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番頭ばんがしら

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番頭ばんがしら(ばんとう、ばんがしら)

  1. 歴史れきし用語ようごとしての番頭ばんがしらについては、下記かき参照さんしょう
  2. 2005ねん平成へいせい17ねん改正かいせいまえ商法しょうほう43じょう改正かいせいの25じょう相当そうとう)に存在そんざいした法律ほうりつ用語ようご

番頭ばんがしら」は公家くげ武家ぶけにおいて警護けいごしょくあたまし、警護けいごそのもの(ばんやく)をしめすこともあった[1]歌舞伎かぶき勧進かんじんちょう』において、関守せきもりかたる「方々かたがた、きっと番頭ばんがしらつかまつれ」という科白せりふに、その名残なごりめている[1]近世きんせいから近代きんだいにかけての商家しょうかでは、奉公人ほうこうにん商業しょうぎょう使用人しようにん)のちょうしている[1]

中世ちゅうせい番頭ばんがしら

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中世ちゅうせいにおける番頭ばんがしら(ばんとう)は、在家ありいえたいする年貢ねんぐ公事こうじ徴収ちょうしゅう単位たんいとして編成へんせいされたばん徴収ちょうしゅう責任せきにんしゃとして有力ゆうりょく農民のうみんからえらばれたものしょうのちそうむら形成けいせいされると、そうむらによって推挙すいきょされて、領主りょうしゅからその代表だいひょうしゃとして任命にんめいされるようになった。

近世きんせい武家ぶけ番頭ばんがしら

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江戸えど幕府ばくふ番頭ばんがしら

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武家ぶけにおける番頭ばんがしら(ばんがしら)は、おも江戸えど幕府ばくふ大番おおばん指揮しきかんだい番頭ばんがしらやくだか5000せき[2])とばれ、平時へいじ江戸城えどじょうだい坂城さかき警備けいび二条城にじょうじょうにおける二条にじょうざいばんつとめ、またゆうおよび行軍こうぐんさいしては幕府ばくふぐん一番いちばん先手せんてならびに騎馬きばたい指揮しきかん侍大将さむらいだいしょう)として、つがえかた武官ぶかん)の最高さいこうにあたり、がわしゅやくだか5000せき)・留守居るすいやくだか5000せき)とならんで、旗本はたもと役職やくしょくなか最高さいこう格式かくしきほこった。5000せき以上いじょう旗本はたもとまたは、1まんせきクラスの譜代ふだい大名だいみょうから複数ふくすうにんじられた。だい番頭ばんがしら配下はいかなかあいだ管理かんりしょく大番組おおばんぐみあたま (やくだか600せき[2])とばれた。その将軍しょうぐん身辺しんぺん警護けいご責任せきにんしゃである小姓こしょうぐみ番頭ばんがしら (やくだか4000せき)、将軍しょうぐん居室きょしつをはじめとする城中じょうちゅう警備けいび責任せきにんしゃである書院しょいん番頭ばんがしらやくだか4000せき戦時せんじ幕府ばくふ直轄ちょっかつ番手ばんて指揮しきかん)などがあった。

だい番頭ばんがしら警備けいび隊長たいちょういち指揮しきかんにすぎないが、江戸えどまち奉行ぶぎょう大目おおめづけといった役職やくしょくよりかくじょうであった。幕府ばくふはいわば軍事ぐんじ政権せいけんであるため、軍事ぐんじ警備けいび責任せきにんしゃ地位ちいたかかったためであると推定すいていされる。

しょはん番頭ばんがしら

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しょはんにおいても、番頭ばんがしらは、平時へいじ警備けいび部門ぶもんうち最高さいこう地位ちいにあるものをし、戦時せんじには備の指揮しきかんとなることがおおい。また、警備けいび部門ぶもんばんかた)の家臣かしんが、藩主はんしゅ具申ぐしんしたいことがある場合ばあい藩主はんしゅぎをすることもあった。この職権しょっけん家臣かしんは、番頭ばんがしらではなくさむらいあたま組頭くみがしら呼称こしょうされるはんもあった。組頭くみがしら番頭ばんがしらふたつの役職やくしょく存在そんざいするはんにあっては、どちらがかくじょうかは一義的いちぎてき断定だんていはできないが、番頭ばんがしらのほうがかくじょうなことがおおい。しかし、組頭くみがしら侍大将さむらいだいしょうであり、騎馬きばぐみなどの馬上もうえ武士ぶしだんあづけられている場合ばあいは、番頭ばんがしらよりかくじょうなこともある。

