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武士ぶしだん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
さんねん合戦かっせん絵詞えことば』「雁行がんこうみだれ」の騎馬きば武者むしゃ
さんねん合戦かっせん絵詞えことば』の「雁行がんこうみだれ」

武士ぶしだん(ぶしだん)とは、武士ぶし組織そしき集団しゅうだんし、日本にっぽん中世ちゅうせい[1]における集団しゅうだん形態けいたいす。主君しゅくん宗家そうけ頂点ちょうてんとした家族かぞく共同きょうどうたい家産かさん官僚かんりょうせいかん請負うけおいせい)である。武家ぶけ棟梁とうりょうさい頂点ちょうてん位置いちする。

日本にっぽん中世ちゅうせいにおける学術がくじゅつ用語ようごとして1930年代ねんだいから使つかわれはじめた[2][3]

武士ぶし」「武士ぶしだん」という言葉ことば[編集へんしゅう]

古代こだいでは戦闘せんとう目的もくてきため組織そしきされた集団しゅうだんを「ぐん(いくさ)」とんだ[4]律令制りつりょうせいした国家こっか軍隊ぐんたいである軍団ぐんだんも「ぐん(いくさ)」であり、おおやけ上官じょうかん部下ぶかとで組織そしきされた

たいして、「武士ぶしだん」は武士ぶし集団しゅうだん形態けいたいし、平安へいあん時代じだいに「へい(つわもの)」とばれた武力ぶりょくそうたち私的してきしたがえる集団しゅうだんからはじまり、中世ちゅうせい室町むろまち時代ときよ)にわたった。

戦後せんご初期しょきだい一線いっせん中世ちゅうせい研究けんきゅうしゃが「武士ぶし」を問題もんだいとするとき、その対象たいしょう鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつ基盤きばんとしてとらえられた「武士ぶしだん」であり、それが中世ちゅうせいてき在地ざいち支配しはい形態けいたいとセットで、「中世ちゅうせい成立せいりつ」と不可分ふかぶんなものとして研究けんきゅうされてきた経緯けいいがある。その戦後せんご初期しょき武士ぶし在地ざいち領主りょうしゅろんでは、武士ぶし武士ぶしだん同義どうぎととらえている。

武士ぶし」という言葉ことば[編集へんしゅう]

ただし、「武士ぶし」という言葉ことば自体じたい平安へいあん時代じだい使つかわれることはまれであった。「武者むしゃ」という言葉ことばなら平安へいあん時代じだい中期ちゅうきの『高山たかやま寺本てらもと往来おうらい』の、有名ゆうめいな「松影まつかげ雖武しゃ子孫しそん松影まつかげはまことに武者むしゃ子孫しそんなりと雖も)」というくだりにもてくる。『今昔こんじゃく物語ものがたりしゅう』は12世紀せいき初頭しょとう成立せいりつといわれるが、ばれかたは「へい(つわもの)」「ごうもの」である。源平げんぺい争乱そうらん時代じだい、つまり12世紀せいきまつでも「武者むしゃ」「弓箭きゅうせんやから」がおおかった。鎌倉かまくら時代ときよでも「公家くげ」にたいして「武家ぶけ」である。

武士ぶしろん遷移せんい[編集へんしゅう]

武士ぶし在地ざいち領主りょうしゅろん[編集へんしゅう]

戦後せんご中世ちゅうせい研究けんきゅうかえると、石母田いしもたただしの『中世ちゅうせいてき世界せかい形成けいせい』にはじまるだいいち世代せだいでの武士ぶし武士ぶしだんろん在地ざいち領主りょうしゅ主眼しゅがんいたものだった。「武士ぶし在地ざいち領主りょうしゅろん」とばれるものがそれである。

その代表だいひょうてき論客ろんかくである安田やすだ元久もとひさは、武士ぶしだんを「一定いってい時代じだい」における、ひとつの構造こうぞうてき特質とくしつをもったものととらえる。「一定いってい時代じだい」に存在そんざいするということは、その時代じだい社会しゃかい構造こうぞうなか存在そんざい基盤きばんつということであり、武士ぶしだん中核ちゅうかくたる武士ぶしは、たんなる武芸者ぶげいしゃではなく一定いっていの「社会しゃかいてき階級かいきゅうてき特質とくしつ」を体現たいげんしている。そこでう「社会しゃかいてき階級かいきゅうてき特質とくしつ」が「在地ざいち領主りょうしゅてき性格せいかく」なのである。そうした武士ぶし戦闘せんとう目的もくてきため集団しゅうだん組織そしきしたときそれを「武士ぶしだん」とぶとする。そして1970ねんの『東国とうごくにおける武士ぶしだん』というしょうろんでこうべる。

在地ざいち領主りょうしゅとは、封建ほうけん社会しゃかい形成けいせいにおいて、地方ちほう各地かくち実力じつりょくをもって農民のうみん土地とち支配しはいつくしていった領主りょうしゅたちであり、しだいに、古代こだい貴族きぞくたちによる支配しはい機構きこうりくずし、やがては封建ほうけん社会しゃかいになとなった階層かいそうである。
かれ在地ざいち領主りょうしゅたちは古代こだいてき支配しはい抵抗ていこうするとともに、相互そうごあいだにも闘争とうそうかえす。そうしたうごきのなかで、必然ひつぜんてき武力ぶりょく要求ようきゅうされ、武力ぶりょくをもってたたかあいだに、戦闘せんとう組織そしきとしての武士ぶしだん結集けっしゅうされ、また領主りょうしゅ相互そうごあいだ私的してき主従しゅうじゅう関係かんけいつくりだされる。こうして武士ぶし階級かいきゅうまれ、また、武士ぶし社会しゃかい形成けいせいされるのである…[5]

こうして「武士ぶしだん」を「中世ちゅうせい封建ほうけん社会しゃかいになとなる在地ざいち領主りょうしゅそう中核ちゅうかくとする戦闘せんとうてき権力けんりょく組織そしきで、内部ないぶ構造こうぞうとしては、主従しゅうじゅうてきな、階層かいそう関係かんけい(ヒエラルヒー)がみとめられるもの」と規程きていする。安田やすだ元久もとひさら、戦後せんご初期しょきの「武士ぶしろん」は「まず在地ざいち領主りょうしゅありき」であり、そして古代こだい貴族きぞく対立たいりつする階級かいきゅうとしてとらえていたことがこの一文いちぶんからくわかる。

なお、この安田やすだらの武士ぶし発生はっせいろんをデフォルメしたものが教科書きょうかしょ世界せかい定着ていちゃくし、小中学校しょうちゅうがっこうでは「自分じぶんたち土地とち自分じぶんたちまもるという有力ゆうりょく農民のうみんてきました。これが武士ぶしのはじまりです」とおしえられてきた。それが修整しゅうせいされはじめたのは比較的ひかくてき最近さいきんのことであるが、しかし研究けんきゅうしゃあいだでは40ねんちかむかしから見直みなおしがすすんでいる。

在地ざいち領主りょうしゅろんへの疑問ぎもん異論いろん[編集へんしゅう]

佐藤さとう進一しんいちは1965ねんの『南北なんぼくあさ動乱どうらん』 のなかで、武士ぶしを「武芸ぶげいをもって支配しはい階級かいきゅうつかえる職能しょくのうじんもしくは職能しょくのう集団しゅうだん」と[6]。この一文いちぶんは、武士ぶしろん正面しょうめんから展開てんかいするなかでのものではなく、南北なんぼくあさ時代じだい武士ぶしいえてき味方みかた分裂ぶんれつしたことに関連かんれんしてサラッとかれた一文いちぶんなのだが、しかしその武士ぶし武士ぶしだん研究けんきゅうおおきなインパクトをあたえた。

さらに、戸田とだかおる石母田いしもたただし安田やすだ元久もとひさらの、武士ぶし階級かいきゅう農村のうそんから権門けんもんなど古代こだい階級かいきゅうやぶ階級かいきゅうとしてまれるとする見解けんかいたいして、武士ぶしはじめから農民のうみん対立たいりつする支配しはいしゃがわであったと主張しゅちょうする。

その(鎌倉かまくら幕府ばくふの)になである武士ぶしイコール在地ざいち領主りょうしゅ発展はってん研究けんきゅうしていくとうのが従来じゅうらいのスタイルでしたが、社会しゃかい経済けいざいで、とく農民のうみん常態じょうたいからかんがえていくと、貴族きぞく武士ぶし支配しはい対象たいしょうおなじなんです。両者りょうしゃがひとのものとして民衆みんしゅう対置たいちされる様子ようす在地ざいち文章ぶんしょうるといやおうなしにわかります。そうすると、王朝おうちょう国家こっかのもとで領主りょうしゅ成立せいりつするとうことの意味いみは、かれらの権力けんりょく機構きこう国家こっか官職かんしょくをあしがかりとして出来上できあがるとうことです[7]

引用いんようした対談たいだん1974ねんのものであるが、それに先立さきだ1969ねん12月の法制ほうせい研究けんきゅうかい総会そうかいで、戸田とだかおるじつは『国衙こくが軍制ぐんせい形成けいせい過程かてい[8]発表はっぴょう、そこでべた「地方ちほう軍事ぐんじ貴族きぞく」または「辺境へんきょう軍事ぐんじ貴族きぞく[9]」という概念がいねん、そして「国衙こくが軍制ぐんせい」への着目ちゃくもくはその武士ぶしろんおおきな影響えいきょうあたえた。

そのおな研究けんきゅうかい石井いしいすすむも『院政いんせい国衙こくが軍制ぐんせい[10]』を発表はっぴょうする。おな国衙こくが軍制ぐんせいのテーマであるが、戸田とだ平安へいあん時代じだい初期しょき中期ちゅうき武士ぶし発生はっせい段階だんかいを、石井いしいはその院政いんせいについてろんじた。 その石井いしいすすむは1974ねんの『日本にっぽん歴史れきしだい12 中世ちゅうせい武士ぶしだん』のなかで、有名ゆうめい国司こくしぐん地方ちほう豪族ごうぞくぐん図式ずしきおこないながら、ぎのようにべる。

誤解ごかいおそれずに単純たんじゅんすれば武士ぶし職能しょくのうじんろんといえるが、武士ぶし在地ざいち領主りょうしゅろんだけでは不十分ふじゅうぶん側面そくめんあきらかにうきぼりにしてくれるとおもう。とく通常つうじょう、いわゆる「開発かいはつ領主りょうしゅ」や在地ざいち領主りょうしゅ登場とうじょう以前いぜんとされている段階だんかい初期しょき武士ぶしだん、「へい(つわもの)」たちにたいしてはこの見方みかたほうがより適切てきせつなばあいがおおかろう。
…とりあえず中世ちゅうせい武士ぶしだんとはなんぞやといういにたいしては、ゆみしゃ騎兵きへいとしての戦闘せんとう技術ぎじゅつ特色とくしょくとする武力ぶりょく組織そしきであって、社会しゃかい実態じったいとしては在地ざいちとむすびついた地方ちほう支配しはいしゃ であるとみておき、それ以上いじょうてんについては今後こんご検討けんとうにまつ、ということにしたい[11]

それらの学説がくせつは「武士ぶし職能しょくのうろん」とばれ、その髙橋昌明まさあきがラディカルな論客ろんかくとして登場とうじょうする。ただしそれらの分類ぶんるいけっして絶対ぜったいてきなものではない。たとえば石井いしいすすむ国衙こくが軍制ぐんせいろん発展はってんさせるとして、「国衙こくが軍制ぐんせいろん」を中心ちゅうしん武士ぶしろんずるした向井むかい龍彦たつひこは「武士ぶし職能しょくのうろん」をはげしく批判ひはんする[12][13]

武士ぶし職能しょくのうろん[編集へんしゅう]

髙橋昌明まさあきは、1975ねんの『伊勢いせたいら成立せいりつ展開てんかい[14]において、かれらが公的こうてきにはしょまもるかんじん私的してきには高貴こうき貴族きぞくの「さむらい」、世間せけんてきには一種いっしゅ傭兵ようへい隊長たいちょうであったことを、資料しりょうもとづき詳細しょうさいあかりにした[15]

そして武士ぶしきょう貴族きぞくからまれた、つまり騎馬きば弓箭きゅうせん中心ちゅうしんとした武芸ぶげいが、奈良なら平安へいあん時代じだいつうじて、支配しはい階級かいきゅうである貴族きぞくとその周辺しゅうへん面々めんめんがれ、それが中世ちゅうせい武士ぶしがれたとうことを強調きょうちょうした。

高橋たかはしはその武士ぶしろん前提ぜんていとして、身分みぶんを「出生しゅっしょう身分みぶん」と「職業しょくぎょう身分みぶん」にまずける。「出生しゅっしょう身分みぶん」とは「イヘ」[16]社会しゃかいてき格付かくづけであり、公家くげつかえる下級かきゅう貴族きぞくとその予備よびぐんさむらい階級かいきゅうとか場合ばあい該当がいとうする。そして職業しょくぎょう身分みぶんとは、平安へいあん時代じだい後期こうき上層じょうそう階級かいきゅうでの社会しゃかいてき分業ぶんぎょうが、「イヘ」への職能しょくのうとして固定こていし、その文士ぶんしたとえば陰陽いんよういえとかいうかたちで「芸能げいのう」としての家業かぎょう固定こていされ、官職かんしょくまでが世襲せしゅうされるようになる段階だんかいで、同様どうよう武士ぶしという職業しょくぎょう身分みぶん類型るいけいまれるとする[17]へい(つわもの)のいえ」「いえつぎギタルへい(つわもの)」[18]がそれにあたる。

その整理せいりうえって「かれらの経済けいざいてき基盤きばんがいかなるものであるかは、ここでは中心ちゅうしんてき問題もんだいではない。」とに挑戦ちょうせんてきにいいきる。しかしそれは髙橋昌明まさあき武士ぶしろんみずかかたるように[19]発生はっせいろん、「武士ぶしという職能しょくのう」の発生はっせいろんだからであって、髙橋昌明まさあきは、「武士ぶし」の存在そんざいの2つの側面そくめん平安へいあん時代じだい後期こうきにおける社会しゃかいてき背景はいけい十分じゅうぶん承知しょうちしている。

わかりにくいとうなら言葉ことばおぎなう。わたし見解けんかいは、武士ぶしとは社会しゃかいてき分業ぶんぎょう家業かぎょう形態けいたいをとる歴史れきしてき段階だんかいにおいて成立せいりつする職業しょくぎょう身分みぶんのひとつ、とてんにある。そして、武士ぶし武士ぶしたらしめるのは王権おうけんであるけど、その存在そんざいしん根拠こんきょは、当該とうがい社会しゃかい自力じりき救済きゅうさいてき性格せいかくとそれがかかえる矛盾むじゅんにあった[20]

