フランシスコ・フランコ・バアモンデ (Francisco Franco Bahamonde 、IPA : [fɾan'θ しーた isko 'fɾaŋko] 、1892年 ねん 12月4日 にち - 1975年 ねん 11月20日 にち )は、スペイン の軍人 ぐんじん (大元帥 だいげんすい )、政治 せいじ 家 か 。1936年 ねん から1975年 ねん まで[1] 長期 ちょうき 独裁 どくさい を敷 し いたことで知 し られる[2] 。
フランコは、スペイン北西 ほくせい 部 ぶ ガリシア地方 ちほう のエル・フェロル で生 う まれた。エル・フェロルは海軍 かいぐん 基地 きち のある町 まち で、父 ちち も祖父 そふ も海軍 かいぐん の軍人 ぐんじん であった。出生 しゅっしょう 時 じ の洗礼 せんれい 名 めい はフランシスコ・パウリーノ・エルメネヒルド・テオドゥロ・フランコ・バアモンデ・サルガード=アラウホ・イ・パルド・デ・ラマ (Francisco Paulino Hermenegildo Teódulo Franco Bahamonde Salgado-Araujo y Pardo de Lama )[4] 。彼 かれ は5人 にん の兄弟 きょうだい の二男 じなん で、兄 あに ニコラス (スペイン語 ご 版 ばん ) 、妹 いもうと 二 に 人 にん (ピラール (スペイン語 ご 版 ばん ) 、マリア・デ・ラ・パス)、弟 おとうと ラモン がいた。祖父 そふ と父 ちち は海軍 かいぐん 主計 しゅけい 准 じゅん 将 しょう までなっている[5] 。母 はは を人生 じんせい の師 し としていた。フランコもバアモンデもスペインでは一般 いっぱん にユダヤ系 けい の姓 せい であり、フランコをユダヤ系 けい と見 み なす向 む きもある[6] 。
父 ちち や祖父 そふ と同 おな じ海軍 かいぐん を志望 しぼう していたが、軍縮 ぐんしゅく で海軍 かいぐん が募集 ぼしゅう を中止 ちゅうし したため、1907年 ねん にトレド の陸軍 りくぐん 歩兵 ほへい 士官 しかん 学校 がっこう に入学 にゅうがく した。1910年 ねん に卒業 そつぎょう すると少尉 しょうい となった。1912年 ねん にはモロッコ に着任 ちゃくにん した。スペイン領 りょう モロッコ では原住民 げんじゅうみん の反乱 はんらん が頻発 ひんぱつ していた。フランコはここで順調 じゅんちょう に昇進 しょうしん し、1926年 ねん には准 じゅん 将 しょう となった。33歳 さい の将官 しょうかん は、当時 とうじ の欧州 おうしゅう では最年少 さいねんしょう であった。1934年 ねん にアストゥリアス地方 ちほう で革命 かくめい 運動 うんどう が起 お きると、フランコはモロッコ駐留 ちゅうりゅう 軍 ぐん も投入 とうにゅう して鎮圧 ちんあつ した。その翌年 よくねん の1935年 ねん には陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう となった。
1936年 ねん 2月 がつ の選挙 せんきょ で左派 さは が辛勝 しんしょう 、フランコは参謀 さんぼう 総長 そうちょう を解任 かいにん され、カナリア諸島 かなりあしょとう 司令 しれい 官 かん に左遷 させん された。人民戦線 じんみんせんせん 政府 せいふ は社会 しゃかい 主義 しゅぎ 的 てき 理念 りねん に基 もと づく改革 かいかく を実行 じっこう 、教会 きょうかい 財産 ざいさん を没収 ぼっしゅう し、ブルジョワ に対 たい する締 し め付 づ けを強 つよ めた。これは農民 のうみん や労働 ろうどう 者 しゃ 層 そう に支持 しじ されたが、地主 じぬし や資本 しほん 家 か 、カトリック教会 きょうかい などの保守 ほしゅ 勢力 せいりょく や知識 ちしき 層 そう とは対立 たいりつ した。
同年 どうねん 7月 がつ にモロッコ で駐留 ちゅうりゅう 軍 ぐん が決起 けっき 、フランコは同地 どうち に飛 と んで指揮 しき 権 けん を掌握 しょうあく し、モロッコ部隊 ぶたい を本土 ほんど に輸送 ゆそう した。この反乱 はんらん はスペインを二分 にぶん する大 だい 規模 きぼ な内戦 ないせん に発展 はってん した。人民戦線 じんみんせんせん 政府 せいふ により反乱 はんらん 軍 ぐん (Bando sublevado)と呼 よ ばれた勢力 せいりょく (「国民 こくみん 軍 ぐん (英語 えいご 版 ばん ) 」 Bando nacional を自称 じしょう した)の中心 ちゅうしん 人物 じんぶつ は当初 とうしょ ホセ・サンフルホ (スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 将軍 しょうぐん やエミリオ・モラ (スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 将軍 しょうぐん などであり、フランコは反乱 はんらん 側 がわ の一 いち 指揮 しき 官 かん でしかなかった。ホセ・サンフルホが1936年 ねん に飛行機 ひこうき 事故 じこ で死亡 しぼう し、緒戦 しょせん で反乱 はんらん 軍 ぐん は敗北 はいぼく を重 かさ ねるなど長期 ちょうき 化 か の様相 ようそう を見 み せ始 はじ めると、戦功 せんこう のあるフランコと、戦前 せんぜん から人望 じんぼう が高 たか かったモラが反乱 はんらん 側 がわ の人気 にんき を二分 にぶん するようになる。その後 ご モラも飛行機 ひこうき の墜落 ついらく 事故 じこ で死亡 しぼう すると、フランコが反乱 はんらん 軍 ぐん の指導 しどう 者 しゃ としての地位 ちい を固 かた めた。
総統 そうとう 就任 しゅうにん [ 編集 へんしゅう ]
