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やまと

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やまと(わこう)とは、一般いっぱんてきには13世紀せいきから16世紀せいきにかけて朝鮮半島ちょうせんはんとう中国ちゅうごく大陸たいりく沿岸えんがん一部いちぶ内陸ないりくおよひがしアジアしょ地域ちいきにおいて活動かつどうした日本にっぽん海賊かいぞくわたし貿易ぼうえきみつ貿易ぼうえきおこな貿易ぼうえき商人しょうにんたいする中国ちゅうごく朝鮮ちょうせんがわでの蔑称べっしょう[1]寇と表記ひょうきされる場合ばあいもある。またうみらんおに(かいらぎ)[よう出典しゅってん]八幡やはた(ばはん)ともばれる[2]

やまと

概要がいよう

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やまと寇の歴史れきしおおきくとき前期ぜんきやまと寇(14世紀せいき前後ぜんこう)と、過渡かと後期こうきやまと寇(16世紀せいき)のふたつにけられる[3]。また、15世紀せいき室町むろまち時代じだい武将ぶしょうしょうよしみよりゆき大内おおうち持世もちよたたかなか高麗こうらい盗人ぬすっとやまと寇の国内こくない蔑称べっしょう)をおこなっていた[4]

前期ぜんきやまと寇はおも北部ほくぶ九州きゅうしゅう本拠ほんきょとした日本人にっぽんじん一部いちぶこう麗人れいじんであり、しゅとして朝鮮ちょうせん沿岸えんがん活動かつどう舞台ぶたいとして中国ちゅうごく沿岸えんがんのぼりしゅうにかわしゅうなど黄海こうかい沿岸えんがん)にもおよんだが、朝鮮ちょうせん対馬つしま中心ちゅうしんとする統制とうせい貿易ぼうえき日明ひあがり勘合かんごう貿易ぼうえき発展はってんとともに消滅しょうめつした[1]高麗こうらい王朝おうちょう滅亡めつぼうはやめた一因いちいんともいわれる[1]

後期こうきやまと寇はあかりうみきん政策せいさくによる懲罰ちょうばつけるためマラッカシャムパタニなどに移住いじゅうした中国人ちゅうごくじん浙江せっこうしょう福建ふっけんしょう出身しゅっしんしゃ)が多数たすう一部いちぶ日本人にっぽんじん対馬つしま壱岐いき松浦まつうら五島ごしま薩摩さつまなど九州きゅうしゅう沿岸えんがん出身しゅっしんしゃ)をはじめポルトガルじんなどしょ民族みんぞくふくんでいたと推測すいそくされているが[5]複数ふくすう学説がくせつがある。しゅとして東シナ海ひがししなかい南洋なんよう方面ほうめん活動かつどう舞台ぶたいにしていたが、あかり海防かいぼう強化きょうかと、日本にっぽん国内こくない統一とういつした豊臣とよとみ秀吉ひでよし海賊かいぞく停止ていしれい姿すがたした[1]

名称めいしょう

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字句じくをそのまま解釈かいしゃくすれば、やまと寇とは「倭人わじん日本人にっぽんじん)の侵略しんりゃくぞく」という意味いみで、中国ちゅうごく朝鮮ちょうせんでは日本人にっぽんじん海賊かいぞく意味いみする。使用しようれいは5世紀せいき(404ねん)の高句麗こうくり広開土王こうかいどおう条文じょうぶんにもられるが、後世こうせい意味いみとはことなる。

ここにられる『やまと、○○(地名ちめい)をあだす』という表現ひょうげん漢文かんぶん表記ひょうきでは『やまと寇○○』のように「やまと寇」の2連結れんけつしており、これがのち名詞めいしとして独立どくりつしたとかんがえられている。つまり5世紀せいきやまと寇は「侵入しんにゅうしてきたやまとくに)」をし、13世紀せいき以降いこうやまと寇は「倭人わじんおもとする海賊かいぞく集団しゅうだん」となる。

また、16世紀せいき豊臣とよとみ秀吉ひでよし文禄・慶長ぶんろくけいちょうえきや、にちちゅう戦争せんそうにおける日本にっぽんぐんも「やまと寇」とばれるなど、朝鮮半島ちょうせんはんとう中国ちゅうごくにおいて反日はんにち感情かんじょう表現ひょうげんとして使用しようされる。現代げんだいでも、韓国かんこくじん中国人ちゅうごくじん日本人にっぽんじん侮蔑ぶべつするときにもちいており、「野蛮やばんじん」のニュアンスをふくむ。

今日きょうでは中国人ちゅうごくじん朝鮮ちょうせん韓国かんこくじんが『やまと』を侮蔑ぶべつてきまたは差別さべつてき使用しようしているが、「やまと」の本来ほんらい意味いみせつぶんかいにあるとおり、『やまとは、(かたち・様子ようすしたがう)』であり、『』とはちが小柄こがらやチビなどを意味いみしていない[6]

やまと寇の原因げんいん

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もと寇の報復ほうふくせつ

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対馬つしま壱岐いきもと寇がどのようであったかは日蓮にちれん註画さんいちたに入道にゅうどうしょによる記載きさいのこっている。三田村みたむらやすしすけは、北部ほくぶ九州きゅうしゅうもと寇の最大さいだい被害ひがいしゃだったから、対馬つしま壱岐いき肥前ひぜんこく根拠地こんきょち松浦まつうらとう海賊かいぞくが「侵略しんりゃくしゃかたわれである高麗こうらい報復ほうふくしてあたりまえのことで、いささかのうしろめたさもなかったであろう。」「こころがまえとしては、さらさら海賊かいぞく行為こういではなかった」としている[7]。もともとはもと寇にたいする報復ほうふく意味いみがあることは中国ちゅうごくがわみとめており、しゅもとあきら日本にっぽんにおくったぶんでは、「やまとへい蛮族ばんぞくであるもとのおとろえにじょうじただけだ」としている[8]

日蓮にちれん註画さん

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だいこうむ古來こらいへん

  • 二島ふたじま百姓ひゃくしょうとうおとこあるころせあるおんなしゅういちしょとおる手結たゆ附船つけふねとりこしゃ一人ひとりがい』「壱岐いき対馬つしまとうおとこは、あるいはころしあるいはらえ、おんないちカ所かしょあつめ、をとおしてふねわえける。とりこしゃ一人ひとりとしてがいされざるものなし」

いちたに入道にゅうどうしょ

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建治けんじ元年がんねんがつはちにち

  • 百姓ひゃくしょうとうおとこをばあるいころし、あるいせいりにし、おんなをばあるいあつめて、をとおしてふねむすけ、あるいせいりにす。一人ひとりたすかるものなし」

あかり抵抗ていこうする勢力せいりょくによる扇動せんどうせつ

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あかりおこり、ふとしだか皇帝こうてい(しゅもとあきら)が即位そくいし、かたこくちんちょうまことらがあいいでちゅうせられると、地方ちほう有力ゆうりょくしゃあかりふくさぬものたちが日本にっぽん亡命ぼうめいし、日本にっぽん島民とうみんあつめて、しばしば山東さんとう海岸かいがん地帯ちたいしゅうけん侵入しんにゅうした」[9]