江戸えど時代じだい中期ちゅうき赤穂あこうはん浅野あさののように組頭くみがしら奥野おくのじょうりょうまつ廊下ろうか刃傷にんじょう事件じけんのとき、かぞえ55さい)が、ちち家老がろうしょくであったとはいえ、みの家老がろうより格段かくだん石高こくだかおおく、城代しろだい家老がろう筆頭ひっとう家老がろう大石おおいし良雄よしおの1500せきぐ、はんない番目ばんめの1000せき給付きゅうふされていた。奥野おくのじょうりょうについては、番頭ばんがしらとする分限ぶげんちょう存在そんざいするため、どうはんでは番頭ばんがしら組頭くみがしらおな意味いみ使用しようされていたものとおもわれる。

番頭ばんがしら実質じっしつてきはんないちから見極みきわめるには、番頭ばんがしらいえろくやくだかのほか、番頭ばんがしらつがえかたからの藩主はんしゅたいする取次とりつぎけん人事じんじ具申ぐしんけんっているかかが重要じゅうようである。番頭ばんがしらしょはんにおける地位ちいは、厳密げんみつにはまちまちであり、家老がろう年寄としより中老ちゅうろう重職じゅうしょくであることもあれば、用人ようにんより格下かくしたのこともある。しかし、はんないにおける番頭ばんがしら序列じょれつ一定いってい傾向けいこう存在そんざいすることはあきらかである。ちいさなはん職制しょくせい簡素かんそはんでは、家老がろう重臣じゅうしん用人ようにんとなる。しょうはんでは用人ようにん家老がろう全般ぜんぱん補佐ほさするので、番頭ばんがしらよりも用人ようにん身分みぶんたかくなる。他方たほうおおきなはんでは、家老がろう用人ようにん中間ちゅうかん年寄としより中老ちゅうろうをはじめ、さまざまな家老がろう補佐ほさする役職やくしょくがあるので、用人ようにん役目やくめ相対そうたいてきひくくなり、特命とくめい事項じこう庶務しょむてきなものとなるので、用人ようにん番頭ばんがしらより格下かくしたとなることもある。ちいさなはんでは、番頭ばんがしら江戸えど留守居るすいやくおよ公用こうようじんがおおむね同格どうかくはんもあれば、番頭ばんがしらのほうがかくじょうはんもある。番頭ばんがしらより江戸えど留守居るすいやく公用こうようじんのほうがかくじょうということはすくない。おおきなはんでは、江戸えど留守居るすいやくおよ公用こうようじんより番頭ばんがしらのほうがかくじょうである。番頭ばんがしらは、ものあたましゃあたま)、給人きゅうにんよりかくじょうであることはしょはん共通きょうつうである。

しかしながら藩主はんしゅへの取次とりつぎ具申ぐしんという役割やくわりでは用人ようにんわらないためか、財政難ざいせいなんすす江戸えど時代じだい後期こうきになると番頭ばんがしら用人ようにん兼務けんむするはん登場とうじょうし、なかには熊本くまもとはん細川ほそかわ家中かちゅう岡山おかやまはん池田いけだ家中いえじゅう姫路ひめじはん酒井さかい家中いえじゅうのように「番頭ばんがしら用人ようにん」というひとつの役職やくしょくとして江戸えど武鑑ぶかん掲載けいさいされる場合ばあいもある。

幕府ばくふ役職やくしょく相当そうとうする小姓こしょうぐみ番頭ばんがしら書院しょいん番頭ばんがしらは、しょはんにあっては番頭ばんがしらよりやや格下かくしたであり、小姓こしょうぐみ組頭くみがしら書院しょいん組頭くみがしら呼称こしょうされることがおおく、ちいさなはんにあっては、番頭ばんがしらがこれらの役目やくめ兼帯けんたいしていた。大雑把おおざっぱって、しょはんにあって番頭ばんがしらは「うえなかクラス」以上いじょう家格かかくものからえらばれている。

太平たいへいでは、家柄いえがらおもんじられて任命にんめいされた。泰平たいへいでは、一般いっぱんろんとして、能力のうりょくがなく家柄いえがらたか武家ぶけを、番頭ばんがしらをはじめとするばんかた幹部かんぶにしたとする指摘してきもある。しかし越後えちご長岡ながおかはんのように一部いちぶはんでは奉行ぶぎょう用人ようにんなどの功労こうろうしゃなかで、一定いってい筋目すじめ有能ゆうのう名誉めいよしょくてき意味合いみあいで、番頭ばんがしら抜擢ばってきすることもあった。[よう出典しゅってん]

