毛利もうりこう

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毛利もうり こう
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうき
生誕せいたん たてひとし2ねん[1][2]1202ねん
死没しぼつ たからおさむ元年がんねん6月5にち[1][2][3]1247ねん7がつ8にち
改名かいめい 法名ほうみょうきよしおもね[2][3]西にしおもね[1][2][3]
別名べつめい 通称つうしょう四郎しろう[1][2][3]
戒名かいみょう 西にしおもねだい禅定ぜんじょうもん[1]
墓所はかしょ 神奈川かながわけん鎌倉かまくら西御門にしごもん
官位かんい したがえ[2]左近さこん将監しょうげん[1][2][3]蔵人くろうど[1][2][3]豊後ぶんごまもる[1][2][3]安芸あきかい
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ 評定ひょうじょうしゅ[1][2][3]
主君しゅくん 源実朝みなもとのさねとも藤原ふじわらよりゆきけいよりゆき
氏族しぞく 大江おおえせい毛利もうり
父母ちちはは 大江広元おおえのひろもと[3][4]
兄弟きょうだい おやひろ[4]長井ながいひろ[4]そうはじめ[4]おんな高階たかしなおもんみちょうしつ[4]こうおんな飛鳥井あすかい雅経まさつねしつ[4]おんな中原なかはらぎょうしつ[4]うみひがしちゅうなり[4]みことしゅん[4]水谷みずたにしげるきよし[4]おんな[4]おんな藤原ふじわら公国こうこくしつ[4]
つま 三浦みうらよしむらむすめ[1][2]
広光ひろみつ[3][4]光正みつまさ[3]泰光やすみつ[3][4]けいこう[3][4]ゆう[3][4]おんな花山院かさんのいんままししつ[4])、おんな北条ほうじょうよりゆき正室せいしつ[4]
特記とっき
事項じこう
毛利もうり[2]
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毛利もうり こう(もうり すえみつ)は、鎌倉かまくら時代ときよ前期ぜんき武士ぶし鎌倉かまくら幕府ばくふ御家人ごけにん大江広元おおえのひろもとよんなん[1]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

3だい将軍しょうぐん源実朝みなもとのさねともつかえ、鶴岡つるおか八幡やはたしゃまいり行列ぎょうれつでは前駆ぜんくくわわった。じつあさ死後しご出家しゅっけし、入道にゅうどう西にしおもねしょうした。

うけたまわひさし3ねん1221ねん)、承久じょうきゅうらんこると、北条ほうじょうやすしときしたがって後鳥羽上皇ごとばじょうこう呼応こおうする勢力せいりょくたたかい、美濃みのこく木曽川きそがわ突破とっぱせんや、山城やましろこく宇治川うじがわ淀川よどがわ突破とっぱせん武名ぶめいをあげた。このこうによって安芸あきこく吉田よしだそう地頭じとうしょくあたえられた。

天福てんぷく元年がんねん1233ねん)には執権しっけんたいから関東かんとう評定ひょうじょうしゅ任命にんめいされる。ひろしもと4ねん1246ねん)には、藤原ふじわらよりゆきけいよりゆき父子ふし自邸じていむかえ、当時とうじ将軍しょうぐんしょく継承けいしょうしたばかりのよりゆき嗣の甲冑かっちゅうはつしきおこなうという栄誉えいよる。

たからおさむ元年がんねん1247ねん)、北条ほうじょう執権しっけん対立たいりつしたつま実家じっか三浦みうらかた敗北はいぼくたからおさむ合戦かっせん)。鎌倉かまくら法華ほっけどう息子むすこ広光ひろみつ光正みつまさ泰光やすみつゆうらととも自刃じじんした[1][2]合戦かっせん直前ちょくぜんこう将軍しょうぐん御所ごしょかおうとしたが、つまの「あにたいむら見捨みすてることは、武士ぶしのすることではない」との言葉ことば三浦みうら陣営じんえいいたという。毛利もうり一族いちぞくはこれによって大半たいはんててしまったが、越後えちごこくにいたよんなんけいこう家系かけいだけが唯一ゆいいつのこったとされ、このけいこう子孫しそんから戦国せんごく時代じだい吉田よしだそう国人くにびと領主りょうしゅから一躍いちやく西国さいごく覇者はしゃとなる毛利もうり元就もとなりる。

なお、こうむすめたからおさむ合戦かっせん執権しっけんとして指揮しきした北条ほうじょうよりゆき正室せいしつとなっていたが、戦後せんご離別りべつしている。ときよりゆき北条ほうじょう時宗じしゅうははである葛西かさい殿どのこうむすめとする系図けいず一部いちぶにあるが、複数ふくすうたしかな史料しりょうでは時宗じしゅうはは継室けいしつ北条ほうじょうしげるときむすめであることがみとめられるため、こうむすめせつ否定ひていされている[5]

家系かけい[編集へんしゅう]

本姓ほんせい学者がくしゃ家系かけい大江おおえである。したがってもと武士ぶし家系かけいではない。ちち広元ひろもとみなもと頼朝よりともまねかれてから鎌倉かまくらくだり、幕府ばくふ創業そうぎょう尽力じんりょくした。こうちち所領しょりょうのうち相模さがみこく毛利もうりそう毛利もうりしょうとも、現在げんざい厚木あつぎ)を相続そうぞくし、毛利もうりとなる。正式せいしきのりは大江おおえ こうおおえ の すえみつだが、りょうしたそうから毛利もうり こう名乗なのった。この名乗なのりからもわかるとおり、公家くげである父親ちちおやちがって、武士ぶしとして東国とうごく土着どちゃくしたのである。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]