ミイラ (木乃伊 みいら )は、人為 じんい 的 てき 加工 かこう ないし自然 しぜん 条件 じょうけん によって乾燥 かんそう され、腐敗 ふはい せず残 のこ っている人間 にんげん またはその他 た の動物 どうぶつ の死体 したい である。
古代 こだい エジプト のミイラ(バチカン美術館 びじゅつかん 所蔵 しょぞう )
宗教 しゅうきょう 的 てき 理由 りゆう などによるミイラづくりは紀元前 きげんぜん から行 おこ なわれ、古代 こだい エジプト の遺跡 いせき からはミイラ自体 じたい のほか、人間 にんげん や動物 どうぶつ をミイラにする大 だい 規模 きぼ な作業場 さぎょうば の遺構 いこう も出土 しゅつど している[3] 。
数 すう 百 ひゃく 年 ねん 、数 すう 千 せん 年 ねん を経 へ て、いまだ生前 せいぜん の面影 おもかげ を漂 ただよ わせるミイラもある。ミイラから採取 さいしゅ したDNA を使 つか ったクローン 誕生 たんじょう は絶滅 ぜつめつ した動物 どうぶつ については研究 けんきゅう 対象 たいしょう とされている[4] が、ミイラの組織 そしき においてはタンパク質 たんぱくしつ が水分 すいぶん を失 うしな って不 ふ 可逆 かぎゃく 的 てき に変質 へんしつ しているため、水分 すいぶん を戻 もど すことにより生命 せいめい 活動 かつどう を復活 ふっかつ させることは、現代 げんだい の科学 かがく では不可能 ふかのう である。
死後 しご 、身体 しんたい の腐敗 ふはい が進行 しんこう するよりも早 はや く急激 きゅうげき な乾燥 かんそう (水分 すいぶん が人体 じんたい 組織 そしき の重量 じゅうりょう の50%以下 いか になる)が起 お きると、細菌 さいきん の活動 かつどう が弱 よわ まる。脱水 だっすい 症状 しょうじょう などの条件 じょうけん から死体 したい の水分 すいぶん 含有 がんゆう 量 りょう が少 すく ない場合 ばあい にはミイラ化 か しやすい。自然 しぜん 発生 はっせい ミイラが砂漠 さばく の砂 すな の中 なか からみつかることが多 おお いが、これは急速 きゅうそく な乾燥 かんそう をもたらす自然 しぜん 条件 じょうけん のほかに、そこにできる死体 したい が脱水 だっすい 症状 しょうじょう を起 お こして餓死 がし するなどで死亡 しぼう したものであるため、死亡 しぼう 時 じ の水分 すいぶん 量 りょう がもとより少 すく ないという条件 じょうけん が整 ととの っているからと考 かんが えられる。自然 しぜん 条件 じょうけん においては、成人 せいじん 一 いち 人 にん がミイラ化 か するのに必要 ひつよう な期間 きかん は3か月 げつ と言 い われている。こういった自然 しぜん のミイラは全身 ぜんしん が完全 かんぜん なミイラとなっている例 れい は少 すく なく、身体 しんたい の一部分 いちぶぶん のみがミイラ化 か して残 のこ っている場合 ばあい が多 おお い。
自然 しぜん 環境 かんきょう において全身 ぜんしん ミイラが少 すく ない理由 りゆう の一 ひと つとして、死体 したい の中 なか で最初 さいしょ に腐敗 ふはい が進行 しんこう するのが内臓 ないぞう であることが挙 あ げられる。自然 しぜん 状態 じょうたい においては内臓 ないぞう が体外 たいがい に出 で ることがないため、人体 じんたい の完全 かんぜん なミイラ化 か は起 お きにくい。ただし内臓 ないぞう が液化 えきか して体外 たいがい に流出 りゅうしゅつ したり、野生 やせい 動物 どうぶつ に喰 く われたりしたあとに急速 きゅうそく に乾燥 かんそう するとミイラが形成 けいせい されることがある。そのため、人為 じんい 的 てき にミイラを作 つく る場合 ばあい には、脳 のう や内臓 ないぞう を摘出 てきしゅつ し、外部 がいぶ で火気 かき などを用 もち いて乾燥 かんそう させ、あるいは薬品 やくひん によって防腐 ぼうふ 処理 しょり を施 ほどこ した。その内臓 ないぞう は体内 たいない に戻 もど すか、副葬品 ふくそうひん の壷 つぼ の中 なか などに納 おさ めるなどの手段 しゅだん が取 と られた。
古代 こだい エジプトではミイラ処置 しょち の手法 しゅほう は時代 じだい によって異 こと なる点 てん もあるが、分業 ぶんぎょう 制 せい で専 せん 門 もん の職人 しょくにん がいた。遺体 いたい の腐敗 ふはい 臭 しゅう が酷 ひど い為 ため 、ミイラを処置 しょち する場所 ばしょ は町外 まちはず れに置 お かれた。また身分 みぶん 階級 かいきゅう によって工程 こうてい 数 すう や値段 ねだん には違 ちが いがあり、身分 みぶん が高 たか い王族 おうぞく やファラオ は念入 ねんい りに処置 しょち されたが、庶民 しょみん などは安価 あんか で簡素 かんそ な処置 しょち で済 す まされる事 こと もあった。ミイラ処置 しょち の一 いち 例 れい は以下 いか の通 とお り[5] [6] [7] 。
遺体 いたい の洗浄 せんじょう 。
鼻 はな の穴 あな から細長 ほそなが い棒 ぼう を差 さ し込 こ み、脳 のう をかき出 だ す。
胃腸 いちょう や肺 はい 、肝臓 かんぞう などの臓器 ぞうき を取 と り出 だ す。
腹部 ふくぶ に没薬 もつやく 等 ひとし を詰 つ める。
