ミイラ

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ジュジャイジャコのミイラ(スペイン語版)。アルゼンチンのサルタ州ユーヤイヤコの山頂、標高6739mで発見された少女のミイラ。インカ帝国時代に人身御供とされた。極めて保存状態が高く、生前の姿をほぼそのまま残している[1][2]。
ジュジャイジャコのミイラスペインばんアルゼンチンサルタしゅうユーヤイヤコ山頂さんちょう標高ひょうこう6739mで発見はっけんされた少女しょうじょのミイラ。インカ帝国ていこく時代じだい人身御供ひとみごくうとされた。きわめて保存ほぞん状態じょうたいたかく、生前せいぜん姿すがたをほぼそのままのこしている[1][2]

ミイラ木乃伊みいら)は、人為じんいてき加工かこうないし自然しぜん条件じょうけんによって乾燥かんそうされ、腐敗ふはいせずのこっている人間にんげんまたはその動物どうぶつ死体したいである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

古代こだいエジプトのミイラ(バチカン美術館びじゅつかん所蔵しょぞう

宗教しゅうきょうてき理由りゆうなどによるミイラづくりは紀元前きげんぜんからおこなわれ、古代こだいエジプト遺跡いせきからはミイラ自体じたいのほか、人間にんげん動物どうぶつをミイラにするだい規模きぼ作業場さぎょうば遺構いこう出土しゅつどしている[3]

すうひゃくねんすうせんねんて、いまだ生前せいぜん面影おもかげただよわせるミイラもある。ミイラから採取さいしゅしたDNA使つかったクローン誕生たんじょう絶滅ぜつめつした動物どうぶつについては研究けんきゅう対象たいしょうとされている[4]が、ミイラの組織そしきにおいてはタンパク質たんぱくしつ水分すいぶんうしなって可逆かぎゃくてき変質へんしつしているため、水分すいぶんもどすことにより生命せいめい活動かつどう復活ふっかつさせることは、現代げんだい科学かがくでは不可能ふかのうである。

生成せいせい[編集へんしゅう]

死後しご身体しんたい腐敗ふはい進行しんこうするよりもはや急激きゅうげき乾燥かんそう水分すいぶん人体じんたい組織そしき重量じゅうりょうの50%以下いかになる)がきると、細菌さいきん活動かつどうよわまる。脱水だっすい症状しょうじょうなどの条件じょうけんから死体したい水分すいぶん含有がんゆうりょうすくない場合ばあいにはミイラしやすい。自然しぜん発生はっせいミイラが砂漠さばくすななかからみつかることがおおいが、これは急速きゅうそく乾燥かんそうをもたらす自然しぜん条件じょうけんのほかに、そこにできる死体したい脱水だっすい症状しょうじょうこして餓死がしするなどで死亡しぼうしたものであるため、死亡しぼう水分すいぶんりょうがもとよりすくないという条件じょうけんととのっているからとかんがえられる。自然しぜん条件じょうけんにおいては、成人せいじんいちにんがミイラするのに必要ひつよう期間きかんは3かげつわれている。こういった自然しぜんのミイラは全身ぜんしん完全かんぜんなミイラとなっているれいすくなく、身体しんたい一部分いちぶぶんのみがミイラしてのこっている場合ばあいおおい。

自然しぜん環境かんきょうにおいて全身ぜんしんミイラがすくない理由りゆうひとつとして、死体したいなか最初さいしょ腐敗ふはい進行しんこうするのが内臓ないぞうであることがげられる。自然しぜん状態じょうたいにおいては内臓ないぞう体外たいがいることがないため、人体じんたい完全かんぜんなミイラきにくい。ただし内臓ないぞう液化えきかして体外たいがい流出りゅうしゅつしたり、野生やせい動物どうぶつわれたりしたあとに急速きゅうそく乾燥かんそうするとミイラが形成けいせいされることがある。そのため、人為じんいてきにミイラをつく場合ばあいには、のう内臓ないぞう摘出てきしゅつし、外部がいぶ火気かきなどをもちいて乾燥かんそうさせ、あるいは薬品やくひんによって防腐ぼうふ処理しょりほどこした。その内臓ないぞう体内たいないもどすか、副葬品ふくそうひんつぼなかなどにおさめるなどの手段しゅだんられた。

古代こだいエジプトではミイラ処置しょち手法しゅほう時代じだいによってことなるてんもあるが、分業ぶんぎょうせいせんもん職人しょくにんがいた。遺体いたい腐敗ふはいしゅうひどため、ミイラを処置しょちする場所ばしょ町外まちはずれにかれた。また身分みぶん階級かいきゅうによって工程こうていすう値段ねだんにはちがいがあり、身分みぶんたか王族おうぞくファラオ念入ねんいりに処置しょちされたが、庶民しょみんなどは安価あんか簡素かんそ処置しょちまされることもあった。ミイラ処置しょちいちれい以下いかとお[5][6][7]

