ニクソン大統領だいとうりょう中国ちゅうごく訪問ほうもん

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北京ぺきん空港くうこう到着とうちゃく直後ちょくご大統領だいとうりょう専用せんようからりてしゅう恩来おんらい国務こくむいん総理そうり握手あくしゅするニクソン大統領だいとうりょう。この模様もようはテレビでぜん世界せかい同時どうじ中継ちゅうけいされた。
ちゅう南海なんかい毛沢東もうたくとう中国共産党ちゅうごくきょうさんとう主席しゅせき握手あくしゅするニクソン大統領だいとうりょう

ニクソン大統領だいとうりょう中国ちゅうごく訪問ほうもん(ニクソンだいとうりょうのちゅうごくほうもん)は、1972ねん2がつ21にちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうリチャード・ニクソン中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくはじめて訪問ほうもんし、毛沢東もうたくとう中国共産党ちゅうごくきょうさんとう主席しゅせきしゅう恩来おんらい国務こくむいん総理そうり会談かいだんして、べいちゅう関係かんけいをそれまでの対立たいりつから和解わかいへと転換てんかんしてだい世界せかい大戦たいせん冷戦れいせん時代じだい転機てんきとなった訪問ほうもんである。また、前年ぜんねん1971ねん7がつ15にちに、それまで極秘ごくひすすめてきたべいちゅう交渉こうしょうあきらかにして、自身じしん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく訪問ほうもんすることを突然とつぜん発表はっぴょうして世界せかいおどろかせたことで、「ニクソン・ショック」とばれている。また、「ニクソンが中国ちゅうごく英語えいごばん」という政治せいじ用語ようごまれた[1]

概説がいせつ[編集へんしゅう]

戦後せんご東西とうざい対立たいりつ[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせん、ヨーロッパは東西とうざい対立たいりつ冷戦れいせんむかえていた。一方いっぽうアジアでも、中国ちゅうごく大陸たいりく朝鮮半島ちょうせんはんとうベトナム対立たいりつした結果けっかそれぞれで分断ぶんだん国家こっか誕生たんじょうした。中国ちゅうごく大陸たいりくではにちちゅう戦争せんそう時期じき中華民国ちゅうかみんこく中国ちゅうごく国民党こくみんとう中国共産党ちゅうごくきょうさんとうとが共同きょうどう戦線せんせんったが、日本にっぽん敗戦はいせん日本にっぽんぐんったのち国共こっきょう内戦ないせんはじまり、やがて中国共産党ちゅうごくきょうさんとう勝利しょうりして、台湾たいわんとうのがれた中華民国ちゅうかみんこくと、中華民国ちゅうかみんこくからかれ、中国共産党ちゅうごくきょうさんとういちとう独裁どくさい国家こっかとして1949ねん10月1にち北京ぺきん首都しゅと成立せいりつした中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくと2つのくに存在そんざいすることになる。

中華民国ちゅうかみんこくアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく筆頭ひっとうとする自由じゆう主義しゅぎ陣営じんえいぞくし、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくソビエト連邦れんぽう筆頭ひっとうにした共産きょうさん主義しゅぎ陣営じんえいぞくして、おおくのくに中華民国ちゅうかみんこく承認しょうにんするが中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく承認しょうにんしない状態じょうたいつづき、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくをはじめとする西側にしがわ諸国しょこく冷戦れいせん背景はいけい対峙たいじする関係かんけいにあった。とく1950ねん6月25にち勃発ぼっぱつした朝鮮ちょうせん戦争せんそうでは、中国ちゅうごく人民じんみん志願しがんぐんこう援朝義勇軍ぎゆうぐん)をアメリカぐん大韓民国だいかんみんこく国軍こくぐん主体しゅたいとした国連こくれんぐん相手あいて派遣はけんした戦争せんそう相手あいてこくであった。べいちゅう双方そうほう戦場せんじょうにおいてたたかい、たがいにおおくの死傷ししょうしゃし、そのために和解わかいできない敵対てきたい関係かんけいになった[2]

ちゅう対立たいりつ[編集へんしゅう]

中国ちゅうごくソ連それんおな共産きょうさん主義しゅぎ目指めざ国家こっかで、ソ連それん共産きょうさん主義しゅぎ陣営じんえい盟主めいしゅであり、後発こうはつ中国ちゅうごく大戦たいせんおおきな犠牲ぎせいはらいながらいたてん共通きょうつうしていた。しかし、当初とうしょ段階だんかいにおいても関係かんけいかならずしも円満えんまんれるものではなかった。ただ、ヨシフ・スターリンソ連それん指導しどうしゃだった時代じだい両国りょうこくは、強固きょうこ同盟どうめい関係かんけいちゅう友好ゆうこう同盟どうめい相互そうご援助えんじょ条約じょうやくを1950ねん締結ていけつ)と西側にしがわからられ、日米にちべい安保あんぽ体制たいせいちゅう同盟どうめい前提ぜんていとしてっていた。しかし1953ねんのスターリンの死後しご指導しどうしゃとなったニキータ・フルシチョフ1956ねんスターリン批判ひはんをおこない、中国ちゅうごくがわ不快ふかいかんいだく。さらに平和へいわ共存きょうぞん外交がいこう展開てんかいした時期じきからちゅうあいだ外交がいこう共産きょうさん主義しゅぎ運動うんどう方針ほうしんをめぐって不協和音ふきょうわおんしょうじ、やがて1960年代ねんだいはいってから、それまでがりなりにも友好ゆうこう関係かんけい維持いじしてきたちゅうあいだ深刻しんこく衝突しょうとつこり、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくはソビエト連邦れんぽうとはたもとかち、独自どくじ路線ろせんあゆんでいった。

1960年代ねんだいには中国ちゅうごくやフランスが独自どくじ外交がいこう展開てんかいしたことで、国際こくさい関係かんけい単純たんじゅん東西とうざい対立たいりつとはことなる状況じょうきょうすすんだ。この時期じきにはアメリカはベトナム戦争せんそうかかえ、1960年代ねんだい後半こうはんにはソ連それんの「衛星えいせいこく」だったチェコスロバキア自由じゆうもとめるプラハのはるき、両国りょうこく覇権はけんおびやかされた。一方いっぽう中国ちゅうごくでは1966ねんからはじまった文化ぶんかだい革命かくめい国内こくない混乱こんらんし、中国ちゅうごく外交がいこう硬直こうちょくした状態じょうたいつづいていた[注釈ちゅうしゃく 1]。そんななか1969ねん3がつちゅう国境こっきょう付近ふきんのウスリーかわ中州なかすにある珍宝ちんぽうとう(ダマンスキーとう)で国境こっきょうせんをめぐる武力ぶりょく紛争ふんそうこり、ちゅう対立たいりつがやがて戦争せんそう状態じょうたい突入とつにゅうすることが懸念けねんされるほど緊張きんちょうした状況じょうきょうまれた。このときには中国ちゅうごくはアメリカを帝国ていこく主義しゅぎとして批判ひはんし、ソ連それん修正しゅうせい主義しゅぎとして批判ひはんしていたが、前年ぜんねんのチェコの自由じゆううごきをソ連それん戦車せんしゃ圧倒あっとうしてから主要しゅようてきソ連それんかんがえるようになった[3]

米国べいこくたいちゅう政策せいさく見直みなお[編集へんしゅう]

1965ねんからのアメリカのベトナムへの軍事ぐんじ介入かいにゅうは、それまでのたいちゅうふう政策せいさく帰結きけつでもあったが、やがて泥沼どろぬまして収束しゅうそく見通みとおしが困難こんなんになるとたいちゅう政策せいさく根本こんぽんてきさい検討けんとうせまられることになった。1966ねん上下じょうげ両院りょういん外交がいこう委員いいんかい中国ちゅうごく問題もんだいかんする公聴こうちょうかいひらかれてH・J・モーゲンソーやA・D・バーネットらの国際こくさい政治せいじ学者がくしゃ中国ちゅうごく問題もんだい専門せんもんから中国ちゅうごく政策せいさく転換てんかん必要ひつようせい指摘してきされた[4]

ニクソンが大統領だいとうりょう選挙せんきょ当選とうせんするまえとし1967ねん[注釈ちゅうしゃく 2]、「フォーリン・アフェアーズ」に「中国ちゅうごくのような巨大きょだい領土りょうど人口じんこうくに国際こくさい社会しゃかい孤立こりつさせておくことはできない」とべて、それまで反共はんきょう闘士とうし有名ゆうめいだっただけにおおきなおどろきをもってめられている[注釈ちゅうしゃく 3]

べいちゅう接近せっきん[編集へんしゅう]

毛沢東もうたくとうへのよん元帥げんすい報告ほうこく[編集へんしゅう]

ニクソンが大統領だいとうりょう就任しゅうにんした1969ねんちゅうソの緊張きんちょう状態じょうたいなつからあきにかけてもっと戦争せんそう危険きけんせいはらんでいた[注釈ちゅうしゃく 4]中国ちゅうごく毛沢東もうたくとう慎重しんちょう情勢じょうせい見極みきわめるなかで、当時とうじ人民じんみん解放かいほうぐん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく元帥げんすいの10にんのうち、文革ぶんかく一時いちじ失脚しっきゃくして地方ちほうおくられたちんあつし聶栄臻じょこうまえつるぎえいの「よん元帥げんすい[注釈ちゅうしゃく 5]中国ちゅうごく今後こんご戦略せんりゃくてき課題かだい分析ぶんせきおこなうよう指示しじした[6][注釈ちゅうしゃく 6]。しばらくしてまとめられた報告ほうこくしょではソ連それんがすぐにめてこない理由りゆうとして国内こくないでの支持しじよわさ、兵站へいたん問題もんだいわせて米国べいこく姿勢しせいへの疑念ぎねんげて、「とうとらたたか様子ようす山頂さんちょうすわってながめている」という中国ちゅうごくのことわざを使つかった。このときはまだ大胆だいたん政策せいさく転換てんかんをめざしたものではなかった。しかしこの当時とうじ毛沢東もうたくとうかれ医師いしとの会話かいわなかで「我々われわれ祖先そせん近隣きんりん諸国しょこくたたかさいには遠方えんぽう国々くにぐに交渉こうしょうすることをすすめなかったか」[8]かたっていた。1969ねん5がつ毛沢東もうたくとうふたたちんあつしつるぎえいら「よん元帥げんすい」にさらなる検討けんとう指示しじしたところ、6がつから7がつまで6かい座談ざだんかいで「戦争せんそう情勢じょうせいについての初歩しょほてき評価ひょうか」をしゅう恩来おんらい提出ていしゅつし、以後いご7がつまつから9がつ中旬ちゅうじゅんまでの10かい座談ざだんかいで「当面とうめん情勢じょうせいについての見方みかた」の報告ほうこく提出ていしゅつした[3]。このなかで「よん元帥げんすい」の議論ぎろんは「中国ちゅうごくソ連それん攻撃こうげきけた場合ばあい米国べいこくカードを使用しようすべきかか」というてん議論ぎろん集約しゅうやくされ、ちんあつしだい2大戦たいせん直前ちょくぜんヒトラーとスターリンのれいを、つるぎえいくれしょくさんこく時代じだいしょかずらあきられいして、毛沢東もうたくとう同盟どうめい関係かんけい逆転ぎゃくてんにつながる戦略せんりゃくてきひらめきをるために先人せんじんたちを調しらべるようにすすめた[9]。しかも「ソ連それん修正しゅうせい主義しゅぎしゃ中国ちゅうごくへの侵略しんりゃく戦争せんそう開始かいしするかどうかは、べい帝国ていこく主義しゅぎしゃ姿勢しせいにかかっている」[10]として、中国ちゅうごく米国べいこくソ連それんさん大国たいこく相互そうご関係かんけい分析ぶんせきして、ちゅうソの矛盾むじゅんべいちゅう矛盾むじゅんよりおおきい、べいソの矛盾むじゅんちゅうソの矛盾むじゅんよりもおおきい、すぐにはんちゅう戦争せんそうこる可能かのうせいすくない、しかしべいちゅうソ連それん牽制けんせいすること[11]肝要かんよう米国べいこくとの大使たいしきゅう会談かいだん再開さいかい進言しんげんして、ちんあつしはまた補足ほそく大使たいしきゅう会談かいだん閣僚かくりょうきゅう会談かいだんげるべきで、そのために台湾たいわん返還へんかん問題もんだいなどは前提ぜんてい条件じょうけんにすべきではないとまでれていた。

米国べいこくにとって、もしちゅうソがたたかった場合ばあいソ連それんって米国べいこく以上いじょうだい帝国ていこくになることが一番いちばんのぞましくないことであり、傍観ぼうかんしゃ立場たちば限定げんていすることはなく、しからば中国ちゅうごく米国べいこく接触せっしょくすることが中国ちゅうごく防衛ぼうえいには必要ひつようなことであるということであった[12]。これは毛沢東もうたくとうがそのときかんがえていたことではあったが、文革ぶんかくいきおいがつよかった1969ねん当時とうじでは毛沢東もうたくとうでさえ党内とうない強硬きょうこう配慮はいりょせざるをなかった[13]

アメリカの戦略せんりゃく見直みなお[編集へんしゅう]

一方いっぽう、ベトナム戦争せんそう泥沼どろぬまはままりみ、国内こくないからつよ批判ひはんびて、再選さいせん出馬しゅつば断念だんねんした民主党みんしゅとうジョンソン大統領だいとうりょうつぎに、1968ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう選挙せんきょ当選とうせんして大統領だいとうりょう就任しゅうにんした共和党きょうわとうのニクソン大統領だいとうりょうは、アメリカぐんのベトナム戦争せんそうからの名誉めいよある撤退てったい選挙せんきょ公約こうやくしながらもそのきたベトナムとの対話たいわすすまず、兵力へいりょく漸次ぜんじ縮小しゅくしょうはしていたがカンボジアやラオスに侵攻しんこうするなど、インドシナでの戦争せんそうぎゃく拡大かくだいさせ、また国連こくれん総会そうかい中華民国ちゅうかみんこく議席ぎせきまも方針ほうしん朝鮮ちょうせん戦争せんそうずっとつづけてきたが、1970ねんあき国連こくれん総会そうかい中華民国ちゅうかみんこく政府せいふ国連こくれんから「追放ついほうする」(代表だいひょうけん剥奪はくだつする)問題もんだい重要じゅうよう事項じこう指定していする決議けつぎあん否決ひけつされ、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく加盟かめいみとめるアルバニア決議けつぎあん多数たすうとなり、アメリカ外交がいこう以後いご戦略せんりゃく見直みなおしを模索もさくしていた。

ニクソンはたんにベトナム戦争せんそうからの撤退てったいだけをかんがえていたわけではない。ただ撤退てったいするだけでは戦後せんごずきあげた世界せかい最強さいきょう国家こっかとしてのアメリカの威信いしん自由じゆう世界せかい守護神しゅごじんとしての重要じゅうよう位置いちうしなうだけであった。「戦争せんそうわらせると同時どうじ戦後せんご国際こくさい秩序ちつじょひとひと構築こうちくしていくうえでアメリカが力強ちからづよ役割やくわりたす」ことが重要じゅうようであり、こうしたかんがかたなかでアメリカにとって中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくは「重要じゅうよう役割やくわりたすパートナー」として、長期ちょうきてき平和へいわ見取みと提示ていじできるとかんがえていた[14]ちゅうソが緊張きんちょう関係かんけいにあった1969ねん8がつ国家こっか安全あんぜん保障ほしょう会議かいぎでニクソンは「もし中国ちゅうごくちゅう戦争せんそう粉砕ふんさいされればアメリカの国益こくえきはんする」[15]という主張しゅちょうをしており、ほぼどう時期じきべいちゅう最高さいこう首脳しゅのうはまったくおな方向ほうこう外交がいこう政策せいさく見直みなおしをおこなっていた。

ワルシャワでのべいちゅう接触せっしょく[編集へんしゅう]

端緒たんしょはワルシャワでの大使たいしきゅう会談かいだんであった。じつ中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく誕生たんじょうしてからべいちゅうは20年間ねんかんワルシャワで細々こまごま大使たいしきゅう会談かいだんおこなっていた。これらの会談かいだんなん中断ちゅうだんすることがあったものの、それでも当時とうじべいちゅうあいだのチャンネルとしては唯一ゆいいつのものであった。文革ぶんかく、1967ねん3がつから中断ちゅうだんしていたべいちゅう大使たいしきゅう会談かいだんが1970ねん1がつ20日はつかにようやく再開さいかいして若干じゃっかん進展しんてんせた。それは「両国りょうこく緊張きんちょう緩和かんわして抜本ばっぽんてき関係かんけい改善かいぜんするためにのチャンネルをつうじた会談かいだん検討けんとうする用意よういがある」と中国ちゅうごくがわあきらかにしたことであった。このシグナルは現場げんばでのアメリカがわ交渉こうしょう担当たんとうしゃにはめなかった。そして2がつ20日はつかの「だい136かい会談かいだん」ののちに5がつ20日はつかおこな予定よてい直前ちょくぜんでのアメリカのカンボジア侵攻しんこうでキャンセルされて失敗しっぱいわったと外交がいこう関係かんけいしゃていた[注釈ちゅうしゃく 7][注釈ちゅうしゃく 8]。この時期じきは3がつにカンボジアでノロドム・シアヌーク元首げんしゅ追放ついほうされて、アメリカの援助えんじょけてロン・ノル政権せいけん実権じっけんにぎり、その5がつみなみベトナムからカンボジアに侵攻しんこうしてホーチミン・ルートを攻撃こうげきして中国ちゅうごくとの対話たいわ凍結とうけつされた状態じょうたいになった。

パキスタン経由けいゆしゅう恩来おんらい書簡しょかん[編集へんしゅう]

これよりまえの1969ねん7がつから8がつにかけてニクソン大統領だいとうりょうがアジア・ヨーロッパのくに訪問ほうもんしたとき[注釈ちゅうしゃく 9]パキスタンヤヒヤー・ハーン英語えいごばん大統領だいとうりょうルーマニアニコラエ・チャウシェスク大統領だいとうりょう自分じぶん中国ちゅうごく指導しどうしゃとの交流こうりゅうもとめているむね伝言でんごん依頼いらいしていたが、その1970ねん12月8にちになってパキスタン大使たいしがホワイトハウスにしゅう恩来おんらいからの書簡しょかんってきた。内容ないようはパキスタンをつうじてのメッセージをったむねあきらかにして特使とくし派遣はけん留意りゅういするというものであった。このなかには、首脳しゅのうから首脳しゅのうつうじて首脳しゅのうてた最初さいしょのメッセージなので回答かいとうしたこと、このけんについては毛沢東もうたくとうはやしぴょう承認しょうにんていること、台湾たいわん退きについてはなうため特使とくし北京ぺきん招待しょうたいすることがかれてあった。そしてルーマニアからも1かげつおなじメッセージがとどいた。しゅう恩来おんらいがパキスタン経由けいゆ万一まんいち場合ばあい想定そうていしてルーマニア経由けいゆ使つかったとキッシンジャーは理解りかいした。しかもルーマニア経由けいゆ文章ぶんしょうにはニクソン大統領だいとうりょう招待しょうたいする内容ないようがあったが、アメリカはルーマニア経由けいゆ特使とくし派遣はけん承諾しょうだくするむね(大統領だいとうりょう訪問ほうもんれず)の返事へんじおくった。キッシンジャーはこのときしゅう恩来おんらいからのメッセージに台湾たいわん問題もんだいはあったがベトナム戦争せんそうれていないことに注目ちゅうもくしていた[18]

1970ねん8がつ23にち~9がつ6にちにかけてひらかれた中国共産党ちゅうごくきょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかい総会そうかい(だいきゅうちゅう全会ぜんかい)で毛沢東もうたくとう支持しじしゅう恩来おんらいはやしぴょうおさえてたいべい接近せっきん路線ろせんちとっていた[注釈ちゅうしゃく 10][注釈ちゅうしゃく 11]。こののち積極せっきょくてきなサインを米国べいこくおくはじめる。毛沢東もうたくとうは10月のくにけいぶしにエドガー・スノーを招待しょうたいして12月に「ライフ」に「ニクソンの訪中ほうちゅう歓迎かんげいする」という毛沢東もうたくとうのインタビュー記事きじ掲載けいさいされ、しゅう恩来おんらい首相しゅしょうはまた10がつにパキスタンのヤヒア・カーン大統領だいとうりょう、11月にルーマニアのふく首相しゅしょうっており、すくなくともべいちゅうあいだでの意思いし疎通そつうはかられていたことになる。しかし年明としあけになるとしばらく中国ちゅうごくがわうごきがまった。

1971ねん2がつにアメリカは外交がいこう教書きょうしょはじめて「中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく」の国名こくめい使用しようして、さらに3がつ貿易ぼうえきおよ人的じんてき交流こうりゅう制限せいげん緩和かんわするなど関係かんけい改善かいぜん目指めざした行動こうどうをとった[注釈ちゅうしゃく 12]。ただこのあいだ中国ちゅうごくからの反応はんのうかった。これはちょうどこのときにアメリカは前年ぜんねんのカンボジア侵攻しんこうつづいてラオスにも侵攻しんこう作戦さくせん展開てんかいした時期じきであった。両国りょうこくとも最高さいこう首脳しゅのうのごく一部いちぶしからない極秘ごくひでのうごきであっただけに、どちらも慎重しんちょううごきが必要ひつようで、かつ国内こくないでのうごきに敏感びんかんであった。

ピンポン外交がいこう[編集へんしゅう]

そして3がつはいってから、翌月よくげつ日本にっぽん名古屋なごや開催かいさいされる世界せかい卓球たっきゅう選手権せんしゅけん大会たいかい中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくから選手せんしゅ派遣はけんするかどうか中国ちゅうごく国内こくない論議ろんぎされていたが、しゅう恩来おんらい参加さんかすることで結論けつろんして、文化ぶんかだい革命かくめいはじまって以来いらいひさしぶりに中国ちゅうごく選手せんしゅだん大会たいかい出場しゅつじょうした。そのときにアメリカの卓球たっきゅう選手せんしゅだんみずか中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく訪問ほうもんしたいと提案ていあんがあり、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく代表だいひょうだん本国ほんごく連絡れんらくして結論けつろんつこととなった。これにたいして外交がいこう消極しょうきょくてき姿勢しせいことわ方向ほうこう検討けんとうしていたが、毛沢東もうたくとう最終さいしゅうてきれる結論けつろんして、アメリカの卓球たっきゅう選手せんしゅだん大会たいかい中国ちゅうごくがわ招待しょうたいするといういわゆる「ピンポン外交がいこう」が展開てんかいされた。これがアメリカがわのメッセージにたいする回答かいとうであった[21]。そして4がつ21にちけの正式せいしき親書しんしょがパキスタン経由けいゆでホワイトハウスにとどき、しゅう恩来おんらいから特使とくしれについて了解りょうかいするむね表明ひょうめいであった。その特使とくしについてはキッシンジャー補佐ほさかんかロジャーズ国務こくむ長官ちょうかん、あるいは大統領だいとうりょう本人ほんにんをという内容ないようで、関係かんけい回復かいふく条件じょうけんとして台湾たいわんからのべいぐん撤退てったいのみ言及げんきゅうして台湾たいわん復帰ふっきには言及げんきゅうしていなかった[22]

ニクソンが招待しょうたい受諾じゅだく[編集へんしゅう]

このころには、アメリカ政府せいふないでも周知しゅうち事実じじつになりつつあり、キッシンジャーは機密きみつ保持ほじ苦心くしんするようになった。ワルシャワでの会談かいだん再開さいかいされて秘密裏ひみつり交渉こうしょうかさねられるごとに、毛沢東もうたくとうしゅう恩来おんらいとう極左きょくさ(おや)、反米はんべい説得せっとくしなければならず、ニクソンとキッシンジャーはおやしん台湾たいわん右派うは反対はんたい配慮はいりょしなければならなかった[23]。そんななかで5がつ10日とおかしゅう恩来おんらいてにニクソン招待しょうたい受諾じゅだくすることと、そのまえ準備じゅんびのため特使とくし(キッシンジャー補佐ほさかん)を極秘ごくひ派遣はけんすることをつたえた。一方いっぽうしゅう恩来おんらい毛沢東もうたくとう連携れんけいして5がつ26にちとう政治せいじきょく会議かいぎひらき、政治せいじきょくのために「中米ちゅうべい会談かいだんかんする報告ほうこく」を起草きそうし、29にち採択さいたくされて毛沢東もうたくとうはやしぴょう報告ほうこくして裁可さいかけた[24]。その5がつ29にち親書しんしょ再度さいどおくり「毛沢東もうたくとう代表だいひょうして正式せいしきにニクソン訪中ほうちゅう招請しょうせいしてキッシンジャーが秘密裏ひみつり中国ちゅうごく訪問ほうもんして必要ひつよう各種かくしゅ準備じゅんび作業さぎょうおこなうことを歓迎かんげいする[25]むね返事へんじが6がつ2にちとどいた。キッシンジャーはこのときはやしぴょう名前なまえがこの連絡れんらくからくなっていたことをほとん注意ちゅういはらわなかった[26]。1971ねん6がつ3にち公式こうしき行事ぎょうじ(ルーマニア代表だいひょうだんとのせっぐう)以降いこうはやしぴょう姿すがたえなくなった[27]

ニクソンとキッシンジャー[編集へんしゅう]

わずか1ねんらずのあいだべいちゅう外交がいこう和解わかい不可能ふかのう紛争ふんそうから大統領だいとうりょう訪問ほうもん準備じゅんびのために大統領だいとうりょう特使とくし北京ぺきん訪問ほうもんするまでに進展しんてんした[26]。しかしガラス張がらすばりにすると、特使とくし派遣はけんべい政府せいふないでの複雑ふくざつ決裁けっさい手続てつづきが必要ひつようで、また利害りがいから他国たこくからの協議きょうぎ要請ようせいまねき、そのことで中国ちゅうごくとの関係かんけい改善かいぜん展望てんぼう台無だいなしにしてしまうおそれがあった。これは政権せいけん内部ないぶたいしてもおなじでニクソン政権せいけんでは、ロジャーズ国務こくむ長官ちょうかんでさえキッシンジャー極秘ごくひ訪中ほうちゅうらされておらず、国務省こくむしょうまった蚊帳かやそとであった。ニクソン大統領だいとうりょうはアイゼンハウアー政権せいけんふく大統領だいとうりょうとして8年間ねんかん外交がいこう経験けいけんみ(ふく大統領だいとうりょう時代じだいほうソしたときにフルシチョフとの台所だいどころ論争ろんそう有名ゆうめいである)[注釈ちゅうしゃく 13]、かつ反共はんきょう主義しゅぎしゃ立場たちばでありながら意外いがい柔軟じゅうなん現実げんじつてき外交がいこう感覚かんかくっていた。そのニクソンが政権せいけんにつくと同時どうじ外交がいこう問題もんだいのエキスパートとしてえらんだのが、共和党きょうわとうない政敵せいてきであったロックフェラー[注釈ちゅうしゃく 14]外交がいこう顧問こもんをしていた当時とうじハーバード大学だいがく教授きょうじゅのキッシンジャーで、これは意外いがい人事じんじわれた。キッシンジャーはいわゆるちから均衡きんこうろんしゃで、イデオロギーてき外交がいこうきら冷徹れいてつなまで国家こっかあいだちから均衡きんこうたもつことに腐心ふしんし、また国務省こくむしょうなどのせんもん外交がいこうかんきらい、徹底てっていした秘密ひみつ保持ほじ個人こじんてきなルートをおもんじるタイプであった。だつイデオロギーてき地政学ちせいがく、バランスオブパワーというかんがかた当時とうじ国民こくみん外交がいこうかんもなじみがなく、アメリカ外交がいこう主流しゅりゅうめるかんがかたではなかった。ニクソンもキッシジャーもグローバルなちから関係かんけい全体ぜんたいぞう把握はあくする能力のうりょくにはすぐれていた[29]

キッシンジャーは中国ちゅうごく姿勢しせいについて専門せんもん間違まちがっていること、とく中国ちゅうごくソ連それん脅威きょうい最大さいだい関心事かんしんじとしていること、中国ちゅうごく米国べいこくにアジアにとどまってもらいたいと必死ひっしのぞんでいたことをかれらは見抜みぬけなかったと指摘してきして[30]、ベトナム戦争せんそう処理しょりわせてアメリカのちから誇示こじして国際こくさい外交がいこうでアメリカの主導しゅどうけん確保かくほするための政策せいさくとして、べいちゅうさんきょく構造こうぞう視野しやべいちゅう関係かんけい正常せいじょううごくことは、ニクソンにとってもキッシジャーにとっても至極しごく当然とうぜんのことであった。

キッシンジャーの極秘ごくひ訪中ほうちゅう[編集へんしゅう]

訪中ほうちゅうまった秘密裏ひみつりおこな必要ひつようがあった。そのために今回こんかい各国かっこく訪問ほうもんはサイゴン、バンコク、ニューデリー、そしてパキスタンのラウルピンディを経由けいゆするルート(そのはパリでのきたベトナムとの会談かいだん予定よていされていた)で、「退屈たいくつ無味むみ乾燥かんそうで、メディアがうごきを追跡ついせきすることをあきらめるように仕組しくまれた訪問ほうもん」であった。そしてラウルピンディで≪突然とつぜん病気びょうきになって48あいだ治療ちりょう専念せんねんするため休息きゅうそくする≫こととなった。どこへったか。さきっていたのはニクソンとアレクサンダー・ヘイグ[注釈ちゅうしゃく 15]ふく補佐ほさかんだけであった[31]

1971ねん7がつ9にちひそかにヘンリー・キッシンジャー大統領だいとうりょう補佐ほさかんがパキスタン経由けいゆ北京ぺきん訪問ほうもんした。ってきた飛行機ひこうきはパキスタン大統領だいとうりょう専用せんようで、アメリカがわからキッシンジャーをふくめて5にん中核ちゅうかくグループとべい当局とうきょくしゃ一団いちだんり、しかもこの飛行機ひこうきには出発しゅっぱつしたイスラマバードから英語えいごはな中国ちゅうごく外交がいこうかんが5にんってきた。そのなかには毛沢東もうたくとう兄弟きょうだい孫娘まごむすめになるおう海容かいよう、アメリカ・ブルックリンまれの有能ゆうのう通訳つうやくから聞生がふくまれていた。北京ぺきん空港くうこう出迎でむかえたのはつるぎえい軍事ぐんじ委員いいんかいふく主席しゅせきで1969ねん毛沢東もうたくとう指示しじ中国ちゅうごくのその戦略せんりゃくてき課題かだい分析ぶんせきおこない、米国べいこくとの対話たいわ推進すいしんうったえた「よん元帥げんすい」の1人ひとりであった[32]

そしてしゅう恩来おんらい首相しゅしょうと、そのの1630ふんから2320ぶんの7あいだ翌日よくじつ正午しょうごから1830ふんまでの6あいだにわたって会談かいだんおこなった。冒頭ぼうとうしゅう恩来おんらいいちぎょう歓迎かんげいあらわまえに「本日ほんじつ午後ごごには、特別とくべつニュースがあります。あなたが行方ゆくえ不明ふめいになりました。」とキッシンジャーにかたっている[33]。キッシンジャーがこころがけたのは十分じゅうぶん信頼しんらい関係かんけいきずくことであった。それはまたしゅう恩来おんらいおなじであった。じつ両者りょうしゃともこの秘密ひみつ会談かいだんおこなうことで一定いっていのリスクをっていることに留意りゅういしていた。かりにまとまらず不十分ふじゅうぶんなものでわれば、両者りょうしゃとも政治せいじてきくるしい立場たちばたされるということであった。すぐに両国りょうこく友好ゆうこう関係かんけいとまではいかなくても戦略せんりゃくてき協力きょうりょく関係かんけいむすぶところまでっていくことが目標もくひょうであった。のちに10がつの2かい訪中ほうちゅうとき両者りょうしゃ会談かいだんしたさい言葉ことば相互そうご信頼しんらい相互そうご尊重そんちょうであった[34]。この最初さいしょ長時間ちょうじかん会談かいだん2人ふたり相互そうご感銘かんめい個人こじんてき信頼しんらいきずいた[35]。この会談かいだん出席しゅっせきしゃ米国べいこくがわがキッシンジャー、ジョン・ホルドリッジ、ウインストン・ロード、リチャード・スマイザー。キッシンジャー以外いがいはいずれも国家こっか安全あんぜん保障ほしょう会議かいぎスタッフであった。中国ちゅうごくがわしゅう恩来おんらいつるぎえいはな(ちゅうカナダ大使たいし)、あきらぶんすすむ(外交がいこう西欧せいおう米州べいしゅう局長きょくちょうかれ往路おうろ飛行機ひこうき同乗どうじょうしゃ)、くまむかいあきら(総理そうり秘書官ひしょかん)、おう海容かいよう(儀典ぎてんきょくふく局長きょくちょう彼女かのじょ同乗どうじょうしゃ)、通訳つうやくから聞生(彼女かのじょ同乗どうじょうしゃ)とつばさあさ[36]しゅう恩来おんらいとの会談かいだんでは、台湾たいわん、インドシナ、日本にっぽん北朝鮮きたちょうせんソ連それんみなみアジア、大統領だいとうりょう訪問ほうもんべいちゅう今後こんご連絡れんらく方法ほうほうなどでんだはないをおこない、のちつるぎえいとで今後こんご連絡れんらく方法ほうほうについて簡単かんたんはないがもたれた[37]最大さいだい問題もんだい台湾たいわんとインドシナであった。

懸案けんあんであった台湾たいわん問題もんだいについて、すぐに解決かいけつすべき問題もんだいとしてではなく、べいぐん台湾たいわんからの撤退てったいはインドシナでの戦争せんそう解決かいけつしたらという条件じょうけんきにすること、また中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく唯一ゆいいつ合法ごうほう政府せいふであることについては、当時とうじ米国べいこく国内こくない事情じじょうかんがみながら「1つの中国ちゅうごく」という概念がいねん段階だんかいてきれて中国ちゅうごくがその実行じっこう時期じきについて柔軟じゅうなん姿勢しせいしめすという過程かていはじめることで合意ごういした[38]。キッシジャーはたくみに台湾たいわんとインドシナの問題もんだいをリンクさせてしゅう恩来おんらい一定いってい理解りかいしめしたことになる。日本にっぽんみなみアジアについて率直そっちょく意見いけん交換こうかんがあり、しゅう恩来おんらい佐藤さとう首相しゅしょうたいするきびしい意見いけんて、また日米にちべい安保あんぽ条約じょうやくについてキッシンジャーから日本にっぽん軍事ぐんじりょくおさえるためにあるという意見いけんされている[注釈ちゅうしゃく 16]

2にち最後さいご両国りょうこく発表はっぴょうする文書ぶんしょ草案そうあんづくりについての検討けんとうはいって、時間じかんくなったので、22以降いこう宿舎しゅくしゃ協議きょうぎはいったがよるには完成かんせいできず、翌日よくじつ午後ごごぎりぎりで毛沢東もうたくとう最終さいしゅう承認しょうにん完成かんせいさせた。その理由りゆうはどちらも相手あいてがわ招待しょうたい熱心ねっしんであったようにせたかったことで文面ぶんめんまらなかったという[39]結局けっきょくどちらが主導しゅどうしたかという問題もんだいけてニクソンに訪中ほうちゅう希望きぼうがあるという情報じょうほうしゅう恩来おんらい招請しょうせいするという文章ぶんしょうにすることで決着けっちゃくした[40]。「我々われわれ発表はっぴょう世界せかいるがすだろう」としゅう恩来おんらいはキッシンジャーにかたった[41]。この会談かいだんでキッシンジャーはしゅう恩来おんらいについて強烈きょうれつ印象いんしょうった。かれのち回想かいそうろくで「およそ60年間ねんかんにわたる公人こうじんとしての生活せいかつなかで、わたししゅう恩来おんらいよりもひとしんをつかんではなさない人物じんぶつったことはない」とかたっている[42]

電撃でんげき発表はっぴょう[編集へんしゅう]

そしてパリでのきたベトナムとの会談かいだんて7がつ13にちにキッシンジャーは帰国きこくし、すぐに当時とうじカリフォルニアしゅうのサンクレメンテにあった「西にしのホワイトハウス」でニクソン大統領だいとうりょう説明せつめい、7がつ15にち21から全米ぜんべいのテレビで大統領だいとうりょうは、7がつ9にちから極秘ごくひにキッシンジャー補佐ほさかん中国ちゅうごく派遣はけんしてしゅう恩来おんらい首相しゅしょう会談かいだんし、両国りょうこく関係かんけい正常せいじょう模索もさくし、かつ双方そうほうがともに関心かんしんせる問題もんだいについて意見いけん交換こうかんするために、大統領だいとうりょう自身じしん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく翌年よくねん5がつまでに訪問ほうもんすると発表はっぴょうし、この電撃でんげきてき発表はっぴょう世界せかいをあっとおどろかせた。これが直後ちょくごからニクソンショック[注釈ちゅうしゃく 17]われて戦後せんご外交がいこうのこることとなった。その、10月に再度さいどキッシンジャーが北京ぺきん訪問ほうもんしてしゅう恩来おんらい会談かいだんして共同きょうどうコミュニケの草案そうあん作成さくせいはいり、よく1972ねん1がつにヘイグふく補佐ほさかんらが衛星えいせい放送ほうそう中継ちゅうけいわせをふくめて事前じぜん最後さいご調整ちょうせいおこなった。

日本にっぽんへの連絡れんらく[編集へんしゅう]

当時とうじ西側にしがわでもっとも衝撃しょうげきけたのは日本にっぽんであった。この時点じてんでイギリス・フランス・イタリア・カナダはすでに中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく承認しょうにんしており、西独せいどく日本にっぽん承認しょうにんとく日本にっぽん中華民国ちゅうかみんこくとの関係かんけいふかく、まさに寝耳ねみみみずであった。しかもニクソンはべつ理由りゆうから日本にっぽんへの事前じぜん連絡れんらくをしなかった。当時とうじニクソン大統領だいとうりょう日米にちべい繊維せんい問題もんだいまったうごかない佐藤さとう首相しゅしょうおこっていたとわれていて、国務省こくむしょうは1にちまえぜん駐日ちゅうにち大使たいしだったウラル・アレクシス・ジョンソン国務こくむ次官じかん[注釈ちゅうしゃく 18]日本にっぽん派遣はけんしようとしたがニクソンは反対はんたいして、ジョンソン次官じかん急遽きゅうきょワシントンに駐在ちゅうざいしている駐米ちゅうべい大使たいしうしじょう信彦のぶひこ声明せいめい発表はっぴょうのわずか3ふんまえ[注釈ちゅうしゃく 19]電話でんわ連絡れんらくつたえた[44]。そのときうしじょう大使たいしは「≪あさうみ悪夢あくむ≫が現実げんじつになった」としてうなったという[45][注釈ちゅうしゃく 20]

あさうみひろし一郎いちろうもと駐米ちゅうべい大使たいし[注釈ちゅうしゃく 21]がかつて「日本にっぽんにとっての悪夢あくむは、らぬあいだ日本にっぽんあたましにべいちゅうにぎ状態じょうたいおとずれることだ。」とかたっていて、いつかべいちゅう接近せっきんがあるのではという観測かんそくはこの当時とうじあったが、まさか本当ほんとうにあるあさきたらこめちゅうにぎっていたことに愕然がくぜんとした。ウラル・アレクシス・ジョンソン国務こくむ次官じかんのち日米にちべい両国りょうこく信頼しんらい関係かんけい国益こくえきそこなったとキッシンジャーを批判ひはんしている。

その日米にちべい繊維せんい交渉こうしょう妥結だけつしての1972ねん1がつ訪米ほうべいした佐藤さとう首相しゅしょうとの会談かいだんで、ニクソンは「べいちゅう関係かんけい通常つうじょう意味いみでの国交こっこう正常せいじょうではなく、接触せっしょく結果けっかてくるのは、べいちゅうのコミュニケーションのチャンネルであり、雪解ゆきどけである」とべている[46]結局けっきょく佐藤さとう首相しゅしょうにちちゅう関係かんけい打開だかいにはうごけず、後継こうけい田中たなか角栄かくえい首相しゅしょうがニクソン訪中ほうちゅうから7かげつの1972ねん9がつ北京ぺきん訪問ほうもんしてにちちゅう国交こっこう正常せいじょうたすこととなる。

ニクソン大統領だいとうりょう訪中ほうちゅう[編集へんしゅう]

宴席えんせきでスピーチするニクソン大統領だいとうりょうしゅう恩来おんらい総理そうり
晩餐ばんさんかいでニクソン大統領だいとうりょう歓待かんたいするしゅう恩来おんらい総理そうり

そして1972ねん2がつ21にちにニクソン大統領だいとうりょう夫妻ふさい[注釈ちゅうしゃく 22]北京ぺきん訪問ほうもんし、北京ぺきん空港くうこう出迎でむか[注釈ちゅうしゃく 23]しゅう恩来おんらい首相しゅしょうかた握手あくしゅわして[注釈ちゅうしゃく 24]だい2大戦たいせんはじめて両国りょうこく首脳しゅのうった。この空港くうこうでのニクソン到着とうちゃく模様もようはテレビでぜん世界せかい同時どうじ中継ちゅうけいされた。1949ねん10月1にち中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく成立せいりつしたのちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう中国ちゅうごく大陸たいりく訪問ほうもんはこれが最初さいしょであった。その直後ちょくごすぐにニクソン大統領だいとうりょうとキッシンジャー補佐ほさかんちゅう南海なんかいしゅう恩来おんらい同席どうせき毛沢東もうたくとう中国共産党ちゅうごくきょうさんとう主席しゅせき会談かいだんした[注釈ちゅうしゃく 25]。ニクソンと対面たいめんした毛沢東もうたくとうは「我々われわれ共通きょうつう旧友きゅうゆう蔣介せき大元帥だいげんすいはこれをみとめたがらないでしょう」と歓迎かんげいした[48]儀礼ぎれいてきなもので実質じっしつ協議きょうぎしゅう恩来おんらい仕切しきることを、だれもがかんじていた。最初さいしょ会談かいだん初日しょにちの18から全体ぜんたい会議かいぎとして1あいだほどひらかれてその晩餐ばんさんかいとなった。この晩餐ばんさんかい世界中せかいじゅうなま中継ちゅうけいされ[注釈ちゅうしゃく 26]最初さいしょ実質じっしつてき会談かいだんとなった翌日よくじつ首脳しゅのう会談かいだん冒頭ぼうとうに、しゅう恩来おんらいは「大統領だいとうりょう訪問ほうもん人々ひとびと注目ちゅうもくあつまることはいいことです。あなたがいらしたことが無駄むだではないことになります」とかたり、ニクソンは「歴史れきしじょうのいかなる時代じだい人々ひとびとよりもおおくの人々ひとびとわたしたち2にんのスピーチをせいいたことでしょう」とかたっている[49]

こののち全体ぜんたい会議かいぎのぞいてしゅう恩来おんらい首相しゅしょうと5かいにわたって会談かいだんひらいた。メインテーマは台湾たいわん問題もんだいであり、にインドシナ(ベトナムをふくめて)、国交こっこう正常せいじょうソ連それん日本にっぽんおよ日米にちべい同盟どうめい朝鮮半島ちょうせんはんとう、インド・パキスタン問題もんだいなど多岐たきにわたった。最終さいしゅう共同きょうどうコミュニケを発表はっぴょうするために前年ぜんねん10がつにかなりんだやりりをして素案そあん出来できていたが、このときめたのはアメリカがわ内部ないぶで、ロジャーズ国務こくむ長官ちょうかん重要じゅうよう会議かいぎほとんはずされて、また国務省こくむしょうがわほとんらされていない内容ないようがあったがためにロジャーズが激怒げきどする場面ばめん[50]もあった。このキッシンジャーとロジャーズとの確執かくしつはそのくことになった。

上海しゃんはいコミュニケ[編集へんしゅう]

北京ぺきん毛沢東もうたくとう会談かいだんするヘンリー・キッシンジャー

この訪問ほうもん最終さいしゅう2がつ28にち上海しゃんはいべいちゅう共同きょうどうコミュニケ発表はっぴょうされて、両国りょうこくはそれまでの敵対てきたい関係かんけい終止符しゅうしふをうち、国交こっこう正常せいじょうけて関係かんけい緊密きんみつつとめることになった。上海しゃんはいコミュニケには両国りょうこく一致いっちした内容ないようすのではなく、この問題もんだい両国りょうこくはこのように意見いけんったという内容ないよう形式けいしきであった。もっとむずかしい問題もんだい台湾たいわん問題もんだいであった。中国ちゅうごく原則げんそくてき立場たちばべて、一方いっぽうアメリカは「台湾たいわん海峡かいきょう両側りょうがわのすべての中国人ちゅうごくじんがみな、中国ちゅうごくはただ1つであり、台湾たいわん中国ちゅうごく一部いちぶであるとかんがえていることを≪認識にんしきした≫。…この立場たちば異議いぎもうてない。…台湾たいわんからすべての武装ぶそうりょく軍事ぐんじ施設しせつ撤去てっきょする最終さいしゅう目標もくひょうを≪確認かくにんする≫。…次第しだいに≪削減さくげんしていく≫であろう。」としるされた[51]。アメリカはそれまで蔣介せきひきいる中華民国ちゅうかみんこく政府せいふ中国ちゅうごく大陸たいりく統治とうちする正統せいとう政府せいふとして、中国共産党ちゅうごくきょうさんとう政府せいふ承認しょうにんしていなかったが、ニクソンはしゅう恩来おんらいに「台湾たいわんかんしての5原則げんそく」を提示ていじして、

  1. 中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく唯一ゆいいつ正当せいとう政府せいふとしてみと台湾たいわん地位ちい未定みていであることは今後こんご表明ひょうめいしない
  2. 台湾たいわん独立どくりつ支持しじしない
  3. 日本にっぽん台湾たいわん進出しんしゅつすることがないようにする
  4. 台湾たいわん問題もんだい平和へいわてき解決かいけつして台湾たいわん大陸たいりくへの武力ぶりょく奪還だっかん支持しじしない
  5. 中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくとの関係かんけい正常せいじょうもとめる

として台湾たいわんから段階だんかいてき撤退てったいすることを約束やくそくしている。一方いっぽう中国ちゅうごくがわべいたい防衛ぼうえい条約じょうやくについては言及げんきゅうしない立場たちばをとった。ニクソンは会談かいだんなか軍隊ぐんたい撤退てったいは「わたし計画けいかくなかにある」としていずれは撤退てったいさせることをあきらかにしていたことでそれ以上いじょうにはもとめなかった[52]中国ちゅうごくがわ一方いっぽうべいたい条約じょうやく破棄はき共同きょうどう声明せいめいまないことで譲歩じょうほし、他方たほうべいぐん全面ぜんめん撤退てったい最終さいしゅう目標もくひょうとするという言質げんちをニクソンから獲得かくとくしたことで妥協だきょうせざるをなかった[52]

三角さんかく外交がいこう[編集へんしゅう]

このニクソン訪中ほうちゅう朝鮮ちょうせん戦争せんそう以来いらい20すうねんつづいたべいちゅう冷戦れいせん終止符しゅうしふった歴史れきしてき会談かいだんとなった。中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくがアジアの国際こくさい政治せいじにおける主要しゅようなプレーヤーとして参加さんかすることをアメリカがみとめたことはひがしアジアにおける多極化たきょくか現実げんじつれたということである。そしてニクソン政権せいけんは「戦略せんりゃくてき三角形さんかっけい」を構築こうちくして「三角さんかく外交がいこう」とばれるニクソン政権せいけんたいちゅう等距離とうきょり外交がいこう展開てんかいはアメリカの漁夫ぎょふるような関係かんけい構築こうちくであった。このような戦略せんりゃくてき三角形さんかっけい構築こうちくとおしてアメリカのヘゲモニーの後退こうたい歯止はどめをかけて、将来しょうらい回復かいふく布石ふせきった[53]

リチャード・ニクソン大統領だいとうりょうとも北京ぺきん訪問ほうもんしたパット・ニクソン大統領だいとうりょう夫人ふじん

べいちゅう和解わかいは、べい関係かんけい進展しんてんうながすこととなった。訪中ほうちゅうから3かげつ同年どうねん5がつにニクソンはソ連それん大統領だいとうりょうとしてははじめて訪問ほうもん[注釈ちゅうしゃく 27]してそれまで膠着こうちゃく状態じょうたいであったSALT1(だいいち戦略せんりゃく兵器へいき制限せいげん協定きょうてい)とABM(弾道弾だんどうだん迎撃げいげきミサイル)条約じょうやくむすぶことに成功せいこうしてべいソの軍事ぐんじてき関係かんけい安定あんていはかり、またソ連それん要求ようきゅうした全欧ぜんおう安保あんぽ協力きょうりょく会議かいぎ準備じゅんびとNATOが提案ていあんした中央ちゅうおうヨーロッパ相互そうご兵力へいりょく削減さくげん交渉こうしょう開始かいし合意ごういしてべいあいだのデタント(緊張きんちょう緩和かんわ)がすすんだ[54]。またアメリカにとって懸案けんあんであったきたベトナムとの交渉こうしょうよく1973ねん1がつ和平わへい協定きょうてい締結ていけつされて3がつべいぐん完全かんぜん撤退てったいでアメリカにとってのベトナム戦争せんそうはこのときわった。

ニクソン訪中ほうちゅうから1ねんかれが2大統領だいとうりょう就任しゅうにんしきおこなったころには、1の4ねんまえにはかんがえられなかったほどアメリカにとってこのましいあらたな国際こくさい環境かんきょうまれていた。ちゅう両国りょうこく良好りょうこう関係かんけいきずいたことで、ちゅうソにとってアメリカが不可欠ふかけつ存在そんざいとなる三極さんきょく構造こうぞうつくげることに成功せいこうしていた[55]。ニクソンとキッシンジャーの外交がいこうもっと花開はなひらいた時期じきであった。

国交こっこう樹立じゅりつ[編集へんしゅう]

ニクソンの後任こうにんであるジェラルド・フォードべい大統領だいとうりょう訪中ほうちゅう[56]、そのいだ民主党みんしゅとうジミー・カーター政権せいけん時代じだい1979ねん1がつアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくあいだ国交こっこう樹立じゅりつされた。

周辺しゅうへん諸国しょこく地区ちく)への影響えいきょう[編集へんしゅう]

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく中華民国ちゅうかみんこく台湾たいわん)の関係かんけい[編集へんしゅう]

べいちゅう国交こっこう樹立じゅりつ1979ねん4がつ10日とおかに「台湾たいわん関係かんけいほう」がアメリカ議会ぎかい可決かけつされて中華民国ちゅうかみんこく台湾たいわん)をアメリカが援助えんじょする関係かんけいはそのつづけることとなった。これは議会ぎかいでの保守ほしゅかえしでもあり、アメリカは中華民国ちゅうかみんこく台湾たいわん)と事実じじつじょう軍事ぐんじ同盟どうめい関係かんけいにあり、1996ねん中国ちゅうごく国民党こくみんとういちとう支配しはいから転換てんかんし、総統そうとう民主みんしゅ選挙せんきょえら時代じだいになって、議会ぎかいせい民主みんしゅ主義しゅぎ体制たいせい自由じゆう民主みんしゅ主義しゅぎくにである中華民国ちゅうかみんこくが(中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくによる)軍事ぐんじてき脅威きょういにさらされた場合ばあいは、カーター政権せいけん制定せいていした「台湾たいわん関係かんけいほう」にもとづき、中華民国ちゅうかみんこく台湾たいわん)をたすけることとなっている。

実際じっさいに、1996ねんおこなわれた同国どうこく総統そうとう選挙せんきょともない、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく中国ちゅうごく人民じんみん解放かいほうぐん自由じゆう選挙せんきょへの恫喝どうかつとして軍事ぐんじ演習えんしゅう強行きょうこうし、もとたかしおき海域かいいきミサイルむなどの威嚇いかく行為こういおこなったさいには、アメリカぐんはこれにたいして台湾たいわん海峡かいきょう空母くうぼ機動きどう艦隊かんたい派遣はけんし、同国どうこくウォーレン・クリストファー国務こくむ長官ちょうかんは「アメリカは必要ひつよう場合ばあいには、台湾たいわんたすけるために台湾たいわんちかづく」と中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくたいして警告けいこくした。

ニクソンとキッシンジャーがおもえがき、現実げんじつとなったアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく台湾たいわん防衛ぼうえい司令しれい英語えいごばん廃止はいしざいたいべいぐん撤退てったいひがしアジアでの軍事ぐんじバランスが極端きょくたんかたむくことは回避かいひされた。

中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくとベトナムの関係かんけい[編集へんしゅう]

ニクソン大統領だいとうりょうベトナム戦争せんそうからの「名誉めいよある撤退てったい」を目指めざしていたが、そのうらにはアメリカの威信いしんきずつけず、アメリカの利益りえきそこなう状況じょうきょうける目的もくてきもあった。

訪中ほうちゅうから3かげつ講和こうわ条件じょうけん有利ゆうりにすべくニクソン大統領だいとうりょうきたばく再開さいかいさせ(ラインバッカーI作戦さくせん)、アメリカ空軍くうぐんだい世界せかい大戦たいせんにおけるたいにちせん以来いらい本格ほんかくてき戦略せんりゃく爆撃ばくげきおこなこと決定けっていし、軍民ぐんみんわない差別さべつ攻撃こうげき採用さいようした。圧倒的あっとうてき航空こうくう戦力せんりょく使つかって「ホーチミン・ルート」を遮断しゃだんし、さらにつづくラインバッカーII作戦さくせんでハノイやハイフォンこう区域くいき完全かんぜん野原のはらになり、軍事ぐんじ施設しせつだけでなく電力でんりょくみずなどの生活せいかつインフラストラクチャーにもおおきな被害ひがいあたえた。きたベトナムは弾薬だんやく燃料ねんりょう払底ふっていつぎせん不能ふのう事態じたいおちいった。この空爆くうばく機雷きらい封鎖ふうさにより、きたベトナムぐんでは小規模しょうきぼだった海軍かいぐん空軍くうぐんがほぼ全滅ぜんめつし、ないきたばくとアメリカりく空軍くうぐんによる物量ぶつりょう作戦さくせん結果けっか、ホーチミン・ルートはおおくの箇所かしょ不通ふつうになっており、前線ぜんせん部隊ぶたいへの補給ほきゅうとどこおりがちになったきたベトナムは崩壊ほうかいいち手前てまえまれた。アメリカぐんによる空爆くうばくは、きたベトナム国民こくみん大量たいりょう死傷ししょうしゃし、きたベトナムぐん国民こくみんにもすくなからず厭戦えんせん気分きぶんけた。きたベトナムにとってさいわいなことに、クリスマス休暇きゅうかちゅうによる再度さいどきたばくは、国際こくさい社会しゃかい轟々ごうごうたる批難ひなん反発はんぱつけ、短期間たんきかん中止ちゅうしされたが、ニクソンの目論見もくろみどおり、この空爆くうばく成功せいこうは、きたベトナムを戦闘せんとう不能ふのう状態じょうたいみ、きたベトナムを講和こうわ交渉こうしょうおうじざるをない立場たちばこと成功せいこうした。だい打撃だげきけたきたベトナムはこのニクソン政権せいけんだい規模きぼ武力ぶりょく行使こうし中国ちゅうごく了解りょうかいたものとして解釈かいしゃくして「自国じこくたいする中国ちゅうごく裏切うらぎ行為こうい」とめた[57]

1973ねん1がつにアメリカとの和平わへい協定きょうてい成立せいりつし、3がつまつにアメリカぐんはすべてベトナムから撤退てったいしたものの、中国ちゅうごく人民じんみん解放かいほうぐんよく1974ねん1がつ南北なんぼくベトナムあいだ戦線せんせんからとおはなれた西にしすな諸島しょとう駐留ちゅうりゅうするみなみベトナムぐん宣戦せんせん布告ふこくなしに奇襲きしゅう攻撃こうげきし(西にしすな諸島しょとうたたか)、独立どくりつ以来いらいみなみベトナムりょう当時とうじ石油せきゆなどの地下ちか資源しげんがあると推測すいそくされていた西にしすな諸島しょとう一帯いったい占領せんりょうし、のち領有りょうゆうけん問題もんだいとなった。

1975ねん4がつ30にちにサイゴンが陥落かんらくして南北なんぼくベトナムを統一とういつしたベトナム社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく隣国りんごくカンボジアでは、ニクソン政権せいけん支援しえんしたロン・ノルのクーデターで中国ちゅうごくわれたノロドム・シハヌーク国王こくおう利用りようして中国共産党ちゅうごくきょうさんとう民衆みんしゅう支持しじクメール・ルージュがカンボジアを恐怖きょうふ政治せいじ支配しはいし、民主みんしゅカンプチア独裁どくさいしゃポル・ポトはベトナム領内りょうないバチュクむら虐殺ぎゃくさつおこなってベトナムに敵対てきたいてきだった。1978ねんえつ友好ゆうこう協力きょうりょく条約じょうやく締結ていけつしてベトナムはソビエト連邦れんぽう接近せっきんし、カンボジア・ベトナム戦争せんそうでポル・ポト政権せいけん打倒だとうされたことによる1979ねん中越なかごえ戦争せんそうインドシナ半島いんどしなはんとう中国ちゅうごくとベトナムが対立たいりつする時代じだいはいった。1984ねん中越なかごえ国境こっきょう紛争ふんそう1988ねんスプラトリー諸島しょとう海戦かいせんき、カンボジアからベトナムが撤退てったいする1989ねんまでアメリカと中国ちゅうごく東南とうなんアジア諸国しょこく連合れんごう(ASEAN)はクメール・ルージュとシハヌーク国王こくおう、ロン・ノルながれをくむソン・サンはんベトナムさんによって設立せつりつされた「民主みんしゅカンプチア連合れんごう政府せいふen)」を支援しえんしてカンボジア内戦ないせんつづいた。

ベトナムは、今日きょうではかつてベトナム戦争せんそうたたかった敵国てきこくアメリカとの関係かんけい改善かいぜんすすみ、同盟どうめいこくであった中国ちゅうごく領有りょうゆうけん問題もんだい対立たいりつしている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 1969ねん4がつ開催かいさいした中国共産党ちゅうごくきょうさんとうだいきゅうかい全国ぜんこく大会たいかいきゅうぜん大会たいかい)で、ようやく国内こくない混乱こんらん収束しゅうそくする方向ほうこううごはじめていた。
  2. ^ この1967ねんというとしはベトナム戦争せんそうはげしさをしていると同時どうじ中国ちゅうごくでは文化ぶんかだい革命かくめいはげしくうごいていた時期じきである。
  3. ^ ニクソンが大統領だいとうりょう当選とうせんしたころ毛沢東もうたくとうしゅう恩来おんらいはこの「フォーリン・アフェアーズ」に掲載けいさいしたニクソンの論文ろんぶんくわしく検討けんとうするように事務じむかた指示しじしている[5]
  4. ^ この時期じきソ連それん共産きょうさんこく指導しどうしゃ中国ちゅうごくかく施設しせつへの先制せんせい攻撃こうげきたいしてどのような態度たいどるか、という打診だしんおこなっていた。またこれよりまえの3がつ衝突しょうとつ事件じけんこった直後ちょくごにキッシンジャーのオフィスにドブルイニンソれん大使たいしがやって状況じょうきょう説明せつめいをしている。これは当時とうじとしては前代未聞ぜんだいみもん異例いれいなことであった。
  5. ^ この言葉ことばは、のちにニクソン・しゅう恩来おんらい会談かいだん同席どうせきした首相しゅしょう秘書ひしょくまむかいあきらいた書物しょもつ題名だいめいになっている。
  6. ^ 『キッシンジャー回想かいそうろく』では毛沢東もうたくとう指示しじしたことになっているが、『しゅう恩来おんらい秘録ひろく』ではしゅう恩来おんらい発案はつあんして承諾しょうだくたことになっている。そしてしゅうちんあつし説明せつめいするときに「もとの見方みかた結論けつろんしばられることがあってはならない」「戦略せんりゃくてき視点してんってもう主席しゅせき戦略せんりゃく動向どうこう把握はあくするためのたすけとなって中央ちゅうおう提案ていあんできる」とべた[7]
  7. ^ このべいちゅう対話たいわ再開さいかいについては「キッシンジャー回想かいそうろく」では2がつ20日はつかと3がつ20日はつかになっている。しかも再開さいかいして2かいの2がつ20日はつか中国ちゅうごくがわが「もし米国べいこく特使とくし派遣はけんしたいということなら接待せったいしたい」とべていると中国ちゅうごくがわ記録きろくにはあるが、キッシンジャー回想かいそうろくには記述きじゅつされていない。
  8. ^ このあたりの経過けいかは「しゅう恩来おんらい秘録ひろく」では1970ねん1がつ20日はつかと2がつ20日はつか大使たいしきゅう会談かいだんおこなったとしるされているが、後述こうじゅつのパキスタン・ルーマニア経由けいゆのメッセージのやりりがく、「しゅう恩来おんらい秘録ひろく」ではこの大使たいしきゅう会談かいだん代表だいひょう派遣はけん提案ていあん北京ぺきんでのハイレベルでの会談かいだん実施じっし口頭こうとう同意どういしたとしるしている[16]
  9. ^ 「キッシンジャー回想かいそうろく」では1970ねん7がつしるしているが「ニクソンとキッシンジャー」では1969ねんしるしている。正確せいかくには1969ねんである[17]
  10. ^ この会議かいぎはやしぴょう支持しじちんはくたち政治せいじ局員きょくいん毛沢東もうたくとうから批判ひはんされて、はやしぴょう足元あしもとらぎ、党内とうない混乱こんらんおちいった[19]
  11. ^ 毛沢東もうたくとうはこの時点じてん米国べいこくのヴェトナムからの撤退てったい本物ほんものており、それがソ連それん脅威きょういつよめていると判断はんだんしていた。またこれには人民じんみん解放かいほうぐんなかたい戦略せんりゃくとして米国べいこくカードを使つかうことを支持しじするグループがあった[20]
  12. ^ この2つのうごきは毛沢東もうたくとうにいい印象いんしょうあたえ、そして4がつ世界せかい卓球たっきゅう選手権せんしゅけん大会たいかいでのアメリカ選手せんしゅだんれることに結論けつろん要因よういんともなった。
  13. ^ 1959ねん7がつはじまったモスクワでの米国べいこく博覧はくらんかい開会かいかいしき当時とうじのニクソンふく大統領だいとうりょう出席しゅっせきして、その直後ちょくごフルシチョフ首相しゅしょう会場かいじょう一緒いっしょまわり、展示てんじされていた「モデル台所だいどころ」のまえで、べいソどちらが魅力みりょくてき生活せいかつ様式ようしき提示ていじしているかでいいあらそった[28]
  14. ^ 1964ねんと1968ねん共和党きょうわとう大統領だいとうりょう選挙せんきょ予備よび選挙せんきょ立候補りっこうほしたが途中とちゅう退しりぞいた。のちにニクソンがウォーターゲート事件じけん辞任じにんのち昇格しょうかくしたフォード大統領だいとうりょう指名しめいふく大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。
  15. ^ このときはキッシンジャーのしたでの補佐ほさであったが、のちに1973ねんウォーターゲート事件じけん首席しゅせき補佐ほさかんであったハルデマンが辞職じしょくまれて、後任こうにんとしてニクソン政権せいけん最後さいご時期じき首席しゅせき補佐ほさかんとして難局なんきょくたりニクソン辞任じにんからフォード昇格しょうかくまでのホワイトハウスを仕切しきった。のちに1981ねんレーガン政権せいけん国務こくむ長官ちょうかんつとめた。
  16. ^ この当時とうじ中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくは51ねんむすばれた日米にちべい安保あんぽ条約じょうやく日米にちべい共同きょうどう中国ちゅうごく敵視てきしするものとして絶対ぜったい反対はんたい立場たちばであった。
  17. ^ この1かげつにニクソン大統領だいとうりょう経済けいざい政策せいさくかねとドルの交換こうかん停止ていしする政策せいさく発表はっぴょうしてふたた世界せかいおどろかせた。これは当時とうじドルショックとわれたが、のちにこれもニクソンショックとわれて、訪中ほうちゅう発表はっぴょう今日きょうではだい1あるいは政治せいじめんでのニクソンショックとばれている。
  18. ^ エドウイン・ライシャワー大使たいし後任こうにんとして1966~1968ねんまでちゅうにち大使たいしつとめ、ニクソン政権せいけん発足ほっそく同時どうじ国務省こくむしょう政治せいじ担当たんとう国務こくむ次官じかんとして、ロジャーズ国務こくむ長官ちょうかんささえた。
  19. ^ 佐藤さとう首相しゅしょうはこの日記にっきに「発表はっぴょうの2あいだまえ」としるしている。この佐藤さとう首相しゅしょう記者きしゃに「なかなかやるものだ」とべているが、日記にっきには「北京ぺきん条件じょうけんをつけないでおとずれささえゆるしたことは意外いがい」として「これから台湾たいわん処遇しょぐう問題もんだい一層いっそうむつかしくなる」としるしている[43]
  20. ^ このとき日本にっぽんにいたマイヤーちゅうにち大使たいしでさえ連絡れんらくとどいていなかった。こうした国務こくむ省内しょうない混乱こんらんは、もともとあったロジャーズ国務こくむ長官ちょうかんとキッシンジャー補佐ほさかんとの確執かくしつふかめ、やがて訪中ほうちゅうべいちゅうコミュニケの発表はっぴょうまえ爆発ばくはつすることとなった。
  21. ^ 1957~1963ねん駐米ちゅうべい大使たいしつとめた。
  22. ^ アメリカがわ公式こうしき訪中ほうちゅうメンバーは15めいで、ニクソン夫妻ふさいとキッシンジャー以外いがいでは、ロジャーズ(国務こくむ長官ちょうかん)、ハルデマン(首席しゅせき補佐ほさかん)、ジーグラー(報道ほうどうかん)、スコウクロフト(大統領だいとうりょう武官ぶかん)、グリーン(国務こくむ次官補じかんほ)、チェイピン(補佐ほさかん代理だいり)、ジェンキンズ(国務省こくむしょうひがしアジア部長ぶちょう)、ホルドリッジ(国家こっか安全あんぜん保障ほしょう会議かいぎスタッフ)、ロード(国家こっか安全あんぜん保障ほしょう会議かいぎスタッフ)などであった。
  23. ^ このとき出迎でむかえたのは、しゅう恩来おんらいさきねん(ふく首相しゅしょう)、つるぎえい郭沫若かくまつじゃく(全人代ぜんじんだいふく委員いいんちょう)、ひめほう外交がいこう部長ぶちょうたかしかんむりはな外交がいこうふく部長ぶちょういさお(北京ぺきん革命かくめい委員いいんかいふく主任しゅにん)らであった。よん元帥げんすい1人ひとり外交がいこう部長ぶちょうであったちんあつしはこのニクソン訪中ほうちゅう直前ちょくぜんくなっている。
  24. ^ このしゅう恩来おんらいとの握手あくしゅべつ意味いみもニクソンはめていた。1954ねんのジュネーヴ会議かいぎ出席しゅっせきしていた当時とうじ国務こくむ長官ちょうかんジョン・フォスター・ダレスおなじく出席しゅっせきしていたしゅう恩来おんらいから握手あくしゅもとめられて、しゅうばしたにもかかわらずはらいのけるようにしてことわった。このことを前年ぜんねん7がつ極秘ごくひ訪中ほうちゅうとき会談かいだんしゅう恩来おんらいからキッシンジャーがいて、ニクソンは外交がいこうじょう無礼ぶれいいであったとして、のニクソン回顧かいころくで「タラップをりてしゅう恩来おんらいほうあゆみずかすすんでした。二人ふたりわさったとき、1つの時代じだいわり、もう1つの時代じだいはじまった」とべている[47]
  25. ^ この7かげつにちちゅう国交こっこう正常せいじょう交渉こうしょう訪中ほうちゅうした田中たなか角栄かくえい首相しゅしょう場合ばあいは、滞在たいざい3にち毛沢東もうたくとうとの会談かいだんがセットされた。
  26. ^ ニクソン大統領だいとうりょうむすめもこのボストンで早朝そうちょう6からの晩餐ばんさん会生かいせい中継ちゅうけいていた。そして首相しゅしょう乾杯かんぱい発声はっせいいてとても感動かんどうしたと翌日よくじつ大統領だいとうりょうとの電話でんわはなしていた。ニクソンはそれを翌日よくじつ首脳しゅのう会談かいだん冒頭ぼうとう昨夜さくや晩餐ばんさんかい御礼おれいべるときかたっている[49]
  27. ^ 就任しゅうにん意表いひょうをついてルーマニアを共産きょうさんけん諸国しょこくでは最初さいしょ訪問ほうもんしたニクソンであったが、この1ねんまえまで、ニクソンがいつ共産きょうさんこくソ連それん訪問ほうもんするかということが話題わだいにはなっていた。しかし1ねんまえ時点じてんではソ連それん首脳しゅのうじんよりもさき中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく訪問ほうもんすることはだれ想像そうぞう出来できないことであった。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ Naím, Moisés (September 1, 2003). "Berlusconi Goes to China". Foreign Policy.
  2. ^ しゅう恩来おんらい秘録ひろく下巻げかん、p.119
  3. ^ a b もうさと和子わこ解説かいせつ」『ニクソン訪中ほうちゅう機密きみつ会談かいだんろく』、p.259
  4. ^ 世界せかい歴史れきし大系たいけい・アメリカ2-1877ねん~1992ねん-」p.429
  5. ^ 「ニクソンとキッシンジャー」85P 大嶽おおたけ英夫ひでおちょ 2013ねん12月発行はっこう 中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ
  6. ^ 『キッシンジャー回想かいそうろく 中国ちゅうごく(うえ)』だい8しょう 和解わかいへのみち p.226
  7. ^ しゅう恩来おんらい秘録ひろく下巻げかん pp.125 - 126
  8. ^ 『キッシンジャー回想かいそうろく 中国ちゅうごく(うえ)』だい8しょう 和解わかいへのみち p.225
  9. ^ 『キッシンジャー回想かいそうろく 中国ちゅうごく(うえ)』だい8しょう 和解わかいへのみち、p.228
  10. ^ 『キッシンジャー回想かいそうろく 中国ちゅうごく(うえ)』だい8しょう 和解わかいへのみち、p.228P(該当がいとう箇所かしょえびすくらこう毛沢東もうたくとう文革ぶんかく』からの引用いんよう
  11. ^ しゅう恩来おんらい秘録ひろく下巻げかん p.126
  12. ^ 『キッシンジャー回想かいそうろく 中国ちゅうごく(うえ)』だい8しょう 和解わかいへのみち、p.227
  13. ^ しゅう恩来おんらい秘録ひろく下巻げかん、p.126
  14. ^ 「キッシンジャー回想かいそうろく 中国ちゅうごく(うえ)」だい8しょう 和解わかいへのみち 230P
  15. ^ 「キッシンジャー回想かいそうろく 中国ちゅうごく(うえ)」だい8しょう 和解わかいへのみち 234P
  16. ^ しゅう恩来おんらい秘録ひろく下巻げかん 132~135P
  17. ^ 「ニクソンとキッシンジャー」91P 参照さんしょう
  18. ^ 「キッシンジャー回想かいそうろく 中国ちゅうごく(うえ)」だい8しょう 和解わかいへのみち pp.241-247
  19. ^ しゅう恩来おんらい・キッシンジャー機密きみつ会談かいだんろく」348P 解説かいせつ もうさと和子わこ 参照さんしょう
  20. ^ 「ニクソンとキッシンジャー」96P
  21. ^ 「キッシンジャー回想かいそうろく 中国ちゅうごく(うえ)」だい8しょう 和解わかいへのみち 249P
  22. ^ 「キッシンジャー回想かいそうろく 中国ちゅうごく(うえ)」だい8しょう 和解わかいへのみち 250P
  23. ^ 「アメリカ20世紀せいき」263P
  24. ^ しゅう恩来おんらい秘録ひろく下巻げかん 144P
  25. ^ しゅう恩来おんらい秘録ひろく下巻げかん 145P
  26. ^ a b 「キッシンジャー回想かいそうろく 中国ちゅうごく(うえ)」だい8しょう 和解わかいへのみち 251P
  27. ^ しゅう恩来おんらい・キッシンジャー機密きみつ会談かいだんろく」348P 解説かいせつ もうさと和子かずこ
  28. ^ 戦後せんごアメリカ外交がいこう」95P
  29. ^ 「ニクソンとキッシンジャー」6~7P
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  31. ^ 「キッシンジャー回想かいそうろく 中国ちゅうごく(うえ)」だい9しょう 関係かんけい再開さいかい 256P
  32. ^ 「キッシンジャー回想かいそうろく 中国ちゅうごく(うえ)」だい9しょう 関係かんけい再開さいかい 256~258P
  33. ^ しゅう恩来おんらい・キッシジャー機密きみつ会談かいだんろく」3P
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  36. ^ しゅう恩来おんらい・キッシジャー機密きみつ会談かいだんろく」3P 
  37. ^ しゅう恩来おんらい・キッシジャー機密きみつ会談かいだんろく」346P
  38. ^ 「キッシンジャー回想かいそうろく 中国ちゅうごく(うえ)」 だい9しょう 関係かんけい再開さいかい268~270P
  39. ^ 「キッシンジャー回想かいそうろく 中国ちゅうごく(うえ)」だい9しょう 関係かんけい再開さいかい 274~276P
  40. ^ しゅう恩来おんらい秘録ひろく下巻げかん 148P
  41. ^ 「キッシンジャー回想かいそうろく 中国ちゅうごく(うえ)」だい9しょう 関係かんけい再開さいかい 275P
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関連かんれん図書としょ[編集へんしゅう]

  • ヘンリー・A・キッシンジャー「キッシンジャー回想かいそうろく 中国ちゅうごく(うえ)」塚越つかこし敏彦としひこほかやく岩波書店いわなみしょてん 2012ねん3がつ 
  • 高文たかふみけんしゅう恩来おんらい秘録ひろく下巻げかん上村うえむら幸治こうじやく文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 2007ねん3がつ
  • 大嶽おおたけ英夫ひでお「ニクソンとキッシンジャー」中公新書ちゅうこうしんしょ 2013ねん12月 
  • しゅう恩来おんらい・キッシジャー機密きみつ会談かいだんろくもうさと和子かずこ増田ますだひろし監訳かんやく岩波書店いわなみしょてん 2004ねん2がつ 
  • 「ニクソン訪中ほうちゅう機密きみつ会談かいだんろくもうさと和子かずこもうさときょう三郎さぶろうへんやく名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい 2001ねん7がつ
  • 秋元あきもと英一ひでかずかん英輝ひでき「アメリカ20世紀せいき東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい 2003ねん10がつ  
  • 佐々木ささき卓也たくや戦後せんごアメリカ外交がいこう有斐閣ゆうひかく 2002ねん10がつ
  • マイケル・シャラー「日米にちべい関係かんけいなにだったのか」市川いちかわ洋一よういちやくくさおもえしゃ 2004ねん
  • 世界せかい歴史れきし大系たいけい・アメリカ2-1877ねん~1992ねん有賀ありがさだへん 山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ 1993ねん7がつ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]