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和田わだ義盛よしもり

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和田わだ 義盛よしもり
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき - 鎌倉かまくら時代ときよ前期ぜんき
生誕せいたん 久安ひさやす3ねん1147ねん
死没しぼつ けんれき3ねん5月3にち1213ねん5月24にち
別名べつめい 通称つうしょう小太郎こたろう
墓所はかしょ 神奈川かながわけん鎌倉かまくら由比ヶ浜ゆいがはま和田塚わだづか
神奈川かながわけん三浦みうら初声はつせまち和田わだ白旗しらはた神社じんじゃ
官位かんい 左衛門尉さえもんのじょう
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ さむらいしょ別当べっとうじゅうさんにん合議ごうぎせい
主君しゅくん みなもと頼朝よりともよりゆきじつあさ
氏族しぞく 和田わだ
父母ちちはは ちち杉本すぎもと義宗よしむねはは大庭おおばけいまましむすめ[注釈ちゅうしゃく 1]
兄弟きょうだい 義盛よしもり義茂よしもちそうみのる義胤よしたね義長よしなが小笠原おがさわらどおひかりしつ
つま 正室せいしつ度会わたらいやすしだかむすめ[注釈ちゅうしゃく 2]
側室そくしつ横山よこやま時重ときしげむすめ
常盛つねもりよし朝比奈あさひな義秀よしひで義直よしなお義重よししげ義信よしのぶ秀盛ひでもり杉浦すぎうら義国よしくに
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和田わだ 義盛よしもり(わだ よしもり)は、平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代ときよ初期しょきにかけての有力ゆうりょく御家人ごけにん武将ぶしょう初代しょだいさむらいしょ別当べっとう

三浦みうら一族いちぞくみなもと頼朝よりとも挙兵きょへい参加さんか鎌倉かまくら頼朝よりとも初期しょき武家ぶけ政権せいけんがつくられると初代しょだいさむらいしょ別当べっとうにんじられる。うけたまわ寿ことぶきひさしらんでは源範頼みなもとののりよりぐん奉行ぶぎょうとなり、山陽さんようどう遠征えんせい九州きゅうしゅうわたり、平家ひらか背後はいご遮断しゃだんした。平家ひらか滅亡めつぼう奥州おうしゅう合戦かっせん従軍じゅうぐんして武功ぶこうてた。頼朝よりとも死後しご梶原かじはら景時かげときへんでの景時かげとき弾劾だんがい追放ついほうでは中心ちゅうしんてき役割やくわりたし、比企ひきのういんへん畠山はたけやま重忠しげただらんなどの御家人ごけにんらんでは北条ほうじょうくみした。しかし、2だい執権しっけん北条ほうじょうよしとき挑発ちょうはつけて挙兵きょへいまれ、幕府ばくふぐん相手あいて鎌倉かまくらたたかうがはいし、和田わだ一族いちぞく滅亡めつぼうした(和田わだ合戦かっせん)。かん若宮わかみや大路おおじにあった。

生涯しょうがい

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さむらいしょ別当べっとう

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久安ひさやす3ねん1147ねん)、三浦みうら義明よしあきである杉本すぎもと義宗よしむねとして誕生たんじょう和田わだ坂東ばんどう八平はちへいひと三浦みうら支族しぞくで、相模さがみこく三浦みうらぐん和田わださと[注釈ちゅうしゃく 3]、あるいは安房あわこく和田わだ御厨みくりや所領しょりょうがあったことから和田わだせいとする。

うけたまわ4ねん1180ねん)8がつ22にち三浦みうら伊豆いずこくたいら打倒だとう挙兵きょへいをしたみなもと頼朝よりとも味方みかたすることをめ、頼朝よりとも合流ごうりゅうすべく義明よしあき三浦みうら義澄よしずみ以下いか500ひきいて本拠ほんきょ三浦半島みうらはんとう出立しゅったつした。義盛よしもりおとうと小次郎こじろう義茂よしもち(よししげ)もこの軍勢ぐんぜい参加さんかしている。だが、三浦みうらぜい丸子川まるこがわ酒匂川さかわがわ)までたところで、大雨おおあめ増水ぞうすいのために渡河とかできずにいた。23にちよる大庭景親おおばのかげちか三浦みうらぜいがこのさい平家へいけかた大庭景親おおばのかげちか家屋かおくはらったのをると、翌日よくじつでは三浦みうらぜい加勢かせいせんきびしくなるためよるのうちに石橋いしばしさんたたか大庭景親おおばのかげちか頼朝よりともぐん撃破げきはしてしまった[1]

