宍戸 隆 家
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生涯 [編集 ]
幼少 期 [編集 ]
安芸 ・備後 での戦 い[編集 ]
また、
防 芸 引分 から防 長 経略 [編集 ]
また、
山陰 攻略 [編集 ]
毛利 輝元 時代 [編集 ]
晩年 [編集 ]
墓所 [編集 ]
また、
逸話 [編集 ]
後世 の系図 によると、享 禄 2年 (1529年 )2月 14日 に家臣 の讒言 によって後見 役 であった叔父 の宍戸 隆 忠 を隆 家 が殺害 したことが記 されており、元禄 16年 (1703年 )に宍戸 就延の命 を受 けた等々力 正 識が編纂 した『宍戸 記 』[3]には、殺害 された隆 忠 の祟 りによって隆 家 が眼 病 を患 い、隆 忠 の霊 に謝罪 したことで眼 病 が治癒 したとの伝承 が記 されている[53]。宍戸 隆 忠 の殺害 事件 については確 かな史料 で確認 することはできないが、元 亀 3年 (1572年 )に毛利 輝元 が非業 の死 を遂 げた者 の亡魂 を神 として祀 った際 に、隆 忠 と思 われる「宍戸 家 亡魂 四 郎 」を祀 る神社 を勧請 していることから、隆 忠 が非業 の死 を遂 げていること自体 は事実 と考 えられている[53]。ただし、天文 13年 (1544年 )から天文 14年 (1545年 )頃 まで隆 忠 の活動 が見 られることから、その時期 については系図 に記 された享 禄 2年 (1529年 )ではなく、天文 10年代 中頃 以降 である[53]。
脚注 [編集 ]
注釈 [編集 ]
- ^ a b
後世 の系譜 類 では、隆 家 は文 禄 元年 2月 5日 (1592年 3月18日 )に75歳 で死去 したとしているが、同年 5月26日 に朝鮮 出兵 中 の輝元 が隆 家 に宛 てた書状 によると、同年 4月 8日 に隆 家 から送 られた書状 に対 する返信 である旨 が記載 されている[2]。また、隆 家 の墓所 にある、隆 家 の墓石 としている宝 篋印塔 には「文 禄 二 □二 月 五 日 」と刻 まれている[3]ことから、実際 には隆 家 が文 禄 2年 (1593年 )に死去 したと考 えられている[4]。 - ^
河野 通 直 の母 とする説 もある。 - ^
近世 の地誌 には、居城 とした五龍 城 とは別 に、吉田 の鑓 分 の田屋 という畑 が隆 家 の屋敷 跡 と伝 わっている。ただし、吉川 元春 や小早川 隆景 の屋敷 も描 かれている「郡山 中心 一 円 図 」等 の近世 の絵図 には隆 家 の屋敷 については描 かれておらず、他 に隆 家 の屋敷 について記載 された史料 がないことから真偽 は不明 である[6]。 - ^
隆 家 の生年 については後世 の系譜 類 の記載 以外 の確実 な根拠 は無 く、実際 にはもう少 し後 である可能 性 が指摘 されている。文 禄 4年 (1595年 )12月に宍戸 元秀 が飯田 宮内 に対 して、隆 家 の娘 で毛利 輝元 正室 の南 の大方 が「壬 午 御 歳 」の「御 祈念 」のために井原 村 内 の10石 の地 を厳島 神社 内侍 衆 に寄進 する旨 を伝 えているが、もし「壬 午 御 歳 」が隆 家 の生年 を指 すのであれば、隆 家 の生年 は大 永 2年 (1522年 )となる[2]。なお、隆 家 の父 ・元 家 の没年 も同様 に系譜 類 に記載 されているもので、史料 的 には若 くして死去 した元 家 の事跡 は確認 できない[5][2]。 - ^
一説 には後 に主君 ・毛利 氏 より「元 」の字 を受 けて曽 祖父 や父 と同名 の「元 家 」を名乗 ったとも言 われる。[要 出典 ] - ^
山内 隆 通 が提示 した9ヶ条 の条件 は以下 の通 り。①宮 氏 と東 氏 の旧領 で、山内 隆 通 が知行 している備後 国 奴 可 郡 小奴可 ・久代 の地 は全 て隆 通 の所領 とすること。ただし、備中 国 哲多 郡 八鳥 山 については求 めない。 ②隆 通 の実父 である多賀 山 通 続 が毛利 氏 に服属 した際 に通 続 を疎略 に扱 わない、という旨 の起請文 を出 すこと。 ③備後 国 永江 の地 は江田 隆 連 に還付 せず、以後 も隆 通 の所領 とすること。 ④備後 国 三 谿郡和智 村 は近年 の通 り、山内 氏 と三吉 氏 の分 領 とすること。 ⑤備後 国 三上 郡 信 敷 の内 の一部 地方 はかつては複数 の国人 で少 しずつ分 領 していたが、以後 は現状 を維持 し、誰 がどのような提言 をしようとも耳 を貸 さないこと。 ⑥高 光 氏 は、隆 通 と同様 に毛利 氏 へ従 う意思 があるため、高光 氏 の所領 を安堵 すること。 ⑦涌喜氏 のこと。 ⑧毛利 氏 領内 から1ヶ所 を隆 通 に分与 すること。 ⑨以上 の条件 を認 めるという旨 の誓書 をこの箇条書 の奥 に書 き、毛利 元就 、毛利 隆 元 、宍戸 隆 家 が連署 と加 判 をすること。 - ^
