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新発田しばたはん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
天保てんぽうこく絵図えず越後えちごこく新発田しばた村上むらかみ天保てんぽう9ねん1838ねん)。国立こくりつ公文書こうぶんしょかんデジタルアーカイブより。

新発田しばたはん(しばたはん)は、越後えちごこく蒲原かまはらぐん新発田しばた現在げんざい新潟にいがたけん新発田しばた)を中心ちゅうしん現在げんざい下越しもごえ地方ちほう一部いちぶなどをおさめたはんはんちょう新発田しばたじょう藩主はんしゅ溝口みぞぐち家格かかく外様とざま大名だいみょうで、石高いしたかは6まんせき(のち5まんせき → 10まんせき推移すいい)。

概要がいよう

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1598ねん豊臣とよとみ秀吉ひでよしいのちけて、それまで越後えちごいちこくりょうしていた上杉うえすぎ景勝かげかつ会津あいづうつりふうされたのち越後えちご福島ふくしま30まんせきほり秀治しゅうじ坂戸さかど2まんせきほりただしよせ村上むらかみ本庄ほんじょう)9まんせき村上むらかみ義明よしあき、そして新発田しばた溝口みぞぐち秀勝ひでかつといった具合ぐあい配置はいちされた。

秀勝ひでかつ1600ねん関ヶ原せきがはらたたかのとき、徳川とくがわ家康いえやすひがしぐんくみして越後えちご在国ざいこくし、越後えちご発生はっせいした上杉うえすぎ旧臣きゅうしん一揆いっき[1]鎮圧ちんあつした功績こうせきにより、家康いえやすから本領ほんりょう安堵あんどされ、新発田しばたはん6まんせき成立せいりつした。越後えちごこく譜代ふだい大名だいみょう親藩しんぱんのひしめくなか位置いちする外様とざま大名だいみょうであった。

秀勝ひでかつ溝口みぞぐちせんしょうときおとうと溝口みぞぐち善勝よしかつに1まんせき分与ぶんよしたため、溝口みぞぐちそう石高こくだかが5まんせきとなった。そのうえ、せんしょう溝口みぞぐちせんじき時代じだいには3にんおとうとにそれぞれ分与ぶんよする。なお、分家ぶんけ交代こうたい寄合よりあい旗本はたもと陸奥みちのくこく岩瀬いわせぐん横田よこた領主りょうしゅ溝口みぞぐちがある。

はん領域りょういき現在げんざい新発田しばた領域りょういきくわえ、現在げんざい新潟にいがた東部とうぶ阿賀あが野市のいち加茂かも南蒲原みなみかんばらぐんにまでおよ広大こうだいなものであったが、その領域りょういき大半たいはんめる蒲原かんばら平野へいやは、阿賀野川あがのがわ信濃川しなのがわしも流域りゅういきひろがるそのとおり、がまのような水草みずくさしげ低湿ていしつ地帯ちたいであり、そのままでは農耕のうこうてきさない土地とちであった。新発田しばたはんとその領民りょうみん代々だいだい干拓かんたく治水ちすいちかられ、新田にった開発かいはつすすめていった。その結果けっか、この地域ちいき穀倉こくそう地帯ちたいとなるまでに開発かいはつすすみ、その収穫しゅうかく石高こくだか数値すうちおおきく上回うわまわるまでになり、内高うちだか40まんせきというせつもある。この地域ちいきにいくつかのこ当時とうじ豪農ごうのう邸宅ていたく遺構いこうからは、当時とうじ様子ようすがうかがわれる。

はちだい藩主はんしゅ溝口みぞぐちただしやしなえ藩校はんこう道学どうがくどうをつくったことにみられるように新発田しばた藩主はんしゅ代々だいだい学問がくもん奨励しょうれいし、城下町じょうかまち繁栄はんえいした。元禄げんろくに4だい藩主はんしゅ溝口みぞぐち重雄しげお江戸えどから幕府ばくふかかえの庭師にわしであるけんそうともまねいて築庭ちくていさせた、きょうふうまわりゆうしき庭園ていえんである清水しみずえんからは、当時とうじ文化ぶんか繁栄はんえいぶりがうかがわれる。

その、11だい藩主はんしゅ溝口みぞぐちただしだいになって、10まんせきへのこうなおしを幕府ばくふ申請しんせいし、みとめられた。これには、家格かかくがるというメリットの一方いっぽうと、財政ざいせい窮迫きゅうはくりのこうなおしはかえって過剰かじょうやくくわえられるのではデメリットを心配しんぱいするこえがり、はんない論争ろんそうこった。

戊辰戦争ぼしんせんそうでは、しん政府せいふがわよりの立場たちばをとろうとするも、周辺しゅうへんしょはん奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい圧力あつりょくこうしきれず、やむなく加盟かめいした。同盟どうめいがわ新発田しばたはん参戦さんせんさせようとはかり、藩主はんしゅ溝口みぞぐち直正なおまさ人質ひとじちにとろうとこころみたが、新発田しばたはん領民りょうみんつよ抵抗ていこうって阻止そしされる。その新発田しばたはんしん政府せいふぐん合流ごうりゅう参戦さんせんすることとなり、その結果けっか新発田しばた戦火せんかからまもられることとなった。ただし、このとき新発田しばたはん行動こうどう越後えちご長岡ながおかはんなどからはあきらかな裏切うらぎ行為こういられ、周辺しゅうへん地域ちいきとのあいだにしこりをのこすことにもなった。

ともあれ溝口みぞぐち明治めいじ時代じだいいたるまで、つぶうことなく、12だいにわたって新発田しばた統治とうちした。

歴代れきだい藩主はんしゅ

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溝口みぞぐち
外様とざま 最終さいしゅう石高こくだか10まんせき
  1. 溝口みぞぐち秀勝ひでかつ
  2. 溝口みぞぐちせんしょう
  3. 溝口みぞぐちせんじき
  4. 溝口みぞぐち重雄しげお
  5. 溝口みぞぐち重元しげもと
  6. 溝口みぞぐち直治なおじ
  7. 溝口みぞぐちただしあつし
  8. 溝口みぞぐちただしよう
  9. 溝口みぞぐちただしこう
  10. 溝口みぞぐちただしりょう
  11. 溝口みぞぐちただし
  12. 溝口みぞぐち直正なおまさ - 1884ねん明治めいじ17ねん)、華族かぞくれいにより伯爵はくしゃく

こう

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溝口みぞぐち伯爵はくしゃく[2](1919ねん - 1945ねん ) 

  1. 溝口みぞぐちただしあきら - 1919ねん大正たいしょう8ねん)、家督かとく相続そうぞくにより伯爵はくしゃく襲爵しゅうしゃく

新発田しばた溝口みぞぐち[3](1945ねん - ) 