頼朝よりとも行方ゆくえれずになり、やむなく三浦みうらぜい三浦みうら半島はんとうへいかえすが、24にち帰路きろ鎌倉かまくら由比ヶ浜ゆいがはま平家へいけかた畠山はたけやま重忠しげただ軍勢ぐんぜい遭遇そうぐうして合戦かっせんとなった。『源平げんぺい盛衰せいすい』によれば、武勇ぶゆうにはやる義盛よしもり畠山はたけやまじんまえ名乗なのりをあげて挑発ちょうはつしてしまい、合戦かっせんになりかかるが、双方そうほう縁者えんじゃおおいことからとりあえず和平わへいがなった。ところが事情じじょうらない義茂よしもち畠山はたけやまじん突入とつにゅうして合戦かっせんになってしまい、双方そうほう戦死せんししゃしてへい退しりぞいた(小坪こつぼ合戦かっせん)。

26にち畠山はたけやま重忠しげただ平家へいけかたわせてすうせん三浦みうら本拠ほんきょ衣笠きぬがさじょうおそった。三浦みうらぜいひがし木戸口きどぐち西にし木戸きどなかじんじんき、義盛よしもり西にし木戸口きどぐちまもるが、三浦みうら一族いちぞく先日せんじつ合戦かっせん疲労ひろうしており、やむなくしろてて海上かいじょうのがれることになった。そのさいに、89さい老齢ろうれいだった祖父そふ三浦みうら義明よしあきは「いま、このいたいのちたけまもる頼朝よりとも)にささげて、子孫しそん繁栄はんえいをはからん」とい、一人ひとりじょうのこって奮戦ふんせんしてにした(衣笠きぬがさじょう合戦かっせん[2]

義盛よしもり三浦みうら一族いちぞく海上かいじょう頼朝よりともしゅうと北条ほうじょう時政ときまさらと合流ごうりゅう。29にち安房あわひら北郡ほくそぎりょうとう頼朝よりともむかえた。『平家ひらか物語ものがたり』によれば、このとき義盛よしもりは「ちちに、子孫しそんんでも、頼朝よりともおおやけのお姿すがたればこれにぎるよろこびはない。どうか本懐ほんかいげて天下てんかをおりください。そのあかつきにはわたしさむらいしょ別当べっとうにんじてください。上総かずさかいだった伊藤いとう忠清ただきよ平家へいけからはちカ国かこくさむらいしょ別当べっとうにんじられ、その威勢いせいうらやましくおもい、いつか自分じぶんもと八幡はちまんだい菩薩ぼさつ祈願きがんいたしたのです」とねがったという[3]

9月、安房あわ集結しゅうけつした頼朝よりともかた残党ざんとう再挙さいきょはかり、各地かくち武士ぶしさんじんめいじた。そのうちでも有力ゆうりょく千葉ちば常胤つねたねには安達あだち盛長もりながが、上総かずさ広常ひろつねには義盛よしもり使者ししゃとなった。常胤つねたねただちに挙兵きょへいして頼朝よりともむかえたが、広常ひろつねはなかなかおうじなかったが6にちばん義盛よしもり広常ひろつねから常胤つねたね相談そうだん参上さんじょうするというげんかえった。頼朝よりとも安房あわはっし、房総半島ぼうそうはんとう北上ほくじょうし、千葉ちばらをくわえて隅田川すみだがわたっしたとき、広常ひろつねは2まん大軍たいぐんひきいてさんじた。広常ひろつね頼朝よりとも器量きりょうしだいではこれをるつもりだったが、頼朝よりとも威厳いげんたれて心服しんぷくしたという[4]

10月、由比ヶ浜ゆいがはまたたかった畠山はたけやま重忠しげただかわこし重頼しげより江戸えどじゅうちょうふく東国とうごく武士ぶし続々ぞくぞくさんじ、頼朝よりともぐんすうまん大軍たいぐんとなって、河内かわうちはじめ本拠ほんきょ鎌倉かまくらはいった。このさいみなもと頼朝よりとも三浦みうら義澄よしずみ以下いか三浦みうらに「畠山はたけやま重忠しげただとうみなもとたが、勢力せいりょくあるもの優遇ゆうぐうせねばことらない」と、過去かこのことでいきどおりをのこしてはならないといいきかせた。10月20にち駿河するがこく富士川ふじかわたたかで、平維盛たいらのこれもりひきいる平家へいけぐん撃破げきはした[5]

