神道しんとういちしんりゅう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

神道しんとういちしんりゅう(しんとういっしんりゅう)は、櫛淵くしぶちせんひらいた剣術けんじゅつ流派りゅうは戸田とだりゅう薙刀なぎなたじゅつを併伝していた。

うえしゅう利根とねぐん後閑ごかんむら住人じゅうにん櫛淵くしぶちせんちちせんひさより神道しんとうりゅうまなんだのち微塵みじんりゅう剣術けんじゅつ戸田とだりゅう薙刀なぎなたじゅつ直心ひたごころかげりゅう剣術けんじゅつ三和さんわ無敵むてきりゅう剣術けんじゅつあげしんりゅう柔術じゅうじゅつひとしまなんで神道しんとういちしんりゅうひらいた。当流とうりゅうかたなほうは「微塵みじんりゅう」「直心ひたごころかげりゅう」「無敵むてきりゅう」「戸田とだりゅう薙刀なぎなたじゅつ」「宝蔵ほうぞういんりゅう槍術そうじゅつ」からったとされる。正式せいしき名称めいしょう神道しんとういちしんりゅう兵法ひょうほうしょうする。

寛政かんせい元年がんねん1789ねん)、せん江戸えど道場どうじょうひら神道しんとういちしんりゅう剣術けんじゅつ戸田とだりゅう薙刀なぎなたじゅつ教授きょうじゅした。

寛政かんせい4ねん1792ねん)、せんいちきょう徳川とくがわに150いしかかえられたので、いちきょう徳川とくがわ家臣かしんにも神道しんとういちしんりゅう剣術けんじゅつ教授きょうじゅしたという。

せんのちは、養子ようし血縁けつえんじょうおい)のくしふちせんなお流儀りゅうぎ継承けいしょうし、いちきょう徳川とくがわつかえるかたわ道場どうじょう指導しどうし、文政ぶんせい年間ねんかんには門人もんじんが300めいえたという。