出典 しゅってん は列挙 れっきょ するだけでなく、脚注 きゃくちゅう などを用 もち いてどの記述 きじゅつ の情報 じょうほう 源 げん であるかを明記 めいき してください。記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく をお願 ねが いいたします。(2014年 ねん 7月 がつ )
倭 やまと 寇 (わこう)とは、一般 いっぱん 的 てき には13世紀 せいき から16世紀 せいき にかけて朝鮮半島 ちょうせんはんとう や中国 ちゅうごく 大陸 たいりく の沿岸 えんがん 部 ぶ や一部 いちぶ 内陸 ないりく 、及 およ び東 ひがし アジア諸 しょ 地域 ちいき において活動 かつどう した日本 にっぽん の海賊 かいぞく や私 わたし 貿易 ぼうえき 、密 みつ 貿易 ぼうえき を行 おこな う貿易 ぼうえき 商人 しょうにん に対 たい する中国 ちゅうごく ・朝鮮 ちょうせん 側 がわ での蔑称 べっしょう [1] 。和 わ 寇と表記 ひょうき される場合 ばあい もある。また海 うみ 乱 らん 鬼 おに (かいらぎ)[要 よう 出典 しゅってん ] 、八幡 やはた (ばはん)とも呼 よ ばれる[2] 。
倭 やまと 寇
倭 やまと 寇の歴史 れきし は大 おお きく見 み た時 とき に前期 ぜんき 倭 やまと 寇(14世紀 せいき 前後 ぜんこう )と、過渡 かと 期 き を経 へ た後期 こうき 倭 やまと 寇(16世紀 せいき )の二 ふた つに分 わ けられる[3] 。また、15世紀 せいき 、室町 むろまち 時代 じだい の武将 ぶしょう 少 しょう 弐 に 嘉 よしみ 頼 よりゆき は大内 おおうち 持世 もちよ と戦 たたか う中 なか で高麗 こうらい 盗人 ぬすっと (倭 やまと 寇の国内 こくない 蔑称 べっしょう )を行 おこな っていた[4] 。
前期 ぜんき 倭 やまと 寇は主 おも に北部 ほくぶ 九州 きゅうしゅう を本拠 ほんきょ とした日本人 にっぽんじん で一部 いちぶ が高 こう 麗人 れいじん であり、主 しゅ として朝鮮 ちょうせん 沿岸 えんがん を活動 かつどう の舞台 ぶたい として中国 ちゅうごく 沿岸 えんがん (登 のぼり 州 しゅう 、膠 にかわ 州 しゅう など黄海 こうかい 沿岸 えんがん )にも及 およ んだが、李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん の対馬 つしま を中心 ちゅうしん とする統制 とうせい 貿易 ぼうえき 、日明 ひあがり 勘合 かんごう 貿易 ぼうえき の発展 はってん とともに消滅 しょうめつ した[1] 。高麗 こうらい 王朝 おうちょう の滅亡 めつぼう を早 はや めた一因 いちいん ともいわれる[1] 。
後期 こうき 倭 やまと 寇は明 あかり の海 うみ 禁 きん 政策 せいさく による懲罰 ちょうばつ を避 さ けるためマラッカ 、シャム 、パタニ などに移住 いじゅう した中国人 ちゅうごくじん (浙江 せっこう 省 しょう 、福建 ふっけん 省 しょう 出身 しゅっしん 者 しゃ )が多数 たすう 派 は で一部 いちぶ に日本人 にっぽんじん (対馬 つしま 、壱岐 いき 、松浦 まつうら 、五島 ごしま 、薩摩 さつま など九州 きゅうしゅう 沿岸 えんがん の出身 しゅっしん 者 しゃ )をはじめポルトガル人 じん など諸 しょ 民族 みんぞく を含 ふく んでいたと推測 すいそく されているが[5] 、複数 ふくすう の学説 がくせつ がある。主 しゅ として東シナ海 ひがししなかい 、南洋 なんよう 方面 ほうめん を活動 かつどう 舞台 ぶたい にしていたが、明 あかり の海防 かいぼう の強化 きょうか と、日本 にっぽん 国内 こくない を統一 とういつ した豊臣 とよとみ 秀吉 ひでよし の海賊 かいぞく 停止 ていし 令 れい で姿 すがた を消 け した[1] 。
字句 じく をそのまま解釈 かいしゃく すれば、倭 やまと 寇とは「倭人 わじん (日本人 にっぽんじん )の侵略 しんりゃく 賊 ぞく 」という意味 いみ で、中国 ちゅうごく 、朝鮮 ちょうせん では日本人 にっぽんじん 海賊 かいぞく を意味 いみ する。使用 しよう 例 れい は5世紀 せいき (404年 ねん )の高句麗 こうくり 広開土王 こうかいどおう 碑 ひ の条文 じょうぶん にも見 み られるが、後世 こうせい の意味 いみ とは異 こと なる。
ここに見 み られる『倭 やまと 、○○(地名 ちめい )を寇 あだ す』という表現 ひょうげん の漢文 かんぶん 表記 ひょうき では『倭 やまと 寇○○』のように「倭 やまと 寇」の2字 じ が連結 れんけつ しており、これが後 のち に名詞 めいし として独立 どくりつ したと考 かんが えられている。つまり5世紀 せいき の倭 やまと 寇は「侵入 しんにゅう してきた倭 やまと (国 くに )」を指 さ し、13世紀 せいき 以降 いこう の倭 やまと 寇は「倭人 わじん を主 おも とする海賊 かいぞく 集団 しゅうだん 」となる。
また、16世紀 せいき の豊臣 とよとみ 秀吉 ひでよし の文禄・慶長 ぶんろくけいちょう の役 えき や、日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう における日本 にっぽん 軍 ぐん も「倭 やまと 寇」と呼 よ ばれるなど、朝鮮半島 ちょうせんはんとう や中国 ちゅうごく において反日 はんにち 感情 かんじょう の表現 ひょうげん として使用 しよう される。現代 げんだい でも、韓国 かんこく 人 じん や中国人 ちゅうごくじん が日本人 にっぽんじん を侮蔑 ぶべつ するときに用 もち いており、「野蛮 やばん 人 じん 」のニュアンスを含 ふく む。
今日 きょう では中国人 ちゅうごくじん 、朝鮮 ちょうせん ・韓国 かんこく 人 じん が『倭 やまと 』を侮蔑 ぶべつ 的 てき または差別 さべつ 的 てき に使用 しよう しているが、「倭 やまと 」の本来 ほんらい の意味 いみ は説 せつ 文 ぶん 解 かい 字 じ にある通 とお り、『倭 やまと は、(かたち・様子 ようす に従 したが う)』であり、『矮 』とは違 ちが い小柄 こがら やチビなどを意味 いみ していない[6] 。
対馬 つしま や壱岐 いき の元 もと 寇がどのようであったかは日蓮 にちれん 註画讃 さん や一 いち 谷 たに 入道 にゅうどう 御 ご 書 しょ による記載 きさい が残 のこ っている。三田村 みたむら 泰 やすし 助 すけ は、北部 ほくぶ 九州 きゅうしゅう は元 もと 寇の最大 さいだい の被害 ひがい 者 しゃ だったから、対馬 つしま ・壱岐 いき ・肥前 ひぜん 国 こく が根拠地 こんきょち の松浦 まつうら 党 とう の海賊 かいぞく が「侵略 しんりゃく 者 しゃ の片 かた われである高麗 こうらい に報復 ほうふく してあたりまえのことで、いささかのうしろめたさもなかったであろう。」「心 こころ がまえとしては、さらさら海賊 かいぞく 行為 こうい ではなかった」としている[7] 。もともとは元 もと 寇に対 たい する報復 ほうふく の意味 いみ があることは中国 ちゅうごく 側 がわ も認 みと めており、朱 しゅ 元 もと 璋 あきら が日本 にっぽん におくった文 ぶん では、「倭 やまと 兵 へい は蛮族 ばんぞく である元 もと のおとろえに乗 じょう じただけだ」としている[8] 。
