(Translated by https://www.hiragana.jp/)
明法寮 - Wikipedia コンテンツにスキップ

あかりほうりょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

あかりほうりょう(めいほうりょう、1871ねん-1875ねん)は、明治めいじ政府せいふ発足ほっそくにおける法律ほうりつ養成ようせい目的もくてきとして、日本にっぽん司法省しほうしょう設置せっちされた部局ぶきょくあかりほうりょうまなんだ法学ほうがく生徒せいとが、明治めいじ大正たいしょう法律ほうりつ実務じつむ法学ほうがくしゃとして活躍かつやくした[1]のちにその機能きのう拡大かくだいされ、立法りっぽう事業じぎょうにな司法省しほうしょう中枢ちゅうすう機関きかんとなったが[2][3]1875ねん明治めいじ8ねん)に廃止はいしされ、あかりほうりょうになっていた機能きのう司法省しほうしょう本省ほんしょう司法省しほうしょうほう学校がっこう)に承継しょうけいされた[4]

概要がいよう

[編集へんしゅう]

明治めいじ政府せいふ発足ほっそくにより政治せいじ体制たいせい変革へんかくしたことにともない、司法官しほうかんかく方面ほうめん配置はいちする必要ひつようがあったが、そのにんにあたるべき人材じんざいりておらず、法律ほうりつ専門せんもん知識ちしきゆうする人材じんざい養成ようせい司法省しほうしょうにとって急務きゅうむとされた[5]

1871ねん明治めいじ4ねん9月27にち、「其省ちゅうあかりほうりょうおけこうごと ただし一等いっとうりょうこと」とする太政官だじょうかんたち司法省しほうしょういたる[6]により司法省しほうしょうあかりほうりょう設置せっちされた[7]設立せつりつ当初とうしょ目的もくてきは、法律ほうりつ養成ようせいして上記じょうき司法省しほうしょう要請ようせいこたえることであった[8]1872ねん明治めいじ5ねん)5がつには、あかりほうりょうほう学校がっこう開設かいせつ決定けっていし、法学ほうがく生徒せいと募集ぼしゅうはじまった[9]

同年どうねん8がつ3にち太政官だじょうかんたち司法しほう職務しょくむじょうせい)のだい19しょうおよだい20しょうだい78じょうからだい84じょう)により、あかりほうりょう機構きこう職掌しょくしょう具体ぐたいてきさだめられた[9]。そこでは、「法律ほうりつさるあかりスルヲあかりほうりょうトス」と規定きていされ、具体ぐたいてきには、新法しんぽう起草きそう(79じょう)や各国かっこくほう研究けんきゅう(80じょうとうがその任務にんむとされた。法学ほうがく教育きょういくについては、だい法官ほうかん以下いか法官ほうかん職掌しょくしょう一部いちぶに「生徒せいと教授きょうじゅス」(78じょう)とさだめられているほか、だい84じょうだい6に「法科ほうか生徒せいとしょ規則きそく生徒せいと規則きそくしょへんム」との規定きていかれている。司法しほう職務しょくむじょうせい規定きていからは、法律ほうりつ研究けんきゅう立法りっぽう事業じぎょう従事じゅうじすることがあかりほうりょうしゅ目的もくてきとされ、法学ほうがく教育きょういく任務にんむ一部いちぶになった[9][10]

ほう学校がっこう開校かいこうにあたっては、江戸えど幕府ばくふ開設かいせつした洋学ようがくしょ伝統でんとうみなみこう大学南だいがくみなみこう改称かいしょう)からも生徒せいと入学にゅうがく志願しがんし、入学にゅうがくしゃ20めいちゅう9めいみなみこうから転校てんこうしてきた学生がくせいであった[11]。フランスじん教師きょうしとして、1872ねんジョルジュ・ブスケよく1873ねん明治めいじ6ねん)にはギュスターヴ・エミール・ボアソナードむかえ、フランス語ふらんすごによる本格ほんかくてき法学ほうがく教育きょういく開始かいしされた。