全身 ぜんしん をナトロン で覆 おお い、一定 いってい 期間 きかん (40日 にち から70日 にち )放置 ほうち し、乾燥 かんそう させる。
化粧 けしょう や整髪 せいはつ 、装飾 そうしょく 品 ひん などを着 つ け外見 がいけん を整 ととの え、防腐 ぼうふ 処理 しょり を行 おこな う。
護符 ごふ などを挟 はさ み込 こ みながら、樹脂 じゅし を浸 ひた したリネン の包帯 ほうたい を巻 ま きつける。
棺 かん に納 おさ めて遺族 いぞく に渡 わた す。
日本語 にほんご の「ミイラ 」は16〜17世紀 せいき 、南蛮 なんばん 貿易 ぼうえき などで渡来 とらい したポルトガル人 じん から採 と り入 い れた言葉 ことば の一 ひと つで、ポルトガル語 ご : mirra は元来 がんらい 「没薬 もつやく 」を意味 いみ していた。「ミイラ」への転義 てんぎ の詳 くわ しい経緯 けいい は未 み 詳 しょう であるが、没薬 もつやく がミイラの防腐 ぼうふ 剤 ざい として用 もち いられた事実 じじつ や、洋 よう の東西 とうざい を問 と わず“ミイラ薬 やく ”(ミイラの粉末 ふんまつ )が不老 ふろう 長寿 ちょうじゅ の薬 くすり として珍重 ちんちょう された事実 じじつ があることから、一説 いっせつ に、“ミイラ薬 やく ”(の薬効 やっこう )と没薬 もつやく (の薬効 やっこう )との混同 こんどう があったという[8] 。
英語 えいご : mummy をはじめとするヨーロッパの各 かく 言語 げんご における名称 めいしょう は、中世 ちゅうせい のラテン語 らてんご : mumia に由来 ゆらい し、それはさらにアラビア語 ご : مومياء (mūmiya' )に由来 ゆらい し、アラビア語 ご はさらに「蝋 ろう 」を意味 いみ するペルシャ語 ご : mūm に由来 ゆらい するとされる[9] 。また、漢字 かんじ 表記 ひょうき の「木乃伊 みいら 」は14世紀 せいき の『輟耕録 ろく 』巻 まき 3に回 かい 回 かい 人 じん の言葉 ことば として出現 しゅつげん し、中国 ちゅうごく 語 ご では「蜜 みつ 人 じん 」というとしているが、おそらくは同 おな じ語 ご に基 もと づく[注釈 ちゅうしゃく 1] [10] 。日本語 にほんご で機械 きかい 的 てき に音読 おんよ み した「モクダイイ」はあまりにも原音 げんおん から遠 とお い印象 いんしょう があるが、北京 ぺきん 語 ご でこれを読 よ むと「ムーナイイー」(普通 ふつう 話 ばなし : mùnǎiyī )のようになる。『輟耕録 ろく 』ではミイラを回 かい 回 かい 人 じん の習俗 しゅうぞく として記 しる し、手足 てあし をけがした人 ひと がミイラを食 た べるとたちどころに直 なお ると記述 きじゅつ している。『本草 ほんぞう 綱目 こうもく 』でも『輟耕録 ろく 』を引用 いんよう しているが、本当 ほんとう に効果 こうか があるかどうかはわからないとしている[11] 。日本 にっぽん でもこの表記 ひょうき を中国 ちゅうごく 語 ご から借用 しゃくよう し、「ミイラ」の語 かたり に充 あ てるようになった。
16〜17世紀 せいき のヨーロッパにおいて、ミイラは一般 いっぱん 的 てき な薬 くすり として広 ひろ く使用 しよう されていた[12] 。そのため、ミイラを取 と ることを生業 せいぎょう とする者 もの が増 ふ えた。なお、ミイラを取 と るためには墳墓 ふんぼ の中 なか に入 はい ったり、砂漠 さばく を越 こ えたりする必要 ひつよう があることから危険 きけん がつきまとい、ミイラを探 さが す人間 にんげん が行 い き倒 たお れることもあった。彼 かれ らの死体 したい がどれほどの確 かく 率 りつ で自然 しぜん 乾燥 かんそう によりミイラ化 か したかは不明 ふめい であるものの、このことを指 さ して「ミイラ取 と りがミイラになる 」という言葉 ことば が生 う まれたなどとする説 せつ がある。数 かず 多 おお くの盗掘 とうくつ が行 おこな われ、近 きん 現代 げんだい の考古学 こうこがく 研究 けんきゅう を阻害 そがい する要因 よういん となったのは事実 じじつ であるが、実際 じっさい には本物 ほんもの のミイラを取 と りに行 い くよりも捏造 ねつぞう 品 ひん を売 う りさばくほうが楽 らく であり、墓 はか 暴 あば きの存在 そんざい を諺 ことわざ の成立 せいりつ 由来 ゆらい として扱 あつか うには信憑 しんぴょう 性 せい が低 ひく い。なお、薬 くすり としてのミイラは日本 にっぽん にも輸入 ゆにゅう されており[13] 、江戸 えど 時代 じだい には大名 だいみょう の間 あいだ で人気 にんき だったという。
2019年 ねん 時点 じてん の研究 けんきゅう では、世界 せかい 最古 さいこ のミイラは約 やく 5300年 ねん 前 まえ から存在 そんざい したとされる[14] 。特 とく に古代 こだい エジプト では、紀元前 きげんぜん 3500-3200年 ねん のナカダ2期 き (Naqada II )には人工 じんこう 的 てき な遺体 いたい の保存 ほぞん が始 はじ まっていた。ミイラ作 づく りは来世 らいせ ・復活 ふっかつ 信仰 しんこう と密接 みっせつ に結 むす びついている。遺体 いたい の保存 ほぞん が来世 らいせ の一番 いちばん の保証 ほしょう とされた[15] 。エジプト神話 しんわ で豊穣 ほうじょう をあらわす神 かみ であるオシリス はセト に殺害 さつがい され、のちに妻 つま のイシス や冥界 めいかい の神 かみ アヌビス の助 たす けによってミイラとして蘇 よみがえ り、冥界 めいかい の王 おう となったという伝説 でんせつ がある。このため葬儀 そうぎ やミイラ製作 せいさく は、オシリスの神話 しんわ に基 もと づいて行 おこ なわれた[16] 。
