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みなもとこう

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みなもと こう
みなもとこう中央ちゅうおう)/『平家ひらか物語ものがたり絵巻えまき』より
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき - 鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき
生誕せいたん 永治えいじ元年がんねん1141ねん)から康治こうじ2ねん1143ねんごろ[ちゅう 1]
死没しぼつ 文治ぶんじ2ねん5月12にち1186ねん6月1にち
改名かいめい 本名ほんみょう義盛よしもりのちくだりあらためる。
別名べつめい 新宮しんぐう十郎じゅうろう十郎じゅうろう蔵人くろうどよししゅん
官位かんい したがえはちじょういん蔵人くろうど備後びんごもり備前びぜんもり
氏族しぞく 清和せいわはじめためよしながれ河内かわうちはじめ
父母ちちはは ちち源為義みなもとのためよしははしょう鈴木すずき重忠しげただむすめ?)
兄弟きょうだい あさ義賢よしかた義広よしひろよりゆきけんよりゆきなかためむね
ためなり為朝ためともためなかくだり鳥居とりい禅尼ぜんに
ひかりくだりよりゆき西にしじょうくだりひろし
山田やまだ重忠しげただしつ
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くだり大敗たいはいきっした墨俣すのまたがわたたかいのいしぶみ岐阜ぎふけん安八あんぱちぐん墨俣すのまたまち

みなもと こう(みなもと の ゆきいえ)は、平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代ときよ初期しょきにかけての武将ぶしょう河内かわうちはじめだいだい源為義みなもとのためよしじゅうなんはじめの名乗なのりを義盛よしもり(よしもり)という。新宮しんぐう十郎じゅうろう新宮しんぐうゆきとも。

以仁王もちひとおう挙兵きょへいともない、諸国しょこくみなもと以仁王もちひとおう令旨れいしつたあるき、平家ひらか打倒だとう決起けっきうながした。

そのみなもと頼朝よりとも対立たいりつふかまり、文治ぶんじ2ねん1186ねん)、捕縛ほばく斬首ざんしゅされた。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

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永治えいじ年間ねんかんから康治こうじ年間ねんかん1140年代ねんだい前半ぜんはん)のはじめに、源為義みなもとのためよしじゅうおとことしてまれる。ははつたわっていない(鈴木すずき重忠しげただむすめとも)。おいであるみなもと頼朝よりともとはどう世代せだいたる。

熊野くまの三山さんざん要職ようしょくいていた新宮しんぐうべつ当家とうけ嫡流ちゃくりゅうくだりはん(のちに19だい熊野くまの別当べっとう就任しゅうにん)のつまとなった鳥居とりい禅尼ぜんに(たつたはらの女房にょうぼう)の同母どうぼおとうと

しばらく熊野くまの新宮しんぐうんでいたため新宮しんぐうじゅうろうしょうした。『平治へいじ物語ものがたり』には平治へいじ元年がんねん1159ねん)の平治へいじらんにおいて、長兄ちょうけい源義朝みなもとのよしともかたとしてさんけいみなもと義範よしのり義憲よしのり)とともに参戦さんせんしたとあるが、具体ぐたいてき活動かつどうしるされておらず、『吾妻あづまきょう』などにそれを裏付うらづける記述きじゅつもない。はいした朝方あさがたとして参戦さんせんしていればきびしい処罰しょばつまぬかれないため、『平治へいじ物語ものがたり』の記述きじゅつには疑問ぎもんがある。

うけたまわ4ねん1180ねん)、摂津せっつ源氏げんじ源頼政みなもとのよりまさされ、山伏やまぶしふんして以仁王もちひとおう平家ひらか追討ついとう令旨れいし各地かくちみなもと伝達でんたつした。はちじょういん蔵人くろうどされ、くだり改名かいめいしたのはこのときである。なお『平家ひらか物語ものがたりさとし一本いっぽんによると、くだりうごきは熊野くまの別当べっとうたたえぞう気付きづかれて平家へいけかた密告みっこくされ、以仁王もちひとおう挙兵きょへい露見ろけんする原因げんいんになったという[ちゅう 2]

挙兵きょへい[編集へんしゅう]