あかりほうりょう役割やくわり個別こべつ裁判さいばんにもおよんだ。司法しほう職務しょくむじょうせいしたでは、府県ふけん裁判所さいばんしょ判事はんじ死罪しざいおよ疑獄ぎごくについて判決はんけつくださいは、司法省しほうしょう本省ほんしょう)へ伺をてる必要ひつようがあった(58じょう)ところ、当時とうじしんりつ綱領こうりょうには、りつせいじょうのない犯罪はんざいについては規定きてい類推るいすい適用てきようするという「断罪だんざいせいじょう」の規定きてい存在そんざいした。司法省しほうしょうへの伺のうちせいじょうのない犯罪はんざいについては、だんけいからあかりほうりょう送付そうふして議論ぎろんすることになっており(21じょうだい5、83じょう)、あかりほうりょうさだめた回答かいとうほうげんとして活用かつようされていた[12]

1872ねん明治めいじ5ねん)には、あかりほうりょう民法みんぽう会議かいぎ開設かいせつされた。この民法みんぽう会議かいぎにおいて各種かくしゅ民法みんぽう草案そうあん編纂へんさん作業さぎょうはじまり、最終さいしゅうあんとして「皇国こうこく民法みんぽうかり規則きそく」がまとめられた向井むかい(1982), p. 49-52[13]

1875ねん明治めいじ8ねん5月4にち太政官だじょうかんだい71じょう布告ふこくをもってあかりほうりょう廃止はいしされ、その事務じむ司法省しほうしょう本省ほんしょう移管いかんされた[14]あかりほうりょう生徒せいとについても司法省しほうしょう本省ほんしょうがれて司法省しほうしょうほう学校がっこう正則せいそくだい1期生きせいとなり、かれらは1876ねん明治めいじ9ねん)までに卒業そつぎょうした[15]

あかりほうりょう跡地あとちには、当面とうめんあいだ大審院だいしんいんかれることになった(明治めいじ8ねん5がつ9にち太政官だじょうかんだい80ごう布告ふこく)。

おも官員かんいん

[編集へんしゅう]

おも生徒せいと

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 法務ほうむ史料しりょう展示てんじしつ・メッセージギャラリーパンフレット法務省ほうむしょう
  2. ^ 手塚てづか(1967a), p. 61.
  3. ^ 向井むかい(1982), p. 45-46.
  4. ^ 手塚てづか(1967b), p. 57.
  5. ^ 司法省しほうしょうから太政官だじょうかん提出ていしゅつされた明治めいじ4ねん8がつ28にち司法省しほうしょう伺にその趣旨しゅし記載きさいされている。
  6. ^ 法令ほうれい全書ぜんしょには、いたるではなく沙汰さたとして掲載けいさいされている。(手塚てづか(1967a), p. 76)も参照さんしょう
  7. ^ 手塚てづか(1967a), p. 57.
  8. ^ 向井むかい(1982), p. 44.
  9. ^ a b c 手塚てづか(1967a), p. 61
  10. ^ 向井むかい(1982), p. 45.
  11. ^ 手塚てづか(1967a), p. 62-63.
  12. ^ 大庭おおば(2020), p. 110.
  13. ^ 宮川みやがわきよし日本にっぽんにおける所有しょゆうけん意識いしき形成けいせい過程かてい近代きんだい法学ほうがく継受けいじゅ()」『立教りっきょう經濟けいざいがく研究けんきゅうだい26かんだい1ごう立教大学りっきょうだいがく経済けいざいがく研究けんきゅうかい、1972ねん5がつ、63ぺーじCRID 1050282813517483904ISSN 00355356 
  14. ^ 手塚てづか(1867a)76ぺーじ
  15. ^ 手塚てづか(1967b), p. 63.
  16. ^ 手塚てづか(1967a), p. 60.
  17. ^ a b 手塚てづか(1967a), p. 67.
  18. ^ a b 向井むかい(1982), p. 52
  19. ^ a b 藤田ふじた弘道ひろみち 1975, p. 64
  20. ^ a b c 向井むかい(1982), p. 53
  21. ^ 手塚てづかゆたか自由党じゆうとう高田たかだ事件じけん裁判さいばんしょうこう(かん)」『法學ほうがく研究けんきゅう : 法律ほうりつ政治せいじ社会しゃかいだい46かんだい6ごう慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく法学ほうがく研究けんきゅうかい、1973ねん6がつ、66ぺーじCRID 1050282814036010624ISSN 0389-0538 
  22. ^ 手塚てづか(1967a), p. 78.
  23. ^ 向井むかい(1982), p. 55.
  24. ^ 藤田ふじた弘道ひろみち 1975, p. 57.
  25. ^ a b c d e f g h i j k 手塚てづか(1967a), p. 63
  26. ^ 明治大学めいじだいがくつくった人々ひとびと

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]