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0.16mm じゅうろくみり 径 みち の鍼
灸 やいと
鍼灸 しんきゅう (しんきゅう)とは、身体 しんたい に鍼や灸 やいと を用 もち いた刺激 しげき を与 あた えることで、多様 たよう な疾病 しっぺい への治療 ちりょう 的 てき な介入 かいにゅう や健康 けんこう 増進 ぞうしん を目的 もくてき とする民間 みんかん 療法 りょうほう である。中国 ちゅうごく 医学 いがく 系 けい 伝統 でんとう 医学 いがく で用 もち いられる治療 ちりょう 法 ほう の一 ひと つで、補完 ほかん ・代替 だいたい 医療 いりょう とみなされることもある。諸子 しょし 百 ひゃく 家 いえ の時代 じだい の文献 ぶんけん に鍼灸 しんきゅう 治療 ちりょう が見 み られる[1] 。理論 りろん が体系 たいけい 化 か されたのは、戦国 せんごく から後 こう 漢 かん (B.C.5世紀 せいき 〜A.D.3世紀 せいき )にかけてであり、最初 さいしょ の理論 りろん 体系 たいけい として後 こう 漢 かん 末 まつ (200年 ねん 前後 ぜんこう )に成立 せいりつ した『黄 き 帝 みかど 内 ない 経 けい 』(生理学 せいりがく ないし一般 いっぱん 病理 びょうり 学 がく についての『素 す 問 とい 』と鍼灸 しんきゅう 理論 りろん が扱 あつか われた『霊 れい 枢 くるる 』)と『黄 き 帝 みかど 八 はち 十 じゅう 八 はち 難 なん 経 けい 』(『難 なん 経 けい 』)がある[1] 。
身体 しんたい へ加 くわ えたさまざまな物理 ぶつり 刺激 しげき による治療 ちりょう 的 てき 経験 けいけん 則 そく の数 すう 世紀 せいき に亘 わた る集積 しゅうせき であり、これを技術 ぎじゅつ 論 ろん として構築 こうちく した技法 ぎほう を「鍼灸 しんきゅう 」と呼 よ ぶ。近世 きんせい まで、生薬 きぐすり 方 かた と共 とも に東 ひがし アジア各国 かっこく の主要 しゅよう な医療 いりょう 技術 ぎじゅつ として発展 はってん した。特 とく に17-19世紀 せいき の日本 にっぽん において鍼灸 しんきゅう は独自 どくじ の発展 はってん を遂 と げ、現在 げんざい 世界 せかい 的 てき に活用 かつよう される鍼灸 しんきゅう 技法 ぎほう の基盤 きばん を形成 けいせい した。日本 にっぽん では「医師 いし 」の他 ほか 「はり師 し 」「きゅう師 し 」がこれを行 おこな える。20世紀 せいき 後半 こうはん よりは欧米 おうべい においても有用 ゆうよう な医療 いりょう 技術 ぎじゅつ として認識 にんしき されて活用 かつよう されるようになり(英語 えいご ではAcupuncture and Moxibustionと訳 やく される)、これを受 う ける形 かたち で、世界 せかい 保健 ほけん 機関 きかん (WHO)は、1996年 ねん 10月 がつ 28日 にち -11月1日 にち にセルビアで“鍼に関 かん する会議 かいぎ ”を開催 かいさい し、1999年 ねん には、鍼治療 ちりょう の基礎 きそ 教育 きょういく と安全 あんぜん 性 せい に関 かん するガイドラインを提示 ていじ した[* 1] 。
UNESCO は「伝統 でんとう 中国 ちゅうごく 医学 いがく としての鍼灸 しんきゅう 」(Acupuncture and moxibustion of traditional Chinese medicine)を、2010年 ねん 11月16日 にち に無形 むけい 文化 ぶんか 遺産 いさん に指定 してい した[3] 。
詳細 しょうさい は「
鍼 」および「
灸 やいと 」を
参照 さんしょう
中国 ちゅうごく を中心 ちゅうしん に東 ひがし アジア各地 かくち で近代 きんだい まで行 おこ なわれてきた医療 いりょう の主流 しゅりゅう は、生薬 きぐすり を用 もち いた「生 なま 薬方 やくほう 」と、物理 ぶつり 療法 りょうほう である「鍼灸 しんきゅう 」である。診察 しんさつ 手段 しゅだん が「体 からだ 表 ひょう 観察 かんさつ 」と「触診 しょくしん 」のみしかなかった古代 こだい から近代 きんだい にかけて、体 からだ 表面 ひょうめん からの病態 びょうたい 診断 しんだん 法 ほう (「証 あかし 」と呼 よ ばれる病態 びょうたい の分類 ぶんるい 法 ほう )が発達 はったつ し、それに対応 たいおう する治療 ちりょう 的 てき 技法 ぎほう として、生 なま 薬方 やくほう と鍼灸 しんきゅう を二 に 本 ほん 柱 ばしら とする治療 ちりょう 技法 ぎほう の体系 たいけい が成立 せいりつ した。つまり鍼灸 しんきゅう は東 ひがし アジアにおける医療 いりょう 技法 ぎほう の片 かた 翼 つばさ で、生薬 きぐすり 方 かた に対置 たいち するものである。
これら生 なま 薬方 やくほう と鍼灸 しんきゅう は、東 ひがし アジア各国 かっこく で地域 ちいき に対応 たいおう した発達 はったつ をみたが、特 とく に日本 にっぽん においては、江戸 えど 期 き に技法 ぎほう と技術 ぎじゅつ 体系 たいけい の目覚 めざま しい発達 はったつ が独自 どくじ になされたことが知 し られる。すなわち、生薬 きぐすり 方 かた は「漢方 かんぽう 」として日本 にっぽん 独自 どくじ のものとして発達 はったつ し、鍼灸 しんきゅう も「鍼管 (ストロー状 じょう の外 そと 筒 とう で中 なか に細 ほそ い鍼を入 い れるもの)」の発明 はつめい による鍼の細 ほそ 径 みち 化 か とそれに伴 ともな う手技 しゅぎ の変化 へんか と体系 たいけい 化 か が成 な し遂 と げられた。日本 にっぽん 産 さん の生 なま 薬方 やくほう である「漢方 かんぽう 」と、日本 にっぽん 産 さん の鍼管を用 もち いた鍼灸 しんきゅう を併 あわ せたものが、従来 じゅうらい 「東洋 とうよう 医学 いがく 」と呼 よ ばれ、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、共産 きょうさん 中国 ちゅうごく において国策 こくさく として成立 せいりつ した「中 ちゅう 医学 いがく 」と区別 くべつ されてきた経緯 けいい がある。
日本 にっぽん においては、生 なま 薬方 やくほう を用 もち いる医師 いし と鍼灸 しんきゅう を用 もち いる鍼灸 しんきゅう 医 い は、早 はや い時代 じだい から分業 ぶんぎょう 化 か していたことが知 し られているが、分業 ぶんぎょう が決定的 けっていてき になったのは江戸 えど 時代 じだい の盲人 もうじん 政策 せいさく による。幕府 ばくふ の政策 せいさく として「按摩 あんま 」を盲人 もうじん の専業 せんぎょう として規定 きてい したところから、手技 しゅぎ が連続 れんぞく する鍼灸 しんきゅう も時 とき を経 へ ずして盲人 もうじん の職業 しょくぎょう となっていった。これにより、日本 にっぽん においては、一般 いっぱん 的 てき な生薬 きぐすり を用 もち いる医師 いし (漢方 かんぽう 医 い )と、盲人 もうじん による鍼を用 もち いる医師 いし (鍼医 )が医療 いりょう の担 にな い手 て となる。
盲人 もうじん が鍼灸 しんきゅう を担 にな った歴史 れきし は世界 せかい の鍼灸 しんきゅう を見渡 みわた しても例 れい がなく、日本 にっぽん の鍼灸 しんきゅう は非常 ひじょう に特異 とくい な経緯 けいい をたどったものと言 い える。先述 せんじゅつ の鍼管 の発明 はつめい や、技法 ぎほう の独自 どくじ 発達 はったつ も、これら視覚 しかく の不自由 ふじゆう な術 じゅつ 者 しゃ が技法 ぎほう を担 にな ったことによりなされた側面 そくめん が強 つよ く、江戸 えど 時代 じだい の盲人 もうじん 鍼灸 しんきゅう 医 い が果 は たした役割 やくわり は非常 ひじょう に大 おお きい。幕末 ばくまつ から明治 めいじ 初期 しょき にかけての西欧 せいおう 医学 いがく の導入 どうにゅう に際 さい して、漢方 かんぽう 医 い は比較的 ひかくてき スムーズに西欧 せいおう 医 い に移行 いこう したが、鍼医 もしくは鍼灸 しんきゅう 医 い については、当時 とうじ の西欧 せいおう 医学 いがく には対応 たいおう する技法 ぎほう もないため医療 いりょう 職 しょく からは除外 じょがい され、「盲人 もうじん の職業 しょくぎょう 保護 ほご 」との名目 めいもく で、慰安 いあん 業 ぎょう としての、はり・きゆう・按摩 あんま の資格 しかく と盲学校 もうがっこう が残 のこ された。しかし、実際 じっさい には、明治天皇 めいじてんのう はじめ鍼灸 しんきゅう に信頼 しんらい を寄 よ せる人々 ひとびと も多 おお く、鍼灸 しんきゅう は現実 げんじつ には戦前 せんぜん までの国民 こくみん 医療 いりょう の一端 いったん を担 にな ってきたのが実情 じつじょう である。
戦後 せんご 、それまで営業 えいぎょう 鑑札 かんさつ であったはりきゆうの免許 めんきょ が国家 こっか 資格 しかく となり、幾度 いくど かの法 ほう 改正 かいせい を経 へ て、現在 げんざい では3年 ねん 以上 いじょう 養成 ようせい 機関 きかん で学 まな ぶことが、「はり師 し 」と「きゅう師 し 」の国家 こっか 試験 しけん 受験 じゅけん 要件 ようけん となっている。
なお、医師 いし 法 ほう との整合 せいごう 性 せい については、あん摩 ま マツサージ指圧 しあつ 師 し 、はり師 し 、きゆう師 し 等 とう に関 かん する法律 ほうりつ 第 だい 一 いち 条 じょう により、鍼灸 しんきゅう に関連 かんれん する医業 いぎょう 類似 るいじ 行為 こうい に関 かん しては、医師 いし による業務 ぎょうむ 独占 どくせん を部分 ぶぶん 解除 かいじょ する、という形 かたち で認 みと められている。