  1. 遺体いたい洗浄せんじょう
  2. はなあなから細長ほそながぼうみ、のうをかきす。
  3. 胃腸いちょうはい肝臓かんぞうなどの臓器ぞうきす。
  4. 腹部ふくぶ没薬もつやくひとしめる。
  5. 全身ぜんしんナトロンおおい、一定いってい期間きかん(40にちから70にち放置ほうちし、乾燥かんそうさせる。
  6. 化粧けしょう整髪せいはつ装飾そうしょくひんなどを外見がいけんととのえ、防腐ぼうふ処理しょりおこなう。
  7. 護符ごふなどをはさみながら、樹脂じゅしひたしたリネン包帯ほうたいきつける。
  8. かんおさめて遺族いぞくわたす。

語源ごげん[編集へんしゅう]

日本語にほんごの「ミイラ」は16〜17世紀せいき南蛮なんばん貿易ぼうえきなどで渡来とらいしたポルトガルじんかられた言葉ことばひとつで、ポルトガル: mirra元来がんらい没薬もつやく」を意味いみしていた。「ミイラ」への転義てんぎくわしい経緯けいいしょうであるが、没薬もつやくがミイラの防腐ぼうふざいとしてもちいられた事実じじつや、よう東西とうざいわず“ミイラやく”(ミイラの粉末ふんまつ)が不老ふろう長寿ちょうじゅくすりとして珍重ちんちょうされた事実じじつがあることから、一説いっせつに、“ミイラやく”(の薬効やっこう)と没薬もつやく(の薬効やっこう)との混同こんどうがあったという[8]

英語えいご: mummy をはじめとするヨーロッパのかく言語げんごにおける名称めいしょうは、中世ちゅうせいラテン語らてんご: mumia由来ゆらいし、それはさらにアラビア: مومياء‎ (mūmiya')に由来ゆらいし、アラビアはさらに「ろう」を意味いみするペルシャ: mūm に由来ゆらいするとされる[9]。また、漢字かんじ表記ひょうきの「木乃伊みいら」は14世紀せいきの『輟耕ろくまき3にかいかいじん言葉ことばとして出現しゅつげんし、中国ちゅうごくでは「みつじん」というとしているが、おそらくはおなもとづく[注釈ちゅうしゃく 1][10]日本語にほんご機械きかいてき音読おんよした「モクダイイ」はあまりにも原音げんおんからとお印象いんしょうがあるが、北京ぺきんでこれをむと「ムーナイイー」(普通ふつうばなし: mùnǎiyī)のようになる。『輟耕ろく』ではミイラをかいかいじん習俗しゅうぞくとしてしるし、手足てあしをけがしたひとがミイラをべるとたちどころになおると記述きじゅつしている。『本草ほんぞう綱目こうもく』でも『輟耕ろく』を引用いんようしているが、本当ほんとう効果こうかがあるかどうかはわからないとしている[11]日本にっぽんでもこの表記ひょうき中国ちゅうごくから借用しゃくようし、「ミイラ」のかたりてるようになった。

16〜17世紀せいきのヨーロッパにおいて、ミイラは一般いっぱんてきくすりとしてひろ使用しようされていた[12]。そのため、ミイラをることを生業せいぎょうとするものえた。なお、ミイラをるためには墳墓ふんぼなかはいったり、砂漠さばくえたりする必要ひつようがあることから危険きけんがつきまとい、ミイラをさが人間にんげんたおれることもあった。かれらの死体したいがどれほどのかくりつ自然しぜん乾燥かんそうによりミイラしたかは不明ふめいであるものの、このことをして「ミイラりがミイラになる」という言葉ことばまれたなどとするせつがある。かずおおくの盗掘とうくつおこなわれ、きん現代げんだい考古学こうこがく研究けんきゅう阻害そがいする要因よういんとなったのは事実じじつであるが、実際じっさいには本物ほんもののミイラをりにくよりも捏造ねつぞうひんりさばくほうがらくであり、はかあばきの存在そんざいことわざ成立せいりつ由来ゆらいとしてあつかうには信憑しんぴょうせいひくい。なお、くすりとしてのミイラは日本にっぽんにも輸入ゆにゅうされており[13]江戸えど時代じだいには大名だいみょうあいだ人気にんきだったという。

ミイラの事例じれい[編集へんしゅう]

古代こだいエジプト[編集へんしゅう]

2019ねん時点じてん研究けんきゅうでは、世界せかい最古さいこのミイラはやく5300ねんまえから存在そんざいしたとされる[14]とく古代こだいエジプトでは、紀元前きげんぜん3500-3200ねんナカダ2Naqada II)には人工じんこうてき遺体いたい保存ほぞんはじまっていた。ミイラづくりは来世らいせ復活ふっかつ信仰しんこう密接みっせつむすびついている。遺体いたい保存ほぞん来世らいせ一番いちばん保証ほしょうとされた[15]エジプト神話しんわ豊穣ほうじょうをあらわすかみであるオシリスセト殺害さつがいされ、のちにつまイシス冥界めいかいかみアヌビスたすけによってミイラとしてよみがえり、冥界めいかいおうとなったという伝説でんせつがある。このため葬儀そうぎやミイラ製作せいさくは、オシリスの神話しんわもとづいておこなわれた[16]