ふじけいこうさそえころせ未遂みすい報復ほうふくせつ

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高麗こうらい」によれば、1375ねんふじけいこうさそえころせ未遂みすいによってやまと寇が激怒げきどし、高麗こうらい住民じゅうみん差別さべつ殺戮さつりくるようになったとしるしている[10]

前期ぜんきやまと

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前期ぜんきやまと寇が活動かつどうしていたのは14世紀せいき日本にっぽん時代じだい区分くぶんでは南北なんぼくあさ時代じだいから室町むろまち時代ときよ初期しょき朝鮮ちょうせんでは高麗こうらいから朝鮮ちょうせん王朝おうちょう初期しょきにあたる。日本にっぽんでは北朝ほくちょうほうじて室町むろまち幕府ばくふひらいた足利あしかがと、吉野よしののがれた南朝なんちょう全国ぜんこく規模きぼあらそっており、中央ちゅうおう統制とうせいがゆるくわたしかすめせん活動かつどうやすかった。前期ぜんきやまと寇の活動かつどう朝鮮ちょうせん沿岸えんがん中国ちゅうごく沿岸えんがんのぼりしゅうにかわしゅうなど黄海こうかい沿岸えんがん)である。

前期ぜんきやまと寇と高麗こうらい

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高麗こうらい』によれば1350(かのえとらねん2がつやまと寇のおかすは此よりはじまる」という記事きじがあり、これが当時とうじ公式こうしき見解けんかいであったようだが、かのえとらねん以前いぜんにも多数たすう記事きじがある。 文献ぶんけんによるともっとふるいのは『高麗こうらい』によればこうむね10ねん(1223ねん)5がつじょうやまと寇金しゅう」とあるのが初出しょしゅつである。これ以後いご史料しりょうには頻繁ひんぱんあらわれている。

1370年代ねんだい前期ぜんきやまと寇の行動こうどう範囲はんい朝鮮ちょうせん北部ほくぶ沿岸えんがんにもおよ南部なんぶでは内陸ないりくふかくまで侵入しんにゅうするようになった。やまと寇の被害ひがい中心ちゅうしんてきけていたこううららでは1376ねんにはちぇおおとりやまで、1380ねんには、成桂せいけい荒山あらやまちぇしげるせんが鎮浦で、1383ねんにはていらが南海なんがいとう観音浦かんのんうらで、やまと寇軍にだい打撃だげきあたえ、1389ねんほおによる対馬つしまこく侵攻しんこうでは、やまと寇船300せき撃破げきはし、捕虜ほりょ救出きゅうしゅつし、そのまちちして帰還きかんした[11]。これ以降いこうやまと寇の侵入しんにゅう激減げきげんする[11]

なお、『高麗こうらい』によれば、こううらら宗主そうしゅこくであるもとあきら上奏じょうそうし、もと以降いこうもさかんに軍艦ぐんかん建造けんぞうしており、日本にっぽん侵攻しんこうかえすことになるが、これは、対馬つしま拠点きょてんとするやまと討伐とうばつ日本にっぽん侵略しんりゃく口実こうじつもとあかり大軍たいぐんふたた自国じこく長期ちょうき駐留ちゅうりゅうして横暴おうぼうきわめることをおそれたあまりの「先走さきばしり」だとされる[12]

南北なんぼくあさ時代じだい政治せいじ動乱どうらんやまと

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斎藤さいとうみつる高麗こうらいにでてくる「倭国わのくに」を南朝なんちょうせい西府にしふ)だと推定すいていしており[13]、ほかにもやまと寇の首領しゅりょう日本にっぽん精鋭せいえい部隊ぶたいおな装備そうびで、南北なんぼくあさあらそいによる統制とうせいゆるみにじょうじて日本にっぽん正規せいき精鋭せいえい部隊ぶたい物資ぶっし略奪りゃくだつ参加さんかしたという意見いけんもある[14][15]渡辺わたなべ昭夫あきおは「なが戦乱せんらん食糧しょくりょう確保かくほすることに限界げんかいかんじた兵士へいしたちちかくに位置いちするこううらら頻繁ひんぱん物資ぶっしもとめにったので高麗こうらい水路すいろ地理ちりくわしくなっていた」と説明せつめいしている[14]

稲村いなむらけんじきは、やまと寇がすうじゅうせきからすうひゃくせきじゅう装備そうび武士ぶしくわわっておおくの食糧しょくりょう略奪りゃくだつしていることから、みなみ朝方あさがた菊池きくち肥前ひぜん松浦まつうらとう松浦まつうら)が北朝ほくちょうとのたたかいのための物資ぶっし獲得かくとく目的もくてきったとした[16]。なお稲村いなむらやまと寇の構成こうせいいんについて、規律きりつがあり、せんれした武士ぶしだんだとべている[16]稲村いなむらきた朝方あさがた九州きゅうしゅう探題たんだいやまと寇とみなみ朝方あさがたせい西府にしふ同一どういつしててき做し、かつあかりからやまと寇の禁圧きんあつもとめられてもせい西府にしふ拒否きょひしたことも論拠ろんきょとしてげている[16]

明朝みんちょう南北なんぼくあさ前期ぜんきやまと

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かたきえい英語えいごばんの『やまと寇図まき

中国ちゅうごくでは1368ねんしゅもとあきらあきら王朝おうちょう建国けんこくし、日本にっぽんたいしてやまと討伐とうばつ要請ようせいをするために使者ししゃ派遣はけんする。使者ししゃ派遣はけんされた九州きゅうしゅうでは南朝なんちょう後醍醐天皇ごだいごてんのう皇子おうじせい西にし将軍しょうぐんみやなつけ親王しんのう活動かつどうしており、使者ししゃむかえたふところりょう九州きゅうしゅう制圧せいあつのための権威けんいとして明王みょうおうちょうからさつふうけ、「日本にっぽん国王こくおう」としょうした。その幕府ばくふから派遣はけんされた今川いまがわ貞世さだよにより九州きゅうしゅう南朝なんちょう勢力せいりょく駆逐くちくされ、南朝なんちょう勢力せいりょく衰微すいび室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐん足利あしかが義満よしみつが1392ねん南北なんぼくあさ合一ごういつおこなうと、あかりとの貿易ぼうえきのぞんだ義満よしみつは、あかり要請ようせいされてやまと寇を鎮圧ちんあつした。やまと寇鎮あつによって義満よしみつ明朝みょうちょうよりあらたに「日本にっぽん国王こくおう」してさつふうされ、1404ねんおうなが11ねん)から勘合かんごう貿易ぼうえきおこなわれようになる。