中国 ちゅうごく 大陸 たいりく [ 編集 へんしゅう ]
黄 き 帝 みかど 内 ない 経 けい
春秋 しゅんじゅう 時代 じだい 末 すえ から戦国 せんごく 時代 じだい には、「灸 やいと 」はすでに用 もち いられていたようで、「孟子 もうし 」に灸 やいと 治療 ちりょう に対 たい する最古 さいこ の記載 きさい がある。現存 げんそん する医書 いしょ として実際 じっさい の鍼灸 しんきゅう 治療 ちりょう 法 ほう が記載 きさい される最古 さいこ のものとしては、馬 うま 王 おう 堆 うずたか 漢 かん 墓 ぼ (前漢 ぜんかん ・B.C.168)出土 しゅつど の竹 たけ 簡 と帛書 (はくしょ=絹 きぬ に書 か かれたもの)に、「足 あし 臂 ひじ 十 じゅう 一脈 いちみゃく 灸 やいと 経 けい 」「陰陽 いんよう 十 じゅう 一脈灸経甲本 」「脈 みゃく 法 ほう 」「陰陽 いんよう 脈 みゃく 死 し 候 こう 」「五 ご 十 じゅう 二 に 病 びょう 方 かた 」などと名付 なづ けられたものがあるが、これらは全 すべ て「灸 やいと 」に基 もと づいた治療 ちりょう 法 ほう の書 しょ である。施 ほどこせ 灸点 きゅうてん としての「経穴 けいけつ 」や「経絡 けいらく 」という概念 がいねん も登場 とうじょう しているが、これら経絡 けいらく ・経穴 けいけつ に対 たい する「鍼 」の適用 てきよう 法 ほう が確立 かくりつ したのは、後 こう 漢 かん (~A.D.3世紀 せいき )の時代 じだい とされる。現在 げんざい も活用 かつよう される鍼灸 しんきゅう の古典 こてん 医書 いしょ 『黄 き 帝 みかど 内 ない 経 けい (A.D.3世紀 せいき 成立 せいりつ )』は、前述 ぜんじゅつ の出土 しゅつど 医書 いしょ 群 ぐん の直系 ちょっけい とされているが、記述 きじゅつ される内容 ないよう は、完全 かんぜん に「鍼 」が主体 しゅたい の体系 たいけい にシフトしている。これは、前漢 ぜんかん から後 こう 漢 かん に至 いた る2〜3世紀 せいき の間 あいだ に、本来 ほんらい 「灸 やいと 」による物理 ぶつり 療法 りょうほう として生 う まれた治療 ちりょう 技術 ぎじゅつ 体系 たいけい が、「砭石 」(へんせき=石 いし のメスによる瀉血 しゃけつ )療法 りょうほう などを包含 ほうがん し、より簡便 かんべん な「鍼 」による物理 ぶつり 療法 りょうほう として発展 はってん したことを示 しめ すものと考 かんが えられている。「灸 やいと 」で見出 みいだ された体 からだ 表面 ひょうめん の治療 ちりょう に役立 やくだ つ部位 ぶい (経絡 けいらく ・経穴 けいけつ )は、「鍼 」による刺激 しげき にも対応 たいおう することが発見 はっけん され、発展 はってん を見 み たわけである。その後 ご 「灸 やいと 」療法 りょうほう が廃 すた れたわけではなく、病態 びょうたい に対応 たいおう した「灸 やいと 」と「鍼 」の使 つか い分 わ けがなされ、「鍼灸 しんきゅう 」として活用 かつよう されてきた。『黄 き 帝 みかど 内 ない 経 けい 』の『素 す 問 とい 』異 い 法 ほう 方 かた 宜 むべ 論 ろん 篇 へん には、華北 かほく 平野 へいや の北方 ほっぽう より「灸 やいと 」が、東方 とうほう より「?石 いし 」が、南方 なんぽう より「九 きゅう 鍼=鍼 」が、西方 せいほう より「生 なま 薬方 やくほう 」が起 お こり、中央 ちゅうおう の「導 しるべ 引(気功 きこう =按摩 あんま ・ストレッチ)」と合 あ わさって、当時 とうじ の医療 いりょう 技術 ぎじゅつ を形成 けいせい した伝説 でんせつ が記 しる されている。その後 ご これら鍼灸 しんきゅう 技法 ぎほう は、陰陽 いんよう 五 ご 行 ぎょう 思想 しそう と融合 ゆうごう し、独特 どくとく の治療 ちりょう 体系 たいけい を形成 けいせい していく。
この時代 じだい の鍼灸 しんきゅう を担 にな った著 ちょ 明 あかり な医家 いか としては、史記 しき 列伝 れつでん に名 な を残 のこ す『難 なん 経 けい 』の著者 ちょしゃ 扁 ひらた 鵲 かささぎ や、三 さん 国 こく 時代 じだい 「魏 ぎ 志 こころざし 」に登場 とうじょう する華 はな 佗 、『鍼灸 しんきゅう 甲乙 こうおつ 経 けい 』を編纂 へんさん (へんさん)した皇 すめらぎ 甫 はじめ 謐 などが居 い る。
宋 そう 代 だい 大 だい に作 つく られた銅 どう 人 じん 。鍼の学習 がくしゅう 教材 きょうざい である
宋 そう 代 だい から元 もと 代 だい は医学 いがく 全般 ぜんぱん の理論 りろん 的 てき な整理 せいり と内容 ないよう の充実 じゅうじつ が図 はか られ、後世 こうせい 金元 かねもと 医学 いがく と呼 よ ばれる一 ひと つのエポックを形成 けいせい した。金元 かねもと 医学 いがく の中心 ちゅうしん は主 おも に湯 ゆ 液 えき (生薬 きぐすり 方 かた )であり、ここに至 いた り新 あら たな薬方 やくほう も多 おお く登場 とうじょう した。これはやがて、江戸 えど 時代 じだい における日本 にっぽん の主流 しゅりゅう な医学 いがく の原型 げんけい となっていくもので、古代 こだい から発展 はってん した煩雑 はんざつ な体 からだ 表面 ひょうめん の観察 かんさつ 分類 ぶんるい 法 ほう (診断 しんだん 法 ほう )はやや簡便 かんべん 化 か され、実用 じつよう 的 てき に整理 せいり されていた。これに対 たい し、元 もと の滑 すべり 寿 ことぶき のように、「難 なん 経 けい などの古 ふる い鍼灸 しんきゅう 書 しょ を捨 す てて、新 あたら しい湯 ゆ 液 えき に走 はし るのは薮医者 やぶいしゃ である」『難 なん 経 けい 本義 ほんぎ 』とする批判 ひはん もある。
1822年 ねん 、清 きよし 王朝 おうちょう は、「鍼灸 しんきゅう の一法 いっぽう 、由来 ゆらい すでに久 ひさ し、然 しか れども鍼をもって刺 さ し火 ひ をもって灸 やいと するは、究 きわむ ところ奉 たてまつ 君 きみ の宜 よろ しき所 ところ にあらず、太 ふとし 医院 いいん 鍼灸 しんきゅう の一 いち 科 か は、永遠 えいえん に停止 ていし となす。」と宮廷 きゅうてい 医院 いいん 内 ない の鍼灸 しんきゅう 科 か の廃止 はいし を宣言 せんげん した。太 ふとし 医院 いいん (国 くに の最高 さいこう 医療 いりょう 行政 ぎょうせい 機関 きかん )のみのことだったのが広 ひろ まり、それまで漢方薬 かんぽうやく と双璧 そうへき だった鍼灸 しんきゅう の地位 ちい は低下 ていか し、鍼灸 しんきゅう はほとんど民間 みんかん 療法 りょうほう になっていた[4] 。西洋 せいよう 医学 いがく の流入 りゅうにゅう と共 とも に中国 ちゅうごく 医学 いがく の衰退 すいたい が始 はじ まり、西欧 せいおう の植民 しょくみん 地 ち 化 か が進 すす む中 なか で多 おお くの文物 ぶんぶつ が散逸 さんいつ し、実際 じっさい の技術 ぎじゅつ も喪失 そうしつ しつつあった。このような状況 じょうきょう を受 う け、中華民国 ちゅうかみんこく 時代 じだい 、袁世凱 は中国 ちゅうごく 医学 いがく の禁止 きんし を打 う ち出 だ し、1925年 ねん に医学 いがく 校 こう での中国 ちゅうごく 医学 いがく の教育 きょういく を禁止 きんし 、29年 ねん には第 だい 一 いち 次 じ 中央 ちゅうおう 衛生 えいせい 委員 いいん 会議 かいぎ にて中国 ちゅうごく 医学 いがく の廃止 はいし 案 あん を批准 ひじゅん した。これに対 たい し全国 ぜんこく 的 てき に反対 はんたい 活動 かつどう を展開 てんかい し、36年 ねん の中 なか 医 い 条例 じょうれい で合法 ごうほう 地位 ちい を獲得 かくとく 、37年 ねん には政府 せいふ に中 ちゅう 医 い 委員 いいん 会 かい を設立 せつりつ させることに成功 せいこう した[4] 。
当時 とうじ 日本 にっぽん では明治維新 めいじいしん 以降 いこう 、西欧 せいおう 医学 いがく を導入 どうにゅう して伝統 でんとう 医師 いし の根絶 こんぜつ 策 さく を進 すす めたが、鍼灸 しんきゅう だけは近代 きんだい 医学 いがく も教育 きょういく した鍼灸 しんきゅう 師 し の形 かたち で存続 そんぞく し、科学 かがく 研究 けんきゅう も行 おこな われていた。鍼灸 しんきゅう の伝統 でんとう が途絶 とだ えていた中国 ちゅうごく は、日本 にっぽん に大 おお きな刺激 しげき と影響 えいきょう を受 う けた[4] 。中華民国 ちゅうかみんこく における中国 ちゅうごく 医学 いがく 廃止 はいし 政策 せいさく に際 さい し、政府 せいふ に対 たい して反論 はんろん に利用 りよう されたのが、江戸 えど や明治 めいじ 後 ご の伝統 でんとう 医学 いがく 研究 けんきゅう 書 しょ である。真 ま 柳 やなぎ 誠 まこと の調査 ちょうさ では、日本 にっぽん の鍼灸 しんきゅう 書 しょ の中国 ちゅうごく 版 ばん 出版 しゅっぱん 回数 かいすう は1934年 ねん に8回 かい 、35年 ねん に21回 かい 、36年 ねん に83回 かい と急増 きゅうぞう するが、そのブームは日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう によって終 お わった[4] 。また日本 にっぽん では、明治 めいじ 期 き になると伝統 でんとう 的 てき な医学 いがく 書 しょ は不要 ふよう とされ、多 おお くが清 きよし に流出 りゅうしゅつ したが、これには中国 ちゅうごく や朝鮮 ちょうせん で出版 しゅっぱん された医学 いがく 書 しょ も含 ふく まれていた[5] 。