ただし髙橋昌明まさあきがそうはっきりべたのは1999ねんになって、研究けんきゅうしゃからの相次あいつ批判ひはん誤解ごかいへの回答かいとう諸氏しょし批判ひはんこたえる」のなかにおいてである。

武士ぶし職能しょくのうろん以降いこう[編集へんしゅう]

1972ねん段階だんかいで、すでに「より総合そうごうてき視点してんが」という指摘してきはなされていた。うえ横手よこてまさたかしは、髙橋昌明まさあき1971ねん当時とうじしょうろん将門まさかどらん評価ひょうかをめぐって』での主張しゅちょうを『シンポジウム日本にっぽん歴史れきし5』の基調きちょうレポートにおいてこう紹介しょうかいした。

在地ざいち領主りょうしゅと、軍事ぐんじ身分みぶんとしての「さむらい」とが安易あんい同一どういつされて、社会しゃかい発展はってん史上しじょうにおける領主りょうしゅせい役割やくわりと、軍事ぐんじ身分みぶんとしてのさむらいたしてきた歴史れきしてき役割やくわりとが区別くべつされなかったという批判ひはんまれているが、この批判ひはんはあたっているとおもいます[21]

しかし髙橋昌明まさあきが「ここでは中心ちゅうしんてき問題もんだいではない」というその「ここ」、つまり「武士ぶし職能しょくのう発生はっせいろん」ではなくて、「武士ぶし」という存在そんざい全体ぜんたい、髙橋昌明まさあきがいうところの「存在そんざいしん根拠こんきょ」を理解りかいしようとするときには、在地ざいち領主りょうしゅとしての存在そんざい無視むしするわけにはいかない。うえ横手よこてまさたかしさき記述きじゅつにこうつづける。

武士ぶしだん研究けんきゅう農村のうそん解消かいしょうしてしまわないことは重要じゅうようでしょう。しかし、さむらい在地ざいち領主りょうしゅ区別くべつするのが大切たいせつであるとともに、領主りょうしゅさむらい関連かんれんづけについても、もう一度いちどかんがなおしてみる必要ひつようがあるとおもいます。そうしないであるいちめんだけを強調きょうちょうしますと、武士ぶしとかたけてき勢力せいりょくというものが、社会しゃかい発展はってん主流しゅりゅう別個べっこ存在そんざいしたアウトローてきみょうなものとられかねないいちめんがあります。

その1980年代ねんだい以降いこうでは、義江よしえ彰夫あきおせき幸彦さちひこ元木もとき泰雄やすおそのほうが、それら両論りょうろん成果せいか発展はってんさせるべくそれぞれの視点してんから積極せっきょくてきろん展開てんかいしている。そうしたながれをまえたうえで「武士ぶしだん」をかえってみることが重要じゅうようである。

武士ぶしだん」の前史ぜんし[編集へんしゅう]

へい」(つわもの)[編集へんしゅう]

平将門たいらのまさかど藤原ふじわらしげるきょう時代じだい、「武士ぶし」というかたかった。「文人ぶんじん」にたいする「武人ぶじん」、「文官ぶんかん」にたいする「武官ぶかん」とおなじような使つかやくで、「文士ぶんし」にたいする「武士ぶし」といういわれかた奈良なら平安へいあん時代じだい初期しょきにもわずかにられたが、職能しょくのうとしてはともかくとして、それはの「武士ぶし」につながるものではない。

平安へいあん時代じだい我々われわれ一般いっぱんに「武士ぶし」と認識にんしきしているものたちは「へい(つわもの)」とばれた。『今昔こんじゃく物語ものがたりしゅう』は、12世紀せいき初頭しょとうぐらいの成立せいりつとされているが、そのなかで、「武士ぶし」をかたるときは「へい(つわもの)」とばれる。たとえば平将門たいらのまさかど平貞盛たいらのさだもりそのは「といふへい(つわもの)あり」、また藤原ふじわら保昌やすまさは「へい(つわもの)のいえにあらねども」すご武勇ぶゆうで、というようにかれている。

「つわもの」の語源ごげんあきらかではないが、竹内たけうちさんは、大槻おおつき文彦ふみひこが『大言たいげんうみ』のなかで「つばぶつ(つみはもの)のりゃくにて、兵器へいきとくつば(つば)あればうとぞ」とかれていることを紹介しょうかいしながら、9世紀せいきころまでは武器ぶきした言葉ことばであることは間違まちがいがなく、10世紀せいきころから「武者むしゃ」と同義どうぎになるとする[22]。ちょうど、その10世紀せいきごろに、「へい」(つわもの)とばれる武人ぶじんが、記録きろく伝承でんしょううえ姿すがたあらわす。

辺境へんきょう軍事ぐんじ貴族きぞく[編集へんしゅう]

それに先立さきだつ9世紀せいきには、地方ちほうにおいては国衙こくが在地ざいち郡司ぐんじ豪族ごうぞく富裕ふゆうそう、あるいは前任ぜんにん国司こくし子弟していなどをふくおうしん子孫しそんたちとの武力ぶりょく衝突しょうとつ多発たはつする。また「群盗ぐんとう蜂起ほうき」も多発たはつし、関東かんとうでは寛平かんぺい延喜えんぎ東国とうごくらん僦馬のとう有名ゆうめいである。

さき藤原ふじわらとしひとしも、平将門たいらのまさかど祖父そふひら髙望も、あるいはそれ以前いぜん関東かんとう進出しんしゅつたしていた嵯峨さがはじめも、そうした「群盗ぐんとう蜂起ほうき」にたいする治安ちあん維持いじために、きょう貴族きぞく社会しゃかいなか武勇ぶゆうすぐれたものが下向げこうし、治安ちあん維持いじたったものとられている。当時とうじは「貴族きぞく」とべつに「武士ぶし」がわけではない。貴族きぞく支配しはい階級かいきゅうであり、支配しはい階級かいきゅうたる貴族きぞく本来ほんらいたけ」をそなえており、平安へいあん時代じだい初期しょき貴族きぞくの「そつでん」のなかにも、そうした「武勇ぶゆう」は沢山たくさんてくる[23]。 また、「諸国しょこく兵士へいし」とならしょうせられる「諸家しょか兵士へいし」があるように武力ぶりょく組織そしきし「たけしもうこれ」としていた[24]

10世紀せいき初頭しょとう社会しゃかい情勢じょうせい[編集へんしゅう]

その10世紀せいき初頭しょとう地方ちほう社会しゃかい経済けいざいてんじると、旧来きゅうらい郡司ぐんじ勢力せいりょく弱体じゃくたいしはじめると同時どうじに、おうしん子孫しそんふくめた新興しんこう勢力せいりょく有力ゆうりょく農業のうぎょう経営けいえいしゃ台頭たいとうはじめる。それら私営しえい経営けいえいしゃ、そして弱体じゃくたいはじめたとはいえ、いまだ一定いってい勢力せいりょくたも郡司ぐんじと、強化きょうかされた国守くにもり国衙こくが権力けんりょくとの利害りがい対立たいりつ顕在けんざいしていく。

その利害りがい対立たいりつは、きょう近国きんごくにおいては藤原ふじわらもといのちたいする「尾張おわりこく郡司ぐんじ百姓ひゃくしょうとうかいぶん」で有名ゆうめい国司こくし苛政かせい上訴じょうそとしてあらわれるが、おおくは武力ぶりょくによる衝突しょうとつまでにはならずに調整ちょうせいはかられる。しかし、きょうよりとお東国とうごくにおいては、朝廷ちょうてい貴族きぞくあいだにおける調停ちょうていなどの調整ちょうせい期待きたい出来できない。そして、そのおおくはきょう貴族きぞく縁者えんじゃである私営しえい経営けいえいしゃと、郡司ぐんじそう国衙こくが利害りがい対立たいりつ、あるいは私営しえい経営けいえいしゃ同士どうし対立たいりつ往々おうおうにして実力じつりょく行使こうしとして爆発ばくはつする。

れいが、のち平将門たいらのまさかどたおして英雄えいゆうとなる藤原ふじわらしげるきょうである。915ねん延喜えんぎ15ねん)2がつ上野うえのこくうえ(かみつけぬの)もとむねさだなみらにだいじょう藤原ふじわられんこう(つらえ)らがくわわるはん受領じゅりょう闘争とうそうがあり、受領じゅりょう藤原ふじわらあつし(あつのり)がころされる。この事件じけん隣国りんごく下野げや住人じゅうにん藤原ふじわらしげるきょう荷担かたんしていたのか、朝廷ちょうてい下野げや国衙こくがしゅうきょうとそのとう18にん配流はいる命令めいれいする。さら929ねんには下野げや国衙こくがしゅうきょうらの濫行(らんぎょう)をうったえ、朝廷ちょうてい下野げや国衙こくが隣国りんごくカ国かこくしゅうきょう追討ついとうかんすがしゅうきょうらが追討ついとうされた形跡けいせきはない。平将門たいらのまさかど叔父おじらとこうそうはじめるわずか2ねんまえのことである[25]

武士ぶし職能しょくのう[編集へんしゅう]

騎馬きば武者むしゃ[編集へんしゅう]

ぜんきゅうねんやくから『平家ひらか物語ものがたり』の時代じだいまで、武士ぶし戦闘せんとう騎馬きば武者むしゃゆみしゃ中心ちゅうしんである。もちろん、『今昔こんじゃく物語ものがたりしゅうまきだい25だい5 「平維茂たいらのこれもち藤原ふじわらしょにんばっちたるかたり」に、「騎馬きばへい70にん徒歩とほへい30にん」とあるように、歩兵ほへいもいるが、歩兵ほへい戦闘せんとう描写びょうしゃられない。基本きほんてきにはゆみしゃせんであり、騎馬きばでのち、落馬らくばかたな使つか[26]

一騎討いっきうちちのれいじつはそれほどおおくはないとされる[27]が、基本きほんてきに、騎馬きば武者むしゃによるゆみしゃせん戦闘せんとう基本きほん形態けいたいであり、個人こじんせんがベースである。それが変化へんかしてくるのは、鎌倉かまくら時代ときよわった南北なんぼくあさ時代じだい、『太平たいへい』の時代じだいである。

律令制りつりょうせい軍団ぐんだん[編集へんしゅう]

武士ぶしろん研究けんきゅうには「在地ざいち領主りょうしゅろん」と「職能しょくのうろん」という2つのながれがあることはべたが、職能しょくのうとくにその技能ぎのう弓馬きゅうば)に着目ちゃくもくすれば、律令制りつりょうせいした軍制ぐんせいから中世ちゅうせい武士ぶしまでの連続れんぞくせいがかなりあきらかになってきている[28]

一般いっぱん律令制りつりょうせいでの軍団ぐんだん歩兵ほへい中心ちゅうしんとのイメージがつよい。たしかに国民こくみん皆兵かいへいせいのような1行政ぎょうせいじょう単位たんい平均へいきん30にんぐらい)から1めい年間ねんかん60にち軍事ぐんじ訓練くんれんけるという段階だんかいでは歩兵ほへい比率ひりつこうそうにおもえるが、騎兵きへい部隊ぶたい確認かくにんされ、軍事ぐんじりょく中核ちゅうかくはそちらがになっていたようである。

792ねんのべれき11ねん)の軍団ぐんだん解消かいしょう以降いこう軍事ぐんじになった「健児けんじ」も基本きほんてきにはゆみしゃ騎兵きへいである。軍団ぐんだん解消かいしょうは、軍団ぐんだん歩兵ほへい解消かいしょうであって、うえへいである騎兵きへいは、人数にんずうとしては縮小しゅくしょうされながらも諸国しょこくにおいては「健児けんじせい」として継承けいしょうされたともえる。騎馬きば武者むしゃ中世ちゅうせい武士ぶし専売せんばい特許とっきょではなくて、ゆみしゃ騎兵きへい武力ぶりょく中心ちゅうしんという伝統でんとう律令りつりょう軍団ぐんだんから中世ちゅうせい武士ぶしまでの一貫いっかんしたスタイルである。

特種とくしゅ技能ぎのう集団しゅうだんゆみしゃ騎兵きへい[編集へんしゅう]

戦闘せんとうこた乗馬じょうばよろい、そしてうまりこなしての騎射きしゃゆみ)の訓練くんれんができるものとは、平安へいあん時代じだい後期こうきではごくいちにぎりの特種とくしゅ技能ぎのう集団しゅうだんでしかありなかったはずである。佐藤さとう進一しんいちは『南北なんぼくあさ動乱どうらん』においてこういた。

武士ぶしにはこういう特技とくぎ騎馬きばわざ)が必要ひつよう条件じょうけんとなると、うま供給きょうきゅうりょうすくない日本にっぽんでは、 高価こうかうまをもって、日夜にちや特技とくぎをみがくだけの経済けいざいてき余裕よゆうければならない。こうして武士ぶしは「武者むしゃいえ(「へいいえ」のこと)」とばれる特定とくていいえ出身しゅっしんしゃかぎられる社会しゃかい制度せいど発達はったつした[29]

また、「棟梁とうりょうきゅう武士ぶしえばたしかにてんけい勲功くんこうしゃにつながる「武者むしゃ」「へいいえ」のものだが、「武士ぶしだん」をえばかならずしもそればかりではない。たとえば、南北なんぼくあさ時代じだい武蔵むさしななとうばれたしょう武士ぶしだんは、あきらかに「へいいえ」の出身しゅっしんえるものばかりではない。

平安へいあん鎌倉かまくら時代じだい武士ぶしは「武芸ぶげいとくぎょうとする職能しょくのう集団しゅうだん」であり、その「武芸ぶげい中心ちゅうしん騎馬きばわざゆみ)」[29]であった。僦馬のとう騎馬きばをベースとした機動きどうりょく最大限さいだいげん発揮はっきした武装ぶそう集団しゅうだんであり、それを鎮圧ちんあつしようとする「へい(つわもの)」もまた騎馬きば武者むしゃでなければならなかっただろう。うまへいへいたるためのだいいち条件じょうけんであり、そのため「名馬めいば」は武士ぶし一番いちばん財産ざいさんであった。

まき」と「武士ぶし[編集へんしゅう]

平安へいあん時代じだい武士ぶし必要ひつよう条件じょうけん騎馬きばわざであった。武士ぶしさきあらそってそのなかでもおおきくて体力たいりょくのあるりょうもとめたが、うまなかのごく一部いちぶがそれにこたえられたとすれば、武士ぶしといういちにぎりの特種とくしゅ技能ぎのう集団しゅうだん成立せいりつ条件じょうけんそなえているのは、関東かんとうにおいてはそもそもがうま牧場ぼくじょう意味いみする「まき」であった。10世紀せいきはじめの「延喜えんぎしき」には全国ぜんこくまきさだめられているが、まき信濃しなのこく上野うえのこく武蔵むさしこく集中しゅうちゅうしている。なお、最大さいだい産地さんち奥州おうしゅうであった。