  1. 溝口みぞぐち歌子うたこ - ちょくあきら長女ちょうじょ
  2. 溝口みぞぐち隆雄たかお - ちょくあきらまごはは歌子うたこいもうと豊子とよこ)。

おも重臣じゅうしん家系かけい

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  • 溝口みぞぐちなかば左衛門さえもん半兵衛はんべえ
  • 溝口みぞぐち伊織いおり
  • 溝口みぞぐち内匠たくみ
  • ほりたけ大夫たいふ内蔵ないぞうすすむ
  • ほり主計かずえ
  • 速水はやみ九郎くろうみぎ衛門えもん八弥はちや
  • 窪田くぼたたいら兵衛ひょうえ
  • 里村さとむらかん
  • 里村さとむらぬい殿どの
  • 坂井さかい数馬かずま
  • 仙石せんごくたけしみぎ衛門えもん
  • 仙石せんごく九郎兵衛くろべえ
  • 脇本わきもとただし左衛門さえもん
  • みや北郷きたごう左衛門さえもん
  • 服部はっとり市郎いちろう左衛門さえもん
  • 佐治さじふじみぎ衛門えもん

家臣かしんだん形成けいせい

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溝口みぞぐち秀勝ひでかつ丹羽にわ長秀ながひでつかえ、天正てんしょう9ねん1581ねん)、若狭わかさこく高浜たかはましろしゅ5000せききゅうされる。それ以前いぜんからの家臣かしんは、槍持やりもちをつとめ、60せききゅうされていた入江いりえきゅう左衛門さえもんと、天正てんしょう5ねん配下はいかくわわった近江おうみこく浅井あさいぐん速水はやみきょう出身しゅっしん速水はやみ三右衛門さんえもんさい古参こさん家臣かしん高浜たかはま城主じょうしゅになると、きゅう領主りょうしゅ逸見いつみ駿しゅん河守こうもり遺臣いしん香川かがわみん寺井てらいしゅうま配下はいかくわえる。天正てんしょう10ねん織田おだ信長のぶながほろぼされるとその遺臣いしん加藤かとう清重きよしげ坂井さかい式部しきぶ数馬かずま)を配下はいかとする。加藤かとうのち溝口みぞぐちたまわり、溝口みぞぐち内匠たくみとなる。このほか高浜たかはま時代じだい仕官しかんしたものは、柿本かきもと蔵人くろうど窪田くぼた与左衛門よざえもん大津おおつ三宅みやけ中西なかにしらがいる。窪田くぼた与左衛門よざえもん元禄げんろく9ねん断絶だんぜつするが、分家ぶんけ窪田くぼたたいら兵衛ひょうえがのちに家老がろうつとめる家系かけいとなる。天正てんしょう12ねんほり秀政ひでまさ与力よりきとして加賀かが大聖寺だいしょうじよんまんよんせんせき領主りょうしゅとなると、柴田しばた勝家かついえ遺臣いしん丹羽にわしげるつな四郎しろう兵衛ひょうえ)、脇本わきもと仁兵衛じんべえ配下はいかとする。

慶長けいちょう3ねん1598ねん)、ほり秀治しゅうじとともに越後えちごうつりふう新発田しばたはん6まんせき領主りょうしゅとなると、会津あいづはんきゅう領主りょうしゅ蒲生がもう遺臣いしんもり奥村おくむら矢代やしろ熊田くまだらを配下はいかとする。かれらは会津あいづしゅばれた。慶長けいちょう15ねん堀家ほりいえじょふうされ、ほり忠俊ただとしほりただしきよし配流はいるされると、ちょくきよしの六男主馬助直正(ほりたけ大夫たいふ)をまねれる。

元和がんわ元年がんねん1616ねん)、大坂おおさかじんこり、落人おちうどとなった母子ぼしむかれ、南部なんぶ左衛門さえもん養子ようしとする。おなじく落人おちうど土橋どばし弥太郎やたろうむかれる。土橋どばしのち溝口みぞぐちせいあたえられ、溝口みぞぐち伊織いおりとなる。元和がんわ4ねん村上むらかみ周防すおうまもる跡継あとつぎなくじょふうとなると、その遺臣いしん下長しもながもんもり本国ほんごくむかれる。したは、越後えちごこく奥山おくやましょう(そのなかでも関川せきかわむらあたり)の中世ちゅうせいからの国人くにびと領主りょうしゅ家柄いえがらで、本国ほんごくちちだいから上杉うえすぎ家臣かしんとして庄内しょうない代官だいかんつとめ、そののち最上もがみ義光よしみつつかえ、のち村上むらかみ周防すおうまもるつかえていた。

寛永かんえい4ねん1627ねん)、会津あいづ蒲生がもうただしきょうじょふうされると、その遺臣いしん寺尾てらお仙石せんごくらをむかれる。寛永かんえい19ねん村上むらかみ堀家ほりいえ断絶だんぜつすると、ほり主計かずえちょくきよし河村かわむら大岡おおおからをむかれる。主計しゅけいちょくきよしほりただしきよし次男じなんで、しゅうまじょ直正なおまさあにたる。正保まさやす元年がんねん1645ねん)、会津あいづ加藤かとう明成めいせいぼっすると、その遺臣いしん佐治さじきみ七里しちり梅原うめはらあからがくわわる。

そのほかにも、徳川とくがわ忠長ただなが松平まつだいらただしのり村上むらかみはん時代じだい)、細川ほそかわ忠興ただおき福岡ふくおかはん島原しまばらはん会津あいづはん米沢よねざわはんなどから、仕官しかんえしてきたものもいた。徳川とくがわ忠長ただなが改易かいえきされると、ほりさんせいらいはんほり勘兵衛かんべえほりよし大夫たいふとなる。細川ほそかわから高久たかく黒田くろだからさとむら村上むらかみはん松平まつだいらから宮北みやきた米沢よねざわからやましょう島原しまばらから高力こうりきたかしちょう遺臣いしん板倉いたくら渡辺わたなべ小野寺おのでららが新発田しばたはんへやってきた。

以上いじょうげられたものあたまたけあたま以上いじょう家系かけいで、家老がろう城代しろだい用人ようにん組頭くみがしら奉行ぶぎょうなどの役職やくしょくつとめた。

以上いじょう[5]

新発田しばたはん戊辰戦争ぼしんせんそう

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戊辰戦争ぼしんせんそう前年ぜんねんうご

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大政奉還たいせいほうかん朝廷ちょうてい列侯れっこう会議かいぎひらくため、10まんせき以上いじょうしょ大名だいみょう上洛じょうらくめいじた。これにおうじたはんおおくなかったが、新発田しばたはん幼君ようくん直正なおまさ名代なだいとして江戸詰えどづめ家老がろう窪田くぼたたいら兵衛ひょうえ派遣はけんする。

9月、越後えちご国内こくないでの正義せいぎとうしょうする浪人ろうにんかんする情報じょうほう会津あいづはんにもたらす。会津あいづ正義せいぎとう取締とりしまりと越後えちごしょはんはん薩長さっちょうかためるために、新潟にいがたまち居酒屋いざかやとりきよし(とりせい)にしょはんあつめて会議かいぎおこなう。「とりきよし会談かいだん」とばれる。今後こんご定期ていき開催かいさいすることとし、5月に酒屋さかや津川つがわひらくこととした。(事態じたい急変きゅうへんし、2がつになる)

