河内かわうちはじめ

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河内かわうちはじめ
家紋
笹竜胆ささりんどう代表だいひょうてき家紋かもん
かくみなもとによってことなる。
本姓ほんせい みなもと朝臣あそん
いえ 源頼信みなもとのよりのぶ
種別しゅべつ すめらぎべつ
出身しゅっしん 摂津せっつこく川辺かわべぐん多田ただ
おも根拠地こんきょち 山城やましろこく
河内かわうちこく古市ふるいちぐん壷井つぼい ほか
著名ちょめい人物じんぶつ 源頼信みなもとのよりのぶ
源頼義みなもとのよりよし
源義家みなもとのよしいえ
みなもとよしつな
源義光みなもとのよしみつ
みなもと義忠よしただ
源義朝みなもとのよしとも
源義仲みなもとのよしなか
源義経みなもとのよしつね
みなもと頼朝よりとも
みなもとよりゆき
源実朝みなもとのさねとも
支流しりゅう分家ぶんけ 水上みずかみ公家くげ
鎌倉かまくら幕府ばくふ将軍家しょうぐんけ武家ぶけ
木曽きそ武家ぶけ
足利あしかが武家ぶけ
新田にった武家ぶけ
武田たけだ武家ぶけ
よしりょう武家ぶけ
今川いまがわ武家ぶけ
細川ほそかわ武家ぶけ
佐竹さたけ武家ぶけ
小笠原おがさわら武家ぶけ
南部なんぶ武家ぶけ) など

河内かわうちはじめ諸氏しょし武家ぶけ)などかりおかせふくめ、すうおおくの系統けいとうあり。
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

河内かわうちはじめ(かわちげんじ)は、河内かわうちこく現在げんざい大阪おおさか一部いちぶ)に根拠地こんきょちいた清和せいわはじめ一流いちりゅう[1]源頼信みなもとのよりのぶ源満仲みなもとのみつなか三男さんなん)をとする。

概要がいよう[編集へんしゅう]

河内かわうちはじめ[編集へんしゅう]

清和せいわはじめ武士ぶしだん摂津せっつこく川辺かわべぐん多田おおた兵庫ひょうごけん川西かわにし多田ただ)に最初さいしょ形成けいせいした源満仲みなもとのみつなか三男さんなん源頼信みなもとのよりのぶとする。頼信よりのぶ長兄ちょうけい摂津せっつ源氏げんじ源頼光みなもとのよりみつであり次兄じけい大和やまとはじめみなもとよりゆきおやである。

源頼信みなもとのよりのぶは、河内かわうちこく古市ふるいちぐん壷井つぼい現在げんざい大阪おおさか羽曳野はびきの壷井つぼい)を本拠地ほんきょちとし、香呂こうろほう(こうろほう)のかんてる。本拠地ほんきょちかわ内国ないこくであることから「河内かわうちはじめ」とばれる。

羽曳野はびきのには、八幡やはた太郎たろうをはじめとする河内かわうちはじめはかや、氏神うじがみ壷井つぼい八幡宮はちまんぐう壷井つぼい権現ごんげん祭神さいじんみなもと頼信よりのぶ頼義よりちかよしつな義光よしみつ)がある。

武家ぶけ棟梁とうりょう[編集へんしゅう]

河内かわうちはじめは、源頼信みなもとのよりのぶ平忠常たいらのただつねらんを、いで源頼義みなもとのよりよし源義家みなもとのよしいえぜんきゅうねんやくこうさんねんやく平定へいてい武功ぶこうかさねた。