1936年 ねん 10月 がつ 1日 にち 、ブルゴス において反乱 はんらん 軍 ぐん の総 そう 司令 しれい 官 かん に指名 しめい され、(一方 いっぽう 的 てき な)国家 こっか 元首 げんしゅ に就任 しゅうにん した。その際 さい フランコは、軍 ぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん として大元帥 だいげんすい (Generalísimo、総帥 そうすい とも訳 やく される。軍 ぐん における最終 さいしゅう 階級 かいきゅう は陸海空 りくかいくう 元帥 げんすい (英語 えいご 版 ばん ) )、国家 こっか 元首 げんしゅ としてカウディーリョ・デ・エスパーニャ (Caudillo de España、以下 いか 総統 そうとう )の称号 しょうごう を用 もち いた。また、仮 かり 政府 せいふ として「国家 こっか 行政 ぎょうせい 委員 いいん 会 かい 」を設置 せっち 、1938年 ねん 1月 がつ 30日 にち にこれを改組 かいそ して正式 せいしき に内閣 ないかく 制度 せいど を導入 どうにゅう 、そのトップとなった。
総統 そうとう たるフランコの紋章 もんしょう
その後 ご 、フランコはドイツ やイタリア 、ポルトガル [17] の支援 しえん を受 う けて、共和 きょうわ 派 は 勢力 せいりょく と戦 たたか った。反乱 はんらん 軍 ぐん の主力 しゅりょく は陸軍 りくぐん で、空 そら ・海軍 かいぐん の大 だい 部分 ぶぶん は共和 きょうわ 国 こく 側 がわ についたため反乱 はんらん 軍 ぐん はモロッコ駐留 ちゅうりゅう 軍 ぐん を本土 ほんど に送 おく ることができなかった。フランコは状況 じょうきょう を打開 だかい するために独 どく 伊 い 政府 せいふ に協力 きょうりょく を仰 あお ぎ、それを承諾 しょうだく した両国 りょうこく は輸送 ゆそう 機 き をモロッコに派遣 はけん し現地 げんち の反乱 はんらん 軍 ぐん 部隊 ぶたい をスペイン本土 ほんど へ空輸 くうゆ した。また日本 にっぽん はドイツとイタリアに次 つ いでフランコ政権 せいけん を承認 しょうにん した列強 れっきょう であり、フランコ政権 せいけん が満 まん 洲 しゅう 国 こく を承認 しょうにん したのはその見返 みかえ りであるとされている。
なお、フランコに対 たい する人民戦線 じんみんせんせん 政府 せいふ は内部 ないぶ に共和 きょうわ 主義 しゅぎ 者 しゃ 、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ 、無 む 政府 せいふ 主義 しゅぎ 者 もの を抱 かか えていたため、統一 とういつ 性 せい に欠 か けた。フランス は当初 とうしょ 人民戦線 じんみんせんせん を支援 しえん したものの国内 こくない の反発 はんぱつ で即座 そくざ に中止 ちゅうし 、また人民戦線 じんみんせんせん はソ連 それん や国際 こくさい 旅団 りょだん (イギリスやアメリカなど各国 かっこく の義勇 ぎゆう 兵 へい )の支援 しえん を受 う けるも、独 どく 伊 い 軍 ぐん 、そして両国 りょうこく の政府 せいふ からの強力 きょうりょく な支援 しえん を受 う ける反乱 はんらん 軍 ぐん に対 たい する劣勢 れっせい は覆 くつがえ せなかった。
1938年 ねん の3月 がつ 、反乱 はんらん 軍 ぐん はアラゴン攻勢 こうせい (英語 えいご 版 ばん ) を開始 かいし し、4月 がつ には地中海 ちちゅうかい に到達 とうたつ して共和 きょうわ 国 こく の支配 しはい 地域 ちいき を南北 なんぼく に分断 ぶんだん する事 こと に成功 せいこう した。この危機 きき 的 てき 状況 じょうきょう を打破 だは するために共和 きょうわ 国 こく 側 がわ が7月 がつ 25日 にち に仕掛 しか けた大 だい 攻勢 こうせい 「エブロ川 がわ の戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) 」が失敗 しっぱい に終 お わったことで、フランコの勝利 しょうり が決定的 けっていてき になった。同年 どうねん 暮 く れから国際 こくさい 旅団 りょだん の中心 ちゅうしん 地 ち となっていたカタルーニャ地方 ちほう に総 そう 攻撃 こうげき を開始 かいし 、翌 よく 1939年 ねん 1月 がつ にはバルセロナ が陥落 かんらく 、3月27日 にち にマドリード が陥落 かんらく したことにより人民戦線 じんみんせんせん 政府 せいふ は崩壊 ほうかい 、31日 にち にはスペイン全土 ぜんど を制圧 せいあつ 、4月 がつ 1日 にち にフランコは内戦 ないせん 終結 しゅうけつ 宣言 せんげん を発 はっ した。これによりスペインの混乱 こんらん は一応 いちおう の終息 しゅうそく を迎 むか えたが、内戦 ないせん によって軍民 ぐんみん 合 あ わせて数 すう 十 じゅう 万 まん 人 にん が死亡 しぼう し、国土 こくど の荒廃 こうはい も著 いちじる しかった。フランコには同年 どうねん 8月 がつ 8日 にち に公布 こうふ された「国家 こっか 元首 げんしゅ 法 ほう 」によって緊急 きんきゅう 立法 りっぽう 権 けん が付与 ふよ され、強大 きょうだい な権限 けんげん を持 も って国家 こっか の再建 さいけん に取 と り組 く むこととなる。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん [ 編集 へんしゅう ]
枢軸 すうじく 国 こく 寄 よ りの「中立 ちゅうりつ 」[ 編集 へんしゅう ]
妻 つま とともに地方 ちほう 視察 しさつ を行 おこな うフランコ(1940年 ねん )