頼朝よりとも関東かんとうかためにはいり、11月には常陸ひたちこく佐竹さたけち、義盛よしもり広常ひろつね佐竹さたけ秀義ひでよしりにした。11月17にち鎌倉かまくら凱旋がいせんし、そこで関東かんとう統治とうちのためのしょ機関きかん設置せっち義盛よしもり安房あわでののぞみどおり、さむらいしょ別当べっとうにんじられた[3]。12月、鎌倉かまくら大倉おおくら頼朝よりとも御所ごしょ完成かんせい。そのいれ儀式ぎしきさいして、義盛よしもり居並いなら御家人ごけにん最前さいぜんった[6]

うけたまわ寿ことぶきひさしらん奥州おうしゅう合戦かっせん

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吾妻あづまきょう』では、その義盛よしもり罪人ざいにん処断しょだんや、平家ひらか対峙たいじする遠江とおとうみこくへの派遣はけんなどの活動かつどうをしている。源義仲みなもとのよしなかとの合戦かっせんや、一ノ谷いちのやたたかぐんちゅうにはそのえない。

もとこよみ元年がんねん1184ねん)8がつ頼朝よりともおとうとはんよりゆき平家へいけ追討ついとうのため1,000ひきいて鎌倉かまくら発向はっこうした。さむらいしょ別当べっとう義盛よしもりぐん奉行ぶぎょうとしてこの軍勢ぐんぜい従軍じゅうぐんしている。はんよりゆきぐん山陽さんようどう進軍しんぐんして九州きゅうしゅうわたり、平家へいけ包囲ほういし、退路たいろ遮断しゃだんする戦略せんりゃくであった。慎重しんちょうはんよりゆきせん大小だいしょうのことを義盛よしもりとよく相談そうだんした。ところが、遠征えんせいぐん養和ようわ飢饉ききん悪影響あくえいきょうのこっていたために兵糧ひょうろう調達ちょうたつくるしみ、瀬戸内海せとないかい平家へいけおさえられ、ふねがなく九州きゅうしゅうにもわたれずたたかいは長期ちょうきした[7]。『吾妻あづまきょうもとこよみ2ねん1がつ12にちじょうには苦戦くせんうったえるはんよりゆき記事きじがあり、そのなかで「東国とうごくものたちは、(長期ちょうきたたかいに)すこぶる退屈たいくつしており、本国ほんごくなつかしみ、和田わだ小太郎こたろう義盛よしもりまでもがひそかに鎌倉かまくらかえろうとする始末しまつです。そのものたちはうまでもありません」と報告ほうこくされている[8]

1がつ26にち遠征えんせいぐん兵船へいせん調達ちょうたつ成功せいこうし、義盛よしもり北条ほうじょうよしとき足利あしかが義兼よしかねらと豊後ぶんごこくわたった[7]豊後ぶんごあしうらたたか平家へいけかた撃破げきはし、平家へいけ背後はいご遮断しゃだん成功せいこうする。そのあいだ源義経みなもとのよしつね屋島やしまたたか勝利しょうりし、平家ひらか長門ながとこく彦島ひこしま孤立こりつした。3月25にち壇ノ浦だんのうらたたかおこなわれ、はんよりゆきぐん陸地りくち布陣ふじんして海戦かいせんおこな義経よしつねぐん支援しえんした。『平家ひらか物語ものがたり』によると義盛よしもり馬上もうえなぎさから遠矢とおやかけ、まちさんまちばし、平家へいけかたおどろかせ、自分じぶんしるしておき「このかえしてみせよ」と挑発ちょうはつした。平知盛たいらのとももり平家へいけかた強弓ごうきゅう使つかさがし、伊予いよこく住人じゅうにん仁井にいちかしきよし見事みごとがえして、義盛よしもり自慢じまんわらった。おこった義盛よしもりふねって散々さんざんたたかったという。合戦かっせんみなもと勝利しょうりわり、平家ひらか滅亡めつぼうした。