つちのえたつ年明としあ

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1がつ仙台せんだいはん玉虫たまむしひだり太夫たゆうらいはん新発田しばた意向いこうさぐる。家老がろうなかでも中老ちゅうろうかく溝口みぞぐち半兵衛はんべえ応対おうたいする。ちちはん左衛門さえもん家老がろうし、そのぎ、このとき36さいきもわっていることをわれた。

鳥羽とば伏見ふしみたたかのち慶喜よしのぶ追討ついとうれい久我くがとおるひさから新発田しばたはんには京都きょうと警護けいごのためにへいすようおたっしがくる。上京じょうきょう兵力へいりょくは、江戸えどからものあたまひさまいさん左衛門さえもんたいひゃくめい新発田しばたからものあたま佐治さじふじみぎ衛門えもんたいひゃくめいけいよんひゃくめいそう隊長たいちょう江戸詰えどづめ家老がろう速水はやみ八弥はちや

1がつ10日とおか京都きょうと発表はっぴょうされた朝敵ちょうてき区分くぶん一等いっとう徳川とくがわ慶喜よしのぶとう松平まつだいら容保かたもり会津あいづはん)、松平まつだいらじょうけい桑名くわなはん)、となっていた。それならばと会津あいづは2がつ1にち酒屋さかやむら陣屋じんや新潟にいがた酒屋さかやまち)にふたた越後えちごしょはんあつめて「酒屋さかや会談かいだん」をおこなう。中央ちゅうおう情勢じょうせいとの関連かんれんでこの会談かいだん危険きけんかんじて、高田たかだはんなど欠席けっせきしたはんおおかった。しかし、新発田しばたはんは、みずからの情報じょうほう提供ていきょうだいいちかい開催かいさいされたのだから、かい欠席けっせきするのはみずかはん会津あいづ宣言せんげんするようなもの、ということで出席しゅっせきする。代表だいひょう七里しちり敬吉よしきちろう井東いとうはちすすむおくまれる。会談かいだん無事ぶじわるが、うたげ最中さいちゅう新潟にいがた奉行ぶぎょうしょから、新発田しばたはんじゅう兵隊へいたいすうひゃくにん京都きょうとかったというらせがはいる。七里しちり井東いとうらぬぞんぜぬをとおすが、はんかえって調査ちょうさ返答へんとうすることをもとめられる。そのななさとがどういった弁明べんめいをしたかは不明ふめいだが、会津あいづはんは「疑念ぎねんこう」とした。

勅書ちょくしょたい請書うけしょ提出ていしゅつ

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2がつ15にち北陸ほくりくどう先鋒せんぽう総督そうとくけん鎮撫ちんぶ使高倉たかくらひさしどうふく総督そうとくけん鎮撫ちんぶ使四条しじょう隆平りゅうへいから勅書ちょくしょとどく。この勅書ちょくしょはんからはんへとリレーされてきたもので、新発田しばた村松むらまつはんからり、三日市みっかいちはんわたすものであった。各々おのおのはんかんがえをうかがいたいという趣旨しゅしで、副書ふくしょに、積雪せきせつおくれるのでさき書面しょめん通知つうちした、承知しょうちしたなら請書うけしょ(うけしょ)をすように、とあった。よく16にち勅書ちょくしょさんにちおくり、溝口みぞぐち半兵衛はんべえ用人ようにんみや北郷きたごう左衛門さえもんとともに北陸ほくりくどう南下なんかした。請書うけしょ文言もんごんは「おそれながらなおもっ忠誠ちゅうせいはげみ、王事おうじ勤労きんろうたてまつるのそと他念たねんござなくこう」というものであった。四条しじょう隆平りゅうへいの『きたせい記事きじ』によると、3月9にち高岡たかおか請書うけしょわたしたようである。越後えちごかくはんでは一番いちばんはやく、いで糸魚川いといがわ12にち高田たかだ14にち長岡ながおか三根みつねさん16にちだった。新発田しばた京都きょうとにいる窪田くぼたたいら兵衛ひょうえつうじて鎮撫ちんぶ使状況じょうきょうらされていたので素早すばや対応たいおうができた。対照たいしょうてき長岡ながおかはんは、河井かわい継之助つぐのすけ不在ふざいであり、京都きょうとすじ情報じょうほうっていなかったことから、寝耳ねみみみず薩長さっちょうぜいるとおもんで大騒おおさわぎしたという。

藩主はんしゅ江戸えどからの帰国きこく

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藩主はんしゅ安全あんぜんのことや、朝敵ちょうてき誤解ごかいされるのをおそれ、1がつ28にち藩主はんしゅ帰国きこくさせるよう家老がろう4にん連名れんめい書状しょじょうす。使者ししゃ大目おおめづけさとむらぬい殿どのぐん奉行ぶぎょうさんうらよんいちろう江戸えどでは窪田くぼたたいら兵衛ひょうえ速水はやみ八弥はちや京都きょうとにおり、老齢ろうれい溝口みぞぐち伊織いおりのみだったため、ことおくれ、国許くにもとからみぞ口内こうないたくみ応援おうえん出張しゅっちょうし、2がつ22にち直正なおまさ用人ようにん坂井さかい数馬かずま入江いりえ八郎はちろう左衛門さえもんら300にんあまり御供ごくうとも江戸えど出立しゅったつ帰国きこく理由りゆうとしては、朝廷ちょうていからの北陸ほくりくどう鎮撫ちんぶ使越後えちご下向げこうされるので、領内りょうない取締とりしまりのためということで、幕府ばくふ許可きょかる。

帰国きこく道筋みちすじについて、会津あいづまわりでくか、信州しんしゅうまわりでくか議論ぎろんがあった。しかし、老練ろうれん溝口みぞぐち伊織いおりは、信州しんしゅうまわりでいけば、会津あいづからの疑念ぎねんつよまるとかんがえ、いつもどおり会津あいづまわりでくべきとかんがえた。会津若松あいづわかまつじょうした宿やど宿泊しゅくはくちゅう会津あいづはん家老がろう萱野かやのちょうおさむより、激高げっこうしているわか藩士はんし不測ふそく事態じたいこすかもしれないので、藩主はんしゅいのちによりはん宿やど警備けいびするともうがある。さらに出立しゅったつのさいには、新発田しばたはんとの意思いし疎通そつうのため、藩士はんし武田たけだ五郎ごろうほか5めい同行どうこうさせ、新発田しばた滞在たいざいさせてしいと注文ちゅうもんる。新発田しばた監視かんしするためである。どこのはんでもそんなことはみとめないものだが、べつ難題なんだいされてもこまるので、新発田しばたはんはこれを承諾しょうだくした。直正なおまさは3がつ5にち帰国きこくにつく。

