毛利もうり

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毛利もうり
時代じだい 江戸えど時代じだい中期ちゅうき
生誕せいたん 宝永ほうえい3ねん8がつ26にち1706ねん10月2にち
死没しぼつ とおる20ねん4がつ22にち1735ねん6月12にち
改名かいめい 幼名ようみょうひゃくすけざいすすむいみなおや就→
戒名かいみょう ひじりたいいん殿どのくるわこころいさむしかだい居士こじ
墓所はかしょ 山口やまぐちけん下関しものせきちょうわらい山寺やまでら
官位かんい したがえしゅみずただし
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ吉宗よしむね
はん 長門ながとちょうはんあるじ
氏族しぞく 毛利もうり
父母ちちはは ちち毛利もうりただしひろはは下村しもむら相子あいこちょうしゅんいん
兄弟きょうだい ひらひめえんじとおるいんせいなえこうじょうじゅう増山ますやまただし平野ひらの長喜ながき養女ようじょ
つま 正室せいしつ毛利もうり吉元よしもとむすめ寧子やすここころりょういん
側室そくしつはやし春光しゅんこういん
きょうただしけいじゅう就)
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毛利もうり (もうり もろなり)は、長門ながとこくちょうはん7だい藩主はんしゅ

だい6だい藩主はんしゅ毛利もうりただしひろなんはは下村しもむら相子あいこちょうしゅんいん)。いみなははじめしん(ちかなり)、のち就。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

ちち毛利もうりもとたいら名乗なの清末きよすえはんおもだった時代じだいまれる。五男いつおだったが、あにたちが次々つぎつぎ早世そうせいしたため、ちちちょう藩主はんしゅ時代じだい世子せいしとなった。とおる10ねん1725ねん)7がつ28にち江戸城えどじょうまつ廊下ろうかにて狂気きょうき乱心らんしんした信濃しなの松本まつもとはんあるじ水野みずのただしつねりつけられ、さやがたな応戦おうせんするという事件じけんきた。就は右手みぎてひだりみみ、のどなどにきずったが、ちゅうつねかたなとし、一命いちめいめた。そのちかくにいた戸田とだぼうによりちゅうつねさえられ、目付めつけ長田ながたもとにより就もしとどめられ、栗崎くりさきみちゆう成田なりたはじめあんによりきず治療ちりょうけた[1]ちゅうつね乱心らんしんにより改易かいえき就は正当せいとう防衛ぼうえいによりおとがめなしとなった。りつけられた原因げんいんは、水野みずの改易かいえきされ、その所領しょりょう就にあたえられるといううわさちゅうつねしんじたためであるという。

とおる14ねん1729ねん)のちち死去しきょによりあといだ。このとき、おとうとなななん)のせいなえに1まんせきぶんして、清末きよすえはん再興さいこうさせている。

その城下じょうかにおける火災かさい多発たはつし、さらには風水害ふうすいがいにも見舞みまわれてはん財政ざいせい悪化あっかした。このため、防火ぼうか体制たいせい強化きょうかつとめている。

とおる20ねん(1735ねん)4がつ22にち、30さい死去しきょし、あとおとうとじゅうなん)で養嗣子ようししただしけい(のちに宗家そうけ長州ちょうしゅうはんおもとなりじゅう名乗なのる)がいだ。法号ほうごうひじりたいいん殿どのくるわこころいさむしかだい居士こじ墓所はかしょは、下関しものせきちょうわらい山寺やまでら[2]同市どうし長府宮崎ちょうふみやざきまちゆたかこう神社じんじゃ[3]

系譜けいふ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 名門めいもん水野みずの復活ふっかつ 御曹司おんぞうし婿養子むこようしつむいだ100ねん』p.22-23
  2. ^ ちょう毛利もうりじゅうよんだい」(下関しものせき立長りっちょう博物館はくぶつかん
  3. ^ みや神社じんじゃ境内けいだい創建そうけんされた毛利もうりれいしゃけんしゃ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 福留ふくとめ真紀まき名門めいもん水野みずの復活ふっかつ 御曹司おんぞうし婿養子むこようしつむいだ100ねん』(新潮社しんちょうしゃ新潮しんちょう新書しんしょ〉、2018ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]