宍戸ししどたかし

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宍戸ししどたかし
宍戸ししど安藝あきまもるたかし
毛利もうり博物館はくぶつかんぞう毛利もうり元就もとなり備図」より)
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん えいただし15ねん[1]1518ねん
死没しぼつ ぶんろく2ねん2がつ5にち1593ねん3月7にち[注釈ちゅうしゃく 1]
改名かいめい 宍戸ししど海賊かいぞく[5]幼名ようみょう)→宍戸ししどたかし
別名べつめい 通称つうしょう弥三郎やさぶろう[1]左衛門尉さえもんのじょう[1]
戒名かいみょう てん叟覚たかしだい居士こじ[1]
墓所はかしょ てん叟寺あと[1]広島ひろしまけん安芸あき高田たかだ甲田こうたまち
官位かんい したがえ[1]安芸あきまもる[1]
主君しゅくん 大内おおうち義隆よしたか毛利もうり元就もとなりりゅうはじめ輝元てるもと[1]
氏族しぞく 藤原ふじわらきたみちけんりゅう八田はったぞく宍戸ししど
父母ちちはは ちち宍戸ししどもといえ[1]はは山内やまうち直通ちょくつうむすめ[1]
つま 正室せいしつ五龍ごりゅうきょく毛利もうり元就もとなり次女じじょ[1]
継室けいしつ石見いわみしげるつぎあね[1]
元秀もとひで[1]天遊てんゆう永寿ながとし河野こうのとおるせんしつ[1][注釈ちゅうしゃく 2]
春木はるき大方おおがた吉川よしかわ元長もとなが正室せいしつ[1]
みなみ大方おおかた毛利もうり輝元てるもと正室せいしつ[1]
養子ようしおんな石見いわみしげるつぎむすめ粟屋あわや元種もとだねしつ
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宍戸ししど たかし(ししど たかいえ)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての武将ぶしょう安芸あきこく高田たかだぐん甲立こうたち現在げんざい広島ひろしまけん安芸あき高田たかだ甲田こうたまち上甲立かみこうたち下甲立しもこうたち)の五龍ごりゅうじょう本拠ほんきょ[注釈ちゅうしゃく 3]とする国人くにびと領主りょうしゅ安芸あき宍戸ししど当主とうしゅ毛利もうり元就もとなり次女じじょ五龍ごりゅうきょくつまとして毛利もうり一門いちもんしゅとなった。なお、当時とうじ文書ぶんしょにおいて苗字みょうじの「宍戸ししど」は、「かん」または「鹿戸しかと」(みはいずれも「ししど」)と表記ひょうきされている[7]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

幼少ようしょう[編集へんしゅう]

りゅう誕生たんじょうまええいただし15ねん1518ねん6月21にちたかしちち宍戸ししど弥三郎やさぶろうもといえ死去しきょもといえ死後しごもといえつま山内やまうち直通ちょくつうむすめ)は実家じっかである山内やまうちもどり、同年どうねんえいただし15ねん(1518ねん)にたかし誕生たんじょうしたとされる[注釈ちゅうしゃく 4]幼名ようみょうは「海賊かいぞく[5]山内やまうち誕生たんじょうしたたかしは、外祖父がいそふ山内やまうち直通ちょくつうのもとでしばらく養育よういくされ[2][8]だいひさし3ねん1523ねん)に祖父そふ宍戸ししどもとみなもとられて宍戸ししどもど[5][9]元服げんぷくさいしては大内おおうち義隆よしたかからへんいみなけて「りゅう」と名乗なのった[注釈ちゅうしゃく 5]

安芸あき備後びんごでのたたか[編集へんしゅう]

宍戸ししど安芸あきこく国人くにびととして代々だいだい毛利もうりあらそっていたが、天文てんもん3ねん1534ねん1がつ18にち毛利もうり元就もとなり年頭ねんとうべるために五龍ごりゅうじょう訪問ほうもんしたさい元就もとなり次女じじょ五龍ごりゅうきょくたかし婚約こんやくまり[5][9]のち正式せいしき婚姻こんいんする。婚姻こんいん時期じきについて正確せいかくとし不明ふめいだが、五龍ごりゅうきょくとおるろく2ねん1529ねんまれで、長男ちょうなん宍戸ししど元秀もとひで天文てんもん16ねん1547ねんまれとされていることから、吉田よしだぐん山城やましろたたか天文てんもん10年代ねんだい前半ぜんはんかんがえられている[10]

天文てんもん9ねん1540ねん9月4にち安芸あきこく侵攻しんこうした尼子あまこかいひさし尼子あまこ晴久はるひさ高田たかだぐん多治比たじひ風越山かざこしやま本陣ほんじんかまえたことで、毛利もうり元就もとなり吉田よしだぐん山城やましろ籠城ろうじょう[11]宍戸ししどもとみなもと居城きょじょうである五龍ごりゅうじょう籠城ろうじょうして尼子あまごぐん侵攻しんこうそなえる一方いっぽう嫡孫ちゃくそんたかし吉田よしだぐん山城やましろ入城にゅうじょうさせて他意たいいことをしめした(吉田よしだぐん山城やましろたたか[11]よく天文てんもん11ねん1541ねん1がつ13にち尼子あまごぐん出雲いずもこく撤退てったいすると、毛利もうりぐん武田たけだ信重のぶしげまも佐東さとう銀山ぎんざんじょうへの攻撃こうげき開始かいしし、同年どうねん5月13にち宍戸ししどもとみなもとたかし天野あまのきょうじょう熊谷くまがいしんただし香川かがわ光景こうけい己斐こい豊後ぶんごまもるらととも佐東さとう銀山ぎんざんじょう強襲きょうしゅう[12]。このときたたかいで宍戸ししど配下はいか庄原しょうばらまごよんろう神代かみしろ内蔵ないぞうまこと木原きはらはじめさん兵衛ひょうえ山県やまがたひだりすけ佐々部ささべそう左衛門さえもんらが奮戦ふんせんし、てきへいすうじゅうにん武功ぶこうげている(佐東さとう銀山ぎんざんじょうたたか[12]