しゅもとあきらは、福建ふっけんに16しろ築城ちくじょうして1まん5せんへい軍船ぐんせん100せきをおき、浙江せっこうには59のしろ築城ちくじょうして5まん8せんへいをおき、広東かんとん軍船ぐんせん200せきをおいて防備ぼうびかためた[17]

おうなが外寇がいこう

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1419ねん朝鮮ちょうせん王朝おうちょうふとしむねやまと撃退げきたい名目めいもくにした対馬つしま侵攻しんこう決定けっていし、同年どうねん6がつしたがえしげるひきいる227せき、17,285めい軍勢ぐんぜい対馬つしま侵攻しんこうさせた。おうなが外寇がいこうとよばれる。朝鮮ちょうせんぐん敗退はいたいするが[18][19][20][21][22]、この事件じけんにより対馬つしま北九州きたきゅうしゅうしょ大名だいみょう取締とりしまりがきびしくなり、やまと寇の帰化きかなどの懐柔かいじゅうさくおこなったため、前期ぜんきやまと寇は衰退すいたいしていく。

こうして前期ぜんきやまと寇は、室町むろまち幕府ばくふ北九州きたきゅうしゅう守護しゅご大名だいみょう日明ひあがり貿易ぼうえき対馬つしま朝鮮ちょうせんあいだ交易こうえき再開さいかいなどによって下火したびになっていった。

後期こうきやまと

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後期こうきやまと寇の構成こうせいいんおおくはわたし貿易ぼうえきおこな中国人ちゅうごくじんであったとされる。後期こうきやまと寇の活動かつどう交易こうえき襲撃しゅうげき両方りょうほう、いわゆる武装ぶそううみしょうである[23]おも活動かつどう地域ちいきひろ中国ちゅうごく沿岸えんがんであり、また台湾たいわん当時とうじ未開みかいであった)や海南かいなんとう沿岸えんがんにも進出しんしゅつ活動かつどう拠点きょてんとした[23]。また当時とうじ琉球りゅうきゅう王国おうこく朝貢ちょうこう貿易ぼうえきふねやその版図はんと奄美あまみさきとうふくむ)も襲撃しゅうげきあるいは拠点きょてんしているが、しばしば琉球りゅうきゅうおう撃退げきたいされている。また当時とうじ日本にっぽん石見いわみ銀山ぎんざんから産出さんしゅつされた純度じゅんどたかぎんわたし貿易ぼうえき資金しきんげんであった[23]

あかり日本にっぽんでんには「(中国人ちゅうごくじんぞくしゅもう海峰みほひねねがいかえいちはいやまと寇於舟山ふなやまさいはい瀝表,また其黨招諭かくしまそうりつこうじゅん,乞加重かじゅうしょう」。まただい太刀たちりかざすやまと寇の戦闘せんとうりょくたかく、のち戚継こうが『かげりゅう目録もくろく』とやまとがたな分析ぶんせき対策たいさくてるまであかりぐん潰走かいそうかえした。

この時期じきつづいて明王みょうおうあさうみきん政策せいさくによりわたし貿易ぼうえき制限せいげんしており、これに反対はんたいする中国ちゅうごく一説いっせつには朝鮮ちょうせんも)の商人しょうにんたちは日本人にっぽんじん格好かっこう真似まねて(にせやまと)、浙江せっこうしょうそう福建ふっけんしょう南部なんぶつきみなと拠点きょてんとした。これら後期こうきやまと寇は沿岸えんがん有力ゆうりょくごうしん結託けったくし、さらに後期こうきには、だい航海こうかい時代じだいはじまりとともにアジア地域ちいき進出しんしゅつしてきたポルトガルやイスパニア(スペイン)などのヨーロッパじん日本にっぽん博多はかた商人しょうにんともみつ貿易ぼうえきおこなっていた(大曲おおまがりふじない大曲おおまがり』)。

後期こうきやまと寇の頭目とうもくには、中国人ちゅうごくじんおうただしじょうみ光頭こうとうもととうなどがおり、おうただし日本にっぽん平戸ひらど五島列島ごとうれっとう薩摩さつま坊津ぼうのつこう山川やまかわこうなどを拠点きょてん種子島たねがしまへの鉄砲てっぽう伝来でんらいにも関係かんけいしている。鉄砲てっぽう伝来でんらい日本にっぽんでは鉄砲てっぽう普及ふきゅうし、貿易ぼうえき記録きろく研究けんきゅうから、当時とうじ世界一せかいいちじゅう保有ほゆうりょうほこるにいたったとも推計すいけいされている[24]

1547ねんにはあかり官僚かんりょうしゅ浙江せっこうめぐなでとして派遣はけんされるが鎮圧ちんあつ失敗しっぱいし、53ねんからはよしみやすし大倭おおやまとばれるやまと寇のだい規模きぼ活動かつどうがはじまる。こうした状況じょうきょうから明朝みょうちょう内部ないぶ官僚かんりょうなかからもうみきん緩和かんわによる事態じたい打開だかい主張しゅちょうするろんつよまる。その一人ひとりえびすそうけんおうただし懐柔かいじゅうするものの、中央ちゅうおういのちにより処刑しょけいした。指導しどうしゃうしなったことからやまと寇の勢力せいりょくよわまり、つづいて戚継こうやまと討伐とうばつ成功せいこうした。しかし以後いご明王みょうおうあさはこのうみきん緩和かんわする宥和ゆうわさくてんじ、東南とうなんアジアの諸国しょこくやポルトガルとうとの貿易ぼうえきみとめるようになる。ただし、日本にっぽんたいしては後期こうきやまと寇への拠点きょてん提供ていきょうなど不信ふしんかんから貿易ぼうえきみとめない態度たいど継続けいぞくした。やまと寇は1588ねん豊臣とよとみ秀吉ひでよしやまと取締とりしまりれい発令はつれいするまで抬頭しつづけた。

1586ねんフィリピンでは日本人にっぽんじんやまと寇がたんなる略奪りゃくだつ以上いじょう野心やしんっているかもしれないと推測すいそくされており「かれらはほとんど毎年まいとし下山げざんルソン植民しょくみんにするつもりだとわれている」と日本人にっぽんじんによるフィリピン侵略しんりゃくについて警鐘けいしょうらしていた[25]

一方いっぽう朝鮮半島ちょうせんはんとうでは1587ねんには、朝鮮ちょうせん辺境へんきょうみんそむいてやまと寇に内通ないつうし、これを全羅道ぜんらどうそん竹島たけしまみちびいておそわせ、あたりしょう太源たいげん殺害さつがいされるという事件じけんこった[26]。1589ねん秀吉ひでよしからの朝鮮ちょうせん通信使つうしんし派遣はけん要請ようせいいのち朝鮮ちょうせんおとずれた宗義しゅうぎさとし朝鮮ちょうせん朝廷ちょうていからの朝鮮ちょうせんじんやまと寇のわた要求ようきゅう快諾かいだく数カ月すうかげつうち朝鮮ちょうせんじんやまと寇をらえ朝鮮ちょうせんわたした[27]。この朝鮮ちょうせんからの要求ようきゅう朝鮮ちょうせん通信使つうしんし派遣はけん要請ようせいたいするばしさくでもあったが、あっさりと解決かいけつたことによりよく1590ねん正使せいしまこときち副使ふくしきむ誠一せいいち通信使つうしんしとして日本にっぽん派遣はけんされた[26]

