葉 は 剣 つるぎ 英 えい (よう けんえい[ 1] 、簡体字 かんたいじ :叶 かのう 剑英 、繁体字 はんたいじ :葉 は 劍 つるぎ 英 えい 、英語 えいご :Ye Jianying 、イェ・ジャンイン、1897年 ねん 4月 がつ 28日 にち – 1986年 ねん 10月22日 にち 、元 もと の名 な は宜 むべ 偉 えら 、字 じ は滄白 )は、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の政治 せいじ 家 か 、軍人 ぐんじん 。
中国 ちゅうごく 人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん の創立 そうりつ 者 しゃ の1人 ひとり で、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 元帥 げんすい を務 つと めた他 ほか 、国防 こくぼう 部長 ぶちょう 、全国 ぜんこく 人民 じんみん 代表 だいひょう 大会 たいかい 常務 じょうむ 委員 いいん 長 ちょう 、党 とう 中央 ちゅうおう 軍事 ぐんじ 委員 いいん 会 かい 副 ふく 主席 しゅせき 兼 けん 秘書 ひしょ 長 ちょう 、党 とう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 副 ふく 主席 しゅせき などの要職 ようしょく を歴任 れきにん した。また、1975年 ねん 1月 がつ から1983年 ねん 6月 がつ の間 あいだ は全国 ぜんこく 人民 じんみん 代表 だいひょう 大会 たいかい 常務 じょうむ 委員 いいん 会 かい が国家 こっか 元首 げんしゅ の権能 けんのう を果 は たしていたので、全国 ぜんこく 人民 じんみん 代表 だいひょう 大会 たいかい 常務 じょうむ 委員 いいん 会 かい 常務 じょうむ 委員 いいん 長 ちょう として在任 ざいにん 中 ちゅう は彼 かれ が中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の国家 こっか 元首 げんしゅ 格 かく であった。
なお、八 はち 大 だい 元老 げんろう と同格 どうかく の長老 ちょうろう だが、八大 やひろ 元老 げんろう のメンバーには数 かぞ えられていない。
1897年 ねん 4月 がつ 28日 にち 、広東 かんとん 省 しょう 梅 うめ 県 けん 雁 かり 洋 よう 堡下虎 とら 形 がた 村 むら にて、客 きゃく 家 か の豪商 ごうしょう の家庭 かてい に誕生 たんじょう する。父 ちち は葉 は 鉆祥で母 はは は陳 ちん 秀 しげる 雲 くも である。1917年 ねん 、雲南 うんなん 陸軍 りくぐん 講 こう 武 たけ 学校 がっこう に入学 にゅうがく し、朱 しゅ 徳 いさお の影響 えいきょう を受 う ける。1920年 ねん 1月 がつ に卒業 そつぎょう した後 のち は黄埔軍 こうほぐん 官 かん 学校 がっこう で教官 きょうかん 生活 せいかつ を送 おく り、ここで周 しゅう 恩来 おんらい と出会 であ う。1927年 ねん 7月 がつ に中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう に入党 にゅうとう した。同年 どうねん 8月 がつ の南 みなみ 昌 あきら 起 おこり 義 よし に参加 さんか し、敗北 はいぼく すると香港 ほんこん に逃亡 とうぼう した。その後 ご はモスクワ中山 ちゅうざん 大学 だいがく で軍事 ぐんじ 科学 かがく を学 まな んだ。
1932年 ねん 、中国 ちゅうごく に戻 もど って中華 ちゅうか ソビエト共和 きょうわ 国 こく に参加 さんか し、演劇 えんげき 学校 がっこう の校長 こうちょう などを務 つと めた。張 ちょう 国 こく 涛 の指揮 しき 下 か で第 だい 四 よん 軍 ぐん の参謀 さんぼう 長 ちょう となり、長 ちょう 征 ただし においては、劉 りゅう 伯 はく 承 うけたまわ を補佐 ほさ し長江 ながえ の渡河 とか を指揮 しき し、1935年 ねん に毛沢東 もうたくとう と張 ちょう 国 こく 涛とが対立 たいりつ した際 さい には毛沢東 もうたくとう を支持 しじ した。1936年 ねん 以降 いこう は西安 しーあん ・南京 なんきん ・そして最終 さいしゅう 的 てき に重慶 たーちん における国民党 こくみんとう との連絡 れんらく 将校 しょうこう として周 しゅう 恩来 おんらい と共 とも に活躍 かつやく した。
1937年 ねん 7月 がつ に日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ した。同年 どうねん 8月 がつ に蔣介石 せき が南京 なんきん で国防 こくぼう 会議 かいぎ を召集 しょうしゅう し、葉 は 剣 つるぎ 英 えい は周 しゅう 恩来 おんらい ・朱 しゅ 徳 いさお と共 とも に参加 さんか する。紅 べに 軍 ぐん が国民 こくみん 革命 かくめい 軍 ぐん 第 だい 八 はち 路 ろ 軍 ぐん に改編 かいへん されると、葉 は 剣 つるぎ 英 えい は国民 こくみん 政府 せいふ から国民 こくみん 革命 かくめい 軍 ぐん 中将 ちゅうじょう の階級 かいきゅう を授与 じゅよ され、八 はち 路 ろ 軍 ぐん 参謀 さんぼう 長 ちょう に任命 にんめい された。10月に八 はち 路 ろ 軍 ぐん 駐 ちゅう 南京 なんきん 代表 だいひょう となり、1937年 ねん 12月から1941年 ねん 1月 がつ にかけて中共 ちゅうきょう 中央 ちゅうおう 長江 ちょうこう 局 きょく 委員 いいん 、南方 なんぽう 局 きょく 常務 じょうむ 委員 いいん となる。1939年 ねん 2月 がつ に国民党 こくみんとう 南岳 みなみだけ 遊 ゆう 撃 げき 幹部 かんぶ 訓練 くんれん 班 はん を創設 そうせつ し、その副 ふく 教育 きょういく 長 ちょう に任 にん ぜられて遊 ゆう 撃 げき 戦術 せんじゅつ を教育 きょういく した。1940年 ねん 3月 がつ に重慶 たーちん で召集 しょうしゅう された全国 ぜんこく 参謀 さんぼう 長 ちょう 会議 かいぎ に出席 しゅっせき した際 さい に「作戦 さくせん と摩擦 まさつ 問題 もんだい 」と称 しょう する大 だい 演説 えんぜつ を行 おこな い、「舌戦 ぜっせん 群 ぐん 儒」と称 しょう された。
1941年 ねん 2月 がつ に延 のべ 安 やす に戻 もど り、党 とう 中央 ちゅうおう 革命 かくめい 軍事 ぐんじ 委員 いいん 会 かい (後 ご の党 とう 中央 ちゅうおう 軍事 ぐんじ 委員 いいん 会 かい )参謀 さんぼう 長 ちょう 兼 けん 第 だい 18集団 しゅうだん 軍 ぐん 参謀 さんぼう 長 ちょう に任命 にんめい された。11月に中央 ちゅうおう 教育 きょういく 委員 いいん 会 かい 委員 いいん 、軍事 ぐんじ 学院 がくいん 副 ふく 院長 いんちょう を兼任 けんにん し、1945年 ねん 4月 がつ の第 だい 7回 かい 党 とう 大会 たいかい で中央 ちゅうおう 委員 いいん に選出 せんしゅつ された。
対 たい 日 にち 戦勝 せんしょう 後 ご は国民党 こくみんとう との交渉 こうしょう に参加 さんか した。同年 どうねん 12月 がつ に周 しゅう 恩来 おんらい が率 ひき いる代表 だいひょう 団 だん に加 くわ わり、重慶 たーちん で停戦 ていせん 交渉 こうしょう を行 おこな って政治 せいじ 協商 きょうしょう 会議 かいぎ に出席 しゅっせき した。1946年 ねん 1月 がつ に北平 きたひら (北京 ぺきん )に移 うつ って軍事 ぐんじ 調 ちょう 処 しょ 執行 しっこう 部 ぶ 中共 ちゅうきょう 代表 だいひょう となり、国民党 こくみんとう やアメリカ 代表 だいひょう と停戦 ていせん 協議 きょうぎ を行 おこな った。そして1947年 ねん 2月 がつ に延 のべ 安 やす に戻 もど る。翌 よく 3月 がつ に晋 すすむ 西北 せいほく に移 うつ り、中共 ちゅうきょう 中央 ちゅうおう 後方 こうほう 委員 いいん 会 かい 書記 しょき に任命 にんめい された。7月から9月 がつ にかけて開催 かいさい された全国 ぜんこく 土地 とち 会議 かいぎ に出席 しゅっせき して軍事 ぐんじ 問題 もんだい を報告 ほうこく した。12月に米 べい 脂 あぶら 県 けん で召集 しょうしゅう された会議 かいぎ に出席 しゅっせき して土地 とち 問題 もんだい を討論 とうろん した。1948年 ねん 5月に華北 かほく 軍政 ぐんせい 大学 だいがく 校長 こうちょう 兼 けん 政治 せいじ 委員 いいん に任命 にんめい された。
左 ひだり より葉 は 剣 つるぎ 英 えい 、彭徳懐 ふところ 、ブルガーニン 、フルシチョフ (1958年 ねん )
1949年 ねん 10月(中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の建国 けんこく 後 ご )初 はじ めに陳 ちん 賡 と共 とも に広東 かんとん 戦役 せんえき を指揮 しき し、14日 にち に広州 こうしゅう を解放 かいほう した。その後 ご 広東 かんとん 省 しょう 党 とう 委員 いいん 会 かい 書記 しょき 、広東 かんとん 省 しょう 人民 じんみん 政府 せいふ 主席 しゅせき 兼 けん 広州 こうしゅう 市 し 長 ちょう 、中南 なかみなみ 軍政 ぐんせい 委員 いいん 会 かい 副 ふく 主席 しゅせき 、華南 かなん 軍 ぐん 区 く 司令 しれい 員 いん 、中南 なかみなみ 軍 ぐん 区 く 司令 しれい 員 いん 代行 だいこう 、中共 ちゅうきょう 中央 ちゅうおう 中南 なかみなみ 局 きょく 書記 しょき 代理 だいり などを務 つと め、華南 かなん 地域 ちいき における勢力 せいりょく を確立 かくりつ する。1950年 ねん 2月 がつ に海南 かいなん 島 とう 戦役 せんえき の計画 けいかく を立案 りつあん し、5月1日 にち に海南 かいなん 島 とう を解放 かいほう した。その後 ご ベトナム のグエンソン と親交 しんこう を深 ふか めた。第 だい 一 いち 次 じ インドシナ戦争 せんそう では、ベトナムを支援 しえん した。
1954年 ねん 6月 がつ に北京 ぺきん に戻 もど り、中央 ちゅうおう 人民 じんみん 政府 せいふ 人民 じんみん 革命 かくめい 軍事 ぐんじ 委員 いいん 会 かい 副 ふく 主席 しゅせき となる。同年 どうねん 9月 がつ に中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 憲法 けんぽう の制定 せいてい により政府 せいふ 機構 きこう が再編 さいへん されると、葉 は 剣 つるぎ 英 えい は中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 国防 こくぼう 委員 いいん 会 かい 副 ふく 主席 しゅせき に就任 しゅうにん した。中国 ちゅうごく 人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん 武装 ぶそう 力量 りきりょう 監察 かんさつ 部 ぶ 部長 ぶちょう などを歴任 れきにん した。1955年 ねん 4月 がつ に訓練 くんれん 総監 そうかん 部 ぶ 部長 ぶちょう 代理 だいり となり、全 ぜん 軍 ぐん の軍事 ぐんじ 訓練 くんれん を主管 しゅかん した。同年 どうねん 9月 がつ に中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 元帥 げんすい の階級 かいきゅう を授与 じゅよ される。序列 じょれつ は十 じゅう 大元帥 だいげんすい のうち10位 い 。11月に遼東 りゃおとん 半島 はんとう 方面 ほうめん 軍 ぐん の対 たい 上陸 じょうりく 演習 えんしゅう を統裁 とうさい した。1956年 ねん 9月に第 だい 8回 かい 党 とう 大会 たいかい において中央 ちゅうおう 委員 いいん に再選 さいせん される。12月に中国 ちゅうごく の軍事 ぐんじ 代表 だいひょう 団 だん を率 ひき いてビルマ ・ソ連 それん ・インド ・ポーランド を訪問 ほうもん した。
1958年 ねん 3月 がつ に軍事 ぐんじ 科学 かがく 院 いん 創設 そうせつ の命 いのち を受 う けて同院 どういん 院長 いんちょう 兼 けん 政治 せいじ 委員 いいん に任命 にんめい される。同年 どうねん に高等 こうとう 軍事 ぐんじ 学院 がくいん 院長 いんちょう を兼任 けんにん した。1959年 ねん 9月に党 とう 中央 ちゅうおう 軍事 ぐんじ 委員 いいん 会 かい 常務 じょうむ 委員 いいん 、1960年 ねん に中央 ちゅうおう 軍事 ぐんじ 委員 いいん 会 かい 軍事 ぐんじ 訓練 くんれん ・軍事 ぐんじ 学術 がくじゅつ 研究 けんきゅう 委員 いいん 会 かい 主任 しゅにん となり、1963年 ねん 12月に郭 かく 興福 こうふく 教学 きょうがく 法 ほう を全 ぜん 軍 ぐん に広 ひろ めて毛沢東 もうたくとう と中央 ちゅうおう 軍事 ぐんじ 委員 いいん 会 かい から賞賛 しょうさん された。1965年 ねん に第 だい 4期 き 全国 ぜんこく 政治 せいじ 協商 きょうしょう 会議 かいぎ 副 ふく 主席 しゅせき 、1966年 ねん 1月 がつ に中央 ちゅうおう 軍事 ぐんじ 委員 いいん 会 かい 副 ふく 主席 しゅせき 、5月に党 とう 中央 ちゅうおう 書記 しょき 処 しょ 書記 しょき ・中央 ちゅうおう 軍事 ぐんじ 委員 いいん 会 かい 秘書 ひしょ 長 ちょう となる。8月に第 だい 8期 き 第 だい 11回 かい 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 全体 ぜんたい 会議 かいぎ において、党 とう 中央 ちゅうおう 政治 せいじ 局 きょく 委員 いいん に当選 とうせん した。
文化 ぶんか 大 だい 革命 かくめい の時期 じき に一時 いちじ 迫害 はくがい を被 ひ ( こうむ ) るが、党 とう 中央 ちゅうおう 軍事 ぐんじ 委員 いいん 会 かい 副 ふく 主席 しゅせき 兼 けん 秘書 ひしょ 長 ちょう の職 しょく を維持 いじ した。1971年 ねん 9月 がつ に林 はやし 彪 ぴょう が失脚 しっきゃく すると、国防 こくぼう 部長 ぶちょう の役割 やくわり を実質 じっしつ 的 てき に代行 だいこう するようになり[ 2] 、中国 ちゅうごく 人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん における最 さい 重要 じゅうよう 人物 じんぶつ の1人 ひとり となる。1973年 ねん 8月 がつ の10全 ぜん 大会 たいかい において政治 せいじ 局 きょく 委員 いいん ・政治 せいじ 局 きょく 常務 じょうむ 委員 いいん ・党 とう 副 ふく 主席 しゅせき の1人 ひとり に選出 せんしゅつ され、党内 とうない 序列 じょれつ 第 だい 5位 い に昇格 しょうかく した[ 3] 。1975年 ねん 1月 がつ の第 だい 4期 き 全国 ぜんこく 人民 じんみん 代表 だいひょう 大会 たいかい 第 だい 1回 かい 会議 かいぎ において、不在 ふざい であった国防 こくぼう 部長 ぶちょう に任命 にんめい された。1976年 ねん 9月に毛沢東 もうたくとう が死去 しきょ した時 とき には、軍 ぐん 長老 ちょうろう 派 は で唯一 ゆいいつ 政治 せいじ 局 きょく 常務 じょうむ 委員 いいん を務 つと め、党 とう 副 ふく 主席 しゅせき の要職 ようしょく にあった。党 とう 第 だい 一 いち 副 ふく 主席 しゅせき で毛沢東 もうたくとう の後継 こうけい 者 しゃ とされていた華国鋒 かこくほう を支援 しえん して、李 り 先 さき 念 ねん ・汪 ひろし 東興 とうこう などと共 とも に江青 こうせい ら四 よん 人組 にんぐみ 追放 ついほう を実質 じっしつ 的 てき に指導 しどう し、文化 ぶんか 大 だい 革命 かくめい の終焉 しゅうえん に大 おお きな役割 やくわり を果 は たした。
1977年 ねん 8月 がつ の文化 ぶんか 大 だい 革命 かくめい 終了 しゅうりょう 後 ご は李 り 先 さき 念 ねん ・陳 ちん 雲 くも ・王 おう 震 しん らと共 とも に鄧小平 ひらた の復活 ふっかつ に尽力 じんりょく した。1978年 ねん 12月の華国鋒 かこくほう 失脚 しっきゃく 後 ご も胡耀邦 こようほう 政権 せいけん 下 か で党 とう 副 ふく 主席 しゅせき 、政治 せいじ 局 きょく 常務 じょうむ 委員 いいん として留任 りゅうにん した。1978年 ねん 3月から1983年 ねん 6月 がつ までは全国 ぜんこく 人民 じんみん 代表 だいひょう 大会 たいかい 常務 じょうむ 委員 いいん 会 かい 委員 いいん 長 ちょう として、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の国家 こっか 元首 げんしゅ 格 かく の地位 ちい にあった。
全国 ぜんこく 人民 じんみん 代表 だいひょう 大会 たいかい 常務 じょうむ 委員 いいん 長 ちょう を退任 たいにん した直後 ちょくご の1983年 ねん 6月 がつ 20日 はつか に新設 しんせつ された中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 中央 ちゅうおう 軍事 ぐんじ 委員 いいん 会 かい 副 ふく 主席 しゅせき に選出 せんしゅつ され、党 とう と国家 こっか の軍事 ぐんじ 委員 いいん 会 かい 副 ふく 主席 しゅせき を兼任 けんにん して軍 ぐん に影響 えいきょう 力 りょく を発揮 はっき した。1985年 ねん 9月の第 だい 12期 き 4中 ちゅう 全会 ぜんかい において、病気 びょうき を理由 りゆう に党 とう 中央 ちゅうおう 委員 いいん ・中央 ちゅうおう 政治 せいじ 局 きょく 委員 いいん ・同 どう 常務 じょうむ 委員 いいん から引退 いんたい したが[ 4] 、引 ひ き続 つづ き中央 ちゅうおう 軍事 ぐんじ 委員 いいん 会 かい 副 ふく 主席 しゅせき 職 しょく には留 とど まった[ 5] 。1986年 ねん 10月22日 にち に北京 ぺきん で死去 しきょ した。89歳 さい であった。
ちなみに毛沢東 もうたくとう は葉 は 剣 つるぎ 英 えい について、以下 いか の対 たい 聯 れん を贈 おく っている。
諸 しょ 葛 かずら 一生 いっしょう 唯 ただ 謹慎 きんしん
呂 りょ 端 はし 大事 だいじ 不 ふ 糊塗 こと
葉 は 剣 つるぎ 英 えい は多 おお くの女性 じょせい 遍歴 へんれき を持 も っていた事 こと で知 し られている[ 6] 。若 わか くして郷里 きょうり で見合 みあ い結婚 けっこん をしたが、子供 こども はいなかった[ 7] 。1924年 ねん 初頭 しょとう 、広州 こうしゅう にいる間 あいだ に医療 いりょう 従事 じゅうじ 者 しゃ だった馮華と結婚 けっこん した。同年 どうねん 11月 がつ に長男 ちょうなん ・葉 は 選 せん 平 たいら が誕生 たんじょう し、続 つづ いて長女 ちょうじょ ・葉 は 楚 すわえ 梅 うめ が誕生 たんじょう した。1927年 ねん 、広州 こうしゅう にいる間 あいだ に曽 そ 憲 けん 植 うえ と結婚 けっこん [ 7] 、1938年 ねん に次男 じなん ・葉 は 選 せん 寧 やすし が誕生 たんじょう 。1937年 ねん には延 のべ 安 やす で長 ちょう 征 ただし 女性 じょせい 幹部 かんぶ の危拱之 の と結婚 けっこん したが、二人 ふたり の間 あいだ に子供 こども はいなかった。1940年 ねん 、重慶 たーちん にいる間 あいだ に呉 ご 博 ひろし と結婚 けっこん [ 7] 。1948年 ねん 末 すえ 、北京 ぺきん 良郷 よしさと にいる時 とき 、華北 かほく 軍政 ぐんせい 大学 だいがく の学生 がくせい だった李 り 剛 つよし と結婚 けっこん し、息子 むすこ ・葉 は 選 せん 廉 れん 、娘 むすめ ・葉 は 文 ぶん 珊を儲 もう けたが、1955年 ねん に二 に 人 にん は離婚 りこん した[ 7] 。
1955年 ねん より後 のち は、葉 は は正式 せいしき に婚姻 こんいん していなかった。周囲 しゅうい には3人 にん の女性 じょせい がいて身辺 しんぺん の世話 せわ をしていた。彼女 かのじょ 達 たち の名前 なまえ は明 あき らかになっておらず、葉 は との間 あいだ に子供 こども がいたかどうかも分 わ かっていない[ 8] 。羅 ら 瑞卿 ずいきょう の子 こ である羅宇 らお の回顧 かいこ 録 ろく によると、1956年 ねん 、北戴河 ぺいたいほう にいる時 とき に、葉 は が看護 かんご 師 し の女性 じょせい と関係 かんけい を持 も ったために、葉 は の別 べつ の女 おんな が全裸 ぜんら で海 うみ に身 み を投 な げて自殺 じさつ を図 はか った。警衛 けいえい 所 しょ によって阻止 そし されたが、北戴河 ぺいたいほう では大騒 おおさわ ぎになったという[ 9] 。妻 つま は美女 びじょ が多 おお かったので、葉 は は巷 ちまた で“花 はな 帥 そち ”と呼 よ ばれた。さらに葉 は 剣 つるぎ 英 えい が広東 かんとん 省 しょう に築 きず いた強力 きょうりょく な地盤 じばん は長男 ちょうなん の葉 は 選 せん 平 たいら (広東 かんとん 省 しょう 長 ちょう や全国 ぜんこく 政治 せいじ 協商 きょうしょう 会議 かいぎ 副 ふく 主席 しゅせき などを歴任 れきにん した)が引 ひ き継 つ いでいる。また、長女 ちょうじょ の葉 は 楚 すわえ 梅 うめ は国務 こくむ 院 いん 副 ふく 総理 そうり や国務 こくむ 委員 いいん などを歴任 れきにん した鄒家華 すうかか に嫁 とつ いだ。
^ 「ようけんえい」は慣用音 かんようおん で、中国 ちゅうごく 学 がく の研究 けんきゅう 者 しゃ は「しょうけんえい」と読 よ むことが多 おお い[要 よう 出典 しゅってん ] が、これは漢字 かんじ の反切 はんせつ に基 もと づくものである。集 しゅう 韻 いん (宋 そう 代 だい 景 けい 祐 ゆう 6年 ねん (1039年 ねん )成立 せいりつ )の失 しつ 渉 わたる 切 きり の葉 は に「県 けん なり、また姓 せい なり」とあり、また、それによる諸橋 もろはし 轍次 てつじ 「大 だい 漢和 かんわ 辞典 じてん 」でも姓 せい の字音 じおん を「セフ」とする。両 りょう 書 しょ ともに現代 げんだい 音 おん では「しょう」となる。しかしながら、藤堂 とうどう 明 あきら 保 ほ 『漢和 かんわ 大 だい 字典 じてん 』では「葉 は 」の項 こう に、「今 いま では、人名 じんめい も地名 ちめい も『ヨウ』と読 よ む。」との注釈 ちゅうしゃく があり、高島 たかしま 俊男 としお は、著書 ちょしょ において「『葉 は (しょう)』という姓 せい は、中国 ちゅうごく では宋 そう 代 だい からYè(日本語 にほんご 音 おん 写 うつし 音 おん 「ヨウ」)と発音 はつおん されるようになり、今 いま では歴史 れきし 上 じょう の人物 じんぶつ を含 ふく めYèと発音 はつおん する。日本 にっぽん では古 ふる くからの呼 よ び方 かた が残 のこ っていて、大体 だいたい 19世紀 せいき 末 まつ くらいまでの人 ひと は「しょう(セフ)」と言 い っている 」(大意 たいい 『「馮」姓 せい 漫談 まんだん 』-漢字 かんじ 検定 けんてい のアホらしさ: ISBN 978-4-89772-252-8 収録 しゅうろく )旨 むね 記述 きじゅつ している。
^ アジア経済 けいざい 研究所 けんきゅうじょ (1973年 ねん )、129ページ。
^ アジア経済 けいざい 研究所 けんきゅうじょ (1974年 ねん )、138ページ。
^ 平松 ひらまつ (1989年 ねん )、145ページ
^ 胡耀邦 こようほう 総 そう 書記 しょき が葉 は 剣 けん 英 えい を党 とう 軍 ぐん 委員 いいん 会 かい 副 ふく 主席 しゅせき からも引退 いんたい させようと試 こころ みた政治 せいじ 闘争 とうそう の存在 そんざい が指摘 してき されている。平松 ひらまつ (1989年 ねん )、144-146ページ。
^ 三菱 みつびし 総合 そうごう 研究所 けんきゅうじょ 編 へん 『中国 ちゅうごく 最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ WHO'S WHO[1996年 ねん 新版 しんぱん ]』蒼蒼 そうそう 社 しゃ
^ a b c d 『叶 かのう 剑英传』編 へん 写 うつし 組 ぐみ 葉 は 剣 つるぎ 英 えい 伝 でん 当代 とうだい 中国 ちゅうごく 出版 しゅっぱん 社 しゃ 2006年 ねん
^ 孔 あな 慶 けい 東 ひがし 『脍炙英雄 えいゆう 』北京 ぺきん 中国 ちゅうごく 文 ぶん 联出版 しゅっぱん 社 しゃ 2012年 ねん
^ 羅宇 らお 『告 つげ 别总参 さん 谋部——罗宇回 かい 忆录』ニューヨーク 開放 かいほう 出版 しゅっぱん 社 しゃ 2015年 ねん
前史 ぜんし 主要 しゅよう 事件 じけん 主 おも な虐殺 ぎゃくさつ 主要 しゅよう 人物 じんぶつ
文書 ぶんしょ 概念 がいねん 集団 しゅうだん 芸術 げいじゅつ
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