内臓 ないぞう を摘出 てきしゅつ した死体 したい を70昼夜 ちゅうや にわたって天然 てんねん 炭酸 たんさん ナトリウム (ナトロン )に浸 ひた し、それから取 と り出 だ した後 のち 、布 ぬの で幾重 いくえ にも巻 ま いて完成 かんせい させる方法 ほうほう でミイラが作成 さくせい された。包帯 ほうたい を巻 ま いたミイラのイメージは、この古代 こだい エジプトのミイラ作成 さくせい に由来 ゆらい する。理性 りせい の場 ば であると信 しん じられていた心臓 しんぞう を除 のぞ いた胸部 きょうぶ と腹部 ふくぶ の臓器 ぞうき や組織 そしき は下腹 かふく 部 ぶ の切開 せっかい によって全 すべ て取 と り出 だ され、脳 のう の組織 そしき は鼻孔 びこう から挿入 そうにゅう した鉤 かぎ 状 じょう の器具 きぐ によってかき出 だ された。取 と り出 だ された他 ほか の臓器 ぞうき はカノプス壺 つぼ に入 い れられて保管 ほかん された。古 こ 王国 おうこく 時代 じだい は遺体 いたい を石膏 せっこう で覆 おお って彫像 ちょうぞう のようにする処置 しょち があり、第 だい 1中 ちゅう 間 あいだ 期 き にはミイラマスク、中 ちゅう 王国 おうこく 時代 じだい の第 だい 12王朝 おうちょう には人形 にんぎょう 棺 かん が用 もち いられるようになった。
犬 いぬ 、猫 ねこ 、ワニ 、ヒヒ 、トキ など、神 かみ の化身 けしん とされた動物 どうぶつ のミイラも作成 さくせい され、特 とく に末期 まっき 王朝 おうちょう 時代 じだい 以降 いこう に盛 さか んになった。
後世 こうせい になると松 まつ ヤニ が染 し み込 こ んだミイラは木 き の不足 ふそく から工場 こうじょう や蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ の燃料 ねんりょう として使 つか われ、一般 いっぱん 家庭 かてい でも包帯 ほうたい を燃 も やして調理 ちょうり の火 ひ に使 つか われた[15] 。特 とく に貴族 きぞく のミイラは松 まつ ヤニが多 おお く使 つか われていたため重宝 ちょうほう された[15] 。肥料 ひりょう 、薬 くすり 、絵 え の具 ぐ (ミイラ色 しょく )としても使 つか われた[15] 。副葬品 ふくそうひん にはミイラ肖像 しょうぞう 画 が が入 い れられる事 こと もあった。
19世紀 せいき の考古学 こうこがく においては、エジプトから輸入 ゆにゅう されたミイラの解剖 かいぼう が、研究 けんきゅう 目的 もくてき だけではなく見世物 みせもの として、ヨーロッパ の各地 かくち で行 おこな われた。これらの興行 こうぎょう 的 てき な解剖 かいぼう においては、記録 きろく などは通常 つうじょう 行 おこな われず、このために貴重 きちょう な資料 しりょう が多数 たすう 失 うしな われた。当時 とうじ のヨーロッパでは、外科 げか 的 てき 施術 しじゅつ 自体 じたい が見世物 みせもの として行 おこな われており、特 とく に死刑 しけい 囚 しゅう に対 たい する解剖 かいぼう ショーは人気 にんき を博 はく していたという[17] 。
ロストフ からミンスク に運 はこ ばれた不朽 ふきゅう 体 たい (前駆 ぜんく 授洗イオアン の右手 みぎて の一部 いちぶ )を受 う け取 と るミンスクの聖職 せいしょく 者 しゃ [18] 。
聖 せい ゲオルギオス大 だい 聖堂 せいどう にある、不朽 ふきゅう 体 たい が納 おさ められている大理石 だいりせき 製 せい の聖 せい 櫃 ひつ 。
不朽 ふきゅう 体 たい (ふきゅうたい)は正教会 せいきょうかい (日本 にっぽん ハリストス正教会 せいきょうかい )の用語 ようご で、聖人 せいじん の遺体 いたい のこと。聖人 せいじん は来世 らいせ の生命 せいめい を先取 さきど りして得 え ていると信 しん じられ、このため来世 らいせ の光栄 こうえい 体 たい (聖書 せいしょ では「朽 く ちない身体 しんたい 」)同様 どうよう 、その今生 こんじょう における身体 しんたい も神 かみ の恩寵 おんちょう によって不朽 ふきゅう のものとされたと捉 とら えてこのように呼 よ ぶ。
聖 ひじり 像 ぞう (イコン)と同様 どうよう 崇敬 すうけい の対象 たいしょう となる。
正教会 せいきょうかい においては、教会 きょうかい の宝 たから 座 ざ (祭壇 さいだん )の下 した には不朽 ふきゅう 体 たい を安置 あんち することが望 のぞ ましいと考 かんが えられている。堂 どう の献 けん じられた聖人 せいじん は、宝 たから 座 ざ の下 した に安置 あんち された不朽 ふきゅう 体 たい の聖人 せいじん と、同一 どういつ であることを要 よう さない。(つまり、聖人 せいじん に献 けん じた堂 どう であっても、必 かなら ずしもその同一 どういつ の聖人 せいじん の不朽 ふきゅう 体 たい を宝 たから 座 ざ の下 した に安置 あんち する必要 ひつよう はなく、別人 べつじん であってもよい。)
