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楊心古流こりゅう

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あげこころ古流こりゅうから転送てんそう
楊心古流こりゅう
ようしんこりゅう
捕:金谷元朗、受:杉野嘉男
:金谷かなやもとろう、受:杉野すぎの嘉男よしお
別名べつめい 楊心りゅうあげしんりゅう
戸塚とつか楊心りゅう戸塚とつかりゅう江上こうじょうりゅう
天神てんじん楊心りゅう
発生はっせいこく 日本の旗 日本にっぽん
発生はっせいねん 江戸えど時代じだい
創始そうししゃ 三浦みうら楊心
中興ちゅうこう 江上こうじょうかんやなぎ
戸塚とつか彦右衛門えもん
源流げんりゅう 楊心りゅう
派生はせい流派りゅうは 神道しんとうろく合流ごうりゅう神道しんとうあげしんりゅう
主要しゅよう技術ぎじゅつ 柔術じゅうじゅつころせほうかつほう捕縄とりなわじゅつみだれ
棒術ぼうじゅつつえじゅつ剣術けんじゅつじゅうくさり
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楊心古流こりゅう(ようしんこりゅう)は、柔術じゅうじゅつ流派りゅうはである。正式せいしきには楊心りゅうったが、戸塚とつか彦介ひこすけ有名ゆうめいであったため戸塚とつか楊心りゅう(とつかはようしんりゅう)ともばれる。秋山あきやま四郎しろう兵衛ひょうえ楊心りゅう区別くべつするため、楊心古流こりゅうしょうしていた。楊心りゅうおなじく、文書ぶんしょじょう、楊、あげどちらの使用しようれいられる。

みだれはやくかられ、幕末ばくまつ江戸えど中心ちゅうしんにかなりの修行しゅぎょうしゃがいた。明治めいじ初期しょき講道館こうどうかんのライバル流派りゅうはひとつとして小説しょうせつ記録きろく登場とうじょうする。

歴史れきし

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ながれ肥前ひぜんくに長崎ながさき医師いしであった三浦みうら楊心である。徳川とくがわ初代はつよころひととされている[1]

三浦みうら楊心はひとやまいになるのは坐食ざしょくして心神しんしん倦怠けんたいさせるからであり、これを未然みぜんふせぐためには適度てきど運動うんどうをするのがよいとかんがえていた。そして高弟こうていにん相談そうだんぎょうかたつくげて、これをこころみたところ心身しんしん爽快そうかいおぼえた。しかしいまだにからだ運用うんよう不十分ふじゅうぶんであったため、さらにおこりあい行合ゆきあいがた工夫くふうした。これに習熟しゅうじゅくしたところはじめて健康けんこう保全ほぜんすることができたという。

三浦みうら楊心がぼっしたのち高弟こうていにん相談そうだんし、多年たねんほどこして効果こうかのあったかたすべきではなく天下てんか普及ふきゅうして本分ほんぶんつくすべきと一人ひとりは楊心りゅうしょうし、一人ひとり三浦みうらりゅうしょうして人々ひとびと教授きょうじゅした[1]。その豊後ぶんごひとである阿部あべかんやなぎ武貞たけさだが楊心りゅう奥義おうぎきわめた。

楊心古流こりゅう中興ちゅうこうとされる江上こうじょう司馬しばかいけい阿部あべかんやなぎおいである。豊後ぶんごこくひと龍造寺りゅうぞうじ山城やましろまもる三男さんなん江上こうじょう下総しもうさまもる末孫ばっそんであるとつたわり幼名ようみょう江上こうじょうおにろうといった。阿部あべかんやなぎぼっしたとき江上こうじょうかんやなぎごうして楊心りゅういだ。

江上こうじょうかんやなぎ柔術じゅうじゅつはただ身体しんたい強健きょうけんするのみならずおっとたるしゃ柔術じゅうじゅつまなばなければならないとかんがえていた。江上こうじょうかんやなぎは21さいごろ江戸えどのぼしば赤羽根あかはねしんこういんはた演武えんぶじょう開設かいせつし楊心りゅうおしえた。そのもんはいるもの1500にんおよんだ。寛政かんせいななねんろくがつななにち(1795ねん)に48さいぼっした。

江上こうじょう高弟こうていである戸塚とつか彦右衛門えもんえいきよし柔術じゅうじゅつじょうしば西久保にしくぼ八幡山下やわたやましたひらいた。門人もんじんは900にんあまりであった。江上こうじょうかんやなぎ沼津ぬまづはんで楊心りゅうおしえていたことから、その推挙すいきょにより戸塚とつか彦右衛門えもん沼津ぬまづはん柔術じゅうじゅつ教授きょうじゅおこなった。戸塚とつか彦右衛門えもん師恩しおん追慕ついぼして生前せいぜん江上こうじょうりゅうしょうした[1]

戸塚とつか彦介ひこすけ幼少ようしょうからちち戸塚とつか彦右衛門えもんいて江上こうじょうりゅうまなぶ。戸塚とつか彦介ひこすけ水野みずのつか沼津ぬまづはん柔術じゅうじゅつ指南しなんやくとなった。1837ねん天保てんぽう8ねん)に戸塚とつか彦右衛門えもんくなったことにより25さい継承けいしょうして弟子でし教授きょうじゅした。戸塚とつか彦右衛門えもん遺命いめいによりりゅう名称めいしょうもともどし楊心りゅうとした。戸塚とつか彦介ひこすけだいおよんでもんはいもの他流たりゅうよりまなびにるものがおおくなり盛大せいだいきわめた。徳川とくがわ家茂いえもちに楊心りゅう秘技ひぎ上覧じょうらんし、1860ねん万延まんえん元年がんねん幕府ばくふこうたけしょもうけられたさい徳川とくがわ家茂いえもち推薦すいせんにより柔術じゅうじゅつ教授きょうじゅ任命にんめいされた。このとき柔術じゅうじゅつじょう愛宕下あたごしたうつ門人もんじんは1600にんあまりとなったとされる。1868ねん明治めいじ元年がんねん)に沼津ぬまづはん水野みずの菊間きくま現在げんざい千葉ちばけん市原いちはら菊間きくま)にうたてふうしたことにより、明治維新めいじいしん拠点きょてん千葉ちばけんうつして柔術じゅうじゅつ教授きょうじゅおこなった。

別名べつめい戸塚とつか楊心りゅうばれるのは戸塚とつか彦介ひこすけこうたけしょ柔術じゅうじゅつ師範しはんとして活躍かつやくしたためである。1903ねん明治めいじ36ねん嘉納かのう治五郎じごろうとともに最初さいしょ柔道じゅうどうはんえらばれた戸塚とつか英美ひでみ戸塚とつか彦介ひこすけである。

明治めいじ以降いこうおおくの修行しゅぎょうしゃがおり、香取かとり神道しんとうりゅう杉野すぎの嘉男よしおなども楊心古流こりゅうまなんでいる。昭和しょうわ初期しょき武道ぶどう振興しんこうかいには今田いまだ七郎しちろう門弟もんてい金谷かなやもとろう大竹おおたけ森吉もりよし門人もんじん深井ふかい子之吉ねのきち上野うえのはちじゅうきち大竹おおたけ孫弟子まごでしにあたる鈴木すずき次夫つぐお鈴木すずき三郎さぶろう所属しょぞくしていた。金谷かなやもとろう系統けいとうは楊心古流こりゅう大竹おおたけ森吉もりよし系統けいとう戸塚とつか楊心りゅうという名称めいしょう武道ぶどう振興しんこうかいはい活動かつどうしていた。ただし古流こりゅうおなじく、だい大戦たいせんこういちじるしく修行しゅぎょうしゃ現在げんざい伝承でんしょうじょうきょう不明ふめいである。雑誌ざっし極意ごくい』(1997ねん)に最後さいご継承けいしょうしゃ一人ひとり金谷かなやもとろう弟子でしもと日立ひたち高等こうとう学校がっこう校長こうちょう保立ほたて謙三けんぞうのインタビューが掲載けいさいされていた。まただいたけ孫弟子まごでしにあたる鈴木すずき三郎さぶろう戸塚とつか楊心りゅう家元いえもと代理だいり名乗なのっていた。

明治めいじごろひらかれた神道しんとうろく合流ごうりゅうには大竹おおたけ森吉もりよし門下もんか深井ふかい子之吉ねのきちかかわっており、戸塚とつか楊心りゅうもとつくげたかたちみだれわざれられている。神道しんとうろく合流ごうりゅう道場どうじょう直接ちょくせつこの技術ぎじゅつまなんだ椎木しいきたかしぶん創始そうししたいちわざどうに楊心古流こりゅう由来ゆらいかたちつたわっている。

戸塚とつか楊心りゅうかんするはなし

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流派りゅうはめいについて

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楊心古流こりゅう正式せいしき名称めいしょうは楊心りゅうであるが、江上こうじょうりゅう・楊心古流こりゅう戸塚とつか楊心りゅう天神てんじん楊心りゅうなどともばれていた。

江上こうじょうりゅうという名称めいしょう戸塚とつか彦右衛門えもん生前せいぜん師恩しおん追慕ついぼしてしょうしていた名称めいしょうであるが、遺言ゆいごんにより戸塚とつか彦介ひこすけだいから流派りゅうはめいを楊心りゅうふくした。

楊心古流こりゅうという名称めいしょう秋山あきやま四郎しろう兵衛ひょうえけいの楊心りゅうよりふるいという意味いみ名乗なのっていた。また戸塚とつか楊心りゅうというのはこうたけしょ師範しはんとなった戸塚とつか彦介ひこすけ活躍かつやくによりばれた名称めいしょうであった。

天満てんま天神てんじんとの関係かんけい天神てんじん楊心りゅうとも名乗なのった系統けいとうもあった。

戸塚とつか彦介ひこすけ松岡まつおか克之かつゆきすけ

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松岡まつおか克之かつゆきじょなおしゅうは、天神てんじん楊流いそただしさとしから戸塚とつか楊心りゅう戸塚とつか彦介ひこすけからまなりゅう合流ごうりゅうして神道しんとう楊心りゅう柔術じゅうじゅつひらいた人物じんぶつである。松岡まつおか克之かつゆきすけ戸塚とつか彦介ひこすけ門人もんじんでありむすめ婿むこ戸塚とつか彦介ひこすけ門人もんじん息子むすこ片柳かたやなぎ良太郎りょうたろうであることから、戸塚とつかこうたけしょについてのはなしおおつたわっている。

戸塚とつか彦介ひこすけについて

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神道しんとう楊心りゅう松岡まつおか龍雄たつおちち片柳かたやなぎ良太郎りょうたろうからいたはなしでは、戸塚とつか彦介ひこすけあら稽古けいこ江戸えどちゅう大変たいへん評判ひょうばんとなっており、戸塚とつか彦介ひこすけ身長しんちょう5しゃく9すん(178.8cm)体重たいじゅう23かん(86.2kg)の大男おおおとこ少々しょうしょううで自慢じまんものでもかるむこずねられただけで道場どうじょう羽目板はめいたまでんでしまう有様ありさまであったという[2]

戸塚とつか道場どうじょうはこのあら稽古けいこにより奉行ぶぎょうしょから稽古けいこめの命令めいれいけたことがある[3]

幕末ばくまつみだれ稽古けいこ

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幕末ばくまつみだれ稽古けいこでは水月すいげつこぶしてることもむこずね睾丸こうがんりをれることも自由じゆうであり、相手あいてげるとき土中どちゅうまでむほどのいきおっていた。幕府ばくふこうたけしょみだれ稽古けいこでも怪我人けがにんるのはたりまえむねはいったりをけそこねて絶命ぜつめいしたはなし大男おおおとことされて蘇生そせいしなかったはなしつたわっている[4]

戸塚とつか彦介ひこすけ松岡まつおか克之かつゆきすけ試合しあい

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松岡まつおか克之かつゆきすけは1855ねん安政あんせい2ねん)にいそただしさとしから免許皆伝めんきょかいでんさずかり、磯道いそみちじょう四天王してんのう一人ひとりとして師範代しはんだいつとめていた。当時とうじ松岡まつおか克之かつゆきすけ体格たいかく身長しんちょう5しゃく8すん(175.7cm)体重たいじゅう23かん(86.2kg)であり、他流たりゅう試合しあいいちことごとたおして「磯道いそみちじょう猛虎もうこ」とおそれられた。師範代しはんだいさんねんつとめたのち、1858ねん安政あんせい5ねん浅草あさくさ観音寺かんおんじ境内けいだい天神てんじん楊流道場どうじょうひらいた。

1860ねん万延まんえん元年がんねん松岡まつおか克之かつゆきすけ黒田くろだはんからしを幕府ばくふこうたけしょ修行しゅぎょうじんめいじられた。こうたけしょ修行しゅぎょうじんとは旗本はたもと御家人ごけにんはじかくはんなかから剣術けんじゅつ・鎗術・柔術じゅうじゅつとう武術ぶじゅつうでものえらんで特別とくべつ訓練くんれんをするために選出せんしゅつされるものである。

このこうたけしょ柔術じゅうじゅつ教授きょうじゅかた戸塚とつか彦介ひこすけったところ、どう頑張がんばってもさんほん勝負しょうぶみだれ試合しあいほんられてしまったという[2]。このとき戸塚とつか彦介ひこすけは49さい松岡まつおか克之かつゆきすけは24さいであった。

これにより松岡まつおか克之かつゆきすけ戸塚とつか彦介ひこすけだい師匠ししょうさだめ、こうたけしょ愛宕下あたごした戸塚とつか道場どうじょうかよって楊心りゅう修行しゅぎょうした。

戸塚とつか楊心りゅうかまこし

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戸塚とつか彦介ひこすけしたかまこし

戸塚とつか彦介ひこすけしたわざかまこしというものがある[5]戸塚とつか楊心りゅうまなんだ深井ふかい子之吉ねのきち帝国ていこく尚武しょうぶかいから出版しゅっぱんした『柔術じゅうじゅつ教授きょうじゅしょ 奥秘おうひりゅうまき』にかまこし詳細しょうさいしるされている。

このかまこしというわざ他流たりゅうではあまおこなわれないが戸塚とつか彦介ひこすけ活躍かつやくした時代じだいにはさかんに使つかわれていた。その時代じだいにおいてかく流派りゅうはたたかさいにはかならかまこしもちいられた。その理由りゆうは、かまこしてきかって半身はんしん自身じしんからだ急所きゅうしょおおっててきじょうじさせない屈強くっきょう姿勢しせいであることにくわえ、進退しんたい自由自在じゆうじざいてき体勢たいせいくずすのにもっとてきしていたためである。そのため、この体勢たいせい試合しあいをして古来こらいいま当身あてみなんったもの一人ひとりもいなかった。戸塚とつか彦介ひこすけこうたけしょ師範しはんとなり武名ぶめい天下てんかせたのは、このかまこしわざ発明はつめいしたためである。

かまこしかまというかたもちいる。かまてきかたかかわらず右手みぎててきみぎえりぎゃくり、左手ひだりててき右前みぎまえわきおびみぎまもるたい姿勢しせいてき相対そうたいする。このかたかまむといい、てきみぎえりった右手みぎてみながら下方かほうすこき、おびった左手ひだりてはそのままでわざける場合ばあいったおびみぎまもるたい正面しょうめんける。

かまこしけるときには、まもるたい右前みぎまえすみ釣込つりこむようにてきす。そうすることでてき右足みぎあしいちまえし、つづいて左足ひだりあしひだりよこいちそうとする。そのてきした右足みぎあし外側そとがわよりわが右足みぎあしかまかたちげてうしまえものかまるようにはらたおす。このときてきみぎえりった右手みぎてみぎがいから円形えんけい手首てくびぎゃくになるまでほとん背負せおうようにんでみぎけんわがかた平行へいこうさせる。おびった左手ひだりてわがみぎ脇腹わきばらまでけてめる。このはげしいみでてき重心じゅうしんくずわがこしかたちとなる。てきかまこしかったときわが右足みぎあしけたまま両手りょうてすこひだり下方かほうくことにより、てきげられさかさまにちる[5]

戸塚とつか彦介ひこすけ門下もんか久富ひさとみ鉄太郎てつたろう明治めいじ時代じだいみだれ解説かいせつした文書ぶんしょには、はすという名称めいしょうかま同様どうようかた紹介しょうかいされている。はすからだちゅう半身はんしんにしてみぎ逆手さかててきみぎこうえり左手ひだりててきみぎたいり、からだおもみを左足ひだりあしっててきせるかたであった[6]


三浦みうら牧師ぼくししるした楊心古流こりゅうはなし

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三浦みうらとおる(1850-1925)は、明治めいじ時代じだい活動かつどうした沼津ぬまづはん出身しゅっしん牧師ぼくしである。 三浦みうらとおるは『はじ』という詳細しょうさい手記しゅきのこしており、そのなかに楊心古流こりゅうかかわるはなし多数たすうしるされている。

三浦みうらとおるも楊心古流こりゅうまなんでおり戸塚とつか彦介ひこすけ戸塚とつか英美ひでみ柏崎かしわざき又四郎またしろう佐野さのしゅう三郎さぶろう大竹おおたけ森吉もりよし面識めんしきがあった。

この三浦みうらとおるの『はじ』は、明治めいじ学院がくいん明治めいじ学院がくいんひゃくねん編集へんしゅう委員いいんにより『明治めいじ学院がくいん資料集しりょうしゅう』に全文ぜんぶん掲載けいさいされた。

柏崎かしわざき又四郎またしろうについて

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沼津ぬまづはん柏崎かしわざき又四郎またしろうというひとがいた。柏崎かしわざき戸塚とつか彦介ひこすけ高弟こうてい沼津ぬまづはんにおいてはだい一等いっとうすぐれた柔術じゅうじゅつであった。はんより柔術じゅうじゅつ他流たりゅう試合しあいもうむものがあっても一度いちど柏崎かしわざきくだせばつことができるものはいなかった[7]柔術じゅうじゅつにおいては沼津ぬまづはん首座しゅざであった。

1865ねん慶応けいおう元年がんねん柏崎かしわざきなにおもってかに沼津ぬまづはんから脱藩だっぱん広島ひろしまはんんだ。広島ひろしまはんにおいて柏崎かしわざき技量ぎりょうためそうと、大力だいりき無双むそうがある山僧さんそう遷流武田たけだぶつがいのこと)と試合しあいをさせた。柏崎かしわざき大力だいりき無双むそう山僧さんそうって広島ひろしまはんかかえられたという。1868ねん明治めいじ元年がんねん三浦みうらとおる沼津ぬまづはん柏崎かしわざき又四郎またしろう甲冑かっちゅう箱根はこね出陣しゅつじんするのをた。

柏崎かしわざき沼津ぬまづはんにおいては戸塚とつか彦介ひこすけ戸塚とつか英美ひでみのぞいて最優秀さいゆうしゅう柔術じゅうじゅつであったが、うでがあるにもかかわらず臆病おくびょうであった。三浦みうらとおるが14~15さいころ沼津ぬまづはん大手おおて御門みかどはしえがあり、がわかりはしして通行つうこうしていた。ある三浦みうらかりはしにいたところ、柏崎かしわざきかりはしわたろうとした。しかし、柏崎かしわざききゅうおそれてろくしゃくすすむすすんでたたずんで両手りょうてわせた。三浦みうらはじなにをやっているかからなかったが、かりはしうごくことをおそれて三浦みうらうごかないようにせいしていることさっした。三浦みうらは「沼津ぬまづはんには柏崎かしわざき又四郎またしろうという豪傑ごうけつあり」とほこっていたが、たのみとしていた豪傑ごうけつはこのように臆病おくびょうであったとは不審ふしんこたえることができなかった。その三浦みうら柔術じゅうじゅつ稽古けいこじょうたところ柏崎かしわざき稽古けいこしようとわれた。三浦みうら自分じぶんのような幼者ようしゃ柏崎かしわざきから稽古けいこしてもらえるとは栄誉えいよであるとよろこんで稽古けいこをおねがいした。稽古けいこわろうとするころ柏崎かしわざき三浦みうら咽喉いんこうして「このあいだはしうごかしたな」とった。三浦みうらはそののことをおぼえておらず、しばらくしてねむりから目覚めざめるようにかんじてかんがえたところ柏崎かしわざきとされたのだとかった。

三浦みうらは、柏崎かしわざき又四郎またしろう柔術じゅうじゅつ達人たつじん間違まちがいないがみずかしんじるところふかくなく、また自信じしんがあるときひと傲慢ごうまんにさせるが柏崎かしわざきのように自信じしんがないのは修得しゅうとくした技術ぎじゅつもそのようをなさないとしるしている。

戸塚とつか彦介ひこすけについて

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戸塚とつか彦介ひこすけ江戸えど愛宕下あたごした道場どうじょうひら維新いしんまえこうたけしょされじんであったが日本にっぽんだいいちひょうけっして過賞かしょうではなかった。戸塚とつか代々だいだい柔術じゅうじゅつもっこえていた[8]


戸塚とつか大井おおい平左衛門へいざえもん
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下記かき三浦みうらとおるしるした戸塚とつか大井おおい平左衛門へいざえもんはなしであるが、戸塚とつか彦介ひこすけ戸塚とつか彦右衛門えもん詳細しょうさい不明ふめいであったとしている。手記しゅきいた当時とうじすで戸塚とつか彦介ひこすけ大井おおい平左衛門へいざえもんくなっており、また三浦みうらかたったひとだれなのか記憶きおくしていなかった[8]

沼津ぬまづはん大井おおい平左衛門へいざえもんというものがおり、壮年そうねんころ戸塚とつか入門にゅうもんして柔術じゅうじゅつまなんだ。大井おおいためをしてみたいとおもい、あるよる浜町はまちょう沼津ぬまづ藩邸はんてい山伏やまぶし井戸いどるものがあったらとうげをこころみようとかまえた。山伏やまぶし井戸いど明治めいじ裏通うらどおりであり当時とうじきわめて通行人つうこうにんすくないところ強盗ごうとうあらわれることがめずらしくなかった。かまえていたとき帯刀たいとうしている一人ひとり小男こおとこたので不意ふいおそえば抜刀ばっとうさせずにげることができるとかんがえ、うしろよりうでってヤッっというこえともげようとした。しかし、大井おおいぎゃく小男こおとことらえられなにわずに側溝そっこうまれた。この側溝そっこう明治めいじ沿ってまえかわながれるものであった。大井おおいすごおどろいたが、小男こおとこがいくわえる様子ようすもなくぎたのでうのからだ藩邸はんていかえった。翌朝よくあさ大井おおい戸塚とつか道場どうじょう出席しゅっせき戸塚とつかれいをして「おはようございます」と挨拶あいさつしたところ、戸塚とつか大井おおいかおて「大井おおいまだはやいぞ。当分とうぶんやめろ。」とった。大井おおいおどろき、これはかなら昨日きのうのことでありたくみにげた技量ぎりょう戸塚とつか先生せんせいでなくしてだれであるかとおもった。大井おおい何事なにごとえずに閉口へいこうしてそのところったという[8]

三浦みうらとおるによると小男こおとこっているが、戸塚とつか彦介ひこすけ肥大ひだいひとであり小男こおとこではなかったので前代ぜんだい戸塚とつか彦右衛門えもんではないかとかんがえている。また「大井おおいまだはやいぞ。」の語気ごきによってかんがえるに、戸塚とつか彦介ひこすけ大井おおい平左衛門へいざえもん年齢ねんれいいちじるしい差異さいはなかったので戸塚とつか彦介ひこすけではなく前代ぜんだい戸塚とつか彦右衛門えもんったのではないかとしている。

戸塚とつか彦介ひこすけ心得こころえ
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戸塚とつか彦介ひこすけ懐中物かいちゅうもの懐中かいちゅうすることがなくかなら左手ひだりてげていることをつねとしていた。あるひとがその理由りゆういたところ、戸塚とつかは「懐中かいちゅうれるときスリ近付ちかづけるうれいがある。しかし左手ひだりてげていれば右手みぎていているのをもってかれらはおそれてちかづかないのである。ちかづいたスリをとらえるのは下策げさくである。ちかづけないことを上策じょうさくとする。」とこたえた。

戸塚とつか彦介ひこすけ普段ふだん市中しちゅうあるさいなつかなら日向ひなたふゆ日陰ひかげ通行つうこうした。あるひとがその理由りゆういたところ、戸塚とつかは「通行人つうこうにん紛争ふんそうしょうじさせないためである。」とこたえた。

戸塚とつか彦介ひこすけ雪駄せった目方めかた一足ひとあしいち貫目かんめ左右さゆうやく3.75kg)にちかかった。あるひとがその理由りゆういたところ、戸塚とつかは「何事なにごと紛争ふんそうしょうじたとき武士ぶしつねかたなたいするがゆえややもすればはやまって抜刀ばっとうするへいがある。一回いっかいいたらそのことかなら大事だいじいたる。これをもってはまさかのとき抜刀ばっとうせずに雪駄せったもちいてふせごうとおもっている。」とこたえた。

戸塚とつか彦介ひこすけ日本にっぽんだいいちしょうある武人ぶじんでその心事しんじはこのようなものであった。三浦みうらによると何事なにごとにもよらずみち蘊奥うんおうたっしたものはこのようなものであるとひょうしている。三浦みうら戸塚とつか彦介ひこすけ時代じだいことなっていたため不幸ふこうにも戸塚とつか技量ぎりょうたことがなかった[8]

戸塚とつか英美ひでみについて

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戸塚とつか彦介ひこすけである戸塚とつか彦九郎ひこくろう英美ひでみ三浦みうらとおるより10さい年長ねんちょうしゃであった。三浦みうらとおるが楊心古流こりゅう入門にゅうもんしたとき沼津ぬまづ藩中はんちゅう戸塚とつか英美ひでみうものがすくなくおおくはしょう先生せんせいんでいた。

戸塚とつか英美ひでみ幼少ようしょうころから身体しんたいがあまり強健きょうけんにならず、戸塚とつか彦介ひこすけはこれを非常ひじょううれいて免許皆伝めんきょかいでんさづけていなかった。明治維新めいじいしんまえ戸塚とつか英美ひでみきゅうにその技量ぎりょうあらわしたので戸塚とつか彦介ひこすけおおいに満足まんぞくして免許皆伝めんきょかいでんさづけたという。明治維新めいじいしんまえ戸塚とつか英美ひでみ武術ぶじゅつしゃ社会しゃかい頭角とうかくあらわ修錬しゅうれんした技量ぎりょうもっとうとしたが、当時とうじなかだい変動へんどうこしておりきゅう時代じだい破壊はかいされしん時代じだいになっていた。これにより戸塚とつか英美ひでみ修錬しゅうれんしたこうもちいることができなかった。

1870ねん明治めいじ3ねん三浦みうらとおるがフランスしきみさおねり伝習でんしゅうのために上京じょうきょうしたとき戸塚とつか英美ひでみもまたおな伝習でんしゅういのちけてしばら浜町はまちょう藩邸はんていにいて通学つうがくしていた。しかし、戸塚とつか英美ひでみ柔術じゅうじゅつとしての教育きょういくのみけたひとでフランスしき伝習でんしゅういであり、のちはんちょうにおいてもその不都合ふつごうったのか戸塚とつか英美ひでみのフランスしき伝習でんしゅう免除めんじょした。

戸塚とつか英美ひでみ三浦みうらとおる同宿どうしゅくしていたとき三浦みうらもの種々しゅじゅ遊戯ゆうぎをしており器用きようひと藤八拳とうはちけん不器用ぶきようひとうでまくら角力すもうおこなっていた。戸塚とつか英美ひでみだけはいちかいもその仲間なかまになったことがなく、たまに勧誘かんゆうするものがいたら戸塚とつか英美ひでみは「わたしにはできません。」とこたえておうじなかった。三浦みうら戸塚とつか英美ひでみの「できません。」を不思議ふしぎおもった。しょう先生せんせいにしてできませんははなはであり、あるいは戸塚とつか英美ひでみ謙譲けんじょうであるとひょうしていたが、あるときその「できません」の理由りゆういた。戸塚とつか英美ひでみはこの質問しつもんたいわらって「都筑つづきさんか天明てんめいくらいならいいのですが、みなさまのようではとてもわたしにはできません。」とこたえた。都築つづきひろし天明てんめい正雄まさおとも戸塚とつか彦介ひこすけ弟子でし免許めんきょひとであった。

戸塚とつか英美ひでみ強盗ごうとう
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戸塚とつか英美ひでみのち司法省しほうしょうかい現在げんざい警察けいさつ)に採用さいようされてはじめてその技量ぎりょうあらわすにいたった。

東京とうきょうちゅう徘徊はいかいして悪事あくじおこなっていた強盗ごうとうが4~5にんいたが、これをとらえるものがいなかった。戸塚とつか英美ひでみ上官じょうかん命令めいれい強盗ごうとう神田かんだ牛肉ぎゅうにくてんときとらえた。この強盗ごうとうすこぶ用心深ようじんぶかいがゆえちかづくことがむずかしく、もしすうめい捕吏ほり一時いちじあつまったらかなら防御ぼうぎょ反撃はんげきしてくることはあきらかであった。戸塚とつか英美ひでみ一策いっさくあんじ、強盗ごうとう牛肉ぎゅうにくてんにいるとき普通ふつうきゃくとしてみせはいり、ちかくでさけいにじょうじて無礼ぶれいくわ喧嘩けんか強盗ごうとうおこってかるのをって最初さいしょ一人ひとり廊下ろうかげた。そのとき、あらかじめしめしあわせたほか捕吏ほり6~7めい廊下ろうかにいてこれをとらえ、こうして強盗ごうとうみなとらえられた。強盗ごうとう全員ぜんいん捕縛ほばくされたときはじめて戸塚とつか英美ひでみ捕吏ほりであったことをおおいにおどろいたという。喧嘩けんかにかこつけてとらえたため、強盗ごうとう用意よういしていた凶器きょうきもちいることができずにわってしまった。これはたたかわずしててきせいするいちじゅつであった。


戸塚とつか英美ひでみ中村なかむらなかばすけ試合しあい
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戸塚とつか英美ひでみのち千葉ちばけん警察けいさつとなり柔術じゅうじゅつ教師きょうしとなった。そのころ警視庁けいしちょうけんやわらじゅつ競技きょうぎかい開催かいさいしたことがあり戸塚とつか英美ひでみまねかれた。 戸塚とつか英美ひでみ試合しあいをしたのはりょううつりしん当流とうりゅう中村なかむらなかばすけという巡査じゅんさであった。当時とうじ中村なかむらなかばすけ日本一にっぽんいちしょうされていた[注釈ちゅうしゃく 1]戸塚とつか英美ひでみ中村なかむら試合しあいおこない、一番いちばんち、ばんけ、さん番目ばんめでついに中村なかむらなかばすけ勝利しょうりした。

この試合しあいていた切替きりかえあさまいという柔術じゅうじゅつ巡査じゅんさによると、戸塚とつか英美ひでみ中村なかむらなかばすけ手合てあわせをたが柔術じゅうじゅつたしなみがあるものたしかに戸塚とつか英美ひでみほう中村なかむらなかばすけより技量ぎりょうすぐれていたと証言しょうげんしている。三浦みうらとおるは、日本一にっぽんいちより優等ゆうとうであるといえば戸塚とつか英美ひでみ技量ぎりょう推知すいちするにむずかしくないとしるしている。


大竹おおたけ森吉もりよし三浦みうらとおる

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佐野さの周三しゅうぞうろうばっする

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柏崎かしわざき又四郎またしろうはなし

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戸塚とつか彦介ひこすけ門下もんか柏崎かしわざき又四郎またしろう(1832-1889)というひとがいた。柏崎かしわざき又四郎またしろうは13さい戸塚とつか彦介ひこすけ入門にゅうもんし25さいほん免許めんきょさずかり沼津ぬまづはん柔術じゅうじゅつ指南しなんやくつとめていた。また幕府ばくふこうたけしょ戸塚とつか彦介ひこすけだい稽古けいことして出仕しゅっししていた。

柏崎かしわざき又四郎またしろう近世きんせい無類むるい達人たつじんであり「おにまた」とわれていた。

沼津ぬまづはん出身しゅっしん牧師ぼくしである三浦みうらとおる手記しゅきぞくはじ』よると、沼津ぬまづにおいてはだい一等いっとうもっとすぐれた柔術じゅうじゅつでありはんより柔術じゅうじゅつ他流たりゅう試合しあいもうむものがあっても一度いちど柏崎かしわざきくだせばつことができるものはいなかったという[9]


戸塚とつか彦介ひこすけ柏崎かしわざき又四郎またしろう

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柏崎かしわざき体格たいかく小兵こひょうよわかったが幼少ようしょうから武術ぶじゅつたしなこころざしけっして戸塚とつか彦介ひこすけ入門にゅうもんした。しかし、当時とうじ戸塚とつか楊心りゅう大兵だいひょうばかりであったため柏崎かしわざき戸塚とつかに「先生せんせい自分じぶんはこれまで非常ひじょう御恩顧ごおんこあずかりましたが、ごらんとお小兵こひょうしゃでありますから、到底とうてい西郷さいごう山岡やまおかなどというこうものくじけごとはできません。それ今日きょうかぎ柔術じゅうじゅつめたいとぞんじますから、どうぞおゆるねがいたい。」とった[10]。そのとき戸塚とつかは「なんじよくけ、柔術じゅうじゅつには体格たいかく大小だいしょうろんずる必要ひつようはない。やわらのうごうせいするという。たまごさんさい小児しょうにがこれをころがすも大人おとなころがすもおなじことである。またものには重心じゅうしんというものがある。されば、かの絹針きぬばりいちほんでものうもつ重心じゅうしんあたったさいには、そのものはたとえなにつらぬけおもかろうがこれをささえることができる。なんじよくこの納得なっとくしてつとめよ。」とおしえた。そして柏崎かしわざきは、そのさと粉骨砕身ふんこつさいしんその奥儀おうぎきわめ「戸塚とつか柏崎かしわざき」「柏崎かしわざき戸塚とつか」とわれるほどになった。


熊本くまもとはん柔術じゅうじゅつとの試合しあい

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幕末ばくまつには柔術じゅうじゅつ他流たりゅう試合しあいさかんにおこなわれていた。

あるとき江戸えど戸塚とつか彦介ひこすけ道場どうじょう熊本くまもと藩士はんし11にん試合しあいいどんできた。戸塚とつか彦介ひこすけ門弟もんてい次々つぎつぎ試合しあいをしたがみな全敗ぜんぱいし、一人ひとり熊本くまもと藩士はんしてたものがいなかった。そして、熊本くまもと藩士はんしたち戸塚とつか彦介ひこすけ試合しあいもとめた。このとき戸塚とつか彦介ひこすけ門弟もんてい柏崎かしわざき又四郎またしろう外出がいしゅつよりかえってきて、戸塚とつか彦介ひこすけわって熊本くまもと藩士はんし11にん試合しあいおこなった。柏崎かしわざき又四郎またしろう熊本くまもと藩士はんし11にんことごとたおして勝利しょうりし、みな呆然ぼうぜんとしてあやま道場どうじょうった[11]

これにより柏崎かしわざき名声めいせいたかまったとされる。

遷流 武田たけだぶつがいとの試合しあい

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柏崎かしわざき又四郎またしろうは1860ねん万延まんえん元年がんねん)に沼津ぬまづはんし、げいしゅう広島ひろしま宮浦みやうら松五郎まつごろういえ寄食きしょくして道場どうじょうひらいた。柔術じゅうじゅつ師範しはん増原ますはらたいすけ広島ひろしまはん柔術じゅうじゅつ師範しはんはやし大蔵おおくら門人もんじん全員ぜんいんけてそのられていた。

あるとき尾道おのみちずみほうてら住職じゅうしょく武田たけだぶつがいから試合しあいいどまれた。武田たけだぶつがい遷流柔術じゅうじゅつ創始そうししゃであり、膂力りょりょくしゅえ150にんりょくわれた怪力かいりきぬしすうおおくの逸話いつわがあるひとであった。

武田たけだぶつがいは「つね柏崎かしわざき何人なんにんぞ。いちこぶししたえんのみ。」とって藩主はんしゅ柏崎かしわざき又四郎またしろう試合しあいをすることをのぞんだ。当日とうじつ藩中はんちゅう一般いっぱん観覧かんらんした雌雄しゆうけっすることになったが、柏崎かしわざき又四郎またしろうわずいちごう武田たけだぶつがいたおしたとされる[11]。これにより柏崎かしわざき名誉めいよがり広島ひろしま藩主はんしゅ藩士はんしとしてかかえようとしたが、沼津ぬまづはん水野みずのものだったのでやむを捨扶持すてぶち70ひょう付与ふよして特別とくべつ待遇たいぐうあたえた。


戸塚とつか彦介ひこすけ久冨ひさどみ鉄太郎てつたろう

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久冨ひさどみ鉄太郎てつたろう久留くるべいはん渋川しぶかわりゅうななせい渋川しぶかわばん五郎ごろう弟子でしである[注釈ちゅうしゃく 2]渋川しぶかわりゅう柔術じゅうじゅつやく27ねんまなんだのち安政あんせい元年がんねん(1854ねん)に自家じかかくりゅう師範しはんたずねてみだれわざこころみた。江戸えど時代じだい乱取らんどりかく流派りゅうは名称めいしょうことなっており乱取らんどり勝負しょうぶあいさいきたえ・アガキ・試合しあいくみごうのこり・ごうとう多数たすう名称めいしょうもちいられていた[12]

朽木くちきはん柔術じゅうじゅつ師範しはんつとめていたおこりたおせりゅうじきむらさかえ左衛門さえもん[注釈ちゅうしゃく 3]たずねたさいおしえることは渋川しぶかわりゅうちがうがみだれ試合しあい大同小異だいどうしょういであった。ここで説諭せつゆ親切しんせつけたが血気けっきさかんだった久富ひさとみてっせず、さらにかくりゅう師範しはんまわりまわって沼津ぬまづはん柔術じゅうじゅつ指南しなんやく戸塚とつか彦介ひこすけ入門にゅうもんしてみだれおしえをけた。戸塚とつか彦介ひこすけ他流たりゅう門人もんじんへの指導しどう方針ほうしんは「流派りゅうはかまわない。下地したじ出来できているから着色ちゃくしょくし、これまでにならってきたことをえてはならない。このおしえたことをわすれるな。」というものであった。

戸塚とつか彦介ひこすけおしえるのはもっぱ投手とうしゅであり「徹頭徹尾てっとうてつび呼吸こきゅうつきるまでこうしゅうすれば自然しぜん名人めいじん上手じょうずになれる。」とっていた。 久冨ひさどみ鉄太郎てつたろう明治めいじ時代じだいかたった柔道じゅうどうだんでは、当時とうじでも今日きょうでもみだれでは戸塚とつか彦介ひこすけよりうえひとはいないとひょうしている。

藍沢あいざわ勝之かつゆきあらわした『ねりたいかたちほう』には久富ひさとみ戸塚とつか随身ずいじんであり日々ひびらいならわしていたとかれている[注釈ちゅうしゃく 4]

天神てんじん楊流井口いぐち松之助まつのすけあらわした『柔術じゅうじゅつ生理せいりしょ』に久富ひさとみ鉄太郎てつたろう格言かくげんしるされている[13]久富ひさとみによると「柔術じゅうじゅつかたちむねとする。みだれ柔術じゅうじゅつくずれたところよりこるものであるがゆえにこれはちからばかりでもつことがある。しかしながら身体しんたい虚弱きょじゃくなものもかたちじゅつ上達じょうたつすればかなら剛力ごうりきつことをるのは柔術じゅうじゅつじゅつであるので常々つねづねみだれよりもかたち専務せんむにすることをむねとする。」としてみだれよりかたち重視じゅうしするかんがえをっていた。

久冨ひさどみ鉄太郎てつたろう乱取らんどり

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久冨ひさどみ明治めいじ時代じだい教授きょうじゅしていた乱取らんどりである。久富ひさとみ柔術じゅうじゅつ40ねん経験けいけんから編成へんせいした乱取らんどりわざであり、投手とうしゅうらないしぼわざ)・かたま手足てあし順逆じゅんぎゃく関節かんせつわざ)で56のわざがあった。相手あいてとのかたほう三角さんかくはす平身へいしんえん種類しゅるいある。また、立合たてあい種類しゅるいはじかたがあり、勝負しょうぶかたヶ条かじょうあった。

項目こうもくえんはなてたときというのは、げられたものはなしてしまった状態じょうたいであるとしている。

勝負しょうぶかた
  1. いきおいきたとき
  2. からだかためたとき
  3. 広狭こうきょうによりあいだ以上いじょうやく3.64m)ったとき
  4. 呼吸こきゅうめたとき
  5. えんはなてたとき
    (ただしこのいちこうしょう注意ちゅういようする)
くだり
体勢たいせい
ほう三角さんかくはす平身へいしんえん
投手とうしゅ
機會きかいとう
あしはらえさき、引落、こうはらい、つまかか内股うちまたうらひざ捌、夢想むそうなげあげ落、ころもカツギ、一文字いちもんじ寝込ねこみ)、スクイあしうらはさみなげ
こしとう
上手じょうずこし下手へたこしこしはらいこしわりこしこしはんシ、ぬき抜腰、うらこし
捨身しゃしんとう
よんなげ海老えびなげ左右さゆうともなげ背負投せおいなげ上下じょうげうで巻込まきこめミ、まわりなげ踏反シせきはんシ、ぬき抜返シ、ぎゃく捨身しゃしん
エモンうらないどううらない
左右さゆうしぼリ、十文字じゅうもんじ突込つっこみ、ねじはんシ、こうたがえうらうらないはねむくろうらないどううらない
かた
袈裟けさかたぬき抜固メ、タスキかた四方しほうかたメ、乗馬じょうばかたメ、踏流シ、わりかたメ、海老えびかた
手足てあし順逆じゅんぎゃく
巻込まきこめミ、ぬき抜、うで搦ミ、そでカラミ、小手こてはんシ、手首てくびおりあし搦ミ


戸塚とつか彦介ひこすけ石井いしいまた左衛門さえもん

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石井いしいまた左衛門さえもん忠真ただざね佐賀さがはんひと関口せきぐちりゅう柔術じゅうじゅつである。石井いしい忠真ただざね江戸えど戸塚とつか彦介ひこすけから柔術じゅうじゅつまなんでおり、江戸えど時代じだい著述ちょじゅつした『じつはなろく』という随筆ずいひつ詳細しょうさいきしている。『じつはなろく』は石井いしい見聞けんぶんした柔術じゅうじゅつかかわるおしえをまとめたものであり、関口せきぐちりゅう戸塚とつか楊心りゅうおしえ、もろりゅう特徴とくちょう師範しはん古老ころうからいたはなしなどを紹介しょうかいしていた。石井いしい忠真ただざね明治めいじ元年がんねん(1868ねん)の戊辰戦争ぼしんせんそうにより44さい戦死せんしした。

じつはなろく』には、りょううつりしん當流とうりゅうおこりたおせりゅう関口せきぐちりゅう大圓だいえんかがみさとしりゅうがたなじゅつせいごうりゅう無人むじんときりゅう渋川しぶかわりゅう関口せきぐちりゅう)・無想むそうりゅう・楊心古流こりゅう楊心りゅう竹内たけうちりゅう一刀いっとうりゅうこころ當流とうりゅう扱心りゅう真心まごころ當流とうりゅうせん當流とうりゅう喜楽きらくりゅうつつみ宝山たからやまりゅうらんりゅう竹内たけうちさんすべりゅう天神てんじん楊流荒木あらきしんりゅう八天はってん無双むそうりゅう義経よしつねりゅうくすのきりゅうなどの特徴とくちょうについて簡潔かんけつ紹介しょうかいされている。

楊心古流こりゅう立業たちわざ太刀たちなわじゅつもちもっとえりおもんじて奥儀おうぎ死活しかつつてがあるとしるしている。

以下いか戸塚とつか彦介ひこすけと楊心りゅうかかわるはなしである。

江上こうじょうかんやなぎについて

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江上こうじょうかんやなぎは楊心りゅうである。若年じゃくねんころより柔術じゅうじゅつまなやまいれ神気しんきをよくやしなった。しかし楊心りゅうおく得心とくしんできないことをて、まった柔術じゅうじゅつをやめてしまった。ある門前もんぜん四方しほう風景ふうけいながめていたところ、水辺みずべやなぎがあでやかに枝垂しだれていた。どうふうさっいてもいやなく自然しぜん風勢ふうせいのぞくのをはじめやわらごうしのぐの意味いみさとり楊心りゅうおく会得えとくした。これにより俗名ぞくみょうやなぎしょうした。江上こうじょう一説いっせつ手島てじまともわれる。

戸塚とつか彦介ひこすけかたったさんヶ条かじょう

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必定ひつじょうしょうという慢心まんしんがあればまことの勇気ゆうきではない。かならおうじてもたない気持きもちあるこそ大勇たいゆうという。

ごうあいとき我身わがみかこふせいでひとごうができないようしてはいけない。ふせげば人我じんがともにじゅつがふさがり無益むえき試合しあいになる。まずひとごう出来できるようにしてまた自分じぶん不足ふそく修行しゅぎょうすればみょうしょいたることができる。唐土とうどさとしあるひと言葉ことばに、目前もくぜんみちすじせませまとき人通ひとどおりがくなりついみち草木くさきなどもしげる。

ひと極意ごくいは、まず死身しにみになることである。そうでなくては私意しい疑念ぎねんしょうじてのぞごとひとおくれをる。

柔術じゅうじゅつ修行しゅぎょう年齢ねんれい

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八幡やはた道場どうじょうでのはなしである。 だいそこしょげい手練しゅれんひとるとみなねんわかときまでであり、とく柔術じゅうじゅつごうまえ身体しんたい辛苦しんくつよなかこたえるため、とうさんじゅうさいまでを目途もくとにしなければいけないとったところ戸塚とつか彦介ひこすけおおいに一笑いっしょうした。戸塚とつか彦介ひこすけは「ちちの彦右衛門えもんは50さいまですこしもわらずに稽古けいこしていた。当年とうねん40さいになるが、これまでの試合しあいのうかんがえればにちぞう錬磨れんましたいとおもう。今後こんごじゅうねんあいだになおまた情熱じょうねつつてみょうしょさとるべくさきながいのでたのしみである。」と石井いしいたちにかたった。


戸塚とつか彦介ひこすけおし

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気持きもちあればそうしんしょうじてかえってふさがる。またける気持きもちあれば恐怖きょうふねんしょうじていよいよひるむ。このふたつを遄とわすれてはじめ勝負しょうぶあること合点がてんする。勝負しょうぶ念慮ねんりょあるまで極意ごくいてきいがたい。勝負しょうぶわすれたのち勝負しょうぶあることるべきである。

戸塚とつか彦介ひこすけかたったよんヶ条かじょう

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柔術じゅうじゅつ大意たいいはまず目付めつけたかくしてはやきよりすすめ。きをて捨道、らくもんいれである。けるをちをむさぼってはいけない。自体じたいかるいうちに一種いっしゅねばり、柔弱にゅうじゃくのうち不思議ふしぎいたり、つよしかたちなきうちいたり、かたち動静どうせい虚実きょじつによって変化へんかする。これがじゅつ始終しじゅうである。

ちから人々ひとびと分量ぶんりょうがいよりくわえてはいけない。すなわち念力ねんりきである。まずこの念力ねんりきてきり稽古けいこちからえる。ちから具合ぐあいふうちから最上さいじょうとする。そのかたちえないがいきおはげしいとき大木たいぼくたおすものである。念力ねんりきにはかぎりがあるが、稽古けいこちからかぎりないのでよく工夫くふうしなければならない。

うたに、かたちなきものかとれば松風まつかぜえだうごかずおともこそすれ。

ごうまえおもわないのがよわることの糸口いとぐちである。稽古けいこはなれたらそれかぎりである。としおいても辛抱しんぼうつえばしらであれば油断ゆだんなく工夫くふう錬磨れんまするべきである。

戸塚とつか彦介ひこすけ行状ぎょうじょう

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戸塚とつか彦介ひこすけ容貌ようぼうさきがけさとであり英気えいきひとせまる。温柔おんじゅうあつしあつでよくひとあいす。げいじょう江戸えど西にし久保くぼ八幡やはたてる。ぎょうけるものすうひゃくにんであり、戸塚とつか夜明よあけに柔術じゅうじゅつ着替きが尽日じんじつ子弟してい教導きょうどうしていた。よるいた普段着ふだんぎつねうららころもなかった。美味びみたしなまず、ばんちゃうとしょく子弟していとも飲食いんしょくする。美談びだんあればしょくわすれてたのしみ、けい遊戯ゆうぎことみみれればわらってせきしばらくしてねんごろにそのひと教戒きょうかいする。子弟していわざけるものに10以上いじょうであり、都下とかだいいちげいじょうであった。げいじょう弟子でしなかもっと俊秀しゅんしゅうものえらんでまかせていた。さめきょうげいじょう片山かたやまばんまちげいじょうもり八丁堀はっちょうぼりげいじょう毛利もうりこうきょうげいじょう今田いまだ七郎しちろうつとめていた。式日しきじつもっろく輪廻りんねしておしえる。水野みずのこうてい八幡やはたげいじょう自身じしんつとめていた。


喧嘩けんかはなし

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戸塚とつか彦介ひこすけ門人もんじんもり石井いしいかたったはなしである。

水野みずの出羽守でわのかみ徒士かちもの常盤橋ときわばしあたりで青山あおやま武士ぶし不慮ふりょ喧嘩けんかになった。徒士かちもの戸塚とつか彦介ひこすけ門人もんじんでかねてより柔術じゅうじゅつまなんでいたので、喧嘩けんか衣紋えもんんだ。相手あいて気絶きぜつしているのをらずにひたすらつよけた。しばらくしてゆるめたら、いつのにか相手あいて気絶きぜつしており手足てあしうごかず全身ぜんしんえていたため、かえって仰天ぎょうてんきゅうてこのことを戸塚とつか彦介ひこすけはなした。戸塚とつか彦介ひこすけは「もはやっていることだろう。気遣きづかいにはおよばず。」とこたえた。さっそくさきほどの場所ばしょってみたところ、戸塚とつかったとお人跡じんせきえなかった。

毛利もうり釩之すけからいたはなし

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戸塚とつか彦介ひこすけ門人もんじん毛利もうり釩之すけ石井いしいかたったはなしである。戸塚とつかはなしであったかは不明ふめいである。

あるひと柔術じゅうじゅつ修錬しゅうれんしており同門どうもんてきするじんがいなかった。常々つねづね自身じしん力量りきりょう実地じっちためそうとおもっていたが、みだりに通行人つうこうにんちしかたかった。あるよる江戸えど吉原よしわら三谷みたに土手どて通行つうこうしていたところ、むこうよりぱらったあそにんあるいてきた。これをたおして自身じしん武術ぶじゅつ効能こうのうためそうとかんがえ、たがいに行合いきあ瞬間しゅんかん土手どてうえからしたさかさまにとした。土手どてちたあそにんしずかにがってふくどろはら土手どてのぼってきた。 これをり、懐中かいちゅうれようとしたら着物きもの横筋よこすじ羅紗らしゃ紙入かみいれ(厚手あつで毛織物けおりもの小物こものれる携帯けいたいする用具ようぐのこと)でまっていた。あそにんげたとき、いつのにかかたなかれられていた。またあそにん土手どてちたのにしずかにがってきたのは素人しろうとのできることではなかった。このようなあそにんでさえ修練しゅうれんひとであったとはなか数多すうた成熟せいじゅくひとがいるとおもい、自慢じまんするのは一生いっしょう恥辱ちじょくであるとつつしんだ。これによりせいしてつい極意ごくいいたったという。

戸塚とつか英美ひでみ天神てんじん楊流の試合しあい

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藍澤あいざわ勝之かつゆきはなし

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戸塚とつか彦介ひこすけ門人もんじんである藍澤あいざわ勝之かつゆき明治めいじ36ねん(1903ねん)に二人ふたりおこな体操たいそう解説かいせつした『ねりたいかたちほう』という書籍しょせき出版しゅっぱんした。そのなか戸塚とつか楊心りゅうかかわるはなしおお紹介しょうかいしている。藍澤あいざわ勝之かつゆき柏崎かしわざき又四郎またしろういで沼津ぬまづはん柔術じゅうじゅつ教授きょうじゅかたつとめた人物じんぶつである。

藍澤あいざわ勝之かつゆき経歴けいれき

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藍澤あいざわ勝之かつゆき(1840-?)はもと沼津ぬまづ藩士はんしで40~50ねんほどまえ武家ぶけまれた[14]。16~17さいごろに諸種しょしゅ武術ぶじゅつならはじめた。そのなかもっぱ柔術じゅうじゅつをよくおこない、当時とうじ天下てんか有名ゆうめいしゃであった戸塚とつか彦介ひこすけ入門にゅうもん日夜にちやその門下もんか出入でいりして楊心りゅう柔術じゅうじゅつまなんだ。藍澤あいざわはおよそ30ねん研究けんきゅう修行しゅぎょうし、武芸ぶげい百般ひゃっぱんすべ身体しんたい強壮きょうそうもとづくので、柔術じゅうじゅつしょげいつうずることから武芸ぶげい初歩しょほとなるものであると推考すいこうしている。

戸塚とつか彦介ひこすけじゅくについて

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沼津ぬまづはん柔術じゅうじゅついてはんゆずらず優秀ゆうしゅうものおお輩出はいしゅつした。藍澤あいざわ子供こどもころ戸塚とつか傑出けっしゅつした門人もんじん山口やまぐち雄次郎ゆうじろう毛利もうり釩之すけ柏崎かしわざき甚平じんべい柏崎かしわざき又四郎またしろう小原おはらさんいちろう小熊こぐま兵次へいじろう勝呂かつろ八平はちへい山本やまもとつたえはち小高おだか亀太郎かめたろうなどがいた。戸塚とつかから門人もんじんによりはんひろまり流派りゅうはおおきくなった。藍澤あいざわ江戸えどころには、有名ゆうめい柔術じゅうじゅつとして神田かんだたま天神てんじん楊流おしえていたいそ又右衛門またえもん西にし久保くぼ戸塚とつか彦介ひこすけならしょうされていた。その戸塚とつか彦介ひこすけ愛宕下あたごしたじゅくうつ幕府ばくふ旗本はたもと御家人ごけにんしょこう家臣かしん町家まちやものなど3000にん子弟してい柔術じゅうじゅつ教授きょうじゅした。

演習えんしゅういち年間ねんかん元旦がんたんと8がつ15にち二日ふつか休業きゅうぎょうとしており、塾生じゅくせい平素へいそ15~16にんであったが毎朝まいあさ8から夕方ゆうがた5まで稽古けいこしていた。外来がいらい門人もんじん日々ひびすうひゃくめい以上いじょうであり、とても混雑こんざつしていたが一場いちじょうさんくみたいためしけて研磨けんました。江戸えど道場どうじょうさかんなのはになく、これにより屈指くっし門人もんじんおおくいた。

戸塚とつか彦介ひこすけ戸塚とつか彦右衛門えもん嫡男ちゃくなんであり、戸塚とつか彦右衛門えもん江上こうじょうかんやなぎ高弟こうてい奥儀おうぎきわめたひとである。戸塚とつか彦介ひこすけは18さいとき戸塚とつか彦右衛門えもんくなったことにより、戸塚とつか彦右衛門えもんきゅう門人もんじんから指導しどうけて遺業いぎょう継続けいぞくした。戸塚とつか彦介ひこすけ戸塚とつか英美ひでみであり、藍澤あいざわ入門にゅうもんした当時とうじより修行しゅぎょう勉励べんれいしてついさんせい師範しはんとなったひとであった。藍澤あいざわ記憶きおく戸塚とつか傑出けっしゅつした同門どうもんは、旗本はたもと御家人ごけにん丹南たんなんはん久留くるべいはん徳島とくしまはん佐賀さがはん長州ちょうしゅうはん郡山こおりやまはん鳥取とっとりはん薩摩さつまはん赤穂あこうはん西尾にしおはん浜松はままつはん掛川かけがわはん岡山おかやまはん松前まさきはん新庄しんじょうはん館林たてばやしはん土浦つちうらはん佐倉さくらはん延岡のべおかはん膳所ぜぜはん姫路ひめじはん江戸えどなどのしょはんおおくいて枚挙まいきょにいとまがなかった。

下記かき藍澤あいざわ記憶きおくしているしょはん傑出けっしゅつした門人もんじんである。

旗本はたもと
片山かたやまきよし十郎じゅうろう佐藤さとう保次郎やすじろう中條ちゅうじょう金之助きんのすけ牧野まきの三之さんのすけ井上いのうえかぎ次郎じろうほり七之助しちのすけ渡邊わたなべ健三けんぞう
御家人ごけにん
眞野まのだい貮、荒木あらき佐一郎さいちろう久保くぼ榮太郎えいたろう
丹南たんなんはん
金谷かなや七次郎しちじろう元良もとら西村にしむらじょうなか
久留くるべいはん
久富ひさとみ鉄太郎てつたろう渋川しぶかわりゅう)、古賀こが芳之助よしのすけ
徳島とくしまはん
笠原かさはら恒助つねすけ
佐賀さがはん
立川たちかわせん兵衛ひょうえはらたかし四郎しろう前山まえやま十内じゅうない
はぎはん長州ちょうしゅうはん
佐久間さくま勝太郎かつたろう
郡山こおりやまはん
岩田いわた民次郎たみじろう野口のぐち庄三郎しょうざぶろう
鳥取とっとりはん
安住あずみ百太郎ももたろう
薩摩さつまはん
川北かわきた新九郎しんくろう
赤穂あこうはん
疋田ひきた元治もとはる
西尾にしおはん
坂田さかた平一郎へいいちろう小島こじま兼蔵かねぞう
浜松はままつはん
藤田ふじたぎん八郎はちろうしばしんりゅう)、大山おおやまわれすけ柏井かしわいのぼる
掛川かけがわはん
小澤おざわ三郎さぶろう
岡山おかやまはん
吉田よしだただしぞうおこりたおせりゅう
松前まさきはん
武川たけかわ市三郎いちさぶろう三浦みうら健三郎けんざぶろう梶原かじはらあきら太郎たろう
新庄しんじょうはん
天野あまの昭太郎しょうたろう汲心りゅう
館林たてばやしはん
川村かわむら清太郎せいたろう大類おおるいもとよんろうはやし虎次郎とらじろう井上いのうえひさし八郎はちろう
土浦つちうらはん
館野たての芳郎よしお
佐倉さくらはん
笹沼ささぬま八郎はちろう島田しまだ繁次郎しげじろう横山よこやまたく加藤かとうれんじょはやし好和よしかず大川おおかわ傳三郎でんざぶろう
延岡のべおかはん
鈴木すずき孫八まごはちろう三宅みやけせんぞう内田うちだせんこれすけ
膳所ぜぜはん
細身ほそみ欣之すけ
姫路ひめじはん
くらぬきふじ三郎さぶろう
府下ふかしょ
中川なかがわせんかい

明治維新めいじいしんの楊心古流こりゅう

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明治維新めいじいしん廃藩置県はいはんちけんさい時勢じせいにより砲術ほうじゅつ騎馬きばのぞ武術ぶじゅつ一般いっぱん廃絶はいぜつかたむいた。藍澤あいざわ柔術じゅうじゅつ寸鉄すんてつびないとき護身ごしん必要ひつようなので世々よよ永続えいぞくしようと苦慮くりょしているうち沼津ぬまづ道場どうじょうもう教授きょうじゅはじめた。当時とうじ有志ゆうしものほか相撲すもう力士りきし幕下まくしたあらたかいわ城山しろやま福井ふくいがわ三崎山みさきやまより入門にゅうもんもうまれ城下じょうか志多したまちで4~5めい弟子でし柔術じゅうじゅつ教授きょうじゅした。

明治めいじ初年しょねん沼津ぬまづはんきくあいだてんじるにしたが上総かずさ市原いちはらぐん松ヶ島まつがしまむら道場どうじょう私設しせつして有志ゆうし教授きょうじゅした。明治めいじ3ねん(1870ねん宮谷みやたにけん出仕しゅっし収税しゅうぜい未納みのう取立とりたてかためいじられた県令けんれい柴山しばやまのりより依頼いらいされ出仕しゅっし諸氏しょし柔術じゅうじゅつ教授きょうじゅした。しかし、明治めいじ4ねん(1871ねん)に宮谷みやたにけん廃止はいしされ木更津きさらづけんかれたことにより武技ぶぎ断絶だんぜつとなり到底とうてい地方ちほうではおこなわれないということを洞察どうさつし、神奈川かながわけん東京とうきょううつなにもせずに4~5ねんごした。あるとき知己ちき沼間ぬまま守一しゅいちった。この沼間ぬまま守一しゅいちはか警視庁けいしちょう巡査じゅんさ一般いっぱん柔術じゅうじゅつ演習えんしゅう必要ひつようせいいて、もし実行じっこうされた場合ばあい藍澤あいざわ周旋しゅうせんすることになった。沼間ぬまま川路かわじだい警視けいし談判だんぱんおこなったが、当時とうじ巡査じゅんさにはフランスしき練兵れんぺい演習えんしゅうちゅうでありその勤務きんむ余暇よかはないということでおこなわれなかった。

明治めいじ8ねん(1875ねん一刀いっとう正伝せいでんかたなりゅう山岡やまおか鉄舟てっしゅうけんやわら合併がっぺい一大いちだい教場きょうじょう設立せつりつしようとしたが頓挫とんざし、明治めいじ9ねん(1876ねん山岡やまおか鉄舟てっしゅう推薦すいせん宮家みやけ家扶かふとなった。明治めいじ10ねん(1877ねん西南せいなん戦争せんそうこり従軍じゅうぐんしようとしたが職務しょくむによりかなわなかった。

明治めいじ11ねん(1878ねん戸塚とつか楊心りゅう沼津ぬまづはん同門どうもんである島村しまむらほう芎が千葉ちばけん巡査じゅんさ看守かんしゅ柔術じゅうじゅつおしえていることをり、柴原しばはら武雄たけお推薦すいせんにより明治めいじ12ねん(1879ねん)に千葉ちば県警けんけい警部けいぶとなった。これにより藍澤あいざわ本務ほんむかたわ巡査じゅんさ看守かんしゅ柔術じゅうじゅつ教授きょうじゅおこなうことになった。明治めいじ13ねん(1880ねん)に船越ふなこしまもる千葉ちば県知事けんちじになったことにより剣術けんじゅつ柔術じゅうじゅつ一層いっそう盛大せいだいとなり、技量ぎりょう剣士けんし千葉ちばまちけんやわらるって研究けんきゅうされた。そのころから警視庁けいしちょうにおいてもけんやわら演習えんしゅうせつおこり、警官けいかん剣術けんじゅつ柔術じゅうじゅつ訓練くんれんけるにいたった。ただしはじめは明治めいじ15~16ねんごろ久留米くるめ久富ひさとみ鉄太郎てつたろう鹿児島かごしま図師ずしさきなどが警視庁けいしちょう巡査じゅんさ武術ぶじゅつ教授きょうじゅした。当時とうじ藍澤あいざわ千葉ちばけん千葉ちばまち木更津きさらづ八日市場ようかいちば銚子ちょうし松戸まつどとう巡査じゅんさ看守かんしゅ柔術じゅうじゅつ教習きょうしゅうをしており、松戸まつど在勤ざいきんちゅう教導きょうどうだん豊島としまようぞう千葉ちば県知事けんちじ船越ふなこしまもる指名しめい砲兵ほうへいすうじゅうめい訓練くんれん依頼いらいされた。この砲兵ほうへいいずれも体格たいかく力量りきりょう抜群ばつぐんであり古家ふるや甲子きのえね次郎じろう岩井いわい岩吉いわきち八木やぎ寅次郎とらじろう天神てんじん楊流師範しはんとうしゅう輩出はいしゅつした。

あるとき千葉ちば県知事けんちじ船越ふなこしまもる藍澤あいざわたい戸塚とつか英美ひでみとも警視庁けいしちょう訓練くんれん方法ほうほう視察しさつするため出張しゅっちょうめいじた。これにより戸塚とつか英美ひでみ同行どうこうして上京じょうきょうしたが、警視庁けいしちょう教師きょうし戸塚とつか彦介ひこすけ門人もんじん日々ひびならいにていた久富ひさとみ鉄太郎てつたろうであり指導しどうける必要ひつようがなくむなしく帰郷ききょうした。その明治めいじ16ねんごろ(1883ねん)より警視庁けいしちょうにおいてさかんに柔術じゅうじゅつ訓練くんれんおこなわれるようになりかく警察けいさつしょ世話せわがかりくようになった。当時とうじ久富ひさとみ鉄太郎てつたろう同郷どうきょう久留くるべいはん中村なかむらなかばすけ上原うえはら庄吾しょうご太田おおたなどが四谷よつや警察けいさつしょ扱心りゅう柔術じゅうじゅつえんじると戸塚とつか英美ひでみとも上京じょうきょう試合しあいおこなった。

警視庁けいしちょうでは中村なかむら上原うえはら太田おおたさんめい中心ちゅうしん柔術じゅうじゅつ訓練くんれんをしていた。戸塚とつか英美ひでみ戸塚とつか彦介ひこすけ千葉ちばけん市原いちはらぐん移住いじゅうした。千葉ちば県知事けんちじ船越ふなこしまもる更迭こうてつされたのち千葉ちばまち柔術じゅうじゅつ教授きょうじゅ尽力じんりょくした。

かく警察けいさつしょ世話せわがかりには麴町に好地こうちえん太郎たろう赤羽あかはね金谷かなや七次郎しちじろう浅草あさくさ大竹おおたけ森吉もりよし千住せんじゅもりこうぞう本郷ほんごう照島てるしま太郎たろう本所ほんじょ山田やまだ寅吉とらきち押上おしあげ西村にしむらじょうちゅう神田かんだ山本やまもと欽作、牛込うしごめ片山かたやま愼太郎しんたろうなどいずれも千葉ちばけん出身しゅっしんしゃ任命にんめいされた。このように戸塚とつか楊心りゅう多数たすうめるようになったが、のち講道館こうどうかん柔道じゅうどう嘉納かのう治五郎じごろう門人もんじん多数たすうくわえることになった。

嘉納かのう治五郎じごろう明治めいじ15~16ねんごろぼうかんにおいて戸塚とつか彦介ひこすけ門下もんか佐野さの周三しゅうぞうろう試合しあいおこなっている。佐野さの周三しゅうぞうろう藍澤あいざわ沼津ぬまづはん同門どうもんであり千葉ちばけん出身しゅっしん義弟ぎていであった。嘉納かのう治五郎じごろうはそのころからもっぱ教授きょうじゅ自任じにんして横山よこやま作次郎さくじろう山下やましたよし戸張とばりたき三郎さぶろうなどの技量ぎりょう輩出はいしゅつした。これにより嘉納かのう治五郎じごろう門人もんじんおおくなった。藍澤あいざわ嘉納かのう治五郎じごろうとははるかに年齢ねんれいことなっており、嘉納かのう師匠ししょうであるおこりたおせりゅう柔術じゅうじゅつ飯久保いくぼつねねん男谷おだに精一郎せいいちろう道場どうじょう毎度まいど試合しあいをしていた。

男谷おだに精一郎せいいちろう幕府ばくふ剣術けんじゅつ師範しはん門下もんか天野あまの正蔵しょうぞうだんげんすすむ榊原さかきばらかぎきち菊池きくち為之助ためのすけ中條ちゅうじょうさんきょうなどすうじゅうめい剣士けんし柔術じゅうじゅつ訓練くんれん希望きぼうして柏崎かしわざき又四郎またしろう教授きょうじゅ依頼いらいした。藍澤あいざわ柏崎かしわざき又四郎またしろうとも男谷おだに道場どうじょう多人数たにんずう指導しどうした。このとき飯久保いくぼつねねんとは時々ときどき試合しあいしていたが飯久保いくぼつねねん門人もんじん嘉納かのう治五郎じごろうとは面識めんしきがなかった。


楊心古流こりゅう修行しゅぎょう

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藍澤あいざわ沼津ぬまづはん輩出はいしゅつ柏崎かしわざき又四郎またしろう首魁しゅかいとして都築つづきひろし島村しまむらほう芎、照島てるしま太郎たろう佐野さのしゅう三郎さぶろう深澤ふかさわためきち天明てんめい力松りきまつ大木おおき保太郎やすたろう杉山すぎやまきょうどう斎藤さいとうとらさくなどととも切磋琢磨せっさたくまして修行しゅぎょうした。

修行しゅぎょうには二尽夜通徹修行となな日間にちかん断食だんじき修行しゅぎょうなどがあった。

なな日間にちかん断食だんじき修行しゅぎょうは12月11にちより17にちまで厳寒げんかんなか大名小路だいみょうこうじより愛宕下あたごしたまで日々ひびあるいてかよ断食だんじき稽古けいこおこなった。また塩味しおあじ喫煙きつえんきんじたり、じゅういち日間にちかんだんこくなどもおこなっていた。

藍澤あいざわは1865ねん慶応けいおう元年がんねん)より沼津ぬまづはんにおいては柏崎かしわざき又四郎またしろういで藩士はんし教授きょうじゅかたつとめ、その私設しせつ道場どうじょうしょゆうしていた。また1892ねん~1893ねん明治めいじ25ねん明治めいじ26ねん小伝馬こでんま上町うえまち道場どうじょう開設かいせつやく570にん門人もんじん柔術じゅうじゅつ教授きょうじゅした。

楊心古流こりゅうについて

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藍澤あいざわによると、楊心古流こりゅう元々もともと武芸ぶげいではなく肥前ひぜんこく長崎ながさき医師いしである三浦みうら楊心とき人身じんしん健康けんこうのためにおこりあい行合ゆきあいきょ三條さんじょう手形てがた72もくつくり、くわえて死活しかつ秘法ひほう伝授でんじゅしたことにはじまるとしている。楊心古流こりゅう一種いっしゅ健康けんこうざいとしてもちいられており、のちに楊心りゅう三浦みうらりゅうけてしょうされるようになった。

おこりあい行合ゆきあいきょ三條さんじょう手形てがた72もくからはじまり最後さいごのこあいしょうしてらんおこなったが、現在げんざい手形てがたのちにしてらんのみ修行しゅぎょうするようになった。らん搏は千変万化せんぺんばんかおう活動かつどうするので、てき競争きょうそうするうえで自然しぜん奮発ふんぱつりょくおこして研究けんきゅうする趣味しゅみであるためさかんにおこなわれていた。

なな日間にちかん断食だんじき稽古けいこ

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なな日間にちかん断食だんじき稽古けいことは戸塚とつか有志ゆうし往々おうおう実行じっこうしてきた修行しゅぎょうほうである。 この断食だんじき稽古けいこ戸塚とつか彦右衛門えもんわかころしばあか教場きょうじょう開設かいせつしていた江上こうじょうかんやなぎ入門にゅうもん通学つうがくしていたころきた出来事できごと由来ゆらいする。

当時とうじ戸塚とつか彦右衛門えもんは19さい戸塚とつか正蔵しょうぞうという名前なまえであった。ある戸塚とつかちち戸塚とつか彦右衛門えもんたいし「稽古けいこのために毎日まいにち通学つうがくするのはわるくないが、もはや年頃としごろになったのだから時々ときどき家事かじかえりみてちち手助てだすけをするべきなのにまったけないのはいかがなものか。かつ年末ねんまつせまっていて用事ようじ百般ひゃっぱんちゅう障子しょうじ張替はりかえ・たきぎわり内外ないがい掃除そうじとうなんじつとめではないか。これを老父ろうふにのみまかせているのは重々じゅうじゅう心得違こころえちがいである。」とった。戸塚とつか単身たんしん独歩どっぽべい一粒ひとつぶめぐひとがないらしであり、さん食事しょくじすべ老父ろうふつくっていた。戸塚とつかちちは「いかに柔術じゅうじゅつきであっても食事しょくじをしなければ稽古けいこできない。すこしの手助てだすけもしないから、そのうえ通学つうがくしてみろ。」と戸塚とつか彦右衛門えもんしかった。戸塚とつか彦右衛門えもんは「食事しょくじをしなくても稽古けいこつかえない。」とこたえたので戸塚とつかちちいかり「なんじ過言かごん食事しょくじをせずに稽古けいこをしてみろ。」といいはなった。戸塚とつかはは戸塚とつか彦右衛門えもん心得違こころえちがいの過言かごんについてちちあやまるように再三再四さいさんさいしさとしたがしたがわず翌朝よくあさいたった。

戸塚とつかちち教場きょうじょう同行どうこう戸塚とつか彦右衛門えもん挙動きょどう観察かんさつしたためおおいにこまった。戸塚とつか彦右衛門えもん調しらべしょくべることをさまたげられ今更いまさら謝罪しゃざいもできず毎日まいにちちち同行どうこうがあるのでやむをず、そのより断食だんじきして稽古けいこかようことになった。道場どうじょうにおいてちからはたらけまった平素へいそことならず25~26にん敵手てきしゅ演習えんしゅうしていた、四日よっかあさ戸塚とつかははより更衣ころもがえめいじられ、ふく所在しょざいいたところタンスにある浅黄あさぎもんふく着用ちゃくようするようにわれた。着替きがえをしようとしたところそでがややおもかったのでれてしたところつつんだにぎめしはいっていた。これにおいてはじめてはは慈愛じあいさと感激かんげきしてなみだながした。ただちちまえはばかりがあり便所べんじょはいって九拝きゅうはいしてにぎめしべた。ついにななにちいた戸塚とつかちちれいごと同行どうこう終日しゅうじつ演習えんしゅう観察かんさつしてがえ戸塚とつか彦右衛門えもんびつけた。戸塚とつかちち顔色かおいろただして「なんじ断食だんじき稽古けいこ今日きょうまさに一周いっしゅうおよんだ。なんじってのとお毎日まいにち同行どうこうして挙動きょどうおよ演習えんしゅうたが終始しゅうしわらず、一徹いってつ精神せいしん日々ひびすうおおくの敵手てきしゅたいしてまったつかれ倦のいろせずやくりょく互角ごかく柔術じゅうじゅつ修行しゅぎょうをよくも今日きょうまで継続けいぞくしたものだ。ながらかんずるにあまりあり。いやしくも尋常じんじょうしゃくわだおよぶべきことともおもわれず、このような士気しきやしなうともらずに家事かじ苦情くじょうったのは老父ろうふあやまりであった。今後こんご俗事ぞくじ百般ひゃっぱん老父ろうふみずか負担ふたんして明日あしたより飲食いんしょくして充分じゅうぶん修行しゅぎょう天下でんか無双むそう達人たつじんとなってみずからをおこしてくれ。今日きょう浪士ろうしほそけむり後日ごじつの飽暖となることをなんじ期待きたいする。これまでなんじ成否せいひいかがをためからたったおや意地いじうらまないでくれ。」となみだかべてあやまった。戸塚とつか彦右衛門えもん先日せんじつ失言しつげん謝罪しゃざいし「平素へいそ困苦こんく朝夕あさゆうていたがしのがたく、以前いぜんからきょうこころざしなつ両親りょうしんいちにちはや安泰あんたいきょつかせようとつきよるし奮念のあま過激かげき失言しつげんいたってしまった。今更いまさらなんとも恐縮きょうしゅく至極しごく幾重いくえにもなだめいかたまわりたい。」としんからあやまった。戸塚とつかちちよろこび、はは安心あんしんした。戸塚とつか彦右衛門えもん切磋せっさ結果けっかついに天下てんか達人たつじんとなり家門かもんおこした。このはなし戸塚とつか彦介ひこすけ幼児ようじころ戸塚とつか彦右衛門えもんからいたことである。おや実行じっこうした苦行くぎょうとしてもることができるとして戸塚とつか彦介ひこすけ壮年そうねんころなな日間にちかん断食だんじき演習えんしゅうおこなった。また門弟もんていならってなな日間にちかん断食だんじき修行しゅぎょうおこなった。藍澤あいざわ同門どうもんでは長岡ながおかたけ左衛門さえもん山口やまぐち雄次郎ゆうじろう毛利もうり釩之すけ柏崎かしわざき又四郎またしろうなどがおこなっていた。もと当主とうしゅ戸塚とつか英美ひでみもまたなな日間にちかん断食だんじき演習えんしゅうおこなったので戸塚とつか流儀りゅうぎじょう断食だんじき定式ていしき心得こころえているひともいたが、けっしてそうではなかった。しかし、天神てんじん楊流のいそ又右衛門またえもん塾生じゅくせいとうには断食だんじき修行しゅぎょうをしたのは藍澤あいざわ勝之かつゆきだけとおもっているものがおり、しょくえをおもものがいたら「一時いちじおそきをわん。戸塚とつか藍澤あいざわなな日間にちかんわずに稽古けいこをしたるぞ。」とわれていた。

この断食だんじき稽古けいこ実行じっこうしたものでなければ事情じじょうりがたい。藍澤あいざわ実行じっこうしたとき厳寒げんかんなかであった。大名小路だいみょうこうじしょうする和田わだくら門前もんぜんから日比谷ひびやもん毛利もうりてい北側きたがわがい長屋ながや沿桜田門さくらだもん手前てまえひだり新橋しんばしわた愛宕下あたごしたどお道場どうじょういたり、稽古けいこたらこおりのようでありはなは難儀なんぎした。これにより毎朝まいあさきてすぐに稽古けいここんで外出がいしゅつした。日比谷ひびや門外もんがい長州ちょうしゅうてい北側きたがわ屋根やね残雪ざんせつがあり西風せいふうによりりて頭上ずじょうよりつぶてのようにけるため難儀なんぎするためみちえ、数寄屋橋すきやばしとおりに久保くぼまちはら通過つうかした。当時とうじ露店ろてんならんで蕎麦そば汁粉しるこ牡丹餅ぼたもちにぎずしなかには蒲焼かばやきかも雑煮ぞうになど種々しゅじゅ雑多ざった飲食いんしょくぶつはなれてえがたき困却こんきゃくであった。三日みっかにちごろまではただものことのみおもつづけ、これではだめだとみずからをいましめて奮発ふんぱつするも精神せいしん気力きりょくおとろえてわすれようとしてもできなかった。飲料いんりょうみずもちいるがわずかに咽喉いんこううるおすだけでありあったため期日きじつ便通べんつう難事なんじがあった。なな日間にちかんわり翌朝よくあさ塩入しおいりかゆくちにしたとき口中くちじゅうりょうこめかみ・かおいちめんわたり、そのあじたとえることができないものであった。

またじゅういち日間にちかんだんこくはなしくちにすると畢竟ひっきょうきょうわらいあなどされるが、慶応けいおう年間ねんかん(1865~1868ねん)においては熱心ねっしんにこれを践行していた。だんこくはわずかに甘藷さつまいも大根だいこんのみに生命せいめいゆだねるというものであった。じゅういち日間にちかんだんこくなな日間にちかん断食だんじきくらべたらほとん容易よういであった。またじゅういち日間にちかんきんしお身体しんたい疲労ひろう勿論もちろん二日ふつかごろよりすべての食味しょくみくちにするも嫌悪けんおしたがなにものはらないにあるのですこしは体力たいりょくゆうしていた。この修行しゅぎょう再度さいどおこなってはいけないと断定だんていしたのはきんしお断食だんじきである。

修行しゅぎょう効果こうか

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畢竟ひっきょうすべねりたいもとづいた修行しゅぎょうであるため彼我ひがわずらずらずに虚弱きょじゃくもの壮健そうけんふくし、やわらほろしゃちからになり、せていれば肥満ひまんし、くっしていれば伸長しんちょうする。藍澤あいざわ幼児ようじころ性質せいしつ虚弱きょじゃくであり13~14さいころより膓胃をわずらい3~4年間ねんかん宿痾しゅくあのため困難こんなんきわめ、身体しんたいたけがあったがにくうすほねほそ顔色かおいろ青白あおじろ婦女子ふじょし彷彿ほうふつとさせる状態じょうたいであった。しかし、けんやわその武技ぶぎ演習えんしゅうして以来いらいようやく快復かいふくしてきて、27~28さいごろには体重たいじゅうじゅうきゅうかんはちひゃくもくやく74.25kg)となり力量りきりょう元々もともとすくなかったが修行しゅぎょう当時とうじよんしょうべいたわら片手かたて容易よういかたかつぐことができた。あるとき鶴舞つるまいはん柔術じゅうじゅつ稽古けいこ旅館りょかんまり藩士はんしじゅうすうめい訪問ほうもんがあって雑談ざつだんしていたところ、中田なかたふじ三郎さぶろうというひとから「貴殿きでんうま背負せおうことができるという風説ふうせつへいはん沙汰ざたされているが、はたして事実じじつなのか。」と突然とつぜん意外いがいいをけた。まったおぼえがないことであったがうまかつげる力量りきりょうがあればよんおうてんをもくじくことができるととも一笑いっしょうした。このように自身じしんらないことまで世間せけんはなされているので驚愕きょうがくしたがすべ修行しゅぎょう研究けんきゅうかげというべきものであった。

戸塚とつかについて

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戸塚とつか彦右衛門えもん成長せいちょう家庭かてい厳格げんかくさは断食だんじきはなしから推知すいちするだけである。戸塚とつか彦介ひこすけ柔術じゅうじゅつ通達つうたつ勿論もちろん品行ひんこう方正ほうせいとしてひょう資格しかくすべゆうしていた。天性てんせいくわえて戸塚とつか彦右衛門えもん家訓かくんせんいちにしていたため、戸塚とつか彦介ひこすけ高名こうみょうしょしゅうこえ門人もんじんすうせんにんたっしていた。文久ぶんきゅう年間ねんかん(1861~1864ねん戸塚とつか沼津ぬまづはんから進出しんしゅつして幕府ばくふ柔術じゅうじゅつ教授きょうじゅかたまかされ宝蔵ほうぞうばん次席じせき栄誉えいよた。愛宕下あたごした道場どうじょういきおいえんみぎるものがなく柔術じゅうじゅつとしては府下ふか老少ろうしょう婦女ふじょ奴婢ぬひいたるまでられていた。藍澤あいざわ入門にゅうもんしたとき戸塚とつか彦右衛門えもんすでくなっており、のちにその事蹟じせきくわしくよしもなく戸塚とつか彦介ひこすけ折々おりおり遺訓いくんしめすのをくだけであった。

ロシア水兵すいへいろくにん捕縛ほばくする

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藍澤あいざわ勝之かつゆき戸塚とつか彦介ひこすけから「じゅつというものはすべ精神せいしん感動かんどうよりはっするが、身体しんたい作用さよういたっては感動かんどうより迅速じんそくである。すなわ間髪かんぱつれないあいだにある。ゆえじゅつ熟達じゅくたつするときは、思慮しりょまわさず寸隙すんげきなく四肢ししはたらきすぐにてきおうじることがある。いやしく斯道しどうまなものはこの心得こころえければならない。たとえばてきこうすればわがこうしてこれをふせごうとか、あるいは右腕うわんげていてたらりょううでってくじこうとか、いずれも伝授でんじゅほうろんじるところであるが実際じっさいほうごと容易よういにできるものではない。また、その場所ばしょてき身体しんたいおのれ位置いちとにおいてもかくことなりがあるので臨機応変りんきおうへん工夫くふう肝要かんようでありもとより研究けんきゅう習熟しゅうじゅくうえにある。」とおしえられた。

藍澤あいざわ神奈川かながわけん警察官けいさつかんをしていた1872ねん11月(明治めいじ5ねん)ロシアかん水兵すいへいろくめい酔狂すいきょうして吉田よしだきょうまえ高島たかしま嘉右衛門かえもん使用人しようにんみだれちしており、偶然ぐうぜんそのとおりかかった藍澤あいざわ一人ひとりろくにん捕縛ほばくしたという事件じけんがあった。

はじめは暴行ぼうこうしているのは一人ひとりだとおもいすぐにかかわいたしようとしたところ、ロシア水兵すいへいかえって憤激ふんげきしてなぐりと乱暴らんぼうしてきたのでやむをたおした。一人ひとり捕縛ほばくしようとするあいだにまた一人ひとりうしろより藍澤あいざわ臀部でんぶった。藍澤あいざわかえってげたが、さきたおしたものがりども左右さゆうより藍澤あいざわとらえた。藍澤あいざわこごめせずに二人ふたりとらえてたお左右さゆう二人ふたりさえたが、もなくよんにん水兵すいへいっかかってきた。たがいに掎角のいきおいをなしてて水平すいへいろくにんあしき、面部めんぶつかき、どろにぎげたりしてきた。藍澤あいざわ身体しんたい自由じゆうがなくなり、これがいわゆる思慮しりょまわらない寸隙すんげきない状態じょうたいであればとう蹴込けこみ当身あてみ)はこの場合ばあいであると、ふるってだおたおした。ようやくろくにんはないちにんずつこしとう両足りょうあしぬき捨身しゃしんとうでしばらくろくにんくるしめていたとき同僚どうりょうおいことごと捕縛ほばくした。戸塚とつか彦介ひこすけくんさとしのちおもたったという。

この事件じけん藍澤あいざわ神奈川かながわけんより勲章くんしょう授与じゅよされた。当時とうじ、この事件じけんさんさい童子どうじもよくるところとなった。

藍澤あいざわはこの事件じけんについて、平素へいそ修練しゅうれん効果こうかむなしくなく臨機応変りんきおうへんはたらることができたのは戸塚とつか彦介ひこすけからのたまものであったというべきであり、ゆえ身体しんたい錬磨れんまもっ肝要かんようじゅつあかつきさとるしたのはこのるい多数たすう経験けいけんよるところであるとしるしている。

浅井あさい寿ひさしとく戸塚とつか彦介ひこすけ

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浅井あさい寿ことぶきあつし大久保おおくぼ利通としみち暗殺あんさつ紀尾井きおいざかへん)の実行じっこうはん一人ひとりである。浅井あさい大酔たいすいのあまり戸塚とつか彦介ひこすけ柔術じゅうじゅつ試合しあい強要きょうようしたことがある。

浅井あさいから試合しあいいどまれた戸塚とつか彦介ひこすけは「ろうおっとやまいつかれているため試合しあいはできない。」とことわったが、浅井あさい武士ぶし面目めんぼくきずつけられたと主張しゅちょうしていて戸塚とつか彦介ひこすけためそうとした。戸塚とつか彦介ひこすけはやむをず「それではやまい憊であるからわたし仰臥ぎょうがのままで、ご随意ずいいにおためしください。」とった。大兵だいひょうつよたけし浅井あさい仰向あおむけにたおれている戸塚とつか彦介ひこすけ胸部きょうぶあしかかと満身まんしんちからをこめてグイとけたが、戸塚とつか彦介ひこすけなにかんじていなかった。さらに一層いっそうちからって蹂躙じゅうりんしたが戸塚とつか彦介ひこすけすこしもかんじていなかった。浅井あさいはすっかり閉口へいこうし「今度こんどわたしをおためしください。」とったが戸塚とつか彦介ひこすけ固辞こじした。しかし浅井あさいがききいれないので、戸塚とつか彦介ひこすけはやむを正座せいざした浅井あさいの頸部を平手ひらてでポンとったところ浅井あさいくびからゴクリとおとがした。そのまま浅井あさいくびみぎかたむいて満身まんしんちかられても元通もとどおりにならないので、浅井あさいしみで「ありがとうございます。」と戸塚とつか挨拶あいさつして帰宅きたくした。帰宅きたく種々しゅじゅ治療ちりょうをしてさんにちくびもと状態じょうたいもどり、さらに戸塚とつか彦介ひこすけ門弟もんていとなって柔術じゅうじゅつ修行しゅぎょうおこなった[15]


鈴木すずき清助せいすけはなし

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楊心古流こりゅう四天王してんのう
千葉ちば県警けんけい巡査じゅんさ
鈴木すずき清助せいすけ

鈴木すずき清助せいすけ(1860-1890)は千葉ちば県警けんけい巡査じゅんさである[16]鈴木すずき清助せいすけ戸塚とつか彦介ひこすけ門人もんじんであり明治めいじ時代じだい佐野さのしゅう三郎さぶろう照島てるしま太郎たろう西村にしむらじょうなかなら四天王してんのうしょうされた人物じんぶつである。1860ねん万延まんえん元年がんねん)に佐倉さくらまちまれ、笹沼ささぬま八郎はちろうから向井むかい流水りゅうすいねり夏目なつめまたこれしんからかがみしん明智めいちりゅう戸塚とつか彦介ひこすけ戸塚とつか英美ひでみより楊心古流こりゅうまなぶ。とく柔術じゅうじゅつ奥儀おうぎきわめ楊心古流こりゅう目録もくろく受領じゅりょうして当時とうじ戸塚とつか門下もんか四天王してんのういちしょうされた。1881ねん明治めいじ14ねん)に東京とうきょう日本橋にほんばし浜町はまちょう河岸かわぎし水練すいれんじょうもうけて向井むかいりゅう教授きょうじゅした。

1883ねん明治めいじ16ねん千葉ちば県警けんけい巡査じゅんさとなった。1885ねん明治めいじ18ねん千葉ちば監獄かんごく看守かんしゅてんじたが、1887ねん明治めいじ20ねん巡査じゅんさ復職ふくしょく佐倉さくら警察けいさつしょ在勤ざいきんめいじられた。

1890ねん明治めいじ23ねん現在げんざいの1おくえん以上いじょう相当そうとうする国庫こっこきん佐倉さくらから千葉ちばはこおくおっと徒歩とほ警護けいごする現金げんきん輸送ゆそう護衛ごえい任務にんむ拳銃けんじゅうった大男おおおとこ浅野あさの与右衛門ようえもんたたか瀕死ひんし重傷じゅうしょういながら逮捕たいほよんにち殉職じゅんしょくした。これにより、千葉ちば若葉わかば西都賀にしつが夫婦ふうふざかに「鈴木すずき清助せいすけ巡査じゅんさ殉職じゅんしょく」がてられ、現在げんざい千葉ちばひがししょ千葉ちばひがし地区ちく警友かい合同ごうどう慰霊いれいさいおこなっている[17]鈴木すずき清助せいすけはその功績こうせきにより千葉ちばけん佐倉さくら市内しない新町しんまちのべ覚寺かくじ鈴木すずき巡査じゅんさ部長ぶちょう顕彰けんしょうてられた。このいしぶみ総理そうり大臣だいじん山縣やまがた有朋ありともふでによるものあり、鈴木すずき清助せいすけ命日めいにちには佐倉さくら警察けいさつしょかなら墓参はかまいりをしたとされる[18]

この襲撃しゅうげき事件じけん犯人はんにんである浅野あさの与右衛門ようえもんのち死刑しけい執行しっこうされた。

夫婦ふうふざか事件じけん

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夫婦ふうふざか事件じけんとは1890ねん明治めいじ23ねん)にきた国庫こっこきん輸送ゆそう襲撃しゅうげき事件じけんである。

1890ねん4がつ4にち明治めいじ23ねん川崎かわさき銀行ぎんこう佐倉さくら支店してんより千葉銀行ちばぎんこう本店ほんてんいちまんせんはちひゃくえん公金こうきん輸送ゆそうおこなわれた。千葉ちば県警けんけい巡査じゅんさ鈴木すずき清助せいすけはその護衛ごえいにんたった。当時とうじ汽車きしゃはなく徒歩とほ山間さんかんせまくて通行つうこう困難こんなんみち辿たどるほかなかった[19]

午後ごご4佐倉さくらまち出発しゅっぱつ千代田ちよだむら栗山新田くりやましんでんいたあたりから手拭てぬぐいふかかおつつ萌黄もえぎ毛布もうふまつわった大男おおおとこ浅野あさの与右衛門ようえもんがコソコソとけてた。浅野あさの行金こうきんはこんでいるあしおっと鈴木すずき清助せいすけ一挙一動いっきょいちどううかがっていた。鈴木すずき清助せいすけあやしみ浅野あさのさきとおそうとしたがすすまなかった。鈴木すずき清助せいすけ普通ふつう旅客りょかくではなく一種いっしゅ悪漢あっかんではないかをうたが挙動きょどう尋問じんもんしたところ語気ごき曖昧あいまいでありあやしい動作どうさすくなくなかった。そこであしおっと目配めくばせして警戒けいかいさせ、自身じしん外套がいとうけんまんいちそなえた。

千葉ちばぐん都賀つがむらばらにさしかかり夫婦ふうふざかえるころにはななれていた[20]。このときまでかく追跡ついせきしてきた浅野あさの突然とつぜん拳銃けんじゅう鈴木すずき臀部でんぶった。被弾ひだんした鈴木すずき清助せいすけかえけんいてこれにおうじ、白刃はくじんりかざしてせまるところで浅野あさのさんはつ連続れんぞく拳銃けんじゅうった。そのうちいちはつ鈴木すずき清助せいすけ左上ひだりうえうでたった。鈴木すずき清助せいすけヶ所かしょきずこごめせずすうひゃく追撃ついげきし、茶園ちゃえんけん左肩ひだりかた切付きりつけた。つづかたなころすつもりだったが、これをりにすることができなかったら警察官けいさつかんとしてじるところであり、このような凶漢きょうかんかなら幾多いくた余罪よざいがあるはずなので逐一ちくいち白状はくじょうさせてばっけさせるべきであるとおもい、けん多年たねん錬磨れんました柔術じゅうじゅつ捕縛ほばくしようとした。鈴木すずき清助せいすけ銃弾じゅうだんはつ心身しんしんともにつかれた状態じょうたいで、浅野あさのあまるほどの大男おおおとこでありちからつよはげしく抵抗ていこうしてきたがつい膝下ひざもとせた。その左腕さわんって捕縛ほばくしようとしたがなわほそ浅野あさのあばれるためれてしまいどうすることもできない。そこで下帯したおびいて左手ひだりてしば右手みぎて拳銃けんじゅううばおうとしたところ、浅野あさの鈴木すずき清助せいすけはら拳銃けんじゅうはつ連続れんぞくった。一発いっぱつはずれ、一発いっぱつ鈴木すずき清助せいすけ下腹部かふくぶふかつらぬいた。これが致命ちめいてき重症じゅうしょうとなりたきのようほとばしり衣服いふくめたがすこしもひるまずに厳重げんじゅう捕縛ほばくした。浅野あさの共謀きょうぼうしゃがいると恐喝きょうかつしたが鈴木すずきすこしもおどろかずたてろうとしたところ、浅野あさの鈴木すずきたい怪我けがをしたかどうか再三さいさんいかけた。鈴木すずき負傷ふしょうしたことをかしたら浅野あさの気焔きえんすとかんがえ「もし、あなたのために怪我けがをしたら、あなたのつみおもくなるがさいわいにも怪我けがをしなかったのであなたのつみかるくすむ。あえていることはない。」とった。

浅野あさのはもうてきわないと観念かんねんして「あなたのきもいさみじつおどろくほかない。あなたがててわたしばくしても、そのこういちとう昇級しょうきゅうぎない。わたしがこのような凶行きょうこうえてするのはこころざしがあるからで、ねがいわくばいまわたし見逃みのがしてはなしたらかなら千金せんきん千金せんきん報酬ほうしゅうとしてわたす。」と懇請こんせいしてきた。鈴木すずき清助せいすけはその無礼ぶれいいかり、かつなぐさしかりながらあめのち泥道どろみちじゅうすうまち(1㎞以上いじょうあるいた。鈴木すずき清助せいすけ重軽傷じゅうけいしょうって疲労ひろう困憊こんぱいでありたおれそうになっていたが職務しょくむおもいのちかるいとみずからをはげましてようやく民家みんかにたどりいた。浅野あさのだお風呂ふろおけかぶせ、自身じしんはその風呂ふろおけうえすわげられないようにした。いえひと千葉ちばしょ通報つうほうさせたところ、所長しょちょうおか耕三こうぞうろう巡査じゅんさすうめい現場げんば急行きゅうこうした。このとき鈴木すずき清助せいすけ風呂ふろおけうえ跪坐きざ片手かたて流血りゅうけつした傷口きずぐちさえ、片手かたて捕縄とりなわ一端いったんをしっかりとにぎ致命傷ちめいしょう重症じゅうしょうにひるまず元気げんき旺盛おうせいであった。重傷じゅうしょうってもこごめしない鈴木すずき清助せいすけ剛胆ごうたんおどろいた同僚どうりょうはすぐに千葉ちば病院びょういん入院にゅういんさせた。入院にゅういんちゅう千葉ちば県知事けんちじ石田いしだ英吉えいきち渡邊わたなべ警察けいさつ部長ぶちょうちち親戚しんせきとう訪問ほうもんがあったがえりただして当時とうじ顛末てんまつべるだけで一言ひとこと私事しじわなかった。千葉ちばけんでは鈴木すずき清助せいすけ功績こうせきふかしょうして即日そくじつ巡査じゅんさ部長ぶちょう昇進しょうしんさせ、千葉ちば県知事けんちじ石田いしだ英吉えいきちから鈴木すずき清助せいすけたい特別とくべつ賞金しょうきん金一封きんいっぷうおくられた。千葉ちば病院びょういん治療ちりょうおこなったがたれたところわるく、また銃創じゅうそうさん箇所かしょという重症じゅうしょうであったためよんにちの4がつ8にちに30さい殉職じゅんしょくした。

犯人はんにん浅野あさの与右衛門ようえもん印旛いんばぐん豊住とよすみむらひとであり、前年ぜんねんの3がつ銀行ぎんこうかねななせんえん強奪ごうだつしたぜんはん自白じはくした。浅野あさの与右衛門ようえもんのち死刑しけい執行しっこうされた。浅野あさの千葉ちば警察けいさつしょ勾留こうりゅうちゅうに「わたし逮捕たいほした巡査じゅんさじつ仁者じんしゃである。当時とうじわたしわれて進退しんたいすできわまれりかれ一刀いっとう真向まっこうげたとき両断りょうだんされるところだったがたちまかたな捕縛ほばくされた。仁者じんしゃでなくしてだれがこれをるか。今日きょう生命せいめいがあるのはまったくこの巡査じゅんさたまものである。」と感嘆かんたん監視かんし巡査じゅんさかたった。また、浅野あさの千葉ちば監獄かんごく収監しゅうかんちゅう大概たいがいひと銃声じゅうせい一発いっぱつけばたちま心臓しんぞうさむくしてうしろをずに逃避とうひするものであるのにわたし捕縛ほばくした巡査じゅんさかえって一発いっぱつごと勇気ゆうきひゃくばいじつおどろいたものであった。このような勇者ゆうしゃたことがない。」とおおいに称賛しょうさんして看守かんしゅかたった。

鈴木すずき治療ちりょう担当たんとうしたさんりん医師いしは「尋常じんじょうひとではないのは最初さいしょ一発いっぱつでもはたらきできないほどの重症じゅうしょうであるのにくわえて、最後さいご重症じゅうしょうにもこごめせずにつよぞく奮闘ふんとうしたのは医学いがくてきより推究すればじつ不思議ふしぎせんまんである。」とひとはなしたという[20]

金谷かなや元良げんりょうはなし

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金谷かなや元良げんりょうもと丹南たんなんはん柔術じゅうじゅつ指南しなんやくであった[21]丹南たんなんはん江戸えど藩邸はんていより戸塚とつか彦介ひこすけ愛宕下あたごした道場どうじょうかよい楊心古流こりゅうまなんだ。のち愛宕下あたごしたちか麻布まふ修道しゅうどうかんひらいた。修道しゅうどうかん実戦じっせんらし、愛宕下あたごした道場どうじょう他流たりゅうものがくると麻布まふまで使つかいがびにたという。維新いしん親交しんこうがあった久富ひさとみ鉄太郎てつたろうとも警視庁けいしちょうまねかれ初代しょだい警視庁けいしちょう柔術じゅうじゅつ世話ぜわがかりとなった。そのころ講道館こうどうかんともなか嘉納かのう治五郎じごろう大学だいがくたばかりのころ修道しゅうどうかんまなびにくることもあり、講道館こうどうかん四天王してんのう横山よこやま作次郎さくじろう後年こうねんまでよくたずねにていた。息子むすこ金谷かなやもとろう柔道じゅうどうをやらずに楊心古流こりゅうおしえていたが、金谷かなや元良げんりょう関係かんけいから講道館こうどうかんよりくろたいおくられ有段者ゆうだんしゃ待遇たいぐうとなっていた。

講道館こうどうかん柔道じゅうどう高段こうだんしゃ金谷かなやもとろう弟子でしである磯部いそべうつつぎ記事きじによると、金谷かなや元良げんりょうろくしゃくあまり(やく181.8cm)の大男おおおとこちからつよく、はははいっている風呂ふろおけをそのままよこにどけたり、梯子はしごけて仕事しごとをしているおとこ往来おうらい邪魔じゃまになるといってみち反対はんたいがわせたまま移動いどうさせたというはなしのこっていた[22]。また愛宕下あたごした道場破どうじょうやぶりがると修道しゅうどうかん弟子でしむかえに金谷かなや普通ふつうよりなが大刀たちして出掛でかけた。金谷かなや元良げんりょう試合しあいけたというはなしかなかった。当時とうじなか騒然そうぜんとしていて辻斬つじぎがよくあり修道しゅうどうかんからも赤羽あかはねきょう出掛でかけるものがいたので、金谷かなや元良げんりょうさきまわりをして辻斬つじぎ退治たいじおこなった。金谷かなや修道しゅうどうかんでは楊心りゅうには種類しゅるいあり戸塚とつか彦介ひこすけの楊心りゅうほうふるいということで「楊心古流こりゅう」としょうしていた。幕末ばくまつごろ金谷かなや元良げんりょうよどみきょう丹南たんなんはん高木たかぎ屋敷やしきないんでいた。磯辺いそべにとると明治めいじ時代じだいになって講道館こうどうかん柔道じゅうどう台頭たいとうしてきたころ金谷かなやのようなつよ柔術じゅうじゅつ老齢ろうれいになってきたとはいえ、小説しょうせつ姿すがたさんよんろう」のように柔道じゅうどうかならずしも柔術じゅうじゅつってばかりはいなかった。また、金谷かなや元良げんりょうだい日本にっぽん武徳ぶとくかい柔道じゅうどうはんになった金谷かなやもとろう最初さいしょ講道館こうどうかん柔道じゅうどう修行しゅぎょうしていたが、のち本来ほんらい武道ぶどうではないことをさと講道館こうどうかんった[23]


天神てんじん楊流井口いぐち松之助まつのすけあらわした『柔術じゅうじゅつ生理せいりしょ』に金谷かなや元良げんりょう格言かくげんしるされている[13]金谷かなや元良げんりょう柔術じゅうじゅつたいするかんがえは「柔術じゅうじゅつ虚弱きょじゃくもの壮健そうけんになるのでかたち専務せんむにするべきである。剛力ごうりきもの相撲すもうってもちからばかりではつことができない。わがちから力負ちからまけをすることがある。相撲すもうよんじゅうはち手形てがたがあり柔術じゅうじゅつには流儀りゅうぎによって手数てかずちがいがあるがぞく四十八手しじゅうはって表裏ひょうりというたとえがある。ゆえちからあるものは、この柔術じゅうじゅつおぼえたときからだ動作どうさのうくなりおに鉄棒てつぼうたとえでわがちから虚弱きょじゃくものげられることはない。ゆえつよしじゃくともにこれをおぼえれば我身わがみまもること柔術じゅうじゅつだいいちである。」というものであった。

佐野さの周三しゅうぞうろうはなし

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佐野さの周三しゅうぞうろう戸塚とつか彦介ひこすけ門人もんじん四天王してんのう一人ひとりしょうされたひとである[24]。1894ねん明治めいじ27ねん読売新聞よみうりしんぶん記事きじでは撃剣げっけん達人たつじん水練すいれん名人めいじんかれている。佐野さのもと沼津ぬまづ藩士はんしであり千葉ちばけん警部けいぶとして奉職ほうしょく剣術けんじゅつ柔術じゅうじゅつ教授きょうじゅねていた。のち宮城みやぎけんうつったがにちしん戦争せんそうはじまりおおいにかんじるところがあり佐久間さくまひだりうまふとし従軍じゅうぐん志願しがんした。しかしすでだい師団しだん人夫にんぷ長等ながら満員まんいんとなっていた。このため、名義めいぎかまわなければだい師団しだん酒保しゅほ取締とりしまりととなることをすすめられ、これにおうただちに従軍じゅうぐんすることとなった。

佐野さの周三しゅうぞうろうみき肥大ひだい非常ひじょう膂力りょりょくつよく、千葉ちば県警けんけい在職ざいしょくちゅうおに警部けいぶばれて悪漢あっかんからおそれられていた。また、警視庁けいしちょう柔術じゅうじゅつ世話ぜわがかりつとめていた。

1883ねん明治めいじ16ねん滋賀しが県知事けんちじかごしゅ田安たやすじょう東京とうきょう地方ちほうかん会議かいぎ出席しゅっせきするさい高山たかやまみね三郎さぶろう関西かんさい剣客けんかくやく10めいれて警視庁けいしちょう試合しあいいどんだことがあった。高山たかやまみね三郎さぶろうかい忠篤ただあつ三橋みつはしあきら一郎いちろう得能とくのうせき四郎しろうなど警視庁けいしちょう撃剣げっけん世話ぜわかけ36めい連破れんぱし、最終さいしゅう試合しあい逸見いつみそうすけにはやぶれたものの明治めいじ剣道けんどうだい記録きろくとなった。

これをいた千葉ちば県知事けんちじ船越ふなこしまもる佐野さの周三しゅうぞうろうかわせて高山たかやまみね三郎さぶろう試合しあいをさせた。佐野さのなんなく高山こうざんっておおいにくるしめ、当時とうじ有名ゆうめい美談びだんとなった。

仙台せんだい陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう

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佐野さの周三しゅうぞうろう明治めいじ時代じだい仙台せんだい陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう柔術じゅうじゅつ教官きょうかんをしていたことから、仙台せんだい陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこうでは楊心古流こりゅうまなばれていた[25]

当時とうじ旧制きゅうせいだか仙台せんだい市内しない中学校ちゅうがっこう連合れんごうぐんとよく試合しあいをしており、仙台せんだい陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこうからも出場しゅつじょうしていた。だいいち期生きせい大場おおば弥平やへい小沢おざわ庸夫みちお佐藤さとうしげる四郎しろうさんにん出場しゅつじょうしていつも完勝かんしょうしていた。次期じきけてはいられないとのことで奥山おくやま忠次郎ちゅうじろう後藤ごとうこうさん高野たかの隆二郎りゅうじろう進藤しんどう隆二郎りゅうじろう)のさんにんえらばれ見事みごと完勝かんしょうした。ねん連続れんぞく一人ひとり敗者はいしゃもなく「幼年ようねんこうつよし」と評判ひょうばんたかかった。奥山おくやま忠次郎ちゅうじろう入学にゅうがくまえから名掛丁なかけちょうにあった佐野さの道場どうじょうとおった業師わざしであった。


山本やまもと欽作のはなし

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山本やまもと欽作戸塚とつか彦介ひこすけ晩年ばんねん高弟こうていである。明治めいじ時代じだい警視庁けいしちょう柔術じゅうじゅつ世話ぜわがかりだい日本にっぽん武徳ぶとくかい柔道じゅうどうはんなどをつとめた。

1862ねん文久ぶんきゅう2ねん)に千葉ちばけん長生ちょうせいぐん茂原もはらまちまれる。1883ねん明治めいじ16ねん)楊心古流こりゅう入門にゅうもんして戸塚とつか彦介ひこすけから柔術じゅうじゅつまなんだ。1885ねん10がつ明治めいじ18ねん千葉ちば監獄かんごく館主かんしゅとなった。1886ねん明治めいじ19ねん戸塚とつか彦介ひこすけ死去しきょしたことにより、後継こうけいしゃ戸塚とつか英美ひでみからまなぶ。1888ねん3がつ明治めいじ21ねん千葉ちば監獄かんごく看守かんしゅちょう代理だいりとなった。1888ねん6がつ明治めいじ21ねん戸塚とつか英美ひでみから免許皆伝めんきょかいでんけた[26]

1889ねん明治めいじ22ねん)に警視庁けいしちょう柔術じゅうじゅつ世話ぜわがかりとなった。1890ねん明治めいじ23ねん)から1892ねん明治めいじ25ねん)まで東京とうきょう法学ほうがくいんはいって法律ほうりつまなんだ。1893ねん明治めいじ26ねん)に本所ほんじょ松阪まつさかまち道場どうじょうひら民間みんかん柔術じゅうじゅつ教授きょうじゅした。1895ねん明治めいじ28ねん)から海軍かいぐん予備よび学校がっこう柔術じゅうじゅつ教授きょうじゅ嘱託しょくたくした。1902ねん明治めいじ35ねん)よりおさむだま社中しゃちゅう学校がっこう柔術じゅうじゅつ教授きょうじゅとなった。

1902ねん12月13にち明治めいじ35ねん本所ほんじょ相生あいおいまち3丁目ちょうめ24番地ばんちこうたけかんしょうする道場どうじょう開設かいせつした[27]

弟子でし講道館こうどうかん柔道じゅうどうきゅうだんとなった神田かんだ久太郎きゅうたろう文鎮ぶんちんかりというとうわざを以ってせた息子むすこ山本やまもとのぼるなどがいる。


田辺たなべ又右衛門またえもんとの試合しあい

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スポーツタイムスに掲載けいさいされた遷流の田辺たなべ又右衛門またえもん回想かいそう山本やまもと欽作が登場とうじょうしている。

1892ねん明治めいじ25ねん田辺たなべ又右衛門またえもん和泉いずみきょう警察けいさつしょ教授きょうじゅ山本やまもと欽作と麻布あざぶ警察けいさつしょ道場どうじょう試合しあいをすることになった。

れいをしてがるととも山本やまもと欽作のけたはらあしがかなりいて田辺たなべはスッポリほうされた。これにより、いくつかのられた。田辺たなべ返礼へんれいからだ落をけてだおじょうになってしぼわざくびかりあと一息ひといきめをそうとしているところ、審判しんぱんが「よしそれまで。さきわざこうわざえた。それで勝負しょうぶなしのけ。」という宣告せんこくくだした。田辺たなべめがいてまいりかけたところ途中とちゅうめさせてろうというの無理むりはなしであり、当時とうじ警視庁けいしちょうではなげほんぎゃくしぼ一本いっぽん同等どうとうとする規定きていとなっていることからしぼほうおもなければならないとおもった。もし両者りょうしゃ同格どうかくとしてもいままさに一本いっぽんとなるところを中止ちゅうしさせて計算けいさんするというのはなにとしても無理むりであるとかんがえた。しかし、山本やまもと欽作は講道館こうどうかん柔道じゅうどうではなかったため敵愾心てきがいしんこらずムカつきもせず平気へいきがることができたとしるしている。

山本やまもと欽作と神田かんだ久太郎きゅうたろう

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講道館こうどうかんきゅうだん全日本ぜんにほんせんけん大会たいかい明治めいじ神宮じんぐう競技きょうぎ大会たいかい柔道じゅうどう競技きょうぎ優勝ゆうしょうしたこともある神田かんだ久太郎きゅうたろうもと山本やまもと欽作の弟子でしであり、だい日本にっぽん武徳ぶとくかい柔道じゅうどうさんだんまで戸塚とつか楊心りゅう指導しどうけていた[28]

神田かんだだんごろまで内股うちまたとべこしきであったが自分じぶんより相当そうとうおおきいものにはおもうようにからないことから、大男おおおとこたいするわざ必要ひつようせいかん山本やまもと欽作におしえをうた。山本やまもと欽作からおおきいものたいするわざ研究けんきゅう必要ひつようでありきぬ担・朽木くちきたおせともえとう背負投せおいなげ寝技ねわざ研究けんきゅうしてやってみろとわれ、きぬ担・朽木くちきたおせともえとう寝技ねわざひとつのわざいちげつひゃくかい練習れんしゅうしてみた。その結果けっかいちねんくらいできぬ担・朽木くちきたおせともえとう得意とくいわざとしてさんだんごろからやれるようになった。講道館こうどうかん柔道じゅうどうはいったのちきぬ担は肩車かたぐるま朽木くちきたおせ諸手もろてかりとなり神田かんだ久太郎きゅうたろう得意とくいわざとなった[28]

神田かんだ久太郎きゅうたろう肩車かたぐるま

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神田かんだ修行しゅぎょう時代じだい武徳ぶとくかい大会たいかい町道場まちどうじょう学校がっこう試合しあいとうとべこしあしばらいとか種々しゅじゅわざもっ試合しあいしているのをたが肩車かたぐるま相手あいてげてったのはたことがなかったという。かたちには立派りっぱにあるが試合しあいることができないのは多数たすう修行しゅぎょうしゃ研究けんきゅうされていないからで、これを研究けんきゅうして得意とくいわざにしてみようと1915ねん大正たいしょう4ねん千葉ちばけん武徳ぶとくかい大会たいかいときおもった。山本やまもと欽作におこりたおせりゅうきぬ担を説明せつめいされてから、肩車かたぐるま失敗しっぱいしたらきぬ担に変化へんかすればいいとかん肩車かたぐるま試合しあい有利ゆうりであるとおも練習れんしゅうはじめた[29]

神田かんだ久太郎きゅうたろう朽木くちきたおせ

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神田かんだ自分じぶんよりおおきい相手あいてまえげるわざはないかとかく流派りゅうは文献ぶんけんたり古流こりゅう先生せんせいいたりした結果けっか戸塚とつか楊心りゅう朽木くちきたおせというわざがあることった。1917ねん大正たいしょう6ねん千葉ちばけん武徳ぶとくかい支部しぶ大会たいかい群馬ぐんまけん関口せきぐちたかし五郎ごろううかがったところ、「きみ先生せんせいである山本やまもと欣作はんがよくご存知ぞんじはずだからおうかがいしてみるがよい」とわれた。大会たいかい翌日よくじつ山本やまもと欽作に戸塚とつか楊心りゅう朽木くちきだおしのわざ要領ようりょういたところただちに実技じつぎおしえてもらった。戸塚とつか楊心りゅう朽木くちきたおせは、相手あいてもうとする瞬間しゅんかん両手りょうて臀部でんぶあたりからひざうら付近ふきんまで真後まうしろにたおわざであった。神田かんだ山本やまもと欽作から寝技ねわざ相当そうとうやるから朽木くちきだおしを自分じぶんわざとしてやれば寝技ねわざ変化へんかすることも容易よういであり、たいつかまずにげるわざがないか空想くうそうなついていたが空想くうそう実現じつげんいちちかづくことができるかもしれないからおおいに研究けんきゅうするようにすすめられた[30]

これをわざにするためやくねんほど熱心ねっしん工夫くふう研究けんきゅう練習れんしゅうしてみたところ、試合しあい使つかえば稽古けいこ以上いじょう効果こうかがあることにづき得意とくいわざの1つとすることめた[31]

講道館こうどうかん嘉納かのう治五郎じごろう朽木くちきたおせについてはなしたところ嘉納かのうもこのわざについてよくっていた。神田かんだ朽木くちきたおせという名前なまえ柔道じゅうどう相応ふさわしくないから双手そうしゅかりとしたいと意見いけんった。嘉納かのう今日きょう道場どうじょう稽古けいこしてせて双手そうしゅかり名称めいしょう相応ふさわしかったら講道館こうどうかんわざとしてみとめるとい、神田かんだ本田ほんだそんとともに双手そうしゅかりすうめいもの稽古けいこ試合しあいをした。実際じっさいよくわざでで今後こんご双手そうしゅかり講道館こうどうかんわざとして採用さいようしようというはなしになり、講道館こうどうかん柔道じゅうどうわざとして1925ねん12月(大正たいしょう14ねん)にみとめられた。


ぞく背負しょ

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1901ねん3がつ18にち明治めいじ34ねん)に神田かんだひょう神保じんぼうまちいち番地ばんちんでいる本所ほんじょ警察けいさつしょ柔術じゅうじゅつ師範しはんやく山本やまもと欽作のいえいちめいぞく侵入しんにゅう懐中時計かいちゅうどけいそのさんてん窃取せっしゅしてろうとした。しかし山本やまもと欽作につかりにしきまちさん丁目ちょうめまでいかけられた。ぞくかえり「なんじいい加減かげんにしないといきめるぞ。」と抵抗ていこうしたので山本やまもと欽作はわらいながらいてさんあいだばかりさき背負投せおいなげたおして気絶きぜつさせかつれて神田かんだ警察けいさつしょ引致いんちした[32]


東京とうきょう大学だいがくでの演武えんぶ

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1883ねん7がつ7にち明治めいじ16ねん東京大学とうきょうだいがく戸塚とつか彦介ひこすけ高弟こうてい招致しょうちされ楊心古流こりゅう演武えんぶ試合しあいおこなわれた。当日とうじつ戸塚とつか彦介ひこすけ戸塚とつか英美ひでみ高弟こうてい毛利もうり釻平・島村しまむらみねきゅう天明てんめい正雄まさお相田あいだ五郎ごろう佐野さのしゅう三郎さぶろう佐野さの清助せいすけ岩崎いわさき秀雄ひでお出席しゅっせきした。また、この演武えんぶかいには山田やまだあらわよし芳川よしかわ顕正けんせい加藤かとう弘之ひろゆき長与ながよ専斎せんさいエルヴィン・フォン・ベルツ観覧かんらんしにていた。

楊心古流こりゅうかた演武えんぶのちみだれ試合しあいおこなわれた。このとき明治めいじ15ねん講道館こうどうかん柔道じゅうどう創始そうしした嘉納かのう治五郎じごろう飛入とびいりで参加さんか佐野さの周三しゅうぞうろう天明てんめい正雄まさお試合しあいおこなったが、嘉納かのうげられてしまったとされる。

藍澤あいざわ勝之かつゆき出版しゅっぱんした『ねりたいかたちほう』によると明治めいじ15~16ねんごろぼうかんにおいて嘉納かのう治五郎じごろう佐野さの周三しゅうぞうろう試合しあいおこないそのころから嘉納かのうもっぱ教授きょうじゅ自任じにんして横山よこやま作次郎さくじろう山下やましたよし戸張とばりたき三郎さぶろうなどの技量ぎりょう輩出はいしゅつしたとしるしている。

エルヴィン・フォン・ベルツの記録きろく

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ドイツで出版しゅっぱんされた『Das Kano Jiu-Jitsu(jiudo)』にエルヴィン・フォン・ベルツが序文じょぶん寄稿きこうしており、そのなか東京とうきょう大学だいがくおこなわれた戸塚とつか彦介ひこすけ演武えんぶかいについてしるされている。

ベルツよると東京とうきょう大学だいがくでの楊心古流こりゅう演武えんぶは、講道館こうどうかん柔道じゅうどう嘉納かのう治五郎じごろう門人もんじん戸塚とつか彦介ひこすけ千葉ちばから招致しょうちすることを大学だいがくにおねがいして実現じつげんしたことであり、このとき大学だいがく講堂こうどうおこなわれた柔術じゅうじゅつだい試合しあいでは東京とうきょう若者わかものたちのなかだれ一人ひとりとして嘉納かのう治五郎じごろうでさえ千葉ちばからたどの警察官けいさつかん戸塚とつか彦介ひこすけ門人もんじん)にたいしてもてきわなかったとしるしている。

石川いしかわ千代松ちよまつ記録きろく

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嘉納かのう治五郎じごろういで講道館こうどうかん柔道じゅうどう天神てんじん楊流をまなんでいた石川いしかわ千代松ちよまつ東京とうきょう大学だいがくでの戸塚とつか彦介ひこすけ演武えんぶかいについて以下いかのようにしるしている。

明治めいじ15ねんごろ一ツ橋ひとつばし大学だいがく講堂こうどう榊原さかきばらという剣術けんじゅつ先生せんせい戸塚とつかりゅう先生せんせい武術ぶじゅつえんじたことがあった。この戸塚とつかりゅうじゅつなにかまわず相手あいて降参こうさんするまでやっつけるというようなあらっぽいやりかたであった。ろう先生せんせいは80さいわか先生せんせい四天王してんのうといったふうよんにん弟子でしれていた。頃合ころあいを大学だいがく濱尾はまお先生せんせい嘉納かのう治五郎じごろうたいしてひと手合てあわせをしてみなさいとすすめられたので嘉納かのう戸塚とつか四天王してんのうなか一番いちばんおおきいもの試合しあいをすることになった。その大男おおおとこ素晴すばらしくつよ嘉納かのう治五郎じごろうがいくらわざけてもけなかった。そのうちおとこ猛然もうぜんいどみかかって嘉納かのう治五郎じごろうきずりまわした。さすがの嘉納かのう治五郎じごろうもこのときは相当そうとうこずったという。試合しあいろう先生せんせいわか先生せんせいくちそろえて嘉納かのう治五郎じごろうめ「学問がくもんをしていらっしゃるほうが、あのようなびぬけてつよおとことやられるとはえらい。」とった[33]

井上いのうえ哲次郎てつじろう記録きろく

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東京とうきょう大学だいがくでの戸塚とつか彦介ひこすけ演武えんぶていた井上いのうえ哲次郎てつじろう自身じしんしるした『懐旧かいきゅうろく]』のなか以下いかのようにしるしている。

明治めいじ12ねんか13ねんであったかおぼえていないが、加藤かとう博士はかせ柔術じゅうじゅつというものを大学だいがくでやらせてみたらどうかというはなしから段々だんだんすすんで大学だいがく講堂こうどうたたみいて柔術じゅうじゅつ先生せんせいまねいた。その先生せんせいもと幕臣ばくしん戸塚とつか彦介ひこすけというひとであった。戸塚とつか当時とうじ千葉ちばけん監獄かんごく教師きょうしをしていた。それをまねいてやらせたが、戸塚とつか自分じぶん弟子でしなな,はちにんれてきて自分じぶん柔術じゅうじゅつかたをやってせた。そのころ戸塚とつかは60さい年配ねんぱいであった。戸塚とつかかたをやってせたのち弟子でし相互そうご取組とりくみをやった。いずれもなかきょうそうな弟子でしたちであった。講堂こうどうには大学だいがく教員きょういんおよ学生がくせい一杯いっぱいていた。戸塚とつか彦介ひこすけ幕末ばくまつこうたけしょ柔術じゅうじゅつをやって最後さいごったひとであるというはなしであり、つまり柔術じゅうじゅつでは当時とうじこのひとおよひとかったというわけである。

その弟子でしみをやっているあいだ大学だいがく学生がくせいなかから着物きものいで道場どうじょうて、その弟子でしたちと取組とりくみをやったものがいた。弟子でしたちもなかなかつよかったとえて、その学生がくせいになってやりった。それが嘉納かのう治五郎じごろうであり、嘉納かのうはそれまで柔術じゅうじゅつをやっていたのでたしかに自身じしんがあったから取組とりくみをやったのである。嘉納かのう治五郎じごろう戸塚とつか彦介ひこすけ弟子でし取組とりくみをやっておおいに苦戦くせんしたことが非常ひじょう刺激しげきとなりついに大成たいせいするようになったとおも[34]

講道館こうどうかん記録きろく

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講道館こうどうかん書籍しょせきによる記録きろくでは、講道館こうどうかん創始そうしまえ柔術じゅうじゅつ修行しゅぎょうちゅう明治めいじ13ねんごろはなしであるとするものと、明治めいじ15ねんごろはなし戸塚とつか四天王してんのうかみわざ浮腰うきごしげてったとするものがある。また、このはなし脚色きゃくしょくした伝記でんきでは大学だいがく講堂こうどう嘉納かのう治五郎じごろう好地こうちえん太郎たろうわざくるしめ、とす直前ちょくぜん試合しあい中止ちゅうしになったとするものもある。

東京とうきょう大学だいがく演武えんぶしたかた

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明治めいじ16ねん11月25にち発行はっこうの『医事いじ新聞しんぶん だいひゃくよんごう』に、東京とうきょう大学だいがく演武えんぶされた楊心古流こりゅうかたち演武えんぶしゃしるされている[35]

おこりあい
ゆびごうそでしゃ腕車わんしゃおび
戸塚とつか英美ひでみ  天明てんめい正雄まさお
衣紋えもんくずれかぶとかいすね押、おびしゃしょうすそかえし、引回、だいころせ
戸塚とつか彦介ひこすけ  毛利もうり釻平
松葉まつばころせしょうかいふく鹿しかいわおせきかべ添、とう曲尺かねじゃくしんしゃ
戸塚とつか英美ひでみ  島村しまむらみねきゅう
行合ゆきあい
小當こあたりしょうかえし紅葉こうようみだれ紋所もんどころそとかけうちかけ、突附、だいとう
戸塚とつか彦介ひこすけ  島村しまむらみねきゅう
とらはしたき落、わき山陰さんいんこう山陰さんいん後山あとやまかげつるぎくらいほん)、うらふうりゅうまえ
戸塚とつか英美ひでみ  毛利もうり釻平
せきとめ電光でんこう、引回、小膝こひざかいいそなみ小車おぐるま、突身、しもふじ
戸塚とつか彦介ひこすけ  島村しまむらみねきゅう
しんくらいかたなべつそでしゃぜんえつくるまつるぎ抜身ぬきみおう太刀だちつりかた
島村しまむらみねきゅう  毛利もうり釻平
かぶとまわり猿猴えんこうだいけんつらぬけせきとめ小車おぐるま龍虎りゅうこ
戸塚とつか彦介ひこすけ  戸塚とつか英美ひでみ
ぎょうななぎょうごう
だい抜、うめおりえだゆびくずし
戸塚とつか英美ひでみ  島村しまむらみねきゅう
獅子奮迅ししふんじん、偕老きゅう小當こあたりかえし
戸塚とつか彦介ひこすけ  毛利もうり釻平
わきしゃ曲尺かねじゃく紅葉こうようらん
毛利もうり釻平  戸塚とつか英美ひでみ
とげまた落、いわおせき、落山嵐やまあらし
戸塚とつか彦介ひこすけ  島村しまむらみねきゅう

エルヴィン・フォン・ベルツと戸塚とつか彦介ひこすけ

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ドイツで出版しゅっぱんされた『Das Kano Jiu-Jitsu(jiudo)』にエルヴィン・フォン・ベルツが序文じょぶん寄稿きこうしており、そのなか戸塚とつか彦介ひこすけについてしるされている。エルヴィン・フォン・ベルツの序文じょぶん山上さんじょう三郎さぶろう編纂へんさんした『碩学せきがくベルツ博士はかせ』や東京とうきょう文理ぶんり大学だいがく名誉めいよ教授きょうじゅ友枝ともえだか講道館こうどうかん機関きかん柔道じゅうどう』に寄稿きこうした「ベルツと柔道じゅうどう」に全文ぜんぶん和訳わやくされている。

ベルツが千葉ちばけん訪問ほうもんしたとき千葉ちば県知事けんちじ船越ふなこしまもる現代げんだい教育きょういくについて意見いけん交換こうかんこころみた。ベルツが上流じょうりゅう階級かいきゅう青少年せいしょうねん体格たいかく貧弱ひんじゃくでスポーツへの関心かんしんすくないことを指摘してきしたところ知事ちじ同感どうかんで「むかしから日本にっぽんでよくおこなわれいた柔術じゅうじゅつというすぐれたじゅつがあるが、現在げんざいではすっかりすたれてかえりみられなくなった。」とって残念ざんねんがっていた[36]。そして、この柔術じゅうじゅつ千葉ちばにおいてのみおこなわれているということであった。戸塚とつかというろう教師きょうし現地げんち警察官けいさつかん指導しどうしていた。この警察官けいさつかんおどろくべき効果こうかげており犯罪はんざいしゃ逮捕たいほするときには柔術じゅうじゅつうところがきわめておおいということであった。

翌日よくじつ千葉ちば県知事けんちじ盛大せいだい演武えんぶかいもよおし、ななじゅうさいえた戸塚とつか彦介ひこすけ柔術じゅうじゅつ原理げんり分析ぶんせきして説明せつめいひとひとつのわざしめしてせた。またベルツはなんじゅうもの試合しあいた。その動作どうさ非常ひじょうおどろくべきもので、危険きけんしぼわざとうわざおこなわれていたがたたかものたちにはすこしもがいがなかった。これをてベルツは学生がくせいたちにとって理想りそうてき体操たいそう形態けいたいであるとおもった。

しかし、東京とうきょうにおいてはめぐまれなかった。このけんについて伝聞でんぶんでしからなかった医学いがく部長ぶちょう大学だいがく文部省もんぶしょう諸氏しょしは、千葉ちば柔術じゅうじゅつたちを東京とうきょう招集しょうしゅうして実演じつえんしてもらうというベルツの提案ていあんをききいれなかった。かれらは学生がくせいたちは勉強べんきょうのに専心せんしんすべきであると主張しゅちょうした。

むかし武装ぶそうしたものたちに対抗たいこうする必要ひつようがあったため正当せいとうされていた武芸ぶげい現代げんだいではなん目的もくてきたなくなった。ベルツの指摘してき無駄むだであり体操たいそう側面そくめんがあるという主張しゅちょうみとめられなかった。しかし、そのあいだにも何人なんにんかの現役げんえきおよび卒業生そつぎょうせい大学だいがく柔術じゅうじゅつまなはじめ、とくわか学者がくしゃである嘉納かのう治五郎じごろう熱心ねっしん柔術じゅうじゅつ修行しゅぎょうしゃとなっていた。嘉納かのう治五郎じごろう仲間なかまたちは千葉ちば柔術じゅうじゅつ大学だいがく招待しょうたいするよう依頼いらいし、ついにこれがれられ大学だいがく講堂こうどうだい規模きぼ演武えんぶかい開催かいさいされた。このとき柔術じゅうじゅつ習得しゅうとくにはどれだけの訓練くんれん必要ひつようかもあきらかとなった。東京とうきょう若者わかものたちのなかだれ一人ひとりとして嘉納かのう治五郎じごろうでさえ、千葉ちばからたどの警察けいさつたいしててきわなかった。

翌日よくじつ戸塚とつか彦介ひこすけもっとすぐれた弟子でし一緒いっしょにベルツのもとをたずねてた。今回こんかいのベルツの尽力じんりょく感謝かんしゃおん一生いっしょうわすれないためにベルツの写真しゃしん所望しょもうした。

ベルツの序文じょぶんには、このとき戸塚とつか彦介ひこすけなみだぐみながらよろこびと感動かんどうなかまえっている姿すがたいまでもるとしるしている。戸塚とつか彦介ひこすけはベルツにたいし「外国がいこくじん日本人にっぽんじんたいして柔術じゅうじゅつについていてくださらねばならないということは、じつ日本人にっぽんじんとしてわたしずかしいとおもいます。しかしわたし大切たいせつ柔術じゅうじゅつがこれでふたたさかんにおこなわれるようになるだろうと確信かくしんしています。これでわたし安心あんしんして冥途めいどへいけるというものです。」とべたとされる[37]


けんやり柔術じゅうじゅつ永続えいぞくしゃ

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けんやり柔術じゅうじゅつ永続えいぞくしゃは、日本にっぽん剣術けんじゅつ槍術そうじゅつ柔術じゅうじゅつ衰微すいびするのをうれいた鷲尾わしおたかし山岡やまおか鉄舟てっしゅう明治めいじ16ねんごろから設立せつりつ構想こうそうし、明治めいじ17ねん8がつ23にち発足ほっそくした武術ぶじゅつ団体だんたいである。東京とうきょう京橋きょうばし明鏡めいきょうかん剣術けんじゅつ槍術そうじゅつ柔術じゅうじゅつおしえていた。

柔術じゅうじゅつ教授きょうじゅかた下記かき師範しはんつとめた[38]


天神てんじん楊流との試合しあい

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渡辺わたなべ一郎いちろう先生せんせい自筆じひつ 近世きんせい武術ぶじゅつ研究けんきゅう資料集しりょうしゅう』に掲載けいさいされた天神てんじん楊流の他流たりゅう試合しあい記録きろくに、楊心りゅう天神てんじん楊流との試合しあいしるされている。天神てんじん楊流の記録きろくではぜん試合しあい勝負しょうぶけ)か戸塚とつか敗北はいぼくとなっている。

よしみながななねん試合しあい

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よしみなが7ねん4がつ6にち(1854ねん)に松平まつだいら甲斐かいもり屋敷やしきおこなわれた楊心りゅう天神てんじん楊流の試合しあいである[39]

楊心りゅう戸塚とつか彦介ひこすけ門人もんじん今田いまだ七郎しちろう道場どうじょう天神てんじん楊流は磯道いそみちじょうである。今田いまだ道場どうじょうからは8にん磯道いそみちじょうから8にんて10くみ、13試合しあいおこなわれた。

試合しあい結果けっかは、勝負しょうぶけ)4、今田いまだ道場どうじょうけ9であった。

安政あんせいよんねん試合しあい

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安政あんせい4ねん(1857ねん)に戸塚とつか彦介ひこすけ道場どうじょうおこなわれた楊心りゅう天神てんじん楊流の試合しあいである[39]。楊心りゅうから5にん天神てんじん楊流から小出こいでこれすけ二人ふたりて6くみ、10試合しあいおこなわれた。

試合しあい結果けっかは、勝負しょうぶ4、まけ6であった。

慶応けいおう元年がんねん試合しあい

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慶応けいおう元年がんねん(1865ねん)におこなわれた楊心りゅう天神てんじん楊流の試合しあいである[39]戸塚とつか彦介ひこすけ門人もんじん天神てんじん楊流で9くみ、20試合しあいおこなわれた。

試合しあい結果けっかまけ20であった。


延岡のべおかはん磯貝いそがい恒久つねひさ鈴木すずきせん左衛門さえもん

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講道館こうどうかん柔道じゅうどうじゅうだん磯貝いそがいはじめちちである磯貝いそがい恒久つねひさ延岡のべおかはん鈴木すずきせん左衛門さえもんより関口せきぐち南蛮なんばんりゅうまなんだ。あるとき鈴木すずきせん左衛門さえもん全国ぜんこく風靡ふうびしていた戸塚とつか楊心りゅう出稽古でげいこはれにしきころも故郷こきょうかざるのに出会であった。血気けっきさかんな磯貝いそがい恒久つねひさ戸塚とつか楊心りゅうまなばないことには師範しはん格式かくしきなしとされたことが面白おもしろくなかったのか、延岡のべおかはんかえってきた鈴木すずき試合しあいいどんだ。

九州きゅうしゅう僻地へきち関口せきぐちりゅう末流ばつりゅうならった磯貝いそがい恒久つねひさと楊心りゅう本格ほんかくてき修行しゅぎょうしてきた鈴木すずきとではだんちがっており、あしはらいかるくすかされて敷居しきいあし骨折こっせつしたとされる。

講道館こうどうかん柔道じゅうどうとの試合しあい

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帝国ていこく尚武しょうぶかい戸塚とつか楊心りゅう

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楊心古流こりゅう目録もくろく前文ぜんぶん

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つていわく、ひとつよしやわら大小だいしょうある。しょうだいやわらごうてきわないが、やわらごうしょうだいてきすることがある。これをすものはじゅつである。このじゅつ武夫たけおまなばなければならないものである。これをまなぶにはかたがありこれに習熟しゅうじゅくする。これを習熟しゅうじゅくするほうがありいちしんしずかにしてあかりよんたいやすらかにしてすみやかにする。これによりしょうよくだいやわよくごうせいする。ゆえにこのじゅつ名付なづけてやわという。ごうだいのものは自然しぜんでありがくもっおよぶべきものではない。じゅつぎょうというものは人事じんじであるのでがくもっいたることができる。いたれば自然しぜんのものにつことができる。ここにおいて手形てがたななじゅう作為さくいし、これにかみ咒をもっ名付なづけて柔術じゅうじゅつ初伝しょでんまきという。門下もんか就学しゅうがくさづける。これに従事じゅうじすればいまだその蘊奥うんおういたらなくてもゆび大略たいりゃくることができる。

大江おおえけいの楊心りゅうとの関係かんけい

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楊心古流こりゅう楊心りゅうから分派ぶんぱした流派りゅうはである。 阿部あべかんやなぎ武貞たけさだ阿部あべ貞右衛門さだえもん武貞たけさだといい豊後ぶんごこく速見はやみぐんつじあいだひとである。三浦みうら貞右衛門さだえもん門弟もんてい豊後ぶんごこく臼杵きゅうしょ家臣かしんであった手島てじまかんやなぎより楊心りゅう柔術じゅうじゅつまなんだ。阿部あべ武貞たけさだは1757ねんたかられき7ねん)に岩国いわくに現在げんざい山口やまぐちけん)にて楊心りゅう柔術じゅうじゅつつた多数たすう門人もんじん育成いくせいした。

手島てじまかんやなぎである三浦みうら貞右衛門さだえもん大江おおえせん兵衛ひょうえ門人もんじんである。また戸塚とつか彦右衛門えもん江上こうじょうかんやなぎ阿部あべ武貞たけさだおいである。

大江おおえけいの楊心りゅうと楊心古流こりゅう系譜けいふ整理せいりすると下記かきのようになる。

  • 大江おおえせん兵衛ひょうえ
  • 三浦みうら貞右衛門さだえもん
  • 手島てじまかんやなぎ
  • 阿部あべ貞右衛門さだえもん武貞たけさだ阿部あべかんやなぎ
  • 江上えがみ司馬しば助武すけたけけい江上こうじょうかんやなぎ
  • 戸塚とつか彦右衛門えもんえいきよし

流派りゅうは内容ないよう

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つて目録もくろくちゅう免許めんきょ免許めんきょ皆伝かいでんとなっている。

かたち双方そうほうっているおこりあい(たちあい)、おたがいがあるいてちがさい攻防こうぼうである行合ゆきあい(ゆきあい)、すわった状態じょうたいからおこな(いどり)のみっつにおおきくけられる。とく楊心りゅうおな名前なまえかたちおおい。ころせほう当身あてみ)は20ほんつたえていた。おこりあいかべ添は、明治めいじごろ警視けいしりゅう柔術じゅうじゅつ採用さいようされている[40]

他流たりゅうおなじく、大刀たち小刀こがたなぬぐい(くさり)などの武器ぶき使用しようしたかたちや、こちらからめてさえる捕手ほしゅじゅつてき技法ぎほうおおられる。

最後さいご伝承でんしょうしゃとされる保立ほたて謙三けんぞうによると、金谷かなやもとろう指導しどうした楊心古流こりゅう乱取らんどりよりかたち中心ちゅうしんであった[21]。また乱取らんどりにおいては当身あてみぎゃくわざ多用たようされた。講道館こうどうかん柔道じゅうどうでいう捨身しゃしんわざいのが楊心古流こりゅう特徴とくちょうであり、また講道館こうどうかん柔道じゅうどうもちいられるこしわざはなかった。

基本きほんくみがたはいまえに「い)」と「もみい」とばれる鍛錬たんれんほうおこなっていた。「」は相手あいておびたがいに両手りょうてった状態じょうたい頑張がんば稽古けいこで、相手あいておさえつけるちからやしなおさえられるほうはそれに抵抗ていこうするちからやしなう。「」では左手ひだりてひだりえり右手みぎておびる「大鎌おおがま」、おびみぎそでる「小鎌おがも」、に「あいり」、「り」などのかたがあった。相撲すもうぶつかり稽古けいこちかいものであった。「もみい」はなにでもいいから相手あいてげる稽古けいこであった。わざらない初心者しょしんしゃでも十分じゅうぶんってからだをほぐしてから乱取らんどりはいった。

乱取らんどり勝負しょうぶというよりわざ稽古けいこ主体しゅたいであり、このときからださばきやこぶし手刀てがたな熊手くまでなどじゅう種類しゅるいほどの攻撃こうげき手形てがたなどを部分ぶぶんてきおそわる。

かたち稽古けいこもっと基本きほんとなるものでおこりあい行合ゆきあいからなりひょう,うら,うらうらがあった。おこりあいだけでもひょう,うら,うらうらで72ほんかたちがあった。かたち稽古けいこでは、ちをれるって型通かたどおりではなく変化へんかはいってくるものであった。楊心古流こりゅうではかたち型通かたどおりではなくぎゃく乱取らんどりかたち一部いちぶであった。かたちわざではなくわざおくにあるものがかたちでありわざ根本こんぽんおしえるものであるとしている。

うらわざとしてぼうつえ太刀たちじゅう捕縄とりなわくさりなど様々さまざま武器ぶきがあった。

おこりあい 22ほん
ゆび手車てぐるまごうそでしゃ腕車わんしゃおび引、衣紋えもんくずれかぶとまわりすね押、おびしゃしょうすそかえし、引廻、だいころせ松葉まつばころせしょうまわりふく鹿しかいわおせきかべ添、とう曲尺かねじゃくしんしゃ
行合ゆきあい 29ほん
小當こあたりしょうかえし紅葉こうようみだれ紋所もんどころそとかけうちかけ、突附、だいとうとらはしたき落、わき山陰さんいんこう山陰さんいん後山あとやまかげつるぎくらいうらふうりゅうまえせきとめ電光でんこう、引廻、小膝こひざまわりこうかえし磯之いそのなみ小車おぐるまつきしもふじ
 21ほん
しんくらい當別とうべつそでしゃぜんえつくるまつるぎ抜身ぬきみおう太刀だちつりけんかぶとまわりこめ猿猴えんこうだいけんつらぬけたまかすみせきとめ、樊噲、樊噲搦、突子、かたなばく小車おぐるま龍虎りゅうこ
口伝くでんこと
見分けんぶんがた 5ほん
ちゅう免許めんきょ口伝くでんこと
こう上手じょうずがた 7ほん
免許めんきょ口傳くでんこと[41]
ころせほう 20ほん当身あてみ
かつほう 8ほん

系譜けいふ

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れいとして一部いちぶ系譜けいふ以下いかしめす。戸塚とつか彦介ひこすけにはすうおおくの門人もんじんがいたが、ここではだいさんだいつづいた系統けいとうのみを記載きさいする。

戸塚とつか彦介ひこすけは20だいからやく50年間ねんかんにわたり柔術じゅうじゅつ指南しなんをしており、幕末ばくまつ沼津ぬまづはん江戸えど明治維新めいじいしん千葉ちば東京とうきょうなどで多数たすう門人もんじんそだてた。おな戸塚とつか彦介ひこすけ門人もんじんでも入門にゅうもん時期じきによって世代せだいちがい、いちれいげると幕末ばくまつ沼津ぬまづはん時代じだい弟子でしである柏崎かしわざき又四郎またしろう明治維新めいじいしん千葉ちばけん教授きょうじゅした晩年ばんねん弟子でしである山本やまもと欽作は30さいがあった。これにより戸塚とつか楊心りゅう実力じつりょくしゃである四天王してんのう時代じだいによってことなっていた。

戸塚とつか彦右衛門えもんは楊心古流こりゅうはちせい師範しはんとされている。

戸塚とつか彦介ひこすけ門弟もんてい

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戸塚とつか彦介ひこすけくなったときてられた門弟もんていには、皆伝かいでん免許めんきょちゅう免許めんきょ目録もくろくけい118にん名前なまえしるされている。免許皆伝めんきょかいでん継承けいしょうしゃ戸塚とつか英美ひでみだけである。

免許めんきょ門人もんじんには、こうたけしょ師範しはん片山かたやまわたる次郎じろう沼津ぬまづはん山口やまぐち雄次郎ゆうじろう毛利もうり釩平、都筑つづきひろ沼津ぬまづはん柔術じゅうじゅつ師範しはんをしていた柏崎かしわざきまた士郎しろう藍澤あいざわ勝之かつゆき昭和しょうわごろまでつづ系統けいとうつたえた今田いまだ七郎しちろうしんちょうぐみ中川なかがわはじめ柔術じゅうじゅつかかわる多数たすう書物しょもつしるした佐賀さがはん石井いしいまた左衛門さえもんなどがいた。

ちゅう免許めんきょには島村しまむらみね芎、天明てんめい正雄まさお照島てるしま太郎たろう佐野さのしゅう三郎さぶろう西村にしむらじょうちゅうなどがいた。

目録もくろくには剣術けんじゅつこうたけしょ柔術じゅうじゅつ乱取らんどり世話ぜわ心得こころえつとめた中條ちゅうじょうけいあきらもりこうぞう明治めいじ時代じだい多数たすう道場どうじょうっていた大竹おおたけ森吉もりよし戸塚とつか四天王してんのう殉職じゅんしょくした鈴木すずき清助せいすけ講道館こうどうかんとの試合しあい有名ゆうめい好地こうちえん太郎たろうなどがいる。

免許めんきょ

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戸塚とつか彦介ひこすけ門弟もんていしるされている免許めんきょ門人もんじん22めいである。

幕府ばくふ旗本はたもと
片山かたやまわたる次郎じろう仁賀保にかほけんひらめ加藤かとう又蔵またぞう杉原すぎはらかなえ
菊間きくまはんきゅう沼津ぬまづはん
山口やまぐち雄次郎ゆうじろう毛利もうり釩平、柏崎かしわざきまた士郎しろう都筑つづきひろ藍澤あいざわ勝之かつゆき
延岡のべおかはん
大平おおひら彦六、大平おおひら長蔵ちょうぞう
牛久うしくはん
藤井ふじい勇平ゆうへい
丸亀まるがめはん
中村なかむら富貴ふきこれすけ
庄内しょうないはん
中川なかがわはじめ
久留くるべいはん
廣瀬ひろせ𨭬
中村なかむらはん
田中たなか忠司ただし
郡山こおりやまはん
今田いまだ七郎しちろう正儀まさよし
佐賀さがはん
石井いしいまた左衛門さえもん忠真ただざね
新宮しんぐうはん
鈴木すずき孫八まごはちろうもと延岡のべおかはんひと
西尾にしおはん
阪田さかた平一郎へいいちろう
江戸えど市民しみん
星野ほしの重三郎しげさぶろう後藤ごとう兵三ひょうぞうろう

戸塚とつか彦介ひこすけ門人もんじん

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戸塚とつか彦介ひこすけから柔術じゅうじゅつまなんだ人物じんぶつ列挙れっきょする。

小原おはらさんいちろう小熊こぐま兵次へいじろう勝呂かつろ八平はちへい山本やまもとつたえはち小高おだか亀太郎かめたろう毛利もうり釩之すけ毛利もうり釩平)、山口やまぐち雄次郎ゆうじろう柏崎かしわざき甚平じんべい富山とやまえん石井いしいまた左衛門さえもん忠真ただざね久富ひさとみ鉄太郎てつたろう渋川しぶかわりゅう師範しはん)、天明てんめい正雄まさお横倉よこくらさん中川なかがわはじめしんちょうぐみたい)、篠原しのはら泰之やすゆきすすむ新選しんせんぐみたい)、田中たなか忠司ただし照島てるしま太郎たろう好地こうちえん太郎たろう西村にしむらじょうちゅう鈴木すずき清助せいすけ戸塚とつか四天王してんのう)、松岡まつおか克之かつゆきすけ神道しんとうあげしんりゅうひらく)、立川たちかわせん兵衛ひょうえ浅井あさい寿ことぶきあつし岩田いわた忠一ただかず黒澤くろさわ忠正ただまさ小幡おばたしげるふとし神道しんとう楊心りゅう移籍いせきする)、前田まえだたけたかし真之まさゆき神道しんとうりゅう師範しはん)、村雨むらさめ案山子かかし政治せいじ)、疋田ひきた元治もとはる三浦みうらとおる牧師ぼくし

史跡しせき

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江上えがみ司馬しば助武すけたけけいはか
妙善寺みょうぜんじ東京とうきょうみなと西麻布にしあざぶさん丁目ちょうめ)にある江上こうじょうかんやなぎはか
戸塚とつか彦右衛門えもんはか門弟もんてい
延命えんめいいん東京とうきょうみなと南麻布みなみあざぶ)にある戸塚とつか彦右衛門えもんはかである。
門弟もんていには戸塚とつか彦右衛門えもん門人もんじん957にんのうち、皆伝かいでん1めい浅井あさいまさるみぎ衛門えもん)・免許めんきょ17めい目録もくろく60めい名前なまえしるされている[42]
戸塚とつか彦介ひこすけ,戸塚とつか英美ひでみはか門弟もんてい
たねじゅうてら千葉ちばけん千葉ちば中央ちゅうおう市場しじょうまち)にある戸塚とつか彦介ひこすけ戸塚とつか英美ひでみはかおよ門弟もんていである。1943ねん8がつ27にち昭和しょうわ18ねん千葉ちばけん指定してい史跡しせきとなった。
門弟もんていには戸塚とつか彦介ひこすけ門人もんじん3000にんのうち皆伝かいでん1めい戸塚とつか英美ひでみ)・免許めんきょ22めいちゅう免許めんきょ29めい目録もくろく66めいけい118めいしるされている[43]
今田いまだ七郎しちろう正儀まさきはか 
多磨たま霊園れいえん
鈴木すずき巡査じゅんさ部長ぶちょう顕彰けんしょう
のべ覚寺かくじ千葉ちばけん佐倉さくら市内しない新町しんまち)にある鈴木すずき清助せいすけ顕彰けんしょう。このいしぶみ総理そうり大臣だいじん山縣やまがた有朋ありともふでによるものであり、重傷じゅうしょういながら拳銃けんじゅうった襲撃しゅうげきはん捕縛ほばくした功績こうせきによりてられた。
千葉ちばけん巡査じゅんさ鈴木すずき清助せいすけ殉職じゅんしょく
千葉ちばけん千葉ちば若葉わかば西都賀にしつが2丁目ちょうめ夫婦ふうふざかにある鈴木すずき清助せいすけ殉職じゅんしょく現在げんざい千葉ちばひがししょ千葉ちばひがし地区ちく警友かい合同ごうどう慰霊いれいさいおこなっている。

年表ねんぴょう

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1748ねん
江上こうじょうかんやなぎ豊後ぶんごこくまれる。
1755ねんたかられき5ねん
江上こうじょうかんやなぎちちつみにより切腹せっぷく一家いっか離散りさんする。
1757ねんたかられき7ねん
阿部あべかんやなぎ豊後ぶんごこく日出にっしゅつから岩国いわくにて楊心りゅうつたえる。
1763ねん
戸塚とつか彦右衛門えもんまれる。
1768ねん明和めいわ5ねん
江上こうじょうかんやなぎ豊後ぶんごよりのぼる。
1795ねん
江上こうじょうかんやなぎ死去しきょ
1813ねん
戸塚とつか彦介ひこすけまれる。
1820ねん
毛利もうり釩之すけまれる。
1824ねん
横倉よこくらさんまれる。
1828ねん
篠原しのはら泰之やすゆきすすむまれる。
今田いまだ七郎しちろうまれる
1830ねん
戸塚とつか彦介ひこすけ駿河するがこく沼津ぬまづはんつかえる。
1832ねん
柏崎かしわざき又四郎またしろうまれる。
1837ねん
戸塚とつか彦右衛門えもん死去しきょにより戸塚とつか彦介ひこすけぐ。
1840ねん
藍澤あいざわ重次郎しげじろうまれる。
1850ねん
照島てるしま太郎たろうまれる。
1854ねんよしみなが7ねん
松平まつだいら甲斐かいもり屋敷やしき今田いまだ七郎しちろう道場どうじょう天神てんじん楊流は磯道いそみちじょう試合しあい
1855ねん
大竹おおたけ森吉もりよしまれる。
1860ねん
戸塚とつか彦介ひこすけ幕府ばくふこうたけしょ柔術じゅうじゅつ教授きょうじゅかたとなる。
1860ねん
鈴木すずき清助せいすけまれる。
1862ねん
山本やまもと欽作、まれる。
1868ねん明治めいじ元年がんねん
沼津ぬまづはん上総かずさこく菊間きくまはんてんふうする。戸塚とつか彦介ひこすけ千葉ちば移住いじゅう
石井いしいまた左衛門さえもん戊辰戦争ぼしんせんそう戦死せんし
1870ねん明治めいじ3ねん
戸塚とつか英美ひでみ、フランスしきみさおねり伝習でんしゅうのため浜町はまちょう沼津ぬまづ藩邸はんていから通学つうがく
1876ねん明治めいじねん
藍澤あいざわ勝之かつゆき山岡やまおか鉄舟てっしゅう推薦すいせん宮家みやけ家扶かふとなる。
久富ひさとみ鉄太郎てつたろう上京じょうきょう東京とうきょう市内しない柔術じゅうじゅつ状況じょうきょう調しらべたがどこもやっていなかった。
深井ふかい子之吉ねのきちまれる。
1877ねん明治めいじ10ねん
金谷かなやもとろうまれる。
1879ねん明治めいじ12ねん
久富ひさとみ鉄太郎てつたろう警視庁けいしちょう柔術じゅうじゅつ教授きょうじゅ開始かいし
藍澤あいざわ勝之かつゆき千葉ちば県警けんけい警部けいぶとなる。
1880ねん明治めいじ13ねん
上野うえのはちじゅうきちまれる。
1881ねん明治めいじ14ねん
戸塚とつか彦介ひこすけ千葉ちば寒川さむかわむら隠居いんきょする。
1883ねん明治めいじ16ねん
山本やまもと欽作、戸塚とつか彦介ひこすけ入門にゅうもん
戸塚とつか彦介ひこすけ東京とうきょう大学だいがく演武えんぶ佐野さのしゅう三郎さぶろう天明てんめい正雄まさお嘉納かのう治五郎じごろう試合しあいする。
1883ねん明治めいじ17ねん
戸塚とつか彦介ひこすけけんやり柔術じゅうじゅつ永続えいぞくしゃ柔術じゅうじゅつ教授きょうじゅかたとなる。
1885ねん明治めいじ18ねん
山本やまもと欣作、千葉ちば監獄かんごく看守かんしゅとなる。
1886ねん明治めいじ19ねん
戸塚とつか彦介ひこすけ死去しきょ
大竹おおたけ森吉もりよし東京とうきょう本所ほんじょ相生あいおいまち道場どうじょう開設かいせつ
大竹おおたけ森吉もりよし警視庁けいしちょう柔術じゅうじゅつ世話ぜわがかりとなる。
1888ねん明治めいじ21ねん
山本やまもと欽作、戸塚とつか英美ひでみより免許皆伝めんきょかいでん千葉ちば監獄かんごく看守かんしゅちょう代理だいりとなる。
大竹おおたけ森吉もりよし日本橋にほんばし浜町はまちょう道場どうじょう設立せつりつ
1889ねん明治めいじ22ねん
山本やまもと欽作、警視庁けいしちょう柔術じゅうじゅつ世話ぜわがかりとなる。
1890ねん明治めいじ23ねん
山本やまもと欽作、東京とうきょう法学ほうがくいん入学にゅうがく
1892ねん明治めいじ25ねん
山本やまもと欽作、田辺たなべ又右衛門またえもん試合しあい
1894ねん明治めいじ27ねん
大竹おおたけ森吉もりよし日本橋にほんばし浜町はまちょう1丁目ちょうめ道場どうじょう新築しんちく戸塚とつか英美ひでみ西村にしむらじょうちゅう演武えんぶする。
1895ねん明治めいじ28ねん
金谷かなやもとろう今田いまだ七郎しちろう正儀まさき入門にゅうもん
山本やまもと欽作、海軍かいぐん予備よび学校がっこう柔術じゅうじゅつ教授きょうじゅとなる。
1897ねん明治めいじ30ねん
上野うえのはちじゅうきち大木おおきともぞう入門にゅうもん
大竹おおたけ森吉もりよし千葉ちばけん千葉ちばまち寒川さむかわ道場どうじょう設立せつりつ
1898ねん明治めいじ31ねん
久富ひさとみ鉄太郎てつたろう死去しきょ
1900ねん明治めいじ33ねん
上野うえの八十やそよし 大竹おおたけ森吉もりよし入門にゅうもん
大竹おおたけ森吉もりよし千葉ちば寒川さむかわ住居じゅうきょうつす。
深井ふかい子之吉ねのきち浅草あさくさ田中たなかまち練武れんぶかん開設かいせつ
1901ねん明治めいじ34ねん
金谷かなやもとろう今田いまだ七郎しちろうより免許皆伝めんきょかいでん
1902ねん明治めいじ35ねん
今田いまだ七郎しちろう死去しきょ
山本やまもと欽作、おさむだま社中しゃちゅう学校がっこう柔術じゅうじゅつ教授きょうじゅとなる。
山本やまもと欽作、本所ほんじょ相生あいおいまち3丁目ちょうめ24番地ばんちこうたけかん開設かいせつ
1903ねん明治めいじ36ねん
藍澤あいざわ勝之かつゆき、『ねりたいかたちほう』を出版しゅっぱん
大竹おおたけ森吉もりよし日本橋にほんばし浜町はまちょう2丁目ちょうめ道場どうじょう開設かいせつ
1904ねん明治めいじ37ねん
竹田たけだ常次郎つねじろう大竹おおたけ森吉もりよし入門にゅうもん
鈴木すずき三郎さぶろうまれる。
1906ねん明治めいじ39ねん
上野うえのはちじゅうきち下谷しもたにだい練武れんぶかん開設かいせつ
高橋たかはし喜三郎きさぶろう日比谷公園ひびやこうえんおこなわれた英国えいこく艦隊かんたい歓迎かんげい柔術じゅうじゅつ試合しあい優勝ゆうしょう
1908ねん明治めいじ41ねん
戸塚とつか英美ひでみ死去しきょ
1909ねん明治めいじ42ねん
亀崎かめざき忠一ただかず通行人つうこうにん妨害ぼうがいにより警察けいさつつかまる。
竹田たけだ常次郎つねじろう大竹おおたけ森吉もりよしより免許皆伝めんきょかいでん
1910ねん明治めいじ43ねん
深井ふかい子之吉ねのきち帝國ていこく尚武しょうぶかい実習じっしゅう主任しゅにんとなる。
1911ねん明治めいじ44ねん)
深井ふかい子之吉ねのきち帝国ていこく尚武しょうぶかいより柔術じゅうじゅつ教授きょうじゅしょ奥秘おうひりゅうまき』『奥秘おうひとらまき』を出版しゅっぱん
1913ねん大正たいしょうねん
金谷かなやもとろう麻布まふかさまち修道しゅうどうかん開設かいせつ
1924ねん大正たいしょう13ねん
竹田たけだ常次郎つねじろう東京とうきょうきた豊島としまぐん岩淵いわふちまち稲村いなむら道場どうじょう開設かいせつ
1925ねん大正たいしょう14ねん
戸塚とつか楊心りゅう朽木くちきだおしが双手そうしゅかりという名称めいしょう講道館こうどうかんわざとして採用さいようされる。
1926ねん大正たいしょう15ねん
金谷かなやもとろうだい日本にっぽん武徳ぶとくかい柔道じゅうどうきょうとなる。
保立ほたて謙三けんぞうまれる。
1930ねん昭和しょうわねん
大竹おおたけ森吉もりよし死去しきょ
1937ねん昭和しょうわ12ねん
金谷かなやもとろうだい日本にっぽん武徳ぶとくかい柔道じゅうどうはんとなる。
1942ねん昭和しょうわ17ねん
上野うえのはちじゅうきち死去しきょ
1943ねん昭和しょうわ18ねん
戸塚とつか彦介ひこすけ戸塚とつか英美ひでみはか千葉ちばけん指定してい史跡しせきとなる。
1945ねん昭和しょうわ20ねん
深井ふかい子之吉ねのきち死去しきょ
1949ねん昭和しょうわ24ねん
保立ほたて謙三けんぞう金谷かなやもとろう入門にゅうもん
1953ねん昭和しょうわ28ねん
保立ほたて謙三けんぞう金谷かなやもとろうより免許皆伝めんきょかいでん
1997ねん平成へいせい9ねん
雑誌ざっし月刊げっかん空手からてどう別冊べっさつ 極意ごくい』に保立ほたて謙三けんぞうの楊心古流こりゅう特集とくしゅうされる。


脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 藍澤あいざわ勝之かつゆきによると明治めいじ16ねんごろ(1883ねん)より警視庁けいしちょうではさかんに柔術じゅうじゅつ訓練くんれんおこなわれるようになっており当時とうじ久留くるべいはん中村なかむらなかばすけ上原うえはら庄吾しょうご太田おおたなどが四谷よつや警察けいさつしょ柔術じゅうじゅつえんじると戸塚とつか英美ひでみとも上京じょうきょうして試合しあいおこなったとしるしている。試合しあいはこのときおこなわれたものとかんがえられる。
  2. ^ 安政あんせい6ねん久留くるべいはんうつり心頭しんとうりゅう 下坂しもさか五郎ごろう兵衛ひょうえ門人もんじんとして天神てんじん楊と試合しあいをしており、天神てんじん楊流の強豪きょうごうのち嘉納かのう治五郎じごろうとなる福田ふくだはちこれすけけている。明治めいじ以降いこう警視庁けいしちょう武術ぶじゅつ世話ぜわかけとなり、横山よこやま作次郎さくじろう中村なかむらなかばすけ山下やましたよし田辺たなべ又右衛門またえもんひとし試合しあい審判しんぱんつとめた。
  3. ^ 沼津ぬまづはん出身しゅっしん牧師ぼくしで楊心古流こりゅうまなんでいた三浦みうらとおる手記しゅき続続ぞくぞくはじ』に友人ゆうじんなおむらてんという人物じんぶつてくる。なおむらてんちち朽木くちきはんじきむらさかえ左衛門さえもんでありおこりたおせりゅう柔術じゅうじゅつ達人たつじんであったという。1860ねん江戸えど死去しきょ高輪たかなわ泉岳寺せんがくじはかがある。
  4. ^ 随身ずいじんとは国元くにもと初心しょしんより流派りゅうはおさめ、江戸えど在勤ざいきんとう都合つごうにより客分きゃくぶんとして他流たりゅう道場どうじょうかようことをいう

出典しゅってん

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  2. ^ a b 松岡まつおか龍雄たつおVS藤原ふじわらりょうさん(ニ)」、『近代きんだい空手からて』1985ねん9がつごう ベースボールマガジンしゃ
  3. ^ 藤原ふじわらりょうさん神道しんとうあげしんりゅう歴史れきし技法ぎほう創造そうぞう、1983ねん
  4. ^ 松岡まつおか龍雄たつおVS藤原ふじわらりょうさんさん)」、『近代きんだい空手からて』1985ねん10がつごう ベースボールマガジンしゃ
  5. ^ a b 深井ふかい子之吉ねのきちちょ奥秘おうひりゅうまき帝國ていこく尚武しょうぶかい、1911ねん
  6. ^ 久富ひさとみ鉄太郎てつたろう ちょ普通ふつう乱取らんどり心得こころえ久富ひさとみ鉄太郎てつたろう、1891ねん
  7. ^ 明治めいじ学院がくいんひゃくねん委員いいんかい へん明治めいじ学院がくいん資料集しりょうしゅう だい9しゅう明治めいじ学院がくいんひゃくねん委員いいんかい、1982ねん
  8. ^ a b c d 明治めいじ学院がくいんひゃくねん委員いいんかい へん明治めいじ学院がくいん資料集しりょうしゅう だい10しゅう明治めいじ学院がくいんひゃくねん委員いいんかい、1984ねん
  9. ^ 明治めいじ学院がくいんひゃくねん委員いいんかい へん明治めいじ学院がくいん資料集しりょうしゅう だい8しゅう明治めいじ学院がくいんひゃくねん委員いいんかい、1978ねん
  10. ^ 深井ふかい子之吉ねのきちちょ奥秘おうひりゅうまき帝國ていこく尚武しょうぶかい、1911ねん
  11. ^ a b 静岡しずおかけん駿東すんとうぐん役所やくしょ へん静岡しずおかけん駿東すんとうぐん静岡しずおかけん駿東すんとうぐん役所やくしょ、1917ねん
  12. ^ 久富ひさとみ太郎たろう柔道じゅうどうだん」、『陽明学ようめいがく 五拾ごじっよんごう』1898ねん7がつ,鐡華書院しょいん
  13. ^ a b 井口いぐち松之助まつのすけ ちょ柔術じゅうじゅつ生理せいりしょさきがけ棲、1896ねん
  14. ^ 藍澤あいざわ勝之かつゆき ちょねりたいかたちほう藍澤あいざわ勝之かつゆき、1903ねん
  15. ^ 杉山すぎやましげるまる ちょひゃくだい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい、1926ねん
  16. ^ 千葉県警察彰功会 へん千葉県殉難警察官彰功録千葉ちば県警けんけい察彰こうかい、1928ねん
  17. ^ 産経新聞さんけいしんぶん功績こうせきたたえなか黙祷もくとう 明治めいじ殉職じゅんしょく鈴木すずき巡査じゅんさ合同ごうどう慰霊いれいさい」2016ねん9がつ14にち
  18. ^ しん佐倉さくら真佐子まさこつくかいしん佐倉さくら真佐子まさこ 佐倉さくらちゃあいだ風土記ふどきしん佐倉さくら真佐子まさこつくかい、1979ねん3がつ
  19. ^ 警察けいさつ思潮しちょう編輯へんしゅうきょく捜査そうさ資料しりょう 犯罪はんざい実話じつわしゅうまつはなどう書店しょてん、1932ねん
  20. ^ a b 鈴木すずき清助せいすけ履歴りれき」,『警察けいさつ監獄かんごく学会がっかい雑誌ざっし だいななごう』1890ねん,p29,警察けいさつ監獄かんごく学会がっかい
  21. ^ a b 講道館こうどうかん最大さいだいのライバル〃戸塚とつか楊心りゅう実像じつぞうもとめて」,『月刊げっかん空手からてどう別冊べっさつ 極意ごくい』1997ねんはるごう, p22,ぶくあきらどう
  22. ^ 磯部いそべうつつぎ千葉ちばの楊心りゅう」,『柔道じゅうどう だいよんじゅうかん だいごう』1974ねん2がつ,p16,講道館こうどうかん
  23. ^ 磯辺いそべうつつぎ柔道じゅうどう」,『LA international』1999ねん5がつ,だい36かんだい6ごう通巻つうかん477ごう, p90,国際こくさい評論ひょうろんしゃ
  24. ^ 読売新聞よみうりしんぶん勇士ゆうし酒保しゅほとなりて従軍じゅうぐんす」1894ねん12月3にち
  25. ^ 松下まつした芳男よしお へんやまむらさきみずきよ仙台せんだい陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこうせんようかい、1973ねん
  26. ^ 多田おおた書店しょてん編纂へんさん へん房総ぼうそう町村ちょうそん人物じんぶつ多田ただ書店しょてん、1918ねん
  27. ^ 朝日新聞あさひしんぶん柔術じゅうじゅつ道場どうじょう開始かいし」1902ねん12月12にち朝刊ちょうかんねん
  28. ^ a b 神田かんだ久太郎きゅうたろう巨人きょじんたいする技術ぎじゅつ研究けんきゅう」,『柔道じゅうどう だいじゅうはちかん だいごう』1957ねん5がつ,p40,講道館こうどうかん
  29. ^ 神田かんだ久太郎きゅうたろうわたし肩車かたぐるま」,『柔道じゅうどう だいじゅうきゅうかん だいさんごう』1948ねん2がつ,p16,講道館こうどうかん
  30. ^ 神田かんだ久太郎きゅうたろう双手そうしゅかりについて」,『柔道じゅうどう だいよんじゅうかん だいよんごう』1969ねん4がつ,p11,講道館こうどうかん
  31. ^ 神田かんだ久太郎きゅうたろうあせなみだ」,『柔道じゅうどう だいさんじゅうはちかん だいさんごう』1967ねん3がつ,p28,講道館こうどうかん
  32. ^ 朝日新聞あさひしんぶん柔術じゅうじゅつぞく背負投せおいなげにす」1901ねん3がつ19にち朝刊ちょうかん
  33. ^ 石川いしかわ千代松ちよまつ全集ぜんしゅう刊行かんこうかい へん石川いしかわ千代松ちよまつ全集ぜんしゅう 4きょうぶんしゃ、1936ねん
  34. ^ 井上いのうえ哲次郎てつじろう ちょ懐旧かいきゅうろく春秋しゅんじゅうしゃ松柏しょうはくかん、1943ねん
  35. ^ 医事いじ新聞しんぶんしゃ へん医事いじ新聞しんぶん だいひゃくよんごう医事いじ新聞しんぶんしゃ、1883ねん
  36. ^ 山上さんじょう三郎さぶろう へん碩学せきがくベルツ博士はかせさんきんニュース編輯へんしゅう、1939ねん
  37. ^ 友枝ともえだか彦「ベルツと柔道じゅうどう」,『柔道じゅうどう だいじゅうさんかん だいいちごう』1942ねん1がつ,p2,講道館こうどうかん
  38. ^ 山下やましたもとおさむ ちょ明治めいじ剣術けんじゅつ 鉄舟てっしゅう警視庁けいしちょう榊原さかきばら新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1980ねん
  39. ^ a b c 渡辺わたなべ一郎いちろう先生せんせいしのかい へん渡辺わたなべ一郎いちろう先生せんせい自筆じひつ 近世きんせい武術ぶじゅつ研究けんきゅう資料集しりょうしゅう前田まえだ印刷いんさつ、2012ねん
  40. ^ 井口いぐち松之助まつのすけ ちょ早縄はやなわかつほう柔術じゅうじゅつ練習れんしゅう圖解ずかい いちめい警視けいし拳法けんぽうさきがけ棲、1898ねん
  41. ^ 藤原ふじわらりょうさん ちょ格闘技かくとうぎ歴史れきしスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、1990ねん
  42. ^ 千葉ちば日報にっぽう彦九郎ひこくろう房総ぼうそう拾遺しゅうい〈1〉江戸えどりゅう柔術じゅうじゅつ行方ゆくえ①」1987ねん8がつ29にち
  43. ^ 千葉ちば日報にっぽう彦九郎ひこくろう房総ぼうそう拾遺しゅうい〈2〉江戸えどりゅう柔術じゅうじゅつ行方ゆくえ②」1987ねん9がつ3にち


参考さんこう文献ぶんけん

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  • 鈴木すずき清助せいすけ履歴りれき」,『警察けいさつ監獄かんごく学会がっかい雑誌ざっし だいななごう』1890ねん,p29,警察けいさつ監獄かんごく学会がっかい
  • 久富ひさとみ太郎たろう柔道じゅうどうだん」、『陽明学ようめいがく 五拾ごじっよんごう』1898ねん7がつ,鐡華書院しょいん
  • 神田かんだ久太郎きゅうたろうわたし肩車かたぐるま」,『柔道じゅうどう だいじゅうきゅうかん だいさんごう』1948ねん2がつ,p16,講道館こうどうかん
  • 神田かんだ久太郎きゅうたろう巨人きょじんたいする技術ぎじゅつ研究けんきゅう」,『柔道じゅうどう だいじゅうはちかん だいごう』1957ねん5がつ,p40,講道館こうどうかん
  • 神田かんだ久太郎きゅうたろうあせなみだ」,『柔道じゅうどう だいさんじゅうはちかん だいさんごう』1967ねん3がつ,p28,講道館こうどうかん
  • 神田かんだ久太郎きゅうたろう双手そうしゅかりについて」,『柔道じゅうどう だいよんじゅうかん だいよんごう』1969ねん4がつ,p11,講道館こうどうかん
  • 磯部いそべうつつぎ千葉ちばの楊心りゅう」,『柔道じゅうどう だいよんじゅうかん だいごう』1974ねん2がつ,p16,講道館こうどうかん
  • 友枝ともえだか彦「ベルツと柔道じゅうどう」,『柔道じゅうどう だいじゅうさんかん だいいちごう』1942ねん1がつ,p2,講道館こうどうかん
  • 講道館こうどうかん最大さいだいのライバル〃戸塚とつか楊心りゅう実像じつぞうもとめて」,『月刊げっかん空手からてどう別冊べっさつ 極意ごくい』1997ねんはるごう, p22,ぶくあきらどう
  • 帯刀たてわきさとし水戸みとだいさん高校こうこう"やわら"クラブの技法ぎほう」,『月刊げっかん秘伝ひでん』2016ねん12がつごう,p108,BABジャパン
  • 松岡まつおか龍雄たつおVS藤原ふじわらりょうさんいち)」、『近代きんだい空手からて』1985ねん8がつごう,ベースボールマガジンしゃ
  • 松岡まつおか龍雄たつおVS藤原ふじわらりょうさん(ニ)」、『近代きんだい空手からて』1985ねん9がつごう,ベースボールマガジンしゃ
  • 松岡まつおか龍雄たつおVS藤原ふじわらりょうさんさん)」、『近代きんだい空手からて』1985ねん10がつごう,ベースボールマガジンしゃ
  • 松岡まつおか龍雄たつおVS藤原ふじわらりょうさんよん)」、『近代きんだい空手からて』1985ねん11がつごう,ベースボールマガジンしゃ
  • 松岡まつおか龍雄たつおVS藤原ふじわらりょうさん)」、『近代きんだい空手からて』1985ねん12がつごう,ベースボールマガジンしゃ
  • 松岡まつおか龍雄たつおVS藤原ふじわらりょうさん最終さいしゅうかい)」、『近代きんだい空手からて』1986ねん1がつごう,ベースボールマガジンしゃ
  • 磯辺いそべうつつぎ柔道じゅうどう」,『LA international』1999ねん5がつ,だい36かんだい6ごう通巻つうかん477ごう, p90,国際こくさい評論ひょうろんしゃ
  • 読売新聞よみうりしんぶん勇士ゆうし酒保しゅほとなりて従軍じゅうぐんす」1894ねん12月3にち
  • 読売新聞よみうりしんぶん柔術じゅうじゅつしゃ死去しきょ」1886ねん4がつ17にち朝刊ちょうかん
  • 朝日新聞あさひしんぶん柔術じゅうじゅつぞく背負投せおいなげにす」1901ねん3がつ19にち朝刊ちょうかん
  • 朝日新聞あさひしんぶん柔術じゅうじゅつ道場どうじょう開始かいし」1902ねん12月12にち朝刊ちょうかん
  • 日本にっぽん警察けいさつ新聞しんぶん千葉ちば」1911ねん6がつ20日はつか
  • 日本にっぽん警察けいさつ新聞しんぶん千葉県殉難警察官吏招魂祭」1920ねん7がつ15にち
  • 千葉ちば日報にっぽう彦九郎ひこくろう房総ぼうそう拾遺しゅうい〈1〉江戸えどりゅう柔術じゅうじゅつ行方ゆくえ①」1987ねん8がつ29にち
  • 千葉ちば日報にっぽう彦九郎ひこくろう房総ぼうそう拾遺しゅうい〈2〉江戸えどりゅう柔術じゅうじゅつ行方ゆくえ②」1987ねん9がつ3にち
  • 千葉ちば日報にっぽう彦九郎ひこくろう房総ぼうそう拾遺しゅうい〈3〉江戸えどりゅう柔術じゅうじゅつ行方ゆくえ③」1987ねん9がつ19にち
  • 産経新聞さんけいしんぶん功績こうせきたたえなか黙祷もくとう 明治めいじ殉職じゅんしょく鈴木すずき巡査じゅんさ合同ごうどう慰霊いれいさい」2016ねん9がつ14にち
  • 類聚るいじゅう伝記でんきだい日本にっぽん, だい16かん
  • 東洋とうよう文化ぶんか東洋とうよう文化ぶんか學會がっかい, 1967ねん
  • 佐倉さくら, だい 1 かん
  • 加藤かとうひろし武道ぶどう (日本にっぽんしょう百科ひゃっか)』 東京とうきょうどう出版しゅっぱん p178
  • 史談しだんかい速記そっきろく』 1916ねん だい281~300ごう
  • 明治めいじ人名じんめい辞典じてんだい2かん
  • 史料しりょう明治めいじ武道ぶどう新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ, 1971 p725
  • 今村いまむら嘉雄よしお[ほか]へん日本にっぽん武道ぶどう大系たいけい同朋どうほうしゃ出版しゅっぱん 1982.6
  • 名古屋なごや だい2かん』p64
  • だい日本人にっぽんじんめい辞書じしょ刊行かんこうかい へんだい日本人にっぽんじんめい辞書じしょ. 下卷げかんだい日本人にっぽんじんめい辞書じしょ刊行かんこうかい 1926ねん、p1800
  • 沼津ぬまづへんさん委員いいんかい沼津ぬまづ教育きょういく委員いいんかい へん沼津ぬまづ史料しりょうへん近世きんせいだい1かん
  • 警察けいさつ監獄かんごく學會がっかい発兌はつだ警察けいさつ監獄かんごく學會がっかい雑誌ざっし だいいちかんだいななごう』 p29

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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