吾輩わがはいねこである

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吾輩わがはいねこである
吾輩わがはいねこデアル(初版しょはん表記ひょうき
『吾輩ハ猫デアル 上編』ジャケット下絵 装丁橋口五葉(1905年)
吾輩わがはいねこデアル うえへん』ジャケット下絵したえ
装丁そうてい橋口はしぐち五葉ごよう1905ねん
著者ちょしゃ 夏目なつめ金之助きんのすけ漱石そうせき
発行はっこう 1905ねん10月6にち1906ねん11月4にち1907ねん5月19にちほか
発行はっこうもと 服部はっとり書店しょてん大倉おおくら書店しょてんほか
ジャンル 風刺ふうし喜劇きげき
くに 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
形態けいたい 3分冊ぶんさつ
ページすう うえ290、ちゅう238、した218
ウィキポータル 文学ぶんがく
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吾輩わがはいねこである』(わがはいはねこである)は、夏目なつめ漱石そうせき長編ちょうへん小説しょうせつであり、処女しょじょ小説しょうせつである。1905ねん明治めいじ38ねん)1がつ、『ホトトギス』にて発表はっぴょうされたのだが、好評こうひょうはくしたため、よく1906ねん明治めいじ39ねん)8がつまで継続けいぞくした。うえ、1906ねん10がつかんなか、1906ねん11がつかんした、1907ねん5がつかん

中学ちゅうがく英語えいご教師きょうし沙弥さや先生せんせい日常にちじょうと、書斎しょさいあつまる美学びがくしゃ迷亭、理学りがくしゃ寒月かんげつ哲学てつがくしゃ東風こちらといった明治めいじ知識ちしきじんたちの生活せいかつ態度たいど思考しこうねことおして、ユーモアにちたエピソードとしてえがいた作品さくひん

表面ひょうめんてきにすぎない日本にっぽん近代きんだいたいする、漱石そうせき痛烈つうれつ文明ぶんめい批評ひひょう社会しゃかい批判ひはんあらわれている風刺ふうし小説しょうせつ。なお実際じっさいほん作品さくひん執筆しっぴつまえに、夏目なつめねこまよみ、われることになった。そのねこも、ずっと名前なまえがなかったという。

概要がいよう[編集へんしゅう]

吾輩わがはいねこである。名前なまえはまだい。どこでうまれたかとんと見当けんとうがつかぬ。」というしではじまり、中学校ちゅうがっこう英語えいご教師きょうしであるちん沙弥さやいえわれているねこである「吾輩わがはい」の視点してんから、ちん一家いっかや、そこにつどかれ友人ゆうじん門下もんか書生しょせいたち、「太平たいへい逸民いつみん」(だいだいさん)の人間にんげん模様もよう風刺ふうしてき戯作げさくてきえがかれている。

着想ちゃくそうは、E.T.A.ホフマン長編ちょうへん小説しょうせつおすねこムルの人生じんせいかん』だとかんがえられている[1][ちゅう 1][ちゅう 2]。 また『吾輩わがはいねこである』の構成こうせいは、『トリストラム・シャンディ』の影響えいきょうともかんがえられている[2][3]

吾輩わがはいねこである』原稿げんこう一部いちぶ

漱石そうせき所属しょぞくしていた俳句はいく雑誌ざっしホトトギス』では、小説しょうせつさかんになり、高浜たかはま虚子きょし伊藤いとう左千夫さちおらが作品さくひんいていた。こうしたなか虚子きょしすすめられて漱石そうせき小説しょうせつくことになった。それが1905ねん1がつ発表はっぴょうした『吾輩わがはいねこである』で、当初とうしょ最初さいしょ発表はっぴょうしただい1かいのみの、作品さくひんであった[4]。しかもこのかいは、漱石そうせき許可きょかうえ虚子きょしくわえられており[4]かいとは多少たしょう文章ぶんしょう雰囲気ふんいきことなる。だがこれが好評こうひょうになり、虚子きょしすすめで翌年よくねん8がつまで、ぜん11かい連載れんさいし、掲載けいさい『ホトトギス』はげをおおきくばした(元々もともと俳句はいく雑誌ざっしであったが、有力ゆうりょく文芸ぶんげい雑誌ざっしひとつとなった)[4][ちゅう 3]

登場とうじょうする人物じんぶつ動物どうぶつ[編集へんしゅう]