ハインリヒ・ヒムラー とともに(1940年 ねん )
内戦 ないせん 終結 しゅうけつ 直前 ちょくぜん の1939年 ねん 3月 がつ 27日 にち 、フランコは日 にち 独 どく 伊 い 防共 ぼうきょう 協定 きょうてい に加入 かにゅう し、同年 どうねん 5月 がつ には国際 こくさい 連盟 れんめい から脱退 だったい した[18] 。一方 いっぽう 、9月に第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ すると、フランコは国家 こっか が内戦 ないせん により荒廃 こうはい したために国力 こくりょく が参戦 さんせん に耐 た えられないと判断 はんだん して中立 ちゅうりつ を宣言 せんげん した。しかし緒戦 しょせん におけるドイツの勝利 しょうり や優勢 ゆうせい を見 み て、1940年 ねん 6月 がつ 10日 とおか イタリアの参戦 さんせん 直後 ちょくご に中立 ちゅうりつ を放棄 ほうき 、非 ひ 交戦 こうせん を宣言 せんげん した。これによって枢軸 すうじく 国 こく 側 がわ に近 ちか づき、情報 じょうほう 提供 ていきょう 、独 どく 伊 い 艦船 かんせん への補給 ほきゅう などで便宜 べんぎ を図 はか った。非 ひ 交戦 こうせん 宣言 せんげん より数日 すうじつ 後 ご には国際 こくさい 管理 かんり 都市 とし であったタンジェ に侵攻 しんこう 、11月これをスペイン領 りょう モロッコ の一部 いちぶ として併合 へいごう した。並行 へいこう してフランコは対 たい 英 えい 戦 せん 参戦 さんせん の準備 じゅんび を行 おこな い、イギリス降伏 ごうぶく 直前 ちょくぜん の一 いち 週間 しゅうかん にスペインが参戦 さんせん することで、講和 こうわ ・戦後 せんご 処理 しょり 会議 かいぎ における発言 はつげん 権 けん を確保 かくほ しようと思考 しこう した。同時 どうじ に独 どく 英 えい 休戦 きゅうせん の仲介 ちゅうかい をすることで、ジブラルタル と北 きた アフリカの領土 りょうど 要求 ようきゅう をドイツに認 みと めさせようとしたのだが、アドルフ・ヒトラー の反応 はんのう は冷淡 れいたん だった[19] 。
ドイツがフランス全土 ぜんど を占領 せんりょう し、連合 れんごう 軍 ぐん がヨーロッパ大陸 たいりく から追 お い出 だ された直後 ちょくご の1940年 ねん 10月 がつ 、ヒトラーとアンダイエ で会談 かいだん し、その蜜月 みつげつ 関係 かんけい を世界中 せかいじゅう に対 たい し誇示 こじ した。ヒトラーはスペインの領土 りょうど 要求 ようきゅう に対 たい し、仏 ふつ 領 りょう 北 きた アフリカの大幅 おおはば 割譲 かつじょう はできないとしながら、対 たい 英 えい 戦 せん 後 ご の英国 えいこく 植民 しょくみん 地 ち 処理 しょり で代償 だいしょう が与 あた えられるので領土 りょうど 調整 ちょうせい は可能 かのう と述 の べた。フランコはこの時 とき ヒトラーが要求 ようきゅう した英 えい 領 りょう ジブラルタル攻略 こうりゃく 作戦 さくせん (フェリックス作戦 さくせん )のための地上 ちじょう ルート提供 ていきょう や、独 どく 伊 い 鋼鉄 こうてつ 同盟 どうめい 参加 さんか と将来 しょうらい 的 てき な日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 同盟 どうめい への参加 さんか を約束 やくそく し、条件 じょうけん として軍事 ぐんじ ・経済 けいざい の「莫大 ばくだい な戦略 せんりゃく 物資 ぶっし 」を要求 ようきゅう しつつ、参戦 さんせん の意思 いし を宣誓 せんせい した[20] 。しかし、バトル・オブ・ブリテン や地中海 ちちゅうかい 戦線 せんせん 、特 とく にギリシャ戦線 せんせん でのイギリス有利 ゆうり な状況 じょうきょう と、経済 けいざい 的 てき な英 えい 米 べい との依存 いぞん 関係 かんけい はフランコの参戦 さんせん 意欲 いよく を減退 げんたい させ、翌年 よくねん に彼 かれ はこの合意 ごうい を無効 むこう とし[21] 、その後 ご も参戦 さんせん 要求 ようきゅう をのらりくらりとかわし続 つづ けた。
一方 いっぽう でヒトラーがバルバロッサ作戦 さくせん を発動 はつどう すると、国中 くになか の熱狂 ねっきょう 的 てき なファシスト1万 まん 人 にん 近 ちか くを集 あつ めて青 あお 師団 しだん を創設 そうせつ し、ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん の義勇 ぎゆう 部隊 ぶたい として東部 とうぶ 戦線 せんせん に送 おく り込 こ んでいる(国内 こくない には、ドイツ・イタリアに共感 きょうかん する参戦 さんせん 推進 すいしん 派 は も存在 そんざい し、それはフランコから見 み れば中立 ちゅうりつ 政策 せいさく や国内 こくない の安定 あんてい を危 あや うくしかねない不穏 ふおん 分子 ぶんし とも言 い えた。その為 ため 、両国 りょうこく の好感 こうかん を得 え 、かつそうした反動 はんどう 分子 ぶんし を一掃 いっそう する方法 ほうほう として、青 あお の師団 しだん の創設 そうせつ ・派遣 はけん は一石二鳥 いっせきにちょう であった[22] )。さらに内戦 ないせん の経緯 けいい もあって、ソ連 それん を仇敵 きゅうてき と見 み なす国内 こくない 世論 せろん とこれまでの自身 じしん の言動 げんどう を無視 むし できない面 めん や内戦 ないせん 期 き におけるドイツ援助 えんじょ への返礼 へんれい 的 てき 意味合 いみあ いもあった。