天文てんもん11ねん1542ねん)1がつからはじまる大内おおうち義隆よしたかによる出雲いずも侵攻しんこうだいいち月山がっさん富田とみたじょうたたか)においては、毛利もうり元就もとなりりゅうもと父子ふしをはじめとする安芸あき国人くにびとらとともたかし従軍じゅうぐんしている[13]

天文てんもん17ねん1548ねん)にとう隆房たかふさとう晴賢はるかた大将たいしょうとする大内おおうちぐん備後びんご神辺かんべしろ山名やまなさとしきょう攻撃こうげきした神辺かんべ合戦かっせんにおいて、たかし毛利もうりたかしもと吉川よしかわ元春もとはるらととも毛利もうり元就もとなりぐんぞくしてだい内方ないほうとして出陣しゅつじん[14]同年どうねん5月18にち5がつ20日はつか神辺かんべじょうへのそう攻撃こうげきたかしくわわり[14]宍戸ししど家臣かしん江田えだもとかちちゅうしょ元信もとのぶてき首級しゅきゅうげている[15]

天文てんもん20ねん1551ねん9月1にちとう隆房たかふさらの謀反ぼうほんだいやすしてらへん)により大内おおうち義隆よしたか自害じがいすると、同年どうねん9月4にち毛利もうり元就もとなり大内おおうち義隆よしたか意向いこう平賀ひらがいでいた平賀ひらがたかし頭崎つむりざきじょう攻撃こうげきして追放ついほうし、平賀ひらが先代せんだい当主とうしゅ平賀ひらがたかしむねおとうとである平賀ひらがひろしょう家督かとく相続そうぞくさせる[16]頭崎つむりざきじょうからのがれた平賀ひらがたかし安芸あきこく西条さいじょうづち山城やましろおも菅田すげたせんしんたよったため、元就もとなり同年どうねん9月8にち安芸あきこく西条さいじょう進軍しんぐんし、9月11にちづち山城やましろ西にしから福原ふくはらこころざしどう先鋒せんぽうとする毛利もうり元就もとなりりゅうはじめほんぐんみなみから小早川こばやかわ隆景たかかげぐんひがしから吉川よしかわ元春もとはるたかしぐんづち山城やましろ攻撃こうげきした[17]。しかし、づち山城やましろまもりが堅固けんご損害そんがいおおきかったため、元就もとなりぜんぐん一度いちど退却たいきゃくさせ、しろへい追撃ついげきしてきたところをりゅうぐん反撃はんげき[17]。それにつづいてかくぐんふたたづち山城やましろへの攻撃こうげき再開さいかいして外郭がいかく占領せんりょうしたため、本丸ほんまるめられた平賀ひらがたかし自害じがいし、菅田すげたせんしん降伏ごうぶくした[17]

天文てんもん22ねん1553ねん)、毛利もうり元就もとなりによるしゅく甲斐守かいのかみ治部じぶ大輔だいすけ父子ふし籠城ろうじょうする備後びんご高杉たかすぎしろめに、吉川よしかわ元春もとはる小早川こばやかわ隆景たかかげ平賀ひらがひろしょう湯浅ゆあさもとむねらととも従軍じゅうぐん[18]同年どうねん7がつ23にち吉川よしかわ元春もとはる小早川こばやかわ隆景たかかげとも高杉たかすぎしろ平坦へいたん西南せいなん方向ほうこうからめ、しゅく父子ふしって高杉たかすぎじょう陥落かんらくさせた[18]。このたたかいで宍戸ししど配下はいか佐々部ささべゆうけんてき首級しゅきゅうげたため、よく天文てんもん23ねん1554ねん8がつ10日とおかたかし感状かんじょう発給はっきゅうしている[19]

また、同年どうねん天文てんもん22ねん(1553ねん)に母方ははかた従兄弟いとこにあたる備後びんご山内やまうち当主とうしゅ山内やまうちたかしどおりたい毛利もうり帰順きじゅんするようにくちどおりりょうとも説得せっとくおこない、同年どうねん12月3にち山内やまうちたかしどおりは9ヶ条かじょう条件じょうけん[注釈ちゅうしゃく 6]りゅう提示ていじした。元就もとなりりゅうはじめさん谿郡和智わちむら涌喜[注釈ちゅうしゃく 7]かんする2ヶ条かじょうのぞく7ヶ条かじょう承認しょうにんして起請文きしょうもん山内やまうちたかしどおりおくり、この返答へんとうれたたかしどおり毛利もうり帰順きじゅんした[20]

ぼうげい引分ひきわけからぼうちょう経略けいりゃく[編集へんしゅう]

天文てんもん23ねん1554ねん6月5にち折敷おしきはたけたたかでは毛利もうり元就もとなりしたがっていちたいひきい、福原ふくはらさだしゅんともとう晴賢はるかた派遣はけんした宮川みやがわぼうちょうぐんたたか[21]

