国際 こくさい 連合 れんごう 総会 そうかい 決議 けつぎ 2758
日付 ひづけ :
1971年 ねん 10月 がつ 25日 にち
形式 けいしき :
総会 そうかい 決議 けつぎ
会合 かいごう :
1976回 かい
コード:
A/RES/2758(XXVI)
文書 ぶんしょ :
英語 えいご
投票 とうひょう :
賛成 さんせい : 76 反対 はんたい : 35 棄権 きけん : 17
投票 とうひょう 結果 けっか :
成立 せいりつ
アルバニア決議 けつぎ (アルバニアけつぎ)は、1971年 ねん 10月25日 にち に採択 さいたく された第 だい 26回 かい 国際 こくさい 連合 れんごう 総会 そうかい 2758号 ごう 決議 けつぎ (英語 えいご : 2758 XXVI. Restoration of the lawful rights of the People's Republic of China in the United Nations. 「国際 こくさい 連合 れんごう における中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の合法 ごうほう 的 てき 権利 けんり の回復 かいふく 」)を指 さ す。長年 ながねん にわたる国連 こくれん における「中国 ちゅうごく 代表 だいひょう 権 けん 問題 もんだい 」にかかわる内容 ないよう であり、日本 にっぽん においては、共同 きょうどう 提案 ていあん 国 こく 23ヵ国 かこく [1] のうち特 とく に中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の友好国 ゆうこうこく であったアルバニア人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく の名 な をとって「アルバニア決議 けつぎ 」と通称 つうしょう される。アルバニアが関係 かんけい する総会 そうかい 決議 けつぎ は他 ほか にもあるが、一般 いっぱん 的 てき にはこの中国 ちゅうごく 代表 だいひょう 権 けん (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 問題 もんだい の本 ほん 決議 けつぎ を指 さ す。
これにより、中華民国 ちゅうかみんこく (台湾 たいわん )は国連 こくれん 安保理 あんぽり 常任 じょうにん 理事 りじ 国 こく の座 ざ を失 うしな い、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく が国連 こくれん 安保理 あんぽり 常任 じょうにん 理事 りじ 国 こく と見 み なされた。ただし、国連 こくれん 憲章 けんしょう の記載 きさい は未 いま だに、中華民国 ちゅうかみんこく が国連 こくれん 安保理 あんぽり 常任 じょうにん 理事 りじ 国 こく であるため、同 おな じく記載 きさい されているソビエト連邦 れんぽう の地位 ちい を継承 けいしょう したロシア連邦 れんぽう (旧 きゅう 構成 こうせい 国 こく のうちのロシア・ソビエト連邦 れんぽう 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく )の例 れい と同様 どうよう に中華民国 ちゅうかみんこく がもつ安保理 あんぽり 常任 じょうにん 理事 りじ 国 こく の権限 けんげん を中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく が継承 けいしょう したと解釈 かいしゃく されている。「蔣介石 せき の代表 だいひょう を国連 こくれん から追放 ついほう する」と掲 かか げた本 ほん 決議 けつぎ に抗議 こうぎ する形 かたち で、中華民国 ちゅうかみんこく は国際 こくさい 連合 れんごう を脱退 だったい した。
アルバニア決議 けつぎ (第 だい 26回 かい 国際 こくさい 連合 れんごう 総会 そうかい 2758号 ごう 決議 けつぎ 2758 XXVI)に対 たい する1971年 ねん 当時 とうじ の世界 せかい 各国 かっこく の投票 とうひょう 行動 こうどう の図 ず 。それぞれ緑色 みどりいろ で塗 ぬ られた諸国 しょこく (76カ国 かこく )が賛成 さんせい 、紫色 むらさきいろ で塗 ぬ られた諸国 しょこく (35カ国 かこく )が反対 はんたい 、藍色 あいいろ で塗 ぬ られた諸国 しょこく (17カ国 かこく )は棄権 きけん 、黄色 おうしょく で塗 ぬ られた諸国 しょこく (3カ国 かこく )は無投票 むとうひょう である。
国連 こくれん 総会 そうかい は、
国連 こくれん 憲章 けんしょう の
原則 げんそく を
思 おも い
起 お こし、
中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の
合法 ごうほう 的 てき 権利 けんり を
回復 かいふく させることが、
国連 こくれん 憲章 けんしょう を
守 まも り、かつ
国連 こくれん 組織 そしき を
憲章 けんしょう に
従 したが って
活動 かつどう させるためにも
不可欠 ふかけつ であることを
考慮 こうりょ し、
中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 政府 せいふ の代表 だいひょう が国連 こくれん における中国 ちゅうごく の唯一 ゆいいつ の合法 ごうほう 的 てき な代表 だいひょう であり、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく が国連 こくれん 安全 あんぜん 保障 ほしょう 理事 りじ 会 かい の5つの常任 じょうにん 理事 りじ 国 こく の1つであることを承認 しょうにん する
中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく のすべての
権利 けんり を
樹立 じゅりつ して、その
政府 せいふ の
代表 だいひょう が
国連 こくれん における
中国 ちゅうごく の
唯一 ゆいいつ の
合法 ごうほう 的 てき な
代表 だいひょう であることを
承認 しょうにん し、
蔣介石 せき の
代表 だいひょう を、
彼 かれ らが
国連 こくれん とすべての
関連 かんれん 組織 そしき において
不法 ふほう に
占領 せんりょう する
場所 ばしょ からただちに
追放 ついほう することを
決定 けってい する
— 国連 こくれん 総会 そうかい 決議 けつぎ 2758(外部 がいぶ リンク欄 らん 参照 さんしょう )
