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節度せつど使

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

節度せつど使せつどし)は、中国ちゅうごく古代こだい官職かんしょくめいぐん指揮しきする皇帝こうてい使つかい、という意味いみゆうする。とりわけとうだいのものを場合ばあいおおく、律令りつりょう規定きていのないれいそとかんだった。

概要がいよう

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節度せつど使」の名称めいしょうは、とう睿宗けいくも2ねん711ねん)に初出しょしゅつするもので、このしょくけるさいに、朝廷ちょうていから「旌節」(せいせつ、使者ししゃのしるしとして使者ししゃ持参じさんする旗印はたじるしで、からうしのはたにつけたもの)をあたえられ、管轄かんかつする地域ちいき軍政ぐんせい節制せっせいすることができた、という意味いみである。兵制へいせいくずれ、傭兵ようへいえてゆくなかで、睿宗の次代じだいにあたるげんむねひらきもと年間ねんかん(713ねん - 741ねん)についたちかた現在げんざい内モンゴル自治うちもんごるじちオルドス地方ちほう)、隴右(現在げんざい甘粛かんせいしょう南部なんぶ、隴山の西方せいほう地域ちいき)、河東かわとう河西かさい辺境へんきょうの10の鎮にはすべて設置せっちされている。

安史やすしらん以後いごはその対抗たいこうじょう内地ないちにも相次あいついで設置せっちされ、40から50の節度せつど使かれ、おお按察使やすなで使ささえ使収支しゅうし調整ちょうせいをはかる官職かんしょく)などを兼任けんにんし、管轄かんかつの「みち」を支配しはいし、軍事ぐんじ民事みんじ財政ざいせい統轄とうかつし、河北かわきたみち節度せつど使のように独立どくりつ傾向けいこうしめすものもあらわれた。けんむね弾圧だんあつ一時いちじてき弱体じゃくたいしているが、とう衰退すいたい原因げんいんの1つになっている。だいじゅうこく時代じだい諸国しょこく節度せつど使樹立じゅりつしたもので、諸国しょこくはさらにその国内こくない節度せつど使分立ぶんりつし、よりいっそうのせんよこきわめるようになった。ちょうただしたねそう建国けんこく節度せつど使ゆうする権限けんげん回収かいしゅうにつとめ、はん鎮を形成けいせいしていたかれらの仕事しごとを、もとのようにそれぞれのしゅうにもどし、それ以降いこうは、将帥しょうすい大臣だいじん皇族こうぞく功績こうせきのある高官こうかん顕彰けんしょうする役職やくしょくへとかわり、実体じったいうしなっている。りょうきむでもこの官職かんしょく設置せっちされている。もとにおいては完全かんぜん廃止はいしされた。

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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