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剣術けんじゅつ

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剣術けんじゅつ
けんじゅつ
使用しよう武器ぶき 日本にっぽんがたな
発生はっせいこく 日本の旗 日本にっぽん
発生はっせいねん 古代こだい - 中世ちゅうせい?
創始そうししゃ 多数たすう
流派りゅうは 多数たすう流派りゅうは
派生はせい種目しゅもく 剣道けんどう
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剣術けんじゅつ(けんじゅつ)は、日本にっぽんがたなたたか武術ぶじゅつである[1]

概要がいよう

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けん使用しようする武術ぶじゅつであり、現代げんだい日本にっぽん武道ぶどうである剣道けんどう母体ぼたいとなった。

剣術けんじゅつ」という名称めいしょうについては、中国ちゅうごくでは片刃かたはの「かたな」と両刃りょうば諸刃もろは)の「けん」が明確めいかくべつ武器ぶきであると認識にんしきされているが、日本にっぽんではかたなけん区別くべつせずに認識にんしきしたことで、「刀剣とうけん」として曖昧あいまいとなってしまった。日本にっぽんでは中国ちゅうごくから伝来でんらいした両刃りょうば諸刃もろは)のけんつるぎ)がすたれ、わらび手刀てがたなながれを片刃かたは日本にっぽんがたなかたな)へ完全かんぜん移行いこうしてしまったためである。「かたなじゅつ」という名称めいしょうもあるが、『本朝ほんちょう武芸ぶげい小伝しょうでん』など極少きょくしょうすう江戸えど時代じだい文献ぶんけん使用しようされただけで、定着ていちゃくはしなかった。

日本にっぽんにおける「かたな」という言葉ことば中世ちゅうせい平安へいあん時代じだい戦国せんごく時代じだい)では短刀たんとうし、刀剣とうけんといえば太刀たちのことであった。かたな刀剣とうけんがたな太刀たち)をあらわすようになったのは近世きんせい安土あづち桃山ももやま時代じだい)からである[2]古代こだいではかたなを「たち」とみ、ちょくかたなした)。

日本にっぽん剣術けんじゅつ世界せかい各国かっこく剣術けんじゅつ比較ひかくすると、ちょう60cm以上いじょうかたな両手りょうてち、たがいにたてもちいずにたたかうという形式けいしきめずらしく、中世ちゅうせいドイツイタリア両手りょうてけんによる剣術けんじゅつドイツりゅう剣術けんじゅつひとし)があるくらいである。中国ちゅうごく武術ぶじゅつでは二刀流にとうりゅう一般いっぱんてきであるが、日本にっぽん剣術けんじゅつではりょう手持てもちを基本きほんとしているため、太刀たちかたな二刀流にとうりゅうすくなく、大半たいはんほん脇差わきざし併用へいようする。

一般いっぱん通念つうねんことなり、中世ちゅうせいにおける合戦かっせんでは刀剣とうけん主要しゅよう武器ぶきであったとはいえず、道具どうぐ長柄ながら武器ぶき優先ゆうせんして使つかわれた。刀剣とうけんはそれらの予備よびとして携帯けいたいする武器ぶきであり、状況じょうきょうによって手持てもちの道具どうぐ長柄ながら武器ぶきとを使つかけるものだった(従来じゅうらい刀剣とうけん大型おおがたしただい太刀たちちょうまき長柄ながえ武器ぶき一種いっしゅとしてもちいられている)。

一方いっぽうで、中世ちゅうせい自力じりき救済きゅうさい基本きほん社会しゃかいであるため、個人こじんあいだいさかいや報復ほうふく行為こうい日常にちじょうてき発生はっせいしており、些細ささい口論こうろんから偶発ぐうはつてき殺傷さっしょう事件じけん多発たはつした。武士ぶし以外いがいのあらゆる身分みぶん人々ひとびと刀剣とうけん短刀たんとう携帯けいたいすることはめずらしくなく、強盗ごうとう喧嘩けんか護身ごしんのため日常にちじょうてき使つかわれる身近みぢか武器ぶきだった。応仁おうにんらんときひがしぐんそう大将たいしょうだった細川ほそかわ勝元かつもとは15さいときに、逆上ぎゃくじょうしたあそ友達ともだち太刀たちりつけられそうになったが兵法ひょうほう剣術けんじゅつ)を修練しゅうれんしていたためたすかったという逸話いつわがある[3]。また、かたなて、武士ぶし階層かいそう以外いがい武器ぶき所有しょゆう所持しょじ制限せいげんもうけられた江戸えど時代じだいであっても、民衆みんしゅうかたな脇差わきざし所有しょゆうしており、しばしばむら同士どうしいさかいで使用しようされたが[4]町人ちょうにん抜刀ばっとうおよび殺傷さっしょう事件じけんおおかった。

本来ほんらい様々さまざま武具ぶぐからだじゅつ併用へいようする武術ぶじゅつふくまれており、文献ぶんけんによって「兵法ひょうほう」が剣術けんじゅつしめすのは、小太刀こだちじゅつ柔術じゅうじゅつなど接近せっきんしてたたかさいもちいる技法ぎほうとの区別くべつ明確めいかくでなかったためとされる。また戦場せんじょうもちいる技法ぎほうであるため甲冑かっちゅう着用ちゃくようしてうごきに制限せいげんのある状態じょうたい基本きほんとする「かいしゃ剣法けんぽう」が一般いっぱんてきであった。なお江戸えど武士ぶし習得しゅうとくすべき武芸ぶげいとしてしめされた武芸十八般ぶげいじゅうはっぱんにおいて、「剣術けんじゅつ」と「居合いあい抜刀ばっとうじゅつ」はけられており、当時とうじ認識にんしきではさやからいてかまえた状態じょうたい開始かいしするのが剣術けんじゅつすわった状態じょうたいさやおさまった状態じょうたいから開始かいしするのが居合いあい抜刀ばっとうじゅつ認識にんしきされていたようである。

様々さまざま技術ぎじゅつ考案こうあんされ習得しゅうとくのために稽古けいこ確立かくりつされた。剣術けんじゅつでは一連いちれん動作どうさをまとめたかたち習得しゅうとくかたち稽古けいこ)から開始かいしするのが一般いっぱんてきである。なお実際じっさい戦場せんじょうでのいはかたちどおりではなく、袈裟けさ鎖骨さこつ頚動脈けいどうみゃく)にんだり、手足てあしなどをねらうことが主流しゅりゅうとされ、示現じげんりゅうの「立木たちきち」のような実践じっせん考慮こうりょした稽古けいこもあった。

甲冑かっちゅう着用ちゃくようせず平時へいじ服装ふくそうけんのみをもちいる「素肌すはだ剣術けんじゅつ」は、戦乱せんらんくなった江戸えど時代じだい以降いこう発達はったつした。この時代じだいからの剣術けんじゅつ流派りゅうはでは、たがいに平服へいふくかたな小太刀こだちのみをった状態じょうたい想定そうていしたかたちおおい。ただしからだじゅつを併伝する流派りゅうはおおく、完全かんぜんけんのみとなったのは武道ぶどうした剣道けんどう登場とうじょう以降いこうとされる。また実用じつようてき剣術けんじゅつほかに、ためのための「ためしがたなじゅつ」も考案こうあんされた。

かたな切断せつだんさいに、手前てまえきながらるという言説げんせつがあるが、演劇えんげき影響えいきょうによってひろまったあやまりであり[5]実際じっさいには無理むり意識いしきして手前てまえ必要ひつようはない[6]すじてる・とおす(かたなるう方向ほうこう刃先はさききを一致いっちさせる)ことのほう重要じゅうようである。

素肌すはだ剣術けんじゅつでは、二刀流にとうりゅうかいしゃ剣法けんぽうのぞいて、いちりの刀剣とうけん攻防こうぼうおこなわなければならないため、相手あいて攻撃こうげき単純たんじゅんめるだけでは防戦ぼうせん一方いっぽうになりやすく、技術ぎじゅつもしくは膂力りょりょくによほどがないと逆転ぎゃくてん困難こんなんであるため、けにたいして消極しょうきょくてきかんがえを流派りゅうはおおく、なかには極端きょくたんけを忌避きひする流派りゅうはもある[7]。 そのため、相手あいてかたなふせ場合ばあいは、状況じょうきょうによっては、こぼれをいとわずめ、柄頭つかがしら突をおこなったり、股間こかんげたりする[8]か、あるいはくようにける[9]など、単純たんじゅん防御ぼうぎょではなく攻撃こうげき考慮こうりょれたかた重視じゅうしされた。

実戦じっせんでは熟練じゅくれんしゃであるほど、刀身とうしん先端せんたん付近ふきん根本こんぽん付近ふきんこぼれがえていくといわれるが、これは技量ぎりょうがあるものものちのある先端せんたん付近ふきんみ、防御ぼうぎょさいには根本こんぽん付近ふきん利用りようしたためである[10]

剣術けんじゅつ関係かんけい人物じんぶつについてはCategory:剣客けんかく参照さんしょう

歴史れきし

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古代こだい

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歌川うたがわ国貞くにさだきょうりゅうかく」(1852ねん)。歌舞伎かぶき役者やくしゃ芳流閣ほうりゅうかく

古代こだい日本にっぽんにおいて青銅せいどうせい武器ぶき製作せいさく開始かいしされたのは、出土しゅつどひんからはやくても紀元きげん1世紀せいき以降いこうとされているが、この時代じだい日本にっぽんにはまだ文字もじがなかったため、この時代じだい剣術けんじゅつについてはつたわっておらず、その有無うむ詳細しょうさい不明ふめいである。

てつせいけん使用しよう軍事ぐんじてき優位ゆうい源泉げんせんであった。しかし国産こくさん鉄製てつせい刀剣とうけんさかんになったのは7世紀せいき以降いこうであって、推古天皇すいこてんのうが「太刀たちならばれい中国ちゅうごく)のすき刀剣とうけん意味いみ)」とうたっているように、古代こだい大陸たいりくからの輸入ゆにゅうしな主流しゅりゅうであった。刀鍛冶かたなかじである「鍛冶たんや」が朝廷ちょうていによって各地かくちかれたのは8世紀せいき以降いこうである。これ以降いこう日本にっぽん国内こくないでもちょくかたなわらび手刀てがたななどの多種たしゅ多様たようてつかたなつくられるようになっていった。

古墳こふん時代じだい中期ちゅうき常陸ひたちこく鹿島かしま関東かんとうななりゅう東国とうごくななりゅう)という、日本にっぽんはつ剣術けんじゅつ流派りゅうは鹿島かしまかみりゅう鹿島かしま古流こりゅう鹿島中かしまなか古流こりゅうなど)がまれた[11]。7にん神官しんかんふるくからつたわる剣術けんじゅつ東国とうごく中心ちゅうしんひろめた。つぎはしらてんあきら大神おおがみ神宮じんぐうすめらぎ大神宮だいじんぐう内宮ないくう)、神明しんめい神社じんじゃ)、たて雷神らいじん鹿島かしま神宮じんぐう)、けい主神しゅしん香取かとり神宮じんぐう)、タケミナカタ諏訪すわ大社たいしゃ)、ヤマトタケル建部たけべ大社たいしゃ大鳥おおとり大社たいしゃ)、神仏しんぶつ習合しゅうごうからは春日しゅんじつ権現ごんげん春日大社かすがたいしゃ)、八幡はちまんだい菩薩ぼさつ宇佐うさ神宮じんぐう)、妙見みょうけん菩薩ぼさつ千葉ちば神社じんじゃ)などはけんかみとして現代げんだいでも道場どうじょうまつられる。

蝦夷えぞわらび手刀てがたなもちいたが騎射きしゃ主体しゅたいたたかったとされ、剣術けんじゅつかんしては文献ぶんけん記述きじゅつ不明ふめいである。

平安へいあん時代じだい

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平安へいあん時代じだいになると、日本にっぽん国内こくないでの製鉄せいてつ技術ぎじゅつ大陸たいりく遜色そんしょくないレベルにまでたっした。さらに、従来じゅうらいぐなけんから、湾曲わんきょくしてひとりやすく、またうまうえでのたたかいにてきしたかたち進化しんかし、やがて現在げんざいまでつたわる日本にっぽんがたな基本形きほんけいともいえる太刀たち登場とうじょうする。

平安へいあん時代じだい中期ちゅうき武家ぶけ台頭たいとうすると、太刀たちながび、「かた手持てもち」から「りょう手持てもち」へとわり、(がたなうつわるものの)現在げんざいにいたる。平時へいじ戦闘せんとうにおいて、かたな攻防こうぼうてき殺傷さっしょうするための技術ぎじゅつ、すなわち剣術けんじゅつは、このころには確立かくりつされた。

平安へいあん時代じだい後期こうきには、京都きょうと鞍馬山くらまやまきょうはちりゅうまれる。源義経みなもとのよしつね鞍馬あんば修行しゅぎょうちゅうおにいち法眼ほうげんという天狗てんぐけんまなんだという伝説でんせつがある。おにいち法眼ほうげん鞍馬あんばてらの8にんそうおしえた剣法けんぽうきょうはちりゅうといわれている。

関東かんとうななりゅうとともにおおくの流派りゅうは母体ぼたいとなる。関東かんとうななりゅう神官しんかんきょうはちりゅうそうになであった。

武士ぶし騎射きしゃを「弓馬きゅうばみち」として重視じゅうしし、合戦かっせん騎射きしゃによる射撃しゃげきせん中心ちゅうしんであった。なお当時とうじかぶと緩衝かんしょうざいがなく、かぶとをしっかり固定こていする着用ちゃくようほうではなかったため、太刀たち相手あいてかぶとなぐりつけかぶと脱落だつらくさせてからりつけたり、脳震盪のうしんとうこしたすきいて短刀たんとうでとどめをすなど、接近せっきんせんになった場合ばあい使つかわれた[12]源平げんぺい時代じだいには『平家ひらか物語ものがたり』や『平治へいじ物語ものがたり』に剣術けんじゅつわざめいのような記述きじゅつられるものの、本来ほんらい下馬げばしたさい使つか補助ほじょてき武装ぶそうや、日常にちじょうにおける喧嘩けんか強盗ごうとう使用しようする護身ごしんようという認識にんしきつよかったとされ[13]純粋じゅんすい戦闘せんとう技術ぎじゅつとしての剣術けんじゅつ重要じゅうようされなかった[11]

平安へいあん末期まっきこった内乱ないらんうけたまわ寿ことぶきひさしらんでは戦闘せんとうだい規模きぼ動員どういんすう増加ぞうかした。以前いぜん合戦かっせん正規せいき武士ぶし身分みぶんによる騎射きしゃ中心ちゅうしんだったが、この内乱ないらんでは正規せいき武士ぶし身分みぶんとその従者じゅうしゃだけでは戦闘せんとうまかないきれなくなり、動員どういん対象たいしょう騎射きしゃ習熟しゅうじゅくしていない武士ぶし本来ほんらい武士ぶし階級かいきゅうである村落そんらく領主りょうしゅクラスにまでに拡大かくだいしたとされる[14]馬術ばじゅつ弓術きゅうじゅつ不慣ふなれなものおお参加さんかしたことから、これまでの合戦かっせんではルール違反いはんとされていた、相手あいてうまへの攻撃こうげきうまでの体当たいあたりがおこなわれるようになり、太刀たち馬上もうえ使用しよう増加ぞうかしたという[15]

鎌倉かまくら時代ときよ

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鎌倉かまくら時代ときよ武士ぶし国家こっか中心ちゅうしん勢力せいりょくとしての地位ちい確立かくりつするにいたって、日本にっぽん大陸たいりく儒教じゅきょう文化ぶんかけんからはことなった、武芸ぶげい為政者いせいしゃがその習得しゅうとくおこなうことに上位じょうい価値かちみとめる文化ぶんか形成けいせい開始かいしした。この時代じだい武士ぶし平安へいあん時代じだいおなじく「弓馬きゅうばみち」が重視じゅうしされ、馬術ばじゅつ弓術きゅうじゅつ鍛錬たんれんおこなわれたが、剣術けんじゅつはあまり重要じゅうようなものではなかった。

しかし、「けん武芸ぶげい」という文言もんごんが『吾妻あづまきょう』にあらわれ[16]、また太刀たち形状けいじょう実用じつようせい考慮こうりょし、さきはばもとはばすくなくなりひらにくくなど[17]堅牢けんろう武具ぶぐ対抗たいこうできるように変化へんかしているため、打撃だげき武器ぶきとして太刀たち重要じゅうようしつつあったとかんがえられる。やがて鎌倉かまくら幕府ばくふ衰退すいたいはじめると、もとまで皆無かいむだった薙刀なぎなた太刀たちおも武器ぶきとする「打物うちもの騎兵きへい」が出現しゅつげんするようになる。

南北なんぼくあさ時代じだい

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南北なんぼくあさ時代じだいは、「わらいきり袈裟けさきりかみなりきりくるまきり片手かたてはらいきりなできり下切したぎり立割たてわり梨子なしごきりたけわりとうが『太平たいへい』をはじめしょ文献ぶんけんえており、たてよこななめの基本形きほんけいまっている。南北なんぼくあさよろいかぶとじゅう装備そうびでは動作どうさ敏捷びんしょうせいくため、技術ぎじゅつよりも武器ぶきのリーチやおも武器ぶきつづける体力たいりょく重要じゅうようであった。

この時代じだいでは平安へいあん鎌倉かまくら時代じだいくら白兵戦はくへいせん増加ぞうかし、甲冑かっちゅう隙間すきまめる防具ぼうぐ発達はったつしたため装甲そうこう部分ぶぶんねらうのがむずかしくなった。そのため、太刀たち薙刀なぎなたなどによる(かぶと装備そうびした)頭部とうぶへの打撃だげきさかんにおこなわれるようになり、かぶと内側うちがわに浮張(うけばり)とばれる緩衝かんしょうざいもうけ、かぶとをしっかり固定こていするような着用ちゃくようほう変化へんかした[18]薙刀なぎなたかたなを「打物うちもの」と呼称こしょうするのはこのためである。

同時どうじにこれまでは騎乗きじょうでの主力しゅりょく武器ぶきゆみであり、太刀たち薙刀なぎなたなどの武器ぶき徒歩とほ使用しようすることが推奨すいしょうされていたが、この時代じだいでは騎乗きじょう状態じょうたいでも薙刀なぎなた長大ちょうだいした太刀たち主力しゅりょく武器ぶきとしてもちい、ぎゃく歩兵ほへい弓矢ゆみや多用たようするという逆転ぎゃくてん現象げんしょうきた[19]

室町むろまち戦国せんごく時代じだい

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現代げんだいにおけるかいしゃ剣術けんじゅつ演武えんぶ

室町むろまち時代ときよから戦国せんごく時代じだいにかけて、平時へいじでも武士ぶし僧侶そうりょ以外いがい民衆みんしゅう武装ぶそうするようになり、脇差わきざしかたな大小だいしょう同時どうじ携帯けいたいすることが身分みぶんわず流行りゅうこうはじめる[20]

当時とうじ人々ひとびと階層かいそうわず激怒げきどしやすいものおお些細ささいなことでも刃傷にんじょう沙汰ざたおよんだが、警察けいさつ機構きこう発達はったつ自力じりき救済きゅうさい世界せかいであったことから復讐ふくしゅう連鎖れんさめる手段しゅだんすくなく、民間みんかんじん同士どうし喧嘩けんかから室町むろまち幕府ばくふ重臣じゅうしん同士どうし合戦かっせん発展はってんするケースもあったという[21]

戦時せんじではけい装備そうび足軽あしがる雑兵ぞうひょう戦闘せんとう中心ちゅうしんめ、敏捷びんしょう動作どうさ可能かのうとなったことにより、刀剣とうけんやりもちいる白兵戦はくへいせんしょうじるようになった。剣術けんじゅつもよりこまかな技法ぎほう考案こうあんされ、流派りゅうは登場とうじょうするなど本格ほんかくてき技術ぎじゅつとなっていった。

ただし、あくまでも剣術けんじゅつは、戦場せんじょうでの総合そうごうてき戦闘せんとう技術ぎじゅつである「兵法ひょうほう」の一種いっしゅであった。戦場せんじょうにおいて刀剣とうけんは(長大ちょうだいなものをべつとすれば)しゅ武器ぶきではなく、鉄砲てっぽう弓矢ゆみやなどの道具どうぐだいいちとし、白兵戦はくへいせんにおいては、やりをはじめ薙刀なぎなたちょうまき野太刀のだちだい太刀たちなど、ながいリーチを刃物はもの優先ゆうせんして使用しようした。おおくの戦国せんごく大名だいみょうきょの「力士りきし」をやとれることに熱心ねっしんであったのは、かれらでなければまわせない長刀ちょうとう装備そうびしたうえで、力士りきしたいとして編成へんせいして身辺しんぺん警護けいご特殊とくしゅ兵力へいりょくもちいるためであった。

甲冑かっちゅう装着そうちゃくした武者むしゃ同士どうし太刀たちによる戦闘せんとう方法ほうほうは、当然とうぜん巨人きょじんがただ太刀たちまわせばよいものとはことなり、かいしゃ剣術けんじゅつ(もしくはかいしゃ剣法けんぽう)とばれ、ふかこしとした姿勢しせいからしゅわきした金的きんてき内腿うちもも手首てくびといった、よろい隙間すきまとなっている部位ぶいねらうような戦法せんぽうであった。甲冑かっちゅう武者むしゃ同士どうし戦闘せんとう最終さいしゅうてきにはちによる決着けっちゃくいたることがおおく、その技法ぎほう組討くみうちじゅつであり、柔術じゅうじゅつ源流げんりゅうの1つとなった。現代げんだい武道ぶどう柔道じゅうどう合気道あいきどうは、その柔術じゅうじゅつから派生はせいしたものである。一方いっぽう下級かきゅう兵士へいし同士どうし場合ばあいよろいまもられていない手足てあしりつけることが推奨すいしょうされていた。

なお、宮本みやもと武蔵むさしは『五輪ごりんしょ』の「まき」で、従来じゅうらいゆみやりふく[22]武士ぶしとしてのしょげい全般ぜんぱん(「武家ぶけほう」)をしていた「兵法ひょうほう」から「剣術けんじゅついちつうこと」のみをして「常陸ひたちこく鹿島かしま香取かとり社人しゃにんども明神みょうじんつてへとしてりゅう々をたてて、国々くにぐにまわり、ひとにつたゆることちかき義也よしや」(正保まさやす2ねん1645ねん))としるし、鹿島かしま香取かとり社人しゃにんたちが剣術けんじゅつのみを兵法ひょうほうとして全国ぜんこくをわたりつたえるようになったのはふるいことではないこととべている。

えいろく9ねん(1566ねん五月ごがつ吉日きちじつ上泉かみいずみ伊勢いせまもる信綱のぶつな柳生やぎゅう宗厳むねよしあてしんかげりゅう相伝そうでん自筆じひつ伝書でんしょに、「上古じょうこりゅうり、中古ちゅうこねんりゅうしん當流とうりゅうまたふくかげりゅうり。」とさんだい流派りゅうは兵法ひょうほうさんだい源流げんりゅう)をしるしている。しかし、この三流さんりゅう卒然そつぜんとして成立せいりつしたのではなく、先行せんこう技法ぎほう体験たいけんしたうえ工夫くふう考案こうあんされたものである[23]

しん當流とうりゅうめししのただしは『せきはちしゅういにしえせんろく』によると「鹿伏兎かぶと刑部おさかべしょうより、とげげきほう伝授でんじゅされた」となっており、えいろく年中ねんじゅうしん當流とうりゅう」から「天真てんしん正伝せいでん香取かとり神道しんとうりゅう」を名乗なの[24][25]

かげりゅうあいしま久忠ひさただだれから兵法ひょうほうまなんだかはあきらかではないが、あいしま久忠ひさただ時代じだいには、関東かんとうではすでめししのただし天真てんしん正伝せいでん神道しんとうりゅう盛行せいこうしており、三河みかわこく高橋たかはししょうには中条ちゅうじょう長秀ながひでひゃくねんまえ中条ちゅうじょうりゅう流布るふさせていた。また15世紀せいきはじめには、ねんりゅうねん和尚おしょう慈恩じおん相馬そうま四郎しろう義元よしもと)の門人もんじんちゅうきょうろくにんといわれるひとたちが京都きょうと奈良なら中心ちゅうしん兵法ひょうほうひろめていたとかんがえられる[26]

この時代じだい伝書でんしょとして確認かくにん出来できるのは、もりたけし文書ぶんしょ大分おおいたけん佐伯さいき)としてつたわっているえいろく8ねん1565ねん)に藤原ふじわらひろゆたかもりたけし発行はっこうしたしん当流とうりゅう兵法ひょうほうしょ[27]、『武備ぶび』に掲載けいさいされたかげ目録もくろくかげりゅう、また天正てんしょう年間ねんかんそとより御子みこしんされたそと他流たりゅう目録もくろくなどがある。

中条ちゅうじょうりゅうねんりゅうしん當流とうりゅう神道しんとうりゅう)、かげりゅうは、そのおおくの支流しりゅう誕生たんじょうさせることとなる[11]

安土あづち桃山ももやま時代じだい

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国内こくないさい統一とういつのちへいのう分離ぶんりかたなかりおこなわれた。これ以前いぜんに、武士ぶしでない庶民しょみん平素へいそから帯刀たいとうしていた習慣しゅうかんがあったことは、日本人にっぽんじん剣術けんじゅつとのかかわりのふかさを認識にんしきするじょう重要じゅうようである。

戦場せんじょうではなく日常にちじょうでのたたかいが前提ぜんていとされた剣術けんじゅつ主流しゅりゅうになったのは、このころからである。

江戸えど時代じだい

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ひきはだたわわ(ひきはだしない)というふくろ竹刀しない使用しようした柳生やぎゅうしんかげりゅう演武えんぶふくろ竹刀しない上泉かみいずみ信綱のぶつな考案こうあんしたとつたえられる。(厳島いつくしま神社じんじゃ開催かいさいされる日本にっぽん武道ぶどう協会きょうかい主催しゅさい日本にっぽん武道ぶどう厳島いつくしま神社じんじゃ演武えんぶ大会たいかいにて)
二天にてん一流いちりゅう
幕末ばくまつ外国がいこくじんカメラマンF・ベアトによって撮影さつえいされた剣術けんじゅつ稽古けいこ現代げんだい剣道けんどうとほぼおな道具どうぐ使用しようしている。

江戸えど時代じだい剣術けんじゅつおおきく発展はってんし、流派りゅうはは700をえる[28]甲冑かっちゅう着用ちゃくよう前提ぜんていかいしゃ剣術けんじゅつから、平服へいふく平時へいじ偶発ぐうはつてき個人こじんせん前提ぜんていとする素肌すはだ剣術けんじゅつへとわった。それまでの補助ほじょてき武器ぶきではなく、かたな脇差わきざし大小だいしょうのみでのたたかいを前提ぜんていとしているのが特徴とくちょうある。

死傷ししょうしゃしょうじる木刀ぼくとうでのい(試合しあい)は幕府ばくふによって禁止きんしされ[29]約束やくそく動作どうさかたち稽古けいこ中心ちゅうしんとなり、のちに竹刀しない防具ぼうぐ発明はつめいされ、安全あんぜんせい確保かくほしながらわざためうようになった。

武士ぶし剣術けんじゅつ道場どうじょうひらいたことで武士ぶし階級かいきゅうである、農民のうみん町人ちょうにん剣術けんじゅつまなぶようになったことも特筆とくひつすべきことである。

殺人さつじんがたなかつじんけん

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殺人さつじんがたな(せつにんとう)」と「かつじんけん(かつにんけん)」[ちゅう 1]とは、元来がんらいぜんの『もんせき』・『あおいわおろく』などの公案こうあんでの用語ようごである。

上泉かみいずみ信綱のぶつな1566ねんえいろく9ねん2がつ肥後ひごこくまる蔵人くろうどあたえた印可いんかが「殺人さつじんがたなかつじんけん」とあり、また一刀いっとうりゅうほん目録もくろく14に「まんじ殺人さつじんがたなかつじんけん」という名前なまえられるように、武術ぶじゅつたいして、ぜん用語ようごおなじくおおきな影響えいきょうをあたえた。

兵法ひょうほう伝書でんしょ

江戸えど時代じだい初期しょき柳生やぎゅう宗矩むねのりが『兵法ひょうほう伝書でんしょ』において、つぎのようにぜんとはことなる意味いみ使用しようした。

一人ひとりあくりて、まんにんくるしむことあり。しかるに、一人ひとりあくをころしてまんにんをいかす、とうまことに、ひとをころすかたなひとをいかすつるぎなるべきにや」、「ひとをころすかたな、却而じんをいかすつるぎ也とは、おっとみだれたるには、なきものおおする也。みだれたるおさめむために、殺人さつじんがたなもちいゐて、すでおさまるときは、殺人さつじんがたなすなわかつじんつるぎならずや。こゝをもっ名付なづけくるところ也」

かたきなすあくって確実かくじつころすのが殺人さつじんがたなであって、そのあくころしたゆえにまんにんすくわれ「きる」のがかつじんけんだとう。兵法ひょうほう、すなわちかたなひと行為こういにはこの両面りょうめんがないとならないとさとし、日本にっぽん剣術けんじゅつ殺人さつじん技法ぎほうにとどまらず昇華しょうかしたことをしめす。ここで臨済宗りんざいしゅう沢庵たくあん宗彭そうほう柳生やぎゅう宗矩むねのりに『不動ふどうさとし神妙しんみょうろく』をあたえたことにより、江戸えど柳生やぎゅうで「けんぜん一致いっち」がかれた結果けっかとして「かたなほう尾張おわり柳生やぎゅう」にたいして「しんほう江戸えど柳生やぎゅう」とわれたことは史実しじつであり、ぜんかんがかた影響えいきょうあたえたことは否定ひていできない。

なお、現代げんだいしんかげりゅうつたわる柳生やぎゅう宗厳むねよし書状しょじょうに、「当流とうりゅうかまえる太刀たちみな殺人さつじんがたなという。かまえのなきどころをいずれもみなかつじんつるぎという。またかまえる太刀たちのこらず裁断さいだんしてけ、なきどころもちいるので、しょうずるによりかつじんつるぎという」とある。

上記じょうきげられているしんかげりゅうかたなほうおよび兵法ひょうほう武術ぶじゅつてき解釈かいしゃくでは、かつじんけん殺人さつじんけんという言葉ことばべつ意味いみ存在そんざいする。しんかげりゅうには「無形むけいくらいてん(まろばし)」とばれる「相手あいてつかまつがかたいしててんじてつ」がある。まずかまえずに(しんかげりゅうではこれを「無形むけい」【かたなりの自然体しぜんたい】とぶ)相手あいて仕掛しかけさせ、それにおうじて「さき」をるわけである。ここでのかつじんという言葉ことばは「相手あいて(すなわちひと)がうごく」という意味いみもちいられている。この場合ばあいかつじんけんとはぎゃく意味いみで、自分じぶんからかまえをってむことを殺人さつじんけんぶ。また「てん」のにより「あさつ」こと、おも小手こてちいさくするど斬撃ざんげき多用たようされるため(技法ぎほう太刀たち、くねりち、一刀いっとうりょうだん西にしすいなどにもられるが、もっと典型てんけいてき技法ぎほうは「てんち」である)、結果けっかとして相手あいて致命傷ちめいしょうあたえずつこともおおく、その結果けっかとして「かつじんけん」とばれることもある。

竹刀しない防具ぼうぐ発明はつめい

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ふるくからおおくの流派りゅうは独自どくじふくろ竹刀しない(ひきはだたわわ)や小手こて使用しようした稽古けいこおこなわれていたが、おおくの場合ばあいかたち稽古けいこ中心ちゅうしんであった。しかし長期ちょうきにわたり実戦じっせんからとおざかると、「はなほうはなほう)」といわれるかけばかり華麗かれい動作どうさくわえられるようになった。はなほう弊害へいがい払拭ふっしょくするために江戸えど時代じだい中期ちゅうきから後期こうきにかけて、防具ぼうぐ竹刀しないわり竹刀しない)が直心ひたごころかげりゅう中西なかにし一刀いっとうりゅう改良かいりょうされ、本格ほんかくてき稽古けいこ試合しあい稽古けいこ)がおこなわれるようになった[30]。いわゆる「撃剣げっけん」である[31] [32]

剣術けんじゅつ史上しじょうのエポックといえる開発かいはつであったが、その得失とくしつについて賛否さんぴ両論りょうろんがあった。やがて竹刀しない稽古けいこひろ普及ふきゅうし、このながれが明治めいじ以降いこう剣道けんどうへとつながっていく。試合しあい稽古けいこ流行りゅうこうにともない、ながれ以来いらい試合しあいきんじていた流派りゅうはが、やむなく試合しあい稽古けいこおこなうようになった記録きろくのこっている。一方いっぽう尾張おわりはんしんかげりゅう岩国いわくにはん長州ちょうしゅうはん片山かたやま伯耆ほうきりゅう弘前ひろさきはん當田とうでりゅうなどといったかたち稽古けいこ中心ちゅうしん試合しあい稽古けいこれなかった流派りゅうはでは、門弟もんていかずいちじるしい増加ぞうかはなかった。

幕末ばくまつ

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黒船くろふね来航らいこう尊王そんのう攘夷じょういろん倒幕とうばく運動うんどうさかんになり、各地かくちいや暗殺あんさつ発生はっせいし、素肌すはだ剣術けんじゅつもっと実用じつようせいびた時代じだいといわれる。

江戸えど幕府ばくふ黒船くろふね脅威きょういけて、幕臣ばくしんとその子弟してい対象たいしょうとした武芸ぶげい訓練くんれん機関きかんこうたけしょ設立せつりつし、剣術けんじゅつほか武術ぶじゅつ教授きょうじゅした。

このころかがみしん明智めいちりゅう神道しんとう無念むねんりゅう北辰ほくしん一刀いっとうりゅうしんがたがたなりゅう天然てんねんしんりゅうなど、各地かくち新興しんこう試合しあい稽古けいこ重視じゅうし流派りゅうは道場どうじょう隆盛りゅうせいし、こうたけしょ試合しあい奨励しょうれいしたため、他流たりゅう試合しあい益々ますますさかんになった。

剣客けんかくんだおも地域ちいきは、剣術けんじゅつ道場どうじょうおおかった関東かんとう地方ちほうや、倒幕とうばく運動うんどう積極せっきょくてきだった薩摩さつまこく土佐とさこくがある。幕末ばくまつ剣術けんじゅつ流派りゅうは総数そうすうは、200以上いじょうあったといわれている[33]新選しんせんぐみなど剣客けんかく集団しゅうだん誕生たんじょうし、一連いちれん闘争とうそう政争せいそう関与かんよし、明治維新めいじいしんいたった。

明治めいじ大正たいしょう

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明治めいじしん政府せいふによる武士ぶし階級かいきゅう廃止はいし廃刀はいとうれいによる帯刀たいとう禁止きんしなどの近代きんだい欧化おうか主義しゅぎ政策せいさくにより、剣術けんじゅつ不要ふようなものであるとされ衰退すいたいした。京都きょうとでは剣術けんじゅつ稽古けいこするもの国事犯こくじはんとみなして監禁かんきんした。福岡ふくおか津田つだいちつてりゅう津田つだ正之まさゆき剣術けんじゅつ禁止きんしなげき、伝書でんしょいて自刃じじんした。各地かくち士族しぞく反乱はんらんこるようになる。

困窮こんきゅうした士族しぞく武芸者ぶげいしゃ救済きゅうさいするため、直心ひたごころかげりゅう榊原さかきばらかぎきちは「撃剣げっけん興行こうぎょう」という剣術けんじゅつ見世物みせもの開催かいさいした。庶民しょみん注目ちゅうもく人気にんきあつめ、東京とうきょう以外いがい地方ちほうけんにもおよんだが、勝敗しょうはいかりにくいことなどが理由りゆうでやがてすたれていった。剣術けんじゅつ見世物みせものにするための演出えんしゅつとして、奇声きせい大声おおごえげる行為こういなど、その剣道けんどう技術ぎじゅつにも悪影響あくえいきょうあたえたとする批判ひはんもあるが、受難じゅなん時代じだい剣術けんじゅつ命脈めいみゃくたもったことは評価ひょうかされている。

1877ねん明治めいじ10ねん)の西南せいなん戦争せんそう抜刀ばっとうたい活躍かつやくし、剣術けんじゅつ価値かち見直みなおされることとなった。その警視庁けいしちょう撃剣げっけん世話ぜわかけ創設そうせつされ、警察けいさつ剣術けんじゅつさかんになった。一方いっぽう陸軍りくぐんでは、1884ねん明治めいじ17ねん)にフランス陸軍りくぐんから教官きょうかん招聘しょうへいし、フェンシング訓練くんれんしていた。1894ねん明治めいじ27ねん)、陸軍りくぐんはフランスしき剣術けんじゅつりやめ、日本にっぽん剣術けんじゅつもとにした片手かたて軍刀ぐんとうじゅつ制定せいていした。

1895ねん明治めいじ28ねん)、日本にっぽん武術ぶじゅつ振興しんこうするだい日本にっぽん武徳ぶとくかい創立そうりつされた。だい日本にっぽん武徳ぶとくかいにはすうおおくの流派りゅうは参加さんかしたが、武徳ぶとくかい段位だんい称号しょうごう学校がっこう教育きょういくのためのルールや指導しどうほうなどが整備せいびされ、多種たしゅ多様たよう流派りゅうは剣術けんじゅつから統一とういつされた現代げんだい剣道けんどうへと変化へんかしていった。

1898ねん明治めいじ31ねん)、武田たけだそうかく小野おの一刀いっとうりゅう生家せいかとなり会津あいづ藩士はんし御供ごくうばん佐藤さとう金右衛門きんえもんに、剣術けんじゅつあい動作どうさ応用おうようした式内しきない柔術じゅうじゅつ修行しゅぎょうした。霊山りょうぜん神社じんじゃ宮司ぐうじ保科ほしなきんとくもと会津あいづはん家老がろう西郷さいごうよりゆきはは)に大東だいとうりゅう名称めいしょうあたえられ、剣術けんじゅつ柔術じゅうじゅつごう柔術じゅうじゅつ指導しどうした。身長しんちょう148センチ、竹刀しない左右さゆうえ、かた手打てうちを得意とくいとした。脇差わきざしめずらしい「り」をせている。

昭和しょうわ平成へいせい

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1945ねん昭和しょうわ20ねん)、日本にっぽん太平洋戦争たいへいようせんそう敗戦はいせんする。連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい(GHQ)指令しれいによってだい日本にっぽん武徳ぶとくかい解散かいさんし、武道ぶどう禁止きんしされた。このあいだ苦肉くにくさくとしてたわわ競技きょうぎ(しないきょうぎ)というスポーツ考案こうあんされ、フェンシングせた用具ようぐやルールを採用さいようするなどして、従来じゅうらい剣道けんどうとは無関係むかんけいのものとしておこなわれた。

占領せんりょう解除かいじょされた1952ねん昭和しょうわ27ねん)に全日本ぜんにほん剣道けんどう連盟れんめい発足ほっそくし、本来ほんらい剣術けんじゅつ稽古けいこできる環境かんきょうもどったが、かたち稽古けいこ竹刀しない稽古けいこきょくすすみ、今日きょういたっている。ただし、一刀いっとうりゅう諸派しょは直心ひたごころかげりゅうなど、かたち竹刀しないとも重視じゅうししている流派りゅうはもある。神道しんとう無念むねんりゅうながれをいちけんかい羽賀はが道場どうじょう日本にっぽん剣道けんどう協会きょうかいでは、戦前せんぜんのままのあし搦やわざふく竹刀しない稽古けいこつづけている。

日本にっぽん武道ぶどう協会きょうかい日本にっぽん武道ぶどう振興しんこうかいでは、剣術けんじゅつ保存ほぞん振興しんこうのために、かたち記録きろく映像えいぞう制作せいさくや、武道ぶどう演武えんぶ大会たいかいなどを開催かいさいしている。

流派りゅうは

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神道しんとうりゅうけい

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ねんりゅうけい

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一刀いっとうりゅうけい

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かげりゅうけい

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しんかげりゅうけい

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せきりゅう/ひがしぐんりゅうけい

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二天にてん一流いちりゅうけい

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林崎はやしざき居合いあいけい

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剣術けんじゅつ流派りゅうはとなった流派りゅうは、もしくは剣術けんじゅつ流派りゅうはとされることがある流派りゅうはのみ

その

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ これをもって「殺人さつじんけん(せつにんけん/さつじんけん)」と、敵対てきたい-相対あいたいしてはならないときびしく指導しどう鍛錬たんれん日々ひびはげんだとされる。江戸えど町中まちなか剣術けんじゅつ道場どうじょうでは切捨きりすて御免ごめん辻斬つじぎなどと区別くべつされることとなった。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 歴史れきしぐんぞう編集へんしゅう日本にっぽん剣術けんじゅつ(2)』歴史れきしぐんぞうシリーズ 学研がっけん ISBN 4056042306
  • まき秀彦ひでひこしん紀元きげんしゃ編集へんしゅうへん図説ずせつ けんわざ剣術けんじゅつしん紀元きげんしゃ ISBN 4883173410
  • まき秀彦ひでひこしん紀元きげんしゃ編集へんしゅうへん図説ずせつ けんわざ剣術けんじゅつ〈2〉』 しん紀元きげんしゃ ISBN 4883173585
  • まき秀彦ひでひこ武術ぶじゅつ剣術けんじゅつがわかる事典じてん : これで歴史れきしドラマ・小説しょうせつたのしくなる!』技術評論社ぎじゅつひょうろんしゃ、2005ねんISBN 4774122696 
  • ほん信義しんぎ時代じだいげき剣術けんじゅつのことがかたれるほん : テレビや映画えいがるときに「あっ、そうなのか」』明日香あすか出版しゅっぱんしゃ、2003ねんISBN 475690680X 
  • 田中たなかひろしもん古流こりゅう剣術けんじゅつあいりゅうどう ISBN 4750202150
  • 小島こじまえいひろし素顔すがお剣豪けんごうたち』日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ ISBN 4532162858
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  • 池月いけづきうつごう武田たけだそうかく歴史れきし春秋しゅんじゅうしゃ 2015ねん ISBN 978-4-89757-862-0
  • 池月いけづきうつ歴史れきし春秋しゅんじゅう92』「武田たけだそうかく大東だいとうりゅうごう柔術じゅうじゅつ創始そうししゃ会津あいづ学会がっかい 歴史れきし春秋しゅんじゅうしゃ 2021ねん 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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