第 だい 五 ご 「蒙 こうむ 古來 こらい 」篇 へん )
『二島 ふたじま 百姓 ひゃくしょう 等 とう 。男 おとこ 或 ある 殺 ころせ 或 ある 捕 と 。女 おんな 集 しゅう 一 いち 所 しょ 。徹 とおる 手結 たゆ 附船 つけふね 。不 ふ 被 ひ 虜 とりこ 者 しゃ 。無 む 一人 ひとり 不 ふ 害 がい 』「壱岐 いき 対馬 つしま の二 に 島 とう の男 おとこ は、あるいは殺 ころ しあるいは捕 と らえ、女 おんな を一 いち カ所 かしょ に集 あつ め、手 て をとおして船 ふね に結 ゆ わえ付 つ ける。虜 とりこ 者 しゃ は一人 ひとり として害 がい されざるものなし」
(建治 けんじ 元年 がんねん 五 ご 月 がつ 八 はち 日 にち )
「百姓 ひゃくしょう 等 とう は男 おとこ をば或 あるい は殺 ころ し、或 あるい は生 せい 取 と りにし、女 おんな をば或 あるい は取 と り集 あつ めて、手 て をとおして船 ふね に結 むす び付 つ け、或 あるい は生 せい 取 と りにす。一人 ひとり も助 たす かる者 もの なし」
明 あかり に抵抗 ていこう する勢力 せいりょく による扇動 せんどう 説 せつ [ 編集 へんしゅう ]
「明 あかり が興 おこ り、太 ふとし 祖 そ 高 だか 皇帝 こうてい (朱 しゅ 元 もと 璋 あきら )が即位 そくい し、方 かた 国 こく 珍 ちん ・張 ちょう 士 し 誠 まこと らがあい継 つ いで誅 ちゅう せられると、地方 ちほう の有力 ゆうりょく 者 しゃ で明 あかり に服 ふく さぬ者 もの たちが日本 にっぽん に亡命 ぼうめい し、日本 にっぽん の島民 とうみん を寄 よ せ集 あつ めて、しばしば山東 さんとう の海岸 かいがん 地帯 ちたい の州 しゅう 県 けん に侵入 しんにゅう した」[9] 。
藤 ふじ 経 けい 光 こう 誘 さそえ 殺 ころせ 未遂 みすい の報復 ほうふく 説 せつ [ 編集 へんしゅう ]
「高麗 こうらい 史 し 」によれば、1375年 ねん の藤 ふじ 経 けい 光 こう 誘 さそえ 殺 ころせ 未遂 みすい によって倭 やまと 寇が激怒 げきど し、高麗 こうらい 住民 じゅうみん の無 む 差別 さべつ 殺戮 さつりく に出 で るようになったと記 しる している[10] 。
前期 ぜんき 倭 やまと 寇が活動 かつどう していたのは14世紀 せいき 、日本 にっぽん の時代 じだい 区分 くぶん では南北 なんぼく 朝 あさ 時代 じだい から室町 むろまち 時代 ときよ 初期 しょき 、朝鮮 ちょうせん では高麗 こうらい から朝鮮 ちょうせん 王朝 おうちょう の初期 しょき にあたる。日本 にっぽん では北朝 ほくちょう を奉 ほう じて室町 むろまち 幕府 ばくふ を開 ひら いた足利 あしかが 氏 し と、吉野 よしの へ逃 のが れた南朝 なんちょう が全国 ぜんこく 規模 きぼ で争 あらそ っており、中央 ちゅうおう の統制 とうせい がゆるく私 わたし 掠 かすめ 船 せん も活動 かつどう し易 やす かった。前期 ぜんき 倭 やまと 寇の活動 かつどう 地 ち は朝鮮 ちょうせん 沿岸 えんがん や中国 ちゅうごく 沿岸 えんがん (登 のぼり 州 しゅう 、膠 にかわ 州 しゅう など黄海 こうかい 沿岸 えんがん )である。
『高麗 こうらい 史 し 』によれば1350(庚 かのえ 寅 とら )年 ねん 2月 がつ 「倭 やまと 寇の侵 おか すは此より始 はじ まる」という記事 きじ があり、これが当時 とうじ の公式 こうしき 見解 けんかい であったようだが、庚 かのえ 寅 とら 年 ねん 以前 いぜん にも多数 たすう の記事 きじ がある。
文献 ぶんけん によると最 もっと も古 ふる いのは『高麗 こうらい 史 し 』によれば高 こう 宗 むね 10年 ねん (1223年 ねん )5月 がつ 条 じょう 「倭 やまと 寇金州 しゅう 」とあるのが初出 しょしゅつ である。これ以後 いご 史料 しりょう には頻繁 ひんぱん に現 あらわ れている。
1370年代 ねんだい の前期 ぜんき 倭 やまと 寇の行動 こうどう 範囲 はんい は朝鮮 ちょうせん 北部 ほくぶ 沿岸 えんがん にも及 およ び南部 なんぶ では内陸 ないりく 深 ふか くまで侵入 しんにゅう するようになった。倭 やまと 寇の被害 ひがい を中心 ちゅうしん 的 てき に受 う けていた高 こう 麗 うらら では1376年 ねん には崔 ちぇ 瑩 が鴻 おおとり 山 やま で、1380年 ねん には、李 り 成桂 せいけい が荒山 あらやま 、崔 ちぇ 茂 しげる 宣 せん 、羅 ら 世 よ が鎮浦で、1383年 ねん には鄭 てい 地 ち らが南海 なんがい 島 とう 観音浦 かんのんうら で、倭 やまと 寇軍に大 だい 打撃 だげき を与 あた え、1389年 ねん の朴 ほお 葳 による対馬 つしま 国 こく 侵攻 しんこう では、倭 やまと 寇船300余 よ 隻 せき を撃破 げきは し、捕虜 ほりょ を救出 きゅうしゅつ し、その後 ご 、町 まち を焼 や き討 う ちして帰還 きかん した[11] 。これ以降 いこう 倭 やまと 寇の侵入 しんにゅう は激減 げきげん する[11] 。
なお、『高麗 こうらい 史 し 』によれば、高 こう 麗 うらら は宗主 そうしゅ 国 こく である元 もと や明 あきら に上奏 じょうそう し、元 もと 寇以降 いこう もさかんに軍艦 ぐんかん を建造 けんぞう しており、日本 にっぽん 侵攻 しんこう を繰 く り返 かえ すことになるが、これは、対馬 つしま を拠点 きょてん とする倭 やまと 寇討伐 とうばつ や日本 にっぽん 侵略 しんりゃく を口実 こうじつ に元 もと や明 あかり の大軍 たいぐん が再 ふたた び自国 じこく に長期 ちょうき 駐留 ちゅうりゅう して横暴 おうぼう を極 きわ めることをおそれたあまりの「先走 さきばし り」だとされる[12] 。
南北 なんぼく 朝 あさ 時代 じだい の政治 せいじ 動乱 どうらん と倭 やまと 寇[ 編集 へんしゅう ]