これにともない、東国とうごく坂東ばんどう武士たけし大半たいはんたいら)のなかには、河内かわうちはじめ家人かじんとなる武士ぶしたちまれた。頼義よりちか平直方たいらのなおかたむすめめとり、その坂東ばんどうたいら嫡流ちゃくりゅう勢力せいりょく(および鎌倉かまくら)をいだ。武士ぶししたがえ、大乱たいらんおさめた武功ぶこうにより、河内かわうちはじめ嫡流ちゃくりゅう武士ぶし第一人者だいいちにんしゃ武家ぶけ棟梁とうりょう」とみなされるようになった[2]河内かわうちはじめ一部いちぶ北関東きたかんとうにも土着どちゃくはじめた(上野うえのこく新田にった下野げやこく足利あしかが常陸ひたちこく佐竹さたけなど)。

しかし、その直後ちょくごより、河内かわうちはじめは、いん貴族きぞくとの関係かんけい悪化あっかした。いんむすんだ伊勢いせたいら圧倒あっとうされ、もとらん平治へいじらん没落ぼつらくした。

みなもと頼朝よりともは、河内かわうちはじめ嫡流ちゃくりゅう価値かちかしつつ、うけたまわ寿ことぶきひさしらんせいし、鎌倉かまくら幕府ばくふひらき、征夷大将軍せいいたいしょうぐんにんぜられた。

歴史れきし[編集へんしゅう]

勃興ぼっこう斜陽しゃよう[編集へんしゅう]

河内かわうちはじめ初代しょだい源頼信みなもとのよりのぶは、源満仲みなもとのみつなか三男さんなんであり、平忠常たいらのただつねらん鎮定ちんてい坂東ばんどう勢力せいりょく扶植ふしょくし、その源頼義みなもとのよりよし頼義よりちか源義家みなもとのよしいえ八幡やはた太郎たろう)のときに、ぜんきゅうねんこうさんねんやく坂東ばんどう武士たけし一部いちぶ傘下さんかにおさめ、ときには武家ぶけ棟梁とうりょうとみなされるようになった。頼朝よりともよりゆきじつあさの「鎌倉かまくらさんだい」とぶのと同様どうよう頼信よりのぶ頼義よりちか河内かわうちはじめさんだいともいう。

河内かわうちはじめ摂津せっつ源氏げんじのように京都きょうと活動かつどう舞台ぶたいにせず坂東ばんどう拠点きょてんとしたのは、あにみなもと頼光よりみつみなもとよりゆきおや藤原ふじわら道長みちなが側近そっきんとしてつかえたのにたいし、頼信よりのぶ上野うえのかい常陸ひたちかいなど遠方えんぽう収入しゅうにゅうすくない東国とうごく受領じゅりょうとなっていたからである[3]。しかし、上記じょうきよう武功ぶこうかさね、つな賀茂かも次郎じろう)・義光よしみつしん三郎さぶろう兄弟きょうだいころには清和せいわはじめさい有力ゆうりょく勢力せいりょくとなっていた(ただし、よしつななか険悪けんあくだったという)。このころ源氏げんじ庶流は中央ちゅうおう下級かきゅうかんじんし、地方ちほうそうかんひとしとなることにより勢力せいりょくきずいていった。

しかし、晩年ばんねん次男じなん義親よしちか朝廷ちょうてい反抗はんこうしたため苦境くきょうにたたされ、河内かわうちはじめかげりがはじめる(長男ちょうなん義宗よしむね早世そうせいしている)。また、おとうとしん三郎さぶろう義光よしみつ常陸ひたちはじめ甲斐かいはじめ)とよんなんあら加賀かが入道にゅうどう義国よしくに上野うえのはじめ下野しものはじめ)が常陸ひたち合戦かっせんこし、両者りょうしゃ勅勘ちょっかんけてしまう。さらに、死後しご家督かとく継承けいしょうさかえめいほこった、三男さんなん義忠よしただ暗殺あんさつされ、当初とうしょ事件じけん主犯しゅはんとされたおとうとつな美濃みのまもる)が白河しらかわいんいのちけた、みなもと義親よしちか源為義みなもとのためよしみなもと光国みつくに美濃みのはじめ)の討伐とうばつけて壊滅かいめつ、また事件じけん真犯人しんはんにんしん三郎さぶろう義光よしみつであったことがあきらかになるなど、河内かわうちはじめ内部ないぶ分裂ぶんれつ明白めいはくになり、権勢けんせいはしばらく失墜しっついした。この背景はいけいには、河内かわうちはじめどころにしていた摂関せっかん摂関せっかん政治せいじから院政いんせいへの移行いこうがあった。