備後 国 涌喜の小 豪族 で、宍戸 氏 傘下 ではなく、独立 した領主 としての地位 保全 を元就 に依頼 したものと思 われる。 - ^ この
時 の傘 連判 状 に名 を連 ねた人物 は、毛利 元就 から時計 回 りに、毛利 右 馬頭 元就 、吉川 治部 少 輔元春 、阿 曾沼少 輔十郎 広 秀 、毛利 備中 守 隆 元 、完 戸 左衛門尉 隆 家 、天野 藤次郎 元 定 、天野 左衛門尉 隆 誠 、出羽 民 部 太 輔元祐 、天野 中務 少 輔隆重 、小早川 又四郎 隆景 、平賀 新九郎 広 相 、熊谷 兵庫 頭 信 直 の12名 。 - ^
伊 予 河野 氏 の最後 の当主 ・河野 通 軌は宍戸 氏 の出身 という説 がある。 - ^
国吉 城 攻 めにおいて各 軍 が討 ち取 った敵 兵 の数 の内訳 は多 い順 に、毛利 輝元 の本 軍 が95人 、宍戸 隆 家 の軍 が53人 、熊谷 高直 の軍 が29人 、阿曽沼 広 秀 の軍 が28人 、馬屋 原 信春 の軍 が27人 、天野 元明 の軍 が26人 、平川 盛 吉 の軍 が13人 、山内 隆 通 の軍 が11人 、小早川 隆景 の軍 が8人 、天野 元 政 の軍 が5人 、細川 通 董 の軍 が3人 、長氏 の軍 が2人 、平賀 元 相 の軍 が1人 [40][41]。 - ^
播磨 出征 において吉川 元春 の軍 には、吉川 元長 、吉川 元 棟 (後 の繁 沢 元 氏 )、吉川 経 言 (後 の吉川 広 家 )、毛利 元 秋 、末次 元康 、益田 元 祥 、山内 隆 通 、羽根 氏 、三刀屋 氏 等 の山陰 の諸氏 が加 わり、小早川 隆景 の軍 には穂 井田 元 清 、天野 元 政 、宍戸 隆 家 、三吉 氏 、多賀 氏 、平賀 元 相 等 の山陽 の諸氏 が加 わった[42]。 - ^
御 四 人 は吉川 元春 、小早川 隆景 、福原 貞 俊 、口 羽 通 良 の4人 を指 す。 - ^
萩 藩 の各 家 の系譜 や文書 をまとめた『閥 閲録』においても、その他 の一門 家老 の各 毛利 家 よりも先 の巻 1にまとめられているのは宍戸 氏 である。
出典 [編集 ]
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p
田村 哲夫 編修 1980, p. 60. - ^ a b c d
秋山 伸 隆 2018, p. 7. - ^ a b
舘 鼻 誠 2020, p. 1107. - ^
舘 鼻 誠 2020, p. 1114. - ^ a b c d e
毛利 元就 卿 伝 1984, p. 83. - ^
安芸 高田 市 歴史 民俗 博物館 2018, p. 28. - ^
安芸 高田 市 歴史 民俗 博物館 2018, p. 63. - ^ 『
山内 家 文書 』第 284号 、天正 8年 (1580年 )9月6日 付 、山内 隆 通 ・山内 千 松丸 (広通 )宛 て宍戸 隆 家 ・宍戸 元 孝 (元秀 )連署 起請文 。 - ^ a b c d e f
安芸 高田 市 歴史 民俗 博物館 2018, p. 5. - ^
光成 準 治 2023, pp. 310–311. - ^ a b
毛利 元就 卿 伝 1984, p. 99. - ^ a b
毛利 元就 卿 伝 1984, p. 113. - ^
毛利 元就 卿 伝 1984, p. 116. - ^ a b
毛利 元就 卿 伝 1984, p. 143. - ^
毛利 元就 卿 伝 1984, p. 144. - ^
毛利 元就 卿 伝 1984, p. 151. - ^ a b c
毛利 元就 卿 伝 1984, p. 152. - ^ a b
毛利 元就 卿 伝 1984, p. 157. - ^
毛利 元就 卿 伝 1984, p. 158. - ^
毛利 元就 卿 伝 1984, pp. 159–160. - ^
毛利 元就 卿 伝 1984, pp. 193–195. - ^
毛利 元就 卿 伝 1984, p. 202. - ^ a b