信者 しんじゃ が崇敬 すうけい を表 ひょう するには、十字 じゅうじ を二 に 回 かい 画 えが き、そののち不朽 ふきゅう 体 たい に接吻 せっぷん し、しかるのち祈祷 きとう し、再 ふたた び十字 じゅうじ を画 えが く 。接吻 せっぷん は必 かなら ずしも直接 ちょくせつ なされることを要 よう さず、ガラスケース等 とう を介 かい して行 おこな われることがしばしばある。ある聖人 せいじん の聖 ひじり 像 ぞう にその不朽 ふきゅう 体 たい の一部 いちぶ を釘 くぎ などで固定 こてい することもある。この場合 ばあい 多 おお く保存 ほぞん の便 びん を顧慮 こりょ し、不朽 ふきゅう 体 たい の上 うえ に覆 おお いを施 ほどこ す。
一部 いちぶ の聖人 せいじん には、不朽 ふきゅう 体 たい の発見 はっけん 、移動 いどう などが特別 とくべつ の祭日 さいじつ とされるものがある。次 つぎ のものが特 とく によく知 し られている。
なお、イイスス・ハリストス すなわちイエス・キリスト 、およびその母 はは 生神 うるかみ 女 おんな マリヤ の不朽 ふきゅう 体 たい は、正教会 せいきょうかい の考 かんが えでは存在 そんざい していない。
死者 ししゃ をミイラとする風習 ふうしゅう は南米 なんべい のアンデス文明 ぶんめい でも見 み られ、その特徴 とくちょう は膝 ひざ を折 お り腹部 ふくぶ に付 つ けた姿勢 しせい (蹲踞 そんきょ )を取 と ることである。製法 せいほう は以下 いか の通 とお り。死者 ししゃ の内臓 ないぞう と筋肉 きんにく を取 と り除 のぞ く。次 つぎ に、何 なん らかの火力 かりょく で乾燥 かんそう させる。最後 さいご に特定 とくてい の姿勢 しせい に固定 こてい し、体 からだ 全体 ぜんたい を布 ぬの で覆 おお い、かごに収 おさ め、最後 さいご に副葬品 ふくそうひん と併 あわ せて再度 さいど 布 ぬの を巻 ま くというものである。紀元前 きげんぜん 200年 ねん 頃 ごろ まで続 つづ いたパラカス文化 ぶんか (英語 えいご 版 ばん ) は、形成 けいせい 期 き において既 すで にミイラの製作 せいさく に習熟 しゅうじゅく していた。インカ帝国 ていこく が成立 せいりつ すると、特 とく に高位 こうい の人物 じんぶつ のミイラに対 たい しては羽 はね や装飾 そうしょく 品 ひん 、金属 きんぞく 製 せい の仮面 かめん を取 と り付 つ けるようになる。作成 さくせい したミイラは祠 ほこら に安置 あんち したり、住居 じゅうきょ に置 お いたりして、あたかもミイラが生 い きているかのように話 はな しかけ、食事 しょくじ を供 きょう し、亡 な くなった近親 きんしん 者 しゃ への愛情 あいじょう と尊崇 そんすう の念 ねん を示 しめ し続 つづ ける。
中国 ちゅうごく 湖南 こなん 省 しょう 馬 うま 王堆漢 おうたいかん 墓 ぼ から発掘 はっくつ された紀元前 きげんぜん 2世紀 せいき のミイラ(辛 からし 追 おい (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) )
古 ふる い文献 ぶんけん (『大 だい 唐 から 西域 せいいき 記 き 』『西京 にしぎょう 雑記 ざっき 』『抱 だき 朴 ほお 子 こ 』など)に入定 にゅうじょう ミイラの記述 きじゅつ があり、『高僧 こうそう 伝 でん 』では晋 すすむ の元康 もとやす 8年 ねん (298年 ねん )に訶羅竭という僧 そう が死 し に火葬 かそう に付 ふ されたが半焼 はんしょう けになってしまい、座 ざ したままでも崩 くず れなかったため石室 いしむろ に安置 あんち して礼拝 れいはい したと記 しる されている。『大 だい 唐 から 西域 せいいき 記 き 』では玄 げん 奘 が西域 せいいき の僧 そう のミイラについて言及 げんきゅう している。
加 か 漆 うるし 肉 にく 身 み 像 ぞう
唐 とう の時代 じだい 以降 いこう には、乾漆 かんしつ 像 ぞう の製法 せいほう を使 つか って遺体 いたい を包 つつ み、装飾 そうしょく して乾漆 かんしつ 像 ぞう とする加 か 漆 うるし 肉 にく 身 み 像 ぞう というミイラが作 つく られた[19] 。
現存 げんそん するミイラとしては広東 かんとん 省 しょう 韶州市 し 南 みなみ 華 はな 寺 てら にある唐 とう 代 だい 中期 ちゅうき の禅僧 ぜんそう 慧 とし 能 のう の肉 にく 身 み 仏 ぼとけ (即 そく 身 み 仏 ほとけ )などがある。なお、中国 ちゅうごく では現在 げんざい でも即 そく 身 み 仏 ぼとけ としてミイラが作 つく られている。ただし、生 い きたまま苦行 くぎょう の果 は てに自 じ 死 し してミイラになるのではなく、自然 しぜん 死 し 後 ご に遺言 ゆいごん によってミイラとして作 つく られるものであり、全身 ぜんしん に金箔 きんぱく を塗 ぬ ることにより生前 せいぜん に近 ちか い形 かたち を保 たも とうとしている。