天文てんもん24ねん1555ねん4がつ9にち安芸あき矢野やのしろおも野間のまたかしめでは、毛利もうりたかしもと吉川よしかわ元春もとはる小早川こばやかわ隆景たかかげこころざしどう元保もとやす福原ふくはらさだしゅんらととも従軍じゅうぐん[22]毛利もうりぐんゆたか方面ほうめんから襲来しゅうらいすると予想よそうしてそなえていた野間のまぐんもと就本ぐん佐東さとう進出しんしゅつ対応たいおうして移動いどうしたところを、吉川よしかわ元春もとはる小早川こばやかわ隆景たかかげたかしらが夜陰やいんじょうじてゆたかから攻撃こうげき開始かいし[23]。それに呼応こおうしてもと就本ぐん進出しんしゅつして4がつ11にち矢野やのじょうくびにある周防すおうしゅこめ明神山みょうじんさん新城しんじょう奪取だっしゅし、温品ぬくしな方面ほうめんぐん矢野やのじょうせまったことで、野間のまたかしじつ援軍えんぐんとして籠城ろうじょうしていた大内おおうち家臣かしん羽仁はに中務なかつかさ小幡おばた左衛門さえもんともに、しゅうと熊谷くまがいしんただし仲介ちゅうかいとして元就もとなり降伏ごうぶくした[23]

同年どうねん9月27にち厳島いつくしまたたかのために元就もとなりらが吉田よしだぐん山城やましろから出陣しゅつじんしたさいには尼子あまこ南下なんかそなえるためにたかし吉田よしだぐん山城やましろ守備しゅびにあたったが[24]厳島いつくしまたたかはじまるぼうちょう経略けいりゃくにはたかし従軍じゅうぐんし、10月27にちすぎたかしやすし鞍掛山くからかけやまじょう攻撃こうげきしたさいにはたかし深瀬ふかせ兵庫ひょうごすけてき首級しゅきゅう7つをげている[25]。その一時いちじてきぼうちょう経略けいりゃくからはなれ、弘治こうじ2ねん1556ねん3月11にち石見いわみ銀山ぎんざん奪回だっかいのために石見いわみこく出陣しゅつじんした尼子あまこ撃退げきたい佐波さわきょうれん救援きゅうえんのため、吉川よしかわ元春もとはるくちどおりりょうらととも石見いわみこく出陣しゅつじんした[26][27]が、弘治こうじ3ねん1557ねん)2がつから3がつにかけての須々まんぬまじょうへのそう攻撃こうげきにはたかし従軍じゅうぐんした[28]

弘治こうじ3ねん1557ねん11月25にち毛利もうり元就もとなり周防すおうこく都濃つのぐん富田とみた勝栄かつえいてらにおいて毛利もうりたかしもと吉川よしかわ元春もとはる小早川こばやかわ隆景たかかげてに三子みつご教訓きょうくんじょうしるしているが、そのだい8じょうにおいて、五龍ごりゅうきょくとついだ宍戸ししどりゅうだいさんにんおなじく毛利もうり一門いちもん同様どうようあつかうことをたのんでいる[9][26]

また、同年どうねん12月2にち毛利もうり元就もとなりりゅうもと父子ふしをはじめとして、たかしふく安芸あきこく国人くにびと領主りょうしゅ軍勢ぐんぜい狼藉ろうぜきじんはらい禁止きんしとうもうわせたかさ連判れんばんじょう作成さくせいする[注釈ちゅうしゃく 8]かさ連判れんばんじょう一般いっぱんてき署名しょめいしゃ対等たいとう立場たちばであることをしめ形式けいしきであるが、このかさ連判れんばんじょう実質じっしつてきには毛利もうり主導しゅどう狼藉ろうぜき問題もんだい解決かいけつするための協約きょうやくとして成立せいりつしていることから、独立どくりつした国人くにびと領主りょうしゅであった宍戸ししど毛利もうり傘下さんかはいったことをしめすものと評価ひょうかされている[29]

山陰さんいん攻略こうりゃく[編集へんしゅう]

えいろく4ねん1561ねん)3がつ毛利もうり元就もとなりたかしもと同行どうこうして、小早川こばやかわ隆景たかかげ新高にいたか山城やましろ訪問ほうもんする[9]同年どうねん11がつ毛利もうり北九州きたきゅうしゅう大友おおともたたかっているすきいて石見いわみこく福屋ふくや隆兼たかかね離反りはんし、尼子あまこ家臣かしんおもんみむねとも吉川よしかわけいやす都治つち隆行たかゆきまも福光ふくみつじょう攻撃こうげきしたことで、救援きゅうえんため吉川よしかわ元春もとはるたかし石見いわみこく邇摩ぐん大田おおた進出しんしゅつし、元就もとなり手勢てぜいひきいて邑智おうちぐん川本かわもと出陣しゅつじんした[30]。このうごきをけて、福屋ふくや隆兼たかかねおもんみむね福光ふくみつじょう包囲ほういいて退却たいきゃくしたため、吉川よしかわ元春もとはるたかし川本かわもと元就もとなり面会めんかいして今後こんご対策たいさく協議きょうぎ[30]川本かわもと南方なんぽうにある福屋ふくや隆兼たかかねぞくじょう中村なかむら康之やすゆきまも中之なかのむらじょう攻略こうりゃくしたが、しろへい頑強がんきょう抵抗ていこうにより、たかし家臣かしんである江田えだ木工もっこうすけ吉川よしかわ元春もとはる家臣かしんである綿貫わたぬきひだりすけらが戦死せんしし、井上いのうえもとつぎ福間ふくま元明もとあきをはじめとしておおくの負傷ふしょうしゃしている[31]