おいみなもと頼朝よりとも決起けっきうながしたのもくだりであるが、頼朝よりとも麾下きかにははいらず独立どくりつ勢力せいりょく志向しこうした。三河みかわこく尾張おわりこく勢力せいりょくけんきずきつつあったものの、養和ようわ元年がんねん1181ねん)、おなじくおい義円ぎえんらととも尾張おわりこく墨俣すのまたがわたたか三河そうごこく矢作川やはぎかわたたかかいわた平重衡たいらのしげひら平家へいけかた交戦こうせん壊滅かいめつてき敗北はいぼくきっし、頼朝よりとものもとにのがれて相模さがみこく松田まつだいた。しかし、頼朝よりとも所領しょりょうもとめるも拒否きょひされたため対立たいりつ以降いこうはおなじくおい源義仲みなもとのよしなか幕下まくしたはしっている[ちゅう 3]義仲よしなかしたでは能登のとこく志保しほやまたたか参加さんか上洛じょうらくたっては伊賀いが方面ほうめんから進攻しんこうたいら家継いえつぐ合戦かっせんえんじた[3]

入京にゅうきょう[編集へんしゅう]

寿ことぶきひさし2ねん1183ねん)、義仲よしなかとともに入京にゅうきょうこう白河しらかわいんまえでは義仲よしなか序列じょれつあらそい、あいならんで前後ぜんごせずに拝謁はいえつした。朝議ちょうぎ結果けっか勲功くんこうだいいち頼朝よりともだい義仲よしなかだいさんくだりという順位じゅんい確認かくにんされ、したがえ備後びんごもり叙任じょにんされるが、義仲よしなかがあるとして不満ふまんべ、すぐに備前びぜんもりに遷任する。さらに平家ひらかぼつかんりょうのうち90かしょあまりをあたえられている[4]山村さんそんそだちで無骨ぶこつ義仲よしなか法皇ほうおう貴族きぞくらの不興ふきょう一方いっぽう近国きんごくそだちで弁舌べんぜつくだり院内いんないにいりびたり、法皇ほうおう双六すごろく相手あいてなどをしてった。しかしほどなく義仲よしなかとも不和ふわとなり、危険きけんかんじて、平家ひらか討伐とうばつりてきょう脱出だっしゅつ播磨はりまこく平知盛たいらのとももりじゅう衡軍との室山むろやまたたかでまたしても敗北はいぼくきっし、河内かわうちこく長野ながのじょうもったが、そこでも義仲よしなか派遣はけんした樋口ひぐち兼光かねみつやぶれて紀伊きいこくめいくさんだ。生来せいらい交渉こうしょうりょくがあり、扇動せんどうしゃとしてのざい権謀術数けんぼうじゅっすうけてはいたが、軍略ぐんりゃくめんでの才能さいのうにはとぼしかったようである[ちゅう 4]

最期さいご[編集へんしゅう]

義仲よしなか頼朝よりとも派遣はけんした頼朝よりともおとうと源範頼みなもとののりより義経よしつね兄弟きょうだい軍勢ぐんぜいたれたのちくだりもとこよみ元年がんねん1184ねん)2がついんしによって帰京ききょうしている。その鎌倉かまくらはじめぐんによる平家ひらか追討ついとうには参加さんかしておらず、おい義経よしつね接近せっきんしながらも鎌倉かまくら参向さんこうしようとはせず、なか独立どくりつした立場たちばをとって和泉いずみこく河内かわちこく河内かわうちはじめ本拠地ほんきょち)を支配しはいしていた。もとこよみ2ねん/文治ぶんじ元年がんねん1185ねん)8がつ頼朝よりともくだり討伐とうばつはかると、くだり壇ノ浦だんのうらたたかのち頼朝よりとも不和ふわとなっていた義経よしつねむすび、10月にはん頼朝よりとも勢力せいりょく結集けっしゅうしてこう白河しらかわいんから頼朝よりとも追討ついとう院宣いんぜんけ、「四国しこく地頭じとう」に補任ほにんされる(義経よしつねは「きゅうこく地頭じとう」)。しかしくだりらに賛同さんどうする武士ぶしだん連中れんちゅうすくなく、頼朝よりとも鎌倉かまくらから大軍たいぐんひきいて上洛じょうらくするかまえをせると、11月3にちくだり義経よしつねいちぎょうちた。途中とちゅうで、同族どうぞくである摂津せっつ源氏げんじ多田ただこうつならの襲撃しゅうげきけこれを撃退げきたいするも(かわしりたたか)、大物おおものうら暴風雨ぼうふううにあって西国さいこく渡航とこう失敗しっぱいしたのちは、次第しだいまれ、逃亡とうぼうすえ和泉いずみこくにちぐん近木こぎきょう在庁ざいちょうかんじん日向ひゅうが権守ごんもり清実きよみ屋敷やしき(のちのはたけ中城なかしろ)に潜伏せんぷくする。よく文治ぶんじ2ねん1186ねん)の5がつ地元民じもとみん密告みっこくにより露顕ろけんし、鎌倉かまくら幕府ばくふからいのちけた北条ほうじょうじょう手兵しゅへいによってらえられ、山城やましろこく赤井あかい河原かわらにて長男ちょうなんひかり次男じなんくだりよりゆきとともに斬首ざんしゅされた。40すうさいだったという。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