漱石そうせき母校ぼこうにしきはな小学校しょうがっこうげん千代田ちよだ区立くりつちゃみず小学校しょうがっこう)のまえにある「吾輩わがはいねこである」の記念きねん[5]
吾輩わがはい主人公しゅじんこうねこ
ちん野家のやわれているゆうねこ本編ほんぺんかた。「吾輩わがはい」は一人称いちにんしょうであり、かれ自身じしん名前なまえはない。人間にんげん生態せいたいするど観察かんさつしたり、ねこながら古今ここん東西とうざい文芸ぶんげいつうじており哲学てつがくてき思索しさくにふけったりする。人間にんげん内心ないしんむこともできる。三毛みけ恋心こいごころいている。最後さいごのこしのビールい、みずちてられぬままおぼぬ(だいじゅういち)。毛色けいろあわ灰色はいいろまだらいれだいろく)。生年せいねんは、沙弥さや先生せんせいねこえがいた年賀状ねんがじょうながら「今年ことしせいだいねん」とつぶやいていること(だい)から1905ねん明治めいじ38ねん)とわかるので、その前年ぜんねんの1904ねん明治めいじ37ねんまれ。年齢ねんれいは、だいななでは「去年きょねんうまれたばかりで、当年とうねんとつていちさいだ」、だいじゅういちでは「ねこうまれてひとこともはやねんし」。
三毛みけ
となりたく二絃琴にげんきん師匠ししょうさんのいえめすねこ。「吾輩わがはい」を「先生せんせい」とぶ。ねこのガールフレンドだったが風邪かぜをこじらせてんでしまった(だい)。「吾輩わがはい」が自分じぶんいていることに気付きづいていない。
車屋くるまやくろ
大柄おおがらゆうくろねこ。べらんめえ調ちょう教養きょうようがなく、大変たいへん乱暴らんぼうしゃなので「吾輩わがはい」はおそれている。しかし、魚屋さかなや天秤棒てんびんぼうなぐられてあし不自由ふじゆうになる(だいいち)。
ちん 沙弥さや(ちんの くしゃみ)
ねこ吾輩わがはい」のぬしで、文明ぶんめい中学校ちゅうがっこう英語えいご教師きょうし(リーダー専門せんもん)。ちち場末ばすえ名主なぬしで(だいきゅう)、その一家いっか真宗しんしゅうだいよん)。年齢ねんれいは、学校がっこう卒業そつぎょうして9ねんか(だい)、また「さんじゅうめん(づら)げて」とわれる(だいよん)。つまと3にんむすめがいる。偏屈へんくつ性格せいかくで、よわく、ノイローゼ気味きみである(漱石そうせき自身じしんがモデルとされる)。あばためんで、くちひげをたくわえる。そのかお今戸いまどしょうのタヌキともひょうされる(だいさんはちじゅう)。頭髪とうはつながすんくらい、ひだりけ、みぎはしをちょっとはねかえらせる。タバコ朝日あさひさけは、元来がんらいめず(だいじゅういち)、平生へいぜいなら猪口ちょこで2はいだいなな)。わからぬもの、役人やくにん警察けいさつをありがたがるくせがある(だいきゅう)。なお胃弱いじゃく健康けんこうつかうあまり、毎食まいしょくにはタカジアスターゼみ、またときには鍼灸しんきゅうじゅつ悲鳴ひめいげたり按腹あんぷくもみ療治りょうじ悶絶もんぜつしたりとかなりの苦労くろうじんでもある。
迷亭(めいてい)
沙弥さや友人ゆうじん美学びがくもの。ホラばなしひとをかついでたのしむのが趣味しゅみ粋人すいじん近眼きんがんで、金縁きんぶち眼鏡めがね装用そうようし、きむ唐皮からかわ烟草たばこいれ使用しようする。
美学びがくしゃ大塚おおつか保治やすじがモデルともいわれるが漱石そうせき否定ひていしたという。また、漱石そうせきつま鏡子きょうこ著書ちょしょ漱石そうせきおも』には、漱石そうせき自身じしんみずからの洒落しゃれきな性格せいかく一人ひとりあるきさせたのではないかとする内容ないよう記述きじゅつがある。
水島みずしま 寒月かんげつ(みずしま かんげつ)
沙弥さやもとおし理学りがくで、沙弥さやを「先生せんせい」とよぶ。なかなかの好男子こうだんし戸惑とまどいしたヘチマのようなかおだいよん)。富子とみこ演奏えんそうかい一目惚ひとめぼれする。高校生こうこうせい時代じだいからバイオリンをたしなむ。うタバコは朝日あさひ敷島しきしま門下生もんかせい寺田てらだ寅彦とらひこがモデルといわれる。
越智おち 東風こち(おち とうふう)
新体詩しんたいしひとで、寒月かんげつ友人ゆうじん。「おち こち」と自称じしょうしている。故郷こきょう鰹節かつおぶし名産めいさん絶対ぜったいいきいたみちあいみち芸術げいじゅつみちであり、夫婦ふうふあいがすべてのあい代表だいひょうであるから未婚みこんでいることはてん意志いしにそむくことになるという(だいじゅういち)。
八木やぎ どくせん(やぎ どくせん)