朝廷ちょうてい武官ぶかん左右さゆう近衛このえ兵衛ひょうえ衛門えもんろくまもる代表だいひょうとするが、うまりょう武官ぶかん一部いちぶ構成こうせいし、信濃しなの関東かんとうおおくあった「まき」はそのうまりょうとつながっていた[30]うまりょう所轄しょかつは「御牧みまき勅旨ちょくしまき)」で、「かんまき」とばれる「諸国しょこくまき」は兵部ひょうぶしょう管轄かんかつであったが、そこから献上けんじょうされたうま管理かんりうまりょうであり、うまりょう直属ちょくぞくまきほか畿内きないかんまき管理かんり委託いたくしていた。

実際じっさい関東かんとう有力ゆうりょく武士ぶしだんは、朝廷ちょうていうま放牧ほうぼくまき」の管理人かんりにんおおかった。平将門たいらのまさかど長洲ながすだい結馬けちばまきふたつのかんまき地盤じばんとしていた。[31]武蔵むさしかい源経基みなもとのつねもと将門まさかど行動こうどう謀反ぼうほんきょう報告ほうこくしたとき、武蔵むさしこく群盗ぐんとうおい動員どういんされたのは、小野おのまき別当べっとう小野おのしょきょう石田いしだ阿久原あくはらまきあわせた秩父ちちぶまき別当べっとう藤原ふじわらおもんみじょうであった。これらのまきからは、のち武蔵むさしななとうばれる武士ぶしだんこった。

頼朝よりとも有力ゆうりょく御家人ごけにん藤原ふじわらしげるきょうりゅう直系ちょっけい名乗なの小山こやまおなじである。またあと登場とうじょうする千葉ちば名馬めいば保有ほゆう有名ゆうめいであり、『平家ひらか物語ものがたり』のなか平山ひらやまおも自分じぶんうま千葉ちばかられたものだと自慢じまんしたり、鎌倉かまくら時代ときよ初期しょきみなもと頼朝よりとも周辺しゅうへんなんけんじしたりするなど、良質りょうしつな「まき」を管理かんりしているというイメージがあったようである。このように、関東かんとうにおける武士ぶし発生はっせいは、うま生産せいさん背景はいけいにしていたかんがえることができる[32]

それでは、きょう周辺しゅうへんではどうだったかといえば、白河しらかわいん時代じだい北面ほくめん武士ぶしのを代表だいひょうするみなもとはんみなもとみなもときんやすし文徳ふみのり源氏げんじは、摂関せっかんりょう河内かわうちこく古志こしぐんざかもんまき本拠ほんきょとし、坂戸さかどはじめともばれた[33]。また、源頼信みなもとのよりのぶ郎党ろうとう藤原ふじわらのりけいは、主人しゅじん命令めいれいによって河内かわうちこくさかもん御牧みまき住人じゅうにん藤原ふじわら公則まさのり養子ようしになったとある[34]。この時代じだいに「住人じゅうにん」というのはその開発かいはつ領主りょうしゅ意味いみである。また、「御牧みまき」とあるので、さかもんまきには朝廷ちょうていまき摂関せっかんまき隣接りんせつしていたか、両方りょうほうねていたのかもれない。いずれにしても、「まき」と「武者むしゃ武士ぶし」の関係かんけいをここにもることが出来できる。

源義家みなもとのよしいえ凋落ちょうらく、「朝家ちょうか爪牙そうが」の第一人者だいいちにんしゃとなった平正盛たいらのまさもりは、近国きんごく(かつ大国たいこくじゅくこく)の国守こくしゅつとめると同時どうじみぎけんあたまであった。また、その平忠盛たいらのただもり白河しらかわいん御厩みまや別当べっとうとなり、白河しらかわいん御牧みまきと、そこを拠点きょてんとする武士ぶしだん統括とうかつした。御厩みまや別当べっとう放牧ほうぼく総括そうかつ管理かんりしゃであるだけでなく、行幸ぎょうこうさいしては、「くるま(くるまじり)」「」といって、いん牛車うしぐるまうしろを検非違使けびいしとともに騎馬きば警護けいごたる地位ちいでもあった[35]

その御厩みまや別当べっとういんちょうにおける軍事ぐんじ貴族きぞく筆頭ひっとうのポストとみなされるようになり、平清盛たいらのきよもりにもがれた。「まき」が「武者むしゃ騎馬きば武者むしゃ」の拠点きょてんであり、優良ゆうりょうな「まき」のほとんどがかんまきまきであったときいんちょう御厩みまや別当べっとうは、おおくの武士ぶしだん公的こうてき支配しはいき、さらには私的してきにも従属じゅうぞくさせてゆく重要じゅうようなポストであった。

武士ぶし」の認定にんてい[編集へんしゅう]

郎党ろうとうではなく、さむらいとしての「武士ぶし」の認定にんていは、なによりもまず、武官ぶかんであることだろう。平将門たいらのまさかどらん以降いこうは、その平将門たいらのまさかどほろぼしたてんけい勲功くんこうしゃ藤原ふじわらしげるきょう平貞盛たいらのさだもりたいらこうみやび、そして源経基みなもとのつねもと子孫しそんたちが、「朝家ちょうか爪牙そうが」となっていったが、そのかれらがへい(つわもの)として認識にんしきされるには、一定いっていのプロセスが必要ひつようであった。個人こじんとしてはまずは武官ぶかん地位ちいることだろう。近衛府このえふ兵衛ひょうえ形骸けいがいし、実際じっさいには衛門えもんと、左衛門尉さえもんのじょう兼任けんにんする検非違使けびいしうまりょう、そして滝口たきぐち武者むしゃしょ院政いんせいにおいては北面ほくめん下臈げろう(いわゆる北面ほくめん武士ぶし)である。

家系かけいとしての「へいいえ」の形成けいせい過程かていわすれてはならないのが、10世紀せいき後半こうはん現役げんえき武官ぶかんではないのに「朝家ちょうか爪牙そうが」として動員どういんされたことである。「だいさく(おおあなくり)」「ぬすめさく(ぬすびとあなくり)」とばれ「武勇ぶゆうこたえたる」としててんけい勲功くんこうしゃ子孫しそんたち招集しょうしゅうされた[36]

扶桑ふそう略記りゃっき960ねん天徳てんとく4ねん)10がつ2にちじょうに、平将門たいらのまさかど入京にゅうきょうしたとのうわさたいしてぎのような措置そちられたとある。

みぎ衛門えもんとく朝忠ちょうちゅう朝臣あそんみことのりして、検非違使けびいしおおせてさがもとめしむ。またのべこうをしてまんなか義忠よしただはるひとしたいおおせしめておなじくうかがもとむべし。

つまり、本来ほんらいそのにんにあたる検非違使けびいしとはべつに、天皇てんのうから、武官ぶかん以外いがいには禁止きんしされていた弓箭きゅうせんびての招集しょうしゅうけ、その任務にんむあいだうまりょうよりかん支給しきゅうされる。こうして朝廷ちょうてい市中しちゅうにその「武威ぶい」をアピールして治安ちあん維持いじおこなう。一方いっぽう召集しょうしゅうされたがわ家系かけいは「朝家ちょうか爪牙そうが」として自己じこをアピールし、その時代じだいに「へいいえ」としての認識にんしき定着ていちゃくしてゆく。「だいさく(おおあなくり)」は結果けっかてきには官職かんしょくによらず「たけ」をになう、「へいいえ」の最初さいしょ認定にんていしきであったともえる。

その「へいいえ」が定着ていちゃくしていくのは、ちょうど藤原ふじわら道長みちなが時代じだいからであり、「たけ」にかぎらず、貴族きぞく社会しゃかい全般ぜんぱんに「家格かかく」と「家業かぎょう」が固定こてい方向ほうこうかうながれのなかでの出来事できごとである。それは、きょう治安ちあん維持いじ必要ひつよう武力ぶりょくが、旧来きゅうらい武官ぶかんや、随身ずいじんだけではわなくなり、平将門たいらのまさかどらんでの「朝家ちょうか爪牙そうが」のやくたした「へいいえ」が、「家業かぎょう」として、「たけ」をいはじめるということでもあった。

今昔こんじゃく物語ものがたりしゅうまき19だい4摂津せっつもりまんなか出家しゅっけせるかたり」のだしはつぎのようにはじまる。

今昔こんじゃく円融えんゆういん御代みよに、ひだりうまあたま(かみ)みなもとまんなかといふひとゆうけり、筑前ちくぜんもりけいもといけるひと也。ならへい(つわもの)にてありければ、おおやけ(おおやけ:ここでは天皇てんのう)も此をことしゃになむおもえしめしける。また大臣だいじん公卿くぎょうよりはじめて、ひとみな此をもちいてぞりける。

源満仲みなもとのみつなかは、安和あわへんなどの印象いんしょうから、藤原ふじわら本流ほんりゅう臣従しんじゅうしていたイメージがつよいが、天皇てんのうはじめとしてしん公卿くぎょうなどに必要ひつようおうじて起用きようされていた、つまり支配しはい階級かいきゅう全体ぜんたい奉仕ほうしする傭兵ようへい部隊ぶたいとしての色彩しきさいがここからかんじられる。

家業かぎょう」として「たけ」をかれらは、それをまっとうするために、自分じぶん自身じしん武力ぶりょくとしていえ郎党ろうとうやしなう。摂津せっつもり源満仲みなもとのみつなか多田おおたそうは、まさにそのような兵站へいたん基地きちであり、かついえ郎党ろうとう軍事ぐんじ訓練くんれんり)の舞台ぶたいでもあった。この段階だんかいでのかれらは在京ざいきょうかんじん、あるいは受領じゅりょうであるとともに、ひとつの「武士ぶしだん」のながでもあった。

ただし、この段階だんかいでの「武士ぶしだん」は、それぞれの単位たんいではさほどおおいものではない。『今昔こんじゃく物語ものがたりしゅう』の「摂津せっつもりまんなか出家しゅっけせるかたり」には500とのかずもあるが、それは『今昔こんじゃく物語ものがたりしゅう』がかれた12世紀せいきはじめの段階だんかいでの当時とうじ最大さいだい武士ぶしだん印象いんしょうもとにした誇張こちょう文飾ぶんしょくだとされる。

それほどおおいものではないという理由りゆうは、当時とうじ必要ひつようとされた武力ぶりょくは、きょう治安ちあん維持いじ要人ようじん護衛ごえい受領じゅりょうとして赴任ふにんするさいれ、在庁ざいちょうかんじんさえる程度ていどのものであり、だい規模きぼ争乱そうらんなどほとんどかったこと。および、きょうにおいては軍事ぐんじ貴族きぞくきょう武者むしゃ)と同盟どうめいし、あるいは盟主めいしゅとして、かれらを郎党ろうとうともしていたためである。「へい」の需要じゅようはあったがそれほどおおきなものではなかったともいえる。

まんなか一方いっぽうで、全国ぜんこくさんじゅうしょたむろしたとされる坂上さかがみとう武士ぶしだん棟梁とうりょう坂上さかがみよりゆき摂津せっつかい任命にんめいし、山本やまもと荘司しょうじ要請ようせいして西にし政所まんどころみなみ政所まんどころひがし政所まんどころ統括とうかつして多田ただそう警衛けいえいにあたらせている[37]

地方ちほうでの「武士ぶし」の認定にんてい[編集へんしゅう]

一方いっぽう地方ちほうでの「武士ぶし」の認定にんていとしては、戸田とだかおる[38]や、石井いしいすすむ[39]国衙こくが軍制ぐんせいろんがこの問題もんだいするどんでいる。しかし、地方ちほう本拠ほんきょ軍事ぐんじ貴族きぞくも、中央ちゅうおう有力ゆうりょく貴族きぞく名簿めいぼ(みょうぶ)をし、私的してき主従しゅうじゅう関係かんけいむすんで、おおくの場合ばあい直接ちょくせつきょう出向でむいて奉仕ほうしし(それが「さむらい」であるが)、その推挙すいきょにより武官ぶかん官職かんしょくている。石井いしいすすむ国衙こくが軍制ぐんせいろんにある地方ちほう豪族ごうぞくぐん左衛門さえもん大夫たいふたいらおもんみもとぜん上総かずさかい平忠常たいらのただつねらはそうした存在そんざいであった。ひらおもんみもとは『しょう右記うき』の藤原ふじわらみのるに、平忠常たいらのただつね藤原ふじわらきょうどおり臣従しんじゅうしている。そしてかれらの軍事ぐんじ動員どういんすう国司こくしぐん圧倒的あっとうてき上回うわまわる。

国司こくし直属ちょくぞくぐん - 「かん者共ものども」(国司こくし私的してき従者じゅうしゃ + 在庁ざいちょうかんじん)とことなり、「くにへいども」は、「譜第ふだい」「えびすやな注文ちゅうもん」などの台帳だいちょう記載きさいされ、国司こくし主催しゅさいりや、一宮いちのみやでの流鏑馬やぶさめなど、必要ひつようおうじて招集しょうしゅうされる程度ていどのものであり[40]自分じぶん自身じしん直接的ちょくせつてき利害りがいかかわらなければいのちけてたたかったりはしない。その源平げんぺい争乱そうらんにも、かれらは国衙こくがを、あるいは荘園しょうえんつうじ、公権こうけんもとづき動員どういんされる場合ばあいには「武者むしゃ」(かりむしゃ)とばれ、戦闘せんとう中核ちゅうかく部隊ぶたいではなかった。

開発かいはつ領主りょうしゅ」と「武士ぶしだん[編集へんしゅう]

私営しえい経営けいえいしゃと「へい[編集へんしゅう]

私営しえい経営けいえいしゃ」「私営しえい領主りょうしゅ」という概念がいねんは、戦後せんごだいいち世代せだい石母田いしもたただしの『中世ちゅうせいてき世界せかい形成けいせい』により、学問がくもんてき定着ていちゃくされた概念がいねんである[41]

その「私営しえい経営けいえいしゃ」の時代じだい平将門たいらのまさかど祖父そふ平高望たいらのたかもちらが関東かんとう下向げこうしたのは板東ばんどう群盗ぐんとうさえるためといわれるが、かれ中央ちゅうおうからくだった軍事ぐんじ貴族きぞくは、国司こくし私営しえい領主りょうしゅ紛争ふんそう解決かいけつになとしても位置いちづけられた。その最大さいだい事件じけん平将門たいらのまさかどらんである。しかし、この時代じだい兵力へいりょくは、基本きほんてき配下はいか農民のうみんをかきあつめて武器ぶきたせる程度ていど[42][43]であり、少数しょうすう上兵かみへい騎馬きば武者むしゃ)をのぞけば、ほとんど烏合うごうしゅうわらない。

