狩野かの亨吉こうきち

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
狩野かの 亨吉こうきち
かのう こうきち
人物じんぶつ情報じょうほう
生誕せいたん (1865-09-17) 1865ねん9月17にち
日本の旗 日本にっぽん久保田くぼたはん
(秋田あきたけん大館おおだて)
死没しぼつ (1942-12-22) 1942ねん12月22にち(77さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう文京ぶんきょう
出身しゅっしんこう 帝国ていこく大学だいがく東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく
学問がくもん
研究けんきゅう分野ぶんや 哲学てつがく
研究けんきゅう機関きかん 第一高等学校だいちこうとうがっこう
学位がくい理学りがく文学ぶんがく
文学ぶんがく博士はかせ
おも業績ぎょうせき 安藤あんどう昌益しょうえき著書ちょしょ自然しぜん営道』の発掘はっくつさい評価ひょうか
影響えいきょうあたえた人物じんぶつ 夏目なつめ漱石そうせき
金子かねこまことすい
テンプレートを表示ひょうじ

狩野かの 亨吉こうきち(かのう こうきち、1865ねん9月17にち慶応けいおう元年がんねん7がつ28にち) - 1942ねん昭和しょうわ17ねん12月22にち)は、日本にっぽん教育きょういくしゃ

第一高等学校だいちこうとうがっこう校長こうちょう京都きょうと帝国ていこく大学だいがく文科ぶんか大学だいがく初代しょだい学長がくちょうつとめる。また、江戸えど時代じだい特異とくい思想家しそうか安藤あんどう昌益しょうえき発見はっけん竹内たけうち文書ぶんしょ批判ひはん春画しゅんが蒐集しゅうしゅうでもられる。

略歴りゃくれき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

小学校しょうがっこう入学にゅうがくまで[編集へんしゅう]

学歴がくれき[編集へんしゅう]

職歴しょくれき[編集へんしゅう]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

東京とうきょうだいいち中学ちゅうがく同級どうきゅう親友しんゆう澤柳さわやなぎ政太郎まさたろう松崎まつざき蔵之助くらのすけ岡田おかだ良平りょうへい上田うえだ萬年かずとし幸田こうだ露伴ろはん尾崎おざき紅葉こうようがいた。

東京大学とうきょうだいがく卒業そつぎょうよんだかだか倫理りんりがく教授きょうじゅいちだか校長こうちょうとなったが、夏目なつめ漱石そうせき英国えいこく留学りゅうがくいちだか講師こうしになったのは狩野かの推薦すいせんによる[注釈ちゅうしゃく 1]。また、理科りかから文科ぶんか哲学てつがくへとわかかりし狩野かの類似るいじ軌跡きせき辿たどった田邊たなべはじめなどもおしである。めい校長こうちょうほまれがたかく、いちだか校風こうふうはこの時期じき確立かくりつしたといわれている[注釈ちゅうしゃく 2]

京都きょうとみかど大時代おおじだい内藤ないとう湖南こなん幸田こうだ露伴ろはん西田にしだ幾多郎きたろう富岡とみおか謙蔵けんぞう桑原くわばら隲蔵少壮しょうそう有為ゆうい人々ひとびと教授きょうじゅじんまねき、京大きょうだい文学部ぶんがくぶ基礎きそきずいたが、当時とうじすくなからず波紋はもんんだ[1][2][注釈ちゅうしゃく 3]英文えいぶん夏目なつめ漱石そうせきまねくこともつよのぞんでいたが、漱石そうせき固辞こじ東京とうきょう朝日新聞社あさひしんぶんしゃ入社にゅうしゃした。ただ、その交友こうゆう関係かんけいつづき、漱石そうせき葬儀そうぎにあたっては友人ゆうじん代表だいひょうされ弔辞ちょうじんでいる[注釈ちゅうしゃく 4]狩野かの自身じしん漱石そうせき文学ぶんがくにはほとんど関心かんしんしめさず、「小説しょうせつよりも講談こうだんのほうがずっとおもしろい」とっていたという[2]

京都きょうと帝国ていこく大学だいがく退官たいかん以後いご学校がっこう関係かんけい定職ていしょくにはかなかった。1923ねん大正たいしょう12ねん東京とうきょう小石川こいしかわ大塚おおつか坂下さかしたまち長屋ながやあねぜん小屋こや久子ひさことともに「書画しょが鑑定かんていならびに著述ちょじゅつぎょう」の看板かんばんかかげ、書画しょが刀剣とうけん鑑定かんていなどで生計せいけいてた[2]浮世絵うきよえ春画しゅんが蒐集しゅうしゅうとしても有名ゆうめいで、改造かいぞうしゃ社長しゃちょう山本やまもと実彦さねひこからは「春画しゅんが蒐集しゅうしゅうにかけては日本一にっぽんいち」とがみをつけられた。また、浮世絵うきよえ研究けんきゅう金子かねこまことすいは「浮世絵うきよえ収集しゅうしゅう世界せかい最大さいだいのもの」とひょうしている。みずか絵筆えふでってえがいた「あぶな」もすうひゃくまいおよぶ。これらの自筆じひつわせるかたちで、ノート30さつポルノ小説しょうせつのこしたこともられている。なお、亨吉こうきちにとっての「鑑定かんてい」とは「歴史れきし捜索そうさくかえすこと」を意味いみしていた[2]かれからすれば、歴史れきし次々つぎつぎっていくことこそが鑑定かんていであり、いわば「世界せかい読書どくしょほう」なのであった[2]