斎藤 さいとう 満 みつる は高麗 こうらい 史 し にでてくる「倭国 わのくに 」を南朝 なんちょう (征 せい 西府 にしふ )だと推定 すいてい しており[13] 、ほかにも倭 やまと 寇の首領 しゅりょう が日本 にっぽん の精鋭 せいえい 部隊 ぶたい と同 おな じ装備 そうび で、南北 なんぼく 朝 あさ の争 あらそ いによる統制 とうせい の緩 ゆる みに乗 じょう じて日本 にっぽん の正規 せいき の精鋭 せいえい 部隊 ぶたい が物資 ぶっし の略奪 りゃくだつ に参加 さんか したという意見 いけん もある[14] [15] 。 渡辺 わたなべ 昭夫 あきお は「長 なが い戦乱 せんらん で食糧 しょくりょう を確保 かくほ することに限界 げんかい を感 かん じた兵士 へいし 達 たち が近 ちか くに位置 いち する高 こう 麗 うらら に頻繁 ひんぱん に物資 ぶっし を求 もと めに行 い ったので高麗 こうらい の水路 すいろ と地理 ちり に詳 くわ しくなっていた」と説明 せつめい している[14] 。
稲村 いなむら 賢 けん 敷 じき は、倭 やまと 寇が数 すう 十 じゅう 隻 せき から数 すう 百 ひゃく 隻 せき で重 じゅう 装備 そうび の武士 ぶし も加 くわ わって多 おお くの食糧 しょくりょう を略奪 りゃくだつ していることから、南 みなみ 朝方 あさがた の菊池 きくち 氏 し や肥前 ひぜん の松浦 まつうら 党 とう (松浦 まつうら 氏 し )が北朝 ほくちょう との戦 たたか いのための物資 ぶっし 獲得 かくとく を目的 もくてき に行 い ったとした[16] 。なお稲村 いなむら は倭 やまと 寇の構成 こうせい 員 いん について、規律 きりつ があり、戦 せん 慣 な れした武士 ぶし 団 だん だと述 の べている[16] 。稲村 いなむら は北 きた 朝方 あさがた の九州 きゅうしゅう 探題 たんだい が倭 やまと 寇と南 みなみ 朝方 あさがた の征 せい 西府 にしふ を同一 どういつ 視 し して敵 てき と見 み 做し、かつ明 あかり から倭 やまと 寇の禁圧 きんあつ を求 もと められても征 せい 西府 にしふ が拒否 きょひ したことも論拠 ろんきょ として挙 あ げている[16] 。
明朝 みんちょう と南北 なんぼく 朝 あさ と前期 ぜんき 倭 やまと 寇[ 編集 へんしゅう ]
仇 かたき 英 えい (英語 えいご 版 ばん ) の『倭 やまと 寇図巻 まき 』
中国 ちゅうごく では1368年 ねん に朱 しゅ 元 もと 璋 あきら が明 あきら 王朝 おうちょう を建国 けんこく し、日本 にっぽん に対 たい して倭 やまと 寇討伐 とうばつ の要請 ようせい をするために使者 ししゃ を派遣 はけん する。使者 ししゃ が派遣 はけん された九州 きゅうしゅう では南朝 なんちょう の後醍醐天皇 ごだいごてんのう の皇子 おうじ で征 せい 西 にし 将軍 しょうぐん 宮 みや 懐 なつけ 良 よ 親王 しんのう が活動 かつどう しており、使者 ししゃ を迎 むか えた懐 ふところ 良 りょう は九州 きゅうしゅう 制圧 せいあつ のための権威 けんい として明王 みょうおう 朝 ちょう から冊 さつ 封 ふう を受 う け、「日本 にっぽん 国王 こくおう 」と称 しょう した。その後 ご 幕府 ばくふ から派遣 はけん された今川 いまがわ 貞世 さだよ により九州 きゅうしゅう の南朝 なんちょう 勢力 せいりょく が駆逐 くちく され、南朝 なんちょう 勢力 せいりょく は衰微 すいび し室町 むろまち 幕府 ばくふ 将軍 しょうぐん の足利 あしかが 義満 よしみつ が1392年 ねん に南北 なんぼく 朝 あさ 合一 ごういつ を行 おこな うと、明 あかり との貿易 ぼうえき を望 のぞ んだ義満 よしみつ は、明 あかり に要請 ようせい されて倭 やまと 寇を鎮圧 ちんあつ した。倭 やまと 寇鎮圧 あつ によって義満 よしみつ は明朝 みょうちょう より新 あら たに「日本 にっぽん 国王 こくおう 」して冊 さつ 封 ふう され、1404年 ねん (応 おう 永 なが 11年 ねん )から勘合 かんごう 貿易 ぼうえき が行 おこな われようになる。
朱 しゅ 元 もと 璋 あきら は、福建 ふっけん に16個 こ の城 しろ を築城 ちくじょう して1万 まん 5千 せん の兵 へい と軍船 ぐんせん 100隻 せき をおき、浙江 せっこう には59の城 しろ を築城 ちくじょう して5万 まん 8千 せん の兵 へい をおき、広東 かんとん に軍船 ぐんせん 200隻 せき をおいて防備 ぼうび を固 かた めた[17] 。
1419年 ねん 、朝鮮 ちょうせん 王朝 おうちょう の太 ふとし 宗 むね は倭 やまと 寇撃退 げきたい を名目 めいもく にした対馬 つしま 侵攻 しんこう を決定 けってい し、同年 どうねん 6月 がつ 、李 り 従 したがえ 茂 しげる 率 ひき いる227隻 せき 、17,285名 めい の軍勢 ぐんぜい を対馬 つしま に侵攻 しんこう させた。応 おう 永 なが の外寇 がいこう とよばれる。朝鮮 ちょうせん 軍 ぐん は敗退 はいたい するが[18] [19] [20] [21] [22] 、この事件 じけん により対馬 つしま や北九州 きたきゅうしゅう の諸 しょ 大名 だいみょう の取締 とりしま りが厳 きび しくなり、倭 やまと 寇の帰化 きか などの懐柔 かいじゅう 策 さく を行 おこな ったため、前期 ぜんき 倭 やまと 寇は衰退 すいたい していく。
こうして前期 ぜんき 倭 やまと 寇は、室町 むろまち 幕府 ばくふ や北九州 きたきゅうしゅう の守護 しゅご 大名 だいみょう の日明 ひあがり 貿易 ぼうえき 、対馬 つしま と朝鮮 ちょうせん の間 あいだ の交易 こうえき 再開 さいかい などによって下火 したび になっていった。
後期 こうき 倭 やまと 寇の構成 こうせい 員 いん の多 おお くは私 わたし 貿易 ぼうえき を行 おこな う中国人 ちゅうごくじん であったとされる。後期 こうき 倭 やまと 寇の活動 かつどう は交易 こうえき と襲撃 しゅうげき の両方 りょうほう 、いわゆる武装 ぶそう 海 うみ 商 しょう である[23] 。主 おも な活動 かつどう 地域 ちいき は広 ひろ く中国 ちゅうごく 沿岸 えんがん であり、また台湾 たいわん (当時 とうじ 未開 みかい の地 ち であった)や海南 かいなん 島 とう の沿岸 えんがん にも進出 しんしゅつ し活動 かつどう 拠点 きょてん とした[23] 。また当時 とうじ 琉球 りゅうきゅう 王国 おうこく の朝貢 ちょうこう 貿易 ぼうえき 船 ふね やその版図 はんと (奄美 あまみ 、先 さき 島 とう 含 ふく む)も襲撃 しゅうげき あるいは拠点 きょてん 化 か しているが、しばしば琉球 りゅうきゅう 王 おう 府 ふ に撃退 げきたい されている。また当時 とうじ 、日本 にっぽん の石見 いわみ 銀山 ぎんざん から産出 さんしゅつ された純度 じゅんど の高 たか い銀 ぎん も私 わたし 貿易 ぼうえき の資金 しきん 源 げん であった[23] 。