1941年 ねん 12月 の真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき に際 さい して日本 にっぽん に祝電 しゅくでん を送 おく り、アメリカの不興 ふきょう を買 か った[23] 。一方 いっぽう で旧 きゅう 植民 しょくみん 地 ち で権益 けんえき が存在 そんざい したフィリピン に日本 にっぽん 軍 ぐん が侵攻 しんこう すると、同地 どうち に残 のこ る利権 りけん の扱 あつか いを巡 めぐ り、両国 りょうこく 間 あいだ で軋轢 あつれき が生 う まれた[24] 。
連合 れんごう 国 こく への傾斜 けいしゃ [ 編集 へんしゅう ]
1943年 ねん 頃 ごろ よりヨーロッパおよびアフリカ戦線 せんせん において完全 かんぜん に連合 れんごう 国 こく が優勢 ゆうせい になると、再 ふたた び中立 ちゅうりつ を固持 こじ するという日和見 ひよりみ な姿勢 しせい に終始 しゅうし した。1944年 ねん 頃 ごろ になると、青 あお 師団 しだん について連合 れんごう 国 こく 側 がわ 各国 かっこく から非難 ひなん が集 あつ まったためフランコは撤兵 てっぺい を約束 やくそく 、国内 こくない に対 たい して反対 はんたい する者 もの は厳罰 げんばつ に処 しょ する、と声明 せいめい した。さらに太平洋 たいへいよう 戦線 せんせん においても日本 にっぽん 軍 ぐん が完全 かんぜん に劣勢 れっせい となった1945年 ねん に起 お きたマニラの戦 たたか い においては、在留 ざいりゅう スペイン人 じん の損害 そんがい 問題 もんだい を理由 りゆう に日本 にっぽん と断交 だんこう した[25] 。
フランコは第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん を次 つぎ のように見 み ていた。「世界 せかい では全 まった く別 べつ の二 ふた つの戦争 せんそう が戦 たたか われている。第 だい 一 いち にヨーロッパではソ連 それん に対 たい する戦争 せんそう であり、第 だい 二 に に太平洋 たいへいよう では日本 にっぽん に対 たい する戦争 せんそう である」とし、独 どく 米 べい 英 えい を含 ふく む「全 ぜん キリスト教 きりすときょう 世界 せかい 」は、野蛮 やばん で東洋 とうよう 的 てき ・共産 きょうさん 主義 しゅぎ 的 てき なロシアを共通 きょうつう の敵 てき として戦 たたか うべきであるとした。彼 かれ はこの考 かんが えに沿 そ って連合 れんごう 国 こく とドイツの講和 こうわ 調停 ちょうてい を行 おこな った[26] 。
サン・セバスティアン を視察 しさつ するフランコ(1941年 ねん )
フランコとカルメン夫人 ふじん (1968年 ねん )
なお、この工作 こうさく において「アジアにおけるヨーロッパの権益 けんえき は完全 かんぜん に回復 かいふく するべきものである」としており、非 ひ キリスト教 きりすときょう 国 こく である日本 にっぽん の要求 ようきゅう は考慮 こうりょ に入 い れていなかった[27] 。また、枢軸 すうじく 国 こく の劣勢 れっせい が明 あき らかとなった1943年 ねん 7月 がつ 28日 にち 、アメリカに和平 わへい 調停 ちょうてい を申 もう し出 で たが、その際 さい には駐 ちゅう スペインアメリカ大使 たいし カールトン・J・H・ヘイズ (英語 えいご 版 ばん ) に対 たい して「彼 かれ ら(日本人 にっぽんじん )は基本 きほん 的 てき に蛮族 ばんぞく である。彼 かれ らは最悪 さいあく の帝国 ていこく 主義 しゅぎ 者 しゃ であり、中国 ちゅうごく および極東 きょくとう 全域 ぜんいき の支配 しはい をもくろんでいる。フィリピンに独立 どくりつ を保証 ほしょう するという彼 かれ らの最近 さいきん の約束 やくそく は全 まった く信頼 しんらい できない。スペインは日本 にっぽん に何 なに らのシンパシーを抱 だ いておらず、もし軍事 ぐんじ 的 てき に弱体 じゃくたい でなければ太平洋戦争 たいへいようせんそう において喜 よろこ んでアメリカと協力 きょうりょく したいところである」と述 の べている[28] 。しかし、連合 れんごう 国 こく もドイツもスペインの調停 ちょうてい には耳 みみ を貸 か さなかった[29] [30] 。
スペインの中立 ちゅうりつ 化 か は隣国 りんごく のポルトガルのアントニオ・サラザール の影響 えいきょう を大 おお きく受 う けていたとされ[31] [32] [33] 、フランコはサラザールのことを「私 わたし が知 し っている最 もっと も尊敬 そんけい に値 あたい する最 もっと も完璧 かんぺき な政治 せいじ 家 か はサラザールだ」とも評 ひょう していた[34] 。
結果 けっか としてスペインは、大戦 たいせん 中 ちゅう は「中立 ちゅうりつ 国 こく 」として振 ふ る舞 ま うことにより、自国 じこく 及 およ び植民 しょくみん 地 ち の戦禍 せんか を免 まぬか れたが、その風見鶏 かざみどり 的 てき な姿勢 しせい は連合 れんごう 国 こく 、特 とく にアメリカに不信 ふしん 感 かん を植 う え付 つ けることとなった[35] 。
独裁 どくさい 者 しゃ フランコ[ 編集 へんしゅう ]
アメリカ のアイゼンハワー 大統領 だいとうりょう とともに(1959年 ねん )