日付ひづけ旧暦きゅうれきであることに注意ちゅうい

系譜けいふ[編集へんしゅう]

尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』の記述きじゅつによれば、長男ちょうなん家光いえみつひかり)の子孫しそんが5だいまでかんじんとして存続そんぞくしており、また三男さんなんそうとなった中納言ちゅうなごんぼう西にしじょうためさだ尾張おわりこく中野なかの居住きょじゅうして中野なかのげんさんしょうしたという。戦国せんごく時代じだいには、織田おだ信長のぶなが家臣かしんとしてえる中野なかの一安いちやすためさだ後裔こうえいしょうしたほか、おなじく新宮しんぐう当主とうしゅ新宮しんぐうゆきあさ熊野くまの別当べっとう出身しゅっしん諸説しょせつがあるなど明確めいかく系譜けいふ不明ふめいだが、くだり末裔まつえいしょうした。

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

小説しょうせつ
映画えいが
テレビドラマ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 生年せいねんははっきりしていないが、『もと物語ものがたり』にえるあに為朝ためともおとうとおつわか年齢ねんれいからの推測すいそく[1]。『きち』の1183ねん入京にゅうきょう印象いんしょうとし40あまり」の記述きじゅつとも合致がっちする。
  2. ^ 令旨れいしによって熊野くまの勢力せいりょくふたつにれて争乱そうらん発展はってんしたため、たたえぞうたいら以仁王もちひとおう謀反むほん注進ちゅうしんしたとされる[2]
  3. ^ くだりと、鎌倉かまくら攻撃こうげきした異母いぼけい志田しだ義広よしひろ庇護ひごしたことで義仲よしなか頼朝よりとも一時いちじ武力ぶりょく衝突しょうとつ寸前すんぜんとなったが、両者りょうしゃはないで義仲よしなか嫡男ちゃくなん義高よしたか頼朝よりとも長女ちょうじょだいひめ婿むことして鎌倉かまくらおくことでひとまず和議わぎ成立せいりつした。
  4. ^ 長村おさむらさちこうを「軍事ぐんじ指揮しきかんとしては無能むのうだが、工作こうさくいんとしては有能ゆうのう」と評価ひょうかしている[5]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 佐倉さくら 1996, p. 193.
  2. ^ 阪本さかもと 2005, p. 288.
  3. ^ きち
  4. ^ のべけいほん平家へいけ物語ものがたり
  5. ^ 長村おさむら 2011, p. 37.

参考さんこう書籍しょせき[編集へんしゅう]

  • 佐倉さくらゆかりやすし「「平家ひらか物語ものがたり」におけるみなもとこう」『信州大学しんしゅうだいがく人文じんぶん科学かがく論集ろんしゅう<文化ぶんかコミュニケーション学科がっかへん>』だい30かん信州大学しんしゅうだいがく人文学部じんぶんがくぶ、1996ねん3がつ、191-213ぺーじhdl:10091/11288ISSN 0288-0555NAID 120007112605 
  • 阪本さかもと敏行としゆき熊野くまの別当べっとうじんぞう生涯しょうがいとその時代じだい」『熊野くまの三山さんざん熊野くまの別当べっとう清文せいぶんどう出版しゅっぱん、2005ねん8がつ20日はつか、288ぺーじISBN 978-4-79-240587-8 
  • 長村おさむらさちみなもとこう軌跡きせき」『季刊きかんiichiko』SPRING 2011だい110ごう日本にっぽんベリエールアートセンター、2011ねん、37ぺーじ2022ねん3がつ26にち閲覧えつらん ちゅう定期ていき購読こうどくならびにバックナンバーについては、市販しはんほんとして『LIBRARY iichiko』が存在そんざい