この節 ふし は検証 けんしょう 可能 かのう な参考 さんこう 文献 ぶんけん や出典 しゅってん が全 まった く示 しめ されていないか、不十分 ふじゅうぶん です。 出典 しゅってん を追加 ついか して記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく ください。(このテンプレートの使 つか い方 かた ) 出典 しゅってん 検索 けんさく ? : "アルバニア決議 けつぎ " – ニュース · 書籍 しょせき · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2015年 ねん 7月 がつ )
中国 ちゅうごく 大陸 たいりく を統治 とうち していた中華民国 ちゅうかみんこく (蔣介石 せき 率 ひき いる中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう 政権 せいけん )は、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 のち に戦勝 せんしょう 国 こく として国連 こくれん 安保理 あんぽり 常任 じょうにん 理事 りじ 国 こく に選 えら ばれたが[2] 、その後 ご 毛沢東 もうたくとう 率 ひき いる中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう との国共 こっきょう 内戦 ないせん に敗北 はいぼく し、中国 ちゅうごく 大陸 たいりく の領土 りょうど を失 うしな って台湾 たいわん に拠点 きょてん を移 うつ した[3] 。
中国 ちゅうごく 大陸 たいりく を実効 じっこう 支配 しはい し、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の建国 けんこく 宣言 せんげん を行 おこな った中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう と、台湾 たいわん を中華民国 ちゅうかみんこく として統治 とうち した中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう は、国共 こっきょう 内戦 ないせん 後 ご 長 なが らく対立 たいりつ 関係 かんけい のまま、それぞれ内政 ないせい 問題 もんだい 等 とう に忙殺 ぼうさつ される形 かたち で、条約 じょうやく や協定 きょうてい のない実質 じっしつ 的 てき 停戦 ていせん 状態 じょうたい に至 いた り、分断 ぶんだん 状態 じょうたい が固定 こてい 化 か した。中国 ちゅうごく 大陸 たいりく (本土 ほんど )を実効 じっこう 支配 しはい する中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく と、台湾 たいわん に遷都 せんと したものの国連 こくれん 安保理 あんぽり 常任 じょうにん 理事 りじ 国 こく である中華民国 ちゅうかみんこく は、それぞれ着目 ちゃくもく 点 てん によって一方 いっぽう が優勢 ゆうせい ・他方 たほう が劣勢 れっせい にあったが、双方 そうほう とも自 じ 政府 せいふ が中国 ちゅうごく 唯一 ゆいいつ の正統 せいとう 政府 せいふ であるとの立場 たちば を崩 くず さなかった。
中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく が国連 こくれん に中華民国 ちゅうかみんこく の追放 ついほう を最初 さいしょ に提起 ていき したのは1949年 ねん 11月18日 にち で、以後 いご 「中国 ちゅうごく 代表 だいひょう 権 けん 問題 もんだい 」と呼 よ ばれ、長 なが らく提議 ていぎ されては否決 ひけつ され続 つづ けてきた。中 ちゅう ソ対立 たいりつ が鮮明 せんめい となった1950年代 ねんだい 後半 こうはん 以降 いこう も1964年 ねん 第 だい 18回 かい 国連 こくれん 総会 そうかい 、1968年 ねん 第 だい 5回 かい 国連 こくれん 緊急 きんきゅう 特別 とくべつ 総会 そうかい 、1970年 ねん 第 だい 25回 かい 国連 こくれん 総会 そうかい においてもアルバニアなどから類似 るいじ の提案 ていあん がなされたが、いずれも否決 ひけつ されている。提起 ていき された中華民国 ちゅうかみんこく の追放 ついほう については、1961年 ねん の第 だい 16回 かい 国連 こくれん 総会 そうかい 以降 いこう 、国連 こくれん 憲章 けんしょう 18条 じょう に示 しめ される「重要 じゅうよう 事項 じこう 」に指定 してい する「重要 じゅうよう 問題 もんだい 決議 けつぎ 案 あん 」が別途 べっと 共同 きょうどう 提出 ていしゅつ されており(必要 ひつよう な賛成 さんせい 票 ひょう を過半数 かはんすう から2 ⁄3 とすることが狙 ねら い)、これが可決 かけつ され続 つづ けていたことで阻止 そし されていた[4] 。
転機 てんき となったのは、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく がベトナム戦争 せんそう において泥沼 どろぬま 化 か し、北 きた ベトナム(ベトナム民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく )との停戦 ていせん 交渉 こうしょう を進 すす める中 なか で、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の協力 きょうりょく が必要 ひつよう となったことである。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく は中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の協力 きょうりょく を得 え るため、国連 こくれん 安保理 あんぽり 常任 じょうにん 理事 りじ 国 こく の継承 けいしょう は合意 ごうい したが、中華民国 ちゅうかみんこく の国連 こくれん 追放 ついほう までは考 かんが えていなかった[5] 。しかし、1970年 ねん 時点 じてん でアルバニア決議 けつぎ 案 あん は賛成 さんせい 51、反対 はんたい 49、棄権 きけん 25、欠席 けっせき 2と過半数 かはんすう を占 し めたのに対 たい し、重要 じゅうよう 問題 もんだい 決議 けつぎ 案 あん は賛成 さんせい 66、反対 はんたい 52、棄権 きけん 7、欠席 けっせき 2という状況 じょうきょう で、逆転 ぎゃくてん の形勢 けいせい は明白 めいはく であった[6] 。