『明 あかり 史 し 』日本 にっぽん 伝 でん には「(中国人 ちゅうごくじん )賊 ぞく 首 しゅ 毛 もう 海峰 みほ 自 じ 陳 ひね 可 か 願 ねがい 還 かえ ,一 いち 敗 はい 倭 やまと 寇於舟山 ふなやま ,再 さい 敗 はい 之 の 瀝表,又 また 遣 や 其黨招諭各 かく 島 しま ,相 そう 率 りつ 效 こう 順 じゅん ,乞加重 かじゅう 賞 しょう 」。また大 だい 太刀 たち を振 ふ りかざす倭 やまと 寇の戦闘 せんとう 力 りょく は高 たか く、後 のち に戚継光 こう が『影 かげ 流 りゅう 目録 もくろく 』と倭 やまと 刀 がたな を分析 ぶんせき し対策 たいさく を立 た てるまで明 あかり 軍 ぐん は潰走 かいそう を繰 く り返 かえ した。
この時期 じき も引 ひ き続 つづ いて明王 みょうおう 朝 あさ は海 うみ 禁 きん 政策 せいさく により私 わたし 貿易 ぼうえき を制限 せいげん しており、これに反対 はんたい する中国 ちゅうごく (一説 いっせつ には朝鮮 ちょうせん も)の商人 しょうにん たちは日本人 にっぽんじん の格好 かっこう を真似 まね て(偽 にせ 倭 やまと )、浙江 せっこう 省 しょう の双 そう 嶼 や福建 ふっけん 省 しょう 南部 なんぶ の月 つき 港 みなと を拠点 きょてん とした。これら後期 こうき 倭 やまと 寇は沿岸 えんがん 部 ぶ の有力 ゆうりょく 郷 ごう 紳 しん と結託 けったく し、さらに後期 こうき には、大 だい 航海 こうかい 時代 じだい の始 はじ まりとともにアジア地域 ちいき に進出 しんしゅつ してきたポルトガル やイスパニア(スペイン )などのヨーロッパ人 じん や日本 にっぽん の博多 はかた 商人 しょうにん とも密 みつ 貿易 ぼうえき を行 おこな っていた(大曲 おおまがり 藤 ふじ 内 ない 『大曲 おおまがり 記 き 』)。
後期 こうき 倭 やまと 寇の頭目 とうもく には、中国人 ちゅうごくじん の王 おう 直 ただし や徐 じょ 海 うみ 、李 り 光頭 こうとう 、許 もと 棟 とう などがおり、王 おう 直 ただし は日本 にっぽん の平戸 ひらど や五島列島 ごとうれっとう 、薩摩 さつま の坊津 ぼうのつ 港 こう や山川 やまかわ 港 こう などを拠点 きょてん に種子島 たねがしま への鉄砲 てっぽう 伝来 でんらい にも関係 かんけい している。鉄砲 てっぽう 伝来 でんらい 後 ご 、日本 にっぽん では鉄砲 てっぽう が普及 ふきゅう し、貿易 ぼうえき 記録 きろく の研究 けんきゅう から、当時 とうじ 、世界一 せかいいち の銃 じゅう の保有 ほゆう 量 りょう を誇 ほこ るにいたったとも推計 すいけい されている[24] 。
1547年 ねん には明 あかり の官僚 かんりょう の朱 しゅ 紈 が浙江 せっこう 巡 めぐ 撫 なで として派遣 はけん されるが鎮圧 ちんあつ に失敗 しっぱい し、53年 ねん からは嘉 よしみ 靖 やすし 大倭 おおやまと 寇 と呼 よ ばれる倭 やまと 寇の大 だい 規模 きぼ な活動 かつどう がはじまる。こうした状況 じょうきょう から明朝 みょうちょう 内部 ないぶ の官僚 かんりょう の中 なか からも海 うみ 禁 きん の緩和 かんわ による事態 じたい の打開 だかい を主張 しゅちょう する論 ろん が強 つよ まる。その一人 ひとり 、胡 えびす 宗 そう 憲 けん が王 おう 直 ただし を懐柔 かいじゅう するものの、中央 ちゅうおう の命 いのち により処刑 しょけい した。指導 しどう 者 しゃ を失 うしな ったことから倭 やまと 寇の勢力 せいりょく は弱 よわ まり、続 つづ いて戚継光 こう が倭 やまと 寇討伐 とうばつ に成功 せいこう した。しかし以後 いご 明王 みょうおう 朝 あさ はこの海 うみ 禁 きん を緩和 かんわ する宥和 ゆうわ 策 さく に転 てん じ、東南 とうなん アジアの諸国 しょこく やポルトガル等 とう との貿易 ぼうえき を認 みと めるようになる。ただし、日本 にっぽん に対 たい しては後期 こうき 倭 やまと 寇への拠点 きょてん 提供 ていきょう など不信 ふしん 感 かん から貿易 ぼうえき を認 みと めない態度 たいど を継続 けいぞく した。倭 やまと 寇は1588年 ねん に豊臣 とよとみ 秀吉 ひでよし が倭 やまと 寇取締 とりしまり 令 れい を発令 はつれい するまで抬頭し続 つづ けた。
1586年 ねん 、フィリピン では日本人 にっぽんじん の倭 やまと 寇が単 たん なる略奪 りゃくだつ 以上 いじょう の野心 やしん を持 も っているかもしれないと推測 すいそく されており「彼 かれ らはほとんど毎年 まいとし 下山 げざん しルソン を植民 しょくみん 地 ち にするつもりだと言 い われている」と日本人 にっぽんじん によるフィリピン 侵略 しんりゃく について警鐘 けいしょう を鳴 な らしていた[25] 。
一方 いっぽう 、朝鮮半島 ちょうせんはんとう では1587年 ねん には、朝鮮 ちょうせん 辺境 へんきょう の民 みん が背 そむ いて倭 やまと 寇に内通 ないつう し、これを全羅道 ぜんらどう の損 そん 竹島 たけしま に導 みちび いて襲 おそ わせ、辺 あたり 将 しょう の李 り 太源 たいげん が殺害 さつがい されるという事件 じけん が起 お こった[26] 。1589年 ねん 、秀吉 ひでよし からの朝鮮 ちょうせん 通信使 つうしんし 派遣 はけん 要請 ようせい の命 いのち を受 う け朝鮮 ちょうせん を訪 おとず れた宗義 しゅうぎ 智 さとし は朝鮮 ちょうせん 朝廷 ちょうてい からの朝鮮 ちょうせん 人 じん 倭 やまと 寇の引 ひ き渡 わた し要求 ようきゅう を快諾 かいだく 、数カ月 すうかげつ の内 うち に朝鮮 ちょうせん 人 じん 倭 やまと 寇を捕 と らえ朝鮮 ちょうせん に引 ひ き渡 わた した[27] 。この朝鮮 ちょうせん からの要求 ようきゅう は朝鮮 ちょうせん 通信使 つうしんし 派遣 はけん 要請 ようせい に対 たい する引 ひ き伸 の ばし策 さく でもあったが、あっさりと解決 かいけつ を見 み たことにより翌 よく 1590年 ねん 、正使 せいし ・黄 き 允 まこと 吉 きち 、副使 ふくし ・金 きむ 誠一 せいいち が通信使 つうしんし として日本 にっぽん に派遣 はけん された[26] 。
倭 やまと 寇の構成 こうせい 員 いん に関 かん する学説 がくせつ [ 編集 へんしゅう ]
初期 しょき ~最盛 さいせい 期 き の前期 ぜんき 倭 やまと 寇の構成 こうせい 員 いん は、「高麗 こうらい 史 し 」に見 み える高 こう 麗 うらら 末 すえ 500回 かい 前後 ぜんこう の倭 やまと 寇関連 かんれん 記事 きじ の内 うち 、高 こう 麗人 れいじん が加 くわ わっていたと明記 めいき されているのは3件 けん であり、構成 こうせい 員 いん の多 おお くが日本人 にっぽんじん であったと推測 すいそく される。[28]
高麗 こうらい の賤民 せんみん の関与 かんよ (田中 たなか 説 せつ )[ 編集 へんしゅう ]
