出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
楠田 英世(くすだ ひでよ、文政13年11月19日(1831年1月2日) - 明治39年(1906年)10月22日)は、日本の武士・官僚。第一次新潟県知事・元老院議官。男爵。通称は十佐衛門、十助[2]。
肥前佐賀藩に生まれる。明治元年(1868年)、会津戦争で仁和寺宮嘉彰親王の副参謀となる。明治2年2月22日(1869年4月3日)から同年7月27日(9月3日)まで新潟県知事を務めた[3]。その後、大学少丞、同大丞、大史、司法少判事、制度御用兼勤、司法中判事などを経て、明治4年5月11日(1871年6月28日)、明法権頭になる[3]。その後、司法大丞、司法大検事を兼任し、江藤新平や箕作麟祥らとともに民法会議に出席し旧民法の編纂に従事した。その後、司法省三等出仕、兼明法頭、法制課長、左院御用掛などを歴任[3]。1876年(明治9年)4月8日より1884年(明治17年)4月30日まで元老院議官を務める。この間、訴訟法取調委員、民法編纂委員などを務め、1881年(明治14年)7月27日、登記法取調掛委員長に就任[3]。明治39年(1906年)、死去。享年76。
妻・與野子は永倉久芳の次女[6]。與野子との間に2男2女をもうけた[6]。長女・千代子は長尾俊次郎と結婚し2女をもうけたが離婚したため俊次郎・千代子の長女・英子は英世の養女となった[6]。長男・申八郎は英世の死後家督を相続し襲爵したが子がなかったため姪で父・英世の養女となった英子を自らの養女とし[6]、保科正益の次男・咸次郎を婿養子として迎えた[6]。咸次郎・英子夫妻の次女・相子は元三菱銀行頭取・田実渉に嫁いだ[6][7]。
- ^ 的野半介『江藤南白 上』南白顯彰会、1914、p643
- ^ 『明治維新人名辞典』353頁。
- ^ a b c d 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』341-346頁。
- ^ 『官報』号外「授爵叙任及辞令」1900年5月9日。
- ^ 『官報』第5089号「叙任及辞令」1900年6月21日。
- ^ a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成 上巻』541頁。
- ^ 『門閥』262-263頁、270頁。
|
---|
|
前身諸学校長 |
---|
|
---|
南校校長 | |
---|
第一大学区第一番中学長 | |
---|
開成学校長 | |
---|
東京開成学校長 | |
---|
|
| | | | | | | 東京大学附属医学専門部長 |
---|
東京帝国大学臨時附属医学専門部主事 | |
---|
東京帝国大学附属医学専門部長 |
- 部長/事務取扱 颯田琴次 1944-1947/1947
|
---|
東京大学附属医学専門部長 | |
---|
|
|
|
|
|