1971年 ねん 7月 がつ 中旬 ちゅうじゅん 、アルバニア、アルジェリア 、ルーマニア などの共同 きょうどう 提案 ていあん 国 こく 23ヵ国 かこく が「中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 政府 せいふ の代表 だいひょう 権 けん 回復 かいふく 、中華民国 ちゅうかみんこく 政府 せいふ 追放 ついほう 」を趣旨 しゅし とするアルバニア決議 けつぎ 案 あん を、国際 こくさい 連合 れんごう 事務 じむ 局 きょく に提出 ていしゅつ した。その後 ご 、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 側 がわ は、「中華民国 ちゅうかみんこく 」の国連 こくれん 追放 ついほう ではなく、「蔣介石 せき の代表 だいひょう 」の国連 こくれん 追放 ついほう と文面 ぶんめん を改 あらた め、当時 とうじ 友好国 ゆうこうこく であったアルバニアを経由 けいゆ し「国府 こくふ 追放 ついほう ・北京 ぺきん 招請 しょうせい 」決議 けつぎ 案 あん (A/L.630) を1971年 ねん 9月 がつ 25日 にち に第 だい 26回 かい 国連 こくれん 総会 そうかい に提出 ていしゅつ した。アメリカは、中華民国 ちゅうかみんこく 側 がわ に安保理 あんぽり 常任 じょうにん 理事 りじ 国 こく のみ辞退 じたい し、国連 こくれん 議席 ぎせき を守 まも るいわゆる「二 に 重 じゅう 代表 だいひょう 制 せい 決議 けつぎ 案 あん (A/L.633)」を国連 こくれん に提出 ていしゅつ 。
総会 そうかい では、議題 ぎだい 採択 さいたく 等 とう をめぐり一般 いっぱん 委員 いいん 会 かい や本 ほん 会議 かいぎ 等 とう で中華民国 ちゅうかみんこく 追放 ついほう 支持 しじ 派 は と反対 はんたい 派 は の間 あいだ で激 はげ しい論議 ろんぎ が展開 てんかい された。
表決 ひょうけつ に先立 さきだ ち、中華民国 ちゅうかみんこく 代表 だいひょう は“これ以上 いじょう 総会 そうかい の審議 しんぎ に参加 さんか しない”旨 むね 宣言 せんげん し、総 そう 会議 かいぎ 場 じょう から退場 たいじょう した[7] 。
10月18日 にち から73ヵ国 かこく の多数 たすう が一般 いっぱん 討論 とうろん に参加 さんか する本格 ほんかく 審議 しんぎ が開始 かいし され、10月25日 にち にアルバニア決議 けつぎ 案 あん (A/L.630) が賛成 さんせい 76、反対 はんたい 35、棄権 きけん 17、欠席 けっせき 3で通過 つうか [8] 。
このアルバニア決議 けつぎ 案 あん 通過 つうか を受 う け、二 に 重 じゅう 代表 だいひょう 制 せい 決議 けつぎ 案 あん は表決 ひょうけつ に付 ふ されず。後 のち に中華民国 ちゅうかみんこく は、国連 こくれん (及 およ び加盟 かめい する各 かく 専門 せんもん 機関 きかん )からも脱退 だったい を宣言 せんげん した。
中国 ちゅうごく 代表 だいひょう 権 けん 問題 もんだい を報 ほう じる、1965年 ねん 11月18日 にち 付 づけ の毎日新聞 まいにちしんぶん 夕刊 ゆうかん 。
日本 にっぽん は、1964年 ねん 案 あん ・1970年 ねん 案 あん それぞれに反対 はんたい 票 ひょう を投 とう じている。
1971年 ねん 8月 がつ 、佐藤 さとう 内閣 ないかく は「中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の国連 こくれん 加盟 かめい には賛成 さんせい するが、中華民国 ちゅうかみんこく の議席 ぎせき 追放 ついほう には反対 はんたい する」とした基本 きほん 方針 ほうしん を発表 はっぴょう 。9月22日 にち 、当時 とうじ の内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん であった佐藤 さとう 栄作 えいさく は「二 に 重 じゅう 代表 だいひょう 制 せい 決議 けつぎ 案 あん 」および「追放 ついほう 反対 はんたい 重要 じゅうよう 問題 もんだい 決議 けつぎ 案 あん 」を共同 きょうどう 提案 ていあん する方針 ほうしん を示 しめ した。
このため、国際 こくさい 連合 れんごう 総会 そうかい では「重要 じゅうよう 問題 もんだい 決議 けつぎ 案 あん (アルバニア決議 けつぎ が別途 べっと 提出 ていしゅつ されていたため、反 はん 重要 じゅうよう 問題 もんだい 決議 けつぎ 案 あん 、追放 ついほう 反対 はんたい 重要 じゅうよう 問題 もんだい 決議 けつぎ 案 あん 、逆 ぎゃく 重要 じゅうよう 問題 もんだい 決議 けつぎ 案 あん とも)」「二 に 重 じゅう 代表 だいひょう 制 せい 決議 けつぎ 案 あん (複 ふく 合 あい 二 に 重 じゅう 代表 だいひょう 制 せい 決議 けつぎ 案 あん )」の共同 きょうどう 提案 ていあん 国 こく に連名 れんめい した[4] 。
日本国 にっぽんこく 政府 せいふ が支持 しじ した「重要 じゅうよう 問題 もんだい 決議 けつぎ 案 あん 」は、指定 してい された決議 けつぎ 案 あん は3分 ぶん の2の賛成 さんせい が必要 ひつよう (国連 こくれん 憲章 けんしょう 第 だい 18条 じょう 2項 こう )であるが、総会 そうかい において「重要 じゅうよう 問題 もんだい 決議 けつぎ 案 あん 」は、賛成 さんせい 55、反対 はんたい 59、棄権 きけん 15、欠席 けっせき 2で否決 ひけつ された。また、アルバニア決議 けつぎ 案 あん が採決 さいけつ 、採択 さいたく されたために「二 に 重 じゅう 代表 だいひょう 制 せい 決議 けつぎ 案 あん 」は表決 ひょうけつ にすら付 ふ されなかった。
総会 そうかい の結果 けっか を受 う け、日本 にっぽん 社会党 しゃかいとう を始 はじ めとした左派 さは 政党 せいとう およびマスコミ は、外交 がいこう 上 じょう の敗北 はいぼく と佐藤 さとう 首相 しゅしょう を厳 きび しく非難 ひなん するなど、内政 ないせい に影響 えいきょう を与 あた えた。一方 いっぽう 、直後 ちょくご の国会 こっかい 答弁 とうべん において、佐藤 さとう 首相 しゅしょう は「政府 せいふ は、国連 こくれん の決定 けってい を尊重 そんちょう し、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の国連 こくれん 参加 さんか を歓迎 かんげい するものであります。政府 せいふ のとった処置 しょち は国連 こくれん で否決 ひけつ されましたが、結果 けっか 的 てき に見 み て、わが国 くに の長期 ちょうき 的 てき な国益 こくえき に沿 そ うものであることを確信 かくしん するものであります」、外務 がいむ 大臣 だいじん の福田 ふくだ 赳夫 たけお も「この決議 けつぎ 案 あん には敗 やぶ れました、しかし、敗 やぶ れたりといえども、私 わたし は、わが日本 にっぽん 国 こく は国際 こくさい 社会 しゃかい において信義 しんぎ を守 まも り通 とお した、また、筋 すじ を通 とお し抜 ぬ いた、このことにつきましては、国民 こくみん 各位 かくい にぜひとも誇 ほこ りを持 も っていただきたいのだということを申 もう し上 あ げまして、お答 こた えといたします。」とそれぞれ述 の べている[9] 。