直正なおまさ帰国きこくの3にち今度こんどろうこうしずさん江戸えど出立しゅったつしずさんぜん藩主はんしゅ溝口みぞぐちただしで、持病じびょうのため前年ぜんねん隠居いんきょしていた。筆頭ひっとう家老がろう溝口みぞぐち伊織いおり用人ようにん仙石せんごく九郎兵衛くろべえ以下いか200にんあまり御供ごくうれて、15にち会津あいづ到着とうちゃく会津あいづはん家老がろう西郷さいごうよりゆきはは藩士はんし西郷さいごういさむ左衛門さえもん新発田しばた宿やどにやってて、溝口みぞぐち伊織いおり会談かいだんした。西郷さいごう新発田しばた諸々もろもろ疑念ぎねんについてしずさんおおやけっていただしたいという。伊織いおりおおやけ持病じびょうがあるのでおいさせるわけにはいかない、わたしはん藩主はんしゅって弁明べんめいするとこたえる。会津あいづはそれをことわり、おたがいそれ以上いじょう相手あいてめることはしなかった。会津あいづことあるごとに、新発田しばたへの憤激ふんげき意思いし表示ひょうじしていく。直正なおまさのときと同様どうよう西郷さいごういさむ左衛門さえもん新発田しばた同行どうこうし、滞在たいざいした。会津あいづへい新発田しばたじょうしも滞在たいざいは、とく軍事ぐんじかた憤激ふんげきはひどく、上申じょうしんしょしたり、はんちょう献策けんさくしたりした。

佐幕さばくからの要求ようきゅう

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3月30にち衝鋒たい50にんあまり新発田しばた城下じょうかあらわれる。かれらは2がつ7にち江戸えどから脱走だっそうした歩兵ほへい隊員たいいんで、3月8にち下野げややなでんたたかいでやぶれ、会津あいづせていた。会津あいづはまだ謝罪しゃざいみとめられるかもしれない時期じきだったので、生臭なまぐさ朝敵ちょうてきめておきたくなく、からだよくしていた。かれらは阿賀野川あがのがわくだり、3月28にち水原みずはらはいる。総督そうとく古屋こやたすく久左衛門きゅうざえもんふく隊長たいちょう今井いまい信郎のぶおらが新発田しばたにどちらがわくかめる。れいによって、こと重大じゅうだいなので即答そくとうできないというふうにこたえると、新潟にいがたおもむくので同行どうこうねがいたいと要求ようきゅうされる。新潟にいがたくと、衝鋒たい新発田しばたせんりょう借金しゃっきんもうれる。新発田しばたことわるが、なか脅迫きょうはくてき要求ようきゅうに、せんりょうせんりょうにまけてもらいかねした。村松むらまつなども同様どうようにたかられている。はんないではくやしがりいきどおるものもいたが、半兵衛はんべえかれらの背後はいごには会津あいづがいるとみて、隠忍いんにん自重じちょうすべきとかんがえた。ほかにも坂本さかもとへいわたるひきいる幕府ばくふしんゆうげきたい市川いちかわさん左衛門さえもんひきいる水戸みとはんしょなまとうへいなどのうち200めいあまり新発田しばた城下じょうかおとずれ、またせんりょう借金しゃっきんもうんできた。これも値切ねぎって千両せんりょうあたえた。また会津あいづはんからもこめ10000ひょうりたいともうがあり、れいによって値切ねぎって5000ひょうあたえた。同様どうよう会津あいづ武井たけい柯亭土屋つちやそうぞうらからまんりょう借金しゃっきんもうみがあり、値切ねぎってせんりょうあたえた。

奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい加盟かめい

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5月15にち米沢よねざわはん中老ちゅうろう若林わかばやし作兵衛さくべえ仙台せんだいはん玉虫たまむしひだり大夫たいふ鈴木すずき直記なおき新発田しばた来訪らいほう溝口みぞぐち伊織いおり溝口みぞぐちなかば左衛門さえもん応対おうたい。もし同盟どうめいはいらないのであれば、ことおよばざるをない、というつよ圧力あつりょくに、翌日よくじつまで回答かいとうってもらうことにした。しかし、ここへきては妙案みょうあんもなく、よく16にちろうこうしずさん了承りょうしょうて、回答かいとうしょ提出ていしゅつし、盟約めいやくしょ署名しょめいした。17にちはんない奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい加盟かめい布告ふこくされたが、はんないには不服ふふくおお喧々けんけん轟々ごうごうだった。18にち密使みっし井上いのうえさかえすすむ新発田しばたつ。仙台せんだいから海路かいろで30にち江戸えどいた。江戸えどには京都きょうと警護けいごえ、東征とうせいぐんとして江戸えど駐屯ちゅうとんしていた家老がろう速水はやみ八弥はちやがいた。井上いのうえ列藩れっぱん同盟どうめい加盟かめい速水はやみ報告ほうこく。これをけて速水はやみは6がつ1にちだい総督そうとく参謀さんぼう事情じじょう上申じょうしんした。米沢よねざわ仙台せんだい庄内しょうない圧力あつりょくくっし、やむをえず同盟どうめい加盟かめいしたが、勤王きんのうこころざしわらぬこと。これにたいし、総督そうとくからは、さらに報告ほうこくがあるまで江戸えど新発田しばたへい謹慎きんしんするにはおよばないという返事へんじる。

領民りょうみんとの連携れんけい

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同盟どうめい加盟かめい新潟にいがたひらかれる列藩れっぱん会議かいぎ新発田しばた代表だいひょう重臣じゅうしんと、守備しゅび兵力へいりょくすことになる。5月19にち新発田しばたじょうはんへい出陣しゅつじんしきおこなわれる。組頭くみがしらほり主計かずえ大将たいしょうとし、ものあたまさとむらぬい殿どの服部はっとりよし左衛門さえもんひきいる200めいあまりほう 4もん出陣しゅつじんした。この前日ぜんじつ一部いちぶ先発せんぱつし、このうち 2小隊しょうたい庄屋しょうや子弟してい組織そしきされた農兵のうへいたいだった。ほりたいは21にち新潟にいがた米沢よねざわはん総督そうとく色部いろべ長門ながとるまでは会議かいぎひらかれない。前線ぜんせんに1へいでもしい会津あいづ米沢よねざわから強烈きょうれつ出兵しゅっぺい督促とくそくがくる。ほり新潟にいがた警備けいびのためにたのだからとことわるが、のらりくらりけることはできず、出兵しゅっぺい約束やくそくをさせられてしまう。27にち新潟にいがたち、沼垂ぬったりで 1はく翌日よくじつ加茂かも出発しゅっぱつしようとしたところ、領民りょうみんみちをふさぎ、はしとし、かわにもしがらみがしてあった。領民りょうみん官軍かんぐんとはたたかわないでくれと懇願こんがんほりたいはこのまま沼垂ぬったりまる。