そして戦闘せんとういん一般いっぱん農民のうみん区別くべつがまだしょうじていなかったために、当時とうじ関東かんとう合戦かっせんは、てき本拠地ほんきょち、「営所」を攻撃こうげきするだけでなく、「与力よりきともるいしゃたくいん(かず)のごとはらう」という焦土しょうど戦術せんじゅつがとられた。これは、当時とうじ関東かんとうでは土地とちはいくらでもあり、よう土地とちたがや労働ろうどうりょく編成へんせい問題もんだいなのであって、てきほろぼすとは、そのてき兵力へいりょくであり、同時どうじ労働ろうどうりょくであるそれら与力よりきともるいにダメージをあたえて四散しさんさせることが重要じゅうようであったのである。

この状態じょうたいは、平将門たいらのまさかどらん930ねん-931ねん)から100ねん平忠常たいらのただつねらん1028ねん-1031ねん)においてもわらず、それがゆえ平忠常たいらのただつねらん近隣きんりんすうヶ国かこくが「亡国ぼうこく」となり、朝廷ちょうていはその復興ふっこうために4年間ねんかんかんぶつ免除めんじょしなければならなかったほどである。

安田やすだ元久もとひさなどの旧来きゅうらい学説がくせつでは、在地ざいち経営けいえい私営しえい経営けいえいであった平将門たいらのまさかどから平忠常たいらのただつね時代じだいは、「へい」の時代じだいであって、「武士ぶし」はそのつぎぎの段階だんかいであるとする。たしかにこの時代じだい戦闘せんとう様式ようしき中世ちゅうせい武士ぶしだんによる戦闘せんとう様式ようしきとはおおきくことなる。

開発かいはつ領主りょうしゅ[編集へんしゅう]

福田ふくだ豊彦とよひこは「私営しえい領主りょうしゅ」を「一口ひとくちでいえば、ひろ土地とち自分じぶん直接ちょくせつ経営けいえいするだい土地とち所有しょゆうしゃ[44]とする。もちろん、「私営しえい領主りょうしゅ」「私営しえい経営けいえいしゃ」の説明せつめいがそれでわけではないが、それにつづく「開発かいはつ領主りょうしゅ」との対比たいひにおいては、そのひとことがおおきな特徴とくちょうとなる。安田やすだ元久もとひさらの学説がくせつでは「武士ぶし」と「へい」のちがいは「領地りょうち」の支配しはい形態けいたいにもとめられた。つまり「武士ぶし」とべるのは、地方ちほう経済けいざいが「私営しえい経営けいえい」から「開発かいはつ領主りょうしゅ」の段階だんかい移行いこうしてからだというのである[45]

福田ふくだ豊彦とよひこによれば[46]のち鎌倉かまくら幕府ばくふ基盤きばんとなる「開発かいはつ領主りょうしゅ」は、「私営しえい経営けいえい領主りょうしゅ)」とは根本こんぽんてきことなった所領しょりょう経営けいえい方法ほうほうをとった。かれらはたしかに、つくださく(てづくり)、門田かどた(かどた)などという直接ちょくせつ耕作こうさく農地のうちってはいたが、おおきな特徴とくちょう基本きほんてきには農業のうぎょう経営けいえいからはなれ、農民のうみんから「加地かじ」を本格ほんかくてきな「領主りょうしゅ」へと転化てんかはじめることである。その時期じき関東かんとうにおいては平忠常たいらのただつねらんわり、そこでの「亡国ぼうこく」といわれるほどの焦土しょうどせんによる荒廃こうはいから、復興ふっこうさい開発かいはつはじめられた段階だんかい、つまり11世紀せいき後半こうはんから12世紀せいき初頭しょとう相当そうとうする。

開発かいはつ領主りょうしゅ」がまれる過程かていは、その有力ゆうりょくしゃ一族いちぞく子弟していのみならず、近隣きんりん農民のうみん諸国しょこくから流入りゅうにゅうした浮浪ふろうじんなどを組織そしきして荒地あれち開拓かいたくおこない、その従事じゅうじしゃあたらしい村落そんらく編成へんせいすることにはじまる。 そして、あたらしく開拓かいたくした、そしてその村落そんらく開拓かいたくしたものわたしりょうとなる。わたしりょうといってもその課税かぜい免除めんじょされるわけではないが、国衙こくが旧来きゅうらいぐんとはべつの、あたらしい徴税ちょうぜい単位たんいとして、特別とくべつ命令めいれいしょによりぜい軽減けいげんし、開発かいはつ領主りょうしゅわたしりょう領有りょうゆうみとめ、同時どうじ開発かいはつ領主りょうしゅがその納税のうぜい義務ぎむうことになる。その特別とくべつ命令めいれいしょ)ということから、そのは「べつ」とばれ、また徴税ちょうぜい単位たんいとして「さと」とばれた。

べつによる「さと」は、「ぐん」のしたの「さと」ではなく、独立どくりつした徴税ちょうぜい単位たんいとして「ぐん」と並列へいれつするものである。そうして律令制りつりょうせい以来いらいぐんさとが、あたらしいぐんさと再編さいへんされていく。

だれ開発かいはつ領主りょうしゅとなったのかとえば、その領域りょういきそのものの法的ほうてき所有しょゆう、または国衙こくがによる開発かいはつ承認しょうにん重要じゅうようなテコとなったため、みずか国衙こくが在庁ざいちょうかんじんとなったか、あるいは国司こくしむすびついた、とめじゅうから土着どちゃくへといたった軍事ぐんじ貴族きぞくぜんつかさ子弟していなどおうしん子孫しそん、そして一部いちぶ土豪どごうだろう[47]信州しんしゅうから関東かんとうにかけてのかんまき御牧みまき管理かんりしゃきょう貴族きぞく荘園しょうえんそうかんとして下向げこうしたものたちがそこを基盤きばん周辺しゅうへん開発かいはつおこなうケースもあった。

ただし、地方ちほう武士ぶしは、開発かいはつ領主りょうしゅであることを経済けいざいてき地盤じばんとしていたが、開発かいはつ領主りょうしゅ武士ぶしであり、武士ぶしだんひきいていたわけではない。源平げんぺい争乱そうらんき、すくなくともその時期じき武士ぶしとなり、鎌倉かまくら時代じだい御家人ごけにん地頭じとうとなったもの一部いちぶ荘園しょうえん下司げすについて以外いがいに、後世こうせい記録きろくのこっていないことを考慮こうりょする必要ひつようがある。「くにへいども」が、「譜第ふだい」や「えびすやな注文ちゅうもん」などの台帳だいちょう記載きさいされるということ[48]自体じたいが、かれらが国衙こくが支配しはい開発かいはつ領主りょうしゅたちなか特種とくしゅ存在そんざいであったことを物語ものがたっている。

領地りょうち」を媒介ばいかいとする「武士ぶしだん[編集へんしゅう]

関東かんとう意識いしきしてのはなしとなるが、記録きろくのこ開発かいはつ領主りょうしゅとなった武士ぶしらが、戦闘せんとう集団しゅうだんである「武士ぶしだん」を組織そしきしたとき、それはかきあつめた農民のうみんへいではなく、また「傭兵ようへい」でもなく、領主りょうしゅあいだ私的してきむすばれた戦闘せんとう集団しゅうだんである。その最小さいしょう単位たんい構成こうせいいんは、あるじとそのいえ郎党ろうとうである。ちからった武士ぶしらが開発かいはつ領主りょうしゅとなるとき、その兄弟きょうだい子弟してい親類しんるい縁者えんじゃ周辺しゅうへん開拓かいたくし、小規模しょうきぼ開発かいはつ領主りょうしゅとなって、その一族いちぞく結束けっそくしてひとつの「武士ぶしだん」となる。

たとえば常陸ひたちだいじょう千葉ちば上総かずさ系図けいずると、その時期じき兄弟きょうだい子弟していが、周辺しゅうへんさと(みょう)に分散ぶんさんし、その名乗なのる。ちょうどそのころ登場とうじょうした三浦みうら場合ばあいは、家長かちょう三浦みうら大介だいすけ義明よしあきおとうと岡崎おかざき名乗なのり、その嫡男ちゃくなん真田さなだとも)を名乗なのる。義明よしあき長男ちょうなん杉本すぎもと名乗なのり、その長男ちょうなん和田わだ名乗なのる。分家ぶんけひろがり、それぞれの開拓かいたくおこない、それぞれが郎党ろうとうやしない、こときれば一族いちぞく結集けっしゅうする。頼朝よりとも挙兵きょへい直後ちょくご勢力せいりょくはそうした三浦みうら一族いちぞく千葉ちば一族いちぞく上総かずさかい一族いちぞく、そして江戸えどかわこし豊島としま畠山はたけやまら、秩父ちちぶ一族いちぞくがベースであった。

開発かいはつ領主りょうしゅ重層じゅうそうてき結合けつごう[編集へんしゅう]

武士ぶし最小さいしょう単位たんい[編集へんしゅう]

さむらい」としての「武士ぶし」には、『平家ひらか物語ものがたり』の一ノ谷いちのやたたか先陣せんじんあらそいをえんじた武蔵むさしこく住人じゅうにん平山ひらやま武者むしゃしょおもや、熊谷くまがい次郎じろう直実なおみとその小次郎こじろう直家なおいえのように、自分じぶん自身じしんとその子弟していほか乗馬じょうば郎党ろうとうたないものもいる。

しかし平山ひらやま武者むしゃしょじゅう熊谷くまがい次郎じろう直実なおみ主人しゅじんたない独立どくりつした武者むしゃであり、平山ひらやまじゅう武者むしゃしょ名乗なのるように朝廷ちょうてい公卿くぎょうつかえる「さむらい」であり武官ぶかんであった。おそらくかれらは在地ざいちにおいては国衙こくがりょうちいさなさと領主りょうしゅであったのだろう。

豪族ごうぞくてき領主りょうしゅしょう領主りょうしゅ[編集へんしゅう]

みなもと頼朝よりとももとおな御家人ごけにんばれはしても、下川辺しもかわべ庄司しょうじ行平こうへい葛西かさい御厨みくりや葛西かさい清重きよしげ畠山はたけやま庄司しょうじ重忠しげただなどは、だい規模きぼ寄進きしん荘園しょうえん在地ざいち領主りょうしゅである。そして千葉ちばかい常胤つねたね上総かずさかい広常ひろつね三浦みうらかい義澄よしずみ小山こやまだいじょう朝政ちょうせいなどは、国衙こくが在庁ざいちょうかんじんでもあり、それをあしがかりとして複数ふくすうぐんべつさと荘園しょうえんにまたがる勢力せいりょくひろげた開発かいはつ領主りょうしゅである。福田ふくだ富彦とみひこは、後者こうしゃをひとつのさと荘園しょうえんぐん基礎きそとした領主りょうしゅ区別くべつして「豪族ごうぞくてき領主りょうしゅ」とんでいる[49]石井いしいすすむ図式ずしき地方ちほう豪族ごうぞくぐん相当そうとうする。

上総かずさかい広常ひろつねちち常澄つねずみ所領しょりょうであるしるし東庄とうのしょうにおいて、「あずかしょ菅原すがわらじょうたかしとの、年貢ねんぐをめぐったそうろんかんする文書ぶんしょすうつうが、『醍醐だいご雑事ざつじ』の紙背しはい文書ぶんしょつかり、それによって、しるし東庄とうのしょう構成こうせいする「むらきょう」には、「藤原ふじわら」「ちゅうしん」「ぶん」「たいら」「刈田かりた」などの本姓ほんせいをもつ郷司ごうしむらたことがられる[50]

たいら」は上総かずさかいひら常澄つねずみ同族どうぞくかもしれないが、「藤原ふじわら」はもとより、「ちゅうしん」、「ぶん」も、平安へいあん時代じだい前期ぜんきには中流ちゅうりゅう貴族きぞくとしててくる(うじ)である。「刈田かりた」は中央ちゅうおう貴族きぞくとしてはられないが、『香取かとり文書ぶんしょ』には同姓どうせいのものが郡司ぐんじ判官ほうがんだいとしててくるという。いずれも農民のうみんではない。かれらもまた、ちいさい単位たんいながら、農民のうみん支配しはいするがわ荘園しょうえん下級かきゅう役職やくしょくしゃであると同時どうじに、小規模しょうきぼながら、その「むらきょう」の領主りょうしゅであった。かれらは、元々もともと武士ぶしではかったかもしれないが、しるし東庄とうのしょうつかさねる上総かずさかいひら常澄つねずみから動員どういんかれば、よろい弓箭きゅうせん兵仗ひょうじょうびて、すうにんから10すうにん郎党ろうとうとともに騎馬きば武者むしゃとしてけつける立場たちばもの相当そうとうふくまれていたとおもわれている。

複数ふくすうぐん荘園しょうえんにまたがる広大こうだい領地りょうち知行ちぎょうする「豪族ごうぞくてき領主りょうしゅ」は、そのしたぐん別府べっぷさと、そして荘園しょうえんさらにそのしたむらきょう支配しはいおよび、それぞれの段階だんかい小規模しょうきぼな「武士ぶしだん」である。そしてそれらがわさって「だい武士ぶしだん」として行動こうどうする。『平家ひらか物語ものがたり』で、武蔵むさしくに住人じゅうにん開発かいはつ領主りょうしゅ河原かわはら太郎たろう次郎じろう兄弟きょうだいに「大名だいみょうみずかくださなくても、家来けらい手柄てがら名誉めいよとすることができるが、われらのようなものは自分じぶんくださなくてはどうしようもない。」といわれたその「大名だいみょう」は、その「だい武士ぶしだん」をひきいた「豪族ごうぞくてき領主りょうしゅ」である。

このことから、戦後せんごだいいち世代せだい研究けんきゅうしゃは、この領主りょうしゅと「武士ぶしだん」の、領地りょうち媒介ばいかいとした重層じゅうそうてき結合けつごう関係かんけいと、そこにいたりたる社会しゃかい経済けいざい地方ちほう経済けいざい成熟せいじゅく重要じゅうようした。もちろん、それがのち鎌倉かまくら幕府ばくふ、いわゆる「武士ぶし時代じだい」の原動力げんどうりょくにとなったとかんがえたからである。そしてそこから「武士ぶしだん」が重層じゅうそうてき関係かんけいきず段階だんかい以降いこうを「武士ぶし」と、そしてそれにいたぜん段階だんかいを「へい(つわもの)」と学術がくじゅつ用語ようごとして定義ていぎしたのである。

開発かいはつ領主りょうしゅ地位ちい[編集へんしゅう]

12世紀せいき中葉ちゅうようこった相模さがみこく大庭おおば御厨みくりやの濫妨と、下総しもうさこく相馬そうま御厨みくりや事件じけんは、当時とうじにおける在庁ざいちょうかんじん在地ざいち領主りょうしゅ変貌へんぼうと、国司こくし目代もくだいとの対立たいりつはげしさ、在地ざいち領主りょうしゅそう地位ちい脆弱ぜいじゃくさと限界げんかい如実にょじつしめしている。