平家ひらか滅亡めつぼう大功たいこうのあった義経よしつね頼朝よりとも対立たいりつ義経よしつねぐん奉行ぶぎょうだった梶原かじはら景時かげとき讒言ざんげん[注釈ちゅうしゃく 4]したのも一因いちいんである。義盛よしもりさむらいしょ別当べっとう景時かげとき次官じかん所司しょしで、各々おのおの平家ひらか追討ついとうぐんひきいるはんよりゆき義経よしつね補佐ほさについていた。

義経よしつね頼朝よりとも謝罪しゃざいするがゆるされず、きょう挙兵きょへいはかるが失敗しっぱいし、奥州おうしゅう藤原ふじわらもとのがれた[9]文治ぶんじ5ねん1189ねん)、藤原秀衡ふじわらのひでひらのちいだたい義経よしつねころ[10]、6がつにそのくび鎌倉かまくらとどけられ、義盛よしもり景時かげとき首実検くびじっけんおこなった。

同年どうねん7がつ頼朝よりとも奥州おうしゅう藤原ふじわら討伐とうばつぐんこす(奥州おうしゅう合戦かっせん[11]義盛よしもりはこれに従軍じゅうぐんし、阿津あつしむらさんたたかたい衡・くに兄弟きょうだい大敗たいはいきっ逃亡とうぼう義盛よしもり先陣せんじんをきってこれを追撃ついげきし、くに衡とせんわした。戦後せんごくに衡をった戦功せんこうめぐって畠山はたけやま重忠しげただ論争ろんそうになっている。9月、たい衡が家人かじん裏切うらぎられてそのくび幕府ばくふぐん陣中じんちゅうおくられ、義盛よしもり重忠しげただ首実検くびじっけんおこなった。

御家人ごけにんらん

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たてひさ元年がんねん1190ねん)9がつ頼朝よりとも上洛じょうらくさいして義盛よしもり先陣せんじんたまわった。12月1にちみぎ近衛このえ大将たいしょう拝賀はいがずいへい7にんうちえらばれて参院さんいん供奉ぐぶをした[注釈ちゅうしゃく 5]。さらに、これまでの勲功くんこうとして頼朝よりとも御家人ごけにん10にん成功せいこう推挙すいきょあたえられたとき、その1人ひとりはい左衛門尉さえもんのじょうにんぜられる[注釈ちゅうしゃく 6]

たてひさ3ねん1192ねん)、さむらいしょ別当べっとうしょく梶原かじはら景時かげとき交代こうたい。『吾妻あづまきょう』によれば、けいが「いちにちだけでも」と義盛よしもりたのみ、所領しょりょうかえひまのついでにしょくあづけたが、景時かげときの奸謀によってそのままうばわれてしまったという。

たてひさ10ねん1199ねん正月しょうがつ頼朝よりとも死去しきょし、みなもとよりゆきが2だい将軍しょうぐんになると義盛よしもり宿老しゅくろうとしてじゅうさんにん合議ごうぎせいれつした。

10月、梶原かじはら景時かげとき結城ゆうき朝光ともみつ讒言ざんげんする事件じけんこる。これをった御家人ごけにんたちは激怒げきどし、義盛よしもり従弟じゅうてい三浦みうらよしむらしょしょう66にん連署れんしょでの梶原かじはら景時かげとき弾劾だんがいじょう作成さくせいして大江広元おおえのひろもと提出ていしゅつした。広元ひろもと御家人ごけにんあいだこうそうおそれて、しばらくこの弾劾だんがいじょうめていた。11月になって、それをった義盛よしもり御所ごしょ広元ひろもとい「貴殿きでん関東かんとう爪牙そうが耳目じもくとして、長年ながねんはたらいてきた。景時かげとき権威けんいおそれてしょしょう鬱憤うっぷんかくてするのは、ほうたがえるのではないか」とはげしく詰問きつもんした。やむなく、広元ひろもと弾劾だんがいじょうよりゆき披露ひろうした。景時かげとき失脚しっきゃくして鎌倉かまくら退去たいきょし、よく正治しょうじ2ねん1200ねん正月しょうがつ討伐とうばつされてほろびている(梶原かじはら景時かげときへん[12]同年どうねん2がつ景時かげとき失脚しっきゃくによって、義盛よしもりさむらいしょ別当べっとう復職ふくしょくした。