東京大学 とうきょうだいがく 教授 きょうじゅ の田中 たなか 健夫 たけお は、1370年 ねん から1390年 ねん 初 はじ めに倭 やまと 寇の襲撃 しゅうげき が激化 げきか したのは新 あら たに高麗 こうらい の賤民 せんみん 階級 かいきゅう が加 くわ わったからだとし、高麗 こうらい を襲 おそ った倭 やまと 寇の構成 こうせい 員 いん を日本人 にっぽんじん を主力 しゅりょく として若干 じゃっかん の高麗 こうらい の賤民 せんみん を含 ふく むとした[29] 。また、田中 たなか はのちに、倭 やまと 寇の構成 こうせい を日本人 にっぽんじん と朝鮮 ちょうせん 人 じん の連合 れんごう か、または朝鮮 ちょうせん 人 じん のみであったともし[30] 、さらに、高麗 こうらい (李 り 朝 ちょう )にとって倭 やまと 寇は外患 がいかん であると同時 どうじ に内憂 ないゆう でもあり、李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん が高麗 こうらい から引 ひ き続 つづ いて倭 やまと 寇が外患 がいかん であることを強調 きょうちょう することで倭 やまと 寇が抱 かか える内憂 ないゆう の性格 せいかく を隠蔽 いんぺい し、それを梃子 てこ として国家 こっか 体制 たいせい を確立 かくりつ したとも述 の べている[31] 。
田中 たなか 説 せつ について東京大学 とうきょうだいがく 名 めい 許 もと 教授 きょうじゅ の村井 むらい 章介 しょうすけ は、多 おお くの人員 じんいん や馬 うま を海上 かいじょう 輸送 ゆそう させる困難 こんなん さの説明 せつめい も含 ふく めて説得 せっとく 力 りょく があるとしたが、田中 たなか が主張 しゅちょう の根拠 こんきょ とした朝鮮 ちょうせん 王朝 おうちょう 実録 じつろく に記 しる されている世 よ 宗 むね 王代 おうだい の判 はん 中枢 ちゅうすう 院 いん 事 ごと ・李 り 順 じゅん 蒙 こうむ の発言 はつげん [32] について、膨大 ぼうだい な朝鮮 ちょうせん の史料 しりょう のなかで倭 やまと 寇に占 し める倭人 わじん の比率 ひりつ が記載 きさい されているのは田中 たなか が挙 あ げた一 いち 例 れい しか存在 そんざい せず、その上 うえ 、その史料 しりょう は倭 やまと 寇の最盛 さいせい 期 き から50年 ねん 以上 いじょう 後 ご のものであることを述 の べ[11] 、また、その史料 しりょう の文脈 ぶんみゃく は賦役 ふえき から逃亡 とうぼう する辺境 へんきょう の民 みん が多 おお い、という事態 じたい の模範 もはん として提出 ていしゅつ されており、賤民 せんみん 階級 かいきゅう に対 たい する蔑視 べっし が、基本 きほん 的 てき な考 かんが え方 かた となっているため、「倭人 わじん が一 いち 割 わり ~二 に 割 わり に過 す ぎない」という記述 きじゅつ をそのまま受 う け入 い れることは出来 でき ないと批判 ひはん している[11] 。
「境界 きょうかい 人 じん 」説 せつ (村井 むらい 説 せつ 、他 た )[ 編集 へんしゅう ]
倭 やまと 寇の正体 しょうたい について、村井 むらい は、当時 とうじ 国家 こっか 概念 がいねん が明確 めいかく ではなく、日本 にっぽん の九州 きゅうしゅう 、朝鮮半島 ちょうせんはんとう 沿岸 えんがん 、中国 ちゅうごく 沿岸 えんがん といった環 たまき 東シナ海 ひがししなかい の人々 ひとびと が国家 こっか の枠組 わくぐ みを超 こ えた一 ひと つの共同 きょうどう 体 たい を有 ゆう しており、村井 むらい は彼 かれ らを「倭人 わじん 」という「倭語 わご 」「倭 やまと 服 ふく 」といった独自 どくじ の文化 ぶんか をもつ「日本 にっぽん 」とはまた別 べつ の人間 にんげん 集団 しゅうだん だとし、境界 きょうかい に生 い きる人々 ひとびと (マージナル・マン)と呼 よ んでいる。村井 むらい によれば、倭 やまと 寇の本質 ほんしつ は国籍 こくせき や民族 みんぞく を超 こ えた人間 にんげん 集団 しゅうだん であり、日本人 にっぽんじん 、朝鮮 ちょうせん 人 じん といった分別 ふんべつ は意味 いみ がないと述 の べている[11] 。ほかに、高橋 たかはし 公明 こうめい は倭 やまと 寇の構成 こうせい について、済州 さいしゅう 島 とう の海 うみ 民 みん も倭 やまと 寇に加 くわ わっていった可能 かのう 性 せい を唱 とな え、倭 やまと 寇の活動 かつどう が「国境 こっきょう をまたぐ地域 ちいき 」で繰 く り広 ひろ げられた国家 こっか の枠組 わくぐ みを越 こ えた性格 せいかく のものと述 の べている[33] 。
東郷 とうごう 隆 たかし は前期 ぜんき 倭 やまと 寇の首領 しゅりょう のひとり、阿 おもね 只 ただ 抜都 について赤星 あかほし 氏 し や相知 おうち 比 ひ 氏 し (松浦 まつうら 党 とう )といった九州 きゅうしゅう の武士 ぶし 、あるいはモンゴル系 けい 島嶼 とうしょ 人 ひと や高 だか 麗人 れいじん といった様々 さまざま な推測 すいそく をしている[34] 。
村井 むらい 説 せつ の教科書 きょうかしょ 記載 きさい への批判 ひはん
2007年 ねん の日 にち 韓 かん 歴史 れきし 共通 きょうつう 教材 きょうざい は、村井 むらい 説 せつ が作為 さくい 的 てき に利用 りよう されているとして扶桑社 ふそうしゃ の中学 ちゅうがく 歴史 れきし 教科書 きょうかしょ を挙 あ げ[35] 、同 どう 教科書 きょうかしょ における「(倭 やまと 寇は)朝鮮半島 ちょうせんはんとう や中国 ちゅうごく 沿岸 えんがん に出没 しゅつぼつ していた海賊 かいぞく 集団 しゅうだん のことである。彼 かれ らには朝鮮 ちょうせん 人 じん も多 おお く含 ふく まれていた。」「16世紀 せいき の中 なか ごろ、再 ふたた び倭 やまと 寇が盛 さか んになったが、その構成 こうせい 員 いん は殆 ほとん ど中国人 ちゅうごくじん であった」といった記述 きじゅつ について、倭 やまと 寇に占 し める日本人 にっぽんじん の数 かず を低 ひく くみせるために村井 むらい の理論 りろん を利用 りよう した上 うえ で、「日本人 にっぽんじん 」「朝鮮 ちょうせん 人 じん 」「中国人 ちゅうごくじん 」と国籍 こくせき を強調 きょうちょう していると批判 ひはん した[35] 。
村井 むらい 説 せつ への批判 ひはん