内臓ないぞう摘出てきしゅつした死体したいを70昼夜ちゅうやにわたって天然てんねん炭酸たんさんナトリウムナトロン)にひたし、それからしたのちぬの幾重いくえにもいて完成かんせいさせる方法ほうほうでミイラが作成さくせいされた。包帯ほうたいいたミイラのイメージは、この古代こだいエジプトのミイラ作成さくせい由来ゆらいする。理性りせいであるとしんじられていた心臓しんぞうのぞいた胸部きょうぶ腹部ふくぶ臓器ぞうき組織そしき下腹かふく切開せっかいによってすべされ、のう組織そしき鼻孔びこうから挿入そうにゅうしたかぎじょう器具きぐによってかきされた。されたほか臓器ぞうきカノプスつぼれられて保管ほかんされた。王国おうこく時代じだい遺体いたい石膏せっこうおおって彫像ちょうぞうのようにする処置しょちがあり、だい1ちゅうあいだにはミイラマスク、ちゅう王国おうこく時代じだいだい12王朝おうちょうには人形にんぎょうかんもちいられるようになった。

いぬねこワニヒヒトキなど、かみ化身けしんとされた動物どうぶつのミイラも作成さくせいされ、とく末期まっき王朝おうちょう時代じだい以降いこうさかんになった。

後世こうせいになるとまつヤニんだミイラは不足ふそくから工場こうじょう蒸気じょうき機関きかんしゃ燃料ねんりょうとして使つかわれ、一般いっぱん家庭かていでも包帯ほうたいやして調理ちょうり使つかわれた[15]とく貴族きぞくのミイラはまつヤニがおお使つかわれていたため重宝ちょうほうされた[15]肥料ひりょうくすりミイラしょく)としても使つかわれた[15]副葬品ふくそうひんにはミイラ肖像しょうぞうれられることもあった。

19世紀せいき考古学こうこがくにおいては、エジプトから輸入ゆにゅうされたミイラの解剖かいぼうが、研究けんきゅう目的もくてきだけではなく見世物みせものとして、ヨーロッパ各地かくちおこなわれた。これらの興行こうぎょうてき解剖かいぼうにおいては、記録きろくなどは通常つうじょうおこなわれず、このために貴重きちょう資料しりょう多数たすううしなわれた。当時とうじのヨーロッパでは、外科げかてき施術しじゅつ自体じたい見世物みせものとしておこなわれており、とく死刑しけいしゅうたいする解剖かいぼうショーは人気にんきはくしていたという[17]

ヨーロッパ[編集へんしゅう]

ロストフからミンスクはこばれた不朽ふきゅうたい前駆ぜんく授洗イオアン右手みぎて一部いちぶ)をるミンスクの聖職せいしょくしゃ[18]
せいゲオルギオスだい聖堂せいどうにある、不朽ふきゅうたいおさめられている大理石だいりせきせいせいひつ

不朽ふきゅうたい(ふきゅうたい)は正教会せいきょうかい日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかい)の用語ようごで、聖人せいじん遺体いたいのこと。聖人せいじん来世らいせ生命せいめい先取さきどりしてているとしんじられ、このため来世らいせ光栄こうえいたい聖書せいしょでは「ちない身体しんたい」)同様どうよう、その今生こんじょうにおける身体しんたいかみ恩寵おんちょうによって不朽ふきゅうのものとされたととらえてこのようにぶ。

ひじりぞう(イコン)と同様どうよう崇敬すうけい対象たいしょうとなる。

正教会せいきょうかいにおいては、教会きょうかいたから祭壇さいだん)のしたには不朽ふきゅうたい安置あんちすることがのぞましいとかんがえられている。どうけんじられた聖人せいじんは、たからした安置あんちされた不朽ふきゅうたい聖人せいじんと、同一どういつであることをようさない。(つまり、聖人せいじんけんじたどうであっても、かならずしもその同一どういつ聖人せいじん不朽ふきゅうたいたからした安置あんちする必要ひつようはなく、別人べつじんであってもよい。)

信者しんじゃ崇敬すうけいひょうするには、十字じゅうじかいえがき、そののち不朽ふきゅうたい接吻せっぷんし、しかるのち祈祷きとうし、ふたた十字じゅうじえが接吻せっぷんかならずしも直接ちょくせつなされることをようさず、ガラスケースとうかいしておこなわれることがしばしばある。ある聖人せいじんひじりぞうにその不朽ふきゅうたい一部いちぶくぎなどで固定こていすることもある。この場合ばあいおお保存ほぞん便びん顧慮こりょし、不朽ふきゅうたいうえおおいをほどこす。

一部いちぶ聖人せいじんには、不朽ふきゅうたい発見はっけん移動いどうなどが特別とくべつ祭日さいじつとされるものがある。つぎのものがとくによくられている。

なお、イイスス・ハリストスすなわちイエス・キリスト、およびそのはは生神うるかみおんなマリヤ不朽ふきゅうたいは、正教会せいきょうかいかんがえでは存在そんざいしていない。

アンデス[編集へんしゅう]