たてひとし3ねん1203ねん)、北条ほうじょう比企ひきとのあいだこうそう発生はっせい比企ひき当主とうしゅ比企ひきのういんよりゆき愛妾あいしょう嫡男ちゃくなんいちはたんだ若狭わかさきょくちちで、権勢けんせいるい幕府ばくふ実力じつりょくしゃ北条ほうじょう時政ときまさ脅威きょういとなっていた。よりゆきやまい危篤きとく状態じょうたいにあった9月2にち時政ときまさのういん謀殺ぼうさつ比企ひき一族いちぞくいちはた若狭わかさきょくようしてしょう御所ごしょもった。北条ほうじょうあま御台みだい北条ほうじょう政子まさこ御家人ごけにん比企ひき討伐とうばつめいじ、さむらいしょ別当べっとう義盛よしもりもこれに参加さんかして比企ひきほろぼされた(比企ひきのういんへん[13]

9月5にち危篤きとくから回復かいふくしたよりゆきいちはたしゅうと比企ひき一族いちぞく滅亡めつぼうって激怒げきどし、義盛よしもり仁田にった忠常ただつねてて北条ほうじょう討伐とうばつめいじる御教書みぎょうしょき、ほりちかしつかいさせとどけさせた[14]義盛よしもり思慮しりょうえで、この御教書みぎょうしょ北条ほうじょう時政ときまさとどけた。ほりちかしとらえられてころされ、仁田にった忠常ただつね北条ほうじょうによってほろぼされた。

9月7にちよりゆき将軍しょうぐんしょくうばわれ出家しゅっけさせられ、伊豆いず修善寺しゅぜんじ追放ついほうされた。わっておとうとじつあさ将軍しょうぐんしょく就任しゅうにんし、時政ときまさ初代しょだい執権しっけん就任しゅうにんする。

元久もとひさ2ねん1205ねん)6がつ北条ほうじょう時政ときまさ策謀さくぼうにより畠山はたけやま重忠しげただ謀反むほんうたがいがかけられ、時政ときまさ嫡男ちゃくなんそう大将たいしょうとする討伐とうばつぐんはっせられた[15]義盛よしもりいち大将軍だいしょうぐんとして出陣しゅつじん幕府ばくふ大軍たいぐんまえ重忠しげただとその一族いちぞくほろぼされた(畠山はたけやま重忠しげただらん)。その時政ときまさじつあさ廃立はいりつ画策かくさくするが政子まさこよし同意どういせずに失敗しっぱい失脚しっきゃくした(まき事件じけん[16]わってが2だい執権しっけん就任しゅうにんした。

うけたまわもと3ねん1209ねん)、義盛よしもり上総かずさ国司こくししょく内々ないないのぞむ。将軍しょうぐんじつあさはこれをききいれようとし政子まさこ相談そうだんするが、頼朝よりともころより御家人ごけにん受領じゅりょうとなることは停止ていしされていることを理由りゆう政子まさこ難色なんしょくしめした。実際じっさいには「頼朝よりともれい」はこう白河しらかわいんとの対立たいりつによる特殊とくしゅなケースであり、じつあさころには平賀ひらがちょうみやび八田はったとものように、御家人ごけにん受領じゅりょうとなるれいすで存在そんざいしていたため、これは政子まさこによる義盛よしもりへの牽制けんせい、あるいはいやがらせであったとするせつもある[17]。ただし政子まさこじつあさのぞむなら女性じょせいでこれ以上いじょう口出くちだしはしないともべている。義盛よしもりはなおも正式せいしき大江広元おおえのひろもとつうじて款状(嘆願たんがんしょ)を提出ていしゅつし、うけたまわ寿ことぶきひさし以来いらい勲功くんこうべ、「一生いっしょう」として上総かずさ国司くにじのぞんだ。じつあさ対応たいおう約束やくそくし、しばらくつようにめいじた。しかしねがいはききとどけられず、うけたまわもと4ねん1210ねん)6がつ後鳥羽上皇ごとばじょうこういん近臣きんしん北面ほくめん武士ぶしである藤原ふじわら秀康ひでやす上総かずさかい就任しゅうにんし、うけたまわもと5ねん1211ねん)12月になって義盛よしもりみずから款状をげている。

和田わだ合戦かっせん

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けんれき3ねん1213ねん)2がつ義盛よしもり上総かずさきたそうくだっている最中さいちゅうに、いずみちかしよりゆき遺児いじさかえ)を擁立ようりつして北条ほうじょう打倒だとうしようとする陰謀いんぼう露見ろけんいずみちかし衡のらん)。関係かんけいしゃ自白じはくから義盛よしもり義直よしなお義重よししげおい胤長たねなが関与かんよあきらかにされた[18]