現在 げんざい は一部 いちぶ が中国 ちゅうごく ・ロシアの範疇 はんちゅう に入 はい る広 ひろ い中央 ちゅうおう アジア でも、ミイラが発見 はっけん されている。「楼 ろう 蘭 らん の美女 びじょ 」として知 し られる古代 こだい のオアシス都市 とし 楼 ろう 蘭 らん のミイラは、シルクロード ブームで一躍 いちやく 知 し られるようになった。西域 せいいき は乾燥 かんそう (砂漠 さばく )地帯 ちたい で、ミイラができ上 あ がるのに好条件 こうじょうけん であり、そのため中国 ちゅうごく におけるミイラは西域 せいいき に多 おお い。大谷 おおや 光瑞 こうずい の第 だい 三 さん 次 じ 探検 たんけん (1910年 ねん - 1914年 ねん )でトルファン 地区 ちく からミイラを持 も ち帰 かえ っており、当時 とうじ 日本 にっぽん が租借 そしゃく 中 なか の大連 たいれん の旅順 りょじゅん 博物館 はくぶつかん に所蔵 しょぞう されて、現在 げんざい でもそこで公開 こうかい されている[20] 。
ロシア連邦 れんぽう に属 ぞく するアルタイ共和 きょうわ 国 こく で「ウコクの王女 おうじょ 」(別名 べつめい 「シベリア の氷 こおり の女性 じょせい 」)が1993年 ねん に発見 はっけん されて、現在 げんざい はノヴォシビルスク の博物館 はくぶつかん で公開 こうかい されている。
チベット仏教 ぶっきょう にも高僧 こうそう のミイラの習俗 しゅうぞく があり、ダシ=ドルジョ・イチゲロフ などが有名 ゆうめい 。但 ただ し、イチゲロフのように生 い き埋 う めでミイラになる例 れい は稀 まれ であり、中国 ちゅうごく と同 おな じく大 だい 多数 たすう は自然 しぜん 死 し 後 ご にミイラ化 か させたものである。
日本 にっぽん の仏教 ぶっきょう の一部 いちぶ (民間 みんかん 信仰 しんこう )では、僧 そう が土中 どちゅう の穴 あな などに入 はい って瞑想 めいそう 状態 じょうたい のまま絶命 ぜつめい し、ミイラ化 か した物 もの を「即 そく 身 み 仏 ほとけ 」(そくしんぶつ)と呼 よ ぶ。仏教 ぶっきょう の修行 しゅぎょう の中 なか でも最 もっと も過酷 かこく なものとして知 し られる。
この背景 はいけい にあるのは入定 にゅうじょう (“にゅうじょう”ないしは生 なま 入定 にゅうじょう )という観念 かんねん で、「入定 にゅうじょう ミイラ」とも言 い われる。本来 ほんらい は悟 さと り を開 ひら くことだが、死 し を死 し ではなく永遠 えいえん の生命 せいめい の獲得 かくとく とする考 かんが えである。入定 にゅうじょう した者 もの は肉体 にくたい も永遠 えいえん 性 せい を得 え るとされた。
奥州 おうしゅう 藤原 ふじわら 氏 し [ 編集 へんしゅう ]
秀 しゅう 衡と基 もと 衡、清 きよし 衡の遺体 いたい を収 おさ めた木 き 棺 かん (1950年 ねん )
歴代 れきだい 奥州 おうしゅう 藤原 ふじわら 氏 し の遺体 いたい は、中尊寺 ちゅうそんじ 金色 きんいろ 堂 どう に埋葬 まいそう された。これらの遺体 いたい は1950年 ねん (昭和 しょうわ 25年 ねん )に朝日新聞 あさひしんぶん 文化 ぶんか 事業 じぎょう 団 だん によって医学 いがく ・人類 じんるい 学 がく ・微生物 びせいぶつ 学 がく などによる学術 がくじゅつ 調査 ちょうさ が行 おこな われ、「奥州 おうしゅう 藤原 ふじわら 氏 し のミイラ」として知 し られる。ただし、学術 がくじゅつ 調査 ちょうさ の報告 ほうこく 書 しょ である『中尊寺 ちゅうそんじ と藤原 ふじわら 四 よん 代 だい 』は防腐 ぼうふ 処置 しょち の有無 うむ について明言 めいげん しておらず、文中 ぶんちゅう でも遺体 いたい は「ミイラ」と呼 よ ばれていない。
奥州 おうしゅう 藤原 ふじわら 氏 し のミイラ一覧 いちらん
代 だい
氏名 しめい
安置 あんち 場所 ばしょ
没年 ぼつねん
享年 きょうねん
備考 びこう
初代 しょだい
藤原清衡 ふじわらのきよひら
中尊寺 ちゅうそんじ 金色 きんいろ 堂 どう 清 きよし 衡壇
大治 おおはる 3年 ねん 7月 がつ 13日 にち (1128年 ねん 8月 がつ 10日 とおか )
73歳 さい
没 ぼつ 年齢 ねんれい に関 かん しては歯 は の状態 じょうたい から70歳 さい 以上 いじょう と見 み られ、史料 しりょう の没 ぼつ 年齢 ねんれい と矛盾 むじゅん はないとされる。また、死没 しぼつ 日 び には大治 おおはる 3年 ねん 7月 がつ 16日 にち (1128年 ねん 8月 がつ 13日 にち )という説 せつ もある。身長 しんちょう 159cm、血液 けつえき 型 がた はAB。副葬品 ふくそうひん は紫 むらさき 絹 きぬ の枕 まくら 、銀 ぎん ・琥珀 こはく の数珠 じゅず 、太刀 たち ・小刀 こがたな 、金塊 きんかい 。広範囲 こうはんい に渡 わた って白骨 はっこつ 化 か が進 すす んでおり、保存 ほぞん 状態 じょうたい は他 た の3人 にん と比 くら べて最 もっと も悪 わる い。
二 に 代 だい
藤原基衡 ふじわらのもとひら
中尊寺 ちゅうそんじ 金色 きんいろ 堂 どう 基 もと 衡壇
保 ほ 元 もと 2年 ねん 3月19日 にち ? (1157年 ねん 4月 がつ 29日 にち ?)
