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北条時政 - Wikipedia コンテンツにスキップ

北条ほうじょう時政ときまさ

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北条ほうじょう 時政ときまさ
だい日本にっぽんろくじゅうあまりしょう』の北条ほうじょう時政ときまさ歌川うたがわかおるとら
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき - 鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき
生誕せいたん のべ4ねん1138ねん
死没しぼつ たてたもつ3ねん1がつ6にち1215ねん2がつ6にち
別名べつめい 北条ほうじょう四郎しろう
戒名かいみょう ねがい成就じょうじゅいん明盛めいせい
墓所はかしょ 伊豆いずくに寺家じけいねがい成就じょうじゅいん
官位かんい 駿河するが伊豆いず守護しゅごしたがえ遠江とおとうみもり
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふじゅうさんにん合議ごうぎせい京都きょうと守護しゅご初代しょだい執権しっけん
主君しゅくん みなもと頼朝よりともよりゆきじつあさ
氏族しぞく 北条ほうじょうしょう桓武かんむたいら直方ちょくほうりゅう
父母ちちはは ちち北条ほうじょうかたどきけん
はは伊豆いずじょうともためぼうむすめ
兄弟きょうだい どきじょう?
つま 伊東いとう祐親すけちかむすめ
まきほう
宗時むねとき政子まさこ時子ときこよしとき阿波あわきょくどきぼう稲毛いなげ女房にょうぼう政範まさのり畠山はたけやま重忠しげただむろのち畠山はたけやまよしじゅんしつ[ちゅう 1])、平賀ひらがちょうみやびむろのち藤原ふじわらこくどおりしつ)、三条さんじょうみのるせんしつ宇都宮うつのみや頼綱よりつなしつ坊門ぼうもん忠清ただきよしつ河野こうの通信つうしんしつ大岡おおおかおやしつ?
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北条ほうじょう 時政ときまさ(ほうじょう ときまさ、たいら時政ときまさ[1](たいらの ときまさ))は、平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき日本にっぽん武将ぶしょう鎌倉かまくら幕府ばくふ初代しょだい執権しっけん北条ほうじょう一門いちもん伊豆いずこく在地ざいち豪族ごうぞく北条ほうじょうかたもしくは北条ほうじょうけん北条ほうじょう政子まさこ北条ほうじょうよしときちちとくむねいえ初代しょだい当主とうしゅ

家系かけい桓武かんむたいら平直方たいらのなおかたりゅう自称じしょうする北条ほうじょうであるが、直方ちょくほうりゅうかりおかせ伊豆いずこく豪族ごうぞく出身しゅっしんというせつもある。

名称めいしょう[編集へんしゅう]

北条ほうじょう時政ときまさではなくもっぱら「北条ほうじょう四郎しろう」を名乗なのり、「北条ほうじょう殿どの」とばれ、正治しょうじ2ねん1200ねん)4がつ任官にんかんは「とおしゅう」とばれている(『吾妻あづまきょう』)[1]。ただし「北条ほうじょう四郎しろう」の呼称こしょう当時とうじ史料しりょうもとづくものだろうが、「北条ほうじょう殿どの」は鎌倉かまくら後期こうきの『吾妻あづまきょう編纂へんさんにすでに覇権はけん確立かくりつしていた北条ほうじょう呼称こしょうとして工夫くふうしたものだろうとの見解けんかいもある。みなもと頼朝よりとも生前せいぜんには無位むい無官むかんだった時政ときまさ官位かんいゆうする御家人ごけにん[ちゅう 2]より序列じょれつしたであり、通称つうしょうである「北条ほうじょう四郎しろう」の官位かんいゆうする御家人ごけにんの「三河みかわまもる」「左衛門尉さえもんのじょう」などよりうえにあるのは不自然ふしぜんなため、『吾妻あづまきょう』は「北条ほうじょう殿どの」の呼称こしょう工夫くふうしたのではないかとの推測すいそくである[2]

家系かけい[編集へんしゅう]

北条ほうじょう桓武かんむたいらこうのぞむりゅう平直方たいらのなおかた子孫しそんしょうし、伊豆いずこく田方たがたぐん北条ほうじょう静岡しずおかけん伊豆いずくに)を拠点きょてんとした在地ざいち豪族ごうぞくである。時政ときまさ以前いぜん系譜けいふ系図けいずによりすべことなるため、桓武かんむたいらながれであることを疑問ぎもんならびに否定ひていする研究けんきゅうしゃすくなくない。ただし祖父そふ北条ほうじょうちちどきかたまたは北条ほうじょうけんというてんしょ系図けいずでほぼ一致いっちしている。

吾妻あづまきょう』は40さいえた時政ときまさに「かい」や官位かんいとうけず、「豪傑ごうけつ」とのみしるしていた。また、時政ときまさ保有ほゆう武力ぶりょくかんしても石橋いしばしさんたたか頼朝よりともぐん構成こうせいかぎ突出とっしゅつした戦力せんりょくゆうしていたとはいがたく、時政ときまさ北条ほうじょう当主とうしゅではなく傍流ぼうりゅうであり、国衙こくが在庁ざいちょうから排除はいじょされていたのではないかとする見解けんかいがある。ただしかわこし太郎たろう重頼しげより武蔵むさしこく留守るすしょそう検校けんぎょうしょく)、小山こやま四郎しろう政光まさみつ下野げやだいじょう)のように国衙こくがさい有力ゆうりょく在庁ざいちょうでも太郎たろう四郎しろう表記ひょうきされるれいや、後年こうねん護良親王もりよししんのう令旨れいし吉田よしだ定房さだふさの『吉口きちぐちつたえ』のように時政ときまさ在庁ざいちょうかんじんとする史料しりょうもある。また北条ほうじょう本拠ほんきょ国府こくふのある三島みしま狩野川かのがわ流域りゅういき近接きんせつして軍事ぐんじ交通こうつう要衝ようしょうといえる位置いちにあり、国衙こくが無関係むかんけいとするのはかんがえがたく、時政ときまさ在庁ざいちょうかんじんであった可能かのうせいたかい。またきょうにおいて時政ときまさだい代官だいかん)として活躍かつやくし、ひだり兵衛ひょうえじょう官職かんしょく北条ほうじょうじょう北条ほうじょう嫡流ちゃくりゅうで、傍流ぼうりゅうときせい在庁ざいちょうしていたとするせつもあった[3]が、現在げんざいでは系図けいず分析ぶんせきからときじょう時政ときまさおとうと[4]または従弟じゅうてい[5]かんがえられている。