3月、義盛よしもり鎌倉かまくらもどってじつあさおい赦免しゃめんねがて、ゆるされるが、おいたねちょうのみは張本人ちょうほんにんであるとしてゆるされなかった。助命じょめい嘆願たんがんおとずれた和田わだ一族いちぞく90にんひかえる将軍しょうぐん御所ごしょ南庭なんてい胤長たねながなわしばられててられ、和田わだ一族いちぞくおおきな恥辱ちじょくあたえた[19]

17にち胤長たねなが陸奥みちのくこく配流はいるとなり、鎌倉かまくらやしき没収ぼっしゅうされ、その6さいむすめかなしみからやまいとなりどう21にちくなった。義盛よしもり罪人ざいにん屋敷やしき一族いちぞくわたされるならわしであるとして自分じぶんたまわるようもとめた。このねがいはききとどけられるが、そのすぐのちらん平定へいてい手柄てがらのあった自身じしん家人かじんきむくぼこうおや安東あんどうただし胤長たねながきゅうやしきわたしてしまった[19]

かさがさねの、この挑発ちょうはつたいして、義盛よしもり横山よこやまとうはん北条ほうじょうさそ挙兵きょへい決意けついする。鎌倉かまくらでは流言飛語りゅうげんひごび、騒然そうぜんとした。4月27にち憂慮ゆうりょしたじつあさ使者ししゃ義盛よしもりやしきおくった。使者ししゃたいして、義盛よしもりは「うえじつあさ)にはまったうらみはございませんが、相州あいしゅう)のあまりの傍若無人ぼうじゃくぶじんについて仔細しさいたずねるべくわかしゃたちが用意よういしており、わたしなんも諫めているのですがききいれようとしません。すでに一味いちみ同心どうしんしており、もはやわたしちからおよびません」とこたえた。

明月めいげつけんれき3ねん5がつ9にちじょうには、はる謀反ぼうほんいずみちかし衡のらん)をこしたもの結集けっしゅうしているとの風聞ふうぶん落書らくがきがあり、首謀しゅぼうしゃ義盛よしもりである。そこで義盛よしもりみずか弁明べんめいし、じつあさゆるしをた。しかし御所ごしょでは義盛よしもり粛清しゅくせい密議みつぎおこなわれていた。そのうごきをさっした義盛よしもりはさらにへいあつめ、謀反むほん計画けいかくてたとある。『れきあいだ』には義盛よしもり息子むすこたちがよりゆき遺児いじ擁立ようりつはかり、義盛よしもりもそれに同意どういしたことから合戦かっせんとなったとしている。

挙兵きょへいさいしてもっとたよりにしたのが、本家ほんけたる三浦みうら当主とうしゅよしむらであった。よしむら挙兵きょへいへの同心どうしん約束やくそくし、起請文きしょうもんまでいた。だが、よしむらおとうとたねよし相談そうだんして、変心へんしんして義盛よしもり謀反むほん通報つうほうした。『明月めいげつ』は義盛よしもりよしむらがそれ以前いぜんから対立たいりつ関係かんけいにあったとしており、よしむら当初とうしょから内通ないつうしていた可能かのうせいたかい。『かんしょう』は「義盛よしもり左衛門さえもん三浦みうら長者ちょうじゃふかそねみてたんとのこころざしありけり」としるしており、京都きょうとでは叔父おじ三浦みうら義澄よしずみ死後しご三浦みうら一族いちぞく家長かちょうは、義盛よしもりていたとおもわれる。

5月2にち義盛よしもり一族いちぞくとも挙兵きょへい鎌倉かまくらはげしい市街しがいせん展開てんかいされた。武勇ぶゆうられる和田わだ一族いちぞく奮戦ふんせんし、なかでも三男さんなん朝比奈あさひな義秀よしひでもっともめざましくたたかった。だが、かたには新手あらて次々つぎつぎ到着とうちゃくし、よるまでに和田わだ一族いちぞくつかれ、由比ヶ浜ゆいがはま後退こうたいして援軍えんぐんった。よく3にちあさ横山よこやまとう到着とうちゃくし、その味方みかた到着とうちゃくして、ふたたいきおいをかえした。和田わだかた意外いがい大軍たいぐんになりつつあるのをおそれたよし大江広元おおえのひろもと将軍しょうぐんじつあさ御教書みぎょうしょはっする。これにおおくの御家人ごけにんおうじ、じつあさいのちけた幕府ばくふぐん大軍たいぐんとなってかえした。夕刻ゆうこくまでに和田わだ一族いちぞく次々つぎつぎたれ、そのうち愛息あいそく義直よしなおにし、いた義盛よしもりこえをあげて悲嘆ひたん号泣ごうきゅうした。そこへ大江おおえ義範よしのり郎党ろうとうおそいかかり、ついられた。享年きょうねん67。