まず開発かいはつ領主りょうしゅ領地りょうち領有りょうゆうとは、郡司ぐんじ郷司ごうしという「しょく(しき)」において国司くにじ国衙こくがから保証ほしょうされたものであるが、しかしそうであるかぎ国司こくしがわはそのにん権限けんげんっており、それは相馬そうまぐんにおいて現実げんじつ行使こうしされた。さらにその周囲しゅういには、開発かいはつ領主りょうしゅすきあらばとねらっている。相馬そうま御厨みくりやについては最初さいしょ段階だんかいでは同族どうぞく上総かずさけんかい常澄つねずみ、そして源義朝みなもとのよしともである。

そうした不安定ふあんてい状態じょうたい確実かくじつなものにしようと、開発かいはつ領主りょうしゅ荘園しょうえん寄進きしんおこなう。もっとも、寄進きしんけい荘園しょうえん一般いっぱんてき形態けいたいは、自分じぶんわたしりょうだけの寄進きしんではなく、その周辺しゅうへん国衙こくがりょうる(加納かのうかたちおこなわれるし、かならずしも在地ざいち領主りょうしゅ主導しゅどうおこなわれたわけではないことにも注意ちゅうい必要ひつようである[51]。それをまえたうえで、ここでは在地ざいち領主りょうしゅがわからていくことにするが、しかしその、荘園しょうえん寄進きしんもそれだけでは確実かくじつなものではないことが、この相馬そうま御厨みくりや、そして大庭おおば御厨みくりや事件じけんなかてとれる。

平家ひらか政権せいけんでのさらなる不安定ふあんてい[編集へんしゅう]

その不安定ふあんていさは平家ひらかのクーデター以降いこういよいよピークにたっする。平家へいけすうじゅうヵ国かこく知行ちぎょう国主こくしゅとなるとともに、平家へいけ家人かじんとなった武士ぶしだんつうじて、武士ぶしだん開発かいはつ領主りょうしゅ圧迫あっぱくする[52]。それは千葉ちば常胤つねたねにとっては、1161ねんえいれき2ねん正月しょうがつ平家へいけうしたてとした佐竹さたけ義宗よしむね相馬そうま御厨みくりや強奪ごうだつとしてあらわれる。佐竹さたけと、千葉ちばかい上総かずさかい一族いちぞくとの対立たいりつはここにはじまり、それが解消かいしょうするのは、1180ねんみなもと頼朝よりとも旗揚はたあげに、千葉ちばかい上総かずさかい一族いちぞく合流ごうりゅうし、「富士川ふじかわたたか」に平家へいけやぶったあと、てんじて常陸ひたち佐竹さたけめて敗走はいそうさせるまでたなければならなかった。

千葉ちばかい上総かずさかい一族いちぞくが、頼朝よりとも加担かたんしたのは、『吾妻あづまきょう』が美化びかしてつたえるような、両氏りょうし代々だいだいみなもと家人かじんであったからではなく、平家ひらかむすんだ下総しもうさ藤原ふじわら、そして常陸ひたち佐竹さたけ侵攻しんこうたいして、頼朝よりともかつぐことによってそれをかえし、うばられたりょう復活ふっかつするため起死回生きしかいせいけであった。『吾妻あづまきょう』にはかれていない相馬そうま御厨みくりやでの経緯けいいれば、とく千葉ちば常胤つねたねにとって、源義朝みなもとのよしともは「おん」をかんじるような相手あいてではなかったことはあきらかである[53]

1180ねんうけたまわ4ねん)のみなもと頼朝よりともはたのち、そのちち源義朝みなもとのよしとも暴力ぼうりょくてきうばろうとしたものを、みなもと頼朝よりともは「本領ほんりょう安堵あんど」した。それが頼朝よりとももとへの関東かんとう武士ぶしだん結束けっそくりょく源泉げんせんであった。関東かんとうにおいては、「武家ぶけ棟梁とうりょう」は、すくなくとも頼朝よりとも以前いぜんにはなかったとえる。そして頼朝よりともが、ある意味いみ勝手かってに「本領ほんりょう安堵あんど」のしもぶん(くだしぶみ)をすだけで、それをおん」として「奉公ほうこう」にはげほど、かれらの所領しょりょうあやういものであったとえる。

武士ぶしだん」の結合けつごう[編集へんしゅう]

へい」の時代じだいの「武士ぶしだん」の結合けつごう[編集へんしゅう]

武士ぶし、または武士ぶしだん結合けつごうは、「忠君ちゅうくんこうおや」というような江戸えど時代じだい儒教じゅきょうから輸入ゆにゅうされた武士ぶしどうとはまった無縁むえんであるのはもちろん、おなじように武士ぶしどうとは無縁むえんであった戦国せんごく時代じだいのイメージからもほどとおく、きわめてゆるやかなものであった。

しかし当時とうじ武士ぶし主従しゅうじゅうには2種類しゅるいがある。たとえば源満仲みなもとのみつなか拠点きょてん摂津せっつこく多田おおたそうであり、源満仲みなもとのみつなかはそこでりなどをつうじて家人かじん軍事ぐんじ訓練くんれんおこなっている。そして、『今昔こんじゃく物語ものがたりしゅうまき19だい4摂津せっつもりまんなか出家しゅっけせるかたり」で源満仲みなもとのみつなか出家しゅっけしたに「しんちがものれば、むしなどをころすようにころしつ、すこよろしとおもつみには手足てあしる」となげかれている。簡単かんたん家人かじんころすのは武士ぶしならではであっても、しかしその家人かじん眷属けんぞくたいする生殺与奪せいさつよだつ絶対ぜったいてき権力けんりょく当時とうじでは武士ぶしかぎったはなしではない。

それとはべつに、たがいに独立どくりつしていえかまえる武士ぶし同士どうし場合ばあいは、上下じょうげ関係かんけいはあっても、「同盟どうめい」にちかいものがある。いわば、主人しゅじん会社かいしゃ終身しゅうしん雇用こよう社員しゃいんではなくて、契約けいやくもとづく協力きょうりょく会社かいしゃ下請したう企業きぎょうである。あるいは共同きょうどう組合くみあいのような場合ばあいすらあった。下請したう企業きぎょう複数ふくすう元請もとう企業きぎょう仕事しごとをもらうのはたりまえであり、当時とうじ武士ぶしだん上下じょうげ関係かんけいもまたそのようなものであった。

この2つを「家人かじん」・「いえれい(けらい)」と区別くべつする[54]用語ようご自体じたい確定かくていしていたわけではないが、たとえばこのようなれいがある。

吾妻あづまきょう 1180ねんうけたまわ4ねん)10がつ19にちじょうみなもと人々ひとびといては、いえれいなおこわかしこせらるべし。はぎやまたしたこく抑留よくりゅうごとことすこぶふくつかまつ家人かじんたり。 のりたんさつおくるべしとしょうし、じょうかれもりきょうまつりてうんく、加々美かがみ下向げこうことはや左右さゆうおおせらるべきかと。きょうもりつなじょうひるがえうら返報へんぽうり。そのうんく、加々美かがみ甲州こうしゅう下向げこうことこししょくされそうろいをはんぬ。ただ兵革へいかく連続れんぞくときとおこうもっと本懐ほんかいそむく。いそ帰洛きらくすべきのよしあいれしめたまうべきのおもむきこうしょなりと。

ようするに、平家へいけ見限みかぎった甲斐かいはじめ加々美かがみちょうきよしが、老母ろうぼやまい口実こうじつ東国とうごくかえろうとかんがえ、それを平知盛たいらのとももり平清盛たいらのきよもりよんなん)にもうたところゆるしてはもらえなかったが、高橋たかはし判官ほうがんひらたもりつなはその真意しんいづきながらも、「家人かじんのように抑留よくりゅうすべきでない」と平知盛たいらのとももり口添くちぞえをしてくれて、やっともりゆるしをたというはなし。もちろん加々美かがみちょうきよし富士川ふじかわたたかで、頼朝よりとものもとにさんじる。

当時とうじ複数ふくすう主人しゅじん名簿めいぼ(みょうぶ)をして臣従しんじゅうすることも、「へい」の世界せかいだけでなく、貴族きぞく社会しゃかい一般いっぱんのごく普通ふつうのことであった。これも下請したうけ企業きぎょうかんがえればそう不自然ふしぜんなことではない。臣従しんじゅうはこの時代じだいにはきわめてルーズな関係かんけいであった。名簿めいぼ(みょうぶ)をすことによってられる対価たいかなにであるかによってもその結合けつごう変化へんかするのは当然とうぜんである。たん儀礼ぎれいてきなことだって場合ばあいによってはあった。

平安へいあん時代じだい末期まっきとならないかぎ武士ぶし世界せかいにおいて領地りょうちあたえる(しんおん給与きゅうよ)、あるいは領地りょうち所有しょゆうけん保証ほしょう本領ほんりょう安堵あんど)するなどはありうべくもない。たとえば源頼信みなもとのよりのぶはおろか、源頼光みなもとのよりみつでさえそれを出来でき立場たちばにはない。これは源義家みなもとのよしいえとておなじである。領地りょうち安堵あんど手段しゅだんはその郡司ぐんじ郷司ごうし国衙こくが在庁ざいちょうかんじんとなるか、あるいは権門けんもん荘園しょうえんとして寄進きしんするかである。それとてさきたとおり確実かくじつではないが。

血縁けつえん」による「武士ぶしだん」の結合けつごう[編集へんしゅう]

平安へいあん時代じだい末期まっき、それこそ12世紀せいき中頃なかごろ武士ぶしだん結合けつごうはどうだったのかというと、一番いちばんつよ結束けっそくりょくはやはり「血縁けつえん」だったようである。

しかし、ここでも近世きんせいにおける「いえ」からの先入観せんにゅうかん一旦いったんったうえで、「血縁けつえん」をかんがえる必要ひつようがある。平安へいあん時代じだい中期ちゅうきまでは現在げんざい想像そうぞうされるような「いえ」という概念がいねんはあまりかった。これは天皇てんのうから貴族きぞく社会しゃかいいたるまでそうだった。そこでの「血縁けつえん」は、「いえ」ではなく、つまおっと婿むこよめしゅうとおいと叔、おやまご々という血縁けつえんであって、よく「イエ」と「ミウチ」といういいかたをされる。摂関せっかん時代じだいは「ミウチ」の世界せかいであり、それゆえ摂関せっかん自体じたい天皇てんのうの「ミウチ」になったもの摂関せっかんとなるのであり、嫡男ちゃくなんなどという概念がいねんい。たとえば摂関せっかんいしずえきずいたといわれる藤原基経ふじわらのもとつねから、最盛さいせい藤原ふじわら道長みちながまでのあいだるとそのことがほどける。

「イエ」の概念がいねんまれるのは、白河しらかわ法皇ほうおう院政いんせい時代じだいから徐々じょじょにである。「武士ぶしだん」の時代じだいは、おもにその院政いんせい時代じだい以降いこうであり、その意味いみでは「イエ」による結合けつごう継承けいしょう徐々じょじょつよまってはいたが、しかしの「嫡流ちゃくりゅう」、「本家ほんけ」というような「父系ふけい家族かぞく制度せいど」の概念がいねんらわれぎるとこの時代じだいあやまる。

親子おやこ関係かんけいなら、おや絶対ぜったい服従ふくじゅうだが、兄弟きょうだいとなるとたがいにライバルな要素ようそつよくなる。じつは「父系ふけい家族かぞく制度せいど」と「母系ぼけい家族かぞく制度せいど」が混在こんざいしていたのが平安へいあん時代じだいかんがえておいたほういとおもう。れい有名ゆうめい平将門たいらのまさかどらんである。そもそもの発端ほったんは、平将門たいらのまさかど叔父おじたちの「婿入むこいさき」であって、それによって平将門たいらのまさかど叔父おじたち関東かんとうとく常陸ひたちこく上総かずさこく下総しもうさこく武蔵むさしこくなどに地盤じばんきずいたとられ、その「婿入むこいさき同士どうし利害りがい対立たいりつが、平将門たいらのまさかど叔父おじ従兄弟いとこ同士どうしこうそうむすびついていった形跡けいせきがある。

12世紀せいきはいると「父系ふけい家族かぞく」の色彩しきさいつよくなるが、「おや絶対ぜったい服従ふくじゅう」にちかいものがあると同時どうじに、それ以前いぜん同様どうよう婚姻こんいんによる義父ぎふ婿むこもまたつよきずなとみなされている。それはいえいえとの政略せいりゃく結婚けっこんというよりは個人こじんてきであり、配偶はいぐうしゃちち祖父そふはじぶんのちち祖父そふにもじゅんずる、義理ぎり兄弟きょうだい兄弟きょうだいじゅんずるという範囲はんい理解りかいしていればおおきくはちがわない。その意味いみでは摂関せっかん時代じだいの「ミウチ」の世界せかいが、まだ一部いちぶにはのこっていたという見方みかた出来できる。

物語ものがたりではあるが、『曽我そが物語ものがたり』(ほん:まなぼん)に頼朝よりとも挙兵きょへいまえ開発かいはつ領主りょうしゅ姻戚いんせき関係かんけいると、大庭おおば御厨みくりやの濫妨から、石橋いしばしさん合戦かっせんまでの相模さがみ近辺きんぺん武士ぶしだん関係かんけい勢力せいりょく範囲はんいがよくあらわされている[55]関東かんとう開発かいはつ領主りょうしゅ連合れんごうは、婚姻こんいん関係かんけいによって維持いじされていた形跡けいせききわめてつよい。三浦みうら頼朝よりとも挙兵きょへいからたからおさむ合戦かっせんでの滅亡めつぼうまでのあいだ外戚がいせきについても、戦国せんごく大名だいみょう政略せいりゃく結婚けっこんとはまたちがった、婚姻こんいん関係かんけいによる共同きょうどう行動こうどう運命うんめい共同きょうどうたいがよくてとれる。

分割ぶんかつ相続そうぞく惣領そうりょうせい[編集へんしゅう]

しょく嫡流ちゃくりゅう[編集へんしゅう]

嫡流ちゃくりゅうは「イエ」の財産ざいさん領地りょうちとして固定こていされ、それを継承けいしょうするところからはじまる。平安へいあん時代じだい後期こうきからは、地方ちほうにおいてはたとえば荘園しょうえん下司げす郡司ぐんじや、郷司ごうししょくがその所領しょりょう領有りょうゆう根拠こんきょであり、そのしょくぐことによって嫡流ちゃくりゅう形成けいせいされる。しかし、それ以外いがい財産ざいさんについては諸子しょし分割ぶんかつするのが平安へいあん時代じだいからのならわしであり、それは鎌倉かまくら時代ときよまでがれた。また、平安へいあん時代じだい末期まっきはまだ開発かいはつ時代じだいであり、兄弟きょうだいがそれぞれの開拓かいたくすすめ、国衙こくがりょうにおいてあらたに(みょう)かたちつくる場合ばあいには、国衙こくがとの関係かんけいにおいては対等たいとうになる。