やまと寇の構成こうせいいんかんする学説がくせつ

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初期しょき最盛さいせい前期ぜんきやまと寇の構成こうせいいんは、「高麗こうらい」にえるこううららすえ500かい前後ぜんこうやまと関連かんれん記事きじうちこう麗人れいじんくわわっていたと明記めいきされているのは3けんであり、構成こうせいいんおおくが日本人にっぽんじんであったと推測すいそくされる。[28]

高麗こうらい賤民せんみん関与かんよ田中たなかせつ

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東京大学とうきょうだいがく教授きょうじゅ田中たなか健夫たけおは、1370ねんから1390ねんはじめにやまと寇の襲撃しゅうげき激化げきかしたのはあらたに高麗こうらい賤民せんみん階級かいきゅうくわわったからだとし、高麗こうらいおそったやまと寇の構成こうせいいん日本人にっぽんじん主力しゅりょくとして若干じゃっかん高麗こうらい賤民せんみんふくむとした[29]。また、田中たなかはのちに、やまと寇の構成こうせい日本人にっぽんじん朝鮮ちょうせんじん連合れんごうか、または朝鮮ちょうせんじんのみであったともし[30]、さらに、高麗こうらいちょう)にとってやまと寇は外患がいかんであると同時どうじ内憂ないゆうでもあり、朝鮮ちょうせん高麗こうらいからつづいてやまと寇が外患がいかんであることを強調きょうちょうすることでやまと寇がかかえる内憂ないゆう性格せいかく隠蔽いんぺいし、それを梃子てことして国家こっか体制たいせい確立かくりつしたともべている[31]

田中たなかせつについて東京大学とうきょうだいがくめいもと教授きょうじゅ村井むらい章介しょうすけは、おおくの人員じんいんうま海上かいじょう輸送ゆそうさせる困難こんなんさの説明せつめいふくめて説得せっとくりょくがあるとしたが、田中たなか主張しゅちょう根拠こんきょとした朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろくしるされているむね王代おうだいはん中枢ちゅうすういんごとじゅんこうむ発言はつげん[32]について、膨大ぼうだい朝鮮ちょうせん史料しりょうのなかでやまと寇にめる倭人わじん比率ひりつ記載きさいされているのは田中たなかげたいちれいしか存在そんざいせず、そのうえ、その史料しりょうやまと寇の最盛さいせいから50ねん以上いじょうのものであることを[11]、また、その史料しりょう文脈ぶんみゃく賦役ふえきから逃亡とうぼうする辺境へんきょうみんおおい、という事態じたい模範もはんとして提出ていしゅつされており、賤民せんみん階級かいきゅうたいする蔑視べっしが、基本きほんてきかんがかたとなっているため、「倭人わじんいちわりわりぎない」という記述きじゅつをそのままれることは出来できないと批判ひはんしている[11]

境界きょうかいじんせつ村井むらいせつ

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やまと寇の正体しょうたいについて、村井むらいは、当時とうじ国家こっか概念がいねん明確めいかくではなく、日本にっぽん九州きゅうしゅう朝鮮半島ちょうせんはんとう沿岸えんがん中国ちゅうごく沿岸えんがんといったたまき東シナ海ひがししなかい人々ひとびと国家こっか枠組わくぐみをえたひとつの共同きょうどうたいゆうしており、村井むらいかれらを「倭人わじん」という「倭語わご」「やまとふく」といった独自どくじ文化ぶんかをもつ「日本にっぽん」とはまたべつ人間にんげん集団しゅうだんだとし、境界きょうかいきる人々ひとびと(マージナル・マン)とんでいる。村井むらいによれば、やまと寇の本質ほんしつ国籍こくせき民族みんぞくえた人間にんげん集団しゅうだんであり、日本人にっぽんじん朝鮮ちょうせんじんといった分別ふんべつ意味いみがないとべている[11]。ほかに、高橋たかはし公明こうめいやまと寇の構成こうせいについて、済州さいしゅうとううみみんやまと寇にくわわっていった可能かのうせいとなえ、やまと寇の活動かつどうが「国境こっきょうをまたぐ地域ちいき」でひろげられた国家こっか枠組わくぐみをえた性格せいかくのものとべている[33]

東郷とうごうたかし前期ぜんきやまと寇の首領しゅりょうのひとり、おもねただ抜都について赤星あかほし相知おうち松浦まつうらとう)といった九州きゅうしゅう武士ぶし、あるいはモンゴルけい島嶼とうしょひとだか麗人れいじんといった様々さまざま推測すいそくをしている[34]

村井むらいせつ教科書きょうかしょ記載きさいへの批判ひはん

2007ねんにちかん歴史れきし共通きょうつう教材きょうざいは、村井むらいせつ作為さくいてき利用りようされているとして扶桑社ふそうしゃ中学ちゅうがく歴史れきし教科書きょうかしょ[35]どう教科書きょうかしょにおける「(やまと寇は)朝鮮半島ちょうせんはんとう中国ちゅうごく沿岸えんがん出没しゅつぼつしていた海賊かいぞく集団しゅうだんのことである。かれらには朝鮮ちょうせんじんおおふくまれていた。」「16世紀せいきなかごろ、ふたたやまと寇がさかんになったが、その構成こうせいいんほとん中国人ちゅうごくじんであった」といった記述きじゅつについて、やまと寇にめる日本人にっぽんじんかずひくくみせるために村井むらい理論りろん利用りようしたうえで、「日本人にっぽんじん」「朝鮮ちょうせんじん」「中国人ちゅうごくじん」と国籍こくせき強調きょうちょうしていると批判ひはんした[35]