れを領民りょうみん蜂起ほうきだいいちとなす。けだし藩士はんしひそかに、領民りょうみん使嗾しそう(しそう、そそのかす)せしならん — 新発田しばたはんつちのえたつ始末しまつ

ほり主計かずえたい出兵しゅっぺい督促とくそくけていたころ新発田しばたじょうにも出兵しゅっぺい督促とくそくていた。6月1にちものあたま脇本わきもと庫之助くらのすけ高田たかだ忠兵衛ちゅうべえ高山たかやま安兵衛やすべえ部隊ぶたい加茂かも出発しゅっぱつした。普通ふつうけば2にち道程どうていだが、4にちになっても新津にいつにも到着とうちゃくしない。米沢よねざわいかり、加茂かも定宿じょうやど明田あけたがわぼうたずねると、新潟にいがた沼垂ぬったり警備けいびにでもいったのだろうかととぼける。6月6にち新津にいつ到着とうちゃく。ここで竹槍たけやりった農民のうみん大群たいぐんかこまれすすめなくなる。

領民りょうみん四方しほうよりあつまりそのかずすうひゃくせんにん進軍しんぐんを阻塞し、歎願たんがんしていわく、進軍しんぐんするなかれ、官軍かんぐんたたかうなかれ(れを領民りょうみん蜂起ほうきだいとす) — 新発田しばたはんつちのえたつ始末しまつ

6月7にち新発田しばた城下じょうか大変たいへんなことがきたといううわさはいってくる。このうわさもないことではなく、藩主はんしゅ人質ひとじち未遂みすい事件じけんかんすることのようである。脇本わきもと高田たかだらははん無断むだん新発田しばたかえる。しかし城下じょうかへはれてもらえず、役職やくしょく免職めんしょく知行ちぎょうは50せきずつらされた。同盟どうめいしょはん手前てまえ厳重げんじゅう処罰しょばつせざるをなかった。後任こうにんに、加藤かとうとも左衛門さえもんはやし文左衛門ぶんざえもん任命にんめいされ、加茂かもおくるのかとおもえば、沼垂ぬったり進発しんぱつさせている。

藩主はんしゅ人質ひとじち未遂みすい事件じけん

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6月3にち米沢よねざわ藩主はんしゅ上杉うえすぎ斉憲なりのりみずから1000にんあまりへいひき米沢よねざわ出発しゅっぱつ、6にち越後下関えちごしもせき関川せきかわむら)に到着とうちゃく。これに先立さきだち5にち斉憲なりのり使者ししゃとして、ぐんかん大滝おおたき新蔵しんくら新発田しばた急行きゅうこう直正なおまさ下関しものせきてもらいぐんひらきたいともうれてきた。1000にんあまり米沢よねざわへいのいるところへいということは、人質ひとじちとなれということである。6月7にち直正なおまさ溝口みぞぐち内匠たくみ少数しょうすう藩士はんししろた。しばらくすすむと、竹槍たけやりった領民りょうみんたちがみちふさいでいた。城下じょうか町民ちょうみんや、五十公野いずみの浜通はまどおり新発田しばたおかかたなどからあつまった農民のうみんだった。領内りょうない島潟しまがたむらだい庄屋しょうや小川おがわ兵衛ひょうえ村役人むらやくにんたちが群衆ぐんしゅう指揮しきしている。さらに群衆ぐんしゅうなかには、変装へんそうした新発田しばた藩士はんしじっていた。直正なおまさかご清水谷しみずたに別邸べっていはいり、9にちまで滞在たいざいし、じょうした。

領民りょうみん、そのやしきかこみて警護けいごせり(れを領民りょうみん蜂起ほうきだいさんとす。けだしさんかい蜂起ほうきみな重臣じゅうしん密計みっけいならん。しかれども、いまそのところつまびらかにするあたわず) — 新発田しばたはんつちのえたつ始末しまつ

新発田しばたはんは、しょはんへのもうひらきのために領民りょうみん扇動せんどうした首謀しゅぼうしゃとらえてせねばならなかった。首謀しゅぼうしゃとして、折笠おりかさやすしすけ阿部あべもとむすすむなわにかけ、下関しものせき護送ごそうしていった。米沢よねざわ取調とりしらべは峻烈しゅんれつだった。しかし、2人ふたり新発田しばたおくかえされてくる。真犯人しんはんにん小物こものではないことを見抜みぬいていたからか。はんではかれらを投獄とうごくしたが、西にしぐん上陸じょうりくすると釈放しゃくほうしている。

領民りょうみん蜂起ほうきうらにはおおくの藩士はんしがいたようである。溝口みぞぐち伊織いおりは5がつごろ家臣かしん田宮たみやあまりいち酒癖さけぐせ理由りゆう追放ついほうした。田宮たみや姿すがたしたが、じつ伊織いおり密命みつめいけていたという。6月7にち領民りょうみん蜂起ほうきのとき、あちこちまわって、なにか指揮しきしている田宮たみや姿すがたがあった。みぞ口内こうないたくみ家臣かしん小川おがわ作兵衛さくべえ田宮たみや同志どうしで、二人ふたり領民りょうみんあいだ地下ちか運動うんどう組織そしきしていたといわれる。

新発田しばたじょう包囲ほうい

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6月9にち新発田しばた郊外こうがい五十公野いずみの佐々木ささき真野原まのはら島潟しまがたつつみ米沢よねざわ同盟どうめいしょはん軍隊ぐんたい続々ぞくぞく集結しゅうけつした。この包囲ほういもう外側そとがわの、島見しまみ松ヶ崎まつがさきにも後詰ごづめぐんひかえた。米沢よねざわ大滝おおたき新蔵しんくらぐん200にんあまり、ほか合計ごうけい600にんえる兵力へいりょくだった。新発田しばたはんは、江戸えどに400にんあまり沼垂ぬったりに400にんあまり派遣はけんしており、農兵のうへいがいたとしてもすうひゃくにん程度ていど前日ぜんじつ8にちに、五十公野いじみの同盟どうめいしょはん会議かいぎがあり、家老がろう溝口みぞぐち内匠たくみ山崎やまざき重三郎しげさぶろうびつけられていた。出兵しゅっぺいさせるか、藩主はんしゅ一族いちぞくしろ退くか、9にちよる12までにどちらかにおうじなければ、そう攻撃こうげきうつる、と最後さいご通告つうこくきつけられた。

新発田しばたまも隊長たいちょう佐治さじまご兵衛ひょうえさまでございましたが『もしてきふせぎきれないときかねらすから、そのとき新発田しばたけそうだとおもって、即刻そっこく退け』という布令ふれいがまわされていしたから、どうぞまご兵衛ひょうえさまかねるなら、ひるるようにと、いのっていました。家内かないちゅう毎日まいにちびくびくして、今日きょうらなかった、などといっておりました。ところが大雨おおあめったばんおそれておりましたまご兵衛ひょうえさまかねが、突然とつぜんりました。ああ、とうとうった。このどしゃりの最中さいちゅうにと、がお道具どうぐ片付かたづけをはじめ、めぼしいものを背負せおって、あめなかちかくの農家のうかのがれました — 『新発田しばた所収しょしゅう郷土きょうど余話よわ諸橋もろはしたまさんの談話だんわ

