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1972ねん自由民主党じゆうみんしゅとう総裁そうさい選挙せんきょ

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1972ねん自由民主党じゆうみんしゅとう総裁そうさい選挙せんきょ

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1972ねん7がつ5にち
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選挙せんきょ制度せいど 決選けっせん投票とうひょうせい
有権者ゆうけんしゃすう とう所属しょぞく衆議院しゅうぎいん議員ぎいん:(不明ふめい
とう所属しょぞく参議院さんぎいん議員ぎいん:(不明ふめい
地方ちほう代議員だいぎいんひょう  :47
合計ごうけい      :(不明ふめい

 
候補者こうほしゃ 田中たなか角栄かくえい 福田ふくだ赳夫たけお
だい1かい投票とうひょう 156 150
決選けっせん投票とうひょう 282 190




 
候補者こうほしゃ 大平おおひら正芳まさよし 三木みき武夫たけお
だい1かい投票とうひょう 101 69
決選けっせん投票とうひょう - -

選挙せんきょまえ総裁そうさい

佐藤さとう栄作えいさく

選出せんしゅつ総裁そうさい

田中たなか角栄かくえい

1972ねん自由民主党じゆうみんしゅとう総裁そうさい選挙せんきょ(1972ねんじゆうみんしゅとうそうさいせんきょ)は、1972ねん昭和しょうわ47ねん7がつ5にちおこなわれた日本にっぽん自由民主党じゆうみんしゅとう党首とうしゅである総裁そうさい選挙せんきょである。

いわゆるすみぶく戦争せんそうがねともなった選挙せんきょである。1970年代ねんだい以降いこう政界せいかいうごかすことになる三木みき武夫たけお田中たなか角栄かくえい大平おおひら正芳まさよし福田ふくだ赳夫たけおの4にん三角さんかく大福だいふく)が立候補りっこうほした。

概要がいよう[編集へんしゅう]

佐藤さとう栄作えいさく首相しゅしょう就任しゅうにんして以来いらい党内とうない各派かくは佐藤さとう巧妙こうみょう党内とうない操縦そうじゅうあしず、「1きょう、4じゃく、1風来坊ふうらいぼう」という言葉ことばわされるほどであった(1きょう佐藤さとう。4じゃく福田ふくだ赳夫たけお田中たなか角栄かくえい大平おおひら正芳まさよし三木みき武夫たけお風来坊ふうらいぼう中曽根なかそね康弘やすひろ[1]。1971ねん6がつ17にち日本にっぽんとアメリカは沖縄おきなわ返還へんかん協定きょうてい締結ていけつ。これにより佐藤さとう内閣ないかく最大さいだい外交がいこう案件あんけん解決かいけつする。佐藤さとう後継こうけいしゃかんがはじめるが、はやくから福田ふくだたいし「おれめたのち福田ふくだくんだ」とっていた。同年どうねんれ、佐藤さとう福田ふくだに「いつ、どんなふうに田中たなかくんけようか」ともらしたという[2]

1972ねんはいると「ポスト佐藤さとう」にけたうごきが活発かっぱつする。同年どうねん5がつ9にち田中たなか角栄かくえい衆参しゅうさん両院りょういんで81にんもの佐藤さとう議員ぎいんれ、ない結成けっせい次期じき総裁そうさいせんにらんだ田中たなか旗揚はたあげであった[3][4]

5月30にち大平おおひら福田ふくだに「自分じぶん総裁そうさいせん出馬しゅつばする。立候補りっこうほのとりやめはない」と通告つうこく。これで福田ふくだ不安ふあんはいったん解消かいしょうする。だい1かいせん大平おおひら田中たなか投票とうひょうしないため、総裁そうさいせんだい2かい決選けっせん投票とうひょうまることが確定かくていした[5]三木みき田中たなか大平おおひら福田ふくだ中曽根なかそね派閥はばつのそれぞれの領袖りょうしゅう立候補りっこうほするものとみられた。