村井むらいせつへの批判ひはん

濱中はまなかのぼるやまと寇の特徴とくちょうである領主りょうしゅせい日本にっぽんには存在そんざいするが、中世ちゅうせい朝鮮ちょうせんには相当そうとうするものが存在そんざいしないためやまと寇の主体しゅたい朝鮮ちょうせん国内こくないにはもとめるのはむずかしいとし[36]朝鮮ちょうせん賤民せんみんやまと寇といつわって略奪りゃくだつはたらいたとする高麗こうらい記録きろくについても、やまと寇の襲撃しゅうげきがまずあり、それから若干じゃっかんおくれて賎民せんみん乱暴らんぼう発生はっせいしていると指摘してきし、やまと寇とはべつのそれにじょうじた泥棒どろぼうるいとした[36]。また、朝鮮半島ちょうせんはんとう南部なんぶうみみん高麗こうらい末期まっきやまと寇にくわわっていたとしても、やまと寇の主力しゅりょく日本人にっぽんじんであることにはわらないし[36]多数たすう騎馬きばふねようすることについては現地げんちでの略奪りゃくだつによってそのかずやしたともした[36]。ほかにも、村井むらいう「やまと」と「日本にっぽん」のちがいについても、朝鮮ちょうせん日本にっぽん国家こっか意識いしきした場合ばあいとそうでない場合ばあい蔑視べっししんがある場合ばあい)との使つかけ、九州きゅうしゅう地方ちほう近畿きんき地方ちほう文化ぶんかてき差異さいぎないとし、「やまと」と「日本にっぽん」は事物じぶつ本体ほんたいとしてはおなじもので、「やまと」と中世ちゅうせい日本にっぽん別個べっこのものではないとした[36]

沈仁やす北京ぺきん大学だいがく教授きょうじゅ)は、村井むらいせつのようにやまと寇を国境こっきょうをまたぐ海上かいじょう勢力せいりょくとすることも全体ぜんたいてきにみれば可能かのうだが、13世紀せいきから16世紀せいきにかけて発生はっせい形成けいせい発展はってん変遷へんせん過程かてい変化へんかしているやまと寇を概括がいかつてき解釈かいしゃくすることは、具体ぐたいてき歴史れきし過程かていかくし、具体ぐたいてき問題もんだいたいする具体ぐたいてき分析ぶんせき方法ほうほうろん原則げんそく符合ふごうしないと批判ひはんした[37]。また沈は、前期ぜんきやまと寇の主力しゅりょく日本人にっぽんじん領主りょうしゅ武士ぶし商人しょうにん)であることは間違まちがいなく[37]後期こうきやまと寇に他国たこくじんくわわっても、主力しゅりょくたしたのではなく、やまと寇の起源きげん活動かつどう初期しょき日本人にっぽんじん関係かんけいがあるため、「日本にっぽん古代こだいかたである『やまと』寇命名めいめい」したと批判ひはんする[37]。また、古代こだいの「やまと呼称こしょう日本にっぽん列島れっとう以外いがい地域ちいき呼称こしょうとしても使つかわれており、「日本にっぽん」とはべつ概念がいねんだとする村井むらいせつたいして、沈は、せんすうひゃくねん以後いご歴史れきしてき事実じじつ紀元前きげんぜん形成けいせいされた「やまと」で解釈かいしゃくすることは適当てきとうとし、さらに、古代こだい中国ちゅうごくにおける「やまと」は日本にっぽんのことであり、「『やまと』『倭人わじん』が、日本にっぽん日本人にっぽんじん古代こだいかたであることは、中国ちゅうごく学界がっかいでは、疑問ぎもんはない」とした[37]

高麗こうらい前期ぜんきにはられなかった「やまと」という呼称こしょう高麗こうらい後期こうきになってあらわれて「日本にっぽん」と併用へいようされていることについて武田たけだ幸男ゆきおは、「やまと」という呼称こしょうあらわれた原因げんいんやまと寇だとべている[38]武田たけだ高麗こうらい日本にっぽん国家こっかレベルで意識いしき、または正式せいしき通交つうこう相手あいて認識にんしきした場合ばあいは「日本にっぽん」とし、国家こっかレベルで意識いしきせず「敵対てきたいしゃ」と認識にんしきしたときは「やまと」としるしているとした[38]。なお、武田たけだは14世紀せいきやまと寇の首領しゅりょう装備そうびについて「典型てんけいてき中世ちゅうせい日本にっぽん武士ぶし」だとしている[39]

後期こうきやまと

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後期こうきやまと寇は、中国人ちゅうごくじん中心ちゅうしんであり、『あかり』には、日本人にっぽんじんやまと寇は10にんうち3にんであり、のこり7にんはこれにしたがったものである(「大抵たいていやまとじゅうさんしたがえやまとしゃじゅうなな。」)としるされている[40]

やまと寇の影響えいきょう

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中国ちゅうごくあきら韓国かんこくこううらら朝鮮ちょうせん王朝おうちょう、また日本にっぽん室町むろまち幕府ばくふたいし、やまと寇は結果けっかとして重要じゅうよう政治せいじてき外交がいこうてき影響えいきょうりょくあたえた。あかり足利あしかが幕府ばくふたいやまと討伐とうばつ要請ようせいする見返みかえりとして勘合かんごう貿易ぼうえき便宜べんぎあたえざるをず、また高麗こうらい王朝おうちょうやまと討伐とうばつ名声めいせい成桂せいけいによってほろぼされ、成桂せいけいによって建国けんこくされた朝鮮ちょうせん王朝おうちょうぶんろくやくころまでやまと対策たいさく懐柔かいじゅう鎮圧ちんあつ)にわれた。朝鮮ちょうせん王朝おうちょうによる対馬つしま侵攻しんこうおうなが外寇がいこう)も、やまと根拠地こんきょち征伐せいばつ大義名分たいぎめいぶんとされていた。

また、だい世界せかい大戦たいせん韓国かんこくでは日本にっぽん略奪りゃくだつされたと主張しゅちょうされる文化財ぶんかざい返還へんかん運動うんどう展開てんかいし、高麗こうらい仏画ぶつが仏像ぶつぞうなど日本にっぽん保管ほかんされる朝鮮ちょうせん由来ゆらい文化財ぶんかざいおおくはやまと寇に略奪りゃくだつされたとする見解けんかい韓国かんこくではなされているが、日本にっぽんでは当時とうじ朝鮮ちょうせん政府せいふ仏教ぶっきょう弾圧だんあつ政策せいさくをとったため日本にっぽん貿易ぼうえきひんとして輸出ゆしゅつされたり、贈答ぞうとうされたとする見解けんかいがある。

奴隷どれい貿易ぼうえき

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前期ぜんきやまと寇は朝鮮半島ちょうせんはんとう山東さんとう遼東りゃおとん半島はんとうでのひとりでらえた人々ひとびと手元てもとにおいて奴婢ぬひとして使役しえきするか、壱岐いき対馬つしま北部ほくぶ九州きゅうしゅう奴隷どれいとして売却ばいきゃくしたが、琉球りゅうきゅうにまで転売てんばいされた事例じれいもあった。

後期こうきやまと寇はさらにだい規模きぼ奴隷どれい貿易ぼうえきおこない、中国ちゅうごくひがし南部なんぶ江南こうなん、淅江、福建ふっけんなどを襲撃しゅうげき住人じゅうにん拉致らちらえられたものは対馬つしま松浦まつうら博多はかた薩摩さつまだいすみなどの九州きゅうしゅう地方ちほう奴隷どれいとして売却ばいきゃくされた。[41]

