出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
毛利 就馴(もうり なりよし)は、江戸時代中期の大名。周防国徳山藩7代藩主。第5代藩主・毛利広豊の十男。幼名は専之助。名を就馴(初め「なりよし」、後に「たかよし」[1])、就友(たかとも)と変える。
寛延3年(1750年)11月6日、徳山藩の第5代藩主・毛利広豊の十男として、江戸の今井谷邸で生まれる。
宝暦14年(1764年)2月22日、第6代藩主の兄・広寛が死去。他の兄は早世または既に他家を相続していたので、同年4月21日に広寛の養嗣子として家督を継ぎ、「就馴」と名乗る。
就馴は生まれつき英邁闊達で、よく下情に通じて人民を愛し、家老・奈古屋蔵人を重用して治績を挙げる。また、藩士に命じて各家に伝来の古文書や系譜を呈出させ、藩祖・就隆及び第3代藩主・元次の詩文を編集して散逸を防ぐなど、大いに意を文事に用い、天明5年(1785年)には藩校の鳴鳳館を創立して文教興隆の基礎を築く。
寛政8年(1796年)9月24日、次男の広鎮に家督を譲って隠居。寛政11年(1799年)3月26日、病と称して帰邑の暇を請い、同年5月に下松の仮寓に入る。文化元年2月(1804年)、富田に別邸を設ける。
文化4年(1807年)9月23日、名を「就友」と改め、文化13年(1816年)12月23日に総髪して「政翁」、また「泰翁」と号し、風月を友として悠々自適の日を送る。
文政11年(1828年)3月20日に富田の別邸で死去。享年79。墓所は山口県周南市舞車の大成寺。
毛利氏徳山藩7 代藩主 (1764 年 - 1796 年) |
---|
下松藩 |
- 毛利就隆1617-1650
- 藩庁を野上(徳山)に移転
|
---|
徳山藩 | |
---|