1959年 ねん 12月には、アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー 大統領 だいとうりょう と会見 かいけん する。戦中 せんちゅう は「中立 ちゅうりつ 国 こく の指導 しどう 者 しゃ 」という立場 たちば ながら、枢軸 すうじく 国 こく が劣勢 れっせい になる1944年 ねん ころまでは一貫 いっかん して親 しん ドイツの立場 たちば を保 たも っていたフランコと、そのドイツを敵 てき に連合 れんごう 軍 ぐん の最高 さいこう 司令 しれい 官 かん として戦 たたか っていたアイゼンハワーの会見 かいけん は、序盤 じょばん こそぎこちなかったものの、お互 たが い軍人 ぐんじん 出身 しゅっしん という出自 しゅつじ や、上記 じょうき のようなアメリカ側 がわ の事情 じじょう もあり、最終 さいしゅう 的 てき には2人 ふたり とも打 う ち解 と け、別 わか れの際 さい には抱擁 ほうよう をかわした程 ほど だった。これにより、両国 りょうこく の関係 かんけい は飛躍 ひやく 的 てき に改善 かいぜん される。
その後 ご 、独裁 どくさい を続 つづ けるフランコを支援 しえん することに対 たい する国内 こくない 世論 せろん からの批判 ひはん を受 う けたアメリカなどの意向 いこう に配慮 はいりょ して、任命 にんめい 制 せい の議員 ぎいん の一部 いちぶ を選挙 せんきょ 制 せい に切 き り替 か えるなど(1966年 ねん )、冷戦 れいせん の影響 えいきょう をうけて左右 さゆう に揺 ゆ れ動 うご く国内 こくない の社会 しゃかい 不安 ふあん の緩和 かんわ に努 つと めた。しかし、カタルーニャやバスク地方 ちほう における独立 どくりつ 意識 いしき を削 そ ぐために、公 おおやけ の場 ば (家 いえ の中 なか 以外 いがい のすべての場所 ばしょ )でのカタルーニャ語 ご やバスク語 ご の使用 しよう を禁止 きんし するなど、一部 いちぶ では強硬 きょうこう な姿勢 しせい を取 と っており、この様 よう なフランコの姿勢 しせい に対 たい してバスク祖国 そこく と自由 じゆう (ETA)によるテロなどが活発 かっぱつ 化 か した。
後継 こうけい 者 しゃ 指名 しめい と王制 おうせい の復活 ふっかつ [ 編集 へんしゅう ]
カルロス・アリアス・ナバーロ とともに(1975年 ねん )
フランコは政権 せいけん のあり方 かた について、最終 さいしゅう 的 てき には王制 おうせい に移行 いこう するべきだと考 かんが えていた。これは、フランコ政権 せいけん が「個人 こじん 的 てき 独裁 どくさい 制 せい 」なので、フランコの死後 しご 、政権 せいけん の枠組 わくぐ みをそのままの形 かたち で何者 なにもの かに継承 けいしょう することができないことに加 くわ え、議会 ぎかい 制 せい 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ がこの当時 とうじ のスペインでは失敗 しっぱい を続 つづ けてきたため、王制 おうせい の復活 ふっかつ が最良 さいりょう だとしたのである[36] 。ただし、新 あら たな王家 おうけ を迎 むか えるのか、旧 きゅう 王家 おうけ ボルボン家 か (ブルボン家 か ) による王政 おうせい 復古 ふっこ とするのかはフランコも決 き めかねていた。かつてスペインを治 おさ めていたアブスブルゴ家 か (ハプスブルク家 か ) などへの接触 せっしょく もあったといわれる。
1947年 ねん に、フランコは「王位 おうい 継承 けいしょう 法 ほう 」を制定 せいてい し、スペインを「王国 おうこく 」とすること、フランコが国家 こっか 元首 げんしゅ となること、後継 こうけい の国王 こくおう の指名 しめい 権 けん が付与 ふよ されることなどを定 さだ めた。王位 おうい 継承 けいしょう 法 ほう は7月 がつ 16日 にち の国民 こくみん 投票 とうひょう で成立 せいりつ し、彼 かれ は「摂政 せっしょう 」として終身 しゅうしん の国家 こっか 元首 げんしゅ の地位 ちい を得 え た。
フランコ後継 こうけい として、支持 しじ 基盤 きばん であった陸軍 りくぐん 内部 ないぶ にはボルボン家 か の復帰 ふっき を求 もと める声 こえ も強 つよ く、亡命 ぼうめい 先 さき のイタリアで死去 しきょ した前 ぜん 国王 こくおう アルフォンソ13世 せい の息子 むすこ で、ボルボン家 か の家長 かちょう となっていたバルセロナ伯 はく を呼 よ び戻 もど し次期 じき 国王 こくおう とするのが自然 しぜん であったが、フランコは「考 かんが え方 かた が容共 ようきょう 的 てき すぎる」としてこれを退 しりぞ けた。さらに一部 いちぶ にはフランコの娘 むすめ マリア・デル・カルメン・フランコ に自 みずか らの地位 ちい を継 つ がせ、腹心 ふくしん のルイス・カレーロ・ブランコ をその下 した につけるという意見 いけん もあったが、王制 おうせい 移行 いこう を希望 きぼう する彼 かれ により否定 ひてい された上 うえ 、1973年 ねん にカレーロ・ブランコがETAによるテロで乗 の っていた自動車 じどうしゃ ごと爆殺 ばくさつ された(英語 えいご 版 ばん ) ため、この計画 けいかく は頓挫 とんざ した。 [要 よう 出典 しゅってん ]
最終 さいしゅう 的 てき に、フランコは1969年 ねん にアルフォンソ13世 せい の孫 まご ・バルセロナ伯 はく の長男 ちょうなん であるフアン・カルロス を自 みずか らの後継 こうけい 者 しゃ (皇太子 こうたいし )に指名 しめい した。以降 いこう は心身 しんしん の衰 おとろ えを自覚 じかく するようになり、1975年 ねん 11月20日 にち に癌 がん のため死去 しきょ した。フアン・カルロスはフランコの遺言 ゆいごん に従 したが って同年 どうねん 11月22日 にち に即位 そくい し、王制 おうせい を復活 ふっかつ させた。