惣領そうりょうせい[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら時代ときよにおいて、幕府ばくふ惣領そうりょうせい御家人ごけにん支配しはい基盤きばんとした。中小ちゅうしょう御家人ごけにんおおくの場合ばあいその一族いちぞく惣領そうりょうである。大名だいみょうといわれるような一族いちぞくでは一族いちぞくのそれぞれが御家人ごけにんであるが。惣領そうりょう幕府ばくふはその惣領そうりょうおん奉公ほうこうによる主従しゅうじゅう関係かんけいむすび、間接かんせつてきには庶子しょしをも支配しはいした。分割ぶんかつ相続そうぞくとはっても、惣領そうりょうはその一族いちぞく庶子しょしたいしてある程度ていど支配しはいけんっているとなされる。

では惣領そうりょう統制とうせいけんつよかったのかとえば、微妙びみょうである。むろん惣領そうりょう統制とうせいけんはあった、しかし鎌倉かまくら時代ときよにおいてさえ、それほど絶対ぜったいてきなものではなかったことは三浦みうられいにもてとれる。たとえば鎌倉かまくら幕府ばくふ最初さいしょさむらいしょ別当べっとうとなった和田わだ義盛よしもりである。義盛よしもり三浦みうら一族いちぞくではあるが惣領そうりょうではない。そして三浦みうら惣領そうりょう統制とうせいけんもと服従ふくじゅうしていたかとえばそうでもない。その和田わだ合戦かっせんにおいて、三浦みうら惣領そうりょう三浦みうらよしむら和田わだ義盛よしもり同心どうしんするとせかけ、起請文きしょうもんまでいたが、実際じっさいらんはじまると、北条ほうじょうよしときがわった。その三浦みうらが、1247ねんたからおさむ元年がんねん)のたからおさむ合戦かっせんで、安達あだち北条ほうじょう滅亡めつぼうさせられたとき、一族いちぞく佐原さわら盛時せいじ北条ほうじょうについて、のち三浦みうら惣領そうりょうとなった。

惣領そうりょうせい分割ぶんかつ相続そうぞく前提ぜんていとしていて、たいするぞくてき結合けつごうのもっともはっきりとしたものでもある。その家長かちょうせいとはいささかおもむきがことなるが、武士ぶしだんとしての結集けっしゅうはその一族いちぞく惣領そうりょう盟主めいしゅとして結集けっしゅうするにちかいものがある。その惣領そうりょうせい分割ぶんかつ相続そうぞくせいが、嫡男ちゃくなんによる単独たんどく相続そうぞく変化へんかするのはおも鎌倉かまくら時代じだい末期まっきから南北なんぼくあさ時代じだいである。

家督かとくせい嫡男ちゃくなんによる単独たんどく相続そうぞく[編集へんしゅう]

そのもっともはやれいは、1234ねん天福てんぷく2ねん)に常陸ひたちだいじょう一族いちぞく烟田かまた(かまた)しゅうみきが、その相伝そうでん所領しょりょう4ヶ村かそんを、嫡子ちゃくしあさしゅうへのがせた譲状ゆずりじょうである[56]。 これは代々だいだい分割ぶんかつ相続そうぞくによって細分さいぶんされていった御家人ごけにん所領しょりょうくところまでいったということでもある。烟田かまたれいは、たしかに時期じきはやいが、烟田かまた自体じたいが、常陸ひたちだいじょうからの分流ぶんりゅうである鹿島かしまの庶流であり、その所領しょりょうわずかに4ヶ村かそんであったことにもてとれる。 嫡男ちゃくなんによる単独たんどく相続そうぞくはその江戸えど時代じだいつづ一般いっぱんてきな「家督かとく」、つまり「いえ」のイメージである[57]

それでも惣領そうりょうせい鎌倉かまくら時代じだいにはともかくも維持いじされていたが、鎌倉かまくら幕府ばくふというおもしが消滅しょうめつし、たてたけし政権せいけん南北なんぼく分列ぶんれつし、さら天下てんかさんぶん形勢けいせいとなるにおよんで、嫡子ちゃくし庶子しょし分裂ぶんれつられるようになり、さらにはったがわについた庶子しょし庶家嫡流ちゃくりゅう宗家そうけ凌駕りょうがする事態じたいおとずれる[58]

とうてき武士ぶしだん[編集へんしゅう]

惣領そうりょうせいにおける武士ぶしだん結合けつごうも、けっして絶対ぜったい君主くんしゅてき統制とうせいがあったわけではないが、さらにゆるやかな団結だんけつえば、「とう」とばれる武士ぶしだんもある。たとえば鎌倉かまくらとう武蔵むさしななとう信濃しなの諏訪すわかみとう摂津せっつ渡辺わたなべとう出雲いずも尼子あまこ新宮しんぐうとう九州きゅうしゅう松浦まつうらとう、また、紀州きしゅう湯浅ゆあさとう[1]などがられる。

それらはある程度ていど一族いちぞくぞくてき結合けつごうでもありながら、しかし一定いってい地域ちいき経済けいざい単位たんいもとづく協同きょうどう組合くみあい、あるいは同盟どうめい性格せいかくのものがおおい。武蔵むさしななとう完全かんぜん地域ちいき連合れんごうのとなしてもよいだろう。ただし、中央ちゅうおう貴族きぞく武蔵むさしこく小野おのまき別当べっとう任命にんめいされたのを契機けいきに、10世紀せいきなかごろから武蔵むさし土着どちゃくしてせい武士ぶししていったものもある(小野おのせい横山よこやまなど)。こうした諸氏しょしは、和田わだ横山よこやまのように御家人ごけにん姻戚いんせき関係かんけいち、勢力せいりょく拡大かくだいしていった。

豊田とよだたけしは「とう共通きょうつう性格せいかく」を以下いかの4てんにまとめている[59]

  • いずれにしてもそれが武士ぶしぞくてき結合けつごうのひとつのあらわれである。
  • 比較的ひかくてきしょう地域ちいき中心ちゅうしん結合けつごうしている。
  • はじめは同族どうぞく中心ちゅうしん形成けいせいされていたが、異姓いせいがしだいにくわわり、南北なんぼくあさ時代じだいには一族いちぞく一揆いっきという地域ちいき連合れんごうになってゆく。その場合ばあいでも、同族どうぞくてき意識いしきとうとしての結合けつごう基礎きそをなした。
  • とう構成こうせいいんは、比較的ひかくてき対等たいとう関係かんけいであり、惣領そうりょうがそのとう代表だいひょうする立場たちばにはあったが、その統制とうせいりょくはそれほど強力きょうりょくではない。

とう」とはばれないまとまりのある「武士ぶしだん」においても、そうした性格せいかく一部いちぶはある程度ていど共通きょうつうしている。

一揆いっき[編集へんしゅう]

一揆いっき」というと、だれもがおもすのは「百姓ひゃくしょう一揆いっき」であり、武士ぶし一揆いっきなどほとんどのひとらない。しかし「一揆いっき」とは、「どういち行動こうどうをとること」あるいはそれを誓約せいやくすることである。有名ゆうめいなのは南北なんぼくあさ時代じだい武蔵むさしこくでの「白旗しらはた一揆いっき」、おなじく「武蔵むさしひら一揆いっき」、そして『太平たいへい』にてくる美濃みのの「桔梗ききょう一揆いっき」などである。

これらは分轄ぶんかつ相続そうぞくによって、個々ここには弱小じゃくしょうしてしまったしょう領主りょうしゅたる武士ぶしたちが、勢力せいりょくまれないために、協力きょうりょくしてまとまった勢力せいりょくをつくりあげ、ひとつの武士ぶしだんとしてせん参加さんかし、恩賞おんしょうようというものであり、「白旗しらはた一揆いっき」や「桔梗ききょう一揆いっき」はその旗印はたじるし名前なまえとした。

また、備後びんごこく山内やまうち首藤しゅどうは、南北なんぼくあさ時代じだいの1351ねん貞和さだかず7ねん)に、分轄ぶんかつ相続そうぞくによって結束けっそくりょくうすれた一族いちぞく11にんが、一致いっち団結だんけつして足利あしかがふゆじきにつくことを誓約せいやくした文章ぶんしょうのこっている[60]

やまととしても有名ゆうめい九州きゅうしゅう北部ほくぶ松浦まつうらとうは、外部がいぶからは「とう」とられるが、そのじつほとんど組織そしきてき共同きょうどう行動こうどうはとらず[61]南北なんぼくあさ時代じだい九州きゅうしゅう探題たんだいであった今川いまがわ了俊りょうしゅんはたらきかけによって最初さいしょした松浦まつうらとう一揆いっき団結だんけつおこなわれるが、1384ねんえいいさお4ねん)の一揆いっき誓約せいやくしょ署名しょめい順番じゅんばんはクジ引によってけつたという[62]

それよりまえ1346ねん貞和さだかず2ねん)にも、上松あげまつうら何人なんにんかの武士ぶしが、度々たびたび足利あしかがかたについてたたかった恩賞おんしょうとして、肥前ひぜんこくかわふくしょう配分はいぶんをうけたことがある。そのときもかれらはクジ引でかわふくしょう配分はいぶん場所ばしょめている。ようするに内部ないぶでの調整ちょうせい不可能ふかのう、クジ引でめるしかなかったということである。なお、「とう」と「一揆いっき」にはっきりとした線引せんひきがあるわけではない。

武士ぶしだん蔓延まんえん[編集へんしゅう]

院政いんせい以前いぜん[編集へんしゅう]

安田やすだ元久もとひさなどの旧来きゅうらい学説がくせつでは、源義家みなもとのよしいえこうさんねんやくころから、「武士ぶし棟梁とうりょう」たるみなもとと、在地ざいち武士ぶしだんとの主従しゅうじゅう関係かんけいまれはじめたとするが、『奥州おうしゅうさんねん』にえる郎党ろうとう主力しゅりょくきょう武者むしゃコネクションである[63]相模さがみこく武士ぶし代表だいひょうとしてられていた鎌倉権五郎かまくらのごんごろう景正かげまさ景政かげまさ)、三浦みうら平太郎へいたろう為次ためじにしても、おそらくはおやだいからのきょう武者むしゃコネクションによる参加さんかてもおかしくはない。

11世紀せいき-12世紀せいきあいだに、開発かいはつ領主りょうしゅとして発展はってんしていったことが豊富ほうふ資料しりょう裏付うらづけられる安芸あきこく高田たかだぐん藤原ふじわら但馬たじまこく温泉郷おんせんきょう(ゆのごう)のたいら伊賀いがこく名張なばりぐんたけ(はせつかべ)下総しもうさこく相馬そうま御厨みくりや千葉ちば、そのれいをみても、かれらが当時とうじの「武士ぶし棟梁とうりょう」とわれた軍事ぐんじ貴族きぞく人格じんかくてき主従しゅうじゅう関係かんけいをもっていたと証明しょうめいすることは非常ひじょう困難こんなんとされる[64]

その主従しゅうじゅう関係かんけいは、時代じだいの『吾妻あづまきょう』や、御家人ごけにん伝承でんしょうなかにしかいだすことが出来できない。千葉ちばや、けんろう景正かげまさ子孫しそん、ないしは一族いちぞくとされる大庭おおばなどにおいては、『吾妻あづまきょう』にある「相伝そうでん家人かじん」が、事実じじつ相違そういすることはすでてきたとおりである。

のちに「武士ぶし」として登場とうじょうする、関東かんとう開発かいはつ領主りょうしゅいたるの11世紀せいきまつまでの状況じょうきょうがどうだったかといえば、当時とうじはその所領しょりょう支配しはいは、郡司ぐんじ郷司ごうしなどの公的こうてきしょしょく媒介ばいかいとして、開墾かいこんおこない、村落そんらく形成けいせいすることを課題かだいとしはじめたころであり、領地りょうち支配しはい、あるいはその拡大かくだいにおいて、隣接りんせつする開発かいはつ領主りょうしゅとのこうそう日常にちじょうするほどの飽和ほうわてんにはまだいたってはいない[65]

11せい後半こうはん相模さがみこくにおいて武力ぶりょく衝突しょうとつのあったことをしめ記録きろくはある[66]。しかしかれらは依然いぜんとして「武芸ぶげいをもってぎょうとする」特種とくしゅ存在そんざいであったといえる。その特種とくしゅ存在そんざいであった千葉ちばや、鎌倉権五郎かまくらのごんごろう景正かげまさ一族いちぞくら、辺境へんきょう軍事ぐんじ貴族きぞく子孫しそんたちからむ、たとえば大庭おおば御厨みくりや事件じけんにしても、武士ぶし同士どうし戦乱せんらんとはほどとお小競こぜいにすぎない。

とはいえ、『こうじょうどおり1099ねんかんかず元年がんねん)5がつ3にちじょうに、白河しらかわいんより「諸国しょこく兵仗ひょうじょうおおつ、宣旨せんじくだされ制止せいしふべし」との指示しじしるされている。この「諸国しょこく」は近畿きんきでのこととおもわれるが、世相せそうとして自力じりき救済きゅうさいてき様相ようそうはじめたということは当時とうじ頻発ひんぱつした強訴ごうそなかにもてとれるかもしれない。

源平げんぺい争乱そうらん[編集へんしゅう]

粉飾ふんしょくはいらない資料しりょうなかで、農村のうそんでの武士ぶしだん社会しゃかい密度みつど変化へんかがうかがえるもとして、『信貴山しぎさん縁起えんぎ絵巻えまき』(しぎさんえんぎえまき)と、『粉河寺こかわでら縁起えんぎ絵巻えまき』がある。

前者ぜんしゃは12世紀せいき前半ぜんはん鳥羽とば上皇じょうこう院政いんせい前期ぜんき後者こうしゃは12世紀せいき後半こうはんこう白河しらかわ院政いんせいころ作品さくひんともわれる。それらの絵巻えまきには、信貴山しぎさん大和やまとこく粉河寺こかわでら紀伊きいこく、と畿内きないでも隣接りんせつした地方ちほう長者ちょうじゃいええがかれているが、前者ぜんしゃには警護けいご武者むしゃも、もんまえ空堀からぼりも、もんうえいのにたいし、後者こうしゃではそれらがえがかれている。義江よしえ彰夫あきおおなじ12世紀せいきながら、その初期しょき後期こうきとのあいだ地方ちほう長者ちょうじゃ、すなわち開発かいはつ領主りょうしゅ武装ぶそう武士ぶしだん)がすすんだとしている[67]