哲学てつがくものながかおヤギのようなひげやし、深遠しんえん警句けいくかたる。40さい前後ぜんこう
甘木あまぎ先生せんせい
沙弥さや主治医しゅじい温厚おんこう性格せいかく。「甘木あまぎ先生せんせい」はたてだと「ぼう先生せんせい」とめる(尼子あまこ四郎しろうがモデルとされる)。
金田かねだ(かねだ)
近所きんじょ実業じつぎょう沙弥さやきらわれている。沙弥さやをなんとかしてへこませてやろうといやがらせをする。
金田かねだ はな(はなこ)
金田かねだ細君さいくん寒月かんげつ自分じぶんむすめとの縁談えんだんについてちんてい相談そうだんるが、横柄おうへい態度たいど沙弥さやきらわれる。巨大きょだいかぎはなぬしで「はな」と「吾輩わがはい」にしょうされる(はなおおきくて「はなえんゆう」とばれた明治めいじ落語らくご初代しょだいさんゆうていえんゆうにヒントを創作そうさくされたというせつがある)。年齢ねんれいは40のうえすこしたくらい(だいさん)。
金田かねだ 富子とみこ(とみこ)
金田かねだむすめ母親ははおやでわがままだが、巨大きょだいはなまでは母親ははおやていない。寒月かんげつおなじく演奏えんそうかい一目惚ひとめぼれする。阿倍あべかわもちだい好物こうぶつ
鈴木すずき とうじゅうろう(すずき とうじゅうろう)
沙弥さや、迷亭の学生がくせい時代じだい同級生どうきゅうせい工学こうがく九州きゅうしゅう炭鉱たんこうにいたが東京とうきょうめになる(月給げっきゅう250えん盆暮ぼんくれ手当てあて)。金田かねだ出入でいりし、金田かねだけて沙弥さや様子ようすをさぐる。
多々良たたら 三平さんぺい(たたら さんぺい)
沙弥さやおし肥前ひぜんこく唐津からつ出身しゅっしん法学ほうがくむっ物産ぶっさん会社かいしゃ役員やくいん月給げっきゅう30えん)。貯蓄ちょちくは50えんねこなべをしきりと恩師おんしである沙弥さやにすすめる。
牧山まきやま(まきやま)
静岡しずおか在住ざいじゅうの迷亭の伯父おじ漢学かんがくもの赤十字せきじゅうじ総会そうかい出席しゅっせきのため上京じょうきょうし、沙弥さやたく訪問ほうもんする。丁髷ちょんまげい、武士ぶしくら鍛錬たんれんである鉄扇てっせん手放てばなさない、まさしく旧幕きゅうばく時代じだい権化ごんげのような人物じんぶつである。内藤ないとう鳴雪めいせつがモデルとされる。
ちん夫人ふじん
ちん沙弥さや細君さいくん英語えいごしょうむずかしいはなしはほとんどつうじない。あたまにハゲがあり、身長しんちょうひくい(だいよん)。いびきをかく(だい)。漱石そうせきつま鏡子きょうこがモデルとも。
ちん とん
ちん野家のや長女ちょうじょ。「おちゃみず」を「おちゃ味噌みそ」と、「元禄げんろく」を「双六すごろく」と、「」を「たけ(きのこ)」と、「大黒おおくろ(だいこく)」を「台所だいどころ(だいどこ)」と、「裏店うらだな(うらだな)」を「わらてん(わらだな)」とうような、言葉ことば間違まちがいがおおい。かお輪郭りんかくは、南蛮なんばんてつかたなつばのようである(だいじゅう)。
ちん すん
ちん次女じじょ。いつもあねのとん一緒いっしょにいる。かおは、琉球りゅうきゅうりのしゅぼんのようである(だいじゅう)。
ちん めん
ちん野家のやさんじょ。「当年とうねんとつてさんさい」(だいじゅう)。通称つうしょうぼうば」。「ばぶ」が口癖くちぐせかおは、よこなが面長おもなが(おもなが)(だいじゅう)。
さん(おさん)
ちん野家のや下女げじょきよしという。主人公しゅじんこうねこ吾輩わがはい」をいていない。埼玉さいたま出身しゅっしん睡眠すいみんちゅうぎしりをする(だい)。
雪江ゆきえ
沙弥さやめい女学生じょがくせい。17、8さい時々ときどきちんてい沙弥さやとケンカする。寒月かんげつあわ恋心こいごころいている。モデルは久保くぼよりとされる[6]
二絃琴にげんきん師匠ししょうさん
三毛みけぬし。「天璋院てんしょういんよう祐筆ゆうひついもうとよめったさききのっかさんのおいむすめ」である。
古井ふるい たけしみぎ衛門えもん(ふるい ぶえもん)
ちん監督かんとく中学生ちゅうがくせい。2ねんおつぐみ頭部とうぶおおきく毬栗いがぐりあたま
吉田よしだ とらぞう(よしだ とらぞう)
警視庁けいしちょう浅草あさくさ警察けいさつしょ日本堤にほんづつみ分署ぶんしょ刑事けいじ巡査じゅんさ
泥棒どろぼうかげ
水島みずしま寒月かんげつ酷似こくじする容貌ようぼう窃盗せっとうはん長身ちょうしんで、26、7さい喫煙きつえんしゃ
はち(や)っちゃん
車屋くるまや子供こども沙弥さや先生せんせいおこたびくといういやがらせを金田かねだから依頼いらいされた。

