており、西側にしがわやま菩提寺ぼだいじ海応寺かいおうじあとがある。

これまで、石垣いしがきるい掘立柱ほったてばしら建物たてもの中心ちゅうしんとする屋敷やしき庭園ていえん確認かくにんしている。屋敷やしきからは建物たてもののほかトイレ遺構いこう2検出けんしゅつされている。また、大溝おおみぞからは金隠きんかくと「はえたんがためこれをつくもの也」と墨書ぼくしょされたさつ遺構いこうがいからは「こほりさたう」と墨書ぼくしょされ氷砂糖こおりざとう容器ようきかんがえられる円形えんけいぶた、「かかいさまへ(おかあさまへ)」とかれていることからもとはるつまてられたであろうとかんがえられる木製もくせい荷札にふだなどが出土しゅつどしている。

昭和しょうわ61ねん1986ねん)8がつ28にち吉川よしかわ居館きょかんあととして小倉おぐら山城やましろ駿河するがまるじょう日野ひの山城やましろとともにくに史跡しせき指定していされた。屋敷やしき庭園ていえん一部いちぶ復元ふくげんがなされている。

かんれき[編集へんしゅう]

日付ひづけ旧暦きゅうれき明治めいじ5ねん(1872ねん)12月2にちまで適用てきよう

系譜けいふ[編集へんしゅう]

へんいみなけた人物じんぶつ[編集へんしゅう]

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

小説しょうせつ
テレビドラマ
芸能げいのう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ もと」の毛利もうりつうであるため、とくたかしもとからたまわったわけではない可能かのうせいもある。
  2. ^ このいもうと安芸あき武田たけだ離縁りえん熊谷くまがい安芸あき武田たけだから離反りはんする原因げんいんとなっている。
  3. ^ くちせんあんうえきょう中納言ちゅうなごん勧修寺かんしゅうじはれみぎたてまつしゃ蔵人くろうどあたまひだりちゅうべん勧修寺かんしゅうじはれゆたか

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 吉川よしかわ文書ぶんしょだい416ごう天文てんもん13ねん12月20にちづけきた就勝ちぎりじょう」。
  2. ^ 吉川よしかわ文書ぶんしょだい417ごう天文てんもん13ねん12月20にちづけ毛利もうり元春もとはる自筆じひつちぎりじょうあん」。
  3. ^ 吉川よしかわ文書ぶんしょだい426ごう天文てんもん16ねんうるう7がつ22にちづけ吉川よしかわ経世けいせいどうけいこう今田いまだけいだか連署れんしょ起請文きしょうもん」。
  4. ^ 吉川よしかわ文書ぶんしょだい427ごう天文てんもん16ねんうるう7がつ25にちづけ毛利もうり元就もとなりどうりゅうはじめ吉川よしかわ元春もとはる連署れんしょ起請きしょう文案ぶんあん」。
  5. ^ 田端たばた泰子やすこ毛利もうり元就もとなり領国りょうごく統治とうちにおける女性じょせい役割やくわり」『日本にっぽん中世ちゅうせい社会しゃかい女性じょせい吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1998ねん 
  6. ^ 宮本みやもと 1993.
  7. ^ 藤田ふじた 2012.
  8. ^ 宮本みやもと 1994.
  9. ^ 吉川よしかわ文書ぶんしょだい410ごう天文てんもん18ねん4がつ22にちづけ大内おおうち義隆よしたか官途かんと吹挙じょう」。
  10. ^ 吉川よしかわ文書ぶんしょだい411ごうえいろく3ねん比定ひてい2がつ20にちづけ足利あしかが義輝よしてる御内おんうちしょ」。
  11. ^ 吉川よしかわ文書ぶんしょだい66ごうもとかめ3ねん3がつ27にちづけ正親町おおぎまち天皇てんのうこうせんあん」。
  12. ^ a b 近世きんせいぼうちょう諸家しょか系図けいず綜覧そうらん 1966, p. 41.
  13. ^ 広島ひろしまけん文化財ぶんかざい - 南条なんじょうおどりホットライン教育きょういくひろしま
  14. ^ 湯本ゆもと南条なんじょうおどり一般いっぱん社団しゃだん法人ほうじん山口やまぐちけん観光かんこう連盟れんめい

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 瀬川せかわ秀雄ひでお吉川よしかわ元春もとはるマツノ書店しょてん、1985ねん 
  • 東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ へんだい日本にっぽん古文書こもんじょ わけだいきゅう 吉川よしかわ文書ぶんしょ東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1970ねん 
  • 宮本みやもと義己よしみ ちょ戦国せんごくにおける毛利もうり領国りょうごく医療いりょう医術いじゅつ」、べいはら正義まさよし先生せんせい古稀こき記念きねんろん文集ぶんしゅう刊行かんこうかい へん戦国せんごくゆたか政治せいじ文化ぶんかぞくぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい、1993ねん 
  • 宮本みやもと義己よしみさんみち併進へいしんさくによる毛利もうりの「上洛じょうらく作戦さくせん」」『歴史れきし読本とくほん』39かん9ごう、1994ねん 
  • 藤田ふじた達生たつお秀吉ひでよし海賊かいぞく大名だいみょううみから戦国せんごく終焉しゅうえん-』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2012ねん 
  • 防長新聞社ぼうちょうしんぶんしゃ山口やまぐち支社ししゃへん へん近世きんせいぼうちょう諸家しょか系図けいず綜覧そうらん三坂みさかけい監修かんしゅう防長新聞社ぼうちょうしんぶんしゃ、1966ねん3がつNCID BN07835639OCLC 703821998全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:73004060 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]