えいろく6ねん1563ねん)2がつたかしさんじょみなみ大方おおかた清光せいこういん毛利もうり輝元てるもと婚約こんやく成立せいりつ[32]2がつ17にちたかし婚約こんやく祝儀しゅうぎとして輝元てるもときむ覆輪ふくりん太刀たち一腰ひとこし黒毛くろげうま一疋いっぴきおく[32]毛利もうりたかしもと2がつ28にちせい太刀たちいちこし雲雀ひばりうま一疋いっぴきりゅうおくっている[33]が、将軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてる仲介ちゅうかいで、輝元てるもと大友おおとも宗麟そうりんむすめとつがせて毛利もうり大友おおとも和議わぎむすぶことがまったことにより、輝元てるもとみなみ大方おおかた婚約こんやくいち破談はだんとなった[34]。しかし、毛利もうり大友おおとも和議わぎ破綻はたんしたことで輝元てるもと大友おおとも宗麟そうりんむすめ婚姻こんいん実現じつげんしなかったため、あらためて輝元てるもとみなみ大方おおかた婚姻こんいんすすめられ、えいろく11ねん1568ねん)11月に吉田よしだぐん山城やましろうちにおいて盛大せいだい婚儀こんぎおこなわれることとなる[35]。その次女じじょ春木はるき大方おおがた吉川よしかわ元春もとはる嫡男ちゃくなんである吉川よしかわ元長もとなが正室せいしつとなっている。また、長女ちょうじょ天遊てんゆう永寿ながとし河野こうの当主とうしゅ河野こうのとおるせん婚姻こんいんしており、そのえんもあってえいろく10ねん1567ねん)からの伊予いよ出兵しゅっぺいでは河野こうの支援しえんうごいている[注釈ちゅうしゃく 9]

えいろく6ねん(1563ねん)10がつしろ鹿しかじょうたたか出雲いずもしろ鹿しかじょうとした元就もとなりは、月山がっさん富田とみたしろめが持久じきゅうせんとなることを想定そうていして島根しまねぐんあらいあいじん構築こうちくし、毛利もうり水軍すいぐんひきいる児玉こだま就方日本海にほんかいうえ警備けいびして尼子あまこ兵糧ひょうろう輸送ゆそう遮断しゃだんさせる一方いっぽう三刀屋みとや方面ほうめんざいじんするたかしには安芸あき国吉田くによしだから出雲いずもこくあかあなへの兵站へいたんせん確保かくほつとめさせている[36]

えいろく13ねん1570ねん1がつ6にち尼子あまこ勝久かつひさ山中やまなかみゆきもりひきいる尼子あまこ再興さいこうぐん鎮圧ちんあつのため、毛利もうり輝元てるもとそう大将たいしょうとして大軍たいぐんひきいて出雲いずも出陣しゅつじん[37]。このとき輝元てるもと粟屋あわやもとしん国司こくしもと譜代ふだい家臣かしんしたがえ、吉川よしかわ元春もとはる石見いわみぜいを、小早川こばやかわ隆景たかかげ備後びんごぜいを、たかし備中びっちゅうぜいひきいた[37]。また、その天野あまのもとじょう熊谷くまがいしんなお安芸あき国人くにびと毛利もうり水軍すいぐんやく200せき従軍じゅうぐんしている[37]。しかし、同年どうねん元就もとなり重病じゅうびょうとなったため、元就もとなり看病かんびょうのために輝元てるもと隆景たかかげ9月5にち出雲いずもから撤退てったいし、元春もとはるたかしらがつづ山陰やまかげのこって尼子あまこ再興さいこうぐんたたかった[38]

もとかめ2ねん1571ねん6月14にち元就もとなり死去しきょすると、元春もとはる元就もとなりとむら合戦がっせんしょうし、6がつ下旬げじゅんたかし天野あまの隆重たかしげくちどおりりょうらをひきいて出雲いずもこく神門ごうどぐん高瀬たかせじょう進発しんぱつし、尼子あまこ与党よとうおおのこっている伯耆ほうきこく出陣しゅつじんした[39]

毛利もうり輝元てるもと時代じだい[編集へんしゅう]

天正てんしょう2ねん1574ねん)10がつ備中びっちゅう三村みつむら元親もとちか毛利もうり反旗はんきひるがえ備中びっちゅう兵乱へいらんはじまると、同年どうねんうるう11がつはじめに毛利もうり輝元てるもと小早川こばやかわ隆景たかかげ吉田よしだぐん山城やましろから備中びっちゅうこく出陣しゅつじんし、たかし従軍じゅうぐんした。同年どうねん12月26にち三村みつむらまさしおやまも備中びっちゅう西部せいぶ国吉くによししろ毛利もうりぐん包囲ほうい攻撃こうげき開始かいしすると、てきわないと三村みつむらまさしおやはしきりに降伏ごうぶくもうたが、小早川こばやかわ隆景たかかげ備中びっちゅうめの初戦しょせんであるためしろへいことごとたすべしと主張しゅちょうして降伏ごうぶくみとめず、国吉くによしじょうへの攻撃こうげき続行ぞっこう12月30にちさん村政そんせいおやひそかに国吉くによしじょう脱出だっしゅつしたが、翌日よくじつ天正てんしょう3ねん1575ねん1がつ1にち国吉くによしじょう陥落かんらくした。このとき毛利もうりぐんったてきへいはほぼ全滅ぜんめつにあたる350にんおよんでいるが、そのうちの53にんりゅうぐんっており、95にんったてる元本がんぽんぐんのぞくともっとかずおおかった[注釈ちゅうしゃく 10][40]