粉河寺こかわでら縁起えんぎ絵巻えまき』はこう白河しらかわ法皇ほうおうのプロデュースともわれるが、はっきりはぜず、その成立せいりつ時期じきは、12世紀せいき後半こうはんから13世紀せいき初頭しょとうまでと諸説しょせつある。かり白河しらかわ法皇ほうおううけたまわやすばんさんねんどう時期じき1171ねんうけたまわやす元年がんねん前後ぜんこうとしても、『信貴山しぎさん縁起えんぎ絵巻えまき』から、『かんしょう』において慈円じえんが「日本にっぽんこく乱逆らんぎゃくうんふことはをこりて、むさ(武者むしゃ)のになりける也」といた「もとらん」、「平治へいじらん」を挿んで、さらにその10ねんちかのちということになる。たしかにこのあいだにも、在地ざいち社会しゃかいでのおおきな変動へんどうがあった。

またかりにもっともおそい13世紀せいきせつただしいとすれば、当然とうぜん源平げんぺい争乱そうらんのちということになる。そのなんじゅうねんかのあいだに、畿内きない領主りょうしゅ一般いっぱんぞうが、武装ぶそうせぬ存在そんざいから、武士ぶし武具ぶぐ常備じょうびし、屋敷やしきまもりもかためる鎌倉かまくら時代ときよ御家人ごけにん地頭じとうにもた、あるいはその御家人ごけにん姿すがた変貌へんぼうしていったことを如実にょじつ物語ものがたっている。

ふたつの絵巻えまき傍証ぼうしょうにしかぎないが、武士ぶしだん蔓延まんえんはいつから、といういにたいしては、ちょうど12世紀せいきにゅうろうとするころから、「もとらん」、「平治へいじらん」をだいいち節目ふしめとして、さら源平げんぺい争乱そうらんにおいてピークにたっしたとられている。ふたつのらんにより、それまできょう武者むしゃのよりどころであった摂関せっかん家政かせい機構きこうなか武力ぶりょく解体かいたいし、一方いっぽういん北面ほくめん平家ひらか一人ひとりちにより機能きのう停止ていしする。そして平家へいけきょう内裏だいり警護けいごために、おそらくは国衙こくがつうじて、諸国しょこく武士ぶし在京ざいきょう勤務きんむ大番おおばんやくはじめる。これは地方ちほう領主りょうしゅたちにとって負担ふたんたしかにおおきいものの、一方いっぽうで「ハレ」のであり、中央ちゅうおう勢力せいりょくとのコネクションをためにもと意気込いきごみ、それがまた「武士ぶし身分みぶん獲得かくとく」ともなった。

そして、1180ねんみなもと頼朝よりとも挙兵きょへい以降いこう平家ひらか高倉たかくらいんいのちとして、公卿くぎょう受領じゅりょうから「兵士へいし」を徴収ちょうしゅうさら権門けんもんしょ荘園しょうえんからも「兵士へいし」を徴収ちょうしゅうする。また、それをめる木曾きそ義仲よしなかぐんは、由緒ゆいしょただしい武士ぶしばかりか「東国とうごく武士ぶしおっと人夫にんぷ)までが弓箭きゅうせんにたづさいてそうろえば」[68]報告ほうこくされるように、人夫にんぷまでが弓箭きゅうせんたずさえて戦闘せんとう参加さんかする。さら1184ねんきょう制圧せいあつした頼朝よりともかたも「器量きりょうこたえたるやから」を広範こうはん招集しょうしゅう動員どういんする。開発かいはつ領主りょうしゅ多数たすう武士ぶし」となったのはこの段階だんかいであろう。髙橋昌明まさあきはそれをこうひょうした。

かくして、鎌倉かまくら武士ぶし武官ぶかんけい武士ぶし軍事ぐんじ貴族きぞく否定ひていてき肯定こうていであり、肯定こうていてき否定ひていであった。あたらしいさけふるかわぶくろられたのである[69]

南北なんぼくあさ争乱そうらんでの武士ぶし拡大かくだい[編集へんしゅう]

しかし、それでも源平げんぺい争乱そうらんわずかに5ねんであり、しかもひがしから西にし漸次ぜんじ戦場せんじょううつしていった。そのつぎぎの武士ぶしそう拡大かくだいは、鎌倉かまくら幕府ばくふ崩壊ほうかいから南北なんぼくあさ争乱そうらんであり、この段階だんかい日本にっぽん全国ぜんこく長年ながねんわた争乱そうらん時代じだいへと突入とつにゅうする。それにくらべればうけたまわ寿ことぶきひさしらん源平げんぺい合戦かっせん)などは瞬間しゅんかん出来事できごとである。武器ぶき戦闘せんとう様式ようしきからても、平安へいあん時代じだいから鎌倉かまくら時代ときよ鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼうまでのあいだではそうおおきな変化へんかい。近藤こんどう好和よしかずはそれが変化へんかはじめたのは南北なんぼくあさ時代じだいとする。つまり騎馬きば武者むしゃ弓箭きゅうせんでなく打物うちものをメインの武器ぶきとしても使つかはじめた[70]

また佐藤さとう進一しんいちはその戦闘せんとう様式ようしき変化へんかを、やり登場とうじょうわせて「悪党あくとう」や「溢者」を前身ぜんしんとする「武士ぶしそう末広すえひろがりとされる[71]南北なんぼくあさ時代じだいにはすくなくともきゅう勢力せいりょくからは「悪党あくとう」とばれるもの増加ぞうか参戦さんせんがあり、たとえば赤松あかまつ則村のりむら円心えんしん)や、楠木くすのき正成まさしげ代表だいひょうてき悪党あくとうとされる。しかし問題もんだいはそれよりも、もっと下層かそう武士ぶしなかに、それまでは武士ぶし身分みぶんたなかった多数たすうの「悪党あくとう」がくわわっていったことだろう。

永原ながはらけいによれば、武士ぶしだん成立せいりつした12世紀せいきから南北なんぼくあさ時代じだいにかけての在地ざいち領主りょうしゅ軍事ぐんじりょくは、同族どうぞくてきなイエを単位たんいとするものであり、すう10にんから200にん程度ていど兵力へいりょく単位たんい軍団ぐんだんであり、だい地域ちいき軍事ぐんじてきすべりょうはこうしたイエ軍団ぐんだん連合れんごう組織そしきした。すでれた「白旗しらはた一揆いっき」や「桔梗ききょう一揆いっき」、そのくに一揆いっきなどはみなそうであるとする[72]

室町むろまち時代じだいから戦国せんごく時代じだい[編集へんしゅう]

しかし、15世紀せいき-16世紀せいきになると、その様相ようそうわってくる。たとえば「城郭じょうかく」は、それまでは「かいだてをき、さかもぎをいて」と臨時りんじのバリケードとかけるためのであり、恒常こうじょうてき設備せつびではなかったのにたいし、15世紀せいき以降いこうから恒常こうじょうてき施設しせつとして「しろ」がきずかれるようになる。そのはやれいとり坂城さかき鶏冠けいかんじょう)、そして常陸ひたち真壁まかべしろである[73]。それは平安へいあん時代じだいから鎌倉かまくら時代ときよのように、戦乱せんらんかぎられた地方ちほう一瞬いっしゅんこるものから、全国ぜんこくてき、かつ常態じょうたいとなったこと。そしてのそ戦乱せんらん危機きき領主りょうしゅたちが、のがれられないものとしてれた時期じきともえる。また、戦法せんぽうおおきく変化へんかして定着ていちゃくした。エリート騎馬きば武者むしゃによるゆみしゃせんなどすで昔話むかしばなしでしかなくなっていた。

社会しゃかい経済けいざい変容へんよう影響えいきょうをもたらした。農業のうぎょう生産せいさんりょく発達はったつ流通りゅうつう拡大かくだいによって、百姓ひゃくしょう身分みぶんそうなかからも、加地かじおさむけんあつめ、日常にちじょうてき営農えいのうから解放かいほうされるそう広範こうはんまれる。そのそうが、地域ちいき封建ほうけん領主りょうしゅそうむすびついてみずからもしょう領主りょうしゅしてさむらいとなり、守護しゅご大名だいみょう国人くにびときゅう地頭じとうそう)と主従しゅうじゅう関係かんけいって年貢ねんぐ一部いちぶ免除めんじょけて合戦かっせんには「よせ」クラスの軍役ぐんえきつとめる。

戦国せんごく大名だいみょう軍事ぐんじりょく裾野すそのとして組織そしきしていった甲斐かい武田たけだの「軍役ぐんえきしゅ」、伊達だての「めいかかしゅう」、毛利もうりの「いちしゅ」「いちしょしゅ」などはみなそのるいのものである。そして、そうした農村のうそんからのしょう領主りょうしゅそう成長せいちょうと、その大名だいみょう国人くにびととの結合けつごうが、それまで弱体じゃくたいされつもかろうじてのこっていた荘園しょうえんせいにとどめをしたといわれる[74]

武士ぶしだん」をたんなる一般いっぱん用語ようごとしてではなく、「武士ぶし」とはべつ歴史れきし用語ようごとしてあつかうならば、その範囲はんいは11世紀せいき後半こうはんから15-16世紀せいきまでの、イエ軍団ぐんだんをその類型るいけいとして、それが戦国せんごく時代じだいの、農村のうそんからまれた「よせしゅうえられていったとも整理せいりすることが出来できよう。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