1571ねんのスペインじん調査ちょうさ報告ほうこくによると、日本人にっぽんじん海賊かいぞくみつ貿易ぼうえき商人しょうにん支配しはいする植民しょくみんはマニラ、カガヤン・バレー地方ちほう、コルディリェラ、リンガエン、バターン、カタンドゥアネスにあった[42]マニラのたたかい (1574)カガヤンのたたかい (1582)影響えいきょうりょく低下ていかしたが、やまと寇の貿易ぼうえきネットワークはフィリピン北部ほくぶおよだい規模きぼなものだった。

戦国せんごく時代じだいらんさまたげ文禄・慶長ぶんろくけいちょうえき朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい)により奴隷どれい貿易ぼうえきはさらに拡大かくだい東南とうなんアジアに拠点きょてん拡張かくちょうみつ貿易ぼうえきおこな後期こうきやまと寇によりアジア各地かくち売却ばいきゃくされた奴隷どれい一部いちぶはポルトガル商人しょうにんによってマカオとう転売てんばいされ、そこから東南とうなんアジア・インドにおくられたものもいたという。1570ねんまでに薩摩さつま来航らいこうしたポルトガルせん合計ごうけい18せきやまと寇のジャンクせんふくめればそれ以上いじょうかずとなる[43]イエズスかいやまと寇をおそれており、1555ねんかれた手紙てがみなかで、ルイス・フロイスは、やまと寇の一団いちだんからまもるために、宣教師せんきょうしたちが武器ぶきたよらざるをなかったことをかたっている[44]

ていしゅんいさお編纂へんさんした百科ひゃっか事典じてん日本一にっぽんいちかん』はみなみ九州きゅうしゅう高洲たかすでは200-300にん中国人ちゅうごくじん奴隷どれい家畜かちくのようにあつかわれていたとべている。奴隷どれいとなっていた中国人ちゅうごくじんふくしゅうきょう泉州せんしゅう漳州出身しゅっしんだったという[45]

歴史れきし米谷こめたにひとしはち事例じれいげている。浙江せっこう漁師りょうしで、1580ねんやまと寇にらえられた。薩摩さつま京泊きょうどまりれてかれ、そこで仏教ぶっきょうそうぎんよんりょうられた。2ねんかれ対馬つしま中国人ちゅうごくじん商人しょうにんられた。6年間ねんかん対馬つしまはたらき、自由じゆうれたは、平戸ひらどうつんだ。平戸ひらどでは、さかなぬのって生活せいかつしていた。そして1590ねん中国ちゅうごくせんルソン島るそんとうわた翌年よくねん中国ちゅうごく帰国きこくすることができたという[46]

活動かつどう地域ちいき

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やまと寇の根拠地こんきょち日本にっぽん対馬つしま壱岐いき五島列島ごとうれっとう瀬戸内海せとないかいをはじめ、朝鮮ちょうせん済州さいしゅうとう中国ちゅうごく沿海えんかい諸島しょとう、また台湾たいわんとう海南かいなんとうにも存在そんざいしていた。

ボルネオ童話どうわにおいて、やまと寇とおぼしきもの活躍かつやくする伝承でんしょうもあり[47]、この周辺しゅうへんまでひろ活動かつどうしていたとおもわれる。またやまと寇であるかは不明ふめいであるが、現在げんざいのタイ(当時とうじのシャム)においてもスペインぐんが「ローニン」の部隊ぶたいおそわれて全滅ぜんめつしたとの記録きろくもある[48]

武術ぶじゅつ

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やまと寇のなか日本にっぽん剣術けんじゅつにつけていたものもいたようで、1561ねんに戚継こうが、やまと寇が所持しょじしていたというかげりゅう目録もくろくている。(かげりゅう開祖かいそあいしま久忠ひさただやまと寇であったというせつもある)戚継こうかげりゅう目録もくろくかやもと編纂へんさんした『武備ぶびこころざし』に掲載けいさいされた。この『武備ぶびこころざし』は江戸えど時代じだい日本にっぽんにもつたわり、掲載けいさいされているかげりゅう目録もくろくについてまつ下見したみりんらがしるしている。このかげりゅう目録もくろくについてはかげりゅうから派生はせいしたしんかげりゅうだい20せい宗家そうけ柳生やぎゅういわおちょうによって真正しんせいもの確認かくにんされた[49]

また、日本にっぽん剣術けんじゅつもとにしたなえがたなという中国ちゅうごく武術ぶじゅつあかりまつからしんはつにかけてまれた。

やまと寇以ひがしアジア海上かいじょう世界せかい

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豊臣とよとみ秀吉ひでよし海賊かいぞく停止ていしれいにより、やまと寇の活動かつどう一応いちおう収束しゅうそくをみるが、ひがしアジアの海上かいじょう世界せかいでは林道りんどういぬいはやしおおとり(リマホン)、あかりほうじてきよし抵抗ていこうしたていしばりゅうてい成功せいこうてい一族いちぞくなどがはんしょうはん海賊かいぞくてき存在そんざいで、やまと寇ではないがどう時代じだい海上かいじょう勢力せいりょくである。また、後期こうきやまと寇におおられた台湾たいわんあずか中国ちゅうごく南部なんぶ広東かんとん福建ふっけん浙江せっこうなど)出身しゅっしんしゃ日本にっぽん横浜よこはま神戸こうべ長崎ながさきさんだい中華ちゅうかがい)や東南とうなんアジアに多数たすうわたり、現地げんち華僑かきょうのコミュニティを形成けいせいし、現在げんざい政治せいじ経済けいざいにおいて影響えいきょうりょくおよぼしている。