天正てんしょう6ねん1578ねん)2がつ播磨はりま三木みきしろおも別所べっしょ長治ながはる毛利もうり服属ふくぞくし、備前びぜんこく宇喜多うきた直家なおいえ小早川こばやかわ隆景たかかげつうじて播磨はりま上月こうづきしろ奪還だっかんすすめたことをけ、毛利もうり輝元てるもと播磨はりまこくへの出征しゅっせい決定けってい[42]同年どうねん3月12にち出雲いずもこく月山がっさん富田とみたじょうざいしろした吉川よしかわ元春もとはる山陰さんいん諸氏しょし15000あまりひきい、安芸あきこく沼田ぬまた新高山しんたかやまじょうざいしろした小早川こばやかわ隆景たかかげりゅうふく山陽さんよう諸氏しょし20000あまり軍勢ぐんぜいひきいて毛利もうりぐん先鋒せんぽうとして出陣しゅつじんした[注釈ちゅうしゃく 11][42]いで輝元てるもと手勢てぜいひきいて備中びっちゅう松山まつやまじょうぜんぐん指揮しきり、児玉こだま村上むらかみ乃美のみひとし水軍すいぐん播磨はりまこく摂津せっつこくしょみなと占領せんりょうして瀬戸内海せとないかい制海権せいかいけん確保かくほした[42]同年どうねん4がつ18にち毛利もうりぐん尼子あまこ再興さいこうぐんこめ上月こうづきしろ大軍たいぐん包囲ほうい[43]上月こうづきじょうは3ヶ月かげつちこたえたが、7がつ3にち尼子あまこ勝久かつひさ自害じがいして開城かいじょう降伏ごうぶくした(上月こうづきじょうたたか[44]7がつ5にちには元春もとはる隆景たかかげたかしくちはるりょう連署れんしょして、上月こうづきしろへい下城げじょうさい毛利もうりから人質ひとじちしてしろへい全員ぜんいん助命じょめい保証ほしょうするむね起請文きしょうもん上月こうづき城中じょうちゅう山中やまなかみゆきもり立原たちはらひさつな日野ひの五郎ごろうおくっている[45]

天正てんしょう8ねん1580ねん9月6にち嫡男ちゃくなんもとこう元秀もとひでとも山内やまうちたかしどおり広通ひろみち父子ふしてて、たかし祖父そふである宍戸ししどもとみなもと以来いらい宍戸ししど山内やまうち両家りょうけ関係かんけいとうについてべ、今後こんごたがいに協力きょうりょくすることをちか起請文きしょうもんおくっている[46]。そのたかしとの融和ゆうわ祝儀しゅうぎとして山内やまうちたかしどおりからはたかし太刀たちいちこし青銅せいどう1000疋がおくられている[47]

天正てんしょう10ねん1582ねん)、備中高松びっちゅうたかまつじょうたたかにおいてたかしは、吉川よしかわ元春もとはる小早川こばやかわ隆景たかかげ同様どうよう毛利もうり輝元てるもとの「吉田よしだしゅう」とはことなる独自どくじ軍勢ぐんぜい編成へんせいしており、いまだに自立じりつせいたもっていた[48]。その一方いっぽうで、もと就晩年期ねんきからてるもと初期しょきにかけて毛利もうり領国りょうごく運営うんえいになったよんにん[注釈ちゅうしゃく 12]たかしふくまれておらず、軍事ぐんじてきには毛利もうり中枢ちゅうすう一角いっかくめたたかしであったが、政治せいじてきには毛利もうり領国りょうごく全体ぜんたい運営うんえいたずさわることはかった[48]

天正てんしょう12ねん1584ねん)、山内やまうちたかしどおり嫡男ちゃくなん広通ひろみち人質ひとじちとしてたかしのもとに出向でむ[9]

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

天正てんしょう19ねん1591ねん)、輝元てるもと広島ひろしまじょう入城にゅうじょうし、たかし広島ひろしま城内じょうのうち屋敷やしきかまえる[9]

ぶんろく2ねん1593ねん2がつ5にち死去しきょ[注釈ちゅうしゃく 1]享年きょうねん76。嫡男ちゃくなん宍戸ししど元秀もとひで廃嫡はいちゃくされていたため、嫡孫ちゃくそんである宍戸ししどもとつづけいだ。

毛利もうり元就もとなりむすめ五龍ごりゅうきょくつうじて毛利もうり縁戚えんせき関係かんけいち、吉川よしかわ元春もとはる小早川こばやかわ隆景たかかげらと軍事ぐんじ行動こうどうともにして各地かくち戦功せんこうげるなど毛利もうり忠節ちゅうせつくした宍戸ししどは、江戸えど時代じだいにおいてはぎはん長州ちょうしゅうはん一門いちもん筆頭ひっとうとされた[注釈ちゅうしゃく 13]

墓所はかしょ[編集へんしゅう]

現在げんざい広島ひろしまけん安芸あき高田たかだ甲田こうたまち上甲立かみこうたちたかし菩提寺ぼだいじとして建立こんりゅうしたてん叟寺あとがあり、そのおくたから篋印とう墓石はかいしとするたかし継室けいしつ墓所はかしょがある[49]たかし墓所はかしょ江戸えど時代じだいには荒廃こうはいしたが、文政ぶんせい年間ねんかん地元民じもとみんによって整備せいびされ[50]昭和しょうわ44ねん1969ねん)4がつ高田たかだぐん吉田よしだまち現在げんざい安芸あき高田たかだ)の史跡しせきとして指定していされた[51]