日本 にっぽん の敗戦 はいせん 後 ご 、国民党 こくみんとう と共産党 きょうさんとう の内戦 ないせん を経 へ て、勝利 しょうり した中共 ちゅうきょう は国威 こくい 発揚 はつよう のため、「西洋 せいよう 医師 いし =通常 つうじょう の医師 いし 」と対等 たいとう の「中 ちゅう 医師 いし =伝統 でんとう 医学 いがく の医師 いし 」を規定 きてい した。全国 ぜんこく から「老中 ろうじゅう 医 い 」と呼 よ ばれる伝統 でんとう 医師 いし を招聘 しょうへい し、その玉石混交 ぎょくせきこんこう ・多様 たよう な技法 ぎほう を、党 とう の権力 けんりょく の元 もと で統合 とうごう ・体系 たいけい 化 か したものであった。中 ちゅう 医学 いがく は多様 たよう な中国 ちゅうごく 医学 いがく の一 ひと つであるが、中国 ちゅうごく 全土 ぜんど の生 なま 薬方 やくほう や鍼灸 しんきゅう 技法 ぎほう の多様 たよう 性 せい を切 き り捨 す てて、簡便 かんべん に体系 たいけい 化 か したという側面 そくめん もある。中国 ちゅうごく 医学 いがく の歴史 れきし は古 ふる いが、現在 げんざい の中国 ちゅうごく で行 おこな われている中 ちゅう 医学 いがく の歴史 れきし だけをみると、数 すう 十 じゅう 年 ねん と短 みじか い。また、中共 ちゅうきょう がこの中 ちゅう 医学 いがく を「作成 さくせい 」するにあたって、その原型 げんけい とした文物 ぶんぶつ や「老中 ろうじゅう 医 い 」の技法 ぎほう には、近代 きんだい 以後 いご 日本 にっぽん から逆 ぎゃく 輸出 ゆしゅつ された日本 にっぽん の鍼灸 しんきゅう 研究 けんきゅう の成果 せいか が多 おお く反映 はんえい されている。日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう 以前 いぜん の第 だい 一 いち 次 じ 日本 にっぽん 伝統 でんとう 医学 いがく 研究 けんきゅう 書 しょ ブームに続 つづ き、1949年 ねん からの中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく では、1966年 ねん の文化 ぶんか 大 だい 革命 かくめい までに、昭和 しょうわ の鍼灸 しんきゅう 書 しょ が新 あら たに16種 しゅ 翻訳 ほんやく 出版 しゅっぱん され、鍼灸 しんきゅう を含 ふく めた第 だい 二 に 次 じ 日本 にっぽん 伝統 でんとう 医学 いがく 書 しょ ブームが起 お きていた[4] 。中華民国 ちゅうかみんこく 時代 じだい から鍼灸 しんきゅう の復興 ふっこう と教育 きょういく 啓蒙 けいもう を行 おこな っていた中 なか 医師 いし で、とくに精力 せいりょく 的 てき に活動 かつどう した承 うけたまわ 淡 あわ 庵 あん (1899 - 1957)は、1934〜35年 ねん の訪日 ほうにち で東京 とうきょう 高等 こうとう 鍼灸 しんきゅう 学校 がっこう (呉竹 くれたけ 学園 がくえん )などを視察 しさつ し、帰国 きこく 後 ご すぐに中国 ちゅうごく 鍼灸 しんきゅう 医学 いがく 専門 せんもん 学校 がっこう を設立 せつりつ した[4] 。その門下 もんか が、1956年 ねん から各地 かくち に設立 せつりつ された中 なか 医学 いがく 院 いん で教鞭 きょうべん にあたり、60年 ねん に刊行 かんこう された中 なか 医学 いがく 院 いん の第 だい 一 いち 版 はん 統一 とういつ 教材 きょうざい も編纂 へんさん しているが、現代 げんだい 中 ちゅう 医学 いがく の骨格 こっかく はこの第 だい 一 いち 版 はん 教材 きょうざい で築 きず かれている[4] 。このような歴史 れきし 的 てき 経緯 けいい から、現在 げんざい の日本 にっぽん と中国 ちゅうごく の鍼灸 しんきゅう 医学 いがく は、湯 ゆ 液 えき (薬物 やくぶつ 療法 りょうほう )ほどの違 ちが いがない[4] 。
米 べい 中 ちゅう 関係 かんけい の緊張 きんちょう 緩和 かんわ を受 う けて共和党 きょうわとう のニクソン米 べい 大統領 だいとうりょう が訪中 ほうちゅう した際 さい 、中 ちゅう 医 い 鍼灸 しんきゅう による、鍼のみの鎮痛 ちんつう 処置 しょち によって麻酔 ますい を用 もち いず外科 げか 手術 しゅじゅつ をしている風景 ふうけい がメディアに紹介 しょうかい されたことから、1970年代 ねんだい 、世界 せかい 的 てき な鍼麻酔 ますい ブームが起 お きた。
鍼麻酔 ますい については、その痛覚 つうかく 閾値を大 おお きく上昇 じょうしょう させる効果 こうか 自体 じたい は、機 き 序 じょ も研究 けんきゅう され明 あき らかとなったが、実際 じっさい に外科 げか 手術 しゅじゅつ などにおける麻酔 ますい の手段 しゅだん として鍼麻酔 ますい を適用 てきよう する場合 ばあい 、効果 こうか が個々 ここ の患者 かんじゃ で大 おお きく異 こと なり、活用 かつよう にはあまりにも不便 ふべん であったため、その後 ご 省 かえり みられなくなった。
薬価 やっか がかからない鍼灸 しんきゅう は、貧 まず しい時代 じだい の中国 ちゅうごく においては非常 ひじょう に有用 ゆうよう な医療 いりょう 技術 ぎじゅつ であり、さまざまな疾病 しっぺい に対 たい して鍼灸 しんきゅう が活用 かつよう されたが、これは、裕福 ゆうふく な人々 ひとびと は現代 げんだい 医学 いがく に頼 たよ り、貧 まず しい人々 ひとびと が中 ちゅう 医学 いがく に頼 たよ る、という構図 こうず の出現 しゅつげん でもあった。鍼灸 しんきゅう 研究 けんきゅう においては、研究 けんきゅう の基盤 きばん がないこともあり、戦前 せんぜん 戦中 せんちゅう に日本 にっぽん で行 おこな われた研究 けんきゅう の跡 あと をなぞるレベルから脱 だっ することはなく、現在 げんざい に至 いた っている。経済 けいざい 状態 じょうたい が好転 こうてん した近年 きんねん においては、中国 ちゅうごく 国内 こくない での鍼灸 しんきゅう への評価 ひょうか は多様 たよう 化 か しているが、鍼灸 しんきゅう のニーズが高 たか まっている欧米 おうべい (特 とく に米国 べいこく )志向 しこう の中 なか 医師 いし が多 おお くなっている。中国 ちゅうごく ・韓国 かんこく はWHOなどを舞台 ぶたい に、鍼灸 しんきゅう を含 ふく む東 ひがし アジア伝統 でんとう 医学 いがく に対 たい して主導 しゅどう 権 けん 獲得 かくとく の姿勢 しせい が見受 みう けられ、外交 がいこう 問題 もんだい ともなっているが、これに対 たい し日本 にっぽん の伝統 でんとう 医 い 学会 がっかい の国際 こくさい 社会 しゃかい への興味 きょうみ は比較的 ひかくてき 乏 とぼ しい。
東 ひがし アジア伝統 でんとう 医学 いがく の標準 ひょうじゅん 化 か は、中国 ちゅうごく 主導 しゅどう で進 すす みつつある。治療 ちりょう に用 もち いる鍼は国 くに によって形状 けいじょう が異 こと なるが、2009年 ねん に国際 こくさい 標準 ひょうじゅん 化 か 機構 きこう (ISO)で設置 せっち が承認 しょうにん されたTC249では、2010年 ねん の第 だい 1回 かい 全体 ぜんたい 会議 かいぎ (北京 ぺきん ) 以降 いこう 、2013年 ねん までに4回 かい の全体 ぜんたい 会議 かいぎ を開催 かいさい された。この間 あいだ 鍼灸 しんきゅう 領域 りょういき では、鍼灸 しんきゅう 鍼の国際 こくさい 規格 きかく 作成 さくせい をscopeとするWG3と鍼灸 しんきゅう 鍼以外 がい の医療 いりょう 機器 きき の規格 きかく 作成 さくせい に特 とく 化 か したWG4の2つが設置 せっち され、伝統 でんとう 医学 いがく 領域 りょういき の医療 いりょう 機器 きき の国際 こくさい 規格 きかく 策定 さくてい が進 すす められた。2014年 ねん には「滅菌 めっきん 済 ず み単 たん 回 かい 使用 しよう 毫鍼(Sterile acupuncture needles for single use)」規格 きかく が発行 はっこう された[6] 。中国 ちゅうごく からは鍼そのものの品質 ひんしつ や安全 あんぜん 性 せい だけでなく、鍼治療 ちりょう の安全 あんぜん 性 せい も規格 きかく 化 か の対象 たいしょう にしようとの提案 ていあん があったが、これに対 たい しては是正 ぜせい するよう求 もと める日本 にっぽん の主張 しゅちょう が通 とお ったようである[7] 。
日本 にっぽん では、鍼灸 しんきゅう は遣 や 隋 ずい 使 し や遣唐使 けんとうし の伝来 でんらい と共 とも に本格 ほんかく 的 てき なテキストと技術 ぎじゅつ の伝来 でんらい がなされたと言 い われているが、日本書紀 にほんしょき の允恭天皇 いんぎょうてんのう 記 き 中 ちゅう にも鍼灸 しんきゅう に関連 かんれん する記述 きじゅつ が見 み られ、民間 みんかん レベルでの技術 ぎじゅつ の伝播 でんぱ は、さらに時代 じだい を遡 さかのぼ るものと考 かんが えられる[8] 。
