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この項目 こうもく では、山西 さんせい 省 しょう 昔 むかし 陽 ひ 県 けん の地名 ちめい について説明 せつめい しています。その他 た の用法 ようほう については「大 だい 寨村 (曖昧 あいまい さ回避 かいひ ) 」をご覧 らん ください。
大 だい 寨村 (だいさい-そん)は中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 山西 さんせい 省 しょう 昔 むかし 陽 ひ 県 けん 大 だい 寨鎮に位置 いち する村 むら 。1964年 ねん に「工業 こうぎょう は大慶 たいけい に学 まな べ(中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 」とともに提唱 ていしょう された「農業 のうぎょう は大 だい 寨に学 まな べ(中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) というスローガンのもと、集団 しゅうだん 農業 のうぎょう の模範 もはん として中国 ちゅうごく 政府 せいふ による政治 せいじ 宣伝 せんでん 活動 かつどう に用 もち いられた[1] 。
大 だい 寨は太 たい 行 ゆき 山脈 さんみゃく 虎 とら 頭 あたま 山麓 さんろく に位置 いち する。村 むら 名 めい は宋 そう 代 だい 、宋 そう 軍 ぐん がこの地 ち において遼 りょう の軍隊 ぐんたい を攻撃 こうげき したことに由来 ゆらい する。人口 じんこう は全 ぜん 村 むら で160世帯 せたい 510人 にん 余 あま り。広 ひろ さは東西 とうざい に約 やく 2km、南北 なんぼく の幅 はば は約 やく 1km、総 そう 面積 めんせき は約 やく 1.88km2 、海抜 かいばつ 1162.6m。全 ぜん 村 むら すべてで700畝 うね 以上 いじょう であった、しかし山 やま の尾根 おね や谷 たに による土地 とち の悪 わる さから村 むら は4千 せん 8百 ひゃく 以上 いじょう に分断 ぶんだん され、その劣悪 れつあく な地形 ちけい は俗 ぞく に「七 なな 溝 みぞ 八 はち 梁 はり 一 いち 面 めん 坡(沢山 だくさん の谷 たに に尾根 おね そして一 いち 面 めん の坂 さか )」といわれた。1年 ねん で霜 しも の降 お りないのは5ヶ月 かげつ 余 あま り、10年 ねん の内 うち 9年 ねん は旱魃 かんばつ に見舞 みま われ1畝 うね 平均 へいきん で70から80斤 きん (1斤 きん =500グラム)と自然 しぜん 環境 かんきょう は非常 ひじょう に劣悪 れつあく であった。
改革 かいかく 開放 かいほう 前 まえ [ 編集 へんしゅう ]
毛 もう 主席 しゅせき 語録 ごろく を読 よ む大 だい 寨村の村民 そんみん (1967年 ねん )
1946年 ねん 互助 ごじょ 組 ぐみ が成立 せいりつ 、1952年 ねん 陳 ちん 永 えい 貴 たか が大 だい 寨村の党 とう 支部 しぶ 書記 しょき に就任 しゅうにん すると、翌年 よくねん に農業 のうぎょう 生産 せいさん 合作 がっさく 社 しゃ を設立 せつりつ 、人民公社 じんみんこうしゃ 設立 せつりつ 運動 うんどう に際 さい しては1958年 ねん に先駆 さきが けて設置 せっち している。この期間 きかん 中 ちゅう 、陳 ちん 永 えい 貴 たか の指導 しどう の下 した 、村民 そんみん は山 やま の下 した から土 ど を運搬 うんぱん し人工 じんこう の棚田 たなだ をき上 ずきあ げた。平均 へいきん 一 いち 人 にん 当 あ たりの土 ど や石 いし の運搬 うんぱん 量 りょう は1000m3に上 のぼ り、土 ど は80万 まん 担を越 こ えた(1担=約 やく 50kg以上 いじょう )。一人 ひとり につき年 とし 平均 へいきん 、石 いし を880担以上 じょう 。糞 くそ 、農作物 のうさくもつ を10万 まん 斤 きん 。1964年 ねん 2月 がつ 10日 とおか 、人民日報 じんみんにっぽう の新華社通信 しんかしゃつうしん 記者 きしゃ によるレポート「大 だい 寨之路 ろ 」に大 だい 寨村の事柄 ことがら が掲載 けいさい され、あわせて社説 しゃせつ 「用 よう 革命 かくめい 精神 せいしん 建設 けんせつ 山 やま 区 く 的 てき 好 こう 榜様」(革命 かくめい 的 てき 精神 せいしん を以 もっ て模範 もはん 的 てき 農村 のうそん を建設 けんせつ する)が発表 はっぴょう された。中国 ちゅうごく 人民 じんみん に大 だい 寨の精神 せいしん を学習 がくしゅう せよと呼 よ びかけ、中国 ちゅうごく において自力 じりき 更生 こうせい の象徴 しょうちょう として「大 だい 寨に学 まね べ」という運動 うんどう が勃興 ぼっこう するに至 いた った[2] 。
改革 かいかく 開放 かいほう 後 ご [ 編集 へんしゅう ]
改革 かいかく 開放 かいほう 後 ご 、中国 ちゅうごく の経済 けいざい は計画 けいかく 経済 けいざい から市場 いちば 経済 けいざい に転換 てんかん し、大 だい 寨も省 はぶけ ・県 けん ・市 し の三 さん 段階 だんかい による所有 しょゆう 制度 せいど 、部隊 ぶたい を基礎 きそ とした人民公社 じんみんこうしゃ 体制 たいせい から世帯 せたい 生産 せいさん 請負 うけおい 責任 せきにん 制 せい へと徐々 じょじょ に移行 いこう した。1983年 ねん 大 だい 寨は農業 のうぎょう 生産 せいさん 責任 せきにん 制 せい を実行 じっこう し、村営 そんえい 企業 きぎょう を設立 せつりつ し、個人 こじん も養殖 ようしょく 業 ぎょう や運輸 うんゆ 業 ぎょう を始 はじ めた。1992年 ねん 大 だい 寨経済 けいざい 開発 かいはつ 総 そう 公司 こうし が設立 せつりつ され、年産 ねんさん 10万 まん トン のセメント会社 かいしゃ となった。それと並行 へいこう して十 じゅう 数 すう 個 こ の企業 きぎょう が発展 はってん した。大 だい 寨村の総 そう 生産 せいさん 額 がく は1978年 ねん の18.56万 まん 元 げん から1992年 ねん の327万 まん 元 げん 、2005年 ねん には大 だい 寨の経済 けいざい 総 そう 収入 しゅうにゅう は11600万 まん 元 げん を越 こ え、年 とし 一 いち 人 にん 当 あ たり平均 へいきん 收入 しゅうにゅう は5500元 げん となった。大 だい 寨の経済 けいざい 総 そう 収入 しゅうにゅう の内 うち 、農業 のうぎょう 収入 しゅうにゅう が占 し める割合 わりあい は0.3%、工業 こうぎょう 收入 しゅうにゅう は56%、流通 りゅうつう 業 ぎょう 10%、サービス業 ぎょう と旅行 りょこう 業 ぎょう は30%を占 し め、二 に 十 じゅう 年 ねん の発展 はってん の結果 けっか 大 だい 寨は既 すで に「政治 せいじ のブランド」から「経済 けいざい のブランド」への脱皮 だっぴ に成功 せいこう したといえる。
大 だい 寨の中国 ちゅうごく 農業 のうぎょう への影響 えいきょう [ 編集 へんしゅう ]
農業 のうぎょう は大 だい 寨に学 まな べ運動 うんどう は全国 ぜんこく 農村 のうそん の基本 きほん 建設 けんせつ に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。しかし中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 中央 ちゅうおう の行 い き過 す ぎた宣伝 せんでん の下 した 、中国 ちゅうごく 農村 のうそん では黄土 おうど を他 た の場所 ばしょ に移 うつ したり、人造 じんぞう の平原 へいげん を作 つく るなどのプロジェクトなど一部 いちぶ のリーダー幹部 かんぶ が業績 ぎょうせき の向上 こうじょう のため言 い われるままに従 したが い、中国 ちゅうごく の自然 しぜん 環境 かんきょう に大 おお きな打撃 だげき を与 あた えることとなった。
^ Spence's "The Search for Modern China" 2nd Edition, p.562
^ Patrick Fuliang Shan, "Chen Yonggui Revisited: Intriguing Figure, Diverse Identities, and Maoist Regimentation," American Journal of Chinese Studies, (Vol. 25, no. 1, April 2018), pp. 31-46.
前史 ぜんし 主要 しゅよう 事件 じけん 主 おも な虐殺 ぎゃくさつ 主要 しゅよう 人物 じんぶつ
文書 ぶんしょ 概念 がいねん 集団 しゅうだん 芸術 げいじゅつ
外交 がいこう 結果 けっか ・影響 えいきょう 関連 かんれん 作品 さくひん
関連 かんれん 項目 こうもく
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