死者ししゃをミイラとする風習ふうしゅう南米なんべいアンデス文明ぶんめいでもられ、その特徴とくちょうひざ腹部ふくぶけた姿勢しせい蹲踞そんきょ)をることである。製法せいほう以下いかとおり。死者ししゃ内臓ないぞう筋肉きんにくのぞく。つぎに、なんらかの火力かりょく乾燥かんそうさせる。最後さいご特定とくてい姿勢しせい固定こていし、からだ全体ぜんたいぬのおおい、かごにおさめ、最後さいご副葬品ふくそうひんあわせて再度さいどぬのくというものである。紀元前きげんぜん200ねんごろまでつづいたパラカス文化ぶんか英語えいごばんは、形成けいせいにおいてすでにミイラの製作せいさく習熟しゅうじゅくしていた。インカ帝国ていこく成立せいりつすると、とく高位こうい人物じんぶつのミイラにたいしてははね装飾そうしょくひん金属きんぞくせい仮面かめんけるようになる。作成さくせいしたミイラはほこら安置あんちしたり、住居じゅうきょいたりして、あたかもミイラがきているかのようにはなしかけ、食事しょくじきょうし、くなった近親きんしんしゃへの愛情あいじょう尊崇そんすうねんしめつづける。

中国ちゅうごく湖南こなんしょううま王堆漢おうたいかんから発掘はっくつされた紀元前きげんぜん2世紀せいきのミイラ(からしおい中国語ちゅうごくごばん

中国ちゅうごく[編集へんしゅう]

ふる文献ぶんけん(『だいから西域せいいき』『西京にしぎょう雑記ざっき』『だきほお』など)に入定にゅうじょうミイラの記述きじゅつがあり、『高僧こうそうでん』ではすすむ元康もとやす8ねん(298ねん)に訶羅竭というそう火葬かそうされたが半焼はんしょうけになってしまい、したままでもくずれなかったため石室いしむろ安置あんちして礼拝れいはいしたとしるされている。『だいから西域せいいき』ではげん西域せいいきそうのミイラについて言及げんきゅうしている。

うるしにくぞう
とう時代じだい以降いこうには、乾漆かんしつぞう製法せいほう使つかって遺体いたいつつみ、装飾そうしょくして乾漆かんしつぞうとするうるしにくぞうというミイラがつくられた[19]

現存げんそんするミイラとしては広東かんとんしょう韶州みなみはなてらにあるとうだい中期ちゅうき禅僧ぜんそうとしのうにくぼとけそくほとけ)などがある。なお、中国ちゅうごくでは現在げんざいでもそくぼとけとしてミイラがつくられている。ただし、きたまま苦行くぎょうてにしてミイラになるのではなく、自然しぜん遺言ゆいごんによってミイラとしてつくられるものであり、全身ぜんしん金箔きんぱくることにより生前せいぜんちかかたちたもとうとしている。

中央ちゅうおうアジア[編集へんしゅう]

現在げんざい一部いちぶ中国ちゅうごく・ロシアの範疇はんちゅうはいひろ中央ちゅうおうアジアでも、ミイラが発見はっけんされている。「ろうらん美女びじょ」としてられる古代こだいオアシス都市としろうらんのミイラは、シルクロードブームで一躍いちやくられるようになった。西域せいいき乾燥かんそう砂漠さばく地帯ちたいで、ミイラができがるのに好条件こうじょうけんであり、そのため中国ちゅうごくにおけるミイラは西域せいいきおおい。大谷おおや光瑞こうずいだいさん探検たんけん(1910ねん - 1914ねん)でトルファン地区ちくからミイラをかえっており、当時とうじ日本にっぽん租借そしゃくなか大連たいれん旅順りょじゅん博物館はくぶつかん所蔵しょぞうされて、現在げんざいでもそこで公開こうかいされている[20]

ロシア連邦れんぽうぞくするアルタイ共和きょうわこくで「ウコクの王女おうじょ」(別名べつめいシベリアこおり女性じょせい」)が1993ねん発見はっけんされて、現在げんざいノヴォシビルスク博物館はくぶつかん公開こうかいされている。

チベット仏教ぶっきょうにも高僧こうそうのミイラの習俗しゅうぞくがあり、ダシ=ドルジョ・イチゲロフなどが有名ゆうめいただし、イチゲロフのようにめでミイラになるれいまれであり、中国ちゅうごくおなじくだい多数たすう自然しぜんにミイラさせたものである。

日本にっぽん[編集へんしゅう]

日本にっぽん仏教ぶっきょう一部いちぶ民間みんかん信仰しんこう)では、そう土中どちゅうあななどにはいって瞑想めいそう状態じょうたいのまま絶命ぜつめいし、ミイラしたものを「そくほとけ」(そくしんぶつ)とぶ。仏教ぶっきょう修行しゅぎょうなかでももっと過酷かこくなものとしてられる。

この背景はいけいにあるのは入定にゅうじょう(“にゅうじょう”ないしはなま入定にゅうじょう)という観念かんねんで、「入定にゅうじょうミイラ」ともわれる。本来ほんらいさとひらくことだが、ではなく永遠えいえん生命せいめい獲得かくとくとするかんがえである。入定にゅうじょうしたもの肉体にくたい永遠えいえんせいるとされた。