いずれにしても、時政ときまさぜん半生はんせいおよび内乱ないらん以前いぜん北条ほうじょうについてはなぞつつまれている。ほぼ一代いちだい天下てんかだいいち権力けんりょくにぎるにいたったにもかかわらず、兄弟きょうだい従兄弟いとこときじょう以外いがい歴史れきし登場とうじょうしてこない(粛清しゅくせいされた記録きろくい)。そのため、不遇ふぐうであったにもかかわらず、とくむねいえ以外いがいにも名越なごや金沢かなざわ大仏だいぶつなどのおおきく枝葉えだはひろげていく北条ほうじょう一族いちぞくはすべて時政ときまさ一人ひとり系統けいとう息子むすこのうちときぼう系統けいとう)である。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

頼朝よりともしゅうと[編集へんしゅう]

やなぎあん随筆ずいひつ日本にっぽん随筆ずいひつ大成たいせいだい2だい9かん)の時政ときまさ栗原くりはらしんたかし

平治へいじらんはいした源義朝みなもとのよしとも嫡男ちゃくなん頼朝よりとも伊豆いずこく配流はいるされたことによりその監視かんしやくとなる。つままきほう実家じっか平頼盛たいらのよりもり家人かじんとして駿河するがこく大岡おおおかまき知行ちぎょうしていた[ちゅう 3]。やがて頼朝よりともむすめ政子まさこ恋仲こいなかとなった。当初とうしょこの交際こうさい反対はんたいしていた時政ときまさであったが、結局けっきょく2にん婚姻こんいんみとめることとなり[ちゅう 4]、その結果けっか頼朝よりとも後援こうえんしゃとなる[ちゅう 5]

うけたまわ4ねん1180ねん)4がつ27にちたいら打倒だとううなが以仁王もちひとおう令旨れいし伊豆いず頼朝よりともとどくが、頼朝よりともうごかずしばらく事態じたい静観せいかんしていた。しかし源頼政みなもとのよりまさはいともない、伊豆いず知行ちぎょう国主こくしゅ平時忠たいらのときただ交代こうたいすると、伊豆いず国衙こくが実権じっけん伊東いとう掌握しょうあくして工藤くどう北条ほうじょう圧迫あっぱくした。さらに流刑りゅうけいしゃとして伊豆いず滞在たいざいしていたときちゅうもと側近そっきん山木やまきけんたかし伊豆いずこく目代もくだいとなり、また頼政よりまさまごゆうつな伊豆いずにいたが、このおいのために大庭景親おおばのかげちか本領ほんりょう下向げこうするなど、たいらかた追及ついきゅう東国とうごくにもびてきた。自身じしん危機ききなかにあることをさとった頼朝よりとも挙兵きょへい決意けついし、安達あだち盛長もりなが使者ししゃとしてあさ時代じだいから縁故えんこのある坂東ばんどうかく豪族ごうぞく協力きょうりょくびかけた。時政ときまさ頼朝よりとも挙兵きょへい計画けいかくり、山木やまきけんたかし攻撃こうげき目標もくひょうさだめた。挙兵きょへいまえに、頼朝よりとも工藤くどう茂光しげみつ土肥どい実平さねひら岡崎おかざき義実よしざね天野あまの遠景えんけい佐々木ささきもりつな加藤かとうけいれんらを一人ひとりずつ私室ししつび、それぞれと密談みつだんおこない「いま口外こうがいせざるといえども、ひとえになんじたのむによってはなす」とい、かれらに自分じぶんだけがとくたよりにされているとおもわせ奮起ふんきさせたが、「真実しんじつ密事みつじ」については時政ときまさのみがっていたという(『吾妻あづまきょううけたまわ4ねん8がつ6にちじょう)。

挙兵きょへい[編集へんしゅう]

8がつ17にち頼朝よりともぐん伊豆いずこく目代もくだい山木やまきけんたかし襲撃しゅうげきしてった。この襲撃しゅうげき時政ときまさかん拠点きょてんとなり、山木やまきかん襲撃しゅうげきには時政ときまさ自身じしんくわわっていた。この襲撃しゅうげきのち頼朝よりとも伊豆いずこく国衙こくが掌握しょうあくした。その頼朝よりとも三浦みうらとの合流ごうりゅうはかり、8がつ20日はつか伊豆いず土肥どい実平さねひら所領しょりょう相模さがみこく土肥どいきょう神奈川かながわけん湯河原ゆがわらまち)まで進出しんしゅつした。北条ほうじょう時政ときまさ父子ふし伊豆いず国武くにたけらととも頼朝よりとも従軍じゅうぐんした。しかしそのまえたいらかた大庭景親おおばのかげちから3000ふさがった。23にち景親かげちか夜戦やせん仕掛しかけ、頼朝よりともぐん大敗たいはいして四散しさんした(石橋いしばしさんたたか)。このとき時政ときまさ嫡男ちゃくなん宗時むねとき大庭おおばかた伊東いとう祐親すけちか軍勢ぐんぜいかこまれてにしている。

頼朝よりとも実平さねひららは箱根はこね権現ごんげんしゃ別当べっとう行実ぎょうじつかくまわれたのち箱根山はこねやまから真鶴まなづる半島はんとうのがれ、28にち真鶴まなづるみさき神奈川かながわけん真鶴まなづるまち)から出航しゅっこうして安房あわこく脱出だっしゅつした。一方いっぽう時政ときまさは、途中とちゅう経過けいか文献ぶんけんによってことなるが[ちゅう 6]、いずれにせよ頼朝よりともとは一旦いったんはなれて甲斐かいこくおもむき、同地どうち挙兵きょへいした武田たけだ信義のぶよし甲斐かいはじめ合流ごうりゅうすることになった。10月13にち甲斐かいはじめ時政ときまさとも駿河するが進攻しんこうし(はちでんたたか)、房総ぼうそう武蔵むさし制圧せいあつして勢力せいりょくかえした頼朝よりともぐん黄瀬川おうせがわ到達とうたつした。頼朝よりとも甲斐かいはじめ大軍たいぐんたいらぐんからは脱落だつらくしゃ相次あいつぎ、目立めだった交戦こうせんもないままたいらぐん敗走はいそうすることとなった(富士川ふじかわたたか)。その佐竹さたけ征伐せいばつ鎌倉かまくらもどった頼朝よりともは、12月12にち新造しんぞう大倉おおくらてい移徙わたましおこない、時政ときまさ御家人ごけにんともれつしている。

かめぜん事件じけん[編集へんしゅう]

うけたまわ4ねん1180ねんまつ以降いこう時政ときまさ動向どうこう鎌倉かまくら政権せいけんにおいてほか有力ゆうりょく御家人ごけにん比重ひじゅうたかまったこともあり目立めだたなくなる。寿ことぶきひさし元年がんねん1182ねん)、頼朝よりとも愛妾あいしょうかめまえ伏見ふしみひろつなたくいて寵愛ちょうあいしていたが、よりゆき出産しゅっさんにこのこと継母けいぼまきほうかららされた政子まさこ激怒げきどし、11月10にちまきほうちちまたはあにであるまきはじめおやめいじてこうつなたく破壊はかいする(後妻ごさい(うわなりうち))という事件じけんこす。12にちおこった頼朝よりともそうおやして叱責しっせきし、そうちかしたぶさってはずかしめた。これをった時政ときまさそうおやへの仕打しうちにいかり、一族いちぞくひきいて伊豆いず退いた。この騒動そうどう顛末てんまつがどうなったかは、『吾妻あづまきょう』の寿ことぶきひさし2ねん1183ねん)が欠文けつぶんのためうことができない。