いずれにしても、遣唐使 けんとうし による鍼灸 しんきゅう 技術 ぎじゅつ の伝播 でんぱ は、単 たん に技術 ぎじゅつ 面 めん にとどまらず、医療 いりょう 制度 せいど としての鍼灸 しんきゅう を日本 にっぽん に模倣 もほう させるものとなり、701年 ねん 制定 せいてい された大宝 たいほう 律令 りつりょう には、医療 いりょう を司 つかさど る中央 ちゅうおう 官職 かんしょく として医 い 博士 はかせ 、按摩 あんま 博士 はかせ と共 とも に鍼博士 はかせ が規定 きてい された。鍼博士 はかせ である丹波 たんば 康 かん 頼 よりゆき は、この時期 じき の伝来 でんらい 医書 いしょ を『医 い 心 しん 方 かた 』という形 かたち で編纂 へんさん し、現在 げんざい までその内容 ないよう が保存 ほぞん されている。医 い 心 しん 方 かた は、現在 げんざい では失 うしな われたテキスト(佚書 いっしょ と呼 よ ばれる)が多 おお く含 ふく まれるもので、文献 ぶんけん 学 がく 的 てき に大 おお きな価値 かち を有 ゆう するものである。この時代 じだい の日本 にっぽん の鍼法についてであるが、外科 げか 的 てき なものや特効 とっこう 穴 あな 治療 ちりょう が主体 しゅたい であったとする意見 いけん があるが、実際 じっさい にこの時代 じだい の日本 にっぽん 鍼灸 しんきゅう の技法 ぎほう を総括 そうかつ するのは、現状 げんじょう では簡単 かんたん ではない。現代 げんだい 日本 にっぽん で行 おこな われる鍼法は、後 こう 漢 かん 以前 いぜん に成立 せいりつ した鍼灸 しんきゅう の原典 げんてん である黄 き 帝 みかど 内 ない 経 けい に回帰 かいき した「金元 かねもと 医学 いがく 」の鍼法(経 けい 脈 みゃく (経絡 けいらく )を意識 いしき した鍼法)が主体 しゅたい とされており、平安 へいあん 期 き に、大陸 たいりく において広 ひろ く活用 かつよう された『千金 せんきん 方 かた 』や『外 そと 台 だい 秘 ひ 要 よう 』など、云 い わば一般 いっぱん 向 む けの「家庭 かてい の医学 いがく 」的 てき なテキストの影響 えいきょう 下 か にある特効 とっこう 穴 あな 鍼法とは一見 いっけん 趣 おもむき を異 こと にするのは事実 じじつ である。しかし、「難 なん 経 けい 」などに見 み える経 けい 脈 みゃく 主体 しゅたい の治療 ちりょう も、既 すで に概要 がいよう は後 こう 漢 かん までには整頓 せいとん され成立 せいりつ している体系 たいけい であり、平安 へいあん 期 き におけるその影響 えいきょう を考察 こうさつ するには、まだ時 とき を要 よう するものと言 い われている。また、日本 にっぽん の平安朝 へいあんちょう における鍼法の主流 しゅりゅう が特効 とっこう 穴 あな 治療 ちりょう であったという証左 しょうさ も乏 とぼ しく、この時代 じだい の日本 にっぽん 鍼灸 しんきゅう の実態 じったい については、未 いま だ多 おお くが不明 ふめい と言 い ってよい。
豊臣 とよとみ 秀吉 ひでよし による文禄・慶長 ぶんろくけいちょう の役 えき (1592・1598年 ねん )の際 さい に、朝鮮半島 ちょうせんはんとう にあった朝鮮 ちょうせん ・中国 ちゅうごく の医学 いがく 書 しょ が大量 たいりょう に日本 にっぽん に持 も ち込 こ まれ、印刷 いんさつ 技術 ぎじゅつ も伝 つた えられた[9] 。1592年 ねん に秀吉 ひでよし 軍 ぐん が略奪 りゃくだつ した書籍 しょせき は、船 ふね 数 すう 艘 そう ・数 すう 千 せん 巻 かん ともいわれ、このため朝鮮半島 ちょうせんはんとう に古 ふる い書籍 しょせき はほとんど残 のこ されていない[5] 。印刷 いんさつ 技術 ぎじゅつ の伝播 でんぱ で医学 いがく 書 しょ も出版 しゅっぱん されるようになった。
室町 むろまち 時代 ときよ から江戸 えど 時代 じだい に入 はい って日本 にっぽん 鍼灸 しんきゅう は大 おお きく発展 はってん した。『鍼道秘訣 ひけつ 集 しゅう 』の御薗 みその 夢 ゆめ 分 ぶん 斎 とき 、打 だ 鍼術 しんじゅつ を発明 はつめい した息子 むすこ の御薗 みその 意 い 斎 とき 、『素 す 問 とい 諺 ことわざ 解 かい 』、『難 なん 経 けい 本義 ほんぎ 諺 ことわざ 解 かい 』、『十 じゅう 四 よん 経 けい 発揮 はっき 和語 わご 抄 しょう 』など、鍼灸 しんきゅう 古典 こてん に対 たい する注釈 ちゅうしゃく が多数 たすう なされ、出版 しゅっぱん された。また、岡本 おかもと 一 いち 抱 だき のように優 すぐ れた臨床 りんしょう 家 か も多数 たすう 輩出 はいしゅつ され、日本 にっぽん における鍼灸 しんきゅう は内容 ないよう 的 てき に大 おお きな伸展 しんてん を遂 と げた。また、江戸 えど 期 き の臨床 りんしょう 家 か でその後 ご の日本 にっぽん 鍼灸 しんきゅう に巨大 きょだい な影響 えいきょう を残 のこ したのが、杉山 すぎやま 和一 かずいち である。5代 だい 将軍 しょうぐん 徳川 とくがわ 綱吉 つなよし の時代 じだい 、鍼刺入 いれ のために「外 そと 筒 とう (鍼管-しんかん-)」を使用 しよう することを発明 はつめい した杉山 すぎやま 和一 かずいち は、綱吉 つなよし の治療 ちりょう に当 あ たり、平癒 へいゆ の褒章 ほうしょう として下町 したまち 一 ひと つ目 め に屋敷 やしき を賜 たまわ り、将軍家 しょうぐんけ 御 ご 医師 いし の地位 ちい と、盲人 もうじん の最高 さいこう 位 い (検校 けんぎょう -けんぎょう)を賜 たまわ った。また、驚 おどろ くべきことに、私費 しひ を投 とう じて全国 ぜんこく 40箇所 かしょ 以上 いじょう に「鍼術 しんじゅつ 教授 きょうじゅ 所 しょ 」を開設 かいせつ し、日本 にっぽん における鍼灸 しんきゅう を、盲人 もうじん の職掌 しょくしょう として確立 かくりつ した。この幕府 ばくふ お墨付 すみつ きの盲人 もうじん 教育 きょういく とそのレベルの高 たか さは、ヨーロッパの盲人 もうじん 教育 きょういく の萌芽 ほうが と比較 ひかく しても100年 ねん 以上 いじょう 早 はや いもので、世界 せかい 史 し 的 てき な壮挙 そうきょ とされる。いずれにせよ、この後 のち 日本 にっぽん においては、鍼灸 しんきゅう を盲人 もうじん が担 にな うという、世界 せかい に類 るい を見 み ない形態 けいたい の技術 ぎじゅつ 伝承 でんしょう と技法 ぎほう の発展 はってん がなされることになる。
この杉山 すぎやま 和一 かずいち による「外 そと 筒 とう (鍼管-しんかん-)」を用 もち いる管鍼 くだばり 法 ほう は、現在 げんざい では一般 いっぱん 的 てき 技法 ぎほう として、日本 にっぽん の鍼灸 しんきゅう の特色 とくしょく をなしている。また、盲人 もうじん が鍼灸 しんきゅう を担 にな うようになったことで、一般 いっぱん 的 てき には刺 とげ 入 にゅう ポイントを「見 み て刺 さ す」技法 ぎほう だった鍼灸 しんきゅう が、「触 さわ って刺 さ す」技法 ぎほう に変化 へんか したといわれ、技術 ぎじゅつ 論 ろん 的 てき な意義 いぎ を持 も つ重要 じゅうよう な転換 てんかん 点 てん である。手先 てさき の器用 きよう な日本人 にっぽんじん のうちでも、盲人 もうじん の指頭 しとう 感覚 かんかく は非常 ひじょう に鋭敏 えいびん である。この鋭敏 えいびん な感覚 かんかく を用 もち いて、体 からだ 表面 ひょうめん を「さわり」、刺 とげ 入 いれ のポイントを類型 るいけい 分類 ぶんるい し、技法 ぎほう を体系 たいけい 立 た てて来 き た江戸 えど 期 き の日本 にっぽん の鍼灸 しんきゅう は、「経穴 けいけつ 」という、効果 こうか の決 き まったポイントが体 からだ 表面 ひょうめん に元 もと から存在 そんざい するとする、古来 こらい 一般 いっぱん 的 てき な鍼灸 しんきゅう 論 ろん に対 たい し、「変化 へんか の起 お こっている部位 ぶい 」こそ「経穴 けいけつ 」という治療 ちりょう ポイントになり得 え る、という視点 してん を導入 どうにゅう し、今日 きょう に続 つづ く鍼灸 しんきゅう の科学 かがく 的 てき な解明 かいめい に道 みち を開 ひら いた。
明治 めいじ 時代 じだい になると、近代 きんだい 西洋 せいよう 文化 ぶんか の流入 りゅうにゅう に伴 ともな い、明治 めいじ 政府 せいふ が西洋 せいよう 医学 いがく の導入 どうにゅう と共 とも に漢方 かんぽう 医学 いがく の排斥 はいせき を進 すす めた。鍼灸 しんきゅう もその例 れい に漏 も れず、明治 めいじ 時代 じだい から大正 たいしょう 時代 じだい にかけて鍼灸 しんきゅう は衰退 すいたい をたどった。
大正 たいしょう 期 き に入 はい ると、日本 にっぽん の伝統 でんとう 的 てき 医学 いがく の復興 ふっこう が叫 さけ ばれ、鍼灸 しんきゅう ・漢方 かんぽう の医学 いがく 的 てき 研究 けんきゅう が帝 みかど 大 だい を中心 ちゅうしん とした国 くに の研究 けんきゅう 機関 きかん で盛 さか んに行 おこな われるようになった。大久保 おおくぼ 適 てき 斎 とき は鍼灸 しんきゅう 刺激 しげき は交感神経 こうかんしんけい を介 かい して心臓 しんぞう に影響 えいきょう が及 およ ぶということを提唱 ていしょう し、三浦 みうら 謹之助 すけ は鍼治についての研究 けんきゅう を行 おこな い、後藤 ごとう 道雄 みちお はヘッド帯 たい を用 もち いての治療 ちりょう を行 おこな った。長濱 ながはま 善夫 よしお と丸山 まるやま 昌郎 まさお は鍼の響 ひび きによるものと考 かんが えた。石川 いしかわ 太刀 だち 雄 ゆう は皮 かわ 電 でん 点 てん を、中谷 なかたに 義雄 よしお は良 りょう 導 しるべ 点 てん を、小野寺 おのでら 直 ただし 助 すけ は圧 あつ 診 み 点 てん を、成田 なりた 夬助 は撮 つまみ 診 み 点 てん を、藤田 ふじた 六朗 ろくろう は丘 おか 疹点 を提唱 ていしょう した。また、芹澤 せりざわ 勝助 かつすけ は鍼灸 しんきゅう 師 し として初 はじ めて医学 いがく 博士 はかせ を取得 しゅとく した。中山 なかやま 忠直 ただなお は『漢方 かんぽう 医学 いがく の新 しん 研究 けんきゅう 』の著書 ちょしょ で鍼灸 しんきゅう 医師 いし 法 ほう を提案 ていあん した。