アルバニア決議 けつぎ 案 あん 採決 さいけつ 後 ご の1971年 ねん 11月、当時 とうじ 東京 とうきょう 都知事 とちじ の美濃部 みのべ 亮吉 りょうきち を介 かい して自由民主党 じゆうみんしゅとう 幹事 かんじ 長 ちょう (当時 とうじ は保利 ほり 茂 しげる )の書簡 しょかん を周 しゅう 恩来 おんらい 国務 こくむ 院 いん 総理 そうり に渡 わた すが、周 しゅう は中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 政府 せいふ として、書簡 しょかん の正式 せいしき な受 う け取 と りを拒否 きょひ する外交 がいこう 折衝 せっしょう も発生 はっせい し、佐藤 さとう 政権 せいけん 下 か での中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく との外交 がいこう 関係 かんけい 構築 こうちく は困難 こんなん を極 きわ めた[10] [11] [12] 。
1972年 ねん 1月 がつ 、佐藤 さとう 首相 しゅしょう は施政 しせい 方針 ほうしん 演説 えんぜつ において、日 にち 華 はな 平和 へいわ 条約 じょうやく 締結 ていけつ 後 ご の中華民国 ちゅうかみんこく 政府 せいふ との密接 みっせつ な関係 かんけい を肯定 こうてい しつつ、国際 こくさい 関係 かんけい の現実 げんじつ に立脚 りっきゃく し、今後 こんご 中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 政府 せいふ との関係 かんけい 正常 せいじょう 化 か のため政府 せいふ 間 あいだ の議論 ぎろん が急務 きゅうむ と述 の べ、中国 ちゅうごく との国交 こっこう 正常 せいじょう 化 か を目指 めざ す意向 いこう を示 しめ し[13] 、周 しゅう 恩来 おんらい への親書 しんしょ を託 たく した密使 みっし を香港 ほんこん に派遣 はけん して北京 ぺきん 訪問 ほうもん の希望 きぼう も伝 つた えた[14] [15] 。
1972年 ねん 2月 がつ 、アメリカのニクソン大統領 だいとうりょう が中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の訪問 ほうもん を行 おこな うと、4月 がつ に中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく との国交 こっこう 正常 せいじょう 化 か を推進 すいしん する三木 みき 武夫 たけお が中国 ちゅうごく を訪問 ほうもん して周 しゅう 恩来 おんらい と会談 かいだん 。佐藤 さとう の退陣 たいじん 決定 けってい 後 ご の7月 がつ 5日 にち におこなわれた1972年 ねん 自由民主党 じゆうみんしゅとう 総裁 そうさい 選挙 せんきょ に勝利 しょうり して首相 しゅしょう に就任 しゅうにん した田中 たなか 角栄 かくえい は、同月 どうげつ の党 とう 総会 そうかい で中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく との平和 へいわ 条約 じょうやく 締結 ていけつ を目標 もくひょう とする「日 にち 中 ちゅう 国交 こっこう 正常 せいじょう 化 か 」を掲 かか げ、党内 とうない 意見 いけん 調整 ちょうせい のために中国 ちゅうごく 問題 もんだい 調査 ちょうさ 会 かい を日 にち 中 ちゅう 国交 こっこう 正常 せいじょう 化 か 協議 きょうぎ 会 かい に拡大 かくだい した。
田中 たなか 角栄 かくえい 内閣 ないかく は日 にち 中 ちゅう 国交 こっこう 正常 せいじょう 化 か を掲 かか げる一方 いっぽう 、中華民国 ちゅうかみんこく を切 き り捨 す てないとするかつて外務 がいむ 大臣 だいじん を歴任 れきにん した小坂 こさか 善太郎 ぜんたろう の提唱 ていしょう する案 あん も受 う け入 い れ、同年 どうねん 9月 がつ 8日 にち の日 にち 中 ちゅう 国交 こっこう 正常 せいじょう 化 か 基本 きほん 方針 ほうしん において「中華民国 ちゅうかみんこく との深 ふか い関係 かんけい にかんがみ、従来 じゅうらい の関係 かんけい が継続 けいぞく されるよう十 じゅう 分 ふん 配慮 はいりょ のうえ交渉 こうしょう すべきである」の一文 いちぶん を盛 も り込 こ む[16] 。9月17日 にち 、田中 たなか 内閣 ないかく は激 はげ しい抗議 こうぎ デモが発生 はっせい する台湾 たいわん へ、田中 たなか 首相 しゅしょう の親書 しんしょ を携 たずさ えた特使 とくし を派遣 はけん している。
アルバニア決議 けつぎ 案 あん 採決 さいけつ は日本 にっぽん 外交 がいこう の転換 てんかん 点 てん となった。同年 どうねん 9月 がつ 25日 にち から田中 たなか 自身 じしん が中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく を訪問 ほうもん し、9月29日 にち に日 にち 中 ちゅう 共同 きょうどう 声明 せいめい が出 だ され、中華民国 ちゅうかみんこく との国交 こっこう を断絶 だんぜつ することになった[17] 。中華民国 ちゅうかみんこく 側 がわ も同日 どうじつ 対 たい 日 にち 断交 だんこう 宣言 せんげん を出 だ して応 おう じた[18] 。
この決議 けつぎ においてアメリカは、中華民国 ちゅうかみんこく の国連 こくれん 議席 ぎせき を守 まも る「二 に 重 じゅう 代表 だいひょう 制 せい 決議 けつぎ 案 あん (A/L.633)」を国連 こくれん に提出 ていしゅつ 、また「重要 じゅうよう 問題 もんだい 決議 けつぎ 案 あん 」の共同 きょうどう 提案 ていあん 国 こく にも名 な を連 つら ねた[4] 。しかし決議 けつぎ 直前 ちょくぜん の1971年 ねん 7月 がつ にヘンリー・キッシンジャー は極秘 ごくひ で北京 ぺきん を訪問 ほうもん し、周 しゅう 恩来 おんらい と会談 かいだん しニクソン大統領 だいとうりょう 訪中 ほうちゅう を話 はな し合 あ っていた[4] [19] 。