構成こうせい[編集へんしゅう]

タバコではじまり、ビールでわる。皮肉ひにくにもおおきないけはじまり、水甕みずがめ(みずがめ)でわる構成こうせいになっている。

だい1
吾輩わがはい」の最初さいしょ記憶きおくは、「薄暗うすぐらいじめじめしたところでニャーニャーいていた」ことである。出生しゅっしょう場所ばしょ当人とうにん記憶きおくにはない(とんと見当けんとうがつかぬ)。そのまもなく書生しょせいひろわれ、書生しょせいかおなかからけむりいていたものがタバコであることをのちにる。書生しょせいてのひらうえはこばれ(移動いどうにはなに利用りようしたかは不明ふめい)、笹原ささはら我輩わがはいだけ遺棄いきされる。そのおおきないけぜんなんとなく人間にんげんくさところちくかきくずしくずれたあなから、とあるやしきないはいみ、下女げじょにつまみされそうになったところを教師きょうし沙弥さや先生せんせい)にひろわれ、む。人間にんげんについてはぬし言動げんどうによりわがままであること、また車屋くるまやくろによると、不人情ふにんじょう泥棒どろぼうはたら不徳ふとくしゃであると判断はんだんする。
だい2
いえに、寒月かんげつ、迷亭、東風こちなどが訪問ほうもんし、放題ほうだいのでたらめをう。三毛みけ死去しきょし、吾輩わがはいこいれる。
だい3
金田かねだつま寒月かんげつのことをきにて、寒月かんげつ博士はかせにならなければむすめ富子とみこ結婚けっこんさせないという。
だい4
鈴木すずき金田かねだ意向いこういて、寒月かんげつ様子ようすさぐりにる。
だい5
沙弥さやたく泥棒どろぼうはいる。吾輩わがはいネズミ取ねずみとりに失敗しっぱいする。
だい6
寒月かんげつ、迷亭、東風こちによる恋愛れんあい談義だんぎ女性じょせいろん
だい7
吾輩わがはい運動うんどうし、公衆こうしゅう浴場よくじょうをのぞきる。
だい8
落雲かん中学校ちゅうがっこう生徒せいと沙弥さやたくにわ野球やきゅうボールをみ、沙弥さや激高げっこうする。
だい9
迷亭の伯父おじである牧山まきやま沙弥さやたくおとずれる。
だい10
古井ふるい金田かねだむすめ恋文こいぶみおくり、退校たいこう処分しょぶんにならないかと心配しんぱいして沙弥さやたくる。
だい11
寒月かんげつたますりをやめ、故郷こきょう結婚けっこんした。どくせん沙弥さや寒月かんげつ東風こちらによる夫婦ふうふろん女性じょせいろん来客らいきゃくかえったあと、吾輩わがはいのこしのビールに酩酊めいていし、「ねこじゃねこじゃ」をおどりたくなるほど陽気ようきになり、水甕みずがめのなかに転落てんらくして水死すいしする。