また、たかし墓所はかしょかいの山中さんちゅうにはたかし火葬かそうあと伝承でんしょうがあり、現在げんざいつちうえ方形ほうけいいしれつ区画くかくに「宍戸ししどたかしおおやけ灰塚はいつか」ときざまれた石碑せきひえられ、周囲しゅういみぞいしれつのこっている[52]元々もともと灰塚はいつかしるべとしてヒノキえられていたが、大正たいしょう12ねん1923ねん)にたかし大叔父おおおじであるつかさいんきょうせんまつ宍戸ししどつかさ神社じんじゃ五龍ごりゅう城跡じょうせき一角いっかく再建さいけんしたさい材木ざいもくとして使用しようされた[52]現在げんざい石碑せきひはそれ以降いこう設置せっちされたものとかんがえられている[52]

逸話いつわ[編集へんしゅう]

  • 後世こうせい系図けいずによると、とおるろく2ねん1529ねん2がつ14にち家臣かしん讒言ざんげんによって後見こうけんやくであった叔父おじ宍戸ししどたかしただしりゅう殺害さつがいしたことがしるされており、元禄げんろく16ねん1703ねん)に宍戸ししど就延いのちけた等々力とどりきただし編纂へんさんした『宍戸ししど[3]には、殺害さつがいされたりゅうただしたたりによってたかしびょうわずらい、りゅうただしれい謝罪しゃざいしたことでびょう治癒ちゆしたとの伝承でんしょうしるされている[53]宍戸ししどたかしちゅう殺害さつがい事件じけんについてはたしかな史料しりょう確認かくにんすることはできないが、もとかめ3ねん1572ねん)に毛利もうり輝元てるもと非業ひごうげたもの亡魂ぼうこんかみとしてまつったさいに、りゅうただしおもわれる「宍戸ししど亡魂ぼうこんよんろう」をまつ神社じんじゃ勧請かんじょうしていることから、りゅうただし非業ひごうげていること自体じたい事実じじつかんがえられている[53]。ただし、天文てんもん13ねん1544ねん)から天文てんもん14ねん1545ねんごろまでりゅうただし活動かつどうられることから、その時期じきについては系図けいずしるされたとおるろく2ねん(1529ねん)ではなく、天文てんもん10年代ねんだい中頃なかごろ以降いこうである[53]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 後世こうせい系譜けいふるいでは、たかしぶんろく元年がんねん2がつ5にち1592ねん3月18にち)に75さい死去しきょしたとしているが、同年どうねん5月26にち朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいなか輝元てるもとりゅうてた書状しょじょうによると、同年どうねん4がつ8にちたかしからおくられた書状しょじょうたいする返信へんしんであるむね記載きさいされている[2]。また、たかし墓所はかしょにある、たかし墓石はかいしとしているたから篋印とうには「ぶんろくがつにち」ときざまれている[3]ことから、実際じっさいにはたかしぶんろく2ねん(1593ねん)に死去しきょしたとかんがえられている[4]
  2. ^ 河野こうのとおるただしははとするせつもある。
  3. ^ 近世きんせい地誌ちしには、居城きょじょうとした五龍ごりゅうじょうとはべつに、吉田よしだやりぶん田屋たやというはたけりゅう屋敷やしきあとつたわっている。ただし、吉川よしかわ元春もとはる小早川こばやかわ隆景たかかげ屋敷やしきえがかれている「郡山こおりやま中心ちゅうしんいちえんとう近世きんせい絵図えずにはたかし屋敷やしきについてはえがかれておらず、たかし屋敷やしきについて記載きさいされた史料しりょうがないことから真偽しんぎ不明ふめいである[6]
  4. ^ りゅう生年せいねんについては後世こうせい系譜けいふるい記載きさい以外いがい確実かくじつ根拠こんきょく、実際じっさいにはもうすこである可能かのうせい指摘してきされている。ぶんろく4ねん1595ねん)12月に宍戸ししど元秀もとひで飯田いいだ宮内くないたいして、たかしむすめ毛利もうり輝元てるもと正室せいしつみなみ大方おおかたが「みずのえうまとし」の「祈念きねん」のために井原いはらむらうちの10せき厳島いつくしま神社じんじゃ内侍ないししゅ寄進きしんするむねつたえているが、もし「みずのえうまとし」がりゅう生年せいねんすのであれば、たかし生年せいねんだいひさし2ねん1522ねん)となる[2]。なお、たかしちちもといえ没年ぼつねん同様どうよう系譜けいふるい記載きさいされているもので、史料しりょうてきにはわかくして死去しきょしたもといえ事跡じせき確認かくにんできない[5][2]
  5. ^ 一説いっせつにはのち主君しゅくん毛利もうりより「もと」のけて祖父そふちち同名どうめいの「もといえ」を名乗なのったともわれる。[よう出典しゅってん]
  6. ^ 山内やまうちたかしどおり提示ていじした9ヶ条かじょう条件じょうけん以下いかとおり。①みやひがし旧領きゅうりょうで、山内やまうちたかしどおり知行ちぎょうしている備後びんごこくやつぐん小奴可おぬか久代くしろすべたかしどおり所領しょりょうとすること。ただし、備中びっちゅうこく哲多てつたぐん八鳥はつとりさんについてはもとめない。 ②たかしどおり実父じっぷである多賀たがやまどおりつづけ毛利もうり服属ふくぞくしたさいつうつづけ疎略そりゃくあつかわない、というむね起請文きしょうもんすこと。 ③備後びんごこく永江ながえ江田えだたかしれん還付かんぷせず、以後いごりゅうどおり所領しょりょうとすること。 ④備後びんごこくさん谿郡和智わちむら近年きんねんとおり、山内やまうち三吉みよしぶんりょうとすること。 ⑤備後びんごこく三上みかみぐんしんじきうち一部いちぶ地方ちほうはかつては複数ふくすう国人くにびとすこしずつぶんりょうしていたが、以後いご現状げんじょう維持いじし、だれがどのような提言ていげんをしようともみみさないこと。 ⑥こうひかりは、たかしどおり同様どうよう毛利もうりしたが意思いしがあるため、高光たかみつ所領しょりょう安堵あんどすること。 ⑦涌喜のこと。 ⑧毛利もうり領内りょうないから1ヶ所かしょりゅうどおり分与ぶんよすること。 ⑨以上いじょう条件じょうけんみとめるというむね誓書せいしょをこの箇条書かじょうがきおくき、毛利もうり元就もとなり毛利もうりたかしもと宍戸ししどたかし連署れんしょばんをすること。
