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手代てだい

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手代てだい(てだい)は、江戸えど時代じだい中期ちゅうき以降いこうに、郡代ぐんだい代官だいかんなどの下役したやくとして農政のうせい担当たんとうした下級かきゅう役人やくにんである。地方ちほう役人やくにん(じかたやくにん)のひとつ。江戸えど幕府ばくふ幕臣ばくしん郡代ぐんだい代官だいかん下役したやくけられたもの手付てつき(てつけ)(てつけ)び、ほかにも全国ぜんこくてきにさまざまな呼称こしょう役職やくしょくがあった。江戸えど幕府ばくふ勘定かんじょう奉行ぶぎょう配下はいかはやし奉行ぶぎょうぞう奉行ぶぎょうなどの下役したやくにも手代てだいという役職やくしょくがあった。またてんじて、商家しょうか従業じゅうぎょうしゃ地位ちいをあらわす言葉ことばともなる。

ほんこうでは、郡代ぐんだい代官だいかん下級かきゅう役人やくにん手代てだい中心ちゅうしんべる。

概要がいよう

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江戸えど幕府ばくふしょはんではちがいがある。

江戸えど幕府ばくふ代官だいかんしょ手代てだい

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しょはん手代てだい

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しょはん手代てだい幕府ばくふ代官だいかん配下はいか手代てだいおなじく、現地げんち農民のうみんとうから採用さいようされ、代官だいかんのもとで農政のうせい業務ぎょうむたっていた。給金きゅうきんがく形式けいしきはんによりことなっていた。また、手代てだいうえには手代てだいりまとめる手代てだい元締もとじめしくは元締もとじめ手代てだい)がいた。なお、はたらきによっては苗字みょうじ帯刀たいとう、あるいは帯刀たいとう名字みょうじのどちらかをゆるされることもあった。

れいとして、福山ふくやまはんでは手代てだいは「代官だいかん手代てだい」という名称めいしょうで、定員ていいんは12にんであった。待遇たいぐうとしては15ひょうから18ひょう2人ふたり扶持ふちきゅうぜられており、全員ぜんいん名字みょうじ帯刀たいとうゆるされていた。代官だいかん定員ていいんは3にんであったので、代官だいかん1にんに4にん手代てだい配下はいかとしてついていたことになる。

商家しょうか手代てだい

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大坂おおさか船場ふなば商家しょうか役職やくしょくいち旦那だんな番頭ばんがしら手代てだい丁稚でっちじゅんくらいひくくなる。丁稚でっち奉公ほうこうののち、17さいから18さい元服げんぷく手代てだい昇進しょうしんする。現代げんだい会社かいしゃ組織そしきでいうと、係長かかりちょう主任しゅにんなどのなかあいだ管理かんりしょく相当そうとう丁稚でっち力仕事ちからしごと雑用ざつようおも業務ぎょうむであるのにたいし、手代てだい接客せっきゃくなどが主要しゅよう業務ぎょうむであった。つまり、直接ちょくせつあきなかかわる仕事しごと手代てだいになってはじめてたずさわれるのであった。経理けいり商品しょうひん吟味ぎんみ得意とくい先回さきまわりなどもする。手代てだいになると丁稚でっちちが給与きゅうよ支払しはらわれる場合ばあい一般いっぱんてきだった。

商法しょうほうには、現行げんこう商法しょうほう成立せいりつしたのが1899ねん明治めいじ32ねん)であったため、「番頭ばんがしら」「手代てだい」の用語ようごがあり(38じょう、43じょう)、事業じぎょうしゃより営業えいぎょう権限けんげん一部いちぶ裁判さいばんけんのぞく)を委任いにんされた使用人しようにん意味いみしていた[1]。「番頭ばんがしら」「手代てだい」の用語ようご2005ねん平成へいせい17ねん改正かいせいまでのこっていた。そのあいだに「手代てだい」の地位ちいのある事業じぎょうしゃはほとんどくなっていたため、課長かちょう係長かかりちょうなど中間ちゅうかん管理かんりしょく手代てだい解釈かいしゃくしていた。現行げんこうほうでは、よりはばひろ概念がいねんとして商業しょうぎょう使用人しようにん定義ていぎしている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 使用人しようにん番頭ばんがしら手代てだいとは”. 稻田いなだ会計かいけい事務所じむしょ (2013ねん3がつ25にち). 2024ねん8がつ30にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

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