もとらん平治へいじらん[編集へんしゅう]

源為義みなもとのためよし白河しらかわいん近侍きんじしたものの、自身じしん郎党ろうとうはちなん鎮西八郎為朝ちんぜいはちろうためともひとし狼藉ろうぜき行動こうどうしんうしな摂関せっかん接近せっきんした。一方いっぽう長男ちょうなん源義朝みなもとのよしとも南関東みなみかんとう下向げこうして勢力せいりょくばし、白河しらかわいんつかえてちちとはべつ行動こうどうをとった。このさい当時とうじ武蔵むさしもり藤原ふじわら信頼しんらい接近せっきんしたとされる。あさは、あら加賀かが入道にゅうどう義国よしくにともむすぶことに成功せいこう関東かんとうちからをつけ、さらにいん影響えいきょう京都きょうと復帰ふっきした。一方いっぽうちちためあさおとうと義賢よしかたあさ支配しはいおよばない北関東きたかんとう派遣はけんした。秩父ちちぶあらそいもかかわって義賢よしかたあさ長男ちょうなん義平よしひら鎌倉かまくらあく源太げんた)と対立たいりつしたが、大蔵おおくら合戦かっせん義賢よしかた討死うちじに義平よしひらがわ勝利しょうりした。一方いっぽう中央ちゅうおうでは、白河しらかわいん寵愛ちょうあいけた伊勢いせたいら一族いちぞく平正盛たいらのまさもり地位ちいかためていく一方いっぽうで、武門ぶもんなか河内かわうちはじめ勢力せいりょく死去しきょ以降いこう相対そうたいてき低下ていかしていた。とりわけため河内かわうちはじめがそれなりの地位ちい獲得かくとくするあいだ問題もんだい行動こうどうなどが原因げんいん長年ながねん官位かんいてき逼塞ひっそくをしていた。そのなかにおいてあさ河内かわうちはじめの50ねんぶりの受領じゅりょう就任しゅうにんたすなどの躍進やくしんげた。

ためあさ対立たいりつたかしとく上皇じょうこう後白河天皇ごしらかわてんのうとのあいだこったもとらんにおいて決着けっちゃくする。たかしとく上皇じょうこうかたとなりやぶれたちちおとうと処刑しょけいしたあさは、おなじくいんがわについた義康よしやす急逝きゅうせいしたこともあり、河内かわうちはじめなか最大さいだい有力ゆうりょくしゃとなった。しかし京都きょうとでは、信西しんぜい一門いちもん二条天皇にじょうてんのう親政しんせいこう白河しらかわ院政いんせいというグループの鼎立ていりつこり、藤原ふじわら信頼しんらいむすんでいたあさおなじく信頼しんらい与力よりきした武士ぶしたちととものち白河しらかわ上皇じょうこう幽閉ゆうへい平治へいじらんくわわった。一時いちじ信頼しんらいグループは政権せいけん掌握しょうあくするが、平清盛たいらのきよもりらが秘密裏ひみつり上皇じょうこうらを救出きゅうしゅつしたことで形勢けいせい逆転ぎゃくてん敗退はいたいして信頼しんらい処刑しょけいされ、あさきょうちて東国とうごくかう。しかし、道中どうちゅう腹心ふくしん鎌田かまたまさしきよししゅうとになる尾張おわりこく長田ながたただしにかかって殺害さつがいされた。

摂津せっつ源氏げんじ源頼政みなもとのよりまさ河内かわうちはじめみなもと頼朝よりとも[編集へんしゅう]