奥州おうしゅう藤原ふじわら[編集へんしゅう]

しゅう衡ともと衡、きよし衡の遺体いたいおさめたかん(1950ねん

歴代れきだい奥州おうしゅう藤原ふじわら遺体いたいは、中尊寺ちゅうそんじ金色きんいろどう埋葬まいそうされた。これらの遺体いたいは1950ねん昭和しょうわ25ねん)に朝日新聞あさひしんぶん文化ぶんか事業じぎょうだんによって医学いがく人類じんるいがく微生物びせいぶつがくなどによる学術がくじゅつ調査ちょうさおこなわれ、「奥州おうしゅう藤原ふじわらのミイラ」としてられる。ただし、学術がくじゅつ調査ちょうさ報告ほうこくしょである『中尊寺ちゅうそんじ藤原ふじわらよんだい』は防腐ぼうふ処置しょち有無うむについて明言めいげんしておらず、文中ぶんちゅうでも遺体いたいは「ミイラ」とばれていない。

奥州おうしゅう藤原ふじわらのミイラ一覧いちらん
だい 氏名しめい 安置あんち場所ばしょ 没年ぼつねん 享年きょうねん 備考びこう
初代しょだい 藤原清衡ふじわらのきよひら 中尊寺ちゅうそんじ金色きんいろどう
きよし衡壇
大治おおはる3ねん7がつ13にち
1128ねん8がつ10日とおか
73さい ぼつ年齢ねんれいかんしては状態じょうたいから70さい以上いじょうられ、史料しりょうぼつ年齢ねんれい矛盾むじゅんはないとされる。また、死没しぼつには大治おおはる3ねん7がつ16にち(1128ねん8がつ13にち)というせつもある。身長しんちょう159cm、血液けつえきがたはAB。副葬品ふくそうひんむらさききぬまくらぎん琥珀こはく数珠じゅず太刀たち小刀こがたな金塊きんかい広範囲こうはんいわたって白骨はっこつすすんでおり、保存ほぞん状態じょうたいの3にんくらべてもっとわるい。
だい 藤原基衡ふじわらのもとひら 中尊寺ちゅうそんじ金色きんいろどう
もと衡壇
もと2ねん3月19にち?
1157ねん4がつ29にち?)
50さい-60さい ぼつ年齢ねんれいかんしては50さいだい死亡しぼう、54さい-55さい、55さい-60さい、60さい前後ぜんこうという見方みかたもある。身長しんちょう167cm、血液けつえきがたはA。副葬品ふくそうひんしろきぬまくらひえはいり)、水晶すいしょう数珠じゅずかたな
さんだい 藤原秀衡ふじわらのひでひら 中尊寺ちゅうそんじ金色きんいろどう
しゅう衡壇
文治ぶんじ3ねん10月29にち
1187ねん11月30にち
60さい-70さい ぼつ年齢ねんれいかんしては70さい前後ぜんこうという見方みかたもある 身長しんちょう164cm、血液けつえきがたはAB。副葬品ふくそうひんまくらたい衡のくびおけ保存ほぞん状態じょうたいの3にんくらべてもっとい。
よんだい 藤原ふじわらやすし 中尊寺ちゅうそんじ金色きんいろどう
しゅう衡壇・首桶くびおけない
文治ぶんじ5ねん9月3にち
1189ねん10月14にち
20さい-30さい 頭部とうぶのみ。ぼつ年齢ねんれいかんしては状態じょうたいから、20さいだい-30さいだい、23さい-30さい、もしくは25さい判断はんだんされている。身長しんちょうしょう血液けつえきがたはB。かおきゅう箇所かしょかたなきず がくさらくびくぎあと

黒田くろだつなせい[編集へんしゅう]

1711ねん正徳まさのり元年がんねん)6がつ18にち死去しきょした福岡ふくおかはん4だい藩主はんしゅ黒田くろだつなせい遺体いたいは、いえ騒動そうどうおそ藩主はんしゅかくそうとした家老がろう隅田すみた主膳しゅぜんいのち防腐ぼうふ処置しょちおこなわれた。処置しょちはんによっておこなわれたが、福岡ふくおかはん警備けいびをしていた長崎ながさきにもたらされたミイラの技術ぎじゅつもちいられた可能かのうせいがある。遺体いたい黒田くろだ菩提寺ぼだいじであるたかしぶくてらに、地下水ちかすい侵入しんにゅうしない石室いしむろじゅうかんかこまれた土葬どそうされた。1950ねん昭和しょうわ25ねん)、たかしぶくてら一部いちぶ宅地たくちされたさいつなせい墳墓ふんぼされ、やく240ねんあいだ筋肉きんにく硬直こうちょくしておらず、束髪そくはつまつ口髭くちひげがそのままのミイラした遺体いたい出土しゅつどした。遺体いたい調査ちょうさのち包帯ほうたい梱包こんぽうされてテレビン油てれびんゆたされたおさめられたうえで、黒田くろだごうふんさい埋葬まいそうされた[21]

溝口みぞぐち[編集へんしゅう]