八幡やはたせん

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日本にっぽん室町むろまち時代じだいから江戸えど時代じだいにかけての海賊かいぞくせん通称つうしょうして「八幡やはた(やわた)ふね」とばれた。やまと寇が「八幡やはた(はちまん)だい菩薩ぼさつ」ののぼりこのんでもちいたのが語源ごげんとされるが[50]、「ばはん」には海賊かいぞく行為こうい一般いっぱんすともかんがえられている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d やまと寇 わこうKotobank
  2. ^ 古語こご辞典じてん だいはちはん』(旺文社おうぶんしゃ、1994ねん)p.992.はた八幡やはたかみごうしるしたものをあきらひとが「ばはん」とんだことからできたかたり説明せつめいする。
  3. ^ やまと寇」と海洋かいよう史観しかん(立命館大学りつめいかんだいがく人文じんぶん科学かがく研究所けんきゅうじょ紀要きよう(81ごう)、ちょ秦野はたの 裕介ゆうすけ)
  4. ^ けん内記ないき敵陣てきじん退治たいじなん堪忍かんにんあいだ高麗こうらい盗人ぬすっと連続れんぞく衰微すいび難治なんじゆかり今度こんどわたりちょうだか麗人れいじんとう嘆申、仍及御沙汰ごさた今日きょうした上使じょうし奉行ぶぎょう飯尾いいお加賀かがまもるためぎょうどう大和やまともりさだれん両人りょうにん也、進発しんぱつ畢」
  5. ^ 日本にっぽんからひがしアジアにおける国際こくさい経済けいざい成立せいりつえいつもる洋子ようこ城西大学じょうさいだいがく大学院だいがくいん研究けんきゅう年報ねんぽう15 ( 2 ) , pp.67 - 73 , 1999-03
  6. ^ 司馬しばりょう太郎たろう街道かいどうをゆく』 (朝日あさひ文芸ぶんげい文庫ぶんこ)
  7. ^ 三田村みたむらやすしすけあきら帝国ていこくやまと寇」『東洋とうよう歴史れきし8』人物じんぶつ往来おうらいしゃ1967ねん、p152
  8. ^ 三田村みたむらやすしすけあきら帝国ていこくやまと寇」『東洋とうよう歴史れきし8』人物じんぶつ往来おうらいしゃ1967ねん、p157
  9. ^ 講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ倭国わのくにでん』)
  10. ^ 高麗こうらい』(列伝れつでんかねさき致)
  11. ^ a b c d e 村井むらい (1993)
  12. ^ どう列伝れつでんてい
  13. ^ 斎藤さいとうみつる (1990)
  14. ^ a b だい9かいじゅうよん世紀せいき高麗こうらいまつ)、かん朝鮮ちょうせん半島はんとうにおける日本にっぽん精鋭せいえい部隊ぶたい」 - 座談ざだんかい資料しりょう - かんにち歴史れきし座談ざだんかい記録きろく(Webサイト)
  15. ^ 貝塚かいづか茂樹しげき中国ちゅうごく歴史れきし 岩波いわなみ新書しんしょ 1970ねん pp.33 - 34.南朝なんちょうせい西にし将軍しょうぐんなつけ親王しんのうのために兵站へいたん補給ほきゅうし、次第しだい略奪りゃくだつ範囲はんい拡大かくだいし、南シナ海みなみしなかいまでたっし、直接ちょくせつ中国ちゅうごく沿岸えんがんまでたどりいたとしるす。
  16. ^ a b c 稲村いなむら (1957)
  17. ^ 三田村みたむらやすしすけあきら帝国ていこくやまと寇」『東洋とうよう歴史れきし8』人物じんぶつ往来おうらいしゃ1967ねん、p164
  18. ^ そう』「おうながじゅうろくねんおのれろくがつ廿にじゅう朝鮮ちょうせんしょうしたがえしげりつ戰艦せんかんひゃくじゅうななそうそついちまんななせんひゃくはちじゅうにんいた對馬つしましゅう與良よらぐん淺海あすみうら州兵しゅうへいこばめ海濱かいひん不利ふり朝鮮ちょうせんへいいた仁位にいぐんぶん道下みちしたりく、竟進たむろぬかごくさだしげりつ州兵しゅうへいいたぬかだけおかせせきおさむこれ連戰れんせん數日すうじつなながつはついちにちあずかひだりぐんほおまつせん大破たいは朝鮮ちょうせんへい狼狽ろうばいはし海濱かいひん乘船じょうせんさだしげ使海人あま放火ほうか。以燒ぞくせん齋藤さいとう立石たていしひとしはつへいげき賊兵ぞくへいだいつぶせ而還。わがへい戰死せんししゃひゃくじゅうさんにんぞくせんひゃくあまりきゅう。」
  19. ^ 朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろく むね元年がんねん6がつ29にち わが戰死せんし及墜がけ死者ししゃひゃくすうじゅうにん
  20. ^ 朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろく むね元年がんねん7がつ10日とおか やなぎ廷顯さらけい: “たい馬島うましません亡者もうじゃ, ひゃくはちじゅうにん。”[リンク]
  21. ^ むね元年がんねん7がつ22にち ひだりせいほお訔啓: “ひだりぐん節制せっせい使ぼくみのるたい馬島うましま敗軍はいぐんしょまもる漢人かんどそうかんわらわとうじゅういちめい, 備知はいじょう, 不可解ふかかいおく中國ちゅうごく, 以見我國わがくにじゃく
  22. ^ 朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろく むね元年がんねん8がつ5にち こん戰死せんししゃ, 倭人わじんじゅうめい, 朝鮮ちょうせんじんひゃくめい也。
  23. ^ a b c 日本にっぽん遺産いさん国境こっきょうしま壱岐いき対馬つしま五島ごしま 交易こうえき交流こうりゅう緊張きんちょう歴史れきし”. 長崎ながさきけん文化ぶんか観光かんこう国際こくさい文化ぶんか振興しんこう. 2019ねん6がつ22にち閲覧えつらん
  24. ^ ノエル・ペリン『鉄砲てっぽうてた日本人にっぽんじん中公ちゅうこう文庫ぶんこ
  25. ^ Memorial to the Council, 1586, in The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 6, p. 183.
  26. ^ a b やなぎしげるりゅう しるほおがね わけ懲毖ろく平凡社へいぼんしゃ東洋文庫とうようぶんこ、1979ねん、12-18ぺーじISBN 4582803571 
  27. ^ せん23ねん2がつ28にち. 朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろく. 国史こくし編纂へんさん委員いいんかい. http://sillok.history.go.kr/viewer/viewtype1.jsp?id=wna_12302028_001&mTree=0&inResult=0&indextype=1 2015ねん7がつ16にち閲覧えつらん. "珎島きょすなおつどう, 投入とうにゅう倭國わのくに, 嚮導きょうどうさくぞく, いたり日本にっぽんすりかえうえ仁政じんせい殿どの, くだりけんじ俘之れい。" 
  28. ^ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991068/126?tocOpenedNodeIds=info%253Andljp%252Fpid%252F991068&tocCloseNodeId=info%253Andljp%252Fpid%252F991068&viewMode=
  29. ^ 田中たなか (1982)
  30. ^ 田中たなか (1987)
  31. ^ 田中たなか (1997) 田中たなかは、この時代じだいには今日きょうのような国家こっか主権しゅけん概念がいねん存在そんざいせず、なおかつ南北なんぼくあさ内乱ないらん朝鮮半島ちょうせんはんとう王朝おうちょう交替こうたい政治せいじ混乱こんらんによって、たがいに国家こっかへの帰属きぞく意識いしき希薄きはくさせていた日本人にっぽんじんやまと寇と高麗こうらい朝鮮ちょうせんじん賎民せんみん土地とちうしなった農民のうみんみずじゃく才人さいじんばれた差別さべつみん)がむすんで、さらおおきなやまと寇集だん形成けいせいすることは容易ようい状況じょうきょうにあったとべている
  32. ^ 時期じきは15世紀せいきなかば。じゅんこうむ発言はつげんは「ぜんあさやまと興行こうぎょうし、みんせいを聊んぜず。しかるにそのあいだ倭人わじんいちぎずして、本国ほんごくみんけてやまとふくしるとうらんさくす」というもの
  33. ^ 高橋たかはし (1987)
  34. ^ 『【絵解えとき】雑兵ぞうひょう足軽あしがるたちのたたかい』 講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ〉、2007ねん、48-51ぺーじ
  35. ^ a b にちかん交流こうりゅう歴史れきし (2007)
  36. ^ a b c d e 濱中はまなか (1996)
  37. ^ a b c d 沈仁やす翻訳ほんやく藤田ふじた友治ゆうじ藤田ふじた美代子みよこ中国ちゅうごくからみた日本にっぽん古代こだいミネルみねるァ書房ぁしょぼう、2003/12、ISBN 978-4623039050 p363-p368
  38. ^ a b 武田たけだうえ)(2005)
  39. ^ 武田たけだした)(2005)、脚注きゃくちゅうにおいて。
  40. ^ あかりまきさんひゃくじゅう 列傳れつでんだいひゃくじゅう外國がいこくさん にちもと よしみやすしじゅうろくねん
  41. ^ 三宅みやけとおるやまと寇とおうただし』、日本にっぽんひがしアジアのコミュニケーションの総合そうごうてき研究けんきゅう、2012ねん
  42. ^ Worcester, Dean C. (1906). "The Non-Christian Tribes of Northern Luzon". The Philippine Journal of Science. National Science Development Board
  43. ^ 建設けんせつコンサルタンツ協会きょうかい 会報かいほう Vol.256 (2012ねん7がつ) p12-15 「特集とくしゅう 鹿児島かごしま尚古しょうこ集成しゅうせいかん田村たむら省三しょうぞう
  44. ^ Tōkyō Daigaku Shiryō Hensanjo (ed.). Nihon Kankei Kaigai Shiryō – Iezusu-kai Nihon Shokan, Genbun, 3 volumes. Tokyo: Tōkyō Daigaku Shiryō Hensanjo, 1990-2011. II, pp. 303-4.
  45. ^ Zhèng Shùn-gōng / Tei Shunkō (auth.), MIKAJIRI Hiroshi (ed.) Nihon Ikkan. [Unnamed place]:[Unnamed editor], 1937, pp. 482-3. KATAYAMA Harukata. “Nihon Ikkan no Kiso teki Kenkyū, Sono ichi.” In: Komazawa Tanki Daigaku Kenkyū Kiyō, 24, 15. 1997; KATAYAMA Harukata. “Nihon Ikkan no Kiso teki Kenkyū, Sono ni.” In: Komazawa Tanki Daigaku Kenkyū Kiyō, 24, 17. 1998; YONETANI Hitoshi. “Kōki Wakō kara Chōsen Shinryaku he.” In: IKE Susumu (ed.). Tenka Tōitsu to Chōsen Shinryaku. Tokyo: Yoshikawa Kōbunkan, 2003, pp. 146-7.
  46. ^ See YONETANI Hitoshi. “Kōki Wakō kara Chōsen Shinryaku he.” In: IKE Susumu (ed.). Tenka Tōitsu to Chōsen Shinryaku. Tokyo: Yoshikawa Kōbunkan, 2003, pp. 146-7.
  47. ^ 世界せかい童話どうわ宝玉ほうぎょくせん」 p428『ワカナとボルネオのむすめ』 小学館しょうがくかん
  48. ^ 新井あらい こくみぎ(あらい くにすけ)「プロフェッショナル・ファイターズ」p126 はら書房しょぼう
  49. ^ 柳生やぎゅういわおちょう、『正伝せいでんしんかげりゅう』、島津しまつ書房しょぼう、2004ねん
  50. ^ 古語こご辞典じてん だいはちはん』(旺文社おうぶんしゃ)pp.992-993.「国禁こっきん鎖国さこく)をおかして海外かいがい渡航とこうみつ貿易ぼうえきをする」こともふくむとある。p.1409にふねがある。