また、鍼灸 しんきゅう の技法 ぎほう 自体 じたい に対 たい する復興 ふっこう 運動 うんどう が昭和 しょうわ 初期 しょき から起 お こりはじめた。「古典 こてん に還 かえ れ」と提唱 ていしょう した柳谷 やなぎや 素 す 霊 れい とその元 もと に集 あつ まった岡部 おかべ 素 もと 道 どう 、井上 いのうえ 恵理 えり 、本間 ほんま 祥 さち 白 しろ 、福島 ふくしま 弘道 ひろみち などが所謂 いわゆる 経絡 けいらく 治療 ちりょう として体系 たいけい 化 か した。これらは古典 こてん のうちでも特 とく に「難 なん 経 けい 」を中心 ちゅうしん に据 す えた体系 たいけい で、技法 ぎほう が微妙 びみょう なため、大陸 たいりく では古 ふる くに滅 ほろ び去 さ ったものといえる。他 た に著名 ちょめい な古典 こてん 派 は の流派 りゅうは として、太極 たいきょく 療法 りょうほう を考案 こうあん した澤田 さわだ 健 けん と弟子 でし の代田 しろた 文 ぶん 誌 し 、江戸 えど 時代 じだい の本郷 ほんごう 正豊 まさとよ 著 ちょ 『鍼灸 しんきゅう 重宝 ちょうほう 記 き 』の内容 ないよう を治療 ちりょう 法 ほう の核 かく としていた八 はち 木下 きのした 勝之助 かつのすけ 、小児 しょうに はり の藤井 ふじい 秀二 しゅうじ 、皮 かわ 内 ない 鍼 の赤羽 あかはね 幸 さいわい 兵衛 ひょうえ 、『名家 めいか 灸 やいと 選 せん 釈義 しゃくぎ 』を著 あらわ し、深谷 ふかや 灸 やいと 法 ほう を確立 かくりつ した深谷 ふかや 伊三郎 いさぶろう 、その弟子 でし で『図説 ずせつ 深谷 ふかや 灸 やいと 法 ほう 』を著 あらわ した入江 いりえ 靖二 やすじ 、『灸 やいと 治療 ちりょう 概説 がいせつ 』を著 あらわ した根井 ねい 養 よう 智 さとし 、『鍼の道 みち を尋 たず ねて 』の著者 ちょしゃ 馬場 ばば 白光 はっこう などが著名 ちょめい であり、現在 げんざい でも大 おお きな影響 えいきょう 力 りょく を持 も っている。
その後 ご 、日本 にっぽん は太平洋戦争 たいへいようせんそう に敗 やぶ れ、進駐軍 しんちゅうぐん のいわゆる民主 みんしゅ 化 か 施策 しさく が行 おこな われるや、鍼灸 しんきゅう を「非 ひ 科学 かがく 的 てき で医学 いがく 的 てき 根拠 こんきょ がない」という理由 りゆう から禁止 きんし しようとした。京都 きょうと 帝 みかど 大 だい 教授 きょうじゅ (後 ご ・三重大学 みえだいがく 医学 いがく 部長 ぶちょう )の石川 いしかわ 日出 にっしゅつ 鶴丸 つるまる を中心 ちゅうしん とした、全国 ぜんこく の鍼灸 しんきゅう 師 し による鍼灸 しんきゅう 存続 そんぞく 運動 うんどう が展開 てんかい されたのはこの時 とき である。石川 いしかわ 博士 はかせ は、
1940年代 ねんだい の基礎 きそ 科学 かがく の現状 げんじょう では、体 からだ 性 せい 感覚 かんかく を介 かい した治療 ちりょう 的 てき 介入 かいにゅう 技法 ぎほう (鍼灸 しんきゅう )の完全 かんぜん な解明 かいめい など不可能 ふかのう であり、解明 かいめい されていないことをもって鍼灸 しんきゅう が科学 かがく 的 てき でないとする指摘 してき は当 あ たらないこと
大日本帝国 だいにっぽんていこく においては、国家 こっか の方針 ほうしん として伝統 でんとう 医学 いがく (鍼灸 しんきゅう )の研究 けんきゅう を国家 こっか の機関 きかん で行 おこな ってきており、これらの成果 せいか を推 お し進 すす めることで、現代 げんだい 医学 いがく の発達 はったつ に寄与 きよ すること甚大 じんだい であること
を強 つよ く主張 しゅちょう した。また当時 とうじ 、ほとんどの鍼灸 しんきゅう 師 し は盲人 もうじん であり、敗戦 はいせん 直後 ちょくご の日本 にっぽん はこれらの雇用 こよう の代替 だいたい 策 さく を準備 じゅんび できる状況 じょうきょう ではなかったため、厚生省 こうせいしょう も按摩 あんま 、鍼灸 しんきゅう の存続 そんぞく に本腰 ほんごし を入 い れ、進駐軍 しんちゅうぐん 衛生局 えいせいきょく に按摩 あんま 、鍼灸 しんきゅう の存続 そんぞく を認 みと めさせた。これを受 う けて、昭和 しょうわ 22年 ねん (1947年 ねん )12月 がつ 20日 はつか 、「あん摩 ま 、はり、きゅう、柔道 じゅうどう 整復 せいふく 等 とう 営業 えいぎょう 法 ほう 」が公布 こうふ される。
韓 かん 医学 いがく はその多 おお くを中国 ちゅうごく 医学 いがく に拠 よ っているが、鍼灸 しんきゅう 学 がく は中国 ちゅうごく ・日本 にっぽん とも相当 そうとう 異 こと なる制度 せいど ・伝統 でんとう を持 も って発展 はってん した[10] 。「一 いち 鍼二 に 灸 やいと 三 さん 薬 くすり 」と言 い われるほど鍼灸 しんきゅう が重 おも んじられており[11] 、現在 げんざい の韓国 かんこく は世界 せかい 唯一 ゆいいつ の鍼灸 しんきゅう 専門医 せんもんい 制度 せいど を持 も っている[10] 。
日 にち 中 ちゅう 韓 かん では長 なが い歴史 れきし の中 なか で、漢文 かんぶん によって多 おお くの医学 いがく 書 しょ が書 か かれた。時代 じだい ・国 こく によって内容 ないよう には顕著 けんちょ な違 ちが いがあるが、相互 そうご に医学 いがく 書 しょ が伝 つた えられ、渾然一体 こんぜんいったい となって発展 はってん してきた。鍼灸 しんきゅう 書 しょ 『神 かみ 応 おう 経 けい 』のように、ひとつの書籍 しょせき が明 あかり 版 ばん →日本 にっぽん →李 り 朝 ちょう 版 ばん →和 わ 刻 こく 版 ばん →中国 ちゅうごく 活字 かつじ 版 ばん と伝承 でんしょう された例 れい もある。
イタリア とドイツ の国境 こっきょう にあるエッツタール で発見 はっけん されたミイラ 、アイスマン に施 ほどこ された刺青 しせい と彼 かれ の腰 こし の状態 じょうたい から、中国 ちゅうごく で鍼灸 しんきゅう が行 おこな われ始 はじ めるよりはるか昔 むかし のヨーロッパ の青銅器 せいどうき 時代 じだい にアルプス山脈 あるぷすさんみゃく の麓 ふもと で経穴 けいけつ を使 つか った治療 ちりょう が行 おこな われていたという考察 こうさつ があるが、これがその後 ご どのような経緯 けいい を辿 たど ったのかは判明 はんめい していない。
12世紀 せいき ドイツの修道 しゅうどう 女 おんな ヒルデガルト・フォン・ビンゲン (1098-1179)は、瀉 血 ち 、吸 す い玉 だま 療法 りょうほう などとともに、治療 ちりょう にマグワート(オウシュウヨモギ)を使 つか った灸 やいと を用 もち いていた[12] 。西洋 せいよう の伝統 でんとう 的 てき な体液 たいえき 病理 びょうり 説 せつ に基 もと づき、悪 わる い体液 たいえき の排出 はいしゅつ をめざす治療 ちりょう である[12] 。
ヨーロッパ諸国 しょこく は16世紀 せいき ごろから東 ひがし アジアに進出 しんしゅつ し、中国 ちゅうごく 大陸 たいりく と朝鮮半島 ちょうせんはんとう にあった国 くに が反発 はんぱつ の姿勢 しせい を見 み せる一方 いっぽう で、日本 にっぽん は鎖国 さこく 以降 いこう も一定 いってい の交流 こうりゅう を保 たも ち続 つづ けた。医学 いがく 史 し を研究 けんきゅう するヴォルフガング・ミヒェル は、19世紀 せいき 初頭 しょとう まで「東洋 とうよう 医学 いがく 」に関 かん する情報 じょうほう の大半 たいはん は中国 ちゅうごく 大陸 たいりく からではなく、長崎 ながさき のオランダ商館 しょうかん を通 つう じてヨーロッパに伝 つた わり、中国 ちゅうごく 大陸 たいりく の伝統 でんとう 医学 いがく のほか、日本 にっぽん 独特 どくとく の管鍼 くだばり 法 ほう 、打 だ 鍼法なども日 にち 中 ちゅう 共有 きょうゆう の治療 ちりょう 法 ほう として紹介 しょうかい されたと述 の べている[13] 。
ヨーロッパにおける鍼と灸 やいと の受容 じゅよう は基本 きほん 的 てき に別々 べつべつ に進 すす められた。灸 やいと は16世紀 せいき に「火 ひ のボタン」として紹介 しょうかい され、1675年 ねん に刊行 かんこう されたバタビアの牧師 ぼくし の著書 ちょしょ により、足 あし 痛風 つうふう の治療 ちりょう 薬 やく Moxa(もぐさ)として注目 ちゅうもく され本格 ほんかく 的 てき に議論 ぎろん されるようになった[13] 。ケンペル が持 も ち帰 かえ った「灸 やいと 所 しょ 鑑 かん 」とその詳細 しょうさい な説明 せつめい でさらに関心 かんしん が高 たか まり、古代 こだい ギリシャやエジプトにも類似 るいじ の治療 ちりょう 法 ほう があったことから、医術 いじゅつ としての灸 やいと は比較的 ひかくてき 好意 こうい 的 てき に受 う け入 い れられた[13] 。