もとこよみ元年がんねん1184ねん)も時政ときまさは、3月に土佐とさ書状しょじょうしたことがられる程度ていどでほとんどひょうてこなくなる。このとし甲斐かいはじめ主流しゅりゅう武田たけだ信義のぶよし失脚しっきゃくしているが、武田たけだ信義のぶよしのち駿河するが守護しゅご時政ときまさられる。駿河するがにはまき所領しょりょう大岡おおおかまきくわえ、むすめ婿むこ阿野あのちょんしげる名字みょうじである阿野あのそうもあり、縁戚えんせき所領しょりょう足掛あしがかりに空白くうはく地帯ちたいとなった駿河するがへの進出しんしゅつはかっていたとかんがえられる。

京都きょうと守護しゅご[編集へんしゅう]

文治ぶんじ元年がんねん1185ねん)3がつたいら滅亡めつぼうで5ねんちかくにおよんだうけたまわ寿ことぶきひさしらん終結しゅうけつしたが、10月になると源義経みなもとのよしつねくだり頼朝よりともたいする謀叛ぼうほん露顕ろけんする(『たま』10がつ13にちじょう)。10月18にちこう白河しらかわいん義経よしつね要請ようせいにより頼朝よりとも追討ついとう宣旨せんじくだすが、翌月よくげつ義経よしつね没落ぼつらくくるしい状況じょうきょうまれた。11月24にち頼朝よりともいのちけた時政ときまさせんへいひきいて入京にゅうきょうし、頼朝よりとも憤怒ふんぬいんげて交渉こうしょうはいった。28にち時政ときまさ吉田よしだけいぼうつう義経よしつねらのついのためとして「守護しゅご地頭じとう設置せっち」をみとめさせること成功せいこうする(文治ぶんじ勅許ちょっきょ)。時政ときまさ使者ししゃとしてえらばれたのは、頼朝よりとも岳父がくふであるからというせつ一般いっぱんてきであるが、元木もとき泰雄やすお野口のぐちみのる時政ときまさけいぼう関係かんけい重視じゅうしされたためではないかとしている[6]けいぼうだいまごである吉田よしだたかしちょう日記にっき吉口きちぐち』には、時政ときまさけいぼう以前いぜんから関係かんけいがあったことがしるされている。在庁ざいちょうかんじんであったさいつみて召こもられてしまった時政ときまさは、当時とうじ伊豆いずまもるであったけいぼう対応たいおうふかかんり、頼朝よりともけいぼう賢人けんじんであるとげた。このため頼朝よりともけいぼう信頼しんらいするようになったというものである[6]けいぼう頼朝よりとも上西かみにしもんいん蔵人くろうどつとめていたさい上司じょうしであり、頼朝よりともけいぼうふか信頼しんらいしていたとられる[7]

時政ときまさ任務にんむ京都きょうと治安ちあん維持いじたいら残党ざんとう捜索そうさく義経よしつね問題もんだい処理しょり朝廷ちょうていとの政治せいじ折衝せっしょうなど多岐たきわたり、その職務しょくむ京都きょうと守護しゅごばれるようになる。在京ざいきょうちゅう時政ときまさぐんとう検非違使けびいしちょうわたさず処刑しょけいするなど強権きょうけんてきめんられたが、その施策しさくは「ことにおいてけんじき貴賎きせん美談びだんするところなり」(『吾妻あづまきょう文治ぶんじ2ねん2がつ25にちじょう)、「公平こうへいおもわたしを忘るるがなり」(『吾妻あづまきょう文治ぶんじ2ねん3がつ24にちじょう)とおおむ好評こうひょうだった一方いっぽうで、『たま文治ぶんじ2ねん3がつ24にちじょうには「時政ときまさ九条くじょうけんに『せき』を提出ていしゅつするためにいえみなもとちょうあづけたが、ちょう時政ときまさ一連いちれん行為こういわらってしまい、『時政ときまさ田舎いなかしゃなので当然とうぜんやりかねない』とけんじつべた」とあるように、田舎いなかしゃとしてはじをかくこともあった[8]。しかし3がつ1にちになると、時政ときまさは「ななヶ国かこく地頭じとう」を辞任じにんしてそうおい使つかい地位ちいのみを保持ほじするつもりでいることをこう白河しらかわいんいんそう[ちゅう 7]、そのつきわりに一族いちぞくどきじょう以下いか35めい洛中らくちゅう警衛けいえいのこして離京りきょうした。これは、『吾妻あづまきょう文治ぶんじ2ねん2がつ25にちじょうえる時政ときまさ家来けらいによる京都きょうとでの濫妨行為こうい関係かんけいしているとられ、時政ときまさだい2の義仲よしなか義経よしつねになりうる可能かのうせいふくんでいたのである[8]後任こうにん京都きょうと守護しゅごには頼朝よりとも義弟ぎてい一条いちじょうのう就任しゅうにんした。時政ときまさ在任ざいにん期間きかんは4かげつあいだみじかいものだったが、義経よしつね失脚しっきゃく混乱こんらん収拾しゅうしゅうして幕府ばくふ畿内きない軍事ぐんじ体制たいせいさい構築こうちくし、後任こうにん役割やくわりたした。『吾妻あづまきょう』によれば、こう白河しらかわいん時政ときまさ離京りきょうひどしんだとされている[9]

鎌倉かまくら帰還きかんした時政ときまさ京都きょうとでの活躍かつやくうそのように、表立おもてだった活動かつどうせなくなる。文治ぶんじ5ねん1189ねん)6がつ6にち奥州おうしゅう征伐せいばつ戦勝せんしょう祈願きがんのため北条ほうじょうねがい成就じょうじゅいん建立こんりゅうしているが、てらのこ運慶うんけいさくしょふつはその3ねんまえ文治ぶんじ2ねん1186ねん)からつくはじめられており、本拠地ほんきょちである伊豆いず掌握しょうあくちかられていたとおもわれる。

富士ふじ巻狩まきが[編集へんしゅう]