50歳 さい -60歳 さい
没 ぼつ 年齢 ねんれい に関 かん しては50歳 さい 代 だい で死亡 しぼう 、54歳 さい -55歳 さい 、55歳 さい -60歳 さい 、60歳 さい 前後 ぜんこう という見方 みかた もある。身長 しんちょう 167cm、血液 けつえき 型 がた はA。副葬品 ふくそうひん は白 しろ 絹 きぬ の枕 まくら (稗 ひえ 入 はい り)、水晶 すいしょう の数珠 じゅず 、刀 かたな 。
三 さん 代 だい
藤原秀衡 ふじわらのひでひら
中尊寺 ちゅうそんじ 金色 きんいろ 堂 どう 秀 しゅう 衡壇
文治 ぶんじ 3年 ねん 10月29日 にち (1187年 ねん 11月30日 にち )
60歳 さい -70歳 さい
没 ぼつ 年齢 ねんれい に関 かん しては70歳 さい 前後 ぜんこう という見方 みかた もある 身長 しんちょう 164cm、血液 けつえき 型 がた はAB。副葬品 ふくそうひん は木 き の枕 まくら 、泰 たい 衡の首 くび の桶 おけ 。保存 ほぞん 状態 じょうたい は他 た の3人 にん と比 くら べて最 もっと も良 よ い。
四 よん 代 だい
藤原 ふじわら 泰 やすし 衡
中尊寺 ちゅうそんじ 金色 きんいろ 堂 どう 秀 しゅう 衡壇・首桶 くびおけ 内 ない
文治 ぶんじ 5年 ねん 9月3日 にち (1189年 ねん 10月14日 にち )
20歳 さい -30歳 さい
頭部 とうぶ のみ。没 ぼつ 年齢 ねんれい に関 かん しては歯 は の状態 じょうたい から、20歳 さい 代 だい -30歳 さい 代 だい 、23歳 さい -30歳 さい 、もしくは25歳 さい と判断 はんだん されている。身長 しんちょう は不 ふ 詳 しょう 。 血液 けつえき 型 がた はB。顔 かお に九 きゅう 箇所 かしょ の刀 かたな 傷 きず 額 がく に晒 さら し首 くび の釘 くぎ 跡 あと 。
1711年 ねん (正徳 まさのり 元年 がんねん )6月 がつ 18日 にち に死去 しきょ した福岡 ふくおか 藩 はん 4代 だい 藩主 はんしゅ 黒田 くろだ 綱 つな 政 せい の遺体 いたい は、お家 いえ 騒動 そうどう を恐 おそ れ藩主 はんしゅ の死 し を隠 かく そうとした家老 がろう の隅田 すみた 主膳 しゅぜん の命 いのち で防腐 ぼうふ 処置 しょち が行 おこな われた。処置 しょち は藩 はん 医 い によって行 おこな われたが、福岡 ふくおか 藩 はん が警備 けいび をしていた長崎 ながさき にもたらされたミイラの技術 ぎじゅつ が用 もち いられた可能 かのう 性 せい がある。遺体 いたい は黒田 くろだ 氏 し の菩提寺 ぼだいじ である崇 たかし 福 ぶく 寺 てら に、地下水 ちかすい が侵入 しんにゅう しない石室 いしむろ と二 に 重 じゅう の木 き 棺 かん に囲 かこ まれた甕 う に土葬 どそう された。1950年 ねん (昭和 しょうわ 25年 ねん )、崇 たかし 福 ぶく 寺 てら の一部 いちぶ が宅地 たくち 化 か された際 さい に綱 つな 政 せい の墳墓 ふんぼ が掘 ほ り出 だ され、約 やく 240年 ねん の間 あいだ も筋肉 きんにく が硬直 こうちょく しておらず、束髪 そくはつ やまつ毛 げ 、口髭 くちひげ がそのままのミイラ化 か した遺体 いたい が出土 しゅつど した。遺体 いたい は調査 ちょうさ の後 のち 、包帯 ほうたい で梱包 こんぽう されてテレビン油 てれびんゆ で満 み たされた甕 う に収 おさ められた上 うえ で、黒田 くろだ 氏 し の合 ごう 墳 ふん に再 さい 埋葬 まいそう された[21] 。
1909年 ねん (明治 めいじ 42年 ねん )、東京 とうきょう 市 し 深川 ふかがわ 区 く 万年 まんねん 町 まち にあった海福寺 かいふくじ の移転 いてん に伴 ともな い、当 とう 寺 てら を菩提寺 ぼだいじ にしていた溝口 みぞぐち 氏 し 傍系 ぼうけい で元 もと 旗本 はたもと の溝口 みぞぐち 直 ただし 一家 いっか が墓所 はかしょ を掘 ほ り返 かえ したところ、ミイラ化 か した先祖 せんぞ の遺体 いたい を発見 はっけん した[22] 。一 ひと つは女性 じょせい で、徳川 とくがわ 家斉 いえなり の時代 じだい に大奥 おおおく に出仕 しゅっし していた「山 やま の井 い 」という名 な の上臈 じょうろう (高位 こうい の奥 おく 女中 じょちゅう )で、1837年 ねん (天保 てんぽう 8年 ねん )に56歳 さい で亡 な くなっていた[22] 。遺体 いたい は白無垢 しろむく に打掛 うちかけ 姿 すがた で座 ざ し、両手 りょうて を組 く んで、手首 てくび には数珠 じゅず がかけられ、後 うし ろに下 くだ した髪 かみ には白髪 はくはつ ひとつなかった[22] [23] 。もう一体 いったい は男性 だんせい で、同 おな じ1837年 ねん に49歳 さい で亡 な くなった7代 だい 当主 とうしゅ の溝口 みぞぐち 直道 なおみち だった[22] 。やはり白無垢 しろむく 姿 すがた で胡坐 こざ のように足 あし 先 さき を交差 こうさ させて座 ざ し、両手 りょうて を組 く んで頭 あたま を垂 しだ れ、ふっくら肉付 にくづ きもよく、丁髷 ちょんまげ は乱 みだ れもなく、月代 さかやき の剃 す り跡 あと は青 あお く、元結 もとゆい も白 しろ いままであった[22] [23] 。さらに直一 なおかず (9代 だい 当主 とうしゅ )の祖母 そぼ のものも発掘 はっくつ され、割 わ れ島田 しまだ そのままの姿 すがた だった[22] 。法医学 ほういがく 者 しゃ 片 かた 山国 やまくに 嘉 よしみ の交渉 こうしょう により、直道 なおみち と山 やま の井 い の2遺体 いたい が東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく に献体 けんたい された[22] [23] 。
社会 しゃかい 主義 しゅぎ 諸国 しょこく の指導 しどう 者 しゃ [ 編集 へんしゅう ]