鍼に関 かん する最古 さいこ の記述 きじゅつ は日本 にっぽん とポルトガルの交流 こうりゅう 時代 じだい に遡 さかのぼ り、出島 でじま 商館 しょうかん 医 い テン・ライネが1682年 ねん に発表 はっぴょう した論文 ろんぶん 集 しゅう からヨーロッパでの専門 せんもん 家 か による議論 ぎろん が行 おこな われるようになった。テン・ライネは鍼を「acupunctura」と名 な づけ、出島 でじま のオランダ語 ご 通訳 つうやく に説明 せつめい を受 う けた資料 しりょう を紹介 しょうかい したが、「気 き 」、「経絡 けいらく 」、「陰陽 いんよう 」などの概念 がいねん の理解 りかい は困難 こんなん であり、読者 どくしゃ を困惑 こんわく させた[13] 。その後 ご 商館 しょうかん 医 い ケンペルが疝気 せんき を「疝痛 せんつう 」(colica)と解釈 かいしゃく し、その治療 ちりょう 法 ほう を詳細 しょうさい に記 しる した[13] 。ヴォルフガング・ミヒェルは、ヨーロッパ医学 いがく 界 かい で「日本人 にっぽんじん と清国 きよくに 人 じん は、胃腸 いちょう に溜 たま ったガスを抜 ぬ くために腹部 ふくぶ に針 はり を刺 さ す」という誤 あやま った解釈 かいしゃく が広 ひろ まり、18世紀 せいき 末 まつ までは来日 らいにち したヨーロッパ人 じん 医師 いし 達 たち ・一般人 いっぱんじん も、鍼の有効 ゆうこう 性 せい を疑問 ぎもん 視 し していたと述 の べている[13] 。
現代 げんだい のヨーロッパやオーストアリアでは、代替 だいたい 医療 いりょう として中 ちゅう 医学 いがく (現代 げんだい 中国 ちゅうごく の中国 ちゅうごく 医学 いがく )が受容 じゅよう されている。
日本 にっぽん における鍼灸 しんきゅう [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん における鍼灸 しんきゅう 技法 ぎほう の独自 どくじ 性 せい については、①「鍼管」の発明 はつめい により、より細 ほそ 径 みち の鍼の刺 とげ 入 いれ を可能 かのう とし、より軽微 けいび な刺激 しげき による技法 ぎほう 体系 たいけい に再 さい 構築 こうちく したことと、②江戸 えど 期 き に盲人 もうじん が技法 ぎほう を担 にな ったことで、大陸 たいりく で生 う まれた「見 み て刺 さ す」鍼灸 しんきゅう を「触 さわ って刺 さ す」鍼灸 しんきゅう に進化 しんか させたことの二 に 点 てん に要約 ようやく できる。手先 てさき の鋭敏 えいびん な日本人 にっぽんじん が、多様 たよう な体 からだ 表面 ひょうめん の反応 はんのう や変化 へんか を捉 とら え、治療 ちりょう に使用 しよう できる反応 はんのう や変化 へんか を技術 ぎじゅつ 論 ろん として再 さい 編成 へんせい したのが日本 にっぽん の鍼灸 しんきゅう である。
これは、現在 げんざい WHOを中心 ちゅうしん になされている鍼灸 しんきゅう の治療 ちりょう 点 てん (経穴 けいけつ )をめぐる議論 ぎろん に、一 ひと つの重要 じゅうよう な指針 ししん を示 しめ すものと言 い える。大陸 たいりく 系 けい の鍼灸 しんきゅう (中 ちゅう 医学 いがく )では現在 げんざい でも「経穴 けいけつ -ツボ-」を、古来 こらい 伝 つた わる「身体 しんたい 表面 ひょうめん の特別 とくべつ な座標 ざひょう 」と捉 とら える過 あやま ちに陥 おちい っているが、これこそ「見 み て刺 さ す」技術 ぎじゅつ 体系 たいけい の限界 げんかい であり、それ以上 いじょう の発展 はってん 性 せい や他 た の医療 いりょう 技術 ぎじゅつ との効果 こうか 的 てき なリンクは望 のぞ めない。鍼灸 しんきゅう が汎用 はんよう 的 てき な医療 いりょう 技術 ぎじゅつ として発展 はってん するためには、治療 ちりょう に使用 しよう できる刺 とげ 鍼部位 い はどのような変化 へんか を起 お こしている点 てん であるのかについて、理論 りろん 的 てき に整理 せいり していくことが重要 じゅうよう である。このためには、身体 しんたい 表面 ひょうめん の変化 へんか を捉 とら えて刺 とげ 鍼部位 い を選定 せんてい する、日本 にっぽん の「触 さわ って刺 さ す」鍼灸 しんきゅう こそ、行 い き詰 づま った東洋 とうよう 医学 いがく 研究 けんきゅう のブレークスルーとなると言 い われている。
鍼灸 しんきゅう に関 かかわ る文献 ぶんけん は、日本 にっぽん には、古代 こだい 〜中世 ちゅうせい にかけて輸入 ゆにゅう されたが、江戸 えど 時代 じだい に至 いた り、高度 こうど な校勘 こうかん (こうかん)技術 ぎじゅつ の発展 はってん と相 あい まって、中国 ちゅうごく を含 ふく む東 ひがし アジア各国 かっこく に、膨大 ぼうだい な数 かず の鍼灸 しんきゅう 書籍 しょせき や、新 あら たな技術 ぎじゅつ 論 ろん を逆 ぎゃく 輸出 ゆしゅつ している。生薬 きぐすり 法 ほう である漢方 かんぽう についても事情 じじょう は同様 どうよう であると言 い える。維新 いしん 後 ご の医 い 制 せい の洋式 ようしき 化 か では、鍼灸 しんきゅう ・漢方 かんぽう は医療 いりょう 制度 せいど 上 じょう の不遇 ふぐう を囲 かこ ったが、民間 みんかん をはじめ官界 かんかい でも支持 しじ 者 しゃ は多 おお く、帝 みかど 大 だい 医学部 いがくぶ においても、世界 せかい に先駆 さきが けて科学 かがく 的 てき な鍼灸 しんきゅう ・漢方 かんぽう 研究 けんきゅう の萌芽 ほうが が見 み られた。このムーブメントは皇漢 こうかん 医学 いがく ― つまり漢 かん 代 だい の中国 ちゅうごく に生 う まれ、皇国 こうこく において発達 はったつ した医学 いがく ― と呼 よ ばれ、中国 ちゅうごく の中 なか 医学 いがく を含 ふく む現代 げんだい 鍼灸 しんきゅう ・生 なま 薬方 やくほう のルーツとなっている。
昭和 しょうわ に入 はい り、皇漢 こうかん 医学 いがく のムーブメントは、数次 すうじ の医療 いりょう 法規 ほうき 改正 かいせい を成 な し遂 と げ、昭和 しょうわ 19年 ねん には帝国 ていこく 議会 ぎかい で「鍼灸 しんきゅう 医師 いし 法 ほう 」の成立 せいりつ を見 み るまでに盛 も り上 あ がったが、敗戦 はいせん とアメリカの占領 せんりょう 政策 せいさく に伴 ともな う医療 いりょう 制度 せいど 改定 かいてい により、鍼灸 しんきゅう ・漢方 かんぽう は再度 さいど 壊滅 かいめつ 状態 じょうたい となり、若干 じゃっかん の復旧 ふっきゅう を経 へ て現在 げんざい に至 いた る。現状 げんじょう における一般 いっぱん 的 てき な見解 けんかい は、多様 たよう な経験 けいけん 則 そく が技術 ぎじゅつ 論 ろん として体系 たいけい 化 か された鍼灸 しんきゅう 技法 ぎほう の全貌 ぜんぼう 解明 かいめい には、未 いま だ多 おお くの検討 けんとう が必要 ひつよう 、とするものである。
資格 しかく 制度 せいど の変遷 へんせん [ 編集 へんしゅう ]
資格 しかく 制度 せいど の現状 げんじょう [ 編集 へんしゅう ]
現在 げんざい 、医師 いし 以外 いがい の者 もの が鍼を行 おこな うためには「はり師 し 」、灸 やいと を行 おこな うには「きゆう師 し 」の国家 こっか 資格 しかく が必要 ひつよう である[* 2] 。鍼灸 しんきゅう 養成 ようせい 施設 しせつ (鍼灸 しんきゅう 専門 せんもん 学校 がっこう ・視覚 しかく 特別 とくべつ 支援 しえん 学校 がっこう 理 り 療科・大学 だいがく 鍼灸 しんきゅう 科 か )で単位 たんい を取得 しゅとく することで、この二 に 種類 しゅるい の免許 めんきょ を受験 じゅけん できる。一部 いちぶ の古参 こさん の私立 しりつ 専門 せんもん 学校 がっこう には、「本科 ほんか 」として「はり師 し 」「きゆう師 し 」に加 くわ えて「あん摩 ま マッサージ指圧 しあつ 師 し 」の免許 めんきょ も加 くわ えた三 さん 種類 しゅるい の免許 めんきょ を受験 じゅけん できる課程 かてい が置 お かれているが、定員 ていいん 数 すう が少 すく なく現在 げんざい でも10倍 ばい 程度 ていど の入学 にゅうがく 倍率 ばいりつ がある。多 おお くの私立 しりつ 専門 せんもん 学校 がっこう 卒業 そつぎょう 者 しゃ および全 すべ ての私立 しりつ 大学 だいがく 鍼灸 しんきゅう 科 か 卒業 そつぎょう 者 しゃ は、はり師 し 、きゆう師 し 二 に 種 しゅ のみを取得 しゅとく できる。
「あん摩 ま マッサージ指圧 しあつ 師 し 」免許 めんきょ については、この取得 しゅとく を専門 せんもん とする課程 かてい (あんま、マッサージ、指圧 しあつ 専門 せんもん 学校 がっこう および視覚 しかく 特別 とくべつ 支援 しえん 学校 がっこう 保健 ほけん 理 り 療科)が存在 そんざい する。視覚 しかく 特別 とくべつ 支援 しえん 学校 がっこう 保健 ほけん 理 り 療科は一般 いっぱん 的 てき な盲学校 もうがっこう 課程 かてい である。つまり、ほとんどの視覚 しかく 障害 しょうがい 者 しゃ は「あん摩 ま マッサージ指圧 しあつ 師 し 」免許 めんきょ を取得 しゅとく する。しかしながら、晴眼 せいがん 者 しゃ が「あん摩 ま マッサージ指圧 しあつ 師 し 」免許 めんきょ を取得 しゅとく するためには、前掲 ぜんけい の古参 こさん の専門 せんもん 学校 がっこう 「本科 ほんか 」に入学 にゅうがく するか、「あん摩 ま マッサージ指圧 しあつ 師 し 専門 せんもん 学校 がっこう 」に入学 にゅうがく しなければならないため、晴眼 せいがん 者 しゃ の「はり師 し ・きゆう師 し ・あん摩 ま マッサージ指圧 しあつ 師 し 」三種 さんしゅ 免許 めんきょ 者 しゃ (三 さん 療師 )は非常 ひじょう に少 すく ない。