翌 よく 1972年 ねん 2月 がつ に共和党 きょうわとう のニクソン大統領 だいとうりょう が中国 ちゅうごく を訪問 ほうもん すると、「上海 しゃんはい コミュニケ 」と呼 よ ばれる共同 きょうどう 声明 せいめい を発 はっ し、米 べい 中 ちゅう 関係 かんけい は劇的 げきてき に改善 かいぜん した。1973年 ねん 5月、米 べい 中 ちゅう 両国 りょうこく は正式 せいしき な国交 こっこう を樹立 じゅりつ するための努力 どりょく の一環 いっかん として、北京 ぺきん とワシントンD.C. にそれぞれ連絡 れんらく 事務所 じむしょ を設立 せつりつ した。1973年 ねん から1978年 ねん の間 あいだ にデビッド・カークパトリック・エステ・ブルース 、ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ 、トーマス・ソブリン・ゲイツ 、レナード・ウッドコック が事務所 じむしょ の特命 とくめい 全権 ぜんけん 公使 こうし として任命 にんめい された。共和党 きょうわとう のジェラルド・フォード 大統領 だいとうりょう が1975年 ねん に訪中 ほうちゅう し、アメリカの対 たい 中 ちゅう 関係 かんけい 正常 せいじょう 化 か の意思 いし を再 さい 確認 かくにん し、1978年 ねん 12月15日 にち に民主党 みんしゅとう のジミー・カーター 大統領 だいとうりょう は1979年 ねん 1月 がつ に国交 こっこう 樹立 じゅりつ することを決定 けってい した。
当時 とうじ は冷戦 れいせん 下 した であったものの、東西 とうざい 問 と わず殆 ほとん どのヨーロッパ 諸国 しょこく はアルバニア決議 けつぎ に賛成 さんせい した。棄権 きけん したのは反共 はんきょう 主義 しゅぎ 的 てき なスペイン とギリシャ とルクセンブルク のみである。アルバニア決議 けつぎ 採択 さいたく 後 ご 、スペインのフランコ 政権 せいけん は1973年 ねん 、ギリシャ軍事 ぐんじ 政権 せいけん とルクセンブルクは1972年 ねん に中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく と国交 こっこう を樹立 じゅりつ した。
ポルトガルは反共 はんきょう 主義 しゅぎ 的 てき なエスタド・ノヴォ 体制 たいせい であり、カーネーション革命 かくめい まで中華民国 ちゅうかみんこく と国交 こっこう を保 たも ったにもかかわらず、一 いち 二 に ・三 さん 事件 じけん での関係 かんけい 冷却 れいきゃく 化 か から賛成 さんせい に回 まわ った。中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく とも中華民国 ちゅうかみんこく とも国交 こっこう を持 も たなかった西 にし ドイツ はアルバニア決議 けつぎ 後 ご に国連 こくれん に加盟 かめい することになるが、1972年 ねん に中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく と国交 こっこう を樹立 じゅりつ した[20] 。
中華民国 ちゅうかみんこく への影響 えいきょう [ 編集 へんしゅう ]
中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく は、「一 ひと つの中国 ちゅうごく 」をスローガンとして掲 かか げ、同 どう 決議 けつぎ を根拠 こんきょ に諸 しょ 外国 がいこく へ中華民国 ちゅうかみんこく との国交 こっこう 断絶 だんぜつ を迫 せま った。経済 けいざい 発展 はってん を続 つづ ける中華民国 ちゅうかみんこく との国交 こっこう 継続 けいぞく を願 ねが う諸国 しょこく は多 おお かったが、「中華民国 ちゅうかみんこく と国交 こっこう 断絶 だんぜつ しない場合 ばあい は、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく から国交 こっこう 断絶 だんぜつ する」などの外交 がいこう 選択 せんたく やそれに伴 ともな う経済 けいざい 的 てき 不利益 ふりえき 、さらには国連 こくれん での拒否 きょひ 権 けん 発動 はつどう をちらつかせるなど有形 ゆうけい 無形 むけい の外交 がいこう 圧力 あつりょく を加 くわ えたため、中華民国 ちゅうかみんこく は国際 こくさい 社会 しゃかい でほぼ孤立 こりつ することとなった。
その後 ご の中華民国 ちゅうかみんこく [ 編集 へんしゅう ]
決議 けつぎ に反対 はんたい していた日本 にっぽん やアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく などの西側 にしがわ 諸国 しょこく をはじめとして(ただし、イギリス ・イタリア ・フランス ・カナダ ・トルコ などといった西側 にしがわ 諸国 しょこく もアルバニア決議 けつぎ に賛成 さんせい した)、中華民国 ちゅうかみんこく との外交 がいこう 関係 かんけい や民間 みんかん 交流 こうりゅう を継続 けいぞく し、非公式 ひこうしき ながら実質 じっしつ 的 てき に国交 こっこう に近 ちか い待遇 たいぐう を行 おこな っている国 くに も少 すく なくない。2023年 ねん 8月 がつ 現在 げんざい 、中華民国 ちゅうかみんこく と正式 せいしき な国交 こっこう を持 も つ国 くに は、中南米 ちゅうなんべい やオセアニア などを中心 ちゅうしん とした13カ国 かこく である。この13は中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく とは国交 こっこう を結 むす んでいないが、一部 いちぶ は中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく と非公式 ひこうしき な関係 かんけい も持 も っており[21] [22] 、このうちニカラグア ・ナウル ・セントルシア ・キリバス などはかつて中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく と国交 こっこう を結 むす んで後 のち に中華民国 ちゅうかみんこく と国交 こっこう を回復 かいふく した国家 こっか でもある[23] [24] 。
