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武鑑ぶかん

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安永やすながさんねん 大名だいみょう武鑑ぶかん』(須原すはら茂兵衛もへい安永やすなが3ねん(1774ねんかん)より越後えちご長岡ながおかはんだい9だい藩主はんしゅ牧野まきのただしせい箇所かしょ

武鑑ぶかん(ぶかん)は、江戸えど時代じだい出版しゅっぱんされた大名だいみょう江戸えど幕府ばくふ役人やくにん氏名しめい石高こくだか俸給ほうきゅう家紋かもんなどをしるした年鑑ねんかん形式けいしき紳士録しんしろく

概要がいよう

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たかられきじゅうさんねん 大名だいみょう武鑑ぶかん』(須原すはら茂兵衛もへいたかられき13ねん(1763ねんかん

江戸えど時代じだいになって多数たすう武家ぶけ都市としあつまるようになり、武士ぶし取引とりひきおこな町人ちょうにんたちにはそれらのいえ判別はんべつする必要ひつようがあった。武鑑ぶかんはそのための実用じつようしょであり、また都市としおとずれる人々ひとびとにとってのガイドブックの役割やくわりたした。大名だいみょう記載きさいした大名だいみょう武鑑ぶかん旗本はたもと記載きさいした旗本はたもと武鑑ぶかんなどがある。武家ぶけ当主とうしゅ氏名しめい官位かんい家紋かもん石高こくだか役職やくしょく内室ないしつしろ格式かくしき幕府ばくふへの献上けんじょうひん行列ぎょうれつ指物さしもの用人ようにんとうしるされ、携帯けいたいようりゃく武鑑ぶかんなども出現しゅつげんした。1ねんごとに出版しゅっぱんおこなわれ、役職やくしょくなどの移動いどう対応たいおうした。編集へんしゅう民間みんかん版元はんもとおこなっており、江戸えど京都きょうと大坂おおさか出版しゅっぱんされた。書店しょてんでもられたが、行商ぎょうしょう武鑑ぶかんうり販売はんばいしていた。桜田さくらだ門外もんがいへんにおいて井伊いい直弼なおすけおそった浪士ろうしたちは、武鑑ぶかんにして大名だいみょうかご見物けんぶつ田舎いなかさむらいよそおったという逸話いつわがある。

寛永かんえい年間ねんかん1624ねん - 1644ねん)にその原型げんけいあらわれ、正保まさやす4ねん1647ねん)の『正保しょうほう武鑑ぶかん』でその形態けいたいととのった[1]中期ちゅうき以降いこう江戸えど最大さいだい書物しょもつ問屋とんやであった須原すはら茂兵衛もへいがほぼ独占どくせんてき出版しゅっぱんはじめた。一方いっぽう幕府ばくふ書物しょもつ出雲いずもてら和泉いずみじょう江戸えど出雲いずもてら刊本かんぽん出版しゅっぱんして対抗たいこうした。

武鑑ぶかん出版しゅっぱんには本屋ほんや仲間なかま許可きょか必要ひつようであり、許可きょかたない版元はんもと武鑑ぶかんかくし、役職やくしょくなどもしるさないようにして出版しゅっぱんした[2]大名だいみょう須原すばるばん武鑑ぶかんよんかん構成こうせいであったが、のちかん構成こうせいとなった(いちかん大名だいみょうしゅさんかん役人やくにんしゅよんかん西にしまるづけかん御三家ごさんけかたづけ)。

武鑑ぶかんのコレクションとしてはもり鷗外鴎外おうがい文庫ぶんこ東京大学とうきょうだいがく総合そうごう図書館としょかんぞう)、幸田こうだ成友しげとも幸田こうだ文庫ぶんこ慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく図書館としょかんぞう)、野村のむら胡堂こどう収集しゅうしゅうした野村のむらほん東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょくら)がられる。鴎外おうがい武鑑ぶかん主要しゅよう参考さんこう資料しりょうにして『伊澤いさわ蘭軒らんけん』や『渋江しぶえ抽斎ちゅうさい』をいた[3]。また橋本はしもとひろし江戸えど時代じだい武鑑ぶかんをまとめた『大武おおたけあきら』を編纂へんさんしている。また、石井いしい良助りょうすけ柏書房かしわしょぼう発行はっこうしょとして『へんねん江戸えど武鑑ぶかん文化ぶんか武鑑ぶかん』と『へんねん江戸えど武鑑ぶかん文政ぶんせい武鑑ぶかん』を刊行かんこうした。