社会 しゃかい 主義 しゅぎ 国 こく では、過去 かこ の指導 しどう 者 しゃ を神格 しんかく 化 か する目的 もくてき でその遺体 いたい をミイラ化 か (エンバーミング )し、民衆 みんしゅう に公開 こうかい することがある。レーニン (レーニン廟 びょう )、スターリン 、金 きむ 日成 いるそん および金 きむ 正日 じょんいる (錦繍 きんしゅう 山 やま 太陽 たいよう 宮殿 きゅうでん )、毛沢東 もうたくとう (毛 もう 主席 しゅせき 紀 き 念 ねん 堂 どう )、ホー・チ・ミン (ホー・チ・ミン廟 びょう )など。この場合 ばあい 強力 きょうりょく な防腐 ぼうふ 処置 しょち によって腐敗 ふはい を止 と めていると考 かんが えられている。その他 た 、生前 せいぜん の本人 ほんにん の希望 きぼう によりミイラにされる遺体 いたい も存在 そんざい する。
その他 た の国 くに や地域 ちいき [ 編集 へんしゅう ]
ニューギニア や西 にし ・中央 ちゅうおう アフリカ、アメリカ北西 ほくせい 海岸 かいがん 、カナダ西海岸 にしかいがん の部族 ぶぞく は、死後 しご の遺体 いたい を乾燥 かんそう させ、または燻製 くんせい にしてミイラにし、墓 はか の上 うわ や家 か 中 ちゅう に安置 あんち する風習 ふうしゅう を持 も っていた。ニューギニア、アフリカにおいては、現在 げんざい も続 つづ けている部族 ぶぞく がある。
また、カナリア諸島 かなりあしょとう (スペイン )にはグアンチェ族 ぞく のミイラ がある。
自然 しぜん 発生 はっせい 的 てき なミイラの事例 じれい [ 編集 へんしゅう ]
死体 したい がたまたま特殊 とくしゅ な物理 ぶつり 環境 かんきょう に置 お かれたときに、ミイラ化 か してそのまま保存 ほぞん されることがある。
ドレスデン爆 ばく 撃 げき の犠牲 ぎせい 者 しゃ のミイラ
架空 かくう 生物 せいぶつ ・怪物 かいぶつ のミイラ[ 編集 へんしゅう ]
江戸 えど 時代 じだい の見世物 みせもの
江戸 えど 時代 じだい に妖怪 ようかい への興味 きょうみ が高 たか まったためニホンザル とコイ などをつなぎあわせた人魚 にんぎょ のミイラ、ニホンザルやエイ などを加工 かこう した河童 かっぱ のミイラのほか、鬼 おに や龍 りゅう のミイラが盛 さか んに作 つく られた。幕末 ばくまつ や明治 めいじ の頃 ころ には外国 がいこく へ輸出 ゆしゅつ されたり外国 がいこく 人 じん の土産物 みやげもの になったりしていた。大 だい 英 えい 博物館 はくぶつかん には日本 にっぽん 製 せい の人魚 にんぎょ のミイラが所蔵 しょぞう されている[25] 。
岡山 おかやま 県 けん 浅口 あさくち 市 し 鴨方 かもがた 町 まち の円 えん 珠 たま 院 いん に伝 つた わる「人魚 にんぎょ ミイラ」については倉敷芸術科学大学 くらしきげいじゅつかがくだいがく の調査 ちょうさ により、上半身 じょうはんしん は霊長 れいちょう 類 るい 、下半身 かはんしん は魚類 ぎょるい の特徴 とくちょう を持 も つことが判明 はんめい した[26] 。
驚異 きょうい 博物館 はくぶつかん
かつて西洋 せいよう 諸国 しょこく では宗教 しゅうきょう 理論 りろん 上 じょう 世界 せかい のどこかに人魚 にんぎょ が実在 じつざい しているものだと信 しん じられていた。世界 せかい に渡 わた った宣教師 せんきょうし などが盛 さか んに探 さが し、日本 にっぽん などで生産 せいさん されていたフェイクの人魚 にんぎょ のミイラを持 も ち帰 かえ った。人魚 にんぎょ の他 ほか 、日本 にっぽん で生産 せいさん され主 おも に欧州 おうしゅう へと持 も ち込 こ まれたフェイクの怪物 かいぶつ のミイラは、ジェニー・ハニヴァー 、龍 りゅう 、ろくろ首 くび 、鬼 おに などがあり、西洋 せいよう で製作 せいさく されたキメラ 、バジリスク 、三 さん 本 ほん 脚 あし のガマのフェイク・ミイラなどと共 とも に、好事家 こうずか に蒐集 しゅうしゅう されたり、ヴンダーカンマー で展示 てんじ されていた[27] 。
創作 そうさく 物 ぶつ におけるミイラ[ 編集 へんしゅう ]
この節 ふし には独自 どくじ 研究 けんきゅう が含 ふく まれているおそれがあります。 問題 もんだい 箇所 かしょ を検証 けんしょう し出典 しゅってん を追加 ついか して、記事 きじ の改善 かいぜん にご協力 きょうりょく ください。議論 ぎろん はノート を参照 さんしょう してください。(2024年 ねん 1月 がつ )
グアンチェ族 ぞく のミイラ (テネリフェ島 とう )
不死 ふし の怪物 かいぶつ (アンデッド )としてのミイラ、つまりミイラ男 おとこ やマミー の歴史 れきし はさほど古 ふる くはなく、エジプト がフランス やイギリス に植民 しょくみん 地 ち 化 か された19世紀 せいき 頃 ごろ に現 あらわ れたものである。特 とく に初期 しょき のミイラを題材 だいざい とした作品 さくひん ジャンルはラブ・ロマンス小説 しょうせつ であり、男性 だんせい 主人公 しゅじんこう の恋愛 れんあい 対象 たいしょう としての女性 じょせい ミイラであることが一般 いっぱん 的 てき であった。
ミイラがホラー作品 さくひん の題材 だいざい となるのは、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のユニバーサル映画 えいが が製作 せいさく した1932年 ねん の『ミイラ再生 さいせい 』(原題 げんだい :The Mummy )以降 いこう である。これは1920年代 ねんだい にツタンカーメン のミイラ発掘 はっくつ にまつわるカーナヴォン卿 きょう ら数 すう 名 めい が謎 なぞ の死 し を遂 と げた、いわゆる「王家 おうけ の呪 のろ い 」を題材 だいざい にしたものであった。怪奇 かいき 俳優 はいゆう として著名 ちょめい であったボリス・カーロフ は同 どう 作 さく でミイラ男 おとこ イムホテップ (英語 えいご 版 ばん ) を演 えん じ、1940年 ねん の『ミイラの復活 ふっかつ 』以降 いこう はミイラ男 おとこ カーリス が定番 ていばん であった。