「他 た のスペイン歴史 れきし 上 じょう の支配 しはい 者 しゃ の誰 だれ よりも多 おお くの権力 けんりょく を獲得 かくとく した[41] 」フランコは社会 しゃかい のあらゆる分野 ぶんや に介入 かいにゅう する権力 けんりょく を行使 こうし した。政治 せいじ 学者 がくしゃ で歴史 れきし 家 か のアルベルト・レイグ・タピア(Alberto Reig Tapia )によれば、フランコは政治 せいじ 的 てき ・イデオロギー的 てき に「否定 ひてい 的 てき な特徴 とくちょう 」、すなわち「反 はん =自由 じゆう 主義 しゅぎ 」、「反 はん =フリーメーソン 」、「反 はん =マルクス主義 まるくすしゅぎ 」などで定義 ていぎ されているとする[42] [43] 。これは彼 かれ がスペインをこれらの「危機 きき [44] 」から救 すく うために選 えら ばれたというフランコの信念 しんねん と一致 いっち する。イデオロギーそのものは定義 ていぎ されていないが、閉 と ざされた個人 こじん 的 てき な性質 せいしつ をさらに考 かんが えて行 い くことは困難 こんなん である[45] 。
フランコ自身 じしん による1930年代 ねんだい の議会 ぎかい 政治 せいじ の否認 ひにん はよく知 し られており[46] 、その主 おも な強迫 きょうはく 観念 かんねん はスペイン権益 けんえき に対 たい する「インターナショナル(自由 じゆう 主義 しゅぎ )」、「ユダヤ―フリーメーソン」、「共産 きょうさん 主義 しゅぎ (マルクス主義 まるくすしゅぎ )」、の陰謀 いんぼう の想定 そうてい にあった[47] 。「軍 ぐん の世界 せかい 」と「鉄 てつ の宗教 しゅうきょう 」に関 かん するものに敬意 けいい を表 あらわ し、陰謀 いんぼう の恐怖 きょうふ と結 むす びつけた[48] 。 彼 かれ は武装 ぶそう 勢力 せいりょく の指導 しどう 者 しゃ として任命 にんめい されて以来 いらい 、大衆 たいしゅう の声 こえ を聞 き き、ほぼ日常 にちじょう 的 てき にロザリオを掲 かか げて祈 いの り、イデオロギー的 てき 枠組 わくぐ みを得 え ていた[49] 。実際 じっさい 、フランコ政権 せいけん において軍 ぐん は常 つね に重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たし、カトリック教会 きょうかい は積極 せっきょく 的 てき に道徳 どうとく 的 てき 正当 せいとう 性 せい を提供 ていきょう し、社会 しゃかい 規範 きはん をモデル化 か しようと努 つと めた[50] 。
バルセロナの歴史 れきし 学者 がくしゃ ハビエル・トゥセル(Javier Tusell )は「明確 めいかく なイデオロギーが存在 そんざい しないからこそ、フランコ政権 せいけん は独裁 どくさい から他 た のものへと移行 いこう することができ、40年代 ねんだい はファシズム、60年代 ねんだい には発展 はってん 主義 しゅぎ へと移 うつ りかわった[51] [52] 」と述 の べた。
また、英国 えいこく の歴史 れきし 家 か ポール・プレストン(Paul Preston )は、「フランコの歴史 れきし についての最 もっと も重要 じゅうよう なポイントは、スペインが驚 おどろ くほど簡単 かんたん に民主 みんしゅ 主義 しゅぎ を選 えら び、スペインの未来 みらい における独裁 どくさい 者 しゃ の計画 けいかく を隅 すみ に追 お いやったことだ[53] 」とした。その著作 ちょさく Caudillo de Españaでは「フランコはその死 し まで、市民 しみん 戦争 せんそう での勝者 しょうしゃ と敗者 はいしゃ の間 あいだ で恨 うら み深 ふか い分裂 ぶんれつ を維持 いじ [53] 」し、「1936年 ねん から1939年 ねん までの市民 しみん 戦争 せんそう の無慈悲 むじひ な戦争 せんそう 努力 どりょく によって左派 さは の敵 てき の殲滅 せんめつ を追 お い求 もと め、後 のち に彼 かれ の「鉄 てつ の意志 いし 」が生 い き残 のこ ったことは忘 わす れてはいなかった[54] 」と述 の べた。つづけて「フランコ独自 どくじ の特徴 とくちょう は、本能 ほんのう 的 てき に狡猾 こうかつ で冷酷 れいこく な冷静 れいせい さと気難 きむずか しさを持 も ちあわせ、政権 せいけん の力 ちから 関係 かんけい でライバルを操 あやつ り、ラモン・セラーノ・スニェール(Serrano Suner )からバルセロナ伯 はく ドン・ホアン (Don Juan )まで、知性 ちせい と完全 かんぜん 性 せい の面 めん で優 すぐ れていた人々 ひとびと の挑戦 ちょうせん を難 なん なく敗北 はいぼく させたことだった。 フランコの業績 ぎょうせき は、国家 こっか の恩人 おんじん といった呈 てい のものではなく、常 つね に自分 じぶん の利益 りえき に奉仕 ほうし した熟練 じゅくれん した権力 けんりょく の操縦 そうじゅう 者 しゃ のそれであった[54] 」と付 つ け加 くわ えた。さらにこの著者 ちょしゃ は「第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう の中立 ちゅうりつ 性 せい とスペイン経済 けいざい の奇跡 きせき はフランコのリーダーシップに起因 きいん するものではない。フランコが1945年 ねん にドン・ホアン に道 みち を開 ひら く寛大 かんだい さと愛国心 あいこくしん を持 も っていたとすれば、スペインはマーシャルプラン の恩恵 おんけい を受 う け、NATO とEEC の設立 せつりつ を分 わ かち合 あ うため、立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい になっていたはずだ[55] 」と主張 しゅちょう している。