内容ないようについて

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橋本はしもとひろしの『大武おおたけあきら』をれば時代じだいにより掲載けいさい内容ないようちがいがあるが、時代じだいとともに内容ないよう拡大かくだいしている。『へんねん江戸えど武鑑ぶかん文化ぶんか武鑑ぶかん』の例言れいげんによるとまき1(親藩しんぱん・10まんせき以上いじょうしょ大名だいみょうおよまき2(10まんせき未満みまん大名だいみょう)の場合ばあい

  1. 大名だいみょうせい系統けいとうおな一族いちぞく庶流を一括いっかつし、【】でせい記載きさい松平まつだいらせいたまものせい場合ばあいは()で本姓ほんせい記載きさい
  2. 大名だいみょう本国ほんごくほんぬき
  3. 大名だいみょう系図けいず
  4. だい名家めいか当主とうしゅ人名じんめい
  5. 大名だいみょう席次せきじ
  6. 家督かとく相続そうぞくねん
  7. 位階いかい
  8. 内室ないしつ正室せいしつ。なお婚約こんやくしゃ場合ばあいでも内室ないしつとして記載きさいされる。実名じつめい記載きさいでない。
  9. 参勤さんきん
  10. どき献上けんじょう
  11. 家紋かもん
  12. やりしるし
  13. まとい
  14. 船印ふなじるしふねまくしるし
  15. 屋敷やしき
  16. 菩提寺ぼだいじ藩主はんしゅおよ家臣かしん江戸えど死去しきょしたさい菩提寺ぼだいじただし、一部いちぶはんでは国元くにもと菩提寺ぼだいじ掲載けいさいされている場合ばあいもある。また、小島こじまはん記載きさいされているのが英信えいしんてら下谷しもたに坂本さかもと)や西福寺さいふくじ浅草あさくさ)だが、どうはん年寄としより倉橋くらはしかく埋葬まいそうされているのがなり覚寺かくじだったりしており、家臣かしんについては強制きょうせいてき菩提寺ぼだいじめられていたわけではない。
  17. 家臣かしん最低さいていでも家老がろう用人ようにん江戸えど留守居るすい記載きさいされる。はんにより側用人そばようにん中老ちゅうろう番頭ばんがしらなどを記載きさいする。また家臣かしん役職やくしょくめい掲載けいさいされているが、家老がろう項目こうもくさずにばん役職やくしょく一括いっかつして項目こうもく掲載けいさいしたり、越後えちご長岡ながおかはんのように奉行ぶぎょうという呼称こしょうけて中老ちゅうろう年寄としよりとして掲載けいさいしているなど、実際じっさいはんしょくとはことなる場合ばあい存在そんざいする。
  18. 石高いしたか居城いじろ在所ざいしょ表高おもてだか表記ひょうき。なお、武鑑ぶかん掲載けいさいじゅん親藩しんぱんとその大名だいみょう大別たいべつしたうえかく大名だいみょう嫡家の石高こくだかじゅん掲載けいさいされる。
  19. 封地ほうち
  20. 里程りてい江戸えどから居城きょじょうまでの里程りてい
  21. 歴代れきだい城主じょうしゅ
  22. 舎弟しゃてい掲載けいさいされることはすくないが、いる場合ばあい掲載けいさいする場合ばあいがある。

掲載けいさい内容ないようのずれ

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武鑑ぶかんかぎったことではなく、現代げんだい出版しゅっぱんぶつでもあることだが、いちねんいちかいしか改訂かいていされず、かつ情報じょうほう仕入しい版木はんぎって、り、刊行かんこうするので当然とうぜんながら、掲載けいさい内容ないようてこざるをえないので、このてん注意ちゅういすべきてんである。

たとえば『へんねん改訂かいてい 文化ぶんか武鑑ぶかん』に掲載けいさいされる文化ぶんか10ねん1813ねん刊行かんこう須原すばる茂兵衛もへい蔵版ぞうはん武鑑ぶかんにおいては二本松にほんまつはんしゅとして丹羽にわちょうさち加賀かがまもる)、嫡子ちゃくしとして丹羽にわさとしくら誠之せいし登場とうじょうするが、実際じっさいには丹羽にわちょうさち文化ぶんか10ねん8がつ25にち(1813ねん9月19にち))に死去しきょしている。翌年よくねん武鑑ぶかんでは丹羽にわ誠之せいし左京さきょう大夫たいふ丹羽たんば長富ながとみ)が前年ぜんねん11がつ相続そうぞくしたことが掲載けいさいされている。他方たほう文化ぶんか9ねん2がつ3にち1812ねん3月15にち)に久留くるべいはんおも有馬ありまよりゆきたか死去しきょし、まご有馬ありまよりゆきとく相続そうぞくするが、文化ぶんか9ねん(1812ねん)の武鑑ぶかんでは久留くるべい藩主はんしゅとして有馬ありまよりゆきとく掲載けいさいされており、文化ぶんか9ねん3がつ相続そうぞくしたむね掲載けいさいされており、掲載けいさいっている。