毛利 元就 卿 伝 1984, pp. 202–203. - ^
毛利 元就 卿 伝 1984, p. 213. - ^
毛利 元就 卿 伝 1984, p. 228. - ^ a b
安芸 高田 市 歴史 民俗 博物館 2018, p. 55. - ^
毛利 元就 卿 伝 1984, pp. 332–333. - ^
毛利 元就 卿 伝 1984, p. 240. - ^
安芸 高田 市 歴史 民俗 博物館 2018, p. 56. - ^ a b
毛利 元就 卿 伝 1984, p. 347. - ^
毛利 元就 卿 伝 1984, p. 348. - ^ a b
安芸 高田 市 歴史 民俗 博物館 2018, p. 59. - ^ 『
毛利 家 文書 』第 686号 、永 禄 6年 (1563年 )比定 2月 28日 付 け、完 戸 左衛門尉 (隆 家 )宛 て毛利 隆 元 自筆 書状 。 - ^
宮本 義己 2018, pp. 221–223. - ^
光成 準 治 2016, p. 386. - ^
毛利 元就 卿 伝 1984, p. 437. - ^ a b c
毛利 元就 卿 伝 1984, p. 593. - ^
毛利 元就 卿 伝 1984, p. 611. - ^
毛利 輝元 卿 伝 1982, p. 12. - ^ a b
毛利 輝元 卿 伝 1982, p. 58. - ^ 『
毛利 家 文書 』第 375号 、天正 3年 (1575年 )1月 1日 付 、備中 國手 要害 合戦 頸注文 。 - ^ a b c d
毛利 輝元 卿 伝 1982, p. 112. - ^
毛利 輝元 卿 伝 1982, p. 112-113. - ^
毛利 輝元 卿 伝 1982, p. 120-121. - ^
毛利 輝元 卿 伝 1982, p. 121-122. - ^
安芸 高田 市 歴史 民俗 博物館 2018, pp. 57–58. - ^ 『
山内 家 文書 』第 286号 、天正 8年 (1580年 )比定 10月 1日 付 、宍戸 隆 家 書状 。 - ^ a b
光成 準 治 2023, p. 314. - ^
安芸 高田 市 歴史 民俗 博物館 2018, p. 32. - ^
安芸 高田 市 歴史 民俗 博物館 2018, p. 31. - ^
宍戸 隆 家 夫妻 の墓 (甲田 町 )|安芸 高田 市 ホームページ - ^ a b c
安芸 高田 市 歴史 民俗 博物館 2018, p. 30. - ^ a b c
秋山 伸 隆 2018, p. 8.
参考 文献 [編集 ]
防長新聞社 山口 支社 編 編 『近世 防 長 諸家 系図 綜覧 』三坂 圭 治 監修 、防長新聞社 、1966年 3月 。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国 書誌 番号 :73004060。国立 国会図書館 デジタルコレクション三 卿 伝 編纂 所 編 、渡辺 世 祐 監修 『毛利 輝元 卿 伝 』マツノ書店 、1982年 1月 。三 卿 伝 編纂 所 編 、渡辺 世 祐 監修 『毛利 元就 卿 伝 』マツノ書店 、1984年 11月。光成 準 治 『毛利 輝元 西国 の儀 任 せ置 かるの由 候 』ミネル ヴァ書房 〈ミネルヴァ日本 評伝 選 〉、2016年 5月 。ISBN 462307689X。宮本 義己 「足利 将軍 義輝 の芸 ・豊 和平 調停 」木下 昌 規 編 『シリーズ・室町 幕府 の研究 第 四 巻 足利 義輝 』戎 光 祥 出版 、2018年 。初出 は『政治 経済 史学 』102・103号 、1974年 。安芸 高田 市 歴史 民俗 博物館 『宍戸 隆 家 生誕 500年 記念 安芸 宍戸 氏 ~毛利 一族 、四 本 目 の矢 ~』、2018年 11月。秋山 伸 隆 「戦国 期 の宍戸 氏 と毛利 氏 」『宍戸 隆 家 生誕 500年 記念 安芸 宍戸 氏 ~毛利 一族 、四 本 目 の矢 ~』収録 、2018年 11月。
舘 鼻 誠 「石塔 から読 み解 く理 窓 院 と安芸 宍戸 家 ―芸北 における花崗岩 および石灰岩 石塔 の検討 ―」『日本体育大学 紀要 』第 49号 、2020年 。光成 準 治 「宍戸 元 源 ・隆 家 ―毛利 氏 を支 える四 本 目 の矢 」光成 準 治 編 『戦国 武将 列伝 9中国 編 』収録 、戎 光 祥 出版 、2023年 9月 。
関連 作品 [編集 ]
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