  7. ^ 備後びんごこく涌喜のしょう豪族ごうぞくで、宍戸ししど傘下さんかではなく、独立どくりつした領主りょうしゅとしての地位ちい保全ほぜん元就もとなり依頼いらいしたものとおもわれる。
  8. ^ このときかさ連判れんばんじょうつらねた人物じんぶつは、毛利もうり元就もとなりから時計とけいまわりに、毛利もうりみぎ馬頭ばとう元就もとなり吉川よしかわ治部じぶしょう輔元はるおもね曾沼しょう十郎じゅうろうこうしゅう毛利もうり備中びっちゅうもりりゅうはじめかん左衛門尉さえもんのじょうたかし天野あまの藤次郎とうじろうもとじょう天野あまの左衛門尉さえもんのじょうりゅうまこと出羽でわみんふとし輔元ゆう天野あまの中務なかつかさしょう輔隆おも小早川こばやかわ又四郎またしろう隆景たかかげ平賀ひらが新九郎しんくろうこうそう熊谷くまがい兵庫ひょうごあたましんじきの12めい
  9. ^ 河野こうの最後さいご当主とうしゅ河野こうのとおる宍戸ししど出身しゅっしんというせつがある。
  10. ^ 国吉くによししろめにおいてかくぐんったてきへいかず内訳うちわけおおじゅんに、毛利もうり輝元てるもとほんぐんが95にん宍戸ししどたかしぐんが53にん熊谷くまがい高直たかなおぐんが29にん阿曽沼あそぬまひろしゅうぐんが28にん馬屋うまやはら信春のぶはるぐんが27にん天野あまの元明もとあきぐんが26にん平川ひらかわもりきちぐんが13にん山内やまうちたかしどおりぐんが11にん小早川こばやかわ隆景たかかげぐんが8にん天野あまのもとせいぐんが5にん細川ほそかわとおるただしぐんが3にん長氏ながうじぐん2人ふたり平賀ひらがはじめしょうぐん1人ひとり[40][41]
  11. ^ 播磨はりま出征しゅっせいにおいて吉川よしかわ元春もとはるぐんには、吉川よしかわ元長もとなが吉川よしかわもとむねしげるさわはじめ吉川よしかわけいごと吉川よしかわひろ毛利もうりもとあき末次すえつぐ元康もとやす益田ますだもとさち山内やまうちたかしどおり羽根はね三刀屋みとやひとし山陰やまかげ諸氏しょしくわわり、小早川こばやかわ隆景たかかげぐんには井田いだもときよし天野あまのもとせい宍戸ししどたかし三吉みよし多賀たが平賀ひらがはじめしょうひとし山陽さんよう諸氏しょしくわわった[42]
  12. ^ よんにん吉川よしかわ元春もとはる小早川こばやかわ隆景たかかげ福原ふくはらさだしゅんくちどおりりょうの4にんす。
  13. ^ はぎはんかくいえ系譜けいふ文書ぶんしょをまとめた『ばつ閲録』においても、その一門いちもん家老がろうかく毛利もうりよりもさきまき1にまとめられているのは宍戸ししどである。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 田村たむら哲夫てつお編修へんしゅう 1980, p. 60.
  2. ^ a b c d 秋山あきやましんたかし 2018, p. 7.
  3. ^ a b たてはなまこと 2020, p. 1107.
  4. ^ たてはなまこと 2020, p. 1114.
  5. ^ a b c d e 毛利もうり元就もとなりきょうでん 1984, p. 83.
  6. ^ 安芸あき高田たかだ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん 2018, p. 28.
  7. ^ 安芸あき高田たかだ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん 2018, p. 63.
  8. ^ 山内やまうち文書ぶんしょだい284ごう天正てんしょう8ねん1580ねん9月6にちづけ山内やまうちたかしどおり山内やまうちせん松丸まつまる広通ひろみち宍戸ししどたかし宍戸ししどもとこう元秀もとひで連署れんしょ起請文きしょうもん
  9. ^ a b c d e f 安芸あき高田たかだ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん 2018, p. 5.
  10. ^ 光成みつなりじゅん 2023, pp. 310–311.
  11. ^ a b 毛利もうり元就もとなりきょうでん 1984, p. 99.
  12. ^ a b 毛利もうり元就もとなりきょうでん 1984, p. 113.
  13. ^ 毛利もうり元就もとなりきょうでん 1984, p. 116.
  14. ^ a b 毛利もうり元就もとなりきょうでん 1984, p. 143.
  15. ^ 毛利もうり元就もとなりきょうでん 1984, p. 144.
  16. ^ 毛利もうり元就もとなりきょうでん 1984, p. 151.
  17. ^ a b c 毛利もうり元就もとなりきょうでん 1984, p. 152.
  18. ^ a b 毛利もうり元就もとなりきょうでん 1984, p. 157.
  19. ^ 毛利もうり元就もとなりきょうでん 1984, p. 158.
  20. ^ 毛利もうり元就もとなりきょうでん 1984, pp. 159–160.
  21. ^ 毛利もうり元就もとなりきょうでん 1984, pp. 193–195.
  22. ^ 毛利もうり元就もとなりきょうでん 1984, p. 202.
  23. ^ a b 毛利もうり元就もとなりきょうでん 1984, pp. 202–203.
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  26. ^ a b 安芸あき高田たかだ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん 2018, p. 55.
