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毛利もうり豊元とよもと

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毛利もうり豊元とよもと
時代じだい 室町むろまち時代ときよ後期こうき
生誕せいたん ぶんやす元年がんねん1444ねん[1]
死没しぼつ 文明ぶんめい8ねん5月28にち[1]1476ねん6月19にち
改名かいめい 松寿しょうじゅまる幼名ようみょう[1]豊元とよもと
別名べつめい しょう輔太ろう[1]
戒名かいみょう こうおさむてら殿どのぜんれいがつこう常澄つねずみだい居士こじ[1]
墓所はかしょ 広島ひろしまけん安芸あき高田たかだ吉田よしだ郡山こおりやま城跡じょうせきない
官位かんい 治部じぶしょう[1]
主君しゅくん 山名やまなただしゆたか大内おおうち政弘まさひろ
氏族しぞく 大江おおえせい毛利もうり
父母ちちはは ちち毛利もうりひろしもと[1]ははしょう
兄弟きょうだい 豊元とよもともといえおんな山内やまうちどおりつま)、おんな井上いのうえひかり教室きょうしつ
つま つばらしつみょうたま禅定ぜんじょうあま[1][注釈ちゅうしゃく 1]
ひろもと[1]兼重かねしげもとおんな国司こくしもとじゅんつま[2]
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毛利もうり 豊元とよもと(もうり とよもと)は、室町むろまち時代ときよ安芸あきこく国人くにびと毛利もうり当主とうしゅ備後びんご守護しゅご山名やまなただしゆたか麾下きかとして、河内かわうち紀伊きい転戦てんせんした。「豊元とよもと」の山名やまなただしゆたかからへんいみなけて名乗なのったもの。

生涯しょうがい

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応仁おうにんらんではゆたかひがしぐんであったため、豊元とよもとひがしぐんぞくし、京都きょうと戦乱せんらん日々ひびおくった。しかし、ひがしぐんがわ毛利もうりへの措置そち不満ふまんいた豊元とよもとは、文明ぶんめい3ねん1471ねん)に帰国きこくすると、西にしぐんがわ有力ゆうりょく大名だいみょう大内おおうち政弘まさひろ味方みかたして所領しょりょうかえした。これ以後いご毛利もうり大内おおうち傘下さんか国人くにびと領主りょうしゅひとつとなる。

豊元とよもとひがしぐん支援しえん徳政とくせい一揆いっき鎮圧ちんあつしたほか、大内おおうち安芸あき支配しはい本拠ほんきょかがみ山城やましろ包囲ほういしたひがしぐんはらうなど、大内おおうち安芸あきへの勢力せいりょく伸張しんちょう貢献こうけんすることとなる。この戦功せんこうにより、大内おおうち政弘まさひろから西条さいじょう盆地ぼんち一部いちぶ所領しょりょうとしてあたえられた。また、備後びんごこくでは西にしぐん山名やまなまさしゆたかたすけ、もとおもであるひがしぐんかたゆたか軍勢ぐんぜい激闘げきとうひろげ、これを撃退げきたいし、世羅せら台地だいち一部いちぶ獲得かくとくした。

文明ぶんめい7ねん1475ねん)11月24にちづけ嫡男ちゃくなん千代寿ちよとしまるひろもと)に、本領ほんりょうのほかにあらたに獲得かくとくした備後びんご安芸あき所領しょりょう別紙べっし同時どうじゆずっている(『毛利もうり文書ぶんしょ』149―151ごう[3]

文明ぶんめい8ねん1476ねん)5がつ28にちに33さい病没びょうぼつした[3]飲酒いんしゅがい原因げんいんとされる(『毛利もうり文書ぶんしょ』599ごう[3]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 死没しぼつ年月日ねんがっぴ延徳えんとく3ねん7がつ4にち1491ねん8がつ18にち[1]

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • オープンアクセス時山ときやま弥八やはちへん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 稿本こうほんもりのしげり』1916ねんNCID BN04718592https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/969141 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 
  • 河合かわい正治しょうじ安芸あき 毛利もうり一族いちぞく』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1984ねん

関連かんれん項目こうもく

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