約束やくそくの12ぎても、新発田しばたはんからの返答へんとうはない。大滝おおたき新蔵しんくら腹心ふくしんさくらまご左衛門さえもんび、自分じぶん単身たんしん新発田しばたじょうむから、一刻いっこくぎてももどってこなかったらそう攻撃こうげきうつるようにとつたえる。大滝おおたきしろかおうとしたとき、うまけてて、溝口みぞぐち内匠たくみらがて、ただちに出兵しゅっぺいする、領民りょうみん扇動せんどう首謀しゅぼうしゃ 2めい前出ぜんしゅつ折笠おりかさ阿部あべ)をわたすと回答かいとうした。そして何事なにごともなかったように10日とおかあさむかえた。

ひがしぐんとして出兵しゅっぺい

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溝口みぞぐちなかば左衛門さえもんろうこうしずさんからされ、新発田しばたへいそう隊長たいちょうにんぜられる。6月11にちものあたま佐藤さとう八右衛門はちえもん溝口みぞぐち四郎しろう左衛門さえもん以下いか200めいあまりほう4もんひきいて、見附みつけだい一線いっせんかった。沼垂ぬったりにいたほり主計かずえたいからも200めいあまりほう2もんはん左衛門さえもん指揮しきはいり、見附みつけかった。はん左衛門さえもん部隊ぶたいには米沢よねざわはんへい監視かんしのためにいていた。16にち戦場せんじょう到着とうちゃく。19にち新発田しばたはん初陣ういじんとなる。先鋒せんぽうめいぜられ、米沢よねざわの2小隊しょうたい督戦とくせんたいとしてそのうしろについた。さらに、5、6にん米沢よねざわ藩士はんし直接ちょくせつ新発田しばたぜいはいんでかんした。新発田しばたはん佐藤さとう八右衛門はちえもん負傷ふしょうしたほか、戦死せんし4、戦傷せんしょう5の犠牲ぎせいしたが、米沢よねざわはん総督そうとく千坂ちさか太郎左衛門たろうざえもんより「初陣ういじん勝利しょうり、ひっきょう御世みよばなしとどくのゆえと、まった感心かんしんこう」と評価ひょうかされ、現場げんば指揮しきかん米沢よねざわ斎藤さいとう主計かずえも「ぬさはんはじめ、しょはんともにおどろかす勇猛ゆうもうだん感心かんしんいたこう。このすえは、しょはん疑念ぎねんさんこうはもちろん、およばずながらぬさはんにていずれのへも、まんはしもうこう」とした。

しん政府せいふ西にしぐん弁明べんめい

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6月16にち藩士はんし中野なかのいそへい半兵衛はんべえ密命みつめいけ、京都きょうとった。26にちよる京都きょうとき、27,28と滞在たいざい。7がつ10日とおか新発田しばたかえってきた。かれ滞在たいざいちゅう在京ざいきょう窪田くぼたたいら兵衛ひょうえ連絡れんらくをとり、新発田しばたはん立場たちばしん政府せいふ弁明べんめいし、その指示しじあおいだ。しん政府せいふは「新発田しばたはん行動こうどう微力びりょくはんとしてはやむをえないものと太政官だじょうかん了承りょうしょうした。官軍かんぐん敵対てきたいしても、とき勤王きんのう実効じっこうあらわせば、おいえのことはあんじなくてもい」と回答かいとうした。

7がつ在野ざいや民兵みんぺいたい方義まさよしたい西にしぐん与板よいたはんへいかき木山きやままもっていた。その方義まさよしたい一員いちいんである新保しんぼ長三郎ちょうさぶろう新発田しばたりょう鵜森うのもりぐみ庄瀬しょうぜ庄屋しょうやで、7がつ20日はつかころたい休暇きゅうかねがて、それっきりかえらなかった。かれ対岸たいがん溝口みぞぐちなかば左衛門さえもんたい接触せっしょくし、そのいのちびて、西にしぐん長岡ながおか本営ほんえい出頭しゅっとうし、新発田しばたはん出兵しゅっぺい事情じじょうもうひらきをしたという。新発田しばたはんしんに1だい3にん扶持ふち恩賞おんしょうあたえた。

西にしぐん上陸じょうりく

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うるう4がつ23にちみぞ口内こうないたくみ江戸えど出発しゅっぱつし、途中とちゅう西にしぐんあやしまれとらえられ高田たかだ護送ごそうされ、おなごろ山崎やまざき重三郎しげさぶろう西にしぐんつかまっていた。京都きょうと窪田くぼたたいら兵衛ひょうえ寺田てらだそうろう派遣はけんし、内匠たくみ山崎やまざきは5がつ20日はつか釈放しゃくほうされていたが、今度こんど寺田てらだ高田たかだつかまっていた。西にしぐん新発田しばた完全かんぜんには信用しんようしていなかった。窪田くぼた今度こんどは、みつぎ相馬そうまさくみぎ衛門えもん高田たかだ派遣はけんする。みつぎかくはんしん政府せいふ派遣はけんしている藩士はんしで、家老がろう窪田くぼたでも勝手かって命令めいれいできない。しん政府せいふべん事務所じむしょにかけあって許可きょかをもらい、6月29にち相馬そうま高田たかだ派遣はけん、7がつ9にちいた。そこではん事情じじょうくわしくべ、ようやく寺田てらだ釈放しゃくほうされた。寺田てらだ相馬そうまはそのあし柏崎かしわざきまでおもむき、薩摩さつま参謀さんぼう吉井よしいみゆきった。吉井よしい京都きょうと窪田くぼたしたしく、新発田しばた実情じつじょうもよくっている人物じんぶつだった。寺田てらだ相馬そうま吉井よしいれられ長岡ながおかにいる山縣やまがた有朋ありとも黒田くろだりょうかいりょう参謀さんぼうともった。

おりから(なながつじゅうさんにち参謀さんぼう楠田くすだじゅう左衛門さえもん新発田しばたじん寺田てらだぼう相馬そうまぼう両人りょうにん同道どうどうして到着とうちゃくしたるが、両人りょうにんげんしょによれば、新発田しばた賊徒ぞくとのためにせまられて、むを多少たしょうへいしたりといえども、もとより王師おうしこうするのあるにざれば、両人りょうにん帰郷ききょううえ国内こくない鎮撫ちんぶして、王師おうしむかえうることとしたし、とのことにて、はたしてそのげんいつわりなければ、てき背後はいご上陸じょうりくすべき軍隊ぐんたいは、一層いっそう便利べんりるわけなり。よって吉井よしい同日どうじつすなわじゅうさんにち柏崎かしわざきおもむき、どうしょにおいて海軍かいぐんと、わせをなすことにけっしたり — 『えつ山風やまかぜ』 山県やまがたきょうかい