濱中 はまなか 昇 のぼる は倭 やまと 寇の特徴 とくちょう である領主 りょうしゅ 制 せい が日本 にっぽん には存在 そんざい するが、中世 ちゅうせい の朝鮮 ちょうせん には相当 そうとう するものが存在 そんざい しないため倭 やまと 寇の主体 しゅたい を朝鮮 ちょうせん 国内 こくない には求 もと めるのは難 むずか しいとし[36] 、朝鮮 ちょうせん の賤民 せんみん が倭 やまと 寇と偽 いつわ って略奪 りゃくだつ を働 はたら いたとする高麗 こうらい 史 し の記録 きろく についても、倭 やまと 寇の襲撃 しゅうげき がまずあり、それから若干 じゃっかん 遅 おく れて賎民 せんみん の乱暴 らんぼう が発生 はっせい していると指摘 してき し、倭 やまと 寇とは別 べつ のそれに乗 じょう じた泥棒 どろぼう の類 るい とした[36] 。また、朝鮮半島 ちょうせんはんとう 南部 なんぶ の海 うみ 民 みん が高麗 こうらい 末期 まっき の倭 やまと 寇に加 くわ わっていたとしても、倭 やまと 寇の主力 しゅりょく が日本人 にっぽんじん であることには変 か わらないし[36] 、多数 たすう の騎馬 きば や船 ふね を擁 よう することについては現地 げんち での略奪 りゃくだつ によってその数 かず を増 ふ やしたともした[36] 。ほかにも、村井 むらい の言 い う「倭 やまと 」と「日本 にっぽん 」の違 ちが いについても、朝鮮 ちょうせん が日本 にっぽん を国家 こっか を意識 いしき した場合 ばあい とそうでない場合 ばあい (蔑視 べっし の心 しん がある場合 ばあい )との使 つか い分 わ け、九州 きゅうしゅう 地方 ちほう と近畿 きんき 地方 ちほう の文化 ぶんか 的 てき な差異 さい に過 す ぎないとし、「倭 やまと 」と「日本 にっぽん 」は事物 じぶつ の本体 ほんたい としては同 おな じもので、「倭 やまと 」と中世 ちゅうせい の日本 にっぽん は別個 べっこ のものではないとした[36] 。
沈仁安 やす (北京 ぺきん 大学 だいがく 教授 きょうじゅ )は、村井 むらい 説 せつ のように倭 やまと 寇を国境 こっきょう をまたぐ海上 かいじょう 勢力 せいりょく とすることも全体 ぜんたい 的 てき にみれば可能 かのう だが、13世紀 せいき から16世紀 せいき にかけて発生 はっせい ・形成 けいせい ・発展 はってん ・変遷 へんせん の過程 かてい ・変化 へんか している倭 やまと 寇を概括 がいかつ 的 てき に解釈 かいしゃく することは、具体 ぐたい 的 てき な歴史 れきし 過程 かてい を隠 かく し、具体 ぐたい 的 てき な問題 もんだい に対 たい する具体 ぐたい 的 てき な分析 ぶんせき の方法 ほうほう 論 ろん の原則 げんそく に符合 ふごう しないと批判 ひはん した[37] 。また沈は、前期 ぜんき 倭 やまと 寇の主力 しゅりょく は日本人 にっぽんじん (領主 りょうしゅ ・武士 ぶし ・商人 しょうにん )であることは間違 まちが いなく[37] 、後期 こうき 倭 やまと 寇に他国 たこく 人 じん が加 くわ わっても、主力 しゅりょく を果 は たしたのではなく、倭 やまと 寇の起源 きげん と活動 かつどう 初期 しょき は日本人 にっぽんじん と関係 かんけい があるため、「日本 にっぽん 古代 こだい の呼 よ び方 かた である『倭 やまと 』寇命名 めいめい 」したと批判 ひはん する[37] 。また、古代 こだい の「倭 やまと 」呼称 こしょう が日本 にっぽん 列島 れっとう 以外 いがい の地域 ちいき の呼称 こしょう としても使 つか われており、「日本 にっぽん 」とは別 べつ の概念 がいねん だとする村井 むらい 説 せつ に対 たい して、沈は、千 せん 数 すう 百 ひゃく 年 ねん 以後 いご の歴史 れきし 的 てき 事実 じじつ を紀元前 きげんぜん 後 ご に形成 けいせい された「倭 やまと 」で解釈 かいしゃく することは不 ふ 適当 てきとう とし、更 さら に、古代 こだい 中国 ちゅうごく における「倭 やまと 」は日本 にっぽん のことであり、「『倭 やまと 』『倭人 わじん 』が、日本 にっぽん 、日本人 にっぽんじん の古代 こだい の呼 よ び方 かた であることは、中国 ちゅうごく の学界 がっかい では、疑問 ぎもん はない」とした[37] 。
高麗 こうらい 前期 ぜんき には見 み られなかった「倭 やまと 」という呼称 こしょう が高麗 こうらい 後期 こうき になって現 あらわ れて「日本 にっぽん 」と併用 へいよう されていることについて武田 たけだ 幸男 ゆきお は、「倭 やまと 」という呼称 こしょう が現 あらわ れた原因 げんいん は倭 やまと 寇だと述 の べている[38] 。武田 たけだ は高麗 こうらい が日本 にっぽん を国家 こっか レベルで意識 いしき 、または正式 せいしき な通交 つうこう 相手 あいて と認識 にんしき した場合 ばあい は「日本 にっぽん 」とし、国家 こっか レベルで意識 いしき せず「敵対 てきたい 者 しゃ 」と認識 にんしき した時 とき は「倭 やまと 」と記 しる しているとした[38] 。なお、武田 たけだ は14世紀 せいき 倭 やまと 寇の首領 しゅりょう の装備 そうび について「典型 てんけい 的 てき な中世 ちゅうせい 日本 にっぽん 武士 ぶし 」だとしている[39] 。
後期 こうき 倭 やまと 寇は、中国人 ちゅうごくじん が中心 ちゅうしん であり、『明 あかり 史 し 』には、日本人 にっぽんじん の倭 やまと 寇は10人 にん の内 うち 3人 にん であり、残 のこ り7人 にん はこれに従 したが ったものである(「大抵 たいてい 真 ま 倭 やまと 十 じゅう 之 の 三 さん 、從 したがえ 倭 やまと 者 しゃ 十 じゅう 之 の 七 なな 。」)と記 しる されている[40] 。
中国 ちゅうごく の明 あきら や韓国 かんこく の高 こう 麗 うらら ・朝鮮 ちょうせん 王朝 おうちょう 、また日本 にっぽん の室町 むろまち 幕府 ばくふ に対 たい し、倭 やまと 寇は結果 けっか として重要 じゅうよう な政治 せいじ 的 てき 外交 がいこう 的 てき な影響 えいきょう 力 りょく を与 あた えた。明 あかり は足利 あしかが 幕府 ばくふ に対 たい し倭 やまと 寇討伐 とうばつ を要請 ようせい する見返 みかえ りとして勘合 かんごう 貿易 ぼうえき に便宜 べんぎ を与 あた えざるを得 え ず、また高麗 こうらい 王朝 おうちょう は倭 やまと 寇討伐 とうばつ で名声 めいせい を得 え た李 り 成桂 せいけい によって滅 ほろ ぼされ、李 り 成桂 せいけい によって建国 けんこく された朝鮮 ちょうせん 王朝 おうちょう は文 ぶん 禄 ろく の役 やく の頃 ころ まで倭 やまと 寇対策 たいさく (懐柔 かいじゅう と鎮圧 ちんあつ )に追 お われた。朝鮮 ちょうせん 王朝 おうちょう による対馬 つしま 侵攻 しんこう (応 おう 永 なが の外寇 がいこう )も、倭 やまと 寇根拠地 こんきょち の征伐 せいばつ が大義名分 たいぎめいぶん とされていた。
また、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、韓国 かんこく では日本 にっぽん に略奪 りゃくだつ されたと主張 しゅちょう される文化財 ぶんかざい の返還 へんかん 運動 うんどう が展開 てんかい し、高麗 こうらい 仏画 ぶつが や仏像 ぶつぞう など日本 にっぽん に保管 ほかん される朝鮮 ちょうせん 由来 ゆらい の文化財 ぶんかざい の多 おお くは倭 やまと 寇に略奪 りゃくだつ されたとする見解 けんかい が韓国 かんこく ではなされているが、日本 にっぽん では当時 とうじ の李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん 政府 せいふ が仏教 ぶっきょう 弾圧 だんあつ 政策 せいさく をとったため日本 にっぽん へ貿易 ぼうえき 品 ひん として輸出 ゆしゅつ されたり、贈答 ぞうとう されたとする見解 けんかい がある。
前期 ぜんき 倭 やまと 寇は朝鮮半島 ちょうせんはんとう 、山東 さんとう ・遼東 りゃおとん 半島 はんとう での人 ひと 狩 か りで捕 と らえた人々 ひとびと を手元 てもと において奴婢 ぬひ として使役 しえき するか、壱岐 いき 、対馬 つしま 、北部 ほくぶ 九州 きゅうしゅう で奴隷 どれい として売却 ばいきゃく したが、琉球 りゅうきゅう にまで転売 てんばい された事例 じれい もあった。
後期 こうき 倭 やまと 寇はさらに大 だい 規模 きぼ な奴隷 どれい 貿易 ぼうえき を行 おこな い、中国 ちゅうごく 東 ひがし 南部 なんぶ の江南 こうなん 、淅江、福建 ふっけん などを襲撃 しゅうげき し住人 じゅうにん を拉致 らち 、捕 と らえられたものは対馬 つしま 、松浦 まつうら 、博多 はかた 、薩摩 さつま 、大 だい 隅 すみ などの九州 きゅうしゅう 地方 ちほう で奴隷 どれい として売却 ばいきゃく された。[41]
1571年 ねん のスペイン人 じん の調査 ちょうさ 報告 ほうこく によると、日本人 にっぽんじん の海賊 かいぞく 、密 みつ 貿易 ぼうえき 商人 しょうにん が支配 しはい する植民 しょくみん 地 ち はマニラ、カガヤン・バレー地方 ちほう 、コルディリェラ、リンガエン、バターン、カタンドゥアネスにあった[42] 。マニラの戦 たたか い (1574) 、カガヤンの戦 たたか い (1582) で影響 えいきょう 力 りょく は低下 ていか したが、倭 やまと 寇の貿易 ぼうえき ネットワークはフィリピン北部 ほくぶ に及 およ ぶ大 だい 規模 きぼ なものだった。
戦国 せんごく 時代 じだい の乱 らん 妨 さまたげ 取 と り や文禄・慶長 ぶんろくけいちょう の役 えき (朝鮮 ちょうせん 出兵 しゅっぺい )により奴隷 どれい 貿易 ぼうえき はさらに拡大 かくだい 、東南 とうなん アジアに拠点 きょてん を拡張 かくちょう し密 みつ 貿易 ぼうえき を行 おこな う後期 こうき 倭 やまと 寇によりアジア各地 かくち で売却 ばいきゃく された奴隷 どれい の一部 いちぶ はポルトガル商人 しょうにん によってマカオ等 とう で転売 てんばい され、そこから東南 とうなん アジア・インドに送 おく られたものもいたという。1570年 ねん までに薩摩 さつま に来航 らいこう したポルトガル船 せん は合計 ごうけい 18隻 せき 、倭 やまと 寇のジャンク船 せん を含 ふく めればそれ以上 いじょう の数 かず となる[43] 。イエズス会 かい は倭 やまと 寇を恐 おそ れており、1555年 ねん に書 か かれた手紙 てがみ の中 なか で、ルイス・フロイス は、倭 やまと 寇の一団 いちだん から身 み を守 まも るために、宣教師 せんきょうし たちが武器 ぶき に頼 たよ らざるを得 え なかったことを語 かた っている[44] 。
鄭 てい 舜 しゅん 功 いさお の編纂 へんさん した百科 ひゃっか 事典 じてん 『日本一 にっぽんいち 鑑 かん 』は南 みなみ 九州 きゅうしゅう の高洲 たかす では200-300人 にん の中国人 ちゅうごくじん 奴隷 どれい が家畜 かちく のように扱 あつか われていたと述 の べている。奴隷 どれい となっていた中国人 ちゅうごくじん は福 ふく 州 しゅう 、興 きょう 化 か 、泉州 せんしゅう 、漳州 の出身 しゅっしん だったという[45] 。
歴史 れきし 家 か の米谷 こめたに 均 ひとし は蘇 そ 八 はち の事例 じれい を挙 あ げている。蘇 そ は浙江 せっこう の漁師 りょうし で、1580年 ねん に倭 やまと 寇に捕 と らえられた。蘇 そ は薩摩 さつま の京泊 きょうどまり に連 つ れて行 い かれ、そこで仏教 ぶっきょう 僧 そう に銀 ぎん 四 よん 両 りょう で買 か い取 と られた。2年 ねん 後 ご に彼 かれ は対馬 つしま の中国人 ちゅうごくじん 商人 しょうにん に売 う られた。6年間 ねんかん 、対馬 つしま で働 はたら き、自由 じゆう を手 て に入 い れた蘇 そ は、平戸 ひらど に移 うつ り住 す んだ。平戸 ひらど では、魚 さかな や布 ぬの を売 う って生活 せいかつ していた。そして1590年 ねん 、中国 ちゅうごく 船 せん でルソン島 るそんとう に渡 わた り 翌年 よくねん に中国 ちゅうごく に帰国 きこく することができたという[46] 。
倭 やまと 寇の根拠地 こんきょち は日本 にっぽん の対馬 つしま や壱岐 いき ・五島列島 ごとうれっとう 、瀬戸内海 せとないかい をはじめ、朝鮮 ちょうせん の済州 さいしゅう 島 とう 、中国 ちゅうごく の沿海 えんかい 諸島 しょとう 部 ぶ 、また台湾 たいわん 島 とう や海南 かいなん 島 とう にも存在 そんざい していた。
ボルネオ 童話 どうわ において、倭 やまと 寇と思 おぼ しき者 もの が活躍 かつやく する伝承 でんしょう もあり[47] 、この周辺 しゅうへん まで広 ひろ く活動 かつどう していたと思 おも われる。また倭 やまと 寇であるかは不明 ふめい であるが、現在 げんざい のタイ(当時 とうじ のシャム)においてもスペイン軍 ぐん が「ローニン」の部隊 ぶたい に襲 おそ われて全滅 ぜんめつ したとの記録 きろく もある[48] 。
倭 やまと 寇の中 なか に日本 にっぽん の剣術 けんじゅつ を身 み につけていた者 もの もいたようで、1561年 ねん に戚継光 こう が、倭 やまと 寇が所持 しょじ していたという陰 かげ 流 りゅう の目録 もくろく を得 え ている。(陰 かげ 流 りゅう の開祖 かいそ ・愛 あい 洲 しま 久忠 ひさただ も倭 やまと 寇であったという説 せつ もある)戚継光 こう が得 え た陰 かげ 流 りゅう 目録 もくろく は茅 かや 元 もと 儀 ぎ が編纂 へんさん した『武備 ぶび 志 こころざし 』に掲載 けいさい された。この『武備 ぶび 志 こころざし 』は江戸 えど 時代 じだい に日本 にっぽん にも伝 つた わり、掲載 けいさい されている陰 かげ 流 りゅう 目録 もくろく について松 まつ 下見 したみ 林 りん らが記 しる している。この陰 かげ 流 りゅう 目録 もくろく については陰 かげ 流 りゅう から派生 はせい した新 しん 陰 かげ 流 りゅう の第 だい 20世 せい 宗家 そうけ ・柳生 やぎゅう 厳 いわお 長 ちょう によって真正 しんせい の物 もの と確認 かくにん された[49] 。
