黒田くろだ宣政のぶまさ

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黒田くろだ宣政のぶまさ
黒田くろだ宣政のぶまさぞう(福岡ふくおか博物館はくぶつかんくら)
時代じだい 江戸えど時代じだい中期ちゅうき
生誕せいたん 1685ねん6がつ10日とおか貞享ていきょう2ねん5月9にち
死没しぼつ 1744ねん9月16にちのべとおる元年がんねん8がつ10日とおか
改名かいめい 黒田くろだべんじょ守山もりやま政則まさのり黒田くろだ宣政のぶまさ
戒名かいみょう たいりんいん山道さんどういさむ
墓所はかしょ たかしぶくてら福岡ふくおかけん福岡ふくおか
天真てんしんてら東京とうきょうみなと
官位かんい したがえよん和泉いずみまもる肥前ひぜんもり
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家宣いえのぶ家継いえつぐよしはじめ
はん 筑前ちくぜん福岡ふくおかはんあるじ
氏族しぞく 黒田くろだ守山もりやま黒田くろだ
父母ちちはは ちち黒田くろだつなせい
はは呂久ろくひめ
兄弟きょうだい 黒田くろだ吉之よしゆき宣政のぶまさ
つま 正室せいしつつやひめみずみねいん南部なんぶ行信ゆきのぶむすめ
養子ようしつぎだかこうひめ黒田くろだつぎだか正室せいしつ
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黒田くろだ 宣政のぶまさ(くろだ のぶまさ)は、筑前ちくぜん福岡ふくおかはんだい5だい藩主はんしゅ

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

貞享ていきょう2ねん(1685ねん)、福岡ふくおかはんだい4だい藩主はんしゅ黒田くろだつなせい次男じなんとして、江戸えど桜田さくらだ藩邸はんていにてまれた。はは柳河やなかわはんあるじ立花たちばなあきらとら養女ようじょ呂久ろくひめはつ政則まさのり(まさのり)。あに吉之よしゆき早世そうせいしたため嫡子ちゃくしとなり、正徳まさのり元年がんねん1711ねん)のちち死去しきょによりあといだ。藩主はんしゅ就任しゅうにん将軍しょうぐん徳川とくがわ家宣いえのぶよりへんいみなけて宣政のぶまさ名乗なのった。

しかし生来せいらい病弱びょうじゃく政務せいむれず、また嗣子ししにもめぐまれなかったため、叔父おじささえはん直方ちょくほうはんおも黒田くろだちょうきよし次男じなんで、従弟じゅうていにあたるつぎだか養嗣子ようししとしてむかえ、とおる4ねん1719ねん)11月に隠居いんきょして家督かとくつぎだかゆずった。病弱びょうじゃくのため、領地りょうち筑前ちくぜんはいることがなか々できず、藩政はんせい代理だいり叔父おじちょうきよしおこなっている。宣政のぶまさ時代じだい黒田くろだ文書ぶんしょるいはほぼ焼失しょうしつ散逸さんいつしており、従姉妹いとこ市子いちこ酒井さかい河内かわうちまもるちゅうきょむすめ松壽しょうじゅいん)との交換こうかん書状しょじょう唯一ゆいいつのこる。

のべとおる元年がんねん(1744ねん)、江戸えど桜田さくらだ藩邸はんていにて死去しきょした。享年きょうねん60。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]