吉井よしいにん密命みつめいつたえ、旅券りょけんわたし、新発田しばたかえりはんさせた。7がつ20日はつか新発田しばた到着とうちゃく

黒田くろだりょうかいそう指揮しきかんとする1000めい上陸じょうりく部隊ぶたいは、7がつ24にち佐渡さわたり小木おぎこう寄港きこうし、よる10より新発田しばたりょう太夫浜たゆうはまけて出港しゅっこうした。25にちあさ西にしぐん太夫浜たゆうはま上陸じょうりく新発田しばた城下じょうかへもらせがび、藩士はんし島村しまむらぼうの1小隊しょうたい上陸じょうりく地点ちてん急行きゅうこうし、はん帰順きじゅんつたえ、城下じょうか先導せんどうした。半分はんぶん新潟にいがた方面ほうめんへ、半分はんぶん新発田しばたかった。このよる溝口みぞぐち半兵衛はんべえは、黒田くろだ会談かいだんし、藩主はんしゅ柏崎かしわざきおもむき、仁和寺にわじみや拝謁はいえつすることによって官軍かんぐん疑念ぎねんらすようすすめられる。

市民しみんまた自費じひをなげうち、すこぶ歓待かんたいせり — 新発田しばたはんつちのえたつ始末しまつ

こういう状況じょうきょうだったので新発田しばたはんは、江戸えどに400にん見附みつけに500にん沼垂ぬったりに200にん派遣はけんしているのに、即座そくざに400にん城下じょうか周辺しゅうへん配備はいびさせることができた。民兵みんぺいたちちからうところがおおきかった。

新潟にいがた戦線せんせん

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25にちあさ沼垂ぬったり隊長たいちょうほり主計かずえ領内りょうない津島屋つしまや庄屋しょうやつぎろうからの急報きゅうほう官軍かんぐん太夫浜たゆうはま上陸じょうりくった。かれ高久たかく六郎ろくろう左衛門さえもんめいじて、阿賀野川あがのがわ付近ふきん配置はいちしていたへいを、本所ほんじょ集結しゅうけつさせ、そこに沼垂ぬったりから1小隊しょうたいおくんだ。さらに農夫のうふ変装へんそうした吉田よしだおの太夫たゆうを、領内りょうない寺山てらやま新田しんでん庄屋しょうやきゅう左衛門さえもんとともに、西にしぐんのいる松ヶ崎まつがさき渡河とかさせた。おの太夫たゆう西にしぐんとがめられ、新発田しばたはん帰順きじゅんしたのちであったから、はなしはすぐにつうじて、ぐん参加さんかした。おの太夫たゆう新発田しばたはん立場たちば説明せつめいし、一同いちどう了承りょうしょう西にしぐんからはてき兵力へいりょく配置はいち道筋みちすじなどの質問しつもんがあった。おの太夫たゆうてき防備ぼうび手薄てうすで、すみやかに進撃しんげきすべきと進言しんげんした。ふね準備じゅんびのため渡河とかよく26にち新発田しばたはんへい官軍かんぐんには空砲くうほうつこと、新発田しばたへい溝口みぞぐちだんひしもん標識ひょうしきとし、官軍かんぐんはこれには安心あんしんして前進ぜんしんしてよい、といったことがめられた。 ほり主計かずえは、新潟にいがたひがしぐんぐんにも密偵みってい派遣はけんして情報じょうほう収集しゅうしゅうした。会津あいづ藩士はんし大沢新おおざわしんすけ津島屋つしまや斥候せっこうき、新発田しばた裏切うらぎったことをり、新潟にいがたかえると、その密偵みっていはいなくなっていた。そのよる仙台せんだい藩士はんし新発田しばたはんあいだしゃ2にんり、1人ひとりがしたと大沢おおさわ記述きじゅつしている。西にしぐん阿賀野川あがのがわ渡河とかすると、米沢よねざわへい新発田しばたへい西にしぐんはさちされる危険きけんかんじて、信濃川しなのがわ対岸たいがん新潟にいがたまちまで退却たいきゃくした。26にちよるにはげいしゅうはん砲兵ほうへいたい合流ごうりゅうした。ほり主計かずえ吉田よしだおの太夫たゆう西にしぐんしょはんぐんおこなわれた。西にしぐんひがしぐん兵力へいりょくを2500にん程度ていど早期そうき進撃しんげき消極しょうきょくてきろんたが、『新潟にいがた』によると、米沢よねざわ300にん会津あいづ50にん、その50にん程度ていどというのが実態じったいだったようである。信濃川しなのがわはさんでのいが26にちよるから27,28にちつづいた。大砲たいほう薩長さっちょう部隊ぶたい新発田しばたじょうかったので、26にちよる新発田しばた大砲たいほうのみ、翌日よくじつから新発田しばたげいしゅう砲兵ほうへいった。げきいのあいだ西にしぐんは、最初さいしょ渡河とか地点ちてん上流じょうりゅう4,5キロのところさだめた。寺山てらやま新田しんでん庄屋しょうやきゅう左衛門さえもん天神尾てんじんお新田にった庄屋しょうや雄吾ゆうご藤四郎とうしろう甚助じんすけらが渡河とかようふね30せきあつめてきた。29にち未明みめい庄屋しょうやきゅう左衛門さえもん長州ちょうしゅう藩士はんし奥平おくだいら謙輔けんすけ案内あんないし、対岸たいがん隠密おんみつ偵察ていさつをした。2人ふたり偵察ていさつによれば対岸たいがんひがしぐん意外いがい手薄てうすであることがかり、午前ごぜん4渡河とかはじめた。新発田しばたへい丹羽にわわたる五郎ごろうすうめい案内あんないやくをした以外いがいは、沼垂ぬったりでの援護えんご射撃しゃげきめいぜられた。ひがしぐん退却たいきゃくし、米沢よねざわはん総督そうとくしょく部長ぶちょうもん自害じがいした。色部いろべくび関屋せきや斎藤さいとう西にしぐんからまもりぬき、11月に色部いろべかえされた。

直正なおまさ仁和寺にわじみや拝謁はいえつ

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7がつ28にち直正なおまさ柏崎かしわざきけて出発しゅっぱつ領内りょうない島見しまみはまからふねった。御供ごくうは、溝口みぞぐち半兵衛はんべえ相馬そうまさくみぎ衛門えもん入江いりえ八郎はちろう左衛門さえもんら。ぐんかん岩村いわむら精一郎せいいちろう案内あんないつとめ、よく29にち到着とうちゃく仁和寺にわじみや拝謁はいえつみやからは新発田しばたはんすみやかに帰順きじゅんしたことについて、おめの言葉ことばがあり、今後こんごいよいよ国家こっかのために尽力じんりょくするように、との言葉ことばたまわった。直正なおまさみや新発田しばたにおすすみになるまではこの本営ほんえいまらせていただきたいともう、このねがいは許可きょかされ、8がつ11にちみや新潟にいがたすすむとき、先導せんどうめいぜられる。