義重よししげ義信よしのぶ秀盛ひでもりにするが、常盛つねもり朝比奈あさひな義秀よしひでまごあさもりらは戦場せんじょうだっしてびた。

鎌倉かまくらでは八幡宮はちまんぐうさん鳥居とりいちかくの小町こまちどおがわ現在げんざい鎌倉彫かまくらぼり椿つばきどうあたりに邸宅ていたくがあった。義盛よしもり戦死せんしした由比ヶ浜ゆいがはまには、現在げんざいでも「和田塚わだづか」という供養くようづか由比ガ浜ゆいがはま3丁目ちょうめ4-7)と地名ちめいのこっている。

人物じんぶつ

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ゆみ名手めいしゅであり、武勇ぶゆうにおいて御家人ごけにん尊敬そんけいける人物じんぶつであった。さむらいしょ別当べっとうとしては、西国さいごく遠征えんせいさいにはさき東国とうごくかえろうとしたり、鎌倉かまくらない三浦みうら足利あしかがあらそったさいに、仲裁ちゅうさいにあたるべき立場たちばでありながら三浦みうらかたくわわるなど、職務しょくむたいして思慮しりょけるめんがあった。和田わだ合戦かっせんではその単純たんじゅん愚直ぐちょくさを北条ほうじょうよし利用りようされ、挑発ちょうはつけて挙兵きょへいまれる結果けっかとなった[20]

朝比奈あさひな義秀よしひでともえ御前ごぜん

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源平げんぺい盛衰せいすい』では木曾きそ義仲よしなか滅亡めつぼう義仲よしなか愛妾あいしょうであったおんな武者むしゃともえ御前ごぜん鎌倉かまくらくだり、義盛よしもりがあのようなこうものませたいと頼朝よりとももうて、ともえめとったのち朝比奈あさひな義秀よしひでまれたとしている。しかし『吾妻あづまきょう』の記録きろくによると義仲よしなか滅亡めつぼう義秀よしひではすでに9さいになっており、ともえ義秀よしひでははというのは年齢ねんれいてきにありえず、物語ものがたりじょう創作そうさくられる。また、義盛よしもりともえつまとしたとするのも『源平げんぺい盛衰せいすい』のみで、『吾妻あづまきょう』や『平家ひらか物語ものがたり』にもられないはなしである。義秀よしひで天下てんか無双むそう大力だいりきしょうされ(ぐんしょ系図けいず)、鎌倉かまくら朝比奈あさひなとうげ一夜いちやせつとおしたという伝承でんしょうをもつ豪傑ごうけつであるから、その豪傑ごうけつ義秀よしひでと、いさむともえむすけたのであろう。このような伝承でんしょうしょうじた背景はいけいあんずれば、和田わだ義盛よしもりは、さむらい別当べっとうとして屋敷やしき罪人ざいにんあずかる牢屋ろうやそなえていたから、ともえ三浦みうらかんあずかっていた可能かのうせいかんがえられる[21]

伝承でんしょう

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  • 静岡しずおかけん賀茂かもぐん南伊豆みなみいずまちのこ伝承でんしょうとして、和田わだ義盛よしもりせんやぶれたがのこり、落武者おちむしゃとなって南伊豆みなみいず青市あおいち(あおいち)にせ、そこで庄屋しょうやむすめ結婚けっこんし、子供こどもまれ、和田わだ山田やまだあらためたという。現在げんざい和田わだ義盛よしもりはかつたえられるものが、青市あおいちバス停ばすていより石廊崎いろうざきに300mほどかった場所ばしょ南伊豆みなみいずまちみなと40)に和田わだたにがあり、和田塚わだづかばれてまつられている。