1909ねん明治めいじ42ねん)、東京とうきょう深川ふかがわ万年まんねんまちにあった海福寺かいふくじ移転いてんともない、とうてら菩提寺ぼだいじにしていた溝口みぞぐち傍系ぼうけいもと旗本はたもと溝口みぞぐちただし一家いっか墓所はかしょかえしたところ、ミイラした先祖せんぞ遺体いたい発見はっけんした[22]ひとつは女性じょせいで、徳川とくがわ家斉いえなり時代じだい大奥おおおく出仕しゅっししていた「やま」という上臈じょうろう高位こういおく女中じょちゅう)で、1837ねん天保てんぽう8ねん)に56さいくなっていた[22]遺体いたい白無垢しろむく打掛うちかけ姿すがたし、両手りょうてんで、手首てくびには数珠じゅずがかけられ、うしろにくだしたかみには白髪はくはつひとつなかった[22][23]。もう一体いったい男性だんせいで、おなじ1837ねんに49さいくなった7だい当主とうしゅ溝口みぞぐち直道なおみちだった[22]。やはり白無垢しろむく姿すがた胡坐こざのようにあしさき交差こうささせてし、両手りょうてんであたましだれ、ふっくら肉付にくづきもよく、丁髷ちょんまげみだれもなく、月代さかやきあとあおく、元結もとゆいしろいままであった[22][23]。さらに直一なおかず(9だい当主とうしゅ)の祖母そぼのものも発掘はっくつされ、島田しまだそのままの姿すがただった[22]法医学ほういがくしゃかた山国やまくによしみ交渉こうしょうにより、直道なおみちやまの2遺体いたい東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく献体けんたいされた[22][23]

社会しゃかい主義しゅぎ諸国しょこく指導しどうしゃ[編集へんしゅう]

社会しゃかい主義しゅぎこくでは、過去かこ指導しどうしゃ神格しんかくする目的もくてきでその遺体いたいをミイラエンバーミング)し、民衆みんしゅう公開こうかいすることがある。レーニンレーニンびょう)、スターリンきむ日成いるそんおよびきむ正日じょんいる錦繍きんしゅうやま太陽たいよう宮殿きゅうでん)、毛沢東もうたくとうもう主席しゅせきねんどう)、ホー・チ・ミンホー・チ・ミンびょう)など。この場合ばあい強力きょうりょく防腐ぼうふ処置しょちによって腐敗ふはいめているとかんがえられている。その生前せいぜん本人ほんにん希望きぼうによりミイラにされる遺体いたい存在そんざいする。

そのくに地域ちいき[編集へんしゅう]

ニューギニア西にし中央ちゅうおうアフリカ、アメリカ北西ほくせい海岸かいがん、カナダ西海岸にしかいがん部族ぶぞくは、死後しご遺体いたい乾燥かんそうさせ、または燻製くんせいにしてミイラにし、はかうわちゅう安置あんちする風習ふうしゅうっていた。ニューギニア、アフリカにおいては、現在げんざいつづけている部族ぶぞくがある。

また、カナリア諸島かなりあしょとうスペイン)にはグアンチェぞくのミイラがある。

自然しぜん発生はっせいてきなミイラの事例じれい[編集へんしゅう]

死体したいがたまたま特殊とくしゅ物理ぶつり環境かんきょうかれたときに、ミイラしてそのまま保存ほぞんされることがある。

ドレスデン爆撃の犠牲者のミイラ ドレスデン爆撃の犠牲者のミイラ
ドレスデンばくげき犠牲ぎせいしゃのミイラ

架空かくう生物せいぶつ怪物かいぶつのミイラ[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい見世物みせもの
江戸えど時代じだい妖怪ようかいへの興味きょうみたかまったためニホンザルコイなどをつなぎあわせた人魚にんぎょのミイラ、ニホンザルやエイなどを加工かこうした河童かっぱのミイラのほか、おにりゅうのミイラがさかんにつくられた。幕末ばくまつ明治めいじころには外国がいこく輸出ゆしゅつされたり外国がいこくじん土産物みやげものになったりしていた。だいえい博物館はくぶつかんには日本にっぽんせい人魚にんぎょのミイラが所蔵しょぞうされている[25]
岡山おかやまけん浅口あさくち鴨方かもがたまちえんたまいんつたわる「人魚にんぎょミイラ」については倉敷芸術科学大学くらしきげいじゅつかがくだいがく調査ちょうさにより、上半身じょうはんしん霊長れいちょうるい下半身かはんしん魚類ぎょるい特徴とくちょうつことが判明はんめいした[26]
驚異きょうい博物館はくぶつかん
かつて西洋せいよう諸国しょこくでは宗教しゅうきょう理論りろんじょう世界せかいのどこかに人魚にんぎょ実在じつざいしているものだとしんじられていた。世界せかいわたった宣教師せんきょうしなどがさかんにさがし、日本にっぽんなどで生産せいさんされていたフェイクの人魚にんぎょのミイラをかえった。人魚にんぎょほか日本にっぽん生産せいさんされおも欧州おうしゅうへとまれたフェイクの怪物かいぶつのミイラは、ジェニー・ハニヴァーりゅうろくろくびおになどがあり、西洋せいよう製作せいさくされたキメラバジリスクさんほんあしのガマのフェイク・ミイラなどとともに、好事家こうずか蒐集しゅうしゅうされたり、ヴンダーカンマー展示てんじされていた[27]