西にしぐん参加さんか

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戦況せんきょう進展しんてんにより、仁和寺にわじみや長岡ながおかて、13にちさんじょう到着とうちゃく。ここで直正なおまさはんゆるされる。以後いご先導せんどう溝口みぞぐち半兵衛はんべえつとめ、このときまでに降伏ごうぶくしていた三日みっか黒川くろかわりょう藩主はんしゅ新潟にいがたから御供ごくうをした。ひがしぐん一員いちいんとして参加さんかしていた溝口みぞぐちなかば左衛門さえもんたいは8がつ1にち三条さんじょう降伏ごうぶくはん左衛門さえもん見附みつけ謹慎きんしんめいぜられ、新発田しばたへい西にしぐん一員いちいんとなる。江戸えどにいた新発田しばたへい400にんあまりはんゆるされ、8がつ11にち江戸えどった。みやむかえて、越後えちごこう本営ほんえい柏崎かしわざきから新発田しばたうつった。

尊皇そんのう開国かいこく

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勤王きんのう新発田しばた」ともしょうされるが、じゅうだい藩主はんしゅちょくりょうしるした『報国ほうこくせつ』『開国かいこくせつ』からであるといわれる。「尊皇そんのう開国かいこくろんであり、水戸みとはん西国さいごくしょはんの「尊皇そんのう攘夷じょうい」とはことなる開明かいめい勤王きんのう思想しそうである[6]ちょくりょう隠居いんきょ皇族こうぞく公家くげあいだでもまれたという。山崎やまざき闇斎あんさいさきもん学派がくは大義名分たいぎめいぶんしんべたものである。これらの著作ちょさく一般いっぱんまれるようになり、はんない勤王きんのうるにいたった。

相馬そうまさくみぎ衛門えもん上申じょうしんしょにはこれまで皇室こうしつをないがしろにした将軍家しょうぐんけつみげ、先祖せんぞ家康いえやす)がいかに勲功くんこうがあっても、子孫しそん間違まちがったことをするのなら、徳川とくがわ臣節しんせつくす必要ひつようはないとし、武力ぶりょくみずからの権勢けんせい保持ほじしようとするものにけば大義名分たいぎめいぶんしっするとした。藩儒はんじゅ寺尾てらおぶんこれしんは5月30にちそう登城とじょうさい王事おうじくすことは歴代れきだい藩侯はんこう遺訓いくんである、ぜんはんしろまくらすべきである、勝敗しょうはいうところではないと主張しゅちょう。しかし、はんろん勤王きんのうじゅんじて玉砕ぎょくさいする方針ほうしんらなかった。

いわゆる正義せいぎとうちがうのは、藩士はんし領民りょうみんにとって、「勤王きんのうはん」にくすことが大義名分たいぎめいぶんなのであって、勤王きんのうはんえた価値かちとし、ゆくゆくははん解消かいしょうすべきとかんがえる正義せいぎとう価値かちかん危険きけん思想しそうであった。方義まさよしたい新保しんぼ長三郎ちょうさぶろう戦後せんごおなたいだった二階堂にかいどう保則やすのり口論こうろんしている。ものあたま佐藤さとう八右衛門はちえもんしんを「正義まさよしとうではあるけれども、御家おいえへの忠節ちゅうせつほんである人間にんげんで、いちとおりの正義せいぎとう仲間なかまにははいらず、尽力じんりょくしたものである」と評価ひょうかした。新保にいぼ庄屋しょうやきゅう左衛門さえもん庄屋しょうやたちはすすんで勤王きんのう思想しそうまなび、はん大事だいじすすんで貢献こうけんした。

以上いじょう[7]

新発田しばたはん舞台ぶたいにした作品さくひん

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  • 玉垣たまがき』(乙川おとがわゆう三郎さぶろう
    • 新発田しばたはん家老がろう溝口みぞぐち半兵衛はんべえ家臣かしん系譜けいふ閲歴えつれきしるした『しん』という史料しりょうをもとにして、新発田しばたはん様々さまざま家臣かしん生活せいかつえがいた小説しょうせつ

著名ちょめい藩士はんし

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藩邸はんてい

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幕末ばくまつ領地りょうち

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上記じょうきのほか、蒲原かまはらぐん65むら幕府ばくふりょうあずかり、6むらほんはん、59むら新潟にいがたけんだい1)に編入へんにゅうされた。

明治維新めいじいしんのちに、蒲原かまはらぐん319むらきゅう村松むらまつはんりょう78むら会津あいづはんりょう61むら三日市みっかいちはんりょう18むら村上むらかみはんりょう 6むら菊間きくまはんりょう 5むら黒川くろかわはんりょう 2むら越後えちご長岡ながおかはんりょう 1むらはた本領ほんりょう 8むら幕府ばくふりょう151むら内訳うちわけ水原みずはら代官だいかんしょりょう81むら桑名くわなはんあずかところ63むら新発田しばたはんあずかところ 6むら三日市みっかいちはんあずかところ 1むら)がくわわった。なおあいきゅう存在そんざいするため、むらすう合計ごうけい一致いっちしない。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 現在げんざい新潟にいがた秋葉あきは七日なのかまち家臣かしん一揆いっき一味いちみによりころされている
  2. ^ かすみ会館かいかん華族かぞく家系かけい大成たいせい編輯へんしゅう委員いいんかい へん平成へいせいしんおさむきゅう華族かぞく家系かけい大成たいせい. 下巻げかん吉川弘文館よしかわこうぶんかん (1996ねん) 683ぺーじ
  3. ^ 新発田しばた藩主はんしゅのほか、横田よこた溝口みぞぐち池之端いけのはた溝口みぞぐち旗本はたもと溝口みぞぐちがある。
  4. ^ 開基かいき当主とうしゅ来駕らいが日日ひび好日こうじつ – 」(廣澤山ひろさわやまたからひかりてら 2016ねん6がつ13にち
  5. ^ 新発田しばたはん史料しりょう だいかん はんしんへん』 国書刊行会こくしょかんこうかい 1988ねん
  6. ^ どうだいいちかん 藩主はんしゅへん』『だいさんかん 藩政はんせいへん』(新発田しばた編纂へんさん委員いいんかい へん
  7. ^ 裏切うらぎり―つちのえたつ新潟港にいがたこう陥落かんらくす』 中島なかじま欣也きんやしる 恒文社こうぶんしゃ 1988ねん
  8. ^ 堀部ほりべ武庸たけつね日記にっき』(細井ほそい広沢ひろさわに よる加筆かひつ編纂へんさん
  9. ^ よしみえい慶応けいおう 江戸えどきり絵図えず」(尾張おわりきよし七板なないた)

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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先代せんだい
越後えちごこく
行政ぎょうせい変遷へんせん
1598ねん - 1871ねん 新発田しばたはん新発田しばたけん
次代じだい
新潟にいがたけん