としがあるものはその論文ろんぶん初版しょはん発表はっぴょう時期じきです。収録しゅうろく文献ぶんけん出版しゅっぱんしゃ発行はっこうねん参考さんこう文献ぶんけん

  1. ^ 平安へいあん時代じだい後半こうはんから室町むろまち時代ときよまで。
  2. ^ せき幸彦さちひこ武士ぶしだん研究けんきゅうあゆみⅠ』 p178
  3. ^ 中世ちゅうせい研究けんきゅう史上しじょうにおいては「武士ぶし」と同義どうぎとしてあつかわれることもある。ただし日本にっぽんでは、「武士ぶし」の概念がいねん近世きんせい江戸えど時代じだい)までにわたる。また「武士ぶしろんは「武士ぶしだん」をひきいる「さむらい」のみを対象たいしょうとすることもあるにたいし、「武士ぶしだんろんではその郎党ろうとうふくめた社会しゃかいてき実態じったい対象たいしょうとする。
  4. ^ 竹内たけうちさん日本にっぽん歴史れきし6 武士ぶし登場とうじょう』 p86
  5. ^ 安田やすだ元久もとひさ 1970ねん東国とうごくにおける武士ぶしだん」 『武士ぶし世界せかい序幕じょまく』 p19-20 なお、これは安田やすだ著書ちょしょなかからもっともその主張しゅちょうみじか凝縮ぎょうしゅくされているものとしての引用いんようであり、せき幸彦さちひこの『武士ぶしだん研究けんきゅうあゆみ』によれば、1955ねん北大ほくだい史学しがく』3での「武士ぶし発生はっせいかんするおぼき」においてすで同様どうよう見解けんかいべているという。
  6. ^ 佐藤さとう進一しんいち 1965ねん日本にっぽん歴史れきし 9 南北なんぼくあさ動乱どうらん』 p.184 なお佐藤さとうは1949ねん当時とうじから、中世ちゅうせい社会しゃかい身分みぶん構造こうぞうれて、武士ぶしとは「武芸ぶげいすなわち武技ぶぎ」を特技とくぎとした戦士せんし集団しゅうだんであるとべていたそうである。
  7. ^ 戸田とだかおるじつ 1974ねん 小学館しょうがくかん日本にっぽん歴史れきし6-摂関せっかん時代じだい付録ふろく月報げっぽう6」 での「摂関せっかん時代じだい」の著者ちょしゃ坂本さかもと省三しょうぞうとの対談たいだんであるが、ともにそれ以前いぜん中世ちゅうせい通説つうせつたいする疑問ぎもんみずからの主張しゅちょう動機どうきじつ簡潔かんけつわかりやすくべている。
  8. ^ 戸田とだかおる初期しょき中世ちゅうせい社会しゃかい研究けんきゅう』に収録しゅうろく
  9. ^ 戸田とだかおる初期しょき中世ちゅうせい社会しゃかい研究けんきゅう』「人民じんみん闘争とうそう国家こっかはつ段階だんかい」 p.30
  10. ^ 石井いしいすすむ鎌倉かまくら武士ぶし実像じつぞう合戦かっせんくらしのおきて』に「中世ちゅうせい成立せいりつ軍制ぐんせい」として収録しゅうろく
  11. ^ 石井いしいすすむ 1974ねん日本にっぽん歴史れきしだい12かん 中世ちゅうせい武士ぶしだん』 「武士ぶしだんとはなにか」 p.235
  12. ^ した向井むかい龍彦たつひこ 1985ねん国衙こくが武士ぶし」 『日本にっぽん通史つうし6 古代こだい5』 p.177
  13. ^ した向井むかい龍彦たつひこ 1998ねん 書評しょひょう 元木もとき泰雄やすおちょ武士ぶし成立せいりつ日本にっぽん研究けんきゅう 日本にっぽん研究けんきゅうかい 1998/10
  14. ^ 髙橋昌明まさあき清盛きよもり以前いぜん 伊勢いせたいら興隆こうりゅう』に収録しゅうろく
  15. ^ 「致頼・致経あるいはよりゆきおや・維衡らは、武士ぶし発生はっせいかんするいち見解けんかい--治安ちあん警察けいさつめんがゆるむと民間みんかん武力ぶりょくおこる--のくところとはせい反対はんたいで、かれ自身じしんが「治安ちあん」の紊乱びんらん(びんらん)しゃとしてあらわれてくる。殺人さつじんたたかえらん日常にちじょう茶飯事さはんじとするこれらの武士ぶしは、ロマンの主人公しゅじんこうでも、叙事詩じょじし英雄えいゆうでもない。ただの散文さんぶんてき政治せいじてきにはこのうえもなく矮小わいしょう存在そんざいぎない。」 髙橋昌明まさあき清盛きよもり以前いぜん 伊勢いせたいら興隆こうりゅう増補ぞうほ改訂かいていばん p25 同様どうよう記述きじゅつは『武士ぶし成立せいりつ 武士ぶしぞう創出そうしゅつ』p20にもある。この高橋たかはし指摘してきもそれ以降いこう武士ぶしろん研究けんきゅうにかなりのインパクトと、そして非難ひなんした。うえ横手よこてまさたかしが「アウトローてきみょうなものとられかねない」と指摘してきしたのもそのてん関係かんけいしよう。
  16. ^ いえ概念がいねん発端ほったんだが成熟せいじゅくの「いえ」の概念がいねん区別くべつするためによく「イヘ」「イエ」とかれる。
  17. ^ 髙橋昌明まさあき武士ぶし成立せいりつ 武士ぶしぞう創出そうしゅつ』 「武士ぶし見直みなおす」 p17
  18. ^ 今昔こんじゃく物語ものがたりしゅう』でよくわれる
  19. ^ 髙橋昌明まさあき武士ぶし成立せいりつ 武士ぶしぞう創出そうしゅつ』 「づけろん 武士ぶし発生はっせいろんたけ性格せいかく機能きのうをめぐって-諸氏しょし批判ひはんこたえる」 p163
  20. ^ 髙橋昌明まさあき武士ぶし成立せいりつ 武士ぶしぞう創出そうしゅつづけろん p169
  21. ^ うえ横手よこてまさたかし 1972ねん 『シンポジウム日本にっぽん歴史れきし5』 「平安へいあん時代じだい内乱ないらん武士ぶしだん」 p141
  22. ^ 竹内たけうちさん日本にっぽん歴史れきし6 武士ぶし登場とうじょう』 p82
  23. ^ 阿部あべたけし教養きょうよう日本にっぽん 平安へいあん貴族きぞく実像じつぞう』 「薨卒でん貴族きぞく諸相しょそう」 p110
  24. ^ 類聚るいじゅうさんだいかく901ねん延喜えんぎ元年がんねん)12月21にちかん漢文かんぶん戸田とだかおる国衙こくが軍制ぐんせい形成けいせい過程かてい」(『初期しょき中世ちゅうせい社会しゃかい研究けんきゅう』 p122)
  25. ^ 野口のぐちみのる伝説でんせつ将軍しょうぐん 藤原ふじわらしげるきょう』 p36-38
  26. ^ 近藤こんどう好和よしかず騎兵きへい歩兵ほへい中世ちゅうせい』 p29
  27. ^ 近藤こんどう好和よしかず騎兵きへい歩兵ほへい中世ちゅうせい』 p14
  28. ^ 近藤こんどう好和よしかず武具ぶぐ中世ちゅうせい武士ぶし成立せいりつ」『日本にっぽん時代じだい (7) 院政いんせい展開てんかい内乱ないらん』 p176
  29. ^ a b 佐藤さとう進一しんいち日本にっぽん歴史れきし 9 南北なんぼくあさ動乱どうらん』 p193
  30. ^ 髙橋昌明まさあき武士ぶし成立せいりつ 武士ぶしぞう創出そうしゅつ』 p101
  31. ^ 福田ふくだ豊彦とよひこ東国とうごく兵乱へいらんともののふたち』 p17
  32. ^ 源平げんぺい争乱そうらんころ関東かんとう有名ゆうめい武士ぶしとして長井ながい斎藤さいとう別当べっとうみのるもり稲毛いなげ重成しげなりちち小山田おやまだ別当べっとうゆうじゅう川越かわごえ重頼しげよりちち葛貫つづらぬき別当べっとうのうたかしなど、「別当べっとう」の肩書かたがきが「庄司しょうじ」の肩書かたがきとおなじぐらいおおられる。五味ごみ文彦ふみひこは『増補ぞうほ吾妻あづまきょう方法ほうほう』のなかで、その「別当べっとう」はなん別当べっとうであったのかということをいかけ、『吾妻あづまきょう』1181ねん養和ようわ元年がんねん)7がつ20日はつかじょうにあるしたぶんあてしょくだす 下総しもふさこく御厩みまや別当べっとうところ」を実例じつれいとして、国衙こくが御厩みまや管理かんり部門ぶもん、または同様どうような「ところ」の役職やくしょくではないかと推測すいそくする。また、『吾妻あづまきょう』のしもぶん下川辺しもかわべ庄司しょうじ行平ゆきひらへのみつぎ免除めんじょであり、かれまき所有しょゆう、あるいは管理かんりしていたことがさっせられる。
  33. ^ 髙橋昌明まさあき清盛きよもり以前いぜん 伊勢いせたいら興隆こうりゅう』 p116
  34. ^ 横澤よこざわ大典たいてんみなもと頼信よりのぶ-河内かわうちはじめ成立せいりつ」『王朝おうちょう変容へんよう武者むしゃ』 p392、『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』2かん p316
  35. ^ 髙橋昌明まさあき清盛きよもり以前いぜん 伊勢いせたいら興隆こうりゅう』 p166
  36. ^ 髙橋昌明まさあき武士ぶし成立せいりつ 武士ぶしぞう創出そうしゅつ』 p91
  37. ^ 伊丹いたみ文化財ぶんかざい保存ほぞん協会きょうかいいとかいだい33ごう、2008ねん、4ぺーじ
  38. ^ 戸田とだかおる国衙こくが軍制ぐんせい形成けいせい過程かてい」(『初期しょき中世ちゅうせい社会しゃかい研究けんきゅう』に収録しゅうろく
  39. ^ 石井いしいすすむ中世ちゅうせい成立せいりつ軍制ぐんせい」 『鎌倉かまくら武士ぶし実像じつぞう-合戦かっせんくらしのおきて』
  40. ^ 義江よしえ彰夫あきお荘園しょうえんおおやけりょう体制たいせい武士ぶしだん」 『日本にっぽん歴史れきし大系たいけい3 貴族きぞく政治せいじ武士ぶし』 p152
  41. ^ 石母田いしもたただし中世ちゅうせいてき世界せかい形成けいせい新書しんしょばん p55
  42. ^ 福田ふくだ豊彦とよひこ 1973ねん千葉ちば常胤つねたね』 p48-52
  43. ^ 義江よしえ彰夫あきお日本にっぽん歴史れきし大系たいけい3 貴族きぞく政治せいじ武士ぶし』 p95
  44. ^ 福田ふくだ豊彦とよひこ千葉ちば常胤つねたね』 p35
  45. ^ 前掲ぜんけい 安田やすだ元久もとひさ 1970ねん東国とうごくにおける武士ぶしだん」 『武士ぶし世界せかい序幕じょまく』 p19-20
  46. ^ 福田ふくだ豊彦とよひこ千葉ちば常胤つねたね』 p59 p71-74
  47. ^ 義江よしえ彰夫あきお国衙こくが支配しはいへい登場とうじょう」 『日本にっぽん歴史れきし大系たいけい3 貴族きぞく政治せいじ武士ぶし』 p128-129
  48. ^ 石井いしいすすむ中世ちゅうせい成立せいりつ軍制ぐんせい」 『鎌倉かまくら武士ぶし実像じつぞう合戦かっせんくらしのおきて』 p43
  49. ^ 福田ふくだ豊彦とよひこ千葉ちば常胤つねたね』 p94
  50. ^ 福田ふくだ豊彦とよひこ千葉ちば常胤つねたね』 p91
  51. ^ 高橋たかはし一樹かずき中世ちゅうせい荘園しょうえんたてそう王家おうけ摂関せっかん」『日本にっぽん時代じだい (7) 院政いんせい展開てんかい内乱ないらん』 p185
  52. ^ 元木もとき泰雄やすお武士ぶし成立せいりつ』 p194
  53. ^ 黒田くろだ紘一こういちろう古代こだい末期まっき東国とうごくにおける開発かいはつ領主りょうしゅ位置いち」 『千葉ちば研究けんきゅう』 p28
  54. ^ 豊田とよだたけし武士ぶしだん村落そんらく』 p24 ひさしこの区別くべつ豊田とよだたけし自身じしんがp29でべるように佐藤さとう進一しんいちが1959ねんの『日本人にっぽんじんぶつ大系たいけい』のなかでまとめたもので、それまでのつじ哲郎てつろう家永いえなが三郎さぶろう豊田とよだたけしらによる長年ながねんわた論争ろんそう収束しゅうそくさせ、現在げんざいでは定説ていせつとしてれられている。論争ろんそう過程かていは、せき幸彦さちひこ武士ぶしだん研究けんきゅうあゆみⅡ』 「主従しゅうじゅう道徳どうとくをめぐるしょ学説がくせつ」にくわしい。
  55. ^ 石井いしいすすむ日本にっぽん歴史れきし12 中世ちゅうせい武士ぶしだん』 p34
  56. ^ 鎌倉かまくら遺文いぶん」4193:せき幸彦さちひこ武士ぶし誕生たんじょう』 p16-18
  57. ^ 家督かとく」という言葉ことば自体じたい惣領そうりょうせいころから存在そんざいする。たとえば『吾妻あづまきょううけたまわ4ねん8がつ26にちじょうにある「重頼しげより於秩ちちつよため次男じなんりゅうあいつぎ家督かとく」をめぐって戦前せんぜん戦後せんごつう研究けんきゅうしゃあいだ様々さまざま議論ぎろんがなされている。ただしここでは現在げんざいのイメージでの「家督かとく」としてもちいた。
  58. ^ 佐藤さとう進一しんいち日本にっぽん歴史れきし9 南北なんぼくあさ動乱どうらん』 p191
  59. ^ 豊田とよだたけし武士ぶしだん村落そんらく』 p49
  60. ^ 佐藤さとう進一しんいち日本にっぽん歴史れきし9 南北なんぼくあさ動乱どうらん』 p358
  61. ^ 豊田とよだたけし武士ぶしだん村落そんらく』 p44
  62. ^ 唐津からつ だいさんへん 中世ちゅうせいだいしょう 松浦まつうらとう発展はってん 松浦まつうらとう一揆いっき契約けいやく
  63. ^ 元木もとき泰雄やすお武士ぶし成立せいりつ』 p96 p106
  64. ^ 義江よしえ彰夫あきお荘園しょうえんおおやけりょう体制たいせい武士ぶしだん」 『日本にっぽん歴史れきし大系たいけい3 貴族きぞく政治せいじ武士ぶし』 p155
  65. ^ 義江よしえ彰夫あきお 前掲ぜんけい日本にっぽん歴史れきし大系たいけい3 貴族きぞく政治せいじ武士ぶし』p155
  66. ^ みず左記さき1079ねんうけたまわこよみ3ねん)8がつ30にちじょう相模さがみこくけん大夫たいふためと押領使景平かげへら合戦かっせんしたことがえる。石井いしいすすむあい武士ぶしだん」 『鎌倉かまくら武士ぶし実像じつぞう合戦かっせんくらしのおきて』 p100
  67. ^ 義江よしえ彰夫あきお荘園しょうえんおおやけりょう体制たいせい武士ぶしだん」 『日本にっぽん歴史れきし大系たいけい3 貴族きぞく政治せいじ武士ぶし』p158
  68. ^ かんしょうまき5 後鳥羽ごとば (カナはひらがなにあらためた)
  69. ^ 髙橋昌明まさあき武士ぶし成立せいりつ 武士ぶしぞう創出そうしゅつ』 p148
  70. ^ 近藤こんどう好和よしかず騎兵きへい歩兵ほへい中世ちゅうせい』「打物うちもの騎兵きへいゆみしゃ歩兵ほへい」 p102
  71. ^ 佐藤さとう進一しんいち日本にっぽん歴史れきし9 南北なんぼくあさ動乱どうらん』 p200
  72. ^ 永原ながはらけい荘園しょうえん』 p288
  73. ^ 斎藤さいとう慎一しんいち中世ちゅうせい武士ぶししろ』 p18
  74. ^ 永原ながはらけい荘園しょうえん』 p290

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 石母田いしもたただし中世ちゅうせいてき世界せかい形成けいせい』 (岩波いわなみ新書しんしょばん、 1985ねん初版しょはん 1944ねん
  • 豊田とよだたけし武士ぶしだん村落そんらく』 (吉川弘文館よしかわこうぶんかん、 1963ねん
  • 竹内たけうちさん日本にっぽん歴史れきし6 武士ぶし登場とうじょう』 (中央公論ちゅうおうこうろん、 1965ねん
  • 佐藤さとう進一しんいち日本にっぽん歴史れきし9 南北なんぼくあさ動乱どうらん』 (中央公論ちゅうおうこうろん 、1965ねん
  • うえ横手よこてまさたかし 『シンポジウム日本にっぽん歴史れきし5』 (学生がくせいしゃ、 1972ねん
  • 福田ふくだ豊彦とよひこ千葉ちば常胤つねたね』 (吉川弘文館よしかわこうぶんかん、 1973ねん
  • 石井いしいすすむ日本にっぽん歴史れきし12 中世ちゅうせい武士ぶしだん』 (小学館しょうがくかん、 1974ねん
  • 安田やすだ元久もとひさ武士ぶし世界せかい序幕じょまく』 (吉川弘文館よしかわこうぶんかん、 1982ねん
  • 義江よしえ彰夫あきお日本にっぽん歴史れきし大系たいけい3 貴族きぞく政治せいじ武士ぶし』 (山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ原版げんばん1984ねん
  • せき幸彦さちひこ武士ぶしだん研究けんきゅうあゆみⅠⅡ』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、 1988ねん
  • 戸田とだかおる初期しょき中世ちゅうせい社会しゃかい研究けんきゅう』 (東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、 1991ねん
  • 阿部あべたけし教養きょうよう日本にっぽん 平安へいあん貴族きぞく実像じつぞう』 (東京とうきょうどう出版しゅっぱん、 1993ねん
  • 義江よしえ彰夫あきお日本にっぽん通史つうし5 古代こだい4』 (岩波書店いわなみしょてん、 1995ねん
  • した向井むかい龍彦たつひこ日本にっぽん通史つうし6 古代こだい5』 (岩波書店いわなみしょてん 1995ねん
  • 福田ふくだ豊彦とよひこ東国とうごく兵乱へいらんともののふたち』 (吉川弘文館よしかわこうぶんかん、 1996ねん
  • 川合かわいやすし源平げんぺい合戦かっせん虚像きょぞうぐ』 (講談社こうだんしゃ、 1996ねん
  • 永原ながはらけい荘園しょうえん』 (吉川弘文館よしかわこうぶんかん、 1998ねん
  • 髙橋昌明まさあき武士ぶし成立せいりつ 武士ぶしぞう創出そうしゅつ』 (東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、 1999ねん
  • せき幸彦さちひこ武士ぶし誕生たんじょう ざかひがしへいどものゆめ』 (日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい、 1999ねん
  • した向井むかい龍彦たつひこ日本にっぽん歴史れきし(7) 武士ぶし成長せいちょう院政いんせい』 (講談社こうだんしゃ、 2001ねん
  • 野口のぐちみのる伝説でんせつ将軍しょうぐん 藤原ふじわらしげるきょう』 (吉川弘文館よしかわこうぶんかん、 2001ねん
  • 石井いしいすすむ鎌倉かまくら武士ぶし実像じつぞう合戦かっせんくらしのおきて』 (平凡社へいぼんしゃ、 2002ねん
  • 元木もとき泰雄やすおへん日本にっぽん時代じだい (7) 院政いんせい展開てんかい内乱ないらん』 (吉川弘文館よしかわこうぶんかん、 2002ねん
  • 近藤こんどう好和よしかず騎兵きへい歩兵ほへい中世ちゅうせい』 (吉川弘文館よしかわこうぶんかん、 2004ねん
  • 髙橋昌明まさあき増補ぞうほ改訂かいていばん 清盛きよもり以前いぜん 伊勢いせたいら興隆こうりゅう』(文理ぶんりかく、 2004ねん
  • 元木もとき泰雄やすおへん王朝おうちょう変容へんよう武者むしゃ』 (せいぶんどう出版しゅっぱん、 2005ねん
  • 斎藤さいとう慎一しんいち中世ちゅうせい武士ぶししろ』 (吉川弘文館よしかわこうぶんかん、 2006ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]