神道しんとう一いち心しん流りゅう(しんとういっしんりゅう)は、櫛淵くしぶち宣せん根ねが開ひらいた剣術けんじゅつ流派りゅうは。戸田とだ流りゅう薙刀なぎなた術じゅつを併伝していた。
上うえ州しゅう利根とね郡ぐん後閑ごかん村むらの住人じゅうにん・櫛淵くしぶち宣せん根ねは父ちち・宣せん久ひさより神道しんとう流りゅうを学まなんだ後のち、微塵みじん流りゅう剣術けんじゅつ、戸田とだ流りゅう薙刀なぎなた術じゅつ、直心ひたごころ影かげ流りゅう剣術けんじゅつ、三和さんわ無敵むてき流りゅう剣術けんじゅつ、揚あげ心しん流りゅう柔術じゅうじゅつ等ひとしを学まなんで神道しんとう一いち心しん流りゅうを開ひらいた。当流とうりゅうの刀かたな法ほうは「微塵みじん流りゅう」「直心ひたごころ影かげ流りゅう」「無敵むてき流りゅう」「戸田とだ流りゅう薙刀なぎなた術じゅつ」「宝蔵ほうぞう院いん流りゅう槍術そうじゅつ」から成なり立たったとされる。正式せいしき名称めいしょうは神道しんとう一いち心しん流りゅう兵法ひょうほうと称しょうする。
寛政かんせい元年がんねん(1789年ねん)、宣せん根ねは江戸えどに道場どうじょうを開ひらき神道しんとう一いち心しん流りゅう剣術けんじゅつと戸田とだ流りゅう薙刀なぎなた術じゅつを教授きょうじゅした。
寛政かんせい4年ねん(1792年ねん)、宣せん根ねは一いち橋きょう徳川とくがわ家かに150石いしで召めし抱かかえられたので、一いち橋きょう徳川とくがわ家かの家臣かしんにも神道しんとう一いち心しん流りゅう剣術けんじゅつを教授きょうじゅしたという。
宣せん根ねの後のちは、養子ようし(血縁けつえん上じょうは甥おい)の櫛くし渕ふち宣せん猶なおが流儀りゅうぎを継承けいしょうし、一いち橋きょう徳川とくがわ家かに仕つかえる傍かたわら道場どうじょうで指導しどうし、文政ぶんせい年間ねんかんには門人もんじんが300名めいを超こえたという。
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