なお、平治へいじらんでは、源頼政みなもとのよりまさ摂津せっつ源氏げんじ)は源義朝みなもとのよしともたいして独自どくじ行動こうどうをとってあさ義平よしひらたたかい、結果けっかてき平家へいけ勝利しょうり貢献こうけんしている。

そののち、源頼政みなもとのよりまさは、たいら政権せいけんでの皇位こうい継承けいしょう不満ふまんから反乱はんらん企図きとした以仁王もちひとおう協力きょうりょくする(以仁王もちひとおう挙兵きょへい)。このらん失敗しっぱいし、源頼政みなもとのよりまさおもだった一族いちぞく討死うちじにした(宇治うじ合戦かっせん)。

しかし熊野くまのひそんでいたあさ末弟ばっていみなもとこうらが以仁王もちひとおう令旨れいし全国ぜんこくつたえると、河内かわうちはじめ源義朝みなもとのよしともであるみなもと頼朝よりともみなもとのぞみよし源範頼みなもとののりよりみなもと義円ぎえん源義経みなもとのよしつね兄弟きょうだいや、源義朝みなもとのよしともおとうと源義賢みなもとのよしまさであり、頼朝よりとも従兄弟いとこにあたる源義仲みなもとのよしなか木曾きそ次郎じろう義仲よしなか)、源義光みなもとのよしみつ子孫しそん武田たけだ信義のぶよし安田やすだよしじょう甲斐かいはじめ)、山本やまもと義経よしつね柏木かしわぎ義兼よしかね近江おうみはじめ)、義国よしくに子孫しそん足利あしかが義清よしきよ下野しものはじめ)、新田にった庶流の山名やまな義範よしのり里見さとみ義成よしなり上野うえのはじめ)、みなもと頼綱よりつなとする多田ただこうつな多田ただはじめ)、みなもと頼綱よりつなおとうとくにぼうとするみなもと光長みつなが美濃みのはじめ)らが各地かくち挙兵きょへい[4]うけたまわ寿ことぶきひさしらん発生はっせいする。

当初とうしょ平家へいけ源氏げんじ圧倒あっとうしており、みなもとのぞみよしはいしている。しかし次第しだい形勢けいせい逆転ぎゃくてんして平家へいけ源義仲みなもとのよしなか京都きょうとわれた。その義仲よしなかぐん頼朝よりともぐん平家へいけどもえとなったが頼朝よりともぐん圧倒あっとうしていき、粟津あわづたたか義仲よしなかぐんを、壇ノ浦だんのうらたたか平家へいけほろぼして頼朝よりともぐん勝利しょうりした。

その鎌倉かまくら幕府ばくふ初代しょだい征夷大将軍せいいたいしょうぐんとして武家ぶけ棟梁とうりょうとなったみなもと頼朝よりとも河内かわうちはじめであったことから、河内かわうちはじめから名実めいじつともに武家ぶけ棟梁とうりょうることとなった。

摂津せっつ源氏げんじは、みなもと頼政よりまさ一族いちぞくおもだったもの宇治うじ合戦かっせん討死うちじにしたのち一族いちぞくちゅうのこったみなもとゆうつなたたかいのとき伊豆いずこくにいた)は源義経みなもとのよしつねしたがっていたため、みなもと頼朝よりとも命令めいれいたれた。また、源義経みなもとのよしつね関係かんけいふかかった摂津せっつ源氏げんじ嫡流ちゃくりゅう多田ただこうつなも、平家ひらか滅亡めつぼう多田ただそう所領しょりょう没収ぼっしゅうされ追放ついほう処分しょぶんとなった。みなもとひろつな源頼光みなもとのよりみつ以来いらい摂津せっつ源氏げんじ子孫しそんつたえることができたが、幕府ばくふひらいた頼朝よりともくらべるならばもはやいち御家人ごけにん境遇きょうぐうでしかなかった。