「あはき法 ほう 」を厳密 げんみつ に適用 てきよう する場合 ばあい 、はり師 し 、きゆう師 し のみの資格 しかく でマッサージ業 ぎょう を行 おこな うことは、無 む 免許 めんきょ 整体 せいたい 師 し や柔道 じゅうどう 整復 せいふく 師 し がマッサージを行 おこな うのと同様 どうよう の違法 いほう 行為 こうい となる。しかしながら、鍼灸 しんきゅう 施術 しじゅつ には施術 しじゅつ 領野 りょうや に対 たい するあんま的 てき 手技 しゅぎ が必須 ひっす のものでもあり、実際 じっさい には「はり師 し 」「きゆう師 し 」のみの免許 めんきょ 者 しゃ があんま的 てき 手技 しゅぎ を行 おこな っており、現状 げんじょう を反映 はんえい した法 ほう 制度 せいど の改善 かいぜん が求 もと められている。
また鍼灸 しんきゅう 免許 めんきょ 者 しゃ は、歴史 れきし 的 てき に戦後 せんご のある時期 じき まではほとんどが視覚 しかく 障害 しょうがい 者 しゃ (盲学校 もうがっこう 出身 しゅっしん 者 しゃ )であったが、現在 げんざい では全国 ぜんこく 的 てき な視覚 しかく 障害 しょうがい 者 しゃ の減少 げんしょう (盲学校 もうがっこう 入学 にゅうがく 者 しゃ の激減 げきげん )と相 あい まって、晴眼 せいがん 者 しゃ (非 ひ 視覚 しかく 障害 しょうがい 者 しゃ )の免許 めんきょ 者 しゃ が圧倒的 あっとうてき に増加 ぞうか している。鍼灸 しんきゅう 師 し 養成 ようせい 施設 しせつ についても、近年 きんねん の規制 きせい 緩和 かんわ 以前 いぜん までは、鍼灸 しんきゅう 按摩 あんま 養成 ようせい 機関 きかん の新規 しんき 認可 にんか は非常 ひじょう に難 むずか しく、国家 こっか 試験 しけん 受験 じゅけん 者 しゃ 数 すう が適正 てきせい に制限 せいげん されていたが、規制 きせい 緩和 かんわ 以後 いご 、インフラに金 かね がかからない鍼灸 しんきゅう 学校 がっこう の「無秩序 むちつじょ な」新設 しんせつ が相次 あいつ ぎ、年度 ねんど 毎 ごと の卒業 そつぎょう 者 しゃ 数 すう は以前 いぜん (平成 へいせい 10年 ねん )の数 すう 倍 ばい に膨 ふく れ上 あ がっており、需給 じゅきゅう 関係 かんけい は完全 かんぜん に崩壊 ほうかい している。
このなかで、あん摩 ま マッサージ指圧 しあつ 師 し (あまし師 し )の養成 ようせい 学校 がっこう のみは、視覚 しかく 障害 しょうがい 者 しゃ 職域 しょくいき 保護 ほご のためとして新設 しんせつ 校 こう の認可 にんか がなされず、辛 かろ うじて適正 てきせい な免許 めんきょ 者 しゃ の数 かず が保 たも たれているが、前述 ぜんじゅつ のように「あん摩 ま マッサージ指圧 しあつ 師 し 」の免許 めんきょ 自体 じたい が有名 ゆうめい 無実 むじつ 化 か しており、鍼灸 しんきゅう 按摩 あんま の資格 しかく 者 しゃ 数 すう の適正 てきせい 化 か には、現在 げんざい 全 まった く目処 めど が立 た っていない。
公的 こうてき 医療 いりょう 保険 ほけん による療養 りょうよう 費 ひ の支給 しきゅう [ 編集 へんしゅう ]
鍼灸 しんきゅう 診療 しんりょう の公的 こうてき 医療 いりょう 保険 ほけん 適用 てきよう は、「療養 りょうよう 費 ひ 」(鍼灸 しんきゅう 院 いん など、保険 ほけん 医療 いりょう 機関 きかん 以外 いがい の医療 いりょう 機関 きかん で医療 いりょう 行為 こうい を受 う けた場合 ばあい の保険 ほけん 給付 きゅうふ )として認 みと められるものである。このため、保険 ほけん 医療 いりょう 機関 きかん 内 ない では、点数 てんすう 化 か された「療養 りょうよう の給付 きゅうふ 」としての保険 ほけん 請求 せいきゅう はできず、多 おお くのケースで実費 じっぴ 診療 しんりょう となる。このため、混合 こんごう 診療 しんりょう との批判 ひはん に当 あ たらないよう、対応 たいおう が必要 ひつよう である。
鍼灸 しんきゅう 療養 りょうよう 費 ひ が公的 こうてき 医療 いりょう 保険 ほけん によって支給 しきゅう されるのは、主 しゅ として以下 いか のような慢性 まんせい 的 てき な疼痛 とうつう を主 おも 症 しょう とする疾患 しっかん である。ただし、あらかじめ医師 いし の発行 はっこう した同意 どうい 書 しょ 又 また は診断 しんだん 書 しょ が必要 ひつよう である
[14] 。
神経痛 しんけいつう
リウマチ
頸(けい)腕 うで (わん)症候群 しょうこうぐん
五十肩 ごじゅうかた
腰痛 ようつう 症 しょう
頸(けい)椎 しい (つい)捻挫 ねんざ 後遺症 こういしょう
なお、平成 へいせい 31年 ねん 1月 がつ より鍼灸 しんきゅう でも柔道 じゅうどう 整復 せいふく と同様 どうよう に受領 じゅりょう 委任 いにん が認 みと められることとなった[15] 。
鍼灸 しんきゅう 師 し マッサージ師 し 差別 さべつ 国家 こっか 賠償 ばいしょう 等 とう 請求 せいきゅう 事件 じけん [ 編集 へんしゅう ]
2000年 ねん 、全国 ぜんこく 保険 ほけん 鍼灸 しんきゅう 師 し マッサージ師 し 連合 れんごう 会 かい は健康 けんこう 保険 ほけん の療養 りょうよう 費 ひ について、柔道 じゅうどう 整復 せいふく 師 し に認 みと められている受領 じゅりょう 委任 いにん 払 ばら いが、鍼灸 しんきゅう マッサージに認 みと められていないのは差別 さべつ であるとして国家 こっか 賠償 ばいしょう 請求 せいきゅう を起 お こした。千葉 ちば 地裁 ちさい は棄却 ききゃく 判決 はんけつ を出 だ し、原告 げんこく は控訴 こうそ 。東京 とうきょう 高裁 こうさい は棄却 ききゃく 判決 はんけつ を出 だ した。
判決 はんけつ では「療養 りょうよう 費 ひ 支給 しきゅう は制度 せいど 自体 じたい が例外 れいがい 的 てき なものであり積極 せっきょく 的 てき に容認 ようにん されるものではない」「柔道 じゅうどう 整復 せいふく 師 し に認 みと められているという点 てん だけでは要件 ようけん たり得 え ない」「現在 げんざい も柔道 じゅうどう 整復 せいふく 師 し に認 みと める点 てん は疑問 ぎもん がないわけではないが、歴史 れきし 的 てき 事情 じじょう もあり合理 ごうり 性 せい がないとは言 い い切 き れない」と判断 はんだん された。
第 だい 2 事案 じあん の概要 がいよう
ア 原告 げんこく らの主張 しゅちょう
厚生 こうせい 労働省 ろうどうしょう は,柔道 じゅうどう 整復 せいふく 師 し については受領 じゅりょう 委任 いにん 払 ばら いを認 みと めながら,あん摩 ま マッサージ指圧 しあつ 師 し 等 とう についてはこれを認 みと めないという差別 さべつ 的 てき な取扱 とりあつか いをし,これにより,あん摩 ま マッサージ指圧 しあつ 師 し 等 とう を利用 りよう した患者 かんじゃ は,一旦 いったん 全額 ぜんがく を支払 しはら い,その後 ご 自 みずか ら療養 りょうよう 費 ひ を請求 せいきゅう するという煩瑣 はんさ かつ負担 ふたん のある手続 てつづき が強要 きょうよう されているが,このような取扱 とりあつか いには何 なん ら合理 ごうり 的 てき な根拠 こんきょ がない。(中略 ちゅうりゃく )
第 だい 3 当 とう 裁判所 さいばんしょ の判断 はんだん
健康 けんこう 保険 ほけん 制度 せいど は、療養 りょうよう に関 かん する費用 ひよう を後払 あとばら いとした場合 ばあい には被 ひ 保険 ほけん 者 しゃ が一時 いちじ 医師 いし に支払 しはら う費用 ひよう を立 た て替 か える必要 ひつよう が生 しょう じるため迅速 じんそく な医療 いりょう を受 う けることができない可能 かのう 性 せい があることなどから,現物 げんぶつ 給付 きゅうふ を原則 げんそく としているものと解 ほぐ される。
(中略 ちゅうりゃく ) 健康 けんこう 保険 ほけん 法 ほう 87条 じょう に基 もと づく療養 りょうよう 費 ひ の支給 しきゅう については,保険 ほけん 者 しゃ は,療養 りょうよう の給付 きゅうふ を行 おこな うことが困難 こんなん であると認 みと めるとき,又 また は保険 ほけん 医療 いりょう 機関 きかん 以外 いがい の者 もの から診察 しんさつ ,手当 てあて 等 とう を受 う けたことがやむを得 え ないと認 みと めるときは,現 げん にその費用 ひよう を事後 じご 的 てき に療養 りょうよう 費 ひ として支給 しきゅう できることとされており,療養 りょうよう 費 ひ の支給 しきゅう 自体 じたい が療養 りょうよう の給付 きゅうふ の補完 ほかん 的 てき な役割 やくわり を果 は たすものと一角 いっかく 解 かい される。そして,療養 りょうよう 費 ひ については,健康 けんこう 保険 ほけん 法 ほう 86条 じょう 3項 こう に規定 きてい される特定 とくてい 療養 りょうよう 費 ひ ,85条 じょう 5項 こう に規定 きてい される入院 にゅういん 時 じ 食事 しょくじ 療養 りょうよう 費 ひ 等 とう とは異 こと なり,現物 げんぶつ 給付 きゅうふ 化 か (保険 ほけん 者 しゃ が被 ひ 保険 ほけん 者 しゃ に代 か わり医療 いりょう 機関 きかん 等 とう に支払 しはら うこと)を可能 かのう とする規定 きてい が設 もう けられていない。また,療養 りょうよう の給付 きゅうふ を担 にな う保険 ほけん 医療 いりょう 機関 きかん 等 とう については,その指導 しどう 監督 かんとく を含 ふく む上記 じょうき の厳格 げんかく な指導 しどう 監督 かんとく を実施 じっし しているのに対 たい し,保険 ほけん 医療 いりょう 機関 きかん 等 とう 以外 いがい の者 もの については,そのような指導 しどう 監督 かんとく 等 とう の手段 しゅだん が用意 ようい されておらず,保険 ほけん 医療 いりょう 機関 きかん 等 とう 以外 いがい の者 もの が行 おこな う療養 りょうよう の給付 きゅうふ については,その適正 てきせい な給付 きゅうふ を担保 たんぽ する手段 しゅだん も用意 ようい されていない。すなわち,健康 けんこう 保険 ほけん 法 ほう 上 じょう ,療養 りょうよう 費 ひ の支給 しきゅう 自体 じたい が例外 れいがい として設 もう けられているとともに,療養 りょうよう 費 ひ の支給 しきゅう を療養 りょうよう の給付 きゅうふ のように現物 げんぶつ 給付 きゅうふ 化 か することは,健康 けんこう 保険 ほけん 法 ほう の予定 よてい していないものと解 ほぐ される。