英雄えいゆうひゃくしゅより(『源平げんぺい盛衰せいすいまき20にえる、はちまき山木やまきけんたかしったときのうた

たてひさ4ねん1193ねん)3がつこう白河しらかわいん崩御ほうぎょから1ねんぎて殺生せっしょう禁断きんだんけると、頼朝よりとも下野げやこく那須野なすのいで上野うえのこく吾妻あづまぐんさん原野げんや御家人ごけにん召集しょうしゅうしてだい規模きぼ巻狩まきがもよおした。奥州おうしゅう合戦かっせん以来いらいとなるだい規模きぼ動員どういんであり、軍事ぐんじ演習えんしゅうくわえて関東かんとう周辺しゅうへん地域ちいきたいする示威じい行動こうどうねらいもあったとられる。5月から巻狩まきがりの富士ふじ方面ほうめんうつり、駿河するが守護しゅごである時政ときまさ狩場かりば宿所しゅくしょ設営せつえいした。ところが5がつ28にちよる雷雨らいうなかで、曾我そが祐成すけなり曾我そが時致ときむね兄弟きょうだいちちかたきである工藤くどうゆうけい襲撃しゅうげきしてるという事件じけん勃発ぼっぱつする。混乱こんらんなかおおくの武士ぶし殺傷さっしょうされ、あに祐成すけなり仁田にった忠常ただつねたれ、おとうと時致ときむね頼朝よりとも宿所しゅくしょ突進とっしんしようとしてられた(曾我そが兄弟きょうだいかたき)。時致ときむね烏帽子えぼしおや時政ときまさであることから、時政ときまさ事件じけん黒幕くろまくとするせつもあるが真相しんそう不明ふめいである。

伊豆いず有力ゆうりょくしゃだったゆうけい横死おうし時政ときまさ有利ゆうりはたらいたようで、たてひさ5ねん1194ねん)11月1にち伊豆いず国一くにいちみやである三島みしま神社じんじゃ神事しんじ経営けいえいはじめて沙汰さたしている。なお、このとしの8がつには長年ながねんわたって遠江とおとうみこく実効じっこう支配しはいしていた安田やすだよしじょう反逆はんぎゃくうたがいで処刑しょけいされているが、安田やすだよしじょうのち遠江とおとうみ守護しゅご時政ときまさられる。伊豆いず駿河するが遠江とおとうみ3かこく強固きょうこ足場あしばきずいた時政ときまさは、正治しょうじ元年がんねん1199ねん)に頼朝よりとも死去しきょするとじゅうさんにん合議ごうぎせいつらね、幕府ばくふ有力ゆうりょくしゃとして姿すがたあらわすことになる。時政ときまさ頼朝よりとも生前せいぜんには無位むい無官むかんであり、御家人ごけにんなかでの序列じょれつかならずしもさい上位じょういではなかった[10]

梶原かじはら景時かげときへん[編集へんしゅう]

頼朝よりとも死後しご嫡子ちゃくしよりゆきあとぐが、頼朝よりとも在世ざいせいちゅうおさえられていた有力ゆうりょく御家人ごけにん不満ふまん噴出ふんしゅつし、御家人ごけにん統制とうせい辣腕らつわんるっていたさむらいしょ別当べっとう梶原かじはら景時かげとき弾劾だんがいけて失脚しっきゃく、12月に鎌倉かまくらから追放ついほうされた(梶原かじはら景時かげときへん)。

たま』(正治しょうじ2ねん正月しょうがつ2にちじょう)によると、武士ぶしたちからうらまれた景時かげときは、よりゆきおとうとじつあさ将軍しょうぐんてようとする陰謀いんぼうがあるとよりゆき報告ほうこくし、武士ぶしたちと対決たいけつしたがかされ、讒言ざんげん露見ろけんした結果けっか一族いちぞくとともに追放ついほうされてしまったという。時政ときまさ弾劾だんがい連判れんばんじょう署名しょめいをしていないが、景時かげとき糾弾きゅうだんのきっかけとなったのは時政ときまさむすめ阿波あわきょくであり、景時かげとき一族いちぞくが討滅された駿河するが国清くにきよせき時政ときまさ勢力せいりょくけんであることから景時かげとき失脚しっきゃく関与かんよしていた可能かのうせいたかい。

比企ひきのういんへん[編集へんしゅう]

正治しょうじ2ねん1200ねん)4がつ1にち時政ときまさ遠江とおとうみまもるにんじられ、源氏げんじ一門いちもん以外いがい御家人ごけにんとしてはじめてまもりとしての国司こくしとなった。時政ときまさ幕府ばくふないにおける地位ちいおおいに向上こうじょうしたが、将軍家しょうぐんけ外戚がいせき地位ちい北条ほうじょうからよりゆき乳母うばちちしゅうとである比企ひきのういんうつり、時政ときまさ比企ひき対立たいりつはげしくなった。たてひとし3ねん1203ねん)7がつよりゆきやまいたおれると、9月2にち時政ときまさ比企ひきのういん自邸じていして謀殺ぼうさつし、よりゆき嫡子ちゃくしいちはたやしきであるしょう御所ごしょ軍勢ぐんぜいけて比企ひきほろぼす。いでよりゆき将軍しょうぐんはいして伊豆いずこく修善寺しゅぜんじ追放ついほうした(比企ひきのういんへん)。

じつあさ擁立ようりつ[編集へんしゅう]

時政ときまさよりゆきおとうと阿波あわきょく乳母うばつとめた12さいじつあさを3だい将軍しょうぐん擁立ようりつし、自邸じてい名越なごしていむかえて実権じっけんにぎった。9月16にちにはおさなじつあさわって時政ときまさ単独たんどく署名しょめいする「関東かんとう下知げじじょう」という文書ぶんしょ発給はっきゅうされ(『鎌倉かまくら遺文いぶん』1379)、御家人ごけにんたちの所領しょりょう安堵あんど以下いか政務せいむおこなった。10月9にちには大江広元おおえのひろもとならんで政所まんどころ別当べっとう就任しゅうにんした。この時期じき時政ときまさ鎌倉かまくら殿どのであるじつあさはもちろん、おな政所まんどころ別当べっとうである大江広元おおえのひろもと権限けんげんおさえて幕府ばくふにおける専制せんせい確立かくりつしていた。たてひとし3ねん(1203ねん)に時政ときまさ初代しょだい執権しっけんいたとされるのは、こうした政治せいじてき状況じょうきょうしめすものとかんがえられている[11]。また、頼朝よりとも在世ざいせいちゅう時政ときまさ上記じょうきのとおり地味じみ存在そんざいであり、有力ゆうりょく幕臣ばくしんとして頭角とうかくあらわしたのはじゅうさんにん合議ごうぎせいあたりからである。ただ、そのあいだ領土りょうどてき地盤じばん拡充かくじゅうされており、旗揚はたあにもわずかなへいしかうごかせなかったしょう豪族ごうぞく北条ほうじょうは、三浦みうら畠山はたけやまといっただいぞく対抗たいこうるだけの軍事ぐんじりょくをもぞうするようになってきていた。