近世きんせい近代きんだい商家しょうか番頭ばんがしら

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商家しょうかにおける番頭ばんがしら(ばんとう)とは、おも江戸えど時代じだい商家しょうか使用人しようにんうち高位こういにある管理かんりしょくす。だい規模きぼ商家しょうかだいみせ)では筆頭ひっとう一番いちばん番頭ばんがしらから〇ばん番頭ばんがしら複数ふくすうじんくこともあった。

10さい前後ぜんこう商店しょうてん丁稚でっち上方かみがた)・小僧こぞう江戸えど)としてんで使つかはしりや雑役ざつえき従事じゅうじし、手代てだい番頭ばんがしらとなる。商業しょうぎょう経営けいえいのみならず、そのいえ家政かせいにもあたっており、勤務きんむ着物きもの手代てだいまでとちが羽織はおり着用ちゃくようすることがゆるされた。また、丁稚でっちはもちろんのこと手代てだいまではみを原則げんそくとする商家しょうかおおく、番頭ばんがしらになってようやくみから解放かいほうされ、かよい(自宅じたく通勤つうきん)がゆるされるといったケースがおおかった。さらに、結婚けっこん番頭ばんがしらになるまではゆるさないことがおおかった。番頭ばんがしらは、暖簾のれんされて独立どくりつすることもあったが、番頭ばんがしらまかされるまでにはきびしい生存せいぞん競争きょうそう必要ひつようがあった。みせ地域ちいき時代じだいにより多少たしょうちがいはあるが、この競争きょうそういたものおおむね30さい前後ぜんこう当時とうじとしては中年ちゅうねんいきである)で番頭ばんがしらしょくにつくのがおおかった。

大坂おおさか町人ちょうにん学者がくしゃ唯物ゆいぶつろんてき思想しそうとなえた山片やまがたわだかまもも升屋ますや小右衛門こうえもん長谷川はせがわかおるしゅう)は、升屋ますや番頭ばんがしらだったことをもじってみずから「わだかまもも(ばんとう)」としょうした。

近代きんだいはいり、「支配人しはいにん」「理事りじちょう」などと名称めいしょうわっても一般いっぱんには「番頭ばんがしら」の呼称こしょうひろもちいられた。「三井みつい番頭ばんがしら」であった益田ますだたかしこうしょう鉱山こうざん技師ぎしだっただん琢磨たくま三井みついまねき、三池みいけ鉱山こうざん買収ばいしゅうするなど戦前せんぜん三井みつい財閥ざいばつささえた[注釈ちゅうしゃく 1]丁稚でっち奉公ほうこうからこした金子かねこ直吉なおきち貿易ぼうえきしょう鈴木すずき商店しょうてんだい番頭ばんがしらばれた人物じんぶつである[注釈ちゅうしゃく 2]大正たいしょう時代じだい政党せいとう政治せいじであった加藤かとう高明こうめいは、政界せいかいりにさきだって、三菱みつびし本社ほんしゃふく支配人しはいにん地位ちいにあり、三菱みつびし財閥ざいばつ創業そうぎょうしゃ岩崎いわさき弥太郎やたろう息女そくじょ結婚けっこんしていたことから、政敵せいてきからはしばしば「三菱みつびしだい番頭ばんがしら」と皮肉ひにくられた。

法律ほうりつ用語ようごとしては、2005ねん平成へいせい17ねん)の商法しょうほう改正かいせい以前いぜん、ある種類しゅるいまた特定とくてい事項じこう委任いにんけた使用人しようにん例示れいじする用語ようごとして「番頭ばんがしら手代てだい」がてられ、とく番頭ばんがしら上位じょうい商業しょうぎょう使用人しようにんとの意味いみであったが、このとし改正かいせいによって消滅しょうめつした。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 益田ますだは「千利休せんのりきゅう以来いらいだい茶人ちゃじん」としょうされた数寄者すきしゃであった。だんはのちに三井みつい財閥ざいばつ総帥そうすいとなり、1932ねん昭和しょうわ7ねん)、血盟けつめいだん事件じけん暗殺あんさつされた人物じんぶつである。
  2. ^ 金子かねこは、鈴木すずき商店しょうてん一時いちじ三井みつい財閥ざいばつ三菱みつびし財閥ざいばつをしのぐ企業きぎょうグループに発展はってんさせ、とくに飛躍ひやくてき成長せいちょうげた大正たいしょう時代じだいには福澤ふくさわももかいによって「財界ざいかいナポレオン」ともひょうされた。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c 榎本えのもとしげるみんはなしげい
  2. ^ a b だい番頭ばんがしらみ)おおばんがしら”. だい番頭ばんがしらとは - コトバンク. 2021ねん10がつ25にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 榎本えのもとしげるみんはなしげい」(古今ここんていちょうCD『ちょう復活ふっかつ(ち):ひゃくねん解説かいせつ

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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