『ミイラ転生 てんせい 死霊 しりょう の墓 はか (英語 えいご 版 ばん ) 』(1981年 ねん )のように、同 おな じく蘇 よみがえ った死者 ししゃ であるゾンビ と共演 きょうえん する作品 さくひん も登場 とうじょう した。日本 にっぽん でも1961年 ねん に日本 にほん テレビ製作 せいさく の連続 れんぞく テレビ映画 えいが 『恐怖 きょうふ のミイラ 』が放送 ほうそう された。既 すで に死体 したい であることから、通常 つうじょう 人間 にんげん が死 し に至 いた るセオリー(心臓 しんぞう を突 つ き刺 さ す・首 くび をはねるなど)を行 おこ なっても死 し なず(というよりももとから死 し んでいるのだから動 うご きを止 と めず )、そういった物語 ものがたり の登場 とうじょう 人物 じんぶつ たち、および読者 どくしゃ ・観客 かんきゃく を恐怖 きょうふ させた。なお、それらの場合 ばあい では火 ひ や聖水 せいすい に弱 よわ いなどの特徴 とくちょう が見 み られる。なお、アメリカ映画 えいが 『ハムナプトラ 』(1999年 ねん )の原題 げんだい は(リメイク元 もと の『ミイラ再生 さいせい 』同様 どうよう )"The Mummy "すなわち『ミイラ』であるが、現代 げんだい 日本 にっぽん の文化 ぶんか 状況 じょうきょう 下 か において安直 あんちょく すぎると考 かんが えたことからか、日本 にっぽん 公開 こうかい 時 じ に直訳 ちょくやく でない邦題 ほうだい が付 つ けられた。CM 等 ひとし の映像 えいぞう 媒体 ばいたい において現在 げんざい ではミイラはフランケンシュタインの怪物 かいぶつ と対 たい で包帯 ほうたい を巻 ま かれた状態 じょうたい でコミカルに登場 とうじょう することが多 おお い(例 れい :マスターカード のCMなど)。また、日本 にっぽん のコメディ作品 さくひん 『ぐるぐるメダマン 』では包帯 ほうたい の中身 なかみ への興味 きょうみ を逆手 さかて に取 と り、ミイラ君 くん の包帯 ほうたい が解 と けそうになり地肌 じはだ が若干 じゃっかん 見 み えるという描写 びょうしゃ があった。
日本 にっぽん の特撮 とくさつ ・アニメ 作品 さくひん でも、恐怖 きょうふ 度 ど や攻撃 こうげき 力 りょく の高 たか い敵役 かたきやく としてしばしば登場 とうじょう する。ミイラ人間 にんげん (初代 しょだい ウルトラマン )、ミイラーマン(ジャイアントロボ )、ミイラルゲ(超人 ちょうじん バロム・1 )、合成 ごうせい 獣 じゅう ミイラス(マグネロボ ガ・キーン )などである。また、コンピュータRPG においてアンデッド 系 けい モンスターとして登場 とうじょう することも多 おお い。
日本 にっぽん の漫画 まんが では楳図 うめず かずお 『ミイラ先生 せんせい 』が有名 ゆうめい である。江戸 えど 時代 じだい のキリシタン 弾圧 だんあつ で殺 ころ された修道 しゅうどう 女 おんな のミイラが漏水 ろうすい を浴 あ びて蘇 よみがえ る。水 みず を飲 の むと一時 いちじ 的 てき に生 い きた人間 にんげん と変 か わらぬ見掛 みか けになれるため、顔 かお がよく似 に た女学校 じょがっこう 教師 きょうし と入 い れ替 か わり、本格 ほんかく 的 てき に美 うつく しさを取 と り戻 もど すため女 おんな 生徒 せいと の生 い き血 ち を吸 す おうとする。他 た に『ミイラの飼 か い方 かた 』(2014年 ねん ~)もある。
落語 らくご にも「木乃伊 みいら 取 と り 」という演目 えんもく が存在 そんざい し、6代目 だいめ 三 さん 遊 ゆう 亭 てい 圓 えん 生 せい や8代目 だいめ 林家 はやしや 正蔵 しょうぞう (彦六の正蔵 しょうぞう ) 、 立川談志 たてかわだんし (7代目 だいめ だが、当人 とうにん は5代目 だいめ を自称 じしょう ) などが得意 とくい 演目 えんもく としていた。内容 ないよう としては上述 じょうじゅつ の「ミイラ取 と りがミイラになる」をモチーフとしたものである。
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^ ヨハン・ラインハルト|ナショジオピープル|番組 ばんぐみ 紹介 しょうかい |ナショナル ジオグラフィックチャンネル
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^ 古代 こだい エジプトのミイラ作 づく り、防腐 ぼうふ 剤 ざい の「レシピ」が明 あき らかに=英 えい 研究 けんきゅう
^ 「ミイラ」職人 しょくにん から盗掘 とうくつ 者 しゃ 、土産物 みやげもの 屋 や まで!ミイラで生計 せいけい を立 た てた人々 ひとびと
^ 第 だい 16回 かい ミイラの発掘 はっくつ クフ王 くふおう のミイラを想像 そうぞう する
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^ 江戸 えど 時代 じだい から伝 つた わる匠 たくみ の技術 ぎじゅつ !? 河童 かっぱ のミイラ
^ “人魚 にんぎょ ミイラ 霊長 れいちょう 類 るい と魚類 ぎょるい の特徴 とくちょう 倉敷 くらしき 芸 げい 科 か 大 だい 、うろこや針 はり 見 み つかる ”. 山陽 さんよう 新聞 しんぶん (2022年 ねん 4月 がつ 11日 にち ). 2022年 ねん 4月 がつ 11日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 『万国 ばんこく 怪物 かいぶつ 大 だい 博覧 はくらん 会 かい 』南方 みなかた 堂 どう 、1993年 ねん
出典 しゅってん は列挙 れっきょ するだけでなく、脚注 きゃくちゅう などを用 もち いてどの記述 きじゅつ の情報 じょうほう 源 げん であるかを明記 めいき してください。記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく をお願 ねが いいたします。(2010年 ねん 7月 がつ )
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