6月17にち佐藤さとう首相しゅしょう総裁そうさい)は退陣たいじん表明ひょうめい[6]。その佐藤さとう福田ふくだ田中たなかび、「二人ふたりとも立候補りっこうほしてあらそうほかにみちはないようだ。ついては総裁そうさいせんでどちらかが1になっても2のものがこれに全面ぜんめん協力きょうりょくするということだけは心得こころえてもらいたい」とげた。しかし、田中たなか三木みき大平おおひらとの政権せいけん連合れんごううごはじめたことから、佐藤さとうあらためて2人ふたりぶ。「このまえ、1のものに協力きょうりょくすることを約束やくそくしたはずじゃないか」と田中たなかをなじるも、田中たなかこうとはせず、両者りょうしゃ協力きょうりょくはなしえになった[2]

ぜん評判ひょうばんでは福田ふくだ赳夫たけお優位ゆういられていたが、6がつ20日はつか新聞しんぶんは「中曽根なかそね康弘やすひろ出馬しゅつば中曽根なかそね田中たなか支持しじ決定けってい」とおおきく報道ほうどうした[7]週刊しゅうかん新潮しんちょうは「中曽根なかそね田中たなか支持しじにまわったのは、田中たなかから7おくえん買収ばいしゅうされたからだ」と暴露ばくろ[8]。このけんでは中曽根なかそね証言しょうげんしゃ週刊しゅうかん新潮しんちょう名誉めいよ毀損きそんうったえ、のちに勝訴しょうそしている[9]。6月30にち各紙かくし朝刊ちょうかんはいっせいに田中たなか優勢ゆうせいほうじた[10]投票とうひょう前日ぜんじつの7がつ4にちよる佐藤さとうみずか電話でんわをとって「福田ふくだ投票とうひょうせよ」と党内とうないかく方面ほうめんげきばした[11]

田中たなか福田ふくだは1・2連合れんごう密約みつやくを、田中たなか大平おおひらは2・3連合れんごう密約みつやくむすんでいた。もしだい1かい投票とうひょう福田ふくだ1田中たなか2大平おおひら3となった場合ばあい田中たなかはどちらかの密約みつやく反故ほごにしなければならない状況じょうきょうであった。田中たなか出陣しゅつじんしきには192にん議員ぎいん出席しゅっせきしていたことから、田中たなか陣営じんえいすくなくとも180ひょうはとれるとんでいた。

7がつ5にち総裁そうさいせんのためのとう臨時りんじ大会たいかい日比谷公会堂ひびやこうかいどうひらかれる[12]だい1かい投票とうひょう結果けっかは、田中たなか156ひょう福田ふくだ150ひょう。そのわずか6ひょう。「あらためて政治せいじ世界せかい冷酷れいこくさをおもらされたようで、政権せいけん先行さきゆきにいいれぬ不安ふあんおぼえた」と田中たなか秘書ひしょ佐藤さとう昭子あきこはのちに述懐じゅっかいしている。田中たなか佐藤さとうに「おいおい、中曽根なかそねのところからは半分はんぶんもきてないよ」とったという[13]

僅差きんさ田中たなか1福田ふくだ2となったため、田中たなか矛盾むじゅんおちいることを回避かいひし、ぎゃく福田ふくだ密約みつやく反故ほごとして決選けっせんすすんだ。三木みき武夫たけおにちちゅう国交こっこう正常せいじょう交渉こうしょう条件じょうけんに、決選けっせん投票とうひょうでの田中たなか角栄かくえいへの協力きょうりょく密約みつやくしていた[14]

決選けっせん投票とうひょう結果けっかは、田中たなか282ひょう福田ふくだ190ひょう田中たなかしん総裁そうさい就任しゅうにんした。

選挙せんきょデータ[編集へんしゅう]

総裁そうさい[編集へんしゅう]

投票とうひょう[編集へんしゅう]

  • 1972ねん昭和しょうわ47ねん)7がつ5にち
    だい27かい臨時りんじとう大会たいかい実施じっし

選挙せんきょ制度せいど[編集へんしゅう]