創作そうさくぶつにおけるミイラ[編集へんしゅう]

グアンチェぞくのミイラテネリフェとう

不死ふし怪物かいぶつアンデッド)としてのミイラ、つまりミイラおとこマミー歴史れきしはさほどふるくはなく、エジプトフランスイギリス植民しょくみんされた19世紀せいきごろあらわれたものである。とく初期しょきのミイラを題材だいざいとした作品さくひんジャンルはラブ・ロマンス小説しょうせつであり、男性だんせい主人公しゅじんこう恋愛れんあい対象たいしょうとしての女性じょせいミイラであることが一般いっぱんてきであった。

ミイラがホラー作品さくひん題材だいざいとなるのは、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくユニバーサル映画えいが製作せいさくした1932ねんの『ミイラ再生さいせい』(原題げんだいThe Mummy以降いこうである。これは1920年代ねんだいツタンカーメンのミイラ発掘はっくつにまつわるカーナヴォンきょうすうめいなぞげた、いわゆる「王家おうけのろ」を題材だいざいにしたものであった。怪奇かいき俳優はいゆうとして著名ちょめいであったボリス・カーロフどうさくでミイラおとこイムホテップ英語えいごばんえんじ、1940ねんの『ミイラの復活ふっかつ以降いこうはミイラおとこカーリス定番ていばんであった。『ミイラ転生てんせい 死霊しりょうはか英語えいごばん』(1981ねん)のように、おなじくよみがえった死者ししゃであるゾンビ共演きょうえんする作品さくひん登場とうじょうした。日本にっぽんでも1961ねん日本にほんテレビ製作せいさく連続れんぞくテレビ映画えいが恐怖きょうふのミイラ』が放送ほうそうされた。すで死体したいであることから、通常つうじょう人間にんげんいたるセオリー(心臓しんぞうす・くびをはねるなど)をおこなってもなず(というよりももとからんでいるのだからうごきをめず)、そういった物語ものがたり登場とうじょう人物じんぶつたち、および読者どくしゃ観客かんきゃく恐怖きょうふさせた。なお、それらの場合ばあいでは聖水せいすいよわいなどの特徴とくちょうられる。なお、アメリカ映画えいがハムナプトラ』(1999ねん)の原題げんだいは(リメイクもとの『ミイラ再生さいせい同様どうよう)"The Mummy"すなわち『ミイラ』であるが、現代げんだい日本にっぽん文化ぶんか状況じょうきょうにおいて安直あんちょくすぎるとかんがえたことからか、日本にっぽん公開こうかい直訳ちょくやくでない邦題ほうだいけられた。CMひとし映像えいぞう媒体ばいたいにおいて現在げんざいではミイラはフランケンシュタインの怪物かいぶつたい包帯ほうたいかれた状態じょうたいでコミカルに登場とうじょうすることがおおい(れいマスターカードのCMなど)。また、日本にっぽんのコメディ作品さくひんぐるぐるメダマン』では包帯ほうたい中身なかみへの興味きょうみ逆手さかてり、ミイラくん包帯ほうたいけそうになり地肌じはだ若干じゃっかんえるという描写びょうしゃがあった。

日本にっぽん特撮とくさつアニメ作品さくひんでも、恐怖きょうふ攻撃こうげきりょくたか敵役かたきやくとしてしばしば登場とうじょうする。ミイラ人間にんげん初代しょだいウルトラマン)、ミイラーマン(ジャイアントロボ)、ミイラルゲ(超人ちょうじんバロム・1)、合成ごうせいじゅうミイラス(マグネロボ ガ・キーン)などである。また、コンピュータRPGにおいてアンデッドけいモンスターとして登場とうじょうすることもおおい。

日本にっぽん漫画まんがでは楳図うめずかずお『ミイラ先生せんせい』が有名ゆうめいである。江戸えど時代じだいキリシタン弾圧だんあつころされた修道しゅうどうおんなのミイラが漏水ろうすいびてよみがえる。みずむと一時いちじてききた人間にんげんわらぬ見掛みかけになれるため、かおがよく女学校じょがっこう教師きょうしわり、本格ほんかくてきうつくしさをもどすためおんな生徒せいとおうとする。に『ミイラのかた』(2014ねん~)もある。

落語らくごにも「木乃伊みいら」という演目えんもく存在そんざいし、6代目だいめさんゆうていえんせい8代目だいめ林家はやしや正蔵しょうぞう(彦六の正蔵しょうぞう立川談志たてかわだんし(7代目だいめだが、当人とうにんは5代目だいめ自称じしょうなどが得意とくい演目えんもくとしていた。内容ないようとしては上述じょうじゅつの「ミイラりがミイラになる」をモチーフとしたものである。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 広辞苑こうじえん』は「mummyかんやく」とする。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ Niños momia, Sacrificados en Salta, National Geographic Channel(スペイン
  2. ^ ヨハン・ラインハルト|ナショジオピープル|番組ばんぐみ紹介しょうかい|ナショナル ジオグラフィックチャンネル
  3. ^ ミイラづくり、これが仕事場しごとば エジプトで発掘はっくつ最大さいだい規模きぼ」『毎日新聞まいにちしんぶん朝刊ちょうかん2023ねん5がつ29にち国際こくさいめん)2023ねん6がつ11にち閲覧えつらん
  4. ^ K.L.キャンベル(カナダ・マニトバ大学だいがく) 、M.ホフライター(えいヨーク大学だいがく)「ねむりからめる古代こだいDNA」『日経にっけいサイエンス』2013ねん4がつごう
  5. ^ 古代こだいエジプトのミイラづくり、防腐ぼうふざいの「レシピ」があきらかに=えい研究けんきゅう
  6. ^ 「ミイラ」職人しょくにんから盗掘とうくつしゃ土産物みやげものまで!ミイラで生計せいけいてた人々ひとびと
  7. ^ だい16かい ミイラの発掘はっくつ クフ王くふおうのミイラを想像そうぞうする
  8. ^ 木乃伊みいら(ミイラ)のはなし江戸えど今昔こんじゃくどう
  9. ^ Online Etymology Dictionary
  10. ^ 『輟耕ろくまき3木乃伊みいら
  11. ^ ウィキソース出典 めずらし (中国ちゅうごく), 本草ほんぞう綱目こうもく/ひと#木乃伊みいらかおる, ウィキソースより閲覧えつらん 
  12. ^ Thomas Hersey『The Thomsonian recorder』だい2かん(Jarvis Pike & Co./1834ねん)380ページ
  13. ^ 粟屋あわやつよし、「徳山大学とくやまだいがく研究けんきゅう叢書そうしょ 19」人体じんたい利用りよう商品しょうひん 1しょう-4 医療いりょう関連かんれん利用りよう Archived 2010ねん1がつ23にち, at the Wayback Machine.
  14. ^ いたやまいでさえ克服こくふくした「人類じんるいくすり」の世界せかい”. 東洋とうよう経済けいざいオンライン (2019ねん6がつ4にち). 2021ねん9がつ17にち閲覧えつらん
  15. ^ a b c d フジテレビトリビア普及ふきゅう委員いいんかい『トリビアのいずみ〜へぇのほん〜 1』講談社こうだんしゃ、2003ねん 
  16. ^ 和田わだ, ひろし一郎いちろう (日本語にほんご). 古代こだいエジプトの埋葬まいそう習慣しゅうかん. 日本にっぽん: ポプラ社ぽぷらしゃ 
  17. ^ J.トールワルドの著書ちょしょ外科げか夜明よあけ』ISBN 978-4-09-251009-8
  18. ^ 左側ひだりがわ聖職せいしょくしゃしろクロブークこうむっており水色みずいろのマンティヤを着用ちゃくようしているため、主教しゅきょう右側みぎがわ聖職せいしょくしゃは、クロブークをこうむりエピタラヒリを着用ちゃくようしている一方いっぽうで、このようなとき通例つうれい主教しゅきょうしょく着用ちゃくようするマンティヤは着用ちゃくようしていないため、てのひらいんてんいん修道しゅうどう司祭しさいのいずれかであると推測すいそくできる。
  19. ^ うるしにくぞう. コトバンクより。
  20. ^ 大谷おおや光瑞こうずい大谷おおや探検たんけんたい・ミイラ発掘はっくつ
  21. ^ 奥村おくむらたけし当時とうじのままの黒田くろだつなせい福岡ふくおか市長しちょうしつ広報こうほうへん『ふくおか歴史れきし散歩さんぽ福岡ふくおか 1977ねん P.119-120
  22. ^ a b c d e f g 『グラヒック』だい1かんだい18ごう、1909ねん9がつ15にち、p14(同誌どうしには2遺体いたい写真しゃしん3てん掲載けいさい
  23. ^ a b c 新聞しんぶん集成しゅうせい明治めいじ編年史へんねんし. だいじゅうよんかん林泉りんせんしゃ、1936-1940、p139
  24. ^ a b c d Abolfazl Aali, Aydin Abar, Nicole Boenke, Mark Pollard, Frank Rühli & Thomas Stöllner. 2012. "Ancient salt mining and salt men: the interdisciplinary Chehrabad Douzlakh project in north-western Iran." Antiquity Project Gallery 86(333): http://antiquity.ac.uk/projgall/aali333/
  25. ^ 江戸えど時代じだいからつたわるたくみ技術ぎじゅつ!? 河童かっぱのミイラ
  26. ^ 人魚にんぎょミイラ 霊長れいちょうるい魚類ぎょるい特徴とくちょう 倉敷くらしきげいだい、うろこやはりつかる”. 山陽さんよう新聞しんぶん (2022ねん4がつ11にち). 2022ねん4がつ11にち閲覧えつらん
  27. ^ 万国ばんこく怪物かいぶつだい博覧はくらんかい南方みなかたどう、1993ねん

文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]