(Translated by https://www.hiragana.jp/)
毛利斉広 - Wikipedia コンテンツにスキップ

毛利もうり斉広なりなが

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
毛利もうり斉広なりなが
毛利もうり斉広なりながぞう毛利もうりほう公会こうかいくら
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき
生誕せいたん 文化ぶんか11ねん5月16にち[1]1814ねん7がつ3にち
死没しぼつ 天保てんぽう7ねん12月29にち1837ねん2がつ4にち[1]
改名かいめい 保三郎やすさぶろう[1]幼名ようみょう)、たかしひろ[1]斉広なりなが
戒名かいみょう たかしぶんいん殿どの大官たいかんれいちゅう大夫たいふ羽林はばやししょうちょうぼう国主こくしゅてんつねみずまことだい居士こじ[1]
墓所はかしょ 東京とうきょうみなと愛宕あたご青松寺せいしょうじ
山口やまぐちけんはぎ椿つばきだいあきらいん[1]
官位かんい したがえよん侍従じじゅう修理しゅうり大夫たいふ[1]ひだり近衛このえけん少将しょうしょう[1]大膳だいぜん大夫たいふ[1]
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家斉いえなり
はん 長州ちょうしゅうはんあるじ
氏族しぞく 毛利もうり
父母ちちはは 毛利もうりひとし[1]志津しづ[1]
毛利もうりひとしもと
兄弟きょうだい 斉広なりながしんじゅん由美子ゆみこばん寿子ひさこ八重やえひめ
美知子みちこ
つま 正室せいしつかずひめ徳川とくがわ家斉いえなりじゅうじょ[1]
側室そくしついさむしんいん[2]
都美子とみこ[2]
養子ようしけいおや
テンプレートを表示ひょうじ

毛利もうり 斉広なりなが(もうり なりとう)は、江戸えど時代じだい後期こうき大名だいみょう毛利もうり26だい当主とうしゅ長州ちょうしゅうはん12だい藩主はんしゅ。10代藩主はんしゅ毛利もうりひとし次男じなんで、11だい藩主はんしゅ毛利もうりひとしもと養嗣子ようしし[1]長州ちょうしゅう藩主はんしゅとしては在職ざいしょく期間きかん最短さいたん藩主はんしゅである。

経歴けいれき

[編集へんしゅう]

文化ぶんか11ねん1814ねん5月16にちはぎじょううちにおいて、ひとし熙と側室そくしつ池上いけがみ志津しづはな)とのあいだまれる[1]幼名ようみょうとして保三郎やすさぶろう、のちにはつたかしひろたかひろ名乗なの[1]文政ぶんせい5ねん1822ねん6がつ先代せんだい藩主はんしゅ毛利もうりひとしもと養嗣子ようししとなる[1]。これに先立さきだって、保三郎やすさぶろう丈夫じょうぶとどけ公儀こうぎ提出ていしゅつされたが、ひとし熙は文政ぶんせい2ねん1819ねん)にひとしもと養嗣子ようししにしたさい実子じっしはまだないとしてねがていたため、保三郎やすさぶろうかんねんは5さいわか当年とうねん4さい、すなわち文政ぶんせい2ねんまれとしてとどている[3]

文政ぶんせい13ねん1830ねん3がつ実父じっぷひとし熙や養父ようふひとしもと同様どうよう、11だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家斉いえなりよりへんいみな授与じゅよされ斉広なりながなりとう改名かいめいしたがえよん侍従じじゅう叙任じょにんし、修理しゅうり大夫たいふしょうする。しかし、文政ぶんせい13ねん1830ねん)に正室せいしつひめ家斉いえなりむすめ)が死去しきょする[1]

天保てんぽう7ねん1836ねん9月8にちひとしもと死去しきょしたため、同年どうねん12月10にちあとぐが、20日はつからず29にち桜田さくらだ藩邸はんていにおいて、23さい死去しきょした[1]。なお、実父じっぷひとし熙も同年どうねん5月14にち死去しきょしていた。

3さい年下としした異母弟いぼてい毛利もうりしんじゅんがいたが、ひとしもと生前せいぜん自身じしん長男ちょうなんなおこれしん斉広なりなが跡継あとつぎにて、斉広なりながむすめ都美子とみこ当時とうじかぞ5さい)とめとわせる意向いこうのこしており、これが江戸えどばんやく毛利もうりぼうけんより公表こうひょうされるにおよび、老臣ろうしん衆議しゅうぎでこれに異議いぎがなかったため、なおこれしんきょうあきら、のちのけいおやけいおや)が家督かとく相続そうぞくした。斉広なりなが生前せいぜんかり養子ようしてておらず、手続てつづきは斉広なりなが存命ぞんめいよそおっての末期まっき養子ようしとなり、3月15にち斉広なりなが公表こうひょうされた[4]

文化ぶんかじんとしては有能ゆうのうで、はやしじゅつとき師事しじして「あずかひとろん」や「世子せいし告文こくぶん」などおおくの書物しょもつのこしている。

系譜けいふ

[編集へんしゅう]

補足ほそく

[編集へんしゅう]
  • 前述ぜんじゅつしたように、藩主はんしゅ在職ざいしょく期間きかん20日はつからずと歴代れきだいなかでも最短さいたん藩主はんしゅであるため、このわずかな期間きかんへんいみなあたえられたものはいない(該当がいとうしゃなし)。
  • いみなの2文字もじひろ」は祖先そせん大江広元おおえのひろもとにちなんだ毛利もうりつうひとつで、歴代れきだい藩主はんしゅなかでも2だいつなひろ、4だい吉広よしひろ、6だい宗広むねひろもちいているでもあり、本来ほんらいは「ひろ」とむ。斉広なりなが自身じしん最初さいしょたかしひろたかひろ名乗なのっていたが、斉広なりなが改名かいめいするさい実父じっぷひとし熙とおなみとなってしまうのをけるためにみを変更へんこうしたものとおもわれる(かつて祖父そふじゅうが「就」のみを「なり」から「たか」にあらためたれいもある)。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 時山ときやま弥八やはちへん 1916, p. 123.
  2. ^ a b 時山ときやま弥八やはちへん 1916, p. 124.
  3. ^ 大森おおもり、p.165-167
  4. ^ 大森おおもり、p.172-174

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • オープンアクセス時山ときやま弥八やはちへん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 稿本こうほんもりのしげり』1916ねんNCID BN04718592https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/969141/45 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 
  • はぎ編纂へんさん委員いいんかいへんはぎだい1かんはぎ、1983ねん6がつNCID BN01890860全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:83049750 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション
  • 大森おおもり映子えいこ『おいえ騒動そうどう 大名だいみょう苦闘くとう吉川弘文館よしかわこうぶんかんみなおす日本にっぽん〉、2018ねん