投票とうひょう方法ほうほう
秘密ひみつ投票とうひょう単記たんき投票とうひょう、1ひょうせい
選挙せんきょけん
とう所属しょぞく国会こっかい議員ぎいんとう都道府県とどうふけん支部しぶ連合れんごうかい地方ちほう代議員だいぎいん[ちゅう 1][15]
被選挙権ひせんきょけん
とう所属しょぞく国会こっかい議員ぎいん
有権者ゆうけんしゃ
不明ふめい
  • とう所属しょぞく衆議院しゅうぎいん議員ぎいん:(不明ふめい
  • とう所属しょぞく参議院さんぎいん議員ぎいん:(不明ふめい
  • 地方ちほう代議員だいぎいん   :047(増加1)[ちゅう 2]

だい1かい投票とうひょう開票かいひょう結果けっか[編集へんしゅう]

候補者こうほしゃ 得票とくひょうすう
田中たなか角栄かくえい 156ひょう
福田ふくだ赳夫たけお 150ひょう
大平おおひら正芳まさよし 101ひょう
三木みき武夫たけお 69ひょう
無効むこう 7ひょう

どの候補こうほも1かい投票とうひょう過半数かはんすう獲得かくとくしなかったので、上位じょうい2めいによる決選けっせん投票とうひょうおこなわれた。

決選けっせん投票とうひょう開票かいひょう結果けっか[編集へんしゅう]

候補者こうほしゃ 得票とくひょうすう
田中たなか角栄かくえい 282ひょう
福田ふくだ赳夫たけお 190ひょう
無効むこう 4ひょう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ かく都道府県とどうふけん支部しぶ連合れんごうかいに1ひょうずつ。
  2. ^ 沖縄おきなわけん日本にっぽん返還へんかんにより代議員だいぎいんが1ぞう

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 伊藤いとう 1982, pp. 70–71.
  2. ^ a b わたし履歴りれきしょ』 2007, pp. 185–188.
  3. ^ 伊藤いとう 1982, p. 78.
  4. ^ 楠田くすだみのる資料しりょう佐藤さとう栄作えいさく官邸かんてい文書ぶんしょ):解題かいだい”. ジャパン デジタル アーカイブズ センター. 2020ねん8がつ2にち閲覧えつらん
  5. ^ 伊藤いとう 1982, p. 80.
  6. ^ 青島ちんたおあらわ (2017ねん4がつ13にち). “Listening:<メディアの戦後せんご佐藤さとう栄作えいさく首相しゅしょう退陣たいじん会見かいけん 新聞しんぶんきらい、記者きしゃに「しゅつろ」”. 毎日新聞まいにちしんぶん. 2020ねん4がつ16にち閲覧えつらん
  7. ^ 伊藤いとう 1982, p. 83.
  8. ^ 週刊しゅうかん新潮しんちょう』1972ねん7がつ8にちごう、「いよいよい大詰おおづめ総裁そうさいせんかね権勢けんせい亡者もうじゃだい見世物みせもの」。
  9. ^ 立花りっか 2005, p. 136.
  10. ^ 伊藤いとう 1982, p. 84.
  11. ^ 伊藤いとう 1982, p. 50.
  12. ^ 中日ちゅうにちニュース No.964_2「しん総裁そうさい誕生たんじょう」(昭和しょうわ47ねん7がつ”. 中日ちゅうにち映画えいがしゃ (2016ねん7がつ6にち). 2020ねん12月8にち閲覧えつらん
  13. ^ 佐藤さとう 2001, pp. 15–16.
  14. ^ 伊藤いとう 1982, p. 85.
  15. ^ 上神かずわけい党首とうしゅ選出せんしゅつ過程かてい民主みんしゅ自民党じみんとう民主党みんしゅとう比較ひかく検討けんとう」『年報ねんぽう政治せいじがくだい59かんだい1ごう日本にっぽん政治せいじ学会がっかい、2008ねん6がつ、1_220-1_240、doi:10.7218/nenpouseijigaku.59.1_220ISSN 054941922023ねん3がつ23にち閲覧えつらん 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]