狩野かの学識がくしきしむ中学ちゅうがく以来いらい親友しんゆう澤柳さわやなぎ政太郎まさたろうから東北とうほく帝国ていこく大学だいがく総長そうちょうされたこともあるが固辞こじした。山縣やまがた有朋ありとも文部もんぶ大臣だいじん浜尾はまおしん意向いこうで、浜尾はまお東大とうだい総長そうちょう山川やまかわ健次郎けんじろうから皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのう(のちの昭和しょうわ天皇てんのう)の教育きょういくかけされたこともあるが、「自分じぶん危険きけん思想しそうぬしである」としてこれを拒否きょひしている[2]自身じしんは「西田にしださんや内藤ないとうくんはどうか」とべて2人ふたり推薦すいせんしたという[2]

いちだか在任ざいにんちゅう1899ねん明治めいじ32ねん江戸えど時代じだい思想家しそうか安藤あんどう昌益しょうえき著書ちょしょ自然しぜん営道』を見出みいだし、1928ねん昭和しょうわ3ねん)『岩波いわなみ講座こうざ 世界せかい思潮しちょうだいさんさつ誌上しじょうに「安藤あんどう昌益しょうえき」を発表はっぴょう紹介しょうかい。また、天津てんしんきょう古文書こもんじょのいわゆる竹内たけうち文書ぶんしょについて史料しりょう批判ひはんおこない、1936ねん昭和しょうわ11ねん)6がつ岩波書店いわなみしょてん思想しそう誌上しじょうで「天津てんしんきょう古文書こもんじょ批判ひはん」を発表はっぴょう偽書ぎしょであることを証明しょうめいした。なお、1942ねん昭和しょうわ17ねん天津てんしんきょう裁判さいばん検察けんさつ証人しょうにんとして言語げんごがくもの橋本はしもと進吉しんきちとともに出廷しゅっていしている。

投資とうししていた会社かいしゃ倒産とうさんして負債ふさいかかえたことから、石本いしもとめぐみよし石本いしもとしんろく)の書籍しょせき取次とりつぎ会社かいしゃ大同だいどう洋行ようこう」を仲介ちゅうかい蔵書ぞうしょ大量たいりょう売却ばいきゃくした[3]1912ねん明治めいじ45ねん)から1913ねん大正たいしょう2ねん)にかけて、10まんてん以上いじょう貴重きちょう蔵書ぞうしょ東北とうほく帝国ていこく大学だいがく売却ばいきゃく。この蔵書ぞうしょは、どう大学だいがく図書館としょかん狩野かの文庫ぶんことして所蔵しょぞうされている[4]。また、東京大学とうきょうだいがく駒場こまんば図書館としょかんにも、狩野かの文庫ぶんことして亨吉こうきち日記にっきらい翰が所蔵しょぞうされている[5]

生涯しょうがい独身どくしんで、童貞どうていだったとするせつもある。生前せいぜんには1さつ著書ちょしょ刊行かんこうしなかった。博覧強記はくらんきょうきにしておおくの知識ちしきじん人望じんぼうあつめた。めったに肖像しょうぞうえがかない画家がか須田すだ剋太が「狩野かの亨吉こうきちぞう」をえがいており、哲学てつがくしゃ田邊たなべはじめは「自分じぶん学問がくもんはあきらかに西田にしだ博士はかせであるが、人生じんせい狩野かの博士はかせである」とべたといわれる[2]。また、弁護士べんごし正木まさきひろしは「狩野かの先生せんせいこそ本当ほんとう国宝こくほうてき人物じんぶつだ」とひょうした[2]

1942ねん昭和しょうわ17ねん12月22にち胃潰瘍いかいようのため東京とうきょう小石川こいしかわ大塚おおつか坂下さかしたまち自宅じたくにて逝去せいきょ告別こくべつしき同月どうげつ24にち青山あおやま斎場さいじょうおこなわれ[6]多磨たま霊園れいえんほうむられた。

家族かぞく[編集へんしゅう]

ちち狩野かの良知よしとも叔父おじ狩野かのあさひほう漢学かんがくしゃ祖母そぼ狩野かの水子みずこ美津みつ)は歌人かじんとしてられる。はは水野みずの千代ちよあに自由じゆう民権みんけん運動うんどういえ狩野かの元吉もとよしあねぜん小屋こやした久子ひさこがいる。

