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傷寒しょうかんろん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
傷寒しょうかんろん写本しゃほん

傷寒しょうかんろん』(しょうかんろん、繁体字はんたいじ: 傷寒しょうかんろん; 簡体字かんたいじ: 伤寒论; 拼音: Shānghán lùn)は、こうかん末期まっきからさんこく時代じだいちょうなかけい編纂へんさんした伝統でんとう中国ちゅうごく医学いがく古典こてん内容ないよう伝染でんせんせい病気びょうきたいする治療ちりょうほう中心ちゅうしんとなっている。

げんつての『そうばん傷寒しょうかんろん』は「べんみゃくほう」「平脈へいみゃくほう」「傷寒しょうかんれい」「べん痙湿暍脈しょう」「べん太陽たいようびょうみゃくしょう并治(うえなかした)」「べん陽明ようめいびょうみゃくしょう并治」「わきまえしょうびょうみゃくしょう并治」「べん太陰たいいんびょうみゃくしょう并治」「わきまえしょうかげびょうみゃくしょう并治」「べん厥陰びょうみゃくしょう并治」「べん霍亂びょうみゃくしょう并治」「べん陰陽いんようえきびょうみゃくしょう并治」「べん不可ふか發汗はっかんびょうみゃくしょう并治」「わきまえ發汗はっかんびょうみゃくしょう并治」「べん發汗はっかんびょうみゃくしょう并治」「べん不可ふか吐」「わきまえ吐」「べん不可ふかびょうみゃくしょう并治」「べんびょうみゃくしょう并治」「べん發汗はっかん吐下びょうみゃくしょう并治」のへんからなりたっている。

このうち一般いっぱんわきまえ太陽たいようびょうみゃくしょう并治~べん厥陰びょうみゃくしょう并治までは「さんかげさんへん」といわれ、べん不可ふか發汗はっかんびょうみゃくしょう并治~べんびょうみゃくしょう并治までは「不可ふかへん」といわれる。「さんかげさんへん」では、病気びょうき太陽たいよう(たいよう)・陽明ようめい(ようめい)・しょう(しょうよう)・太陰たいいん(たいいん)・しょうかげ(しょういん)・厥陰(けついん)の6つの時期じきにわけ、それぞれのやまいったくすり処方しょほうすることが特徴とくちょうてきである。

起源きげん

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たてやすしという年号ねんごうわって10ねんにもならないころけんやす元年がんねんから10ねんにもならないころせつもある。また、けんやすではなくたてやすしであろうとのせつもある)にちょうなかけいが、一族いちぞくもの傷寒しょうかんおおうしなったため、しるしたのが本書ほんしょわれる。ちょうなかけいちょうで、ちょうすな太守たいしゅだったととうだいにかかれた『名医めいいろく』に記載きさいされ『そうばん傷寒しょうかんろん』の序文じょぶんそうしんによって引用いんようされたせつもあるが、正史せいしである『こう漢書かんしょ』『三国志さんごくし』にはそのがみられない。自序じじょに「傷寒しょうかんざつびょうろん」とあることから傷寒しょうかんざつびょうろん繁体字はんたいじ: 傷寒しょうかんざつびょうろん; 簡体字かんたいじ: 伤寒杂病论; 拼音: Shānghán zábìng lùn)を原題げんだいめいとするせつや、傷寒しょうかんそつびょうろん原題げんだいとするせつがあげられているが、5世紀せいきの『小品しょうひんかた』に『ちょうなかけいべん傷寒しょうかん并方』・『ちょうなかけいざつかた』と記録きろくされていることから『ちょうなかけいかた』もしくはそれにるいした名称めいしょうばれていたのだろうと類推るいすいされている。しかし、これらのしょしつでんした。

傷寒しょうかんろんすうおおくの治療ちりょう編纂へんさん校訂こうていされた。そしていつころか、傷寒しょうかんあつかった部分ぶぶんざつびょうあつかった部分ぶぶんかれた。前者ぜんしゃは『(ちょうなかけい傷寒しょうかんろん』とだいされ、とうだい医師いし国家こっか試験しけんテキストとされた[1]

西にしすすむおう叔和せんした『みゃくけい』には、げんつての『そうばん傷寒しょうかんろん』と一致いっちする条文じょうぶんおおくみられる。そうあらためた『みゃくけい』はあきらなに大任たいにん倣宋ほん日本にっぽん現存げんそんする。

太平たいへい御覧ごらん』に引用いんようされた『養生ようじょうろん』に「おう叔和 せい沈静ちんせい こう著述ちょじゅつ こう遺文いぶん さい摭群ろん せんなりみゃくけいじゅうかん へんちょうなかけいかたろん へんためさんじゅうろくかん だいぎょう於世」とあり、おう叔和が『ちょうなかけいかたろん』をへんしたことがしるされているがこのしょしつでんした。

とうだいまごおもえあらわした『千金せんきんかただいきゅうには、傷寒しょうかんおさめられている。そうあらためた『備急千金せんきんようかた』はみなみそうはん日本にっぽん現存げんそんする。

とうだいまごおもえ邈が『千金せんきんかた』の不備ふび扶翼ふよくする目的もくてき撰述せんじゅつしたとして仮託かたくされる『千金せんきんつばさかたまききゅうかんじゅうには傷寒しょうかんおさめられている。この部分ぶぶんは、一般いっぱんに『唐本とうほん傷寒しょうかんろん』とばれる。そうあらためた『千金せんきんつばさかた』がもと大徳だいとくほんとして日本にっぽん現存げんそんする。

きたそうひらきたから年間ねんかん968ねん - 975ねん)、こうつぎおき宋朝そうちょう帰順きじゅん宋朝そうちょうとしてのたけやすしぐん節度せつど使にんぜられたさい傷寒しょうかんろんそう政府せいふ献上けんじょうした。そのそう政府せいふ諸家しょか医方いほう蒐集しゅうしゅうして『太平たいへいせい恵方えほう』を編纂へんさんしたとき992ねん)、こうつぎ沖本おきもとがとりれられたとかんがえられている。この『太平たいへいせい恵方えほうちゅう傷寒しょうかん部分ぶぶんは、『じゅんほん傷寒しょうかんろん』とばれ、日本にっぽん現存げんそんする。

傷寒しょうかんろんとして一般いっぱんられているものがきたそう時代じだいはやしおく(りんおく)・まご(そんき)たち(そうしんら)が校正こうせい医書いしょきょくにおいて校正こうせい復刻ふっこくそうあらため)した傷寒しょうかんろんである。大字だいじほんおよび小字こあざほん出版しゅっぱんされた。そうあらためでは、そうしんによりだい規模きぼ改変かいへん変更へんこうおこなわれ刊行かんこうされた。それそうあらためけたしょから直接ちょくせつ、それ以前いぜんしょることは大変たいへん困難こんなんである。これらそうあらため大字だいじほんおよび小字こあざほんはまとめて『そうばん傷寒しょうかんろん』といわれるが、しつでんした。

そうあらためほん原本げんぽんそうばん傷寒しょうかんろん』は現在げんざいつたわっていないが、小字こあざほんそうあらためほんけいにあたるものとして、あきらちょうひらくこくなかけい全書ぜんしょ』(1599ねん)のなかの『翻刻ほんこくそうばん傷寒しょうかんろんぜん10かん22へん日本にっぽんおよび中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく現存げんそんしている。このしょは『ちょうひらくほん傷寒しょうかんろん』と一般いっぱんにいわれる。

きむ匱玉はこけい』も、傷寒しょうかんろん異本いほんとして、校正こうせい医書いしょきょくにおいて校正こうせい復刻ふっこくそうあらため)されている。そうしんらは『傷寒しょうかんろん』につづ翌年よくねんにこの『きむ匱玉はこけい』をおくしており、その重要じゅうようせい認識にんしきしていたとおもわれる。だが、『きむ匱玉はこけい』のそう改版かいはんのち清朝せいちょうかん56ねん1717ねん上海しゃんはいちんすぐるが『きむ匱玉はこけい』を刊行かんこうするまで650ねん以上いじょうにわたり、この『きむ匱玉はこけい』がされた記録きろくつかっていない。日本にっぽんにおいても1746ねん清水しみずたかしちょうによって『きむ匱玉はこけい』が翻刻ほんこくされただけで、流布るふしたほんすくないとされる。ちんすぐるほんが、日本にっぽんおよび中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく現存げんそんしている。

また、翰林かんりん学士がくしおう国家こっか図書館としょかんむしそんけた古書こしょちゅうに『きむ匱玉はこ要略ようりゃくかた』を発見はっけんした。このしょ上巻じょうかん傷寒しょうかんちゅうまきざつびょう下巻げかん処方しょほう婦人病ふじんびょうしるされたものであった。この『きむ匱玉はこ要略ようりゃくかた』を転写てんしゃしてすうにん学識がくしきしゃにのみつたえ、書中しょちゅう処方しょほうとその主治しゅじしょう完備かんびしているものを使用しようしてみたところ、効果こうかかみごとくであった。そこで、そうしんらは下巻げかんにあった処方しょほう各々おのおの相応そうおうするあかし候文そうろうぶんつぎ配置はいちしなおし、諸家しょかほう書中しょちゅう散在さんざいするなかけいざつびょうかんする論説ろんせつ処方しょほう佚文いつぶん採取さいしゅかくへんまつに「かた」として補遺ほいし、上巻じょうかん傷寒しょうかん部分ぶぶん節略せつりゃくおおいので削除さくじょし、そのざつびょうより飲食いんしょく禁忌きんきまではのこし、ぜん25へんとしてそう262ぽう、これを上中かみなかさんかんほんさい編成へんせいし、これらの部分ぶぶん大字だいじほんでは『(新編しんぺんきむ匱方ろん』とされ、小字こあざほんでは『(校正こうせいきむ要略ようりゃくかた』とされた。『きむ要略ようりゃく』とは、これら『きむ匱方ろん』・『きむ要略ようりゃくかた』の通称つうしょうである。

みなみそうなりおのれ(せいむき、やめ(むい)のせつもあり)による『注解ちゅうかい傷寒しょうかんろん』(1144ねん)では、『そうばん傷寒しょうかんろん』と比較ひかくすると、『そうばん傷寒しょうかんろん』の省略しょうりゃく改変かいへんおこなわれており、条文じょうぶん細字さいじ注記ちゅうき省略しょうりゃく不可ふかへんさんかげさんへん重複じゅうふくする条文じょうぶん削除さくじょ、『そうばん傷寒しょうかんろんだいへん以降いこうかくへんいちてい格下かくした条文じょうぶん省略しょうりゃくし、かげびょうしたほうを「陽明ようめい転属てんぞく」と解釈かいしゃくするひとしてん改変かいへんおこなっている。また、どういち条文じょうぶんでも字句じく相違そういおおい。この『注解ちゅうかい傷寒しょうかんろん』は、一般いっぱんに、『なりちゅうほん』または『成本なりもと傷寒しょうかんろん』』やたんに『成本なりもと』とも通称つうしょうされる。こういったてんがあるにもかかわらず、『注解ちゅうかい傷寒しょうかんろん』は日本にっぽん漢方かんぽうおよびちゅう医学いがく多大ただい影響えいきょうのこした。現存げんそんする『注解ちゅうかい傷寒しょうかんろん』としてはあかり倣元刊本かんぽんさい善本ぜんぽんのひとつとされる。このあかり倣元刊本かんぽんはかつて日本にっぽんにあり、考証こうしょう学派がくはによって躋寿かんよりこくされた。現在げんざいあきら倣元刊本かんぽん台湾たいわん現存げんそんする。

江戸えど時代じだい前半ぜんはんもっと流布るふした傷寒しょうかんろんは『注解ちゅうかい傷寒しょうかんろんけい傷寒しょうかんろんであった。日本にっぽんの1660ねんごろにつくられた活字かつじかんしるしたんけいほん傷寒しょうかんろんも『注解ちゅうかい傷寒しょうかんろん』が底本ていほんであった。やくはん世紀せいきおな手法しゅほうで『しょうこくほん傷寒しょうかんろん』を香川かがわおさむあんが1715ねん抜粋ばっすい刊行かんこうし、だい流行りゅうこうした。このしょうこくほん傷寒しょうかんろん』も、『注解ちゅうかい傷寒しょうかんろんけいしょである。江戸えど時代じだい制作せいさくされたとかんがえられている『康平こうへいほん傷寒しょうかんろん』・『康治こうじほん傷寒しょうかんろん』も『注解ちゅうかい傷寒しょうかんろん』の特徴とくちょうち、『注解ちゅうかい傷寒しょうかんろんけい偽書ぎしょとされる。

傷寒しょうかんとは

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傷寒しょうかんには広義こうぎ意味いみ狭義きょうぎ意味いみふたつがある。 広義こうぎ意味いみでは「温熱おんねつふくめた一切いっさいそとかん熱病ねつびょう」で、狭義きょうぎ意味いみでは「ふうかんよこしまかんじて生体せいたいきずつく」ことで温熱おんねつふくまれない。傷寒しょうかんろんにおけるこの意味いみあつかいのちがいは、はやしおく(りんおく)・まご(そんき)らの校正こうせい復刻ふっこくによるそうあらため結果けっかこったことで、古典こてんである傷寒しょうかんろん解釈かいしゃくちがいになってくる。傷寒しょうかんろんのもっとも際立きわだった功績こうせきとは、薬物やくぶつ療法りょうほう診断しんだんがくむすびつけたこととえきつまりせんぐすり主体しゅたい薬物やくぶつ療法りょうほうてたことだった[2]

ちなみに現代げんだい中国語ちゅうごくごではチフスのことを傷寒しょうかんという。傷寒しょうかんとはさまざまなせつがあるが、現在げんざい医学いがくでいうチフスインフルエンザマラリア疾患しっかんともいわれるが、詳細しょうさい不明ふめいである。

解釈かいしゃく相違そうい

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傷寒しょうかんろん古典こてんであるためさまざまな解釈かいしゃくがでてくるが、

おも内容ないようから、

  1. 風邪かぜ(ふうじゃ)などのそとかん熱病ねつびょう専門せんもんしょ
  2. 疾病しっぺい一般いっぱんべんしょうろん診断しんだんして治療ちりょうする方法ほうほう)としての総合そうごうしょ

という2つの見解けんかいがある。

序文じょぶんには、「かん往昔おうせき淪喪 きずよこ夭之莫救 乃勤もとめ古訓こくん はくさいしゅかた せんよう とい きゅうかん はちじゅう一難いちなん 陰陽いんようだいろん 胎臚 くすりろく 并 平脈へいみゃくべんしょう ため 傷寒しょうかんざつびょうろん ごうじゅうろくかん」との記載きさいがあり、これらの書物しょもつ成立せいりつにあたって、参考さんこうにされたのであろうとかんがえられている。

(この『傷寒しょうかんろん序文じょぶんの『胎臚』『くすりろく』の部分ぶぶんは『胎臚やくろく』とつなげてひとつのしょ解釈かいしゃくするひともいる[3][4][5][6]

中国ちゅうごく日本にっぽんちが

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ちゅう医学いがく漢方かんぽうちがった発展はってんをとげたものではあるが、中国ちゅうごく日本にっぽんともに傷寒しょうかんろん重要じゅうよう古典こてんとしてあつかわれる(漢方かんぽう医学いがくこう参照さんしょうのこと)。

日本にっぽん現存げんそん最古さいこ医学いがくしょしんかた』をると、経絡けいらく概念がいねんにとらわれず身体しんたい部位ぶいべつ経穴けいけつ記載きさいする、みゃくについての記載きさいけるひとし哲学てつがく排除はいじょ実用じつよう技術ぎじゅつしており、鍼灸しんきゅう独立どくりつしたへんとしてあつかひとし当初とうしょより日本にっぽんする傾向けいこうがみられる。さらに、安土あづち桃山ももやまから江戸えど時代じだいにかけて、口訣くけつはら管鍼くだばりほうなど、独自どくじ進化しんかをとげた。また、日本にっぽんには、ふるかたといわれる学派がくはや、医学いがくにおいて考証こうしょうがくといわれる文献ぶんけん資料しりょうはくさがせ選択せんたくし、客観きゃっかんてき事実じじつもとづいてその真相しんそう真理しんり究明きゅうめいするという学派がくはこり、善本ぜんぽん医籍いせき探索たんさく蒐集しゅうしゅうとそのこうこく事業じぎょうおこなわれた。

傷寒しょうかんろん収載しゅうさいされるかたざいのうち有名ゆうめいなもの

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ しょうよう新版しんぱん 漢方かんぽう歴史れきし――中国ちゅうごく日本にっぽん伝統でんとう医学いがく――』あじあブックス076 大修館書店たいしゅうかんしょてん 2014ねん p.74
  2. ^ 山田やまだけい中国ちゅうごく医学いがく思想しそうてき風土ふうど潮出版社うしおしゅっぱんしゃ、1923ねん、P.43-44ぺーじ 
  3. ^ http://www1.ocn.ne.jp/~seizan/seizan/chouchukei.htm[名無ななしリンク][リンク]
  4. ^ http://shoukanron.blog52.fc2.com/?mode=m&no=71[名無ななしリンク]
  5. ^ http://homepage3.nifty.com/kojindo/unicheck/uni_s_z.htm[名無ななしリンク][リンク]
  6. ^ zh:傷寒しょうかんざつびょうろん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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