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毛利もうりひとし

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毛利もうり ひとし
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき
生誕せいたん 天明てんめい3ねん12月9にち[1]1784ねん1がつ1にち
死没しぼつ 天保てんぽう7ねん5月14にち1836ねん6月27にち[1]
改名かいめい 保三郎やすさぶろう[1]幼名ようみょう)、熙成[1]けん[1]ひとし[1]
別名べつめい (*「熙」は「ひろし」、「熈」ともく)
戒名かいみょう 清徳せいとくいん殿どのちゅう大夫たいふ中書ちゅうしょだいきょう羽林はばやししょうちょうぼう国主こくしゅてんやすどうやすしだい居士こじ[1]
墓所はかしょ 東京とうきょうみなと愛宕あたごあおまついん
山口やまぐちけんはぎ椿つばきだいあきらいん[1]
官位かんい したがえよん侍従じじゅう大膳だいぜん大夫たいふ[1]ひだり近衛このえけん少将しょうしょう[1]みん大輔だいすけ[1]中務なかつかさ大輔だいすけ[1]
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家斉いえなり
はん 長州ちょうしゅうはんあるじ
氏族しぞく 毛利もうり
父母ちちはは ちち毛利もうりおさむおや[1]実母じつぼ小泉こいずみ明善あきよしいん[1]
養父ようふ毛利もうりひとしぼう
兄弟きょうだい ひとしぼうひとし細川ほそかわきょうあきら熙載水野みずの忠篤ただあつ
つま 正室せいしつ池田いけだおさむどうむすめ三津みつづほうきょういん[1]
側室そくしつ池上いけがみふじ大夫たいふむすめみねいん金子かねこしげるたいらむすめたまゆたかいん野中のなかしげるはちむすめゆたか
斉広なりなが[2]しんじゅん[2]由美子ゆみこ[2]ばん寿子ひさこ[3]八重やえひめ[4]美知子みちこ[4]ひとしもと
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毛利もうり ひとし(もうり なりひろ)は、江戸えど時代じだい後期こうき大名だいみょう毛利もうり24だい当主とうしゅ長州ちょうしゅうはん10代藩主はんしゅ。8だい藩主はんしゅ毛利もうりおさむおや次男じなん[1]

はつ熙成ひろなりけんのりひろ改名かいめいしてひとし[1]かくいみな一貫いっかんして共通きょうつうする「熙」のつう祖先そせんにあたる毛利もうりひろしもと由来ゆらいするもので、「ひろし」または「熈」とも表記ひょうきする。

経歴けいれき

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天明てんめい3ねん1783ねん12月9にち江戸えどまれる[1]文化ぶんか6ねん1809ねん)、あに先代せんだい藩主はんしゅ毛利もうりひとしぼう死去しきょによりあと[1]。このときにひとしぼう同様どうよう、11だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家斉いえなりよりへんいみな授与じゅよされひとし改名かいめいし、したがえよん侍従じじゅう叙任じょにんした。聡明そうめい藩主はんしゅで、海防かいぼう強化きょうか西洋せいよう軍備ぐんびによる軍備ぐんび増強ぞうきょうおこなった。

文政ぶんせい2ねん1817ねん)にしたがえよん少将しょうしょうとなる[1]あわせて従弟じゅうてい福原ふくはらぼうじゅん養嗣子ようししになっていた福原ふくはらぼうあきら毛利もうりひとしもと)をもらがえして婿養子むこようしにし、文政ぶんせい7ねん1824ねん2がつ27にち家督かとくゆずって隠居いんきょした[1]おさな実子じっし斉広なりながをただちに世継よつぎとするのがためらわれた一方いっぽういち福原ふくはら養子ようししたひとしもともどすからには、たん実子じっし成長せいちょうするまでのつなぎのかり養子ようしのままとどめてひとしもと立場たちばをないがしろにするわけにもいかなかった、という事情じじょうによる[5]

しかし、隠居いんきょひとし熙は村田むらた清風きよかぜ登用とうようなど、なおも藩政はんせい実権じっけんにぎつづけた。天保てんぽう7ねん1836ねん5月14にち、54さい死去しきょ[1]墓所はかしょ東京とうきょうみなと愛宕あたごあおまついん山口やまぐちけんはぎ椿つばきだいあきらいん[1]