素材そざい[編集へんしゅう]

主人公しゅじんこう吾輩わがはい」のモデルは、漱石そうせき37さいとし夏目なつめまよんでいた、野良のらくろねこである[4]1908ねん9月13にちねこ死亡しぼうしたさい漱石そうせきしたしい人達ひとたちねこ死亡しぼう通知つうちした[4]。また、ねこはかて、書斎しょさいうらさくらしためた。ちいさな墓標ぼひょううらに「このした稲妻いなづまおこよいあらん」とやすらかにねむることをねがった一句いっくえたのちねこくなる直前ちょくぜん様子ようすを「ねこはか」(『永日えいじつ小品しょうひん所収しょしゅう)という随筆ずいひつきしている。毎年まいとし9がつ13にちは「ねこ命日めいにち」である[7]

ねこづか

ねこ』が執筆しっぴつされた当時とうじ漱石そうせきてい東京とうきょう本郷ほんごう駒込こまごめ千駄木せんだぎまちげん文京ぶんきょう向丘むこうがおか2丁目ちょうめ)にあった。このいえ愛知あいちけん野外やがい博物館はくぶつかん明治めいじむら移築いちくされていて公開こうかいされている。東京とうきょう新宿しんじゅく早稲田南わせだみなみまち漱石そうせきやまぼう記念きねんかん漱石そうせきやまぼう跡地あとち)には「ねこづか」があるが、戦災せんさい焼損しょうそん戦後せんごその残欠ざんけつから復元ふくげんしたものだという。

最終さいしゅうかいで、迷亭が沙弥さやらに「詐欺さぎ小説しょうせつ」を披露ひろうするが、これはロバート・バーの『放心ほうしん組合くみあい』のことである。この事実じじつは、大蔵省おおくらしょう機関きかん『ファイナンス』1966ねん4がつごうにおいて、はやし修三しゅうぞうによってはじめて指摘してきされた[8]同様どうよう指摘してきは、1971ねん2がつごう文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう誌上しじょう山田やまだかぜ太郎たろうによってもおこなわれている。

古典こてん落語らくごのパロディがいくつかられる。れいをあげると、窃盗せっとうはんれられたつぎあさ沙弥さや夫婦ふうふ警官けいかんぬすまれたものかれるけんだい)は『花色はないろ木綿もめん出来心できごころ)』の、寒月かんげつがバイオリンをいに道筋みちすじいたてるのは『黄金おうごんもち』の、パロディである。迷亭が洋食ようしょくこまらせるはなしにはちゃんと「ち」までつけいちせき落語らくごとしている。漱石そうせきさん代目だいめ柳家やなぎやさんなどの落語らくご愛好あいこうしたが、『ねこ』は落語らくご影響えいきょうもっとつよられる作品さくひんである[よう出典しゅってん]

だいさんにて寒月かんげつ講演こうえん練習れんしゅうをする「首縊くびくくりの力学りきがく」は、漱石そうせき弟子でし物理ぶつり学者がくしゃ随筆ずいひつ寺田てらだ寅彦とらひこ提供ていきょうした実在じつざい論文ろんぶん、Samuel Haughton "On Hanging ; Considered from a Mechanical and Physiological Point of View" がもとになっている[ちゅう 4]

書誌しょし情報じょうほう[編集へんしゅう]

初版しょはん上巻じょうかん挿絵さしえ中村なかむら不折ふせつふで

1905ねん1がつにのちのだい1しょう相当そうとうする部分ぶぶん発表はっぴょうされ、その1905ねん2がつだい2しょう)、4月(だい3しょう)、5月(だい4しょう)、6月(だい5しょう)、10月(だい6しょう)、1906ねん1がつだい7しょうおよびだい8しょう)、3月(だい9しょう)、4月(だい10しょう)、8月(だい11しょう)と掲載けいさいされた。

だい1かんだい1しょう - だい3しょう)は1905ねん10月6にちに、だい2かんだい4しょう - だい7しょう)は1906ねん11月4にちに、だい3かんだい8しょう - だい11しょう)は1907ねん5月19にち大倉おおくら書店しょてん服部はっとり書店しょてんから刊行かんこうされた。ぜん1さつとしては1911ねん刊行かんこうされた。1918ねん漱石そうせき全集ぜんしゅうだい1かん収録しゅうろくされた。