鎌倉かまくら時代ときよ[編集へんしゅう]

平家へいけ追討ついとう成功せいこうした頼朝よりともは、らんなか河内かわうちはじめ一門いちもんみなもと義広よしひろ佐竹さたけ秀義ひでよし常陸ひたちはじめ)、新田にった義重よししげ上野うえのはじめ)、武田たけだ信義のぶよし甲斐かいはじめ)、おとうとみなもと義経よしつね源範頼みなもとののりより)を滅亡めつぼう衰退すいたいさせ、奥州おうしゅう藤原ふじわら勢力せいりょく基盤きばんかためた。武家ぶけ政権せいけん台頭たいとうきらいその勢威せいい抑制よくせいしてきたのち白河しらかわ法皇ほうおう崩御ほうぎょすると、1192ねん征夷大将軍せいいたいしょうぐんにんぜられた。

ただし源頼朝みなもとのよりとも系統けいとうは、頼朝よりとも源実朝みなもとのさねともあにみなもとよりゆきおおやけあかつき殺害さつがいされる。そのおおやけあかつきらえられて処刑しょけいおおやけあかつき異母弟いぼていぜんあかつき加担かたんわれころされ、さらにぜんあかつき同母どうぼけいさかえいずみちかし衡のらん擁立ようりつされるもらん失敗しっぱい自害じがい、そして男系だんけい男子だんし最後さいごまでのこっていた頼朝よりとも庶子しょしさだあかつき1231ねん死去しきょして断絶だんぜつ、また男系だんけい女子じょしでもよりゆきむすめたけ御所ごしょ1234ねん死産しざんにより死去しきょしたことで、完全かんぜん断絶だんぜつした。

また、鎌倉かまくら幕府ばくふにおいて源氏げんじ一門いちもんは、血統けっとう功績こうせきとうによりみなもとせいしょうすることがゆるされる「門葉もんよう」と、みなもとせいしょうすることがかなわず、名字みょうじしょうするものに区別くべつされた。門葉もんようには信濃しなの平賀ひらが信濃しなのはじめ)・大内おおうち信濃しなのはじめ)・安田やすだ甲斐かいはじめ)・加賀かがよし甲斐かいはじめ)などのしん三郎さぶろう義光よしみつ系統けいとう足利あしかが山名やまななどのみなもと義国よしくに系統けいとうつらねたが、承久じょうきゅうらんなどによりとく宗家そうけやぶ没落ぼつらくした(足利あしかが北条ほうじょう縁戚えんせき関係かんけいむすび、有力ゆうりょく御家人ごけにんとしてつづいた)。

室町むろまち時代じだい以降いこう[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら幕府ばくふ末期まっき混乱こんらん頭角とうかくあらわした、みなもと義国よしくに次男じなん足利あしかが義康よしやすとする足利あしかが棟梁とうりょう足利尊氏あしかがたかうじは、みなもと義国よしくに長男ちょうなん新田にった義重よししげとする新田にった義貞よしさだひとし対抗たいこう勢力せいりょくやぶり、武家ぶけ棟梁とうりょうとして1338ねん征夷大将軍せいいたいしょうぐんにんじられ室町むろまち幕府ばくふひらく。足利あしかが義満よしみつ清和せいわはじめ出身しゅっしんしゃとしてはじめて源氏げんじ長者ちょうじゃとなり、その将軍しょうぐん源氏げんじ長者ちょうじゃとなるみちひらいた。その足利尊氏あしかがたかうじ子孫しそん鎌倉かまくら公方くぼう古河ふるかわ公方くぼうしょうゆみ公方くぼう堀越ほりこし公方くぼうさかい公方くぼう阿波あわ公方くぼうなどにわかれた。