事件 じけん の衝撃 しょうげき は、台湾 たいわん 人 じん を憤慨 ふんがい させるとともに、世界中 せかいじゅう から孤立 こりつ しているかのような孤独 こどく 感 かん をもたらした。李 り 登輝 とうき 時代 じだい の1993年 ねん から、中華民国 ちゅうかみんこく は毎年 まいとし 国連 こくれん に復帰 ふっき を求 もと めてきたが、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく からの圧力 あつりょく のため実現 じつげん しなかった。2007年 ねん 7月 がつ 19日 にち に陳 ちん 水 みず 扁 ひらた 総統 そうとう は初 はじ めて「台湾 たいわん 」名義 めいぎ による新規 しんき 加盟 かめい の手続 てつづ きで国連 こくれん 加盟 かめい を申請 しんせい したが、潘 はん 基 はじめ 文 ぶん 国連 こくれん 事務 じむ 総長 そうちょう は、本 ほん 決議 けつぎ を根拠 こんきょ に申請 しんせい を不 ふ 受理 じゅり とした。陳 ひね は「台湾 たいわん は絶対 ぜったい に中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の一部 いちぶ ではない」と反発 はんぱつ し、「本 ほん 決議 けつぎ は台湾 たいわん の帰属 きぞく には触 ふ れられていない」と主張 しゅちょう している。2009年 ねん に中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく との関係 かんけい を重視 じゅうし する馬 うま 英 えい 九 きゅう 総統 そうとう は17年 ねん ぶりに国連 こくれん 加盟 かめい 申請 しんせい を取 と り下 さ げた[25] 。
その後 ご の中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく [ 編集 へんしゅう ]
中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の外交 がいこう 関係 かんけい 一覧 いちらん 図 ず 。緑色 みどりいろ で塗 ぬ られた諸国 しょこく は中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく と国交 こっこう を有 ゆう し、赤色 あかいろ で塗 ぬ られた諸国 しょこく とは国交 こっこう を有 ゆう していない。黄土 おうど 色 しょく で塗 ぬ られた地域 ちいき は係争 けいそう 地 ち 。
同 どう 決議 けつぎ により、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく は国連 こくれん 安保理 あんぽり 常任 じょうにん 理事 りじ 国 こく となり、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の加盟 かめい を支持 しじ していた当時 とうじ の国際 こくさい 連合 れんごう 事務 じむ 総長 そうちょう であるウ・タント は電報 でんぽう で中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく に国際 こくさい 連合 れんごう 安全 あんぜん 保障 ほしょう 理事 りじ 会 かい へ速 すみ やかに出席 しゅっせき するよう要請 ようせい して代表 だいひょう 団 だん を歓迎 かんげい した[26] [27] 。なお、国連 こくれん 安保理 あんぽり 常任 じょうにん 理事 りじ 国 こく としての拒否 きょひ 権 けん は、実際 じっさい の行使 こうし は米 べい ソ英 えい 仏 ふつ に比 くら べれば中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく は慎重 しんちょう であった(実際 じっさい の行使 こうし は2012年 ねん 時点 じてん で8度 ど 。1972年 ねん のバングラデシュ の国連 こくれん 加盟 かめい 問題 もんだい と1973年 ねん の第 だい 四 よん 次 じ 中東 ちゅうとう 戦争 せんそう の停戦 ていせん 決議 けつぎ 、1997年 ねん のグアテマラ への軍事 ぐんじ 監視 かんし 要員 よういん 派遣 はけん 決議 けつぎ 、1999年 ねん のマケドニア共和国 まけどにあきょうわこく へのPKO活動 かつどう 延長 えんちょう 決議 けつぎ 、2007年 ねん 1月 がつ のミャンマー への政治 せいじ 犯 はん 釈放 しゃくほう 要求 ようきゅう 決議 けつぎ 、2008年 ねん 7月 がつ のジンバブエ 制裁 せいさい 決議 けつぎ 、2011年 ねん 10月 がつ のシリア 非難 ひなん 決議 けつぎ 、2012年 ねん 2月 がつ のシリア非難 ひなん 決議 けつぎ )。ただし、国連 こくれん 事務 じむ 総長 そうちょう 選挙 せんきょ ではアルバニア決議 けつぎ で協力 きょうりょく した第 だい 三 さん 世界 せかい の候補者 こうほしゃ を支持 しじ して1971年 ねん 、1976年 ねん 、1981年 ねん の国際 こくさい 連合 れんごう 事務 じむ 総長 そうちょう の選出 せんしゅつ などで拒否 きょひ 権 けん を行使 こうし (特 とく にクルト・ヴァルトハイム に対 たい するもの)したことはあった[28] [29] [30] [31] 。
中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく は、「台湾 たいわん は自国 じこく の不可分 ふかぶん の領土 りょうど であり外国 がいこく の介入 かいにゅう は内政 ないせい 干渉 かんしょう だ」とする姿勢 しせい を崩 くず さない。また中華民国 ちゅうかみんこく (“二 ふた つの中国 ちゅうごく ”)ではなく「台湾 たいわん 」としての独立 どくりつ 宣言 せんげん (一 いち 中 ちゅう 一 いち 台 だい :一 ひと つの中国 ちゅうごく 、一 ひと つの台湾 たいわん )を警戒 けいかい し反 はん 国家 こっか 分裂 ぶんれつ 法 ほう の制定 せいてい を行 おこな った。台湾 たいわん 独立 どくりつ 宣言 せんげん があった際 さい には、同 どう 法 ほう を根拠 こんきょ に国内 こくない 問題 もんだい として処理 しょり する(武力 ぶりょく 行使 こうし を否定 ひてい せず、台湾 たいわん 侵攻 しんこう を示唆 しさ )としている。
友好国 ゆうこうこく として中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく に協力 きょうりょく したエンヴェル・ホッジャ 率 ひき いるアルバニア人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく であったが、反共 はんきょう 的 てき なスペイン のフランシスコ・フランコ 政権 せいけん やチリ のアウグスト・ピノチェト 政権 せいけん などと中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく が国交 こっこう を持 も ったこと、米 べい 中 ちゅう 接近 せっきん などを非難 ひなん し[32] 、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく は3つの世界 せかい 論 ろん を利用 りよう して「第 だい 三 さん 世界 せかい の超 ちょう 大国 たいこく 」になることを企 たくら んでいると主張 しゅちょう した[33] [34] 。その後 ご 、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく からの経済 けいざい 援助 えんじょ を打 う ち切 き られたため、経済 けいざい 的 てき に貧窮 ひんきゅう することとなった。アルバニアは中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく に抗議 こうぎ し、中 ちゅう ア対立 たいりつ が表面 ひょうめん 化 か した。
アルバニア労働党 ろうどうとう の反 はん 修正 しゅうせい 主義 しゅぎ がもたらした閉鎖 へいさ 的 てき な外交 がいこう 政策 せいさく は、アルバニア社会 しゃかい 主義 しゅぎ 人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく が一 いち 党 とう 制 せい の人民 じんみん 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 体制 たいせい から複数 ふくすう 政党 せいとう 制 せい の自由 じゆう 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 体制 たいせい を国体 こくたい とするアルバニア共和 きょうわ 国 こく に移行 いこう する1990年代 ねんだい まで尾 お を引 ひ くことになる。
投票 とうひょう 内訳 うちわけ [ 編集 へんしゅう ]
国連 こくれん 加盟 かめい 国 こく の内 うち 、モーリシャス 、オマーン 、モルディブ の3ヶ国 かこく は欠席 けっせき 。
^ 第 だい 4章 しょう 国際 こくさい 連合 れんごう における活動 かつどう とその他 た の国際 こくさい 協力 きょうりょく 外務省 がいむしょう
^ 川島 かわしま 真 しん 「中国 ちゅうごく 外交 がいこう における象徴 しょうちょう としての国際 こくさい 的 てき 地位 ちい ――ハーグ国際 こくさい 会議 かいぎ 、国際 こくさい 連盟 れんめい 、そして国際 こくさい 連合 れんごう へ――」『天安門 てんあんもん 事件 じけん 後 ご の中国 ちゅうごく 国際 こくさい 政治 せいじ 145号 ごう 』日本 にっぽん 国際 こくさい 政治 せいじ 学会 がっかい 、2006年 ねん 8月 がつ 、18-19ページ。
^ 程 ほど 大學 だいがく 「台湾 たいわん 二 に 二 に 八 はち 事件 じけん の分析 ぶんせき と再 さい 検討 けんとう ――二 に 二 に 八 はち 事件 じけん の後遺症 こういしょう と今後 こんご の政治 せいじ 展望 てんぼう ――」『台湾 たいわん 史 し 研究 けんきゅう 』第 だい 10号 ごう 、台湾 たいわん 史 し 研究 けんきゅう 会 かい 、1993年 ねん 、1, 29ページ。
^ a b c d NHK取材 しゅざい 班 はん 『周 しゅう 恩来 おんらい の決断 けつだん ―日 にち 中 ちゅう 国交 こっこう 正常 せいじょう 化 か はこうして実現 じつげん した』日本 にっぽん 放送 ほうそう 出版 しゅっぱん 協会 きょうかい 、1993年 ねん 。ISBN 978-4140800881 。
^ 戸川 とがわ 猪 いの 佐武 さたけ 『昭和 しょうわ 外交 がいこう 五 ご 十 じゅう 年 ねん 』學藝 がくげい 書林 しょりん 、1973年 ねん 、351ページ。
^ 戸川 とがわ 353ページ。
^ NHK取材 しゅざい 班 はん 『周 しゅう 恩来 おんらい の決断 けつだん 日 び 中 ちゅう 国交 こっこう 正常 せいじょう 化 か はこうして実現 じつげん した』日本 にっぽん 放送 ほうそう 出版 しゅっぱん 協会 きょうかい 、1993年 ねん 、37ページ。ISBN 4-14-080088-7 。
^ 戸川 とがわ 352-353ページ。
^ “第 だい 67回 かい 国会 こっかい 衆議院 しゅうぎいん 本 ほん 会議 かいぎ 第 だい 6号 ごう 昭和 しょうわ 46年 ねん 10月 がつ 26日 にち ”. 国会 こっかい 会議 かいぎ 録 ろく 検索 けんさく システム . 国立 こくりつ 国会 こっかい 図書館 としょかん . 2020年 ねん 1月 がつ 5日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “日本 にっぽん 前 ぜん 首相 しゅしょう 披露 ひろう 中日 ちゅうにち 交往過程 かてい 中 ちゅう 的 てき 另一面 めん ”. 人民 じんみん 網 もう (2004年 ねん 7月 がつ 6日 にち ). 2017年 ねん 10月 がつ 10日 とおか 閲覧 えつらん 。
^ “日 にち 中 ちゅう 国交 こっこう 回復 かいふく 水面 すいめん 下 か の交渉 こうしょう を託 たく された一人 ひとり の男 おとこ の姿 すがた ”. j-cast. 2017年 ねん 9月 がつ 26日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 奥 おき 島 とう 貞雄 さだお 『自民党 じみんとう 幹事 かんじ 長 ちょう 室 しつ の30年 ねん 』中央公論 ちゅうおうこうろん 新 しん 社 しゃ 、2005 年 ねん 、47-48 頁 ぺーじ 。
^ (4)第 だい 68回 かい 国会 こっかい における佐藤 さとう 内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん 施政 しせい 方針 ほうしん 演説 えんぜつ
^ “日本 にっぽん 前 ぜん 首相 しゅしょう 披露 ひろう 中日 ちゅうにち 交往過程 かてい 中 ちゅう 的 てき 另一面 めん ”. 人民 じんみん 網 もう (2004年 ねん 7月 がつ 6日 にち ). 2017年 ねん 10月 がつ 10日 とおか 閲覧 えつらん 。
^ NHK BS1 スペシャル「日 にち 中 ちゅう “密使 みっし 外交 がいこう ”の全貌 ぜんぼう ~佐藤 さとう 栄作 えいさく の極秘 ごくひ 交渉 こうしょう ~」2017年 ねん 9月 がつ 24日 にち
^ 林 はやし 金 きん 莖 くき 『梅 うめ と桜 さくら ―戦後 せんご の日 ひ 華 はな 関係 かんけい 』サンケイ出版 しゅっぱん 、1984年 ねん 、269-280ページ。ISBN 4-383-02299-5 。
^ 林 はやし 1984、298-304ページ。
^ 林 はやし 1984、304-306ページ。
^ ヘンリー・キッシンジャー『キッシンジャー秘録 ひろく 』小学館 しょうがくかん 、1979年 ねん 。
^ Sino-West German Relations during the Mao Era | Wilson Center
^ “外務省 がいむしょう 台湾 たいわん 基礎 きそ データ ”. 外務省 がいむしょう . 2023年 ねん 8月 がつ 24日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “バチカン代表 だいひょう 団 だん 、中国 ちゅうごく 側 がわ と非公式 ひこうしき に会談 かいだん 「対話 たいわ は長 なが い道 みち のり」” . クリスチャン・トゥデイ . (2016年 ねん 6月 がつ 1日 にち ). http://www.christiantoday.co.jp/articles/21035/20160601/vatican-china.htm 2017年 ねん 12月24日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Shinn, David H.; Eisenman, Joshua (2012). China and Africa: A Century of Engagement . Philadelphia: University of Pennsylvania Press. p. 248. ISBN 081-220-800-5
^ “Taiwan President to Stop in US” . ワシントン・ポスト . (2007年 ねん 1月 がつ 5日 にち ). http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/01/05/AR2007010502229.html 2017年 ねん 12月24日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “台湾 たいわん が国連 こくれん 加盟 かめい 申請 しんせい を見送 みおく り、中国 ちゅうごく との関係 かんけい 改善 かいぜん で” . ロイター . (2009年 ねん 9月 がつ 4日 にち ). https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-11351720090904 2018年 ねん 1月 がつ 11日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Szulc, Tad (1971年 ねん 10月 がつ 28日 にち ). “Thant Asks China to Name Delegate to Council Soon” . ニューヨーク・タイムズ . https://www.nytimes.com/1971/10/28/archives/thant-asks-china-to-name-delegate-to-council-soon-thant-urges-china.html 2020年 ねん 1月 がつ 2日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Kent Kille (ed.), The UN Secretary-General and Moral Authority:
Ethics and Religion in International Leadership, Georgetown University Press,
Washington, DC, 2007, pp.168.
^ Grose, Peterr (19 October 1976). "Echeverria Indicates Readiness To Take Waldheim's Post at U.N." The New York Times.
^ "Waldheim is Backed by Security Council for Five Years More". The New York Times. 8 December 1976.
^ “中国 ちゅうごく 在 ざい UN投 とう 过的十 じゅう 次 じ 否 いや 决票 ”. 网易网军事 ごと . 2018年 ねん 8月 がつ 27日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “【噴水 ふんすい 台 だい 】国連 こくれん 事務 じむ 総長 そうちょう ”. 中央日報 ちゅうおうにっぽう . 2018年 ねん 8月 がつ 27日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Hoxha, Enver (1979b). Reflections on China. 2. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 166–167.
^ Hoxha, Enver (1982). Selected Works, February 1966 – July 1975. IV. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 656.
^ Hoxha, Enver (1985). Selected Works. 5. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 617–618, 697–698.
^ “General Assembly, 26th session : 1976th plenary meeting, Monday, 25 October 1971, New York (A/PV.1976) ”. United Nations Digital Library. p. 41 (1974年 ねん ). 2020年 ねん 2月 がつ 15日 にち 時点 じてん のオリジナル よりアーカイブ。2019年 ねん 8月 がつ 15日 にち 閲覧 えつらん 。
英語 えいご 版 ばん ウィキソースに
本 ほん 記事 きじ に
関連 かんれん した
原文 げんぶん があります。
前史 ぜんし 主要 しゅよう 事件 じけん 主 おも な虐殺 ぎゃくさつ 主要 しゅよう 人物 じんぶつ
文書 ぶんしょ 概念 がいねん 集団 しゅうだん 芸術 げいじゅつ
外交 がいこう 結果 けっか ・影響 えいきょう 関連 かんれん 作品 さくひん
関連 かんれん 項目 こうもく
Portal:歴史 れきし