  • 夏目なつめ金之助きんのすけ吾輩わがはいねこデアル』 じょう大倉おおくら書店しょてん、1905ねん10がつ6にち、290ぺーじNDLJP:888725 
  • 夏目なつめ金之助きんのすけ吾輩わがはいねこデアル』 ちゅう大倉おおくら書店しょてん、1906ねん11月4にち、238ぺーじNDLJP:888726 
  • 夏目なつめ金之助きんのすけ吾輩わがはいねこデアル』 した大倉おおくら書店しょてん、1907ねん5がつ19にち、218ぺーじNDLJP:888727 
  • 夏目なつめ漱石そうせき吾輩わがはいねこである』漱石そうせき全集ぜんしゅう刊行かんこうかい漱石そうせき全集ぜんしゅう だい1かん〉、1918ねん1がつ1にち、606ぺーじNDLJP:957303 
  • 夏目なつめ漱石そうせき ちょ東洋とうよう文芸ぶんげい研究けんきゅうかい 編著へんちょ へん漱石そうせき名作めいさく選集せんしゅう』(20はん坂東ばんどうさんひろしゃ、1934ねん6がつ28にち原著げんちょ1925ねん11月30にち)。NDLJP:1106011/5 
  • 夏目なつめ漱石そうせき吾輩わがはいねこデアル』 ぜん3さつ日本にっぽん近代文学館きんだいぶんがくかん(出版しゅっぱん) 図書としょ月販げっぱん(発売はつばい)〈近代文学館きんだいぶんがくかん 名著めいちょふくこく全集ぜんしゅう 35〉、1968ねん  - 大倉おおくら書店しょてん服部はっとり書店しょてんかん(1905-1907)複製ふくせい
    • 夏目なつめ漱石そうせき ちょ名著めいちょふくこく全集ぜんしゅう編集へんしゅう委員いいんかい へん吾輩わがはいねこデアル』 ぜん3さつ日本にっぽん近代文学館きんだいぶんがくかん(出版しゅっぱん) ほるぷ(発売はつばい)〈漱石そうせき文学ぶんがくかん 名著めいちょふくこく〉、1976ねん6がつ  - 大倉おおくら書店しょてん服部はっとり書店しょてんかん(1905-1907)複製ふくせい
  • 夏目なつめ漱石そうせき『ザ・漱石そうせき』(増補ぞうほ新版しんぱんだいさんしょかん、1999ねん6がつISBN 4-8074-9910-6 
    • 夏目なつめ漱石そうせき『ザ・漱石そうせき ぜん小説しょうせつぜんさつ グラスレス眼鏡めがね無用むよう下巻げかんだい活字かつじばん)、だいさんしょかん、2006ねん4がつISBN 4-8074-0601-9 

オーディオブック(朗読ろうどくばん[編集へんしゅう]

派生はせい作品さくひん影響えいきょうけた作品さくひん[編集へんしゅう]

ほんさく原作げんさくとして1936ねんと1975ねん映画えいがされている。(吾輩わがはいねこである (映画えいが)参照さんしょうのこと)

おおくのパロディ小説しょうせつまれた。『吾輩わがはいねずみデアル』(1907ねん明治めいじ40ねん)9月刊げっかん)、『我輩わがはい小僧こぞうデアル』(1908ねん3月刊げっかん)などである。三島みしま由紀夫ゆきお少年しょうねん時代じだい中等ちゅうとう1ねん)に『わがはいはありである』(1937ねん)という童話どうわてき小品しょうひんいており、「わがはいはくらくら部屋へやなかうまた。」という幼虫ようちゅうからのしではじまり、変身へんしんまえ自分じぶんを「うじ」とんできら人間にんげんどもを「人間にんげんとはしょうしな動物どうぶつ」とい、さなぎからありになった「わがはい」がおもいビスケットを背負せおってそれをめて美味おいしかったエピソードなどがえがかれている[9][10]

2006年代ねんだいには宮藤くどうかん九郎くろう脚本きゃくほんひるたいテレビドラマ吾輩わがはい主婦しゅふである』がTBSで放送ほうそうされた。(これは"夏目なつめ漱石そうせきうつった主婦しゅふ"がひろげるホームコメディ、だったとのこと[11]

2019ねんには演出えんしゅつノゾエ征爾せいじによる『吾輩わがはいねこである』が東京とうきょう芸術げいじゅつさい2019で上演じょうえんされた(これは夏目なつめ漱石そうせき作品さくひん下敷したじきにしつつ、大胆だいたん換骨奪胎かんこつだったいし、総勢そうぜい80めいじゃくのキャストでしん基軸きじくげき世界せかいつくったものとのこと[12]