また、足利あしかが庶流で「一家いっか」とされたよしりょう渋川しぶかわ石橋いしばし、「さん管領かんりょう」の斯波しば畠山はたけやま細川ほそかわ、「よんしょく」の一色いっしきほか山名やまな新田にった庶流)、土岐とき美濃みのはじめ)が中央ちゅうおう台頭たいとうし、地方ちほうでは九州きゅうしゅう探題たんだい渋川しぶかわ駿河するが遠江とおとうみ守護しゅご歴任れきにんした今川いまがわよしりょう庶流)、奥州おうしゅう探題たんだい大崎おおさき斯波しば庶流)、はねしゅう探題たんだい最上もがみ斯波しば庶流)が台頭たいとうした。

源頼義みなもとのよりよし系統けいとう[編集へんしゅう]

源義家みなもとのよしいえ系統けいとう[編集へんしゅう]

石川いしかわ[編集へんしゅう]

源義家みなもとのよしいえのちいだ河内かわうちはじめよんだいみなもと義忠よしただ京都きょうと進出しんしゅつし、河内かわうちはじめ本拠地ほんきょち石川いしかわそうは、なんみなもとよしとき陸奥むつ五郎ごろう)が相続そうぞくまもる。あに義忠よしただ死後しご石川いしかわとめじゅうし、子孫しそん石川いしかわはじめ、さらに石川いしかわばれる。

源義朝みなもとのよしとも系統けいとう[編集へんしゅう]

らがいる(以上いじょう誕生たんじょうじゅん)。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

点線てんせん養子ようし

 
 
 
 
 
 
清和せいわ天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さだじゅん親王しんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
清和せいわはじめ
源経基みなもとのつねもと
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まんなか
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
摂津せっつ源氏げんじ
頼光よりみつ
大和やまとはじめ
よりゆきおや
河内かわうちはじめ
1頼信よりのぶ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2頼義よりちかよりゆききよし
村上むらかみ
よりゆき
井上いのうえ
よりゆきにん
河内かわうち
義政よしまさ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3つな
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義光よしみつかいほまれ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義弘よしひろよししゅん義明よしあき義仲よしなか義範よしのりこう義直よしなお
石橋いしばし
ぎょう
佐竹さたけ
じつひかり
石井いしい
義清よしきよ
甲斐かいはじめ
もりよし
平賀ひらが
親義ちかよし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義宗よしむね義親よしちか
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
4義忠よしただ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義国よしくによしとき
石川いしかわ
義隆よしたか
毛利もうり
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ちゅうむね義信よしのぶよししゅんおややすし5ためよし義行よしゆきそうきよし経国けいこく義高よしたかちゅうむね義清よしきよ義雄よしお義重よししげ
新田にった
義康よしやす
足利あしかが
季邦すえくに
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
のべろう義政よしまさ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
もりけい
稲沢いなざわ
義成よしなり
 
 
 
義久よしひさ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
よししゅん
 
 
 
義高よしたか
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6あさ義賢よしかた
木曾きそ
義広よしひろよりゆきけんよりゆきなかためむねためなり為朝ためともためなかくだり
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義平よしひら朝長ともなが7頼朝よりとももんまれよしはんよりゆきちょんしげる義円ぎえん義経よしつね
 
 
 
 
 
 
ひかり
新宮しんぐう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
8よりゆき9じつあさ
 
 
 
希望きぼう
土佐とさよしりょう
はんえんどきもとよりゆきぜん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 河内かわうちはじめ概要がいよう成立せいりつについては、元木もとき泰雄やすおちょ河内かわうちはじめ』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ2011ねん)2ぺーじ~29ぺーじくわしい。
  2. ^ 元木もとき泰雄やすお河内かわうちはじめ』2011ねん,ⅲ-ⅴぺーじ
  3. ^ 元木もとき泰雄やすお河内かわうちはじめ』p.20
  4. ^ ただし佐竹さたけ常陸ひたちはじめ)はたいらくみした。

参照さんしょう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 元木もとき泰雄やすおちょ河内かわうちはじめ』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、2011ねんISBN 4121021274

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]