また、のべとおる3ねん1746ねん刊行かんこう須原すばる茂兵衛もへい蔵板ぞうはん武鑑ぶかんにおいては、盗賊とうぞくなみ火付ひつきかたあらためとして掲載けいさいされているのがしょう濱平はまひらみぎ衛門えもん同年どうねん4がつ28にちまで)と中嶋なかじまひゃくすけ同年どうねん6がつ12にちまで)、どうのべとおる3ねん12月5にち1747ねん1がつ15にち)に死去しきょしている保科ほしなしゅみず出火しゅっかふし見廻みまわやくとして掲載けいさいされていたりしている。

このてん現代げんだい出版しゅっぱんぶつでもいえることだが、武鑑ぶかん場合ばあい、『へんねん』を宣伝せんでん文句もんくにしながら家臣かしん情報じょうほうなどの一部分いちぶぶん毎年まいとし改訂かいていでない場合ばあいがあり、これは史料しりょう比較ひかくするとあきらかになる。

たとえば、まき2まつこうに『しょ大名だいみょう隠居いんきょかたなみ家督かとく』というぜん大名だいみょう隠居いんきょもの一覧いちらんがある。米沢よねざわはんあるじ上杉うえすぎ治憲はるのり隠居いんきょしてしばらくたったとおる2ねん1802ねん)に剃髪ていはつして鷹山ようざんごうしたが、『しょ大名だいみょう隠居いんきょかたなみ家督かとく』において治憲はるのり表記ひょうきが『米沢よねざわ侍従じじゅう鷹山ようざん藤原ふじわら治憲はるのり』に変更へんこうされるのは文化ぶんか9ねん(1812ねん)の武鑑ぶかんからである。

また、先述せんじゅつのとおり家臣かしん役職やくしょくめい武鑑ぶかん実際じっさいはんしょくちが場合ばあいがあるが、これはかくはんによって呼称こしょうちが役職やくしょくめい実際じっさい機能きのう考慮こうりょして標準ひょうじゅんしたり、陪臣ばいしんまくしょくとの身分みぶん配慮はいりょした結果けっかである可能かのうせいたかい。

たとえば、米沢よねざわはん小姓こしょうあたま大目おおめづけ仲之なかのあいだ年寄としより武鑑ぶかんではすべ用人ようにんとして掲載けいさいされていたり、仙台せんだいはん小姓こしょうあたまさかしゅうえいがたな)が用人ようにんとして掲載けいさいされているが、これは標準ひょうじゅん結果けっかである可能かのうせいたかい。

米沢よねざわはん仙台せんだいはん越後えちご長岡ながおかはん奉行ぶぎょうしょくがあるが、まくしょくしょ奉行ぶぎょう配慮はいりょしてか米沢よねざわはん仙台せんだいはん場合ばあい項目こうもくもうけずに米沢よねざわはんでは就任しゅうにん資格しかくのあるさむらいぐみぶん領家りょうけ当主とうしゅをまるまる掲載けいさい仙台せんだいはんでは一門いちもんけて掲載けいさいしたりしている。越後えちご長岡ながおかはんでは『中老ちゅうろう』として掲載けいさいし、実際じっさい中老ちゅうろうがいる場合ばあいには線引せんひきで実際じっさい中老ちゅうろう奉行ぶぎょう項目こうもくない差別さべつ掲載けいさいしたりしている。

なお、実際じっさい番頭ばんがしら兼用けんようじんであるが、武鑑ぶかん番頭ばんがしら項目こうもく設定せっていされないはん家臣かしんである場合ばあい用人ようにんとして掲載けいさいしている場合ばあいもある。

脚注きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 橋本はしもとひろし へん大武おおたけあきらちゅうまき改定かいてい増補ぞうほばん)、名著めいちょ刊行かんこうかい、1965ねん 
  • 石井いしい良助りょうすけ 監修かんしゅうへんねん江戸えど武鑑ぶかん文化ぶんか武鑑ぶかん5、柏書房かしわしょぼう、1982ねん4がつ24にち 
  • ふじみのる久美子くみこ江戸えど武家ぶけ名鑑めいかん武鑑ぶかん出版しゅっぱん競争きょうそう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2008ねん 

外部がいぶリンク

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