独裁 どくさい 政権 せいけん 時代 じだい の汚職 おしょく [ 編集 へんしゅう ]
フランコ独裁 どくさい 政権 せいけん 時 じ 、家族 かぞく (特 とく に兄 あに ニコラス・フランコ (スペイン語 ご 版 ばん ) 、妹 いもうと ピラール・フランコ (スペイン語 ご 版 ばん ) と彼 かれ の娘 むすめ 婿 むこ の第 だい 10代ビリャベルデ侯爵 こうしゃく クリストバル・マルティネス=ボルディウ )において、多 おお くの汚職 おしょく が存在 そんざい していた。しかしフランコは取 と り巻 ま きに政治 せいじ 的 てき な友愛 ゆうあい による寛容 かんよう を訴 うった え、スキャンダルをもみ消 け していた。これは報道 ほうどう が抑圧 よくあつ され、自由 じゆう がなかったために可能 かのう だった。
たとえば、「マドリレーニャ・金属 きんぞく 製造 せいぞう 工業 こうぎょう 事件 じけん (Corrupción en España 参照 さんしょう )」の場合 ばあい には、彼 かれ の兄弟 きょうだい は閣僚 かくりょう 刑事 けいじ 会議 かいぎ で恩赦 おんしゃ を受 う けた。フランコの妹 いもうと ピラールは未亡人 みぼうじん で10人 にん の子供 こども の母 はは だったため適度 てきど な年金 ねんきん だけが収入 しゅうにゅう 源 げん だったが、にもかかわらず膨大 ぼうだい な財産 ざいさん を蓄積 ちくせき した。最終 さいしゅう 的 てき にピラールはフランコの死 し までに年金 ねんきん として1250万 まん ペセタを受 う け取 と った。
とりわけ、企業 きぎょう ソフィコ(SOFICO )による不動産 ふどうさん 詐欺 さぎ 、マテッサによる輸出 ゆしゅつ 援助 えんじょ 詐欺 さぎ (Caso Matesa )、コンフェクシオン・ジブラルタル事件 じけん 、400万 まん リットルの国有 こくゆう 石油 せきゆ 消滅 しょうめつ 事件 じけん (Caso Reace )などは特 とく に重要 じゅうよう なスキャンダルだった[56] [57] 。
内戦 ないせん 終結 しゅうけつ 後 ご 、破壊 はかい や飢饉 ききん から国境 こっきょう を越 こ えた闇 やみ 市場 いちば など違法 いほう 取引 とりひき が拡大 かくだい した。その後 ご 、経済 けいざい 発展 はってん により国 くに は豊 ゆた かになったが、「パラド宮殿 きゅうでん 」を中心 ちゅうしん とする周辺 しゅうへん に公式 こうしき の住居 じゅうきょ をもついわゆる「パルド一族 いちぞく 」の影響 えいきょう を利用 りよう していた。一族 いちぞく は蓄積 ちくせき された資本 しほん を主 おも にスイスへと回避 かいひ させた[注釈 ちゅうしゃく 1] 。
ホセ・アントニオ・マルティネス・ソレルは次 つぎ のように述 の べている。
「独裁 どくさい の下 した ではコンスタントかつ広範 こうはん な汚職 おしょく が存在 そんざい していた」。
フランコ家 か は「Pazo de Meirás 」やガリシア の邸宅 ていたく 「Palacio de Cornide 」、マドリード 近 ちか くの 「El Canto del Pico 」といった不動産 ふどうさん 、建築 けんちく 物 ぶつ など、独裁 どくさい 時代 じだい 莫大 ばくだい な財産 ざいさん を蓄積 ちくせき した。その財産 ざいさん についてのリサーチ・ブックを出版 しゅっぱん しているマリアーノ・サンチェス・ソラーによると、その家族 かぞく は150以上 いじょう の異 こと なる企業 きぎょう と3600〜6000万 まん ユーロにも上 のぼ る資産 しさん を持 も っていたとされる[58] 。
2008年 ねん 、左派 さは 政党 せいとう Unidaは国家 こっか への財産 ざいさん 権 けん 返還 へんかん 要求 ようきゅう を議会 ぎかい に法案 ほうあん として提出 ていしゅつ したが、最終 さいしゅう 的 てき に当時 とうじ の社会労働党 しゃかいろうどうとう (PSOE)政権 せいけん は、それは「文化 ぶんか 的 てき 関心事 かんしんじ 」であるし、市民 しみん による訪問 ほうもん は許可 きょか されるものの(その所有 しょゆう は)フランコ家 か の権限 けんげん にとどまるとした。この件 けん に関 かん して、保守 ほしゅ 政党 せいとう の国民党 こくみんとう (PP)は提示 ていじ されたイニシアチブのいずれにも反対 はんたい した。
フランコ没 ぼつ 後 ご のスペイン [ 編集 へんしゅう ]
王政 おうせい 復古 ふっこ と民主 みんしゅ 化 か [ 編集 へんしゅう ]
1975年 ねん にフランコが亡 な くなると、彼 かれ の遺言 ゆいごん どおりにスペインにボルボン王朝 おうちょう が復活 ふっかつ した。国王 こくおう に即位 そくい したフアン・カルロス1世 せい は、彼 かれ のもとで帝王 ていおう 学 がく の教育 きょういく を受 う けていたこともあり、そのまま独裁 どくさい 政治 せいじ を受 う け継 つ ぐかと思 おも われたが、一転 いってん して政治 せいじ の民主 みんしゅ 化 か を推 お し進 すす め、西欧 せいおう 型 がた の自由 じゆう 主義 しゅぎ 国家 こっか への転換 てんかん を図 はか った。1977年 ねん には41年 ねん ぶりに総 そう 選挙 せんきょ が行 おこな われ、1978年 ねん に新 しん 憲法 けんぽう が承認 しょうにん されてスペインは立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい 国家 こっか として再建 さいけん された。
フランコの一人娘 ひとりむすめ であるカルメン・フランコ・イ・ポール は王政 おうせい 復古 ふっこ 直後 ちょくご にフランコ女 おんな 公爵 こうしゃく に叙位 じょい された[59] 。
歴史 れきし の記憶 きおく 法 ほう [ 編集 へんしゅう ]
サンタンデール市 し のフランコ像 ぞう (2006年 ねん )
2007年 ねん 10月31日 にち 、スペイン下院 かいん 議会 ぎかい はスペイン内戦 ないせん とフランコ政権 せいけん 下 か の犠牲 ぎせい 者 しゃ の名誉 めいよ 回復 かいふく 、公 おおやけ の場 ば でのフランコ崇拝 すうはい の禁止 きんし などを盛 も り込 こ んだ「内乱 ないらん と独裁 どくさい 期 き に迫害 はくがい と暴力 ぼうりょく を受 う けた人々 ひとびと のための権利 けんり 承認 しょうにん と措置 そち を定 さだ めた法 ほう (La Ley por la que se reconocen y amplían derechos y se establecen medidas en favor de quienes padecieron persecución o violencia durante la Guerra Civil y la Dictadura)」、通称 つうしょう 「歴史 れきし の記憶 きおく 法 ほう (スペイン語 ご 版 ばん ) 」を与党 よとう 社会労働党 しゃかいろうどうとう などの賛成 さんせい 多数 たすう で可決 かけつ (Historical Memory Bill )。同年 どうねん 、上院 じょういん でも可決 かけつ 成立 せいりつ した。
2008年 ねん 10月より、「歴史 れきし の記憶 きおく 法 ほう 」に基 もと づき、バルタサール・ガルソン 予審 よしん 判事 はんじ は内戦 ないせん 被害 ひがい 者 しゃ 調査 ちょうさ に着手 ちゃくしゅ 。10月には、スペイン内 ない 戦中 せんちゅう とフランコ政権 せいけん 初期 しょき に、反乱 はんらん 軍 ぐん によって住民 じゅうみん が虐殺 ぎゃくさつ されるなどの人道 じんどう に対 たい する罪 つみ 、戦争 せんそう 犯罪 はんざい が行 おこな われたとして、スペイン全土 ぜんど に1,400か所 しょ あると思 おも われる犠牲 ぎせい 者 しゃ が埋 う められている集団 しゅうだん 墓地 ぼち の発掘 はっくつ や関係 かんけい 者 しゃ の訴追 そつい など、人道 じんどう 犯罪 はんざい 調査 ちょうさ を行 おこな うと発表 はっぴょう した。一方 いっぽう 、ハビエル・サラゴサ検事 けんじ 局長 きょくちょう は、1977年 ねん に制定 せいてい された特赦 とくしゃ 法 ほう 「移行 いこう 協定 きょうてい 」により恩赦 おんしゃ が成立 せいりつ しているとして、フランコ政権 せいけん 下 か の犯罪 はんざい はすべて免責 めんせき されているとの立場 たちば を示 しめ し、対立 たいりつ が起 お きた。
10月16日 にち 、ガルソン判事 はんじ は、内戦 ないせん 中 ちゅう 及 およ び独裁 どくさい 政権 せいけん 時代 じだい に住民 じゅうみん の殺害 さつがい や拉致 らち を命 めい じたとして、すでに死去 しきょ しているフランコ以下 いか 35人 にん の政権 せいけん 要人 ようじん を、人道 じんどう に対 たい する罪 つみ 等 とう で起訴 きそ した。
11月6日 にち 、ガルソン判事 はんじ の調査 ちょうさ が終了 しゅうりょう し、全国 ぜんこく 25カ所 かしょ の集団 しゅうだん 墓地 ぼち からの犠牲 ぎせい 者 しゃ 発掘 はっくつ を命 めい じた。翌 よく 7日 にち 、サラゴサ検事 けんじ は案件 あんけん は全国 ぜんこく 管区 かんく 裁判所 さいばんしょ の管轄 かんかつ 外 がい だとして異議 いぎ 申 もう し立 た てを行 おこな い、これを受 う けて11月28日 にち 、全 ぜん 管 かん 裁 さい 刑事 けいじ 法廷 ほうてい は集団 しゅうだん 墓地 ぼち からの遺体 いたい 発掘 はっくつ 命令 めいれい を停止 ていし すると決定 けってい した。同 どう 法廷 ほうてい のペドラサ判事 はんじ は異議 いぎ 申 もう し立 た ての処理 しょり が終了 しゅうりょう するまでガルソン判事 はんじ の発掘 はっくつ 命令 めいれい とフランコ裁判 さいばん を中止 ちゅうし すべきと要請 ようせい 、同 どう 法廷 ほうてい 全体 ぜんたい 会議 かいぎ にかけられ、これが認 みと められた[60] 。
アムネスティ・インターナショナル は、内戦 ないせん 中 ちゅう 及 およ びフランコ政権 せいけん 下 か で市民 しみん 11万 まん 4千 せん 人 にん が殺害 さつがい 若 も しくは行方 ゆくえ 不明 ふめい になっているとして、スペイン政府 せいふ に犠牲 ぎせい 者 しゃ のための真実 しんじつ を解明 かいめい するよう求 もと めている。
スペインには数 すう 多 おお くのフランコ像 ぞう があったが、2008年 ねん 12月、サンタンデール の広場 ひろば にあった7メートルのブロンズ像 ぞう (1964年 ねん 建立 こんりゅう )を最後 さいご に、本土 ほんど からすべて撤去 てっきょ された[61] 。
2021年 ねん 2月 がつ 23日 にち 、モロッコ に囲 かこ まれたスペインの飛 と び地 ち 領 りょう メリリャ から、スペインの国土 こくど に残 のこ る公共 こうきょう の場 ば の最後 さいご のフランコ像 ぞう が撤去 てっきょ された[62] 。
人道 じんどう に対 たい する罪 つみ [ 編集 へんしゅう ