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毛利もうりはじめ

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毛利もうりはじめ / しげるさわはじめ
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 江戸えど時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん 弘治こうじ2ねん1556ねん
死没しぼつ 寛永かんえい8ねんうるう10月16にち1631ねん12月9にち
改名かいめい 吉川よしかわみや松丸まつまる幼名ようみょう)→吉川よしかわもとむね仁保にほもとむねしげるさわはじめしげるさわ左近さこん入道にゅうどうりつぶし
別名べつめい しょうさんろう通称つうしょう)、だてぶしごう
戒名かいみょう はちすこういんそとむねほん
墓所はかしょ だいやすしてら山口やまぐちけん長門ながと深川湯本ふかわゆもと
大梅おおめさんつうてら山口やまぐちけん岩国いわくに周東しゅうとうまち上久原かみくばら1957)
官位かんい 左近さこん将監しょうげん宮内みやうち大輔だいすけ伊勢いせもり
主君しゅくん 毛利もうり元就もとなり輝元てるもと
はん 長州ちょうしゅうはん
氏族しぞく 吉川よしかわ仁保にほしげるさわ阿川あがわもう利家としいえ
父母ちちはは ちち吉川よしかわ元春もとはるはは新庄しんじょうきょく
養父ようふ仁保にほたかしざい
兄弟きょうだい 吉川よしかわ元長もとながげん吉川よしかわひろ松寿しょうじゅまる
おんな益田ますだもとさちしつ)、おんな吉見よしみもとよりゆきしつ
つま 正室せいしつせいだかいんきりだけたまさかえ仁保にほたかしざいむすめ
側室そくしつおかほん大蔵おおくらむすめ
長山ながやまたや三浦みうら元忠もとただ正室せいしつ)、毛利もうりもとけい
おんな宮庄みやのしょう伊賀いがまもるしつ)、しげるさわもとさだ
おんな草苅くさかり就継しつ)、しげるさわひゃくごうすけ
木原きはら就重おんな飯田いいだ就重しつ)、
おんな内藤ないとう就正しつ)、しげるさわ就真
おんな井原いはらもとさかえしつ)、おんな早世そうせい
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毛利もうり はじめ(もうり もとうじ)/ しげるさわ はじめ(はんざわ もとうじ)は、戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい前期ぜんきにかけての武将ぶしょう毛利もうり重臣じゅうしん

生涯しょうがい

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仁保にほ相続そうぞく

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弘治こうじ2ねん1556ねん)、吉川よしかわ元春もとはる次男じなんとしてまれる。えいろく11ねん1568ねん1がつ21にち毛利もうり輝元てるもと加冠かかんにより元服げんぷくし、毛利もうり元就もとなりより「もと」のいち字書じしょけ、もとむね名乗なのった。

えいろく9ねん1566ねん11月21にち周防すおうこく仁保にほたかしざい男子だんしのいないままに死去しきょしていたため、もとかめ2ねん1571ねん)に仁保にほたかしざいむすめ婚姻こんいんし、婿養子むこようしとして仁保にほの1700かん所領しょりょう家督かとく相続そうぞくした。これにより、これ以前いぜんあたえられていた300かんわせて2000かんりょうした。しかし、もとむね以下いかげん表記ひょうき)はいま若年じゃくねんであったために、後見こうけんやく毛利もうりこう名代なだいとして吉川よしかわ一族いちぞく江田えださとし宮内みやうち大輔だいすけ)がけられた。

えいろく12ねん1569ねん)に尼子あまこ勝久かつひさ山中やまなかみゆきもり尼子あまこ再興さいこうぐん出雲いずもこく侵攻しんこうしたため、ちちもとはるあに元長もとながらとともげん出雲いずもこく出陣しゅつじんした。えいろく13ねん/もとかめ元年がんねん1570ねん)にはちちあにともに、尼子あまこ勝久かつひさ大内おおうち輝弘てるひろんで毛利もうり後方こうほう撹乱かくらんしていた三隅みすみ国定こくていっている。その恩賞おんしょうとして三隅みすみ旧領きゅうりょう3000かんた。天正てんしょう3ねん1575ねん12月23にちには安芸あきこくうえ下庄しもしょうきたきた就勝旧領きゅうりょう100かん天正てんしょう5ねん1577ねん2がつ14にちには出雲いずもこくあきのぼる旧領きゅうりょうあたえられる。また、のち山陰さんいん地方ちほうこえ中港なかみなと現在げんざい山口やまぐちけん下関しものせき豊北とよきたまち神田かんだこえちゅう)や瀬戸崎せとざきこう現在げんざい山口やまぐちけん長門ながと仙崎せんざき)をさえて、山陰さんいん海運かいうんになうこととなった。

出雲いずもこくへの出陣しゅつじん以降いこう山陰さんいんどう山陽さんようどう各地かくち転戦てんせんし、天正てんしょう6ねん1578ねん)の播磨はりま上月こうづきじょうたたかや、天正てんしょう9ねん1581ねん)の因幡いなば鳥取とっとりじょうでのたたかとう参加さんかした。ちちあにとも救援きゅうえんとしてさんじんした鳥取とっとりじょうたたかでは、そと曲輪くるわへの一番乗いちばんのりをたしている。天正てんしょう10ねん1582ねん5月13にち吉見よしみひろよりゆき起請文きしょうもんわし、今後こんご昵懇じっこんちかった。

しげるさわはじめ改名かいめい

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豊臣とよとみ秀吉ひでよしによる九州きゅうしゅう平定へいていもと従軍じゅうぐんしたが、天正てんしょう14ねん1586ねん11月15にちちち元春もとはる天正てんしょう15ねん1587ねん6月5にちあに元長もとなが従軍じゅうぐんちゅう相次あいついで病死びょうしすると、おとうとけいごとこういえ吉川よしかわ相続そうぞくし、げん輝元てるもと意向いこうによって同年どうねん8がつ仁保にほ名跡みょうせき神田かんだ元忠もとただゆずり、苗字みょうじあらためてしげるさわはじめ名乗なのった。吉川よしかわ後継こうけいもとでなかったのはもとやまいがちであったためとされ、文禄・慶長ぶんろくけいちょうえきやまいにより出陣しゅつじんできず、こういえ家臣かしんつかわしている。また、こういえ家督かとく相続そうぞくしたのちしばらくはもとひろ不仲ふなかであったようで、天正てんしょう19ねん1591ねん6月13にち小早川こばやかわ隆景たかかげこういえてた書状しょじょうでは、げん融和ゆうわすることをすすめている。

天正てんしょう15ねん9月6にちには石見いわみこく福屋ふくや隆兼たかかね旧領きゅうりょうである3000かんあたえられて石見いわみこく浜田はまだしろきずざいしろし、天正てんしょう19ねん1591ねん)には九州きゅうしゅう平定へいてい手当てあてとして長門ながとこく豊浦とようらぐん殿しんがり龍山たつやまじょうあづけられた。これによってげん所領しょりょうは5100かんあきのぼる旧領きゅうりょうくわえたものとなり、ぶんろく5ねん1596ねん3月23にち分限ぶげんちょうでは、げん本領ほんりょうが10371せき65しょう9ごう一所いっしょしゅすぎ元良げんりょうりょう1133せき32しょう8ごう朝倉あさくらもといきりょう824せき18しょう7ごうかわりょう22せき73しょう1ごう合計ごうけい12351せき95ごうもと所領しょりょうとなっている。さらに慶長けいちょう2ねん1597ねん)にこういえから安芸あき国内こくないの2000せきもといちだいかぎりで分与ぶんよされた[1]が、当初とうしょもとは2000せきのうちの500から600せきやくしであることをのぞんでりをしぶり、隆景たかかげから毛利もうりぶん国内こくないにもやくものはいないのでこういえ朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいするまえすみやかにるようにと説得せっとくけている[2]

慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたか西にしぐんやぶれ、毛利もうり長門ながとこく周防すおうこくの2かこくげんふうされるとげん周防すおうこくへとうつり、同年どうねん11月2にち玖珂くがぐんうちに3166せきあたえられた[3]