(中略 ちゅうりゃく )また,受領 じゅりょう 委任 いにん 払 ばら いは,保険 ほけん 者 しゃ において施術 しじゅつ の内容 ないよう や額 がく 等 とう につき被 ひ 保険 ほけん 者 しゃ から確認 かくにん することができないまま施術 しじゅつ 者 しゃ より請求 せいきゅう がなされることから,不正 ふせい 請求 せいきゅう や業務 ぎょうむ 範囲 はんい を逸脱 いつだつ した施術 しじゅつ を見逃 みのが す危険 きけん 性 せい が大 おお きいといわざるを得 え ない。そうすると,受領 じゅりょう 委任 いにん 払 ばら いは,健康 けんこう 保険 ほけん 法 ほう 上 じょう ,積極 せっきょく 的 てき に容認 ようにん されているとはいえず,受領 じゅりょう 委任 いにん 払 ばら いの取扱 とりあつか いが認 みと められるのはあくまでも特例 とくれい 的 てき な措置 そち といわなければならない。
(中略 ちゅうりゃく )したがって,本件 ほんけん 取扱 とりあつか いが合理 ごうり 性 せい を有 ゆう するか否 ひ かの判断 はんだん は,上記 じょうき 前提 ぜんてい の下 した にされるべきであって,単 たん に,柔道 じゅうどう 整復 せいふく 師 し に認 みと められているものが,現在 げんざい あん摩 ま マッサージ指圧 しあつ 師 し 等 とう に認 みと められないことに合理 ごうり 性 せい があるかというだけでは足 た りないというべきである。
そこで、このような観点 かんてん から検討 けんとう する。上記 じょうき イ(イ)の事実 じじつ 関係 かんけい の下 した において,本件 ほんけん 取扱 とりあつか いは,かつては合理 ごうり 性 せい を有 ゆう していたとしても,その後 ご ,整形 せいけい 外科 げか 医 い が増加 ぞうか していることなどがうかがわれる(甲 かぶと A13)現在 げんざい ,果 は たしてその合理 ごうり 性 せい があるかについては疑義 ぎぎ がないではない。しかしながら,上記 じょうき のとおり受領 じゅりょう 委任 いにん 払 ばら いは特例 とくれい 的 てき 措置 そち であるから拡大 かくだい しない方向 ほうこう で実施 じっし ないし運用 うんよう するのが相当 そうとう である上 うえ ,柔道 じゅうどう 整復 せいふく 師 し については,正当 せいとう な理由 りゆう があって受領 じゅりょう 委任 いにん 払 ばら いが認 みと められ,それが長年 ながねん にわたって継続 けいぞく されてきたという事実 じじつ があり,限定 げんてい 的 てき とはいえ医師 いし の代替 だいたい 的 てき な機能 きのう を果 は たしていること等 とう を考慮 こうりょ すると,合理 ごうり 性 せい がないとまではいえない。
(中略 ちゅうりゃく )また,健康 けんこう 保険 ほけん 制度 せいど は,被 ひ 保険 ほけん 者 しゃ 及 およ びその被 ひ 扶養 ふよう 者 しゃ の生活 せいかつ の安定 あんてい を図 はか るための制度 せいど であって,施術 しじゅつ 者 しゃ の利益 りえき を保護 ほご するためのものではない
— 平成 へいせい 12年 ねん (ワ)第 だい 112号 ごう 損害 そんがい 賠償 ばいしょう 等 とう 請求 せいきゅう 事件 じけん (千葉 ちば 地方裁判所 ちほうさいばんしょ 民事 みんじ 第 だい 三 さん 部 ぶ 2004-01-16). Text
裁判 さいばん 、事故 じこ 事例 じれい [ 編集 へんしゅう ]
大阪 おおさか 府 ふ 池田 いけだ 市 し の「メイプル鍼灸 しんきゅう 整骨 せいこつ 院 いん 」で女性 じょせい 患者 かんじゃ が無 む 免許 めんきょ の施術 しじゅつ 者 しゃ にはり治療 ちりょう を受 う けた直後 ちょくご に死亡 しぼう した事件 じけん について、大阪 おおさか 地裁 ちさい (増田 ますだ 耕 こう 児 じ 裁判 さいばん 長 ちょう )は2010年 ねん 12月7日 にち 「施術 しじゅつ によって気胸 ききょう が発症 はっしょう したと認 みと められ、死亡 しぼう との因果 いんが 関係 かんけい は明 あき らか」として同院 どういん 元 もと 副 ふく 院長 いんちょう 、男性 だんせい 被告 ひこく (当時 とうじ 27)に対 たい し、懲役 ちょうえき 3年 ねん 、執行 しっこう 猶予 ゆうよ 5年 ねん 、罰金 ばっきん 50万 まん 円 えん (求刑 きゅうけい 懲役 ちょうえき 3年 ねん 、罰金 ばっきん 50万 まん 円 えん )の有罪 ゆうざい 判決 はんけつ をい渡 いわた した[16] 。
鍼灸 しんきゅう 学校 がっこう の入学 にゅうがく 試験 しけん に合格 ごうかく し入学 にゅうがく 手続 てつづき を出 だ したが、入学 にゅうがく を辞退 じたい し在学 ざいがく 契約 けいやく を解除 かいじょ したとして、入学 にゅうがく 金 きん 、授業 じゅぎょう 料 りょう 等 とう の返還 へんかん を求 もと めた裁判 さいばん [17] 最高裁 さいこうさい 平成 へいせい 18年 ねん 12月22日 にち ]。
^ WHO(世界 せかい 保健 ほけん 機関 きかん )において鍼灸 しんきゅう 療法 りょうほう の適応 てきおう とされた疾患 しっかん [要 よう 出典 しゅってん ]
神経 しんけい 系 けい 疾患 しっかん
◎神経痛 しんけいつう ・神経 しんけい 麻痺 まひ ・痙攣 けいれん ・脳卒中 のうそっちゅう 後遺症 こういしょう ・自律 じりつ 神経 しんけい 失調 しっちょう 症 しょう ・頭痛 ずつう ・めまい・不眠 ふみん ・神経症 しんけいしょう ・ノイローゼ・ヒステリー
運動 うんどう 器 き 系 けい 疾患 しっかん
関節 かんせつ 炎 えん ・◎リウマチ・◎頚 けい 肩 かた 腕 うで 症候群 しょうこうぐん ・◎頚椎 けいつい 捻挫 ねんざ 後遺症 こういしょう ・◎五十肩 ごじゅうかた ・腱鞘炎 けんしょうえん ・◎腰痛 ようつう ・外傷 がいしょう の後遺症 こういしょう (骨折 こっせつ 、打撲 だぼく 、むちうち、捻挫 ねんざ )
循環 じゅんかん 器 き 系 けい 疾患 しっかん
心臓 しんぞう 神経症 しんけいしょう ・動脈 どうみゃく 硬化 こうか 症 しょう ・高血圧 こうけつあつ 低 てい 血圧 けつあつ 症 しょう ・動悸 どうき ・息切 いきぎ れ
呼吸 こきゅう 器 き 系 けい 疾患 しっかん
気管支炎 きかんしえん ・喘息 ぜんそく ・風邪 かぜ および予防 よぼう
消化 しょうか 器 き 系 けい 疾患 しっかん
胃腸 いちょう 病 びょう (胃炎 いえん 、消化 しょうか 不良 ふりょう 、胃下垂 いかすい 、胃酸 いさん 過多 かた 、下痢 げり 、便秘 べんぴ )・胆嚢 たんのう 炎 えん ・肝 かん 機能 きのう 障害 しょうがい ・肝炎 かんえん ・胃 い 十二指腸 じゅうにしちょう 潰瘍 かいよう ・痔疾 じしつ
代謝 たいしゃ 内分泌 ないぶんぴつ 系 けい 疾患 しっかん
バセドウ氏 し 病 びょう ・糖尿 とうにょう 病 びょう ・痛風 つうふう ・脚気 かっけ ・貧血 ひんけつ
生殖 せいしょく 、泌尿器 ひにょうき 系 けい 疾患 しっかん
膀胱 ぼうこう 炎 えん ・尿道 にょうどう 炎 えん ・性 せい 機能 きのう 障害 しょうがい ・尿 にょう 閉・腎 じん 炎 えん ・前立腺 ぜんりつせん 肥大 ひだい ・陰萎 いんい
婦人 ふじん 科 か 系 けい 疾患 しっかん
更年期 こうねんき 障害 しょうがい ・乳腺 にゅうせん 炎 えん ・白帯下 はくたいげ ・生理 せいり 痛 つう ・月経 げっけい 不順 ふじゅん ・冷 ひ え性 しょう ・血 ち の道 みち ・不 ふ 妊 にん
耳鼻咽喉科 じびいんこうか 系 けい 疾患 しっかん
中耳炎 ちゅうじえん ・耳 みみ 鳴 な ・難聴 なんちょう ・メニエル氏 し 病 びょう ・鼻 はな 出血 しゅっけつ ・鼻炎 びえん ・ちくのう・咽 のど 喉頭 こうとう 炎 えん ・へんとう炎 えん
眼科 がんか 系 けい 疾患 しっかん
眼精疲労 がんせいひろう ・仮性 かせい 近視 きんし ・結膜炎 けつまくえん ・疲 つか れ目 め ・かすみ目 め ・ものもらい
小児科 しょうにか 疾患 しっかん
小児 しょうに 神経症 しんけいしょう (夜泣 よな き、かんむし、夜 よる 驚 おどろき 、消化 しょうか 不良 ふりょう 、偏食 へんしょく 、食欲 しょくよく 不振 ふしん 、不眠 ふみん )・小児 しょうに 喘息 ぜんそく ・アレルギ あれるぎ ー性 せい 湿疹 しっしん ・耳下腺炎 じかせんえん ・夜尿症 やにょうしょう ・虚弱 きょじゃく 体質 たいしつ の改善 かいぜん
^ 医師 いし は業務 ぎょうむ として鍼灸 しんきゅう を行 おこな うことが可能 かのう であるが、現在 げんざい 、医学部 いがくぶ 教育 きょういく において鍼灸 しんきゅう の科目 かもく を置 お く大学 だいがく はほとんど無 な く、鍼灸 しんきゅう 臨床 りんしょう を行 おこな うために必要 ひつよう なトレーニングの内容 ないよう や時間 じかん 数 すう など法 ほう 制度 せいど の整備 せいび もなされていないため、実際 じっさい には鍼灸 しんきゅう を行 おこな う医師 いし 数 すう は非常 ひじょう に限 かぎ られる。また、技術 ぎじゅつ の習得 しゅうとく についても、個々 ここ の医師 いし の裁量 さいりょう に任 まか されている状態 じょうたい である。