参考さんこう文献ぶんけん

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資料しりょう
研究けんきゅう文献ぶんけん
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  • 稲村いなむらけんじき琉球りゅうきゅう諸島しょとうにおけるやまと寇史あと研究けんきゅう吉川弘文館よしかわこうぶんかん 、1957ねん
  • 高橋たかはし公明こうめい中世ちゅうせいアジア海域かいいきにおけるうみみん交流こうりゅう済州さいしゅうとう中心ちゅうしんとして」『名古屋大学なごやだいがく文学部ぶんがくぶ研究けんきゅう論集ろんしゅう史学しがく33、1987ねん
  • 佐藤さとう進一しんいち日本にっぽん歴史れきし(9)、南北なんぼくあさ動乱どうらん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1974ねん
  • 田中たなか健夫たけおやまと寇-うみ歴史れきし教育きょういくしゃ歴史れきし新書しんしょ、1982ねん
  • 田中たなか健夫たけおやまと寇とひがしアジア通行つうこうけん」『日本にっぽん社会しゃかいいち列島れっとう内外ないがい交通こうつう国家こっか岩波書店いわなみしょてん、1987ねん
  • 田中たなか健夫たけおひがしアジア通交つうこうけん国際こくさい認識にんしき吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1997ねんだいいちやまと寇とひがしアジア通交つうこうけんおよだい相互そうご認識にんしき情報じょうほう」。
  • 朝鮮ちょうせん研究けんきゅうかい編著へんちょはたでんたかし編修へんしゅう代表だいひょう朝鮮ちょうせん歴史れきし』、三省堂さんせいどう、1974ねん
  • 濱中はまなかのぼる高麗こうらい末期まっきやまと寇集だん民族みんぞく構成こうせい近年きんねんやまと研究けんきゅうせて-」『歴史れきしがく研究けんきゅうだい685ごう、1996ねん
  • 村井むらい章介しょうすけ中世ちゅうせい倭人わじんでん岩波いわなみ新書しんしょ、1993ねん
  • 歴史れきし教育きょういく研究けんきゅうかい日本にっぽん歴史れきし教科書きょうかしょ研究けんきゅうかい韓国かんこくへんにちかん交流こうりゅう歴史れきし明石あかし出版しゅっぱん、2007ねん
  • 沈仁やす中国ちゅうごくからみた日本にっぽん古代こだい藤田ふじた友治ゆうじ藤田ふじた 美代子みよこやくミネルみねるァ書房ぁしょぼう、2003ねん
  • 斉藤さいとうみつるせい西府にしふとその外交がいこうについてのいち考察こうさつ」『ふみいずみ』71ごう、1990ねん
  • せき周一しゅういち中世ちゅうせい海域かいいき交流こうりゅうやまと寇』吉川弘文館よしかわこうぶんかん 、2024ねん ISBN 9784642029872

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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  • 秦野はたの裕介ゆうすけ「「やまと寇」と海洋かいよう史観しかん」『立命館大学りつめいかんだいがく人文じんぶん科学かがく研究所けんきゅうじょ紀要きよう』81ごう、2003ねん[1]