関ヶ原せきがはら以後いご

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慶長けいちょう18ねん1613ねん)、嫡男ちゃくなんもとけい名字みょうじ毛利もうりふくすることをゆるされ、周防すおう高森たかもりからうたてふうじ現在げんざい豊北とよきたまち阿川あこう滝部たきべ地区ちく周辺しゅうへんおさめる。子孫しそん長州ちょうしゅうはん一門いちもん家老がろう阿川あがわもう利家としいえとして存続そんぞくした。なお、げん以後いごも「しげるさわ」の苗字みょうじとおしたようで、慶長けいちょう20ねん1615ねん4がつ14にちの、毛利もうり元就もとなり遺訓いくんしたが毛利もうりべつしんいだかないむねちかった連署れんしょ起請文きしょうもんでは「しげるさわ左近さこん入道にゅうどうりつぶし」と署名しょめいしている[4]

慶長けいちょう19ねん1614ねん)の大坂おおさかふゆじんでは、嫡男ちゃくなんもとけい大坂おおさか出陣しゅつじんする毛利もうりしげる就に従軍じゅうぐんさせ、げん留守居るすいとしてはぎじょうめた。おなじくだいさか出陣しゅつじんしたもののやまいによって帰国きこくした輝元てるもとは、げん留守居るすいこうしょうして祝儀しゅうぎとして小袖こそでひとつとりょうたるおりおくっている。

元和がんわ8ねん1622ねん3月6にち伊勢いせもり受領じゅりょうめいてるもとからあたえられた。

寛永かんえい2ねん1625ねん8がつ13にち配所はいしょづけりつによると、長門ながとこく豊田とよだぐん天宮てんぐううちの200せきあたえられたが、同年どうねん12月22にちには隠居いんきょりょうとして周防すおうこく玖珂くがぐん天野あまの伝三郎でんざぶろうさき知行ちぎょううち中曽根なかそねむら200せきあたえられた。

寛永かんえい8ねん1631ねんうるう10月16にち死去しきょした。享年きょうねん76。もとの200せき隠居いんきょりょう末子まっししげるさわ就真相続そうぞくした。なお、吉川よしかわ元春もとはるなかではもっと長命ちょうめいであった。

逸話いつわ

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系譜けいふ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 吉川よしかわ文書ぶんしょだい698ごう - だい703ごう
  2. ^ 吉川よしかわ文書ぶんしょだい201ごう慶長けいちょう2ねん5月19にちづけ しげるさわはじめ小早川こばやかわ隆景たかかげ自筆じひつ書状しょじょう
  3. ^ 吉川よしかわ文書ぶんしょだい697ごう慶長けいちょう5ねん11月2にちづけ 福原ふくはらひろしゅん堅田かただもとけい榎本えのもと元吉もとよし連署れんしょ領地りょうちわたり注文ちゅうもん
  4. ^ 毛利もうり文書ぶんしょだい1038ごう。この起請文きしょうもんでの署名しょめいはいようしるされ、長門ながとまもるしゅう就(毛利もうりしげる就)まぼろしあん宗瑞そうずい毛利もうり輝元てるもとかいい、しゅう就の左側ひだりがわ宍戸ししど備前びぜんもりもとつづけしげるさわ左近さこん入道にゅうどうりつぶししげるさわはじめ毛利もうり甲斐守かいのかみしゅうもと毛利もうり兵庫ひょうごあたまもとせん吉川よしかわ又次郎またじろう広正ひろまさならび、右側みぎがわ毛利もうり山城やましろまもるもと阿曽沼あそぬまひだり兵衛ひょうえあたまもとずい吉川よしかわ蔵人くろうどこういえしげるさわ志摩しままもるもとけい毛利もうり伊賀いがまもるもとならんでいる。
  5. ^ 現在げんざい佐賀さがけん唐津からつ呉服ごふくまちにある浄土真宗じょうどしんしゅう本願寺ほんがんじ寺院じいん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • はぎ藩閥はんばつ閲録まき5「毛利もうり宇右衛門えもん
  • 防長新聞社ぼうちょうしんぶんしゃ山口やまぐち支社ししゃへん へん近世きんせいぼうちょう諸家しょか系図けいず綜覧そうらん三坂みさかけい監修かんしゅう防長新聞社ぼうちょうしんぶんしゃ、1966ねん3がつNCID BN07835639OCLC 703821998全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:73004060 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション