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福岡ふくおかはん

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黒田くろだはんから転送てんそう
舞鶴まいづる公園こうえん 福岡ふくおか城下じょうかはし大手おおてもん
福岡ふくおかはん領域りょういき慶長けいちょう

福岡ふくおかはん(ふくおかはん)は、江戸えど時代じだい筑前ちくぜんこくのほぼ全域ぜんいき領有りょうゆうした大藩たいはん筑前ちくぜんはんともばれる。藩主はんしゅ黒田くろだであったことから黒田くろだはんという俗称ぞくしょうもある。はんちょう福岡ふくおかじょう現在げんざい福岡ふくおかけん福岡ふくおか)にかれた。歴代れきだい藩主はんしゅ外様とざま大名だいみょう黒田くろだささえはんとして秋月しゅうげつはん、また一時いちじひがしはちすてらはん直方ちょくほうはん)があった。

りゃく

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慶長けいちょう5ねん1600ねん関ヶ原せきがはらたたかこうにより、筑前ちくぜん一部いちぶ領有りょうゆうしていた小早川こばやかわ秀秋ひであき備前びぜんこく岡山おかやまはんうつりふうとなった。わって豊前ぶぜんこく中津なかつはんおも黒田くろだ長政ながまさが、おなじく関ヶ原せきがはら戦功せんこうにより、筑前ちくぜんいちこくいちえん52まん3せんあまりいしだいふうあたえられたことにより、とうはん成立せいりつした。国主こくしゅほん国持くにもちだい名家めいかである。

2だい忠之ただゆき以降いこう歴代れきだい藩主はんしゅに、松平まつだいら名字みょうじ将軍しょうぐん実名じつめいいち授与じゅよへんいみな)された。江戸城えどじょううち席次せきじ大広間おおひろままつあいだ、9だいひとしたかし以降いこうだい廊下ろうか上之うえの部屋へや松平まつだいら筑前ちくぜんもり黒田くろだとして幕末ばくまついた[1]

寛永かんえい18ねん1641ねん)に江戸えど幕府ばくふより、参勤交代さんきんこうたい江戸えど在府ざいふ期間きかん通常つうじょうの2ねんのうち1ねんから、2ねんのうちやく3かげつめんじるわりに、佐賀さがはんと1ねん交代こうたいで、幕府ばくふりょうである長崎ながさき警備けいびめいじられ、はん財政ざいせいおも負担ふたんとなった。この長崎ながさき警護けいご役目やくめ幕末ばくまつまでせられた。

筑前ちくぜん入府にゅうふ当初とうしょ居城きょじょうは、小早川こばやかわおな戦国せんごく武将ぶしょう立花たちばなあきら築城ちくじょうした名島なじましろであったが、手狭てぜまであり交通こうつうにも不便ふべんであったため、慶長けいちょう6ねん1601ねん)から慶長けいちょう11ねん1606ねん)までのやく6ねんをかけて、あらたに広大こうだい城郭じょうかく福岡ふくおかじょう別名べつめい舞鶴まいづるじょう石城せきじょう)を築城ちくじょうした[2]同時どうじ領内りょうないいて、不仲ふなかである細川ほそかわ警戒けいかいし(農民のうみん逃散など[ちゅう 1])、福岡ふくおかはん小倉こくらはんはんさかい筑前ちくぜんろくはしじょうえきぞうじょう鷹取たかとりじょう左右さゆうりょうじょう黒崎くろさきしろ若松わかまつしろ小石原こいしわらしろ)をきずき、黒田くろだはちとら筆頭ひっとう重臣じゅうしん栗山くりやまとしやす井上いのうえぼうはじめとする家臣かしんらが城主じょうしゅとなる。なお、長政ながまさ質素しっそ倹約けんやくむねとするちちはん黒田くろだ如水じょすいおしえによりはんないには豪壮ごうそう別邸べってい屋敷やしき大名だいみょう庭園ていえんなどは築庭ちくていしなかった。黒田くろだは6だい藩主はんしゅつぎだか隠居いんきょ屋敷やしき数寄屋すきや庭園ていえん友泉亭ゆうせんていげん友泉亭ゆうせんてい公園こうえん)を建立こんりゅうした程度ていどである。

2だい藩主はんしゅ忠之ただゆきは、ちち長政ながまさ遺言ゆいごんによりおとうとちょうきょう筑前ちくぜん秋月しゅうげつはん5まんせきこうまさし筑前ちくぜん直方ちょくほうはん4まんせきぶんした[ちゅう 2]。これにより石高こくだかは43まん3せんせきとなった。忠之ただゆき時代じだいには自身じしん原因げんいんつくった黒田くろだ騒動そうどうばれる御家おいえ騒動そうどうきた。改易かいえき危機ききであったが、重臣じゅうしん栗山くりやま利章としあき大膳だいぜん)のはたらきで、形式けいしきてきには「治世ちせい不行ふゆとどきにより一旦いったん所領しょりょうおさむおおやけするが、ちち祖父そふ忠勤ちゅうきん戦功せんこうたい特別とくべつ旧領きゅうりょうをそのままあたえる」かたち実質じっしつてき旧領きゅうりょう安堵あんどとなっている[4]

3だい藩主はんしゅ光之みつゆきは、藩儒はんじゅ貝原かいばら益軒えきけんめいじて黒田くろだ家正いえまさの『黒田くろだ』を編纂へんさんさせた。それまでの保守ほしゅてき重臣じゅうしんとおざけて新参しんざん鎌田かまた昌勝まさかつ立花たちばな実山さねやま家老がろうとしてあらたに登用とうようし、藩士はんし序列じょれつ統制とうせい幕末ばくまつまでつづ福岡ふくおかはん政治せいじ体制たいせいととのえたといえる。

4だい藩主はんしゅつなせいは、ひがしはちすてら藩主はんしゅから福岡ふくおか藩主はんしゅとなった。だい黒田くろだ騒動そうどうばれる御家おいえ騒動そうどうきる。

5だい藩主はんしゅ宣政のぶまさは、生来せいらいびょうがちであり領地りょうち筑前ちくぜんなかはいることができず、叔父おじ直方ちょくほう藩主はんしゅ黒田くろだちょうきよし代理だいりとして藩政はんせいたすけた。

6だい藩主はんしゅつぎだかは、直方ちょくほうはんよりほんはん養嗣子ようししとなったため直方ちょくほうはんはいはんとなった。このため所領しょりょう4まんせき福岡ふくおかはん還付かんぷされ、石高こくだかは47まん3せんせきとなり廃藩置県はいはんちけんまでこれが表高おもてだかとなった。はんこうだか血統けっとうとしては最後さいご藩主はんしゅ

7だい藩主はんしゅ治之はるゆきは、さんきょういちきょう徳川とくがわからの婿養子むこようしで、8だい将軍しょうぐん徳川とくがわ吉宗よしむねまごにあたる。養父ようふつぎだか黒田くろだ一門いちもん重臣じゅうしんたち協議きょうぎうえ福岡ふくおかはん永続えいぞく優先ゆうせんかんがえ、徳川とくがわから養子ようしむかえた。

8だい藩主はんしゅだかは、婿養子むこようし末期まっき養子ようし)として多度津たどつはん京極きょうごくからむかえたが早世そうせいし、妻子さいしく1だいかぎりの藩主はんしゅであった。

9だい藩主はんしゅひとしたかしは、さんきょういちきょう徳川とくがわからの婿養子むこようし。11だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家斉いえなり同母どうぼ実兄じっけいである。天明てんめい4ねん1784ねん)におさむ猷館(しゅうゆうかん)、あま棠館(かんとうかん)の藩校はんこう2こうおこした。そのうちおさむ猷館は福岡県立修猷館高等学校ふくおかけんりつしゅうゆうかんこうとうがっこうとして現在げんざい福岡ふくおかけん教育きょういく主導しゅどうてき地位ちいほこっている。

10代藩主はんしゅ斉清なりきよは、江戸えど時代じだい後期こうきらんへき大名だいみょうとしてられ、肥前ひぜん長崎ながさき黒田くろだ屋敷やしきなん往来おうらいして見聞けんぶんひろげている。

11だい藩主はんしゅちょうは、薩摩さつまはん島津しまつからのやしなえ継嗣けいし正室せいしつ斉清なりきよ息女そくじょじゅんひめちち養父ようふおなじくらんへき大名だいみょうであった。

12だい藩主はんしゅ初代しょだい知事ちじちょうともは、伊勢いせはん藤堂とうどうからのやしなえ継嗣けいし能楽のうがくこのみ、おおくの能楽のうがくたち支援しえんした。最後さいご筑前ちくぜん福岡ふくおかはん藩主はんしゅ初代しょだい福岡ふくおかはんごととなった。は贋札にせさつ事件じけんにより廃藩置県はいはんちけん先立さきだって解任かいにん[5]

2だい知事ちじ有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのうは、解任かいにんされたちょうともわって最後さいごはんごと就任しゅうにん。まもなく廃藩置県はいはんちけんむかえる[5]

幕末ばくまつ

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幕末ばくまつには、慶応けいおう元年がんねん1865ねん当初とうしょだいいち長州ちょうしゅう征討せいとう中止ちゅうし周旋しゅうせん奔走ほんそうした筑前ちくぜん勤王きんのうとう尊皇そんのう攘夷じょうい)をおもとする勤王きんのう主力しゅりょくめた。勤王きんのう同時どうじ三条さんじょう実美みみきょう説得せっとくして太宰府だざいふうつしたことで尊皇そんのう攘夷じょうい雄藩ゆうはん一角いっかくとされるようになったが、そのこと藩主はんしゅである黒田くろだちょう溥が幕府ばくふめられていた。さらにいぬ鳴谷なるたに建設けんせつされていた犬鳴いぬなき別館べっかん藩主はんしゅ幽閉ゆうへいするためのものうわさされ、謀反むほんうたがいがかけられた。そして幕府ばくふだい長州ちょうしゅう征討せいとう決定けっていした結果けっか勤王きんのう周旋しゅうせん否定ひていされ、はんろん佐幕さばくかたむいた。勤王きんのうおおくが逮捕たいほされ、家老がろう加藤かとう司書ししょをはじめ7めい切腹せっぷく月形つきがたあらいぞうら14めい斬首ざんしゅ野村のむらのぞむあずまら15めい流刑りゅうけいとなったおつうしごくにより、筑前ちくぜん勤王きんのうとう壊滅かいめつした。 その慶応けいおう4ねん1868ねん)の王政おうせい復古ふっこふたた勤王きんのうかえしがありはんろん掌握しょうあくした[6]

明治めいじ3ねん1870ねん)、日田にったけん知事ちじ松方まつかた正義まさよし福岡ふくおか藩士はんしによる太政官だじょうかんさつ贋造がんぞう事件じけん告発こくはつ。その明治めいじ政府せいふ調査ちょうさ結果けっか松方まつかた告発こくはつ事実じじつ福岡ふくおかはん首脳しゅのう関与かんよしていた事実じじつ判明はんめいした。このため明治めいじ4ねん7がつ2にち1871ねん8がつ17にち)、12だいちょうともはんごと解任かいにん後任こうにんには黒田くろだえんのある有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのう就任しゅうにんしたが、廃藩置県はいはんちけんまでの12日間にちかんぎなかった。はんごと政府せいふから任命にんめいされた地方ちほう行政ぎょうせい官職かんしょくぎず、法制ほうせいじょう世襲せしゅうではない。ただ、実際じっさいにははんごと世襲せしゅう政府せいふ拒否きょひした事例じれいはなかったことから唯一ゆいいつはんごと世襲せしゅうされなかったケースとなった[7]。このさい事件じけんかかわった最高さいこう幹部かんぶであるだい参事さんじ立花たちばな増美ますみ矢野やの安雄やすおけんだい参事さんじ小河おがわあい四郎しろうしょう参事さんじ徳永とくながひと三隅みすみつたえはちの5めい実行じっこうはんとして処刑しょけいされ、10にん以上いじょう閉門へいもん流罪るざいなどにされている。ちょう知一ともかずぞく福岡ふくおかはなれ、東京とうきょう移住いじゅうした。

その廃藩置県はいはんちけんにより福岡ふくおかけんとなった[5]

明治めいじ以降いこうはん記録きろく回想かいそうなど

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明治めいじ17ねん1884ねん)、ちょうともである黒田くろだ長成ちょうせいしん政府せいふ華族かぞくれいにより侯爵こうしゃく叙爵じょしゃくし、華族かぞくれつした[9]。その息子むすこちょうれい閑院みや茂子しげこ女王じょおう降嫁こうかむかえた[10]

明治めいじ時代じだい中頃なかごろからはじまった福岡ふくおか士族しぞく江島えじましげるいっによる福岡ふくおかはん記録きろく編纂へんさんにあたり、江島えじま高杉たかすぎ晋作しんさくについて、故郷こきょう長州ちょうしゅうでもまだまとまった伝記でんきされていなかった明治めいじ26ねん(1893ねん)に『高杉たかすぎ晋作しんさくでんにゅう始末しまつ[11]あらわし、東京とうきょう出版しゅっぱんしゃからして晋作しんさくでんだいいちごうとなっている[12]明治めいじ時代じだい末期まっきから大正たいしょう時代じだい近代きんだい達成たっせい意識いしきされると、はん明治維新めいじいしんにいかに貢献こうけんしたかの観点かんてん重視じゅうしされた。編纂へんさん事業じぎょう江島えじまから長野ながのまことがれ、福岡ふくおかはんは「せいちょうかいへい」「きょう送迎そうげい」「薩長さっちょう和解わかい[13]といった福岡ふくおかはんたした役割やくわりを「維新いしん起源きげん」として強調きょうちょうしている[14]

戦前せんぜん教育きょういくにおいては勤王きんのう志士しし賛美さんびされ、ちょう溥など藩主はんしゅ愚昧ぐまい喧伝けんでんされた[15]

歴代れきだい藩主はんしゅ

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黒田くろだ宗家そうけ

外様とざま 52まん3せんせき→43まん3せんせき→47まん3せんせき (1600ねん - 1871ねん

  1. 長政ながまさ
  2. 忠之ただゆき
  3. 光之みつゆき
  4. つなせい
  5. 宣政のぶまさ
  6. つぎだか
  7. 治之はるゆき
  8. だか
  9. ひとしたかし
  10. 斉清なりきよ
  11. ちょう
  12. ちょうとも
有栖川ありすがわ宮家みやけ

大藩たいはん 47まん3せんせき (1871ねん

  1. 有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのう

ささえはん

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大老たいろう

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  • 三奈木みなぎ黒田くろだ筑前ちくぜん三奈木みなぎりょう1まん6205せき重臣じゅうしん筆頭ひっとうはん大老たいろうしょく世襲せしゅう代々だいだい通称つうしょうさん左衛門さえもん美作みさく黒田くろだ播磨はりま世襲せしゅう

三奈木みなぎ黒田くろだ荒木あらき村重むらしげ家臣かしんであった加藤かとう重徳しげのり次男じなん黒田くろだ一成いっせい黒田くろだ孝高よしたか養子ようし幼名ようみょうたままつ)をとする。加藤かとう重徳しげのりは、黒田くろだ官兵衛かんべえこうだか有岡ありおかじょうたたか荒木あらき村重むらしげらえられ監禁かんきんされたさい、その牢番ろうばんつとめ、有岡ありおかしろ落城らくじょうさいしてこうだかすくったことから、重徳しげのり二男じなん一成いっせい黒田くろだあづけられ、こうだか黒田くろだ長政ながまさ兄弟きょうだいのようにそだてられ黒田くろだせいさづけられた[16]幕末ばくまつ黒田くろだ溥整一葦いちい)はおとうと加藤かとう図書としょとともにはんない勤王きんのうとして活躍かつやくした[17]

代々だいだい当主とうしゅは、一成いっせい一任いちにん(*)-一貫いっかん(*)-一春かずはる一利いちり一誠いっせい一興いっきょうりゅういさお(*)=せいじょう(*)-溥整(*)=一美かずみ一雄かずお一義いちぎ

維新いしん黒田くろだ筆頭ひっとう家臣かしんとして溥整の維新いしんこうにより明治めいじ33ねん黒田くろだ一義かずよし男爵だんしゃくとなり、華族かぞくれつした[17]

(*2だい黒田くろだ一任いちにんは、久野くのしげるとき初代しょだい黒田くろだ一成いっせいむすめとのあいだまれた、すなわち一成いっせい外孫そとまごにあたる。)
(*3だい黒田くろだ一貫いっかん黒田くろだちょうきょうむすめ婿むこには4だい黒田くろだ一春かずはるのほか、鶴子つるこ野村のむらゆうはるしつ)がおり、鶴子つるこ次男じなん黒田くろだ長貞ながさだである。)
(*8だい黒田くろだたかしいさお、9だい黒田くろだきよしじょう、10代・黒田くろだ溥整さんめい藩主はんしゅ黒田くろだひとしたかし黒田くろだ斉清なりきよ黒田くろだちょうよりへんいみなけている。)

中老ちゅうろう

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  • 野村のむら筑前ちくぜん飯塚いいづかりょう6000せき重臣じゅうしん筑前ちくぜん福岡ふくおかはんはん中老ちゅうろうしょく世襲せしゅう
野村のむらゆうかち太郎たろう兵衛ひょうえ母里もり友信とものぶ実弟じってい友信とものぶとともに黒田くろだじゅうよん一人ひとり)―ゆうただしみぎ衛門えもん大学だいがく)―ゆうたかし太郎たろう兵衛ひょうえ)―ゆうりょう太郎たろう兵衛ひょうえ)―ゆうはる太郎たろう兵衛ひょうえ)(*)

(*野村のむらゆうはるおとうと野村のむらゆうあきら太郎たろう兵衛ひょうえ)は黒田くろだ宣政のぶまさ家老がろうつま鶴子つるこ黒田くろだ一貫いっかんむすめ)とのあい黒田くろだ長貞ながさだ次男じなん)らがいる。)

  • 加藤かとう(1000せき→2000せき→3000せき→3800せき→2800せき重臣じゅうしん)筑前ちくぜん福岡ふくおかはんはん中老ちゅうろうしょく世襲せしゅう代々だいだいまた左衛門さえもん内匠たくみ半之丞はんのじょう世襲せしゅう

加藤かとう吉成よしなり(大老たいろう黒田くろだ一成いっせい実兄じっけいもと小西こにし行長ゆきなが家臣かしん)

有岡ありおかじょうたたか荒木あらき村重むらしげ謀反むほん)でらえられたはん黒田くろだ孝高よしたか世話せわをした加藤かとう重徳しげのり功績こうせきにより、主君しゅくん小西こにし行長ゆきながあと福岡ふくおかはんむかれられ、すで隠居いんきょしていた重徳しげのりわり嫡男ちゃくなん吉成よしなり中老ちゅうろうしょくれっせられた。幕末ばくまつ徳成とくなり司書ししょ)は勤皇きんのう志士ししとして著名ちょめい[18]吉成よしなり成忠しげただ重成しげなりじゅうじき重賢しげかたじゅうわたるなかとくとなりとくひろし=※徳蔵とくぞう徳成とくなり徳行とっこう

(※徳蔵とくら三奈木みなぎ黒田くろだからの婿養子むこようし天保てんぽう11ねん家督かとく加藤かとう嫡男ちゃくなん徳成とくなりゆずり、実家じっか復籍ふくせき三奈木みなぎ黒田くろだ家督かとくいだ)

幕末ばくまつ領地りょうち

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福岡ふくおかはん

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明治維新めいじいしんのちに、よしみぐん20むら秋月あきづきはんりょう)、後志しりべこく久遠くどおぐん奥尻おくしりぐんくわわった。

秋月しゅうげつはん

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  • 筑前ちくぜんこく
    • 穂波ほなみぐんのうち - 2むら残部ざんぶすべ福岡ふくおかはんりょう以下いかどう
    • よしみぐんのうち - 20むら福岡ふくおかはん編入へんにゅう
    • 下座げざぐんのうち - 11むら
    • 夜須やすぐんのうち - 38むら

藩邸はんてい

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明治めいじ初期しょき外務省がいむしょう庁舎ちょうしゃとして使つかわれたころ福岡ふくおかはん江戸えど屋敷やしき

江戸えど藩邸はんていは、そと桜田さくらだ上屋敷かみやしきがあった[19]現在げんざい外務省がいむしょう庁舎ちょうしゃ位置いち[21]千代田ちよだかすみせき2丁目ちょうめ2ばん[24]。「さくら田屋敷たやしき」とばれ、北側きたがわ隣接りんせつするげいしゅう浅野あさの上屋敷かみやしきとのあいだ見晴みはらしのさかがあり、江戸えど霞ヶ関かすみがせき名所めいしょとされ歌川うたがわ広重ひろしげが『名所めいしょ江戸えどひゃくけいちゅうの「かすみかせき」にえがいた。『江戸えど屏風びょうぶ』では、広島ひろしま藩邸はんていうしろに福岡ふくおか藩邸はんていえがかれ、屋敷やしきにたなびくくもかすみ表現ひょうげんしている。あるいは江戸えど末期まっき庶民しょみんえがいたどろ(どろえ)にも記録きろくされた[25]

明治めいじはいると創設そうせつされたばかりの外務省がいむしょう初代しょだい庁舎ちょうしゃ転用てんようされ、明治めいじ3ねん1870ねん)に銀座ぎんざかり庁舎ちょうしゃから移転いてんされた[26][27]が、1877ねん明治めいじ9ねん)2がつ1にち焼失しょうしつした[31]最後さいごまでのこった海鼠壁なまこかべちょう(ながやぐら)はきゅう国宝こくほう指定していされながら、太平洋戦争たいへいようせんそうどき空襲くうしゅう被災ひさいうしなわれた。なお現在げんざい外務省がいむしょう外周がいしゅう当時とうじ石垣いしがきのこり、はん屋敷やしき面影おもかげつたえる。巨大きょだい鬼瓦おにがわらくももんかわら)は常時じょうじ東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん屋外おくがい展示てんじしてある。

赤坂あかさか中屋敷なかやしき渋谷しぶや白金はっきん下屋敷しもやしき郊外こうがいには御鷹みたか屋敷やしき深川ふかがわ蔵屋敷くらやしきがあった。秋月しゅうげつはん江戸えど屋敷やしき表門おもてもんは、東京とうきょうよみうりランド移築いちくして保存ほぞんしてある。

長崎ながさき京都きょうと大坂おおさかにも屋敷やしきがあり、そのうち中ノ島なかのしまにあった黒田くろだ蔵屋敷くらやしき表門おもてもんは、天王寺てんのうじ公園こうえんうち大阪おおさか市立しりつ美術館びじゅつかんよこ移築いちく保存ほぞんされている。

藩校はんこう

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菩提寺ぼだいじえん寺社じしゃ

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関連かんれん作品さくひん

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戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい黒田くろだ舞台ぶたいにした劇場げきじょう映画えいが
歌舞伎かぶき
  • 博多はかたしょう女郎じょろう波枕なみまくら
  • 『しらぬいたん
演劇えんげき
テレビドラマ
書籍しょせき

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 反対はんたいがわ佐賀さがはんとのはんさかいにはなん対策たいさくられていない。
  2. ^ 忠之ただゆき不行跡ふぎょうせき福岡ふくおかはん改易かいえきされたさいそなえのためとされる[3]

出典しゅってん

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  1. ^ 村川むらかわ浩平こうへい日本にっぽん近世きんせい武家ぶけ政権せいけんろん近代きんだい文芸ぶんげいしゃ、2000ねん
  2. ^ はやし ひろしうみ福岡ふくおかはん (シリーズはん物語ものがたり)』現代書館げんだいしょかん、2015ねん7がつ9にち、60ぺーじISBN 978-4768471371 
  3. ^ 山本やまもと 2015, p. 17.
  4. ^ ふるさと人物じんぶつ18 黒田くろだ52まんせきすくった 「栗山くりやま 大膳だいぜん」(くりやま だいぜん) - 朝倉あさくら 2011ねん3がつ21にち
  5. ^ a b c 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)『福岡ふくおかはん』 - コトバンク
  6. ^ 千田せんだみのる華族かぞく総覧そうらん講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ、2009ねん7がつ、479ぺーじISBN 978-4-06-288001-5 
  7. ^ 落合おちあい弘樹ひろき 1999, p. 35.
  8. ^ a b 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん利用りようしゃサービスへん)「特集とくしゅう 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん所蔵しょぞう写真しゃしんちょう写真しゃしんしゅう内容ないよう細目さいもく総覧そうらん明治めいじ大正たいしょうへん―」『参考さんこう書誌しょし研究けんきゅうだい33ごう、617ぺーじISSN 0385-3306 合本がっぽん大正たいしょう2ねん4がつ-3ねん3がつ=1913ねん、1914ねん)。22×31cm。
  9. ^ 黒田くろだ侯爵こうしゃくていける米国べいこく議員ぎいん婦人ふじんだんいちぎょう歓迎かんげいかい」『歴史れきし写真しゃしん大正たいしょう)』大正たいしょう2ねん10がつごう歴史れきし写真しゃしんかい[8]
  10. ^ 「閑院みやだい2じょおう茂子しげこ殿下でんか侯爵こうしゃく黒田くろだ長成ちょうせい令嗣れいしちょうれいとの婚儀こんぎ」『歴史れきし写真しゃしん大正たいしょう)』大正たいしょう3ねん2がつごう歴史れきし写真しゃしんかい[8]
  11. ^ 江島えじましげるいっへん)『高杉たかすぎ晋作しんさく略伝りゃくでん : にゅう始末しまつ団々だんだんしゃほか、明治めいじ26ねんdoi:10.11501/781609国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん近代きんだいデジタルライブラリー収蔵しゅうぞう、インターネット公開こうかい保護ほご期間きかん満了まんりょう)。
  12. ^ いちざか 2002, p. 69.
  13. ^ 福井ふくいあつし へん薩長さっちょう和解わかいこと」『明治めいじ太平たいへいあきらのぼりどうほか、大阪おおさか〈2〉、明治めいじ20ねん(1887ねん)、25 (コマ番号ばんごう0022.jp2)ぺーじ また、「高杉たかすぎ晋作しんさくへいおここと」23ぺーじ (コマ番号ばんごう0021.jp2)を掲載けいさい
  14. ^ 福岡ふくおかけん幕末ばくまつ維新いしん 2015, p. 37.
  15. ^ やなぎ 1989, あとがき.
  16. ^ きゅう三奈木みなぎ黒田くろだ家庭かていえん朝倉あさくら
  17. ^ a b 松田まつだ敬之たかゆき 2015, p. 277.
  18. ^ 朝倉あさくら. “きゅう三奈木みなぎ黒田くろだ家庭かていえん”. 福岡ふくおかけん朝倉あさくら. 2023ねん1がつ21にち閲覧えつらん
  19. ^ 戸川とがわ 1914, pp. 1–3, コマ番号ばんごう0013.jp2、0015.jp2-0016.jp2.
  20. ^ 戸川とがわ 1914, コマ番号ばんごう0011.jp2.
  21. ^ 挿絵さしえ寛永かんえいいにしえ略説りゃくせつ」の欄外らんがいに、「黒田くろだみぎ衛門えもん外務省がいむしょう」と記述きじゅつがある[20]
  22. ^ うめりゅうえん主人しゅじん中神なかがみまもるぶし, 1766-1824)『慶長けいちょう年間ねんかん江戸えどこう』、コマ番号ばんごう0004.ja2(ひだりぺーじdoi:10.11501/253324  - 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション(古典こてんせき資料しりょう貴重きちょうしょとう)- 絵図えず)。
  23. ^ 慶長けいちょう江戸えど」『江戸えど A』(近世きんせい絵図えず地図ちず資料しりょう集成しゅうせい ; だい1 だい3かん)、近世きんせい絵図えず地図ちず資料しりょう研究けんきゅうかいへん)、科学かがく書院しょいん、1997ねん
  24. ^ 慶長けいちょう江戸えど[22][23]・『寛政かんせいじゅうねん江戸えどぜん』(国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん)。
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  27. ^ 週刊しゅうかん新潮しんちょう 1997, p. 150, コマ番号ばんごう0076.jp2).
  28. ^ 「『莫都じゅうねん実写じっしゃ)』小林こばやし音次郎おとじろう日本にっぽん仏教ぶっきょう協会きょうかい大正たいしょう6ねん」86ごう 2100ぺーじ、24×31cm、非売品ひばいひん明治めいじ初年しょねん写真しゃしんほか。
  29. ^ 「『93 東京とうきょう史跡しせき名勝めいしょう天然てんねんねんぶつ写真しゃしんちょう東京とうきょう市役所しやくしょ公園こうえんへん)、大正たいしょう11ねん」。 7166まい、26cm。
  30. ^ 東京とうきょうかくへん東京とうきょう史蹟しせき きゅう黒田くろだこうてい不動ふどう健治けんじ復興ふっこう帝都ていと』、写真しゃしん日報にっぽうしゃ昭和しょうわ5ねん4がつ、95ぺーじ。21p 27×36cm。関東大震災かんとうだいしんさい復興ふっこう写真しゃしん中心ちゅうしんに、オリジナルプリントを34まいんである。
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  32. ^ 光雲こううん神社じんじゃ公式こうしきホームページ”. 光雲こううん神社じんじゃ. 2022ねん4がつ7にち閲覧えつらん
  33. ^ 矢吹やぶき高尚こうしょうどう栗山くりやま大膳だいぜんjournal=参考さんこう書誌しょし研究けんきゅうちょ)、国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん利用りようしゃサービスへん)「帝劇ていげきじゅうねんだい554ごう もと資料しりょう大正たいしょう7ねん6がつ発刊はっかん、63まい、26×38cm。英文えいぶん書名しょめい:The 10 years of Imperial Theatre。本体ほんたい写真しゃしん帝劇ていげき上演じょうえんした舞台ぶたい写真しゃしん

参考さんこう文献ぶんけん

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本文ほんぶん典拠てんきょおも執筆しっぴつしゃ編集へんしゅうしゃじゅん

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