映像えいぞう作品さくひん[編集へんしゅう]

映画えいが[編集へんしゅう]

2映画えいがされた。1936ねんばんと1975年版ねんばんがある。

テレビドラマ[編集へんしゅう]

山一やまいち名作めいさく劇場げきじょう吾輩わがはいねこである』(日本にほんテレビ
放送ほうそう日時にちじ:1958ねん5がつ27にち - 6月24にち(30ふん×5かい
吾輩わがはいねこである』(NHK
放送ほうそう日時にちじ:1963ねん1がつ1にち(60ふん×1かい
関東かんとう地区ちくにおける視聴しちょうりつは40.2%を記録きろくした(ビデオリサーチ調しら[13])。
こども名作めいさく吾輩わがはいねこである』(NHK)
放送ほうそう日時にちじ:1963ねん3がつ24にち
『ふたりは夫婦ふうふだい19かい「わたくしは細君さいくん」~「吾輩わがはいねこである」より~(フジテレビ
放送ほうそう日時にちじ:1975ねん2がつ17にち(55ふん1かい

テレビアニメ[編集へんしゅう]

日生にっせいファミリースペシャル吾輩わがはいねこである』(1982ねんフジテレビけい[14]

フィルムコミック[編集へんしゅう]

  • 日生にっせいファミリースペシャル『吾輩わがはいねこである』サンケイ出版しゅっぱん名作めいさくコミックス(うえした)1982ねん8がつ5にち

まんが[編集へんしゅう]

その[編集へんしゅう]

  • むべこころざし政信まさのぶによるうちなーくち翻訳ほんやく 『われんねーねこどぅやる』新報しんぽう出版しゅっぱん,『われんねーねこどぅやる 完結かんけつへん新星しんせい出版しゅっぱん

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

小説しょうせつ[編集へんしゅう]

  • 『それからの漱石そうせきねこ』(三四郎さんしろう、1920ねん[15] - 『吾輩わがはいねこである』の続編ぞくへん。1997ねんに『ぞく吾輩わがはいねこである』のタイトルで復刊ふっかん[16][17]
  • 贋作がんさく吾輩わがはいねこである』(内田うちだ百閒ひゃっけん1949ねん) - 『吾輩わがはいねこである』の続編ぞくへん

アニメ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 吾輩わがはいねこである』の内容ないようが『おすねこムルの人生じんせいかん』に影響えいきょうけているかについては、影響えいきょうけているとする藤代素人ふじしろそじん秋山六郎兵衛あきやまろくろうべえ板垣いたがき直子なおこらのろんと、着想ちゃくそうたのみで内容ないようにまでは影響えいきょうけていないとする吉田よしだ六郎ろくろう石丸いしまる静雄しずおらのろんとが混在こんざいする。漱石そうせき自身じしん影響えいきょうけていないとべている。
  2. ^ 丸谷まるや才一さいいち仙台せんだい文学ぶんがくかん初代しょだい館長かんちょうになった井上いのうえひさし電話でんわをかけ、19世紀せいき初頭しょとうによくまれた『ポピー・ザ・リトル』というぞく小説しょうせつが、子犬こいぬ上流じょうりゅうから下流かりゅう階級かいきゅうまですべてをまわりその見聞けんぶん猛烈もうれつ社会しゃかい批判ひはんにしているという内容ないようで、漱石そうせきがこれをって『吾輩わがはい』をいたとかんがえられるとった。すると東北大学とうほくだいがく漱石そうせき文庫ぶんこにはないが、これを評価ひょうかしたTHE ENGLISH NOVEL(Walter Raleigh)があるので、なんらかのしるしがないか学芸がくげいいんてきてもらえないかとひさしは依頼いらいした。翌日よくじつ学芸がくげいいん確認かくにんすると、『ポピー・ザ・リトル』のこうに、はっきりとせんかれていた(笹沢ささざわしん『ひさしでん新潮社しんちょうしゃ 2012ねん pp.390f.)。
  3. ^ だい1かいだい2かい連載れんさいごう完売かんばいし、夏目なつめの「ぼうつちやん」と同時どうじ掲載けいさいとなっただい10かい掲載けいさいごうは5,500発行はっこうするにいたる。これは総合そうごう雑誌ざっし中央公論ちゅうおうこうろん」とどう程度ていどであった。
  4. ^ Samuel Haughton "On Hanging Considered from a Mechanical and Physiological Point of View" (The Internet Archive) 寺田てらだ寅彦とらひこ夏目なつめ先生せんせい追憶ついおく』に紹介しょうかい経緯けいいかれている。寺田てらだは「レヴェレンド(Reverend、日本語にほんごの「」にあたる聖職せいしょくしゃ尊称そんしょう)・ハウトン」としているが、正確せいかくには、サミュエル・ホートンen:Samuel Haughtonである。 論文ろんぶん概要がいようについては、寅彦とらひこ弟子でしである中谷なかたに宇吉郎うきちろうの 『寒月かんげつの「首縊くびくくりの力学りきがく」その』を参照さんしょう