画像がぞうしゅう

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 長江ながえ義景よしかげいもうと
  2. ^ ゆたか大神宮だいじんぐうななしゃ禰宜ねぎ
  3. ^ 神奈川かながわけん三浦みうら初声町和田はつせまちわだ
  4. ^ 義経よしつね驕慢きょうまん独断どくだん専行せんこう報告ほうこく
  5. ^ の6めいは、北条ほうじょうよしとき小山こやま朝政ともまさ梶原かじはら景時かげとき土肥どい実平さねひら比企ひきのういん畠山はたけやま重忠しげただ
  6. ^ 千葉ちばつねしゅう祖父そふ常胤つねたねゆずり)・梶原かじはらけいしげるちち景時かげときゆずり)・八田はった知重ちえちちゆずり)がひだり兵衛ひょうえじょう三浦みうらよしむらちち義澄よしずみゆずり)・葛西かさい清重きよしげみぎ兵衛ひょうえじょう佐原さはらよしれん足立あだちとおもと左衛門尉さえもんのじょう小山こやま朝政ともまさ比企ひきのういんみぎ衛門えもんじょうにんじられている。

出典しゅってん

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  1. ^ 西田にしだ 2021, p. 64.
  2. ^ 西田にしだ 2021, p. 81.
  3. ^ a b 西田にしだ 2021, p. 121.
  4. ^ 西田にしだ 2021, p. 97.
  5. ^ 西田にしだ 2021, p. 103.
  6. ^ 西田にしだ 2021, p. 123.
  7. ^ a b 西田にしだ 2021, pp. 156–157.
  8. ^ 西田にしだ 2021, p. 155.
  9. ^ 西田にしだ 2021, pp. 210–211.
  10. ^ 西田にしだ 2021, pp. 220–221.
  11. ^ 西田にしだ 2021, pp. 222–225.
  12. ^ 西田にしだ 2021, pp. 323–326.
  13. ^ 西田にしだ 2021, pp. 335–339.
  14. ^ 西田にしだ 2021, p. 341.
  15. ^ 西田にしだ 2021, p. 346-351.
  16. ^ 西田にしだ 2021, pp. 353–354.
  17. ^ 永井ながいすすむ鎌倉かまくらはじめさんだい 一門いちもん重臣じゅうしんみなもと将軍しょうぐん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2010ねん
  18. ^ 西田にしだ 2021, pp. 379–382.
  19. ^ a b 西田にしだ 2021, pp. 383–385.
  20. ^ 石井いしいすすむ日本にっぽん歴史れきし (7) 鎌倉かまくら幕府ばくふ中公ちゅうこう文庫ぶんこ、1974ねん
  21. ^ 鈴木すずきかほる相模さがみ三浦みうら一族いちぞくとその周辺しゅうへん―その発祥はっしょうから江戸えどまで―』新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2007ねん、91ぺーじ
  22. ^ 平井ひらいほか 1980 p.313
  23. ^ 港南こうなん歴史れきし研究けんきゅうかい 1986 p.70
  24. ^ 野庭のばの「関城せきじょう」と周辺しゅうへん 上大岡かみおおおか野庭のば横浜よこはま公式こうしきHP

史料しりょう

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 石井いしいすすむ日本にっぽん歴史れきし (7) 鎌倉かまくら幕府ばくふ中公ちゅうこう文庫ぶんこ、1974ねんISBN 412200070X
  • 平井ひらいきよしほか 1980「野庭のば関城せきじょう」『日本にっぽん城郭じょうかく大系たいけいだい6かん せんよう神奈川かながわ』p.313 新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ児玉こだまみゆき坪井つぼいきよしあし監修かんしゅう
  • 港南こうなん歴史れきし研究けんきゅうかい 1986「4・野庭のば関城せきじょうあと」『こうなんみちばたの風土記ふどき』p.70 こうみなみ歴史れきし研究けんきゅうかい
  • 桑田くわたただしおや新編しんぺん日本にっぽん合戦かっせん全集ぜんしゅう 鎌倉かまくら南北なんぼくあさへん秋田あきた書店しょてん、1990ねんISBN 4253003788
  • うえ横手よこてまさたかし鎌倉かまくら時代じだい そのひかりかげ吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2006ねん原著げんちょ1994ねん)。 
  • ささあいだ良彦よしひこ鎌倉かまくら合戦かっせん物語ものがたり雄山閣ゆうざんかく出版しゅっぱん、2001ねんISBN 4639017146
  • 西田にしだ友広ともひろ へん吾妻あづまきょう』KADOKAWA〈ビギナーズ・クラシックス 日本にっぽん古典こてん〉、2021ねん10がつ28にちISBN 9784044004071 

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