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  29. ^ 安芸あき高田たかだ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん 2018, p. 56.
  30. ^ a b 毛利もうり元就もとなりきょうでん 1984, p. 347.
  31. ^ 毛利もうり元就もとなりきょうでん 1984, p. 348.
  32. ^ a b 安芸あき高田たかだ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん 2018, p. 59.
  33. ^ 毛利もうり文書ぶんしょだい686ごうえいろく6ねん(1563ねん比定ひてい2がつ28にちけ、かん左衛門尉さえもんのじょうたかし毛利もうりたかしもと自筆じひつ書状しょじょう
  34. ^ 宮本みやもと義己よしみ 2018, pp. 221–223.
  35. ^ 光成みつなりじゅん 2016, p. 386.
  36. ^ 毛利もうり元就もとなりきょうでん 1984, p. 437.
  37. ^ a b c 毛利もうり元就もとなりきょうでん 1984, p. 593.
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  39. ^ 毛利もうり輝元てるもときょうでん 1982, p. 12.
  40. ^ a b 毛利もうり輝元てるもときょうでん 1982, p. 58.
  41. ^ 毛利もうり文書ぶんしょだい375ごう天正てんしょう3ねん(1575ねん)1がつ1にちづけ備中びっちゅう國手こくしゅ要害ようがい合戦かっせん注文ちゅうもん
  42. ^ a b c d 毛利もうり輝元てるもときょうでん 1982, p. 112.
  43. ^ 毛利もうり輝元てるもときょうでん 1982, p. 112-113.
  44. ^ 毛利もうり輝元てるもときょうでん 1982, p. 120-121.
  45. ^ 毛利もうり輝元てるもときょうでん 1982, p. 121-122.
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  47. ^ 山内やまうち文書ぶんしょだい286ごう天正てんしょう8ねん(1580ねん比定ひてい10がつ1にちづけ宍戸ししどたかし書状しょじょう
  48. ^ a b 光成みつなりじゅん 2023, p. 314.
  49. ^ 安芸あき高田たかだ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん 2018, p. 32.
  50. ^ 安芸あき高田たかだ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん 2018, p. 31.
  51. ^ 宍戸ししどたかし夫妻ふさいはか甲田こうたまち)|安芸あき高田たかだホームページ
  52. ^ a b c 安芸あき高田たかだ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん 2018, p. 30.
  53. ^ a b c 秋山あきやましんたかし 2018, p. 8.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 防長新聞社ぼうちょうしんぶんしゃ山口やまぐち支社ししゃへん へん近世きんせいぼうちょう諸家しょか系図けいず綜覧そうらん三坂みさかけい監修かんしゅう防長新聞社ぼうちょうしんぶんしゃ、1966ねん3がつNCID BN07835639OCLC 703821998全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:73004060 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション
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  • 宮本みやもと義己よしみ足利あしかが将軍しょうぐん義輝よしてるげいゆたか和平わへい調停ちょうてい木下きのしたあきらぶんまわしへん『シリーズ・室町むろまち幕府ばくふ研究けんきゅう だいよんかん 足利あしかが義輝よしてるえびすひかりさち出版しゅっぱん、2018ねん初出しょしゅつは『政治せいじ経済けいざい史学しがく』102・103ごう、1974ねん
  • 安芸あき高田たかだ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん宍戸ししどたかし生誕せいたん500ねん記念きねん 安芸あき宍戸ししど毛利もうり一族いちぞくよんほん~』、2018ねん11月。
    • 秋山あきやましんたかし戦国せんごく宍戸ししど毛利もうり」『宍戸ししどたかし生誕せいたん500ねん記念きねん 安芸あき宍戸ししど毛利もうり一族いちぞくよんほん~』収録しゅうろく、2018ねん11月。
  • たてはなまこと石塔せきとうからまどいん安芸あき宍戸ししど芸北げいほくにおける花崗岩かこうがんおよび石灰岩せっかいがん石塔せきとう検討けんとう―」『日本体育大学にほんたいいくだいがく紀要きようだい49ごう、2020ねん
  • 光成みつなりじゅん宍戸ししどもとみなもとたかし毛利もうりささえるよんほん光成みつなりじゅんへん戦国せんごく武将ぶしょう列伝れつでん9 中国ちゅうごくへん収録しゅうろくえびすひかりさち出版しゅっぱん、2023ねん9がつ

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

先代せんだい
宍戸ししどもとみなもと
安芸あき宍戸ししど当主とうしゅ
1538ねん - 1592ねん
次代じだい
宍戸ししどもとつづけ