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 50 【やから盗作とうさくである】『やからねこである』をはじめてんだ”. ねこ哲学てつがく. 2016ねん6がつ3にち閲覧えつらん
  2. ^ 伊藤いとうせい新潮しんちょう文庫ぶんこばん吾輩わがはいねこである』の解説かいせつにおいて、「しかしこういうすじ発展はってんのない小説しょうせつじゅういちかいにもわたって漱石そうせき確信かくしんをもっていたということは、かれが『トリストラム・シャンディーの生涯しょうがい意見いけん』のような小説しょうせつがあることをっていたことからていることはあきらかである。」としるした(p.609、2004)。
  3. ^ 丸谷まるや才一さいいち思考しこうのレッスン』文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、p.203、2012。
  4. ^ a b c d e 週刊しゅうかんYEARBOOK ろく20世紀せいきだい85ごう 講談社こうだんしゃ、1998ねん、27-29ぺーじ
  5. ^ 神田かんだ散歩さんぽMAP 夏目なつめ漱石そうせきいしぶみ”. 株式会社かぶしきがいしゃライト. 2017ねん4がつ23にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2017ねん4がつ23にち閲覧えつらん
  6. ^ 坂本さかもと宮尾みやお「このみちをかくゆく ―近代きんだい女性じょせい俳人はいじんでん (2)」俳壇はいだん36かん2ごう135ぺーじ
  7. ^ 名前なまえはないが日本一にっぽんいち有名ゆうめいな「吾輩わがはい(わがはい)」のモデルだった“”(「春秋しゅんじゅう日本経済新聞にほんけいざいしんぶん2014ねん9がつ13にち)。
  8. ^ 漱石そうせき文庫ぶんこ関係かんけい文献ぶんけん目録もくろく” (PDF). 東北大学とうほくだいがく附属ふぞく図書館としょかん. 2012ねん11月25にち閲覧えつらん
  9. ^ 決定けっていばん 三島みしま由紀夫ゆきお全集ぜんしゅうまき補遺ほい索引さくいん. 新潮社しんちょうしゃ. (2005ねん12がつisbn=978-4106425837) pp.19-20
  10. ^ 三島みしま由紀夫ゆきお文学ぶんがくかん**しん資料しりょう紹介しょうかい”. 三島みしま由紀夫ゆきお文学ぶんがくかん. 2009ねん2がつ26にち閲覧えつらん
  11. ^ TBS公式こうしきサイト、吾輩わがはい主婦しゅふである
  12. ^ 東京とうきょう芸術げいじゅつさい2019「吾輩わがはいねこであるについて」
  13. ^ 引田ひきたそうわたるぜん記録きろく テレビ視聴しちょうりつ50ねん戦争せんそう―そのときいちおくにん感動かんどうした』講談社こうだんしゃ、2004ねん、220ぺーじISBN 4062122227
  14. ^ 吾輩わがはいねこである - メディア芸術げいじゅつデータベース”. mediaarts-db.bunka.go.jp. 2022ねん12月17にち閲覧えつらん
  15. ^ 三四郎さんしろう (1920). それからの漱石そうせきねこ. 東京とうきょう: 日本にっぽん書院しょいん. https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000577174-00 
  16. ^ 三四郎さんしろう (1997). ぞく吾輩わがはいねこである. 東京とうきょう: つとむまことしゃ. https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002628465-00 
  17. ^ ぞく吾輩わがはいねこである 復刻ふっこくhttps://honto.jp/netstore/pd-book_01461537.html 

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

日本にほんテレビ 山一やまいち名作めいさく劇場げきじょう
ぜん番組ばんぐみ 番組ばんぐみめい 番組ばんぐみ
吾輩わがはいねこである
(1958ねんドラマ)
NHK総合そうごうテレビ こども名作めいさく
吾輩わがはいねこである
(1963ねんドラマ)
フジテレビ系列けいれつ 日生にっせいファミリースペシャル
吾輩わがはいねこである
(アニメ)