系譜けいふ

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家臣かしん

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武鑑ぶかん掲載けいさい家臣かしん

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ひとし熙が隠居いんきょする直前ちょくぜん文政ぶんせい6ねん(1823ねん)に刊行かんこうされた須原すはら茂兵衛もへい蔵版ぞうはん武鑑ぶかん[7]掲載けいさいされている家臣かしん以下いかのとおり。なお刊行かんこう都合つごうにより刊行かんこうねん以前いぜん内容ないようふくまれている可能かのうせいがある。また、武鑑ぶかんではしょはんちが役職やくしょくめい標準ひょうじゅんしている場合ばあいがあるので、実際じっさいはん職名しょくめい相違そういする場合ばあいもある。

一門いちもんはちいえ家老がろうなど
宍戸ししど主計かずえ毛利もうり内匠たくみ毛利もうりほんすけ毛利もうりぼうあきらか?)、毛利もうり蔵主くらぬし毛利もうりしょう三郎さぶろう毛利もうり伊賀いが益田ますだ丹後たんご福原ふくはらゆたかまえ清水しみずちょう左衛門さえもん堅田かただ宇右衛門えもん児玉こだま三郎さぶろうみぎ衛門えもん国司こくし信濃しなのろくろう左衛門さえもん井原いはら大學だいがく
用人ようにん
こうはね兵庫ひょうご福嶋ふくしま九郎くろうみぎ衛門えもん三浦みうらない左衛門さえもんあき里治さとはるみぎ衛門えもん福原ふくはら三郎さぶろう左衛門さえもん久芳くば安積あさか
側用人そばようにん
あげ謙蔵けんぞう粟屋あわやじゅうみぎ衛門えもん吉田よしだ六蔵ろくぞう神村かみむら喜兵衛きへえみなみもくじょ内藤ないとう十郎じゅうろう兵衛ひょうえ粟屋あわや与一よいちみぎ衛門えもんしろ使兼務けんむ)、毛利もうりたんみや井上いのうえ三郎兵衛さぶろべえ石津いしづたまき宮本みやもと八郎はちろうみぎ衛門えもん宇野うのふとし兵衛ひょうえ八木はちぼくさく左衛門さえもん馬屋うまやはら伊兵衛いへえ平川ひらかわはし
しろ使しょく兼任けんにんしゃのぞく)
井原いはらみゆき兵衛ひょうえさか次郎じろうみぎ衛門えもん

へんいみなけた人物じんぶつ

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ちゅう: 上記じょうきとおり、「熙」は「ひろし」または「熈」とも表記ひょうきする。

けん時代じだい藩主はんしゅ就任しゅうにんまえ

いずれもひとし熙の実弟じっていで、他家たけ養子ようしりしたがいずれも家督かとくぐことなく早世そうせいしている。

ひとし時代じだい藩主はんしゅ在任ざいにんちゅう

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 時山ときやま弥八やはちへん 1916, p. 115.
  2. ^ a b c 時山ときやま弥八やはちへん 1916, p. 116.
  3. ^ 時山ときやま弥八やはちへん 1916, p. 118.
  4. ^ a b 時山ときやま弥八やはちへん 1916, p. 119.
  5. ^ 大森おおもり、p.162-167
  6. ^ 大森おおもり、p.162
  7. ^ へんねん江戸えど武鑑ぶかん文政ぶんせい武鑑ぶかん3』所収しょしゅう

参考さんこう文献ぶんけん

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  • オープンアクセス時山ときやま弥八やはちへん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 稿本こうほんもりのしげり』1916ねんNCID BN04718592https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/969141/45 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 
  • 石井いしい良助りょうすけ 監修かんしゅうへんねん江戸えど武鑑ぶかん文政ぶんせい武鑑ぶかん3』/柏書房かしわしょぼう
  • 大森おおもり映子えいこ『おいえ騒動そうどう 大名だいみょう苦闘くとう吉川弘文館よしかわこうぶんかんみなおす日本にっぽん〉、2018ねん