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大江 親広(おおえ の ちかひろ、旧字体:親廣)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府の御家人。鎌倉幕府政所初代別当大江広元の長男。母は多田仁綱の娘。妻は北条義時の娘竹殿。
源通親の猶子となって[4][5]源親広と称した。『吾妻鏡』には正治2年(1200年)2月の記事から右近大夫将監として登場する。はじめ鎌倉幕府2代将軍源頼家に仕える。比企能員の変での動向は『吾妻鏡』には記載されていない。
建仁3年(1203年)10月、将軍となった源実朝の元服に際し、北条義時と共にその道具を用立て饗応の手配を行った[6]。11月、鎌倉永福寺薬師堂の管理を命じられる[7]。父が幕府の実力者であったことから実朝に寺社奉行として重用され、北条氏からも執権義時の娘婿として厚い信任を受けた。承元3年(1209年)頃から遠江守となり[8]、この頃から政所別当の一人となる[9]。建保元年(1212年)、法勝寺九重の塔の供養の守護を務める。建保2年(1213年)、寒河江荘の大沼大行院浮島稲荷本社拝殿を修復する[10]。この年に和田合戦が起こるが、法勝寺塔婆供養のために上洛していた[11]。5月2日に鎌倉に下向したが途中で合戦が起こったことを知り、急いで鎌倉に向かったが合戦には間に合わなかった。
建保3年(1215年)4月に京都駐在の御家人の監督を命じられ、同年6月には将軍実朝の代理として明菴栄西の臨終に立ち会う。この年から民部権の少輔となる[12]。建保4年(1216年)6月、父の大江復姓に合わせて大江姓に戻った。建保5年(1217年)5月に武蔵守となる[13]。また政所家司の一員を務める[14]。
建保7年(1219年)1月、実朝が公暁に暗殺されたため、出家して蓮阿と号す。同年2月、伊賀光季と共に京都守護に任じられて上洛した(ここで武蔵守と民部権少輔の職を辞した[15])。翌年は一時鎌倉に戻り義時、時房、広元らと小弓会で会合する[16]。
承久3年(1221年)の承久の乱では後鳥羽上皇の招聘に応じて官軍側に与した。古活字本『承久記』によると、目的も告げられぬまま後鳥羽の招聘に応じた親広は、義時が朝敵となった事を告げられ、後鳥羽より朕に付くか義時に付くかと迫られて後鳥羽に従ったという。近江国食渡にて幕府軍と戦ったが、敗れて京都に戻った。さらに宇治の合戦後は逢坂関の東にある関寺付近で行方知れずとなった。この乱では父広元は大軍による上京策を献策し鎌倉軍の士気を高め、嫡男佐房は鎌倉側東海道方面軍に加わり幕府軍の勝利に貢献した。佐房は戦後上田荘を与えられ幕府要職に就いた。
戦後は行方をくらましたが、関寺付近で死去したとも、祖父の多田仁綱が目代を務める出羽国寒河江荘に隠棲したとも言われる。
乱後に離別させられた竹殿は、後に通親の子・土御門定通の側室となっており、定通の異母兄通宗の外孫かつ異父姉承明門院の孫にあたる後嵯峨天皇の即位と深く関わることになる。
承久の乱後は中央の史料からは姿を消す親広だが、隠棲したとされる寒河江荘には足跡が残る。父広元が嘉禄元年6月10日(1225年7月16日)に逝去すると、息子佐房に使いを送り阿弥陀如来の尊像を彫刻させ、胎内に広元の遺骨を納めて出羽国寒河江荘吉川(山形県西村山郡西川町)の阿弥陀堂に安置したという[2]。別当を多田仁綱がつとめ、 天福2年(1234年)に亡くなった多田仁綱は、阿弥陀堂脇に葬られた。仁治2年(1241年)6月、吉川の館の鬼門(東北方)にこの阿弥陀堂を移築し、仁治2年12月15日に親広が亡くなると、自身も阿弥陀堂の傍らに葬られたという[2]。寒河江荘は次男高元が相続するが早世したため、鎌倉で要職についた三男広時が相続した。ただし寒河江荘北方(北寒河江荘)は北条氏の所領となり、寒河江氏は後に所領回復を目指すこととなる。
なお、南北朝期に成立した『師守記』によれば、安貞元年(1227年)5月15日に関東から上洛する途中、尾張で没したという。弟の海東忠成は尾張の熱田大宮司家の養子であり、蔵人を務めていた[17]。
承久の乱に敗れた親広は寒河江荘に隠棲したとされるが、その際付き従った配下は寒河江氏譜代の家臣として活動することになる。
- ^ a b c d e f g 「安中坊系譜」
- ^ a b c d e f g h i j k 「尊卑文脈」
- ^ 「江氏系譜」『寒河江市史 大江氏ならびに関連史料』p.509
- ^ 「江氏系譜」『大日本史料』第5編2冊655頁。嘉禄元年6月10日
- ^ 『吾妻鏡』建仁三年十月小八日癸卯条。左近太夫将監
- ^ 『吾妻鏡』建仁三年十一月十五日条。
- ^ 『吾妻鏡』承元三年十月大十日庚午条。
- ^ 『鎌倉遺文』承元三年七月廿八日「将軍家政所下文案」筑前宗像神社文書
- ^ 「大沼大行院系図」『寒河江市史 大江氏ならびに関連史料』p.193
- ^ 『吾妻鏡』建保2年5月8日条
- ^ 「鎌倉遺文」岩松新田文書。将軍家政所下文案、建保三年三月廿二日。
- ^ 『吾妻鏡』
- ^ 『吾妻鏡』建保6年12月20日条
- ^ 『吾妻鏡』承久1年7月19日条、武蔵守足利義氏
- ^ 『吾妻鏡』承久2年5月20日条
- ^ 『師守記』康永元年6月5日条。『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』「寒河江系『大江氏系図』の成立と史料的価値について(上)」佐々木紀一,2014,p.3