また、日本 にっぽん の剣術 けんじゅつ を基 もと にした苗 なえ 刀 がたな という中国 ちゅうごく 武術 ぶじゅつ が明 あかり 末 まつ から清 しん 初 はつ にかけて生 う まれた。
倭 やまと 寇以後 ご の東 ひがし アジア海上 かいじょう 世界 せかい [ 編集 へんしゅう ]
豊臣 とよとみ 秀吉 ひでよし の海賊 かいぞく 停止 ていし 令 れい により、倭 やまと 寇の活動 かつどう は一応 いちおう は収束 しゅうそく をみるが、東 ひがし アジアの海上 かいじょう 世界 せかい では林道 りんどう 乾 いぬい や林 はやし 鳳 おおとり (リマホン)、明 あかり を奉 ほう じて清 きよし に抵抗 ていこう した鄭 てい 芝 しば 竜 りゅう 、鄭 てい 成功 せいこう の鄭 てい 一族 いちぞく などが半 はん 商 しょう 半 はん 海賊 かいぞく 的 てき な存在 そんざい で、倭 やまと 寇ではないが同 どう 時代 じだい の海上 かいじょう 勢力 せいりょく である。また、後期 こうき 倭 やまと 寇に多 おお く見 み られた台湾 たいわん 与 あずか 中国 ちゅうごく 南部 なんぶ (広東 かんとん ・福建 ふっけん ・浙江 せっこう など)出身 しゅっしん 者 しゃ は日本 にっぽん (横浜 よこはま ・神戸 こうべ ・長崎 ながさき の三 さん 大 だい 中華 ちゅうか 街 がい )や東南 とうなん アジアに多数 たすう 渡 わた り、現地 げんち で華僑 かきょう のコミュニティを形成 けいせい し、現在 げんざい も政治 せいじ や経済 けいざい において影響 えいきょう 力 りょく を及 およ ぼしている。
日本 にっぽん の室町 むろまち 時代 じだい から江戸 えど 時代 じだい にかけての海賊 かいぞく 船 せん は通称 つうしょう して「八幡 やはた (やわた)船 ふね 」と呼 よ ばれた。倭 やまと 寇が「八幡 やはた (はちまん)大 だい 菩薩 ぼさつ 」の幟 のぼり を好 この んで用 もち いたのが語源 ごげん とされるが[50] 、「ばはん」には海賊 かいぞく 行為 こうい 一般 いっぱん を指 さ すとも考 かんが えられている。
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^ 朝鮮 ちょうせん 王朝 おうちょう 実録 じつろく 世 よ 宗 むね 元年 がんねん 6月 がつ 29日 にち 我 わが 師 し 戰死 せんし 及墜崖 がけ 死者 ししゃ 百 ひゃく 數 すう 十 じゅう 人 にん 。
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^ 世 よ 宗 むね 元年 がんねん 7月 がつ 22日 にち 左 ひだり 議 ぎ 政 せい 朴 ほお 訔啓: “左 ひだり 軍 ぐん 節制 せっせい 使 し 朴 ぼく 實 みのる 對 たい 馬島 うましま 敗軍 はいぐん 時 じ 所 しょ 、護 まもる 漢人 かんど 宋 そう 官 かん 童 わらわ 等 とう 十 じゅう 一 いち 名 めい , 備知我 が 師 し 見 み 敗 はい 之 の 狀 じょう , 不可解 ふかかい 送 おく 中國 ちゅうごく , 以見我國 わがくに 之 の 弱 じゃく 。
^ 朝鮮 ちょうせん 王朝 おうちょう 実録 じつろく 世 よ 宗 むね 元年 がんねん 8月 がつ 5日 にち 今 こん 戰死 せんし 者 しゃ , 倭人 わじん 二 に 十 じゅう 餘 よ 名 めい , 朝鮮 ちょうせん 人 じん 百 ひゃく 餘 よ 名 めい 也。
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^ 田中 たなか (1987)
^ 田中 たなか (1997) 田中 たなか は、この時代 じだい には今日 きょう のような国家 こっか 主権 しゅけん 概念 がいねん が存在 そんざい せず、なおかつ南北 なんぼく 朝 あさ の内乱 ないらん と朝鮮半島 ちょうせんはんとう 王朝 おうちょう 交替 こうたい 期 き の政治 せいじ 混乱 こんらん によって、互 たが いに国家 こっか への帰属 きぞく 意識 いしき が希薄 きはく 化 か させていた日本人 にっぽんじん の倭 やまと 寇と高麗 こうらい ・朝鮮 ちょうせん 人 じん の賎民 せんみん (土地 とち を失 うしな った農民 のうみん や水 みず 尺 じゃく ・才人 さいじん と呼 よ ばれた被 ひ 差別 さべつ 民 みん )が手 て を結 むす んで、更 さら に大 おお きな倭 やまと 寇集団 だん を形成 けいせい することは容易 ようい な状況 じょうきょう にあったと述 の べている
^ 時期 じき は15世紀 せいき 半 なか ば。李 り 順 じゅん 蒙 こうむ の発言 はつげん は「前 ぜん 朝 あさ の季 き 、倭 やまと 寇興行 こうぎょう し、民 みん の生 せい を聊んぜず。然 しか るにその間 あいだ の倭人 わじん は一 いち 二 に に過 す ぎずして、本国 ほんごく の民 みん の避 さ けて倭 やまと 服 ふく を著 しる け党 とう を成 な し乱 らん を作 さく す」というもの
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資料 しりょう
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村井 むらい 章介 しょうすけ 『中世 ちゅうせい 倭人 わじん 伝 でん 』岩波 いわなみ 新書 しんしょ 、1993年 ねん
歴史 れきし 教育 きょういく 研究 けんきゅう 会 かい (日本 にっぽん )歴史 れきし 教科書 きょうかしょ 研究 けんきゅう 会 かい (韓国 かんこく )編 へん 『日 にち 韓 かん 交流 こうりゅう の歴史 れきし 』明石 あかし 出版 しゅっぱん 、2007年 ねん
沈仁安 やす 『中国 ちゅうごく からみた日本 にっぽん の古代 こだい 』藤田 ふじた 友治 ゆうじ 、藤田 ふじた 美代子 みよこ 訳 やく 、ミネル みねる ヴァ書房 ぁしょぼう 、2003年 ねん
斉藤 さいとう 満 みつる 「征 せい 西府 にしふ とその外交 がいこう についての一 いち 考察 こうさつ 」『史 ふみ 泉 いずみ 』71号 ごう 、1990年 ねん
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秦野 はたの 裕介 ゆうすけ 「「倭 やまと 寇」と海洋 かいよう 史観 しかん 」『立命館大学 りつめいかんだいがく 人文 じんぶん 科学 かがく 研究所 けんきゅうじょ 紀要 きよう 』81号 ごう 、2003年 ねん [1]