栄典えいてん[編集へんしゅう]

位階いかい
勲章くんしょう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 亨吉こうきち漱石そうせき要請ようせいによりだか教頭きょうとうつとめた。亨吉こうきちは、小説しょうせつそれから』の主人公しゅじんこうだいすけ」のモデルになったといわれる。青江あおえ狩野かの亨吉こうきち生涯しょうがい』:松岡まつおかただしつよしせんせんさつ
  2. ^ 亨吉こうきちつぎ学長がくちょう新渡戸にとべ稲造いなぞう比較ひかくすると、亨吉こうきちうちきでいねづくりそといていたとひょうされる。また、亀井かめいこうたかしは「新渡戸にとべ先生せんせいはいだいであるが、そのみちすすひとはありえよう。しかし狩野かの先生せんせいのやうなひとふたたにくい」としるしている。青江あおえ狩野かの亨吉こうきち生涯しょうがい』:松岡まつおかただしつよしせんせんさつ
  3. ^ 富岡とみおか謙蔵けんぞうとは富岡とみおか鉄斎てっさいであり、また、桑原くわばら隲蔵の桑原くわばら武夫たけおである。青江あおえ狩野かの亨吉こうきち生涯しょうがい』:松岡まつおかただしつよしせんせんさつ
  4. ^ 漱石そうせきの『吾輩わがはいねこである』に登場とうじょうする「沙弥さや先生せんせい」のモデルは狩野かの亨吉こうきちだといわれている。狩野かの亨吉こうきち」『秋田大あきただい百科ひゃっか事典じてん』(1981)p.203

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 狩野かの亨吉こうきち」『秋田大あきただい百科ひゃっか事典じてん』 (1981) p.203
  2. ^ a b c d e f g h i 青江あおえ舜二郎しゅんじろう狩野かの亨吉こうきち生涯しょうがい』:松岡まつおかただしつよしせんせんさつ だい1229
  3. ^ 労働ろうどうかん私論しろん ( III ) 三浦みうら豊彦とよひこ労働ろうどう科学かがく 69かん、7ごう、1993
  4. ^ 狩野かの文庫ぶんこデータベース東北大学とうほくだいがくデジタルコレクション)
  5. ^ 狩野かの亨吉こうきち文書ぶんしょ”. 東京とうきょう大学だいがく. 2024ねん1がつ17にち閲覧えつらん
  6. ^ 漱石そうせき親友しんゆうもといち高校こうこうちょう死去しきょ昭和しょうわ17ねん12月23にち 毎日新聞まいにちしんぶん大阪おおさか))『昭和しょうわニュース辞典じてんだい8かん 昭和しょうわ17ねん/昭和しょうわ20ねん』p69 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  7. ^ 官報かんぽうだい2776ごう叙任じょにん及辞れい」1892ねん9がつ27にち
  8. ^ 官報かんぽうだい7614ごう叙任じょにん及辞れい」1908ねん11月11にち
  9. ^ 官報かんぽうだい7499ごう、「叙任じょにん及辞れい」1908ねん06がつ26にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 安倍あべ能成よしなりへん狩野かの亨吉こうきち遺文いぶんしゅう岩波書店いわなみしょてん、1958ねん復刊ふっかん1969ねん・1986ねんほか
  • 青江あおえ舜二郎しゅんじろう狩野かの亨吉こうきち生涯しょうがい明治めいじ書院しょいん、1974ねん中公ちゅうこう文庫ぶんこ、1987ねん
  • 鈴木すずきただし日本にっぽん合理ごうりろん : 狩野かの亨吉こうきち中井なかい正一しょういち現代げんだい思潮しちょうしゃ現代新書げんだいしんしょ〉、1961ねん
  • 鈴木すずきただし狩野かの亨吉こうきち思想しそうだいさん文明ぶんめいしゃ〈レグルス文庫ぶんこ〉、1981ねん平凡社へいぼんしゃライブラリー(増補ぞうほばん)、2002ねん
  • 鈴木すずきただし狩野かの亨吉こうきち研究けんきゅうミネルみねるァ書房ぁしょぼう〈ミネルヴァ・アーカイブズ〉、2013ねん
  • 庄司しょうじすすむ危険きけん思想しそう狩野かの亨吉こうきち安藤あんどう昌益しょうえき無明むみょうしゃ出版しゅっぱん、2018ねん
  • 鈴木すずき久忠ひさただ狩野かの亨吉こうきち」『秋田大あきただい百科ひゃっか事典じてん秋田魁新報社あきたさきがけしんぽうしゃ、1981ねん9がつISBN 4-87020-007-4 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

がくしょく
先代せんだい
新設しんせつ
日本の旗 京都きょうと帝国ていこく大学だいがく文科ぶんかだい学長がくちょう
1906ねん - 1908ねん
次代じだい
松本まつもと文三郎ぶんざぶろう