時政ときまさ政所まんどころ別当べっとう就任しゅうにんした同日どうじつ時政ときまさまきほうとのあいだまれた長女ちょうじょ婿むこ武蔵むさしもりである平賀ひらがちょうみやび京都きょうと守護しゅご職務しょくむのため鎌倉かまくらはなれた。武蔵むさしこく国務こくむ岳父がくふときせい代行だいこうすることになり、さむらいしょ別当べっとう和田わだ義盛よしもり奉行ぶぎょうにより武蔵むさしこく御家人ごけにんたいし、時政ときまさ忠誠ちゅうせいくすむねめいじられている(『吾妻あづまきょうたてひとし3ねん10がつ27にちじょう)。11月には比企ひきのういんへんにおいてびたいちはたらえられ、時政ときまさ手勢てぜいころされた。

畠山はたけやま重忠しげただらん[編集へんしゅう]

時政ときまさによる武蔵むさし支配しはい強化きょうかは、武蔵むさしこく留守るすしょそう検校けんぎょうしょくとして国内こくない武士ぶしだん統率とうそつする立場たちばにあった畠山はたけやま重忠しげただとのあいだ軋轢あつれきしょうじさせることになった。『明月めいげつ元久もとひさ元年がんねん1204ねん正月しょうがつ18にちじょうによると、きょうで「北条ほうじょう時政ときまさ畠山はたけやま重忠しげただたたかって敗北はいぼく山中さんちゅうかくれた。大江広元おおえのひろもとがすでにころされたとのことだ。」という風聞ふうぶんながれ、広元ひろもと縁者えんじゃがそのデマにさわ荷物にもつはこ騒動そうどうになるなど、両者りょうしゃ対立たいりつ周知しゅうちのこととなっていた。3月6にちには相模さがみもりにんじられ[ちゅう 8]北条ほうじょう父子ふし幕府ばくふ枢要すうようこくである武蔵むさし相模さがみ国務こくむ掌握しょうあくした。同年どうねん7がつ18にちぜん将軍しょうぐんよりゆき伊豆いずこく修善寺しゅぜんじ死去しきょしたが、『かんしょう』や『武家ぶけ年代ねんだい』『ぞうきょう』によればよりゆきおくった手勢てぜいにより、活字かつじほんうけたまわひさ』や『梅松うめまつろん』では時政ときまさおくった手勢てぜいにより暗殺あんさつされたという。

11月5にちじつちょう坊門ぼうもん信清のぶきよむすめ西八条にしはちじょう禅尼ぜんに)を正室せいしつむかえるための使者ししゃとして上洛じょうらくした嫡男ちゃくなん政範まさのりが、きょうやまいにかかり16さい急死きゅうし時政ときまさまきほう鍾愛しょうあいでありまきほう所生しょせい唯一ゆいいつ男子だんしであった政範まさのりが、畠山はたけやま重忠しげただらんからまき事件じけんへとつづ一族いちぞく内紛ないふんのきっかけとなっていく。なお、『吾妻あづまきょう』ではじつあさ正室せいしつむかえる使者ししゃとして上洛じょうらくした御家人ごけにん代表だいひょう政範まさのり1人ひとりとしているが、『なかおう元久もとひさ元年がんねん11がつ3にちじょうによると時政ときまさもともに上洛じょうらくしていたことが確認かくにんされる[12]。『島津しまつ文書ぶんしょ』によると、時政ときまさむすめ婿むこであった重忠しげただ父子ふし勘当かんどうしたが、もとひさ2ねん1205ねん正月しょうがつ千葉ちばしげるたねのとりなしによって両者りょうしゃはいったん和解わかいしている[13]。しかし6がつ時政ときまさむすめ婿むこである平賀ひらがちょうみやび稲毛いなげ重成しげなり讒訴ざんそけて、重忠しげただ謀反むほんつみほろぼした(畠山はたけやま重忠しげただらん)。

まき事件じけん失脚しっきゃく[編集へんしゅう]

北条ほうじょう時政ときまさはかねがい成就じょうじゅいん

うるう7がつ時政ときまさまきほう共謀きょうぼうして将軍しょうぐんじつあさ殺害さつがいし、平賀ひらがちょうみやびしん将軍しょうぐんとして擁立ようりつしようとした。しかしうるう7がつ19にち政子まさこらは結城ゆうき朝光ともみつ三浦みうらよしむら長沼ながぬまそうまさしらをつかわして、時政ときまさていにいたじつあさていむかれた。時政ときまさがわについていた御家人ごけにん大半たいはんじつあさようする政子まさこ味方みかたしたため、陰謀いんぼう完全かんぜん失敗しっぱいした。なお、時政ときまさ本人ほんにんみずからの外孫そとまごであるじつあさ殺害さつがいには消極しょうきょくてきで、その殺害さつがい積極せっきょくてきだったのはまきほうであったとする見解けんかいもある[14]。だがもっとどう時代じだいちかい『かんしょう』では事件じけん首謀しゅぼうしゃ一貫いっかんして時政ときまさとしており、『吾妻あづまきょう』は北条ほうじょうである時政ときまさ擁護ようごするためにまきほう事実じじつ以上いじょう悪役あくやく仕立したてているとする見解けんかいもある[15]幕府ばくふない完全かんぜん孤立こりつ無援むえんになった時政ときまさ同日どうじつ出家しゅっけし、翌日よくじつには鎌倉かまくらから追放ついほうされ伊豆いずこく北条ほうじょう隠居いんきょさせられることになった(まき事件じけん)。

このまき事件じけんかんしては『ろくだいかちごと』では時政ときまさ陰謀いんぼう計画けいかくくわだてた、『北条ほうじょうきゅうだい』では時政ときまさ謀計ぼうけい、『れきあいだ』では時政ときまさまきほうによるじつあさ殺害さつがい成功せいこう直前ちょくぜんだったとしている。畠山はたけやま重忠しげただ殺害さつがいかんして反対はんたい立場たちばであったよし時政ときまさとの対立たいりつふかめており、時政ときまさ政子まさこらの政治せいじてき対立たいりつ背景はいけいにあったと推測すいそくされる[ちゅう 9]以後いご時政ときまさ二度にどおもて舞台ぶたいつことなく政治せいじ生命せいめいえた。

たてたもつ3ねん1215ねん)1がつ6にち腫物しゅもつのため伊豆いず死去しきょした。享年きょうねん78。

評価ひょうか[編集へんしゅう]

もない東国とうごくいち豪族ごうぞくぎなかった北条ほうじょういちだい鎌倉かまくら幕府ばくふ権力けんりょくしゃげた時政ときまさだが、畠山はたけやま重忠しげただ謀殺ぼうさつじつあさ暗殺あんさつ未遂みすい晩節ばんせつよごしたためか、子孫しそんからは初代しょだいとして祭祀さいしからはずされるなど、あまり評判ひょうばんくない人物じんぶつである。

時政ときまさまごだい3だい執権しっけん北条ほうじょうやすしとき清廉せいれんられ、頼朝よりとも政子まさこらを幕府ばくふ祖廟そびょうとしてことあるごとに参詣さんけいし、歳末さいまつ年中ねんじゅう行事ぎょうじかさなかった。しかし時政ときまさは「まき事件じけんじつあさ殺害さつがいしようとした謀反むほんじん」としてあつかわれ、仏事ぶつじおこなわれず、存在そんざい否定ひていされている[16]

やしきあとをめぐるうご[編集へんしゅう]

昭和しょうわ15ねん1940ねん)ごろに一部いちぶ研究けんきゅうしゃによって衣張山きぬばりやまふもとにある遺跡いせき時政ときまさていあとであると推定すいていされ、以降いこう神奈川かながわけん教育きょういく委員いいんかい作成さくせいした遺跡いせき地図ちず遺跡いせき台帳だいちょうにも「北条ほうじょう時政ときまさていあと」としるされてきた。しかし鎌倉かまくら平成へいせい20ねん2008ねん後半こうはん発掘はっくつ調査ちょうさ実施じっしした結果けっか時政ときまさ時代じだい遺物いぶつ発見はっけんされず、もっとふる遺構いこうでも13世紀せいき後半こうはんのものと推測すいそくされたため(時政ときまさは13世紀せいき前半ぜんはんぼっしている)、時政ときまさていあとではない可能かのうせい濃厚のうこうになり、平成へいせい21ねん2009ねん)になって「大町おおまち釈迦堂しゃかどうこう遺跡いせき」と名称めいしょう変更へんこうされた。

上記じょうき調査ちょうさ結果けっかどう遺跡いせき鎌倉かまくら時代じだい宗教しゅうきょうてき施設しせつではないかとかんがえられており、その歴史れきしてき価値かちから平成へいせい22ねん2010ねん)8がつ5にち国史こくしあととなっている[17]

系譜けいふ[編集へんしゅう]

系図けいず時政ときまさ以前いぜん[編集へんしゅう]

  • さだもり — 維将 — 維時 — 直方ちょくほうせいはんちょくかた時政ときまさ尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく
  • さだもり — 維将 — 維時 — 直方ちょくほう — 維方 — かた時政ときまさ系図けいず纂要)
  • さだもり — 維時 — 直方ちょくほう — 維方 — かた時政ときまさつづけぐんしょ類従るいじゅう
  • さだもり — 維将 — 維時 — 直方ちょくほうくもはんちょくかた時政ときまさ野津のつほん
  • さだもり — 維将 — 維時 — 直方ちょくほう — 維方 — せいはんけん時政ときまさ中条ちゅうじょう文書ぶんしょ
  • さだもり — 維時 — 直方ちょくほう — 維方 — かたけん時政ときまさにゅう来院らいいん所蔵しょぞう
  • さだもり — 維将 — 維時 — 直方ちょくほう — 維方 — もりかたせいはんけん時政ときまさ野辺のべ文書ぶんしょ
  • さだもり — 維将 — 維時 — 直方ちょくほう — 維方 — もりかたけん時政ときまさみょう本寺ほんじほん
  • さだもり — 維将 — 維時 — 直方ちょくほう — 維方 — もりかたかた時政ときまさ正宗まさむね寺本てらもと
  • さだもり — 維時 — 直方ちょくほう — 維方 — 俊則としのりかた時政ときまさ山門さんもん文書ぶんしょ
  • さだもり — 維将 — 維時 — 直方ちょくほう — 維方 — かたけん時政ときまさ指宿いぶすき系図けいず
  • さだもり — 維時 — 直方ちょくほう — 維方 — かた時政ときまさのべけいほん平家へいけ物語ものがたり
  • さだもり — 維衡 — 維度 — 維盛 — もりはじめ貞時さだときつつみ時政ときまさ源平げんぺい闘諍とうじょうろく

へんいみなあたえた人物じんぶつ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 重忠しげただ死後しご重忠しげただ旧領きゅうりょう畠山はたけやま名跡みょうせき足利あしかが義兼よしかねの庶長子ちょうし足利あしかがよしじゅん重忠しげただ未亡人みぼうじん時政ときまさおんな)と婚姻こんいんし、継承けいしょうしたというのが通説つうせつだが、異説いせつとして、じゅん婚姻こんいんした女性じょせい重忠しげただ未亡人みぼうじん時政ときまさおんな)ではなく、重忠しげただ時政ときまさおんなとのあいだまれた女性じょせいで、この女性じょせい畠山はたけやまやすしこくははであるとのせつもある。このせつ場合ばあいじゅん重忠しげただむすめ婿むこたいこく重忠しげただ外孫そとまごにあたることになる[出典しゅってん無効むこう]
  2. ^ もとこよみ元年がんねん1184ねん)6がつ源氏げんじ一門いちもん源範頼みなもとののりよりみなもとひろつな平賀ひらが義信よしのぶが、文治ぶんじ元年がんねん1185ねん)8がつにやはり源氏げんじ一門いちもん山名やまな義範よしのり大内おおうち惟義これよし足利あしかが義兼よしかね加賀かがよしどおひかり安田やすだよし源義経みなもとのよしつねがそれぞれ国司こくしとなっており、たてひさ元年がんねん1190ねん)12月には千葉ちばつねしゅう祖父そふ常胤つねたねゆずり)・梶原かじはらけいしげるちち景時かげときゆずり)・八田はった知重ちえちちゆずり)がひだり兵衛ひょうえじょうに、三浦みうらよしむらちち義澄よしずみゆずり)・葛西かさい清重きよしげみぎ兵衛ひょうえじょうに、和田わだ義盛よしもり佐原さはらよしれん足立あだちとおもと左衛門尉さえもんのじょうに、小山こやま朝政ともまさ比企ひきのういんみぎ衛門えもんじょうにそれぞれ任官にんかんしている。
  3. ^ ただし、この婚姻こんいん時期じきについては頼朝よりとも流刑りゅうけいまえとみるせつすぎはし隆夫たかお)と頼朝よりとも挙兵きょへいとみるせつ細川ほそかわ重男しげお双方そうほう存在そんざいする。また、当時とうじ時政ときまさクラスの武士ぶし側室そくしつたなかったことから、北条ほうじょうぼう誕生たんじょう以降いこうしぼられるとする指摘してきもある(坂井さかい孝一こういち)。
  4. ^ 源平げんぺい盛衰せいすい』によると、頼朝よりとも政子まさこ関係かんけいった時政ときまさ政子まさこ伊豆いず目代もくだい山木やまきけんたかし結婚けっこんさせようとしたが、政子まさこ頼朝よりとももとはしると、一転いってんして時政ときまさ2人ふたり結婚けっこんみとめた、とある。だが、頼朝よりとも政子まさこあいだまれただいひめ年齢ねんれいけんたかし流刑りゅうけい執行しっこう時期じきかんがえるとこの逸話いつわ事実じじつであったとがたい。
  5. ^ この婚姻こんいんかんする時政ときまさかんがえとしては、このころ京都きょうとでは平清盛たいらのきよもりこう白河しらかわ法皇ほうおうあいだ対立たいりつきざしがはじめ、延暦寺えんりゃくじ強訴ごうそ安元やすもと大火たいか鹿しかだに陰謀いんぼうつづけにこっていた。在京ざいきょうして中央ちゅうおう情勢じょうせいていた時政ときまさは、たいら政権せいけんながつづかないことを見越みこして頼朝よりとも婿むことした可能かのうせいもあるとみる一方いっぽう[よう出典しゅってん]、ただたん政子まさこ熱意ねついされただけで、利害りがいもとめるとしても頼朝よりともはその貴種きしゅ在地ざいち豪族ごうぞくである伊東いとうたいする防波堤ぼうはていたす可能かのうせいがあることを多少たしょう期待きたいしたにぎないという見方みかたもある。(細川ほそかわ重男しげお頼朝よりとも武士ぶしだん』(よういずみしゃ))
  6. ^ その時政ときまさ行動こうどうは『吾妻あづまきょう』によると、一旦いったんべつルートで安房あわへとわたり、頼朝よりとも合流ごうりゅう態勢たいせいなおしが模索もさくされるなか、9月8にち甲斐かいはじめ味方みかたれる密命みつめいけて甲斐かいおもむき、15にち武田たけだ信義のぶよし一条いちじょう忠頼ただよりのいる逸見いつみやま到着とうちゃく、「頼朝よりともおおせのおもむき」をつたえる。上総かずさ広常ひろつね味方みかたにつけた頼朝よりとも20日はつか土屋つちやはじめとおだい使者ししゃとして甲斐かいおくる。24にちむねとお来訪らいほうけた甲斐かいはじめ一族いちぞくあつめ、頼朝よりとも駿河するが参会さんかいすべきか評議ひょうぎしたという。一方いっぽう、『のべけいほん平家へいけ物語ものがたり』には、「時政ときまさ敗戦はいせん頼朝よりともとはぐれてそのまま甲斐かいのがれた」「頼朝よりとも時政ときまさ生死せいしらずに、むねとお甲斐かい使者ししゃとしておくった」という記述きじゅつがあり、『吾妻あづまきょう』の記述きじゅつ齟齬そごられる。時政ときまさ単純たんじゅん甲斐かい亡命ぼうめいしていただけという解釈かいしゃくち、甲斐かいはじめ懐柔かいじゅうのため奔走ほんそうしたという逸話いつわは『吾妻あづまきょう編者へんしゃによる北条ほうじょう顕彰けんしょうのための曲筆きょくひつ可能かのうせいもある。
  7. ^ ななヶ国かこく地頭じとう」の設置せっち対象たいしょう地域ちいき畿内きない近国きんごく推定すいていされるが詳細しょうさい不明ふめいであり、そうおい使との関係かんけい明瞭めいりょうではない。現在げんざいではこの「ななヶ国かこく地頭じとう」は鎌倉かまくら時代じだい一般いっぱんてきだっただいはんさんヶ条かじょう職務しょくむとする守護しゅご荘園しょうえんおおやけりょう設置せっちされた地頭じとうではなく、段別たんべつしょうへい粮米の徴収ちょうしゅう田地でんち知行ちぎょうけん国内こくない武士ぶし動員どういんけんなど強大きょうだい権限けんげんつ「くに地頭じとう」であり、守護しゅごぜん段階だんかいとするせつ有力ゆうりょくとなっている(川合かわいやすし源平げんぺい合戦かっせん虚像きょぞうぐ』〈講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ〉講談社こうだんしゃ、1996ねん)。くに地頭じとう強大きょうだい権限けんげん反面はんめん荘園しょうえん領主りょうしゅである貴族きぞく寺社じしゃとの紛争ふんそう処理しょり国衙こくが行政ぎょうせい監督かんとくこう白河しらかわいんからの要望ようぼうなど、対応たいおうしなければならないしょ問題もんだいおおく、時政ときまさ義経よしつねくだり捜索そうさく専念せんねんしたい思惑おもわくから軍事ぐんじけんだん関係かんけい職務しょくむとするそうおい使となることをのぞんだのではないかとする見解けんかいがある(松島まつしま周一しゅういち北条ほうじょう時政ときまさ京都きょうと駐留ちゅうりゅう」『日本にっぽん文化ぶんか論叢ろんそう』9ごう、2001ねん)。
  8. ^ 武家ぶけ年代ねんだい』には「もとひささんろくにん相模さがみもり」とありもとひさ3ねん(1206ねん)6がつともめるが、『鎌倉かまくら年代ねんだい』『系図けいず纂要』『北条ほうじょうきゅうだい』『将軍しょうぐん執権しっけん次第しだい』はいずれももとひさ元年がんねん(1204ねん)3がつ6にちであり、「元年がんねん」の語句ごく欠落けつらくしているとおもわれる。
  9. ^ らん重忠しげただ無罪むざいあきらかになると、時政ときまさ稲毛いなげ重成しげなりはしばみたに重朝しげとも重成しげなりおとうと)が三浦みうらよしむら誅殺ちゅうさつされている。
  10. ^ 通説つうせつでは伊東いとう祐親すけちかむすめとされる。ただし、祐親すけちかいもうととする異説いせつもある。
  11. ^ 坂井さかい孝一こういち真名まなほん曾我そが物語ものがたりまきに「鎌倉かまくら殿どの御台みだいばんしょ」(政子まさこ)のはは曾我そが兄弟きょうだい伯母おばかれていることから、政子まさこはは宗時むねときんだ伊東いとう祐親すけちかむすめとしている[19]。また、坂井さかい当時とうじ時政ときまさクラスの武士ぶし側室そくしつ習慣しゅうかんがないため、時政ときまさ最初さいしょつまである伊東いとう祐親すけちかむすめ死後しごまきほう再婚さいこんしたと結論けつろんけたうえで、政範まさのり平賀ひらがちょうみやびつま三条さんじょうみのるせんつま宇都宮うつのみや頼綱よりつなつま坊門ぼうもん忠清ただきよつま大岡おおおかおやつままきほう河野こうの通信つうしんつままきほう推定すいていされるため、合計ごうけい7めいんだとし、宗時むねとき政子まさこ時子ときこ阿波あわきょくぼう稲毛いなげ女房にょうぼう畠山はたけやま重忠しげただつま伊東いとう祐親すけちかむすめ可能かのうせいがあるとしたうえで、時政ときまさが20さいときまれた政子まさこだい1で、12さい年下とししたときぼうだい8祐親すけちかむすめ末子まっし)であったとしている[20]。ただし『かんしょう』では大岡おおおかおやまきほうあにとあり、その場合ばあいまきほうむすめめとったとはかんがえられない。
  12. ^ 重忠しげただ死後しご重忠しげただ旧領きゅうりょう畠山はたけやま名跡みょうせき足利あしかが義兼よしかねの庶長子ちょうし足利あしかがよしじゅん重忠しげただ未亡人みぼうじん時政ときまさおんな)と婚姻こんいんし、継承けいしょうしたというのが通説つうせつだが、異説いせつとして、じゅん婚姻こんいんした女性じょせい重忠しげただ未亡人みぼうじん時政ときまさおんな)ではなく、重忠しげただ時政ときまさおんなとのあいだまれた女性じょせいで、この女性じょせい畠山はたけやまやすしこくははであるとのせつもある。このせつ場合ばあいじゅん重忠しげただむすめ婿むこたいこく重忠しげただ外孫そとまごにあたることになる。
  13. ^ 山野やまの龍太郎りゅうたろう鎌倉かまくら武士ぶし社会しゃかいにおける烏帽子えぼし親子おやこ関係かんけい」(所収しょしゅう:山本やまもと隆志たかし へん日本にっぽん中世ちゅうせい政治せいじ文化ぶんかろん射程しゃてい』(思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2012ねん)、典拠てんきょは『吾妻あづまきょうたて久元ひさもとねん1190ねん9月7にちじょう詳細しょうさい当該とうがい項目こうもく参照さんしょうのこと。
  14. ^ 甲斐かい信濃しなのはじめ綱要こうよう」(『系図けいず綜覧そうらん所収しょしゅう)の信政のぶまさこうに「元久もとひさ元年がんねんじゅういちじゅうくびふく加冠かかんたいら時政ときまさ理髪りはつ三浦みうらかいごう小五郎こごろうとしじゅう信光のぶみつ三男さんなん也、請加冠かかんいみなすんでため嘉例かれい也」とある。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 加藤かとうあきら 1984, p. 109.
  2. ^ 近藤こんどうしげるいち執権しっけん 北条ほうじょうよし三笠みかさ書房しょぼう 知的ちてききかた文庫ぶんこ、2021ねん、p.36-41
  3. ^ すぎはし隆夫たかお 1987.
  4. ^ 野口のぐちみのるせつ
  5. ^ 奥富おくとみ敬之たかゆき坂井さかい孝一こういちせつ
  6. ^ a b 野口のぐちみのる 2012, p. 32.
  7. ^ 野口のぐちみのる 2012, p. 32-33.
  8. ^ a b 野口のぐちみのるうけたまわ文治ぶんじ内乱ないらん鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつ』(清文せいぶんどう出版しゅっぱん、2014ねん
  9. ^ 野口のぐちみのる 2012, p. 48.
  10. ^ 近藤こんどうしげるいち執権しっけん 北条ほうじょうよし三笠みかさ書房しょぼう 知的ちてききかた文庫ぶんこ、2021ねん。p.36-41
  11. ^ 湯山ゆやまけんいち 1991.
  12. ^ 山本やまもとみなみ史伝しでん 北条ほうじょうよし小学館しょうがくかん、2021ねん、p135
  13. ^ 山野やまの龍太郎りゅうたろう畠山はたけやま重忠しげただ政治せいじてき遺産いさん」『武蔵むさし武士ぶし諸相しょそうつとむまこと出版しゅっぱん、2017ねん
  14. ^ 安田やすだ元久もとひさ 1986, p. 118.
  15. ^ 坂井さかい孝一こういち 2021, p. 174.
  16. ^ うえ横手よこてみやびけい 1988, p. 151–152.
  17. ^ くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース”. kunishitei.bunka.go.jp. 文化庁ぶんかちょう. 2023ねん2がつ3にち閲覧えつらん
  18. ^ 系図けいず纂要』
  19. ^ 坂井さかい孝一こういち鎌倉かまくら殿どの執権しっけん北条ほうじょうはいかに朝廷ちょうていえたか』NHK出版しゅっぱん〈NHK出版しゅっぱん新書しんしょ〉、2021ねん9がつ10日とおか ISBN 978-4-14-088661-8 P42-44.
  20. ^ 坂井さかい孝一こういち鎌倉かまくら殿どの執権しっけん北条ほうじょうはいかに朝廷ちょうていえたか』NHK出版しゅっぱん〈NHK出版しゅっぱん新書しんしょ〉、2021ねん9がつ10日とおか ISBN 978-4-14-088661-8 P48-51.
  21. ^ まきほう」『国史こくしだい辞典じてん
  22. ^ 坂井さかい孝一こういち鎌倉かまくら殿どの執権しっけん北条ほうじょうはいかに朝廷ちょうていえたか』(NHK出版しゅっぱん、2021ねん)は、彼女かのじょ伊東いとう祐親すけちかむすめ推測すいそくする(P50.)

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • うえ横手よこてまさたかし北条ほうじょうやすし』(新装しんそう吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、1988ねんISBN 4-642-05135-X 初版しょはんは1958ねん
  • 安田やすだ元久もとひさ北条ほうじょうよし』(新装しんそう吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、1986ねんISBN 978-4-642-05033-3 初版しょはんは1961ねん
  • 加藤かとうあきら日本にっぽん姓氏せいし」(井上いのうえ光貞みつさだほか『ひがしアジアにおける社会しゃかい習俗しゅうぞく学生がくせいしゃ、1984ねん。)
  • すぎはし隆夫たかお北条ほうじょう時政ときまさ出身しゅっしん北条ほうじょうじょうみなもと頼朝よりともとの確執かくしつ」『たていのちかん文學ぶんがく』1987ねん3がつ 立命館大学りつめいかんだいがくぶん学会がっかいへん
  • 湯山ゆやま賢一けんいち北条ほうじょう時政ときまさ執権しっけん時代じだい幕府ばくふ文書ぶんしょ関東かんとう下知げじじょう成立せいりつしょうこう-」『中世古なかせこ文書ぶんしょ世界せかい』、吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1991ねんISBN 978-4-642-02635-2 小川おがわしんへん
  • 佐々木ささき紀一きいち北条ほうじょう略伝りゃくでん」『米沢よねざわ史学しがくだい15ごう、1999ねん 
  • せき幸彦さちひこ北条ほうじょう時政ときまさ北条ほうじょう政子まさこ:「鎌倉かまくら」の時代じだいになったちちむすめ山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ日本にっぽんリブレット〉、2009ねん 
  • 坂井さかい孝一こういち鎌倉かまくら殿どの執権しっけん北条ほうじょうはいかに朝廷ちょうていえたか』NHK出版しゅっぱん〈NHK出版しゅっぱん新書しんしょ〉、2021ねん 
  • 野口のぐちみのる北条ほうじょう時政ときまさ上洛じょうらく」『研究けんきゅう紀要きようだい25かん京都女子大学きょうとじょしだいがく宗教しゅうきょう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ、2012ねんISSN 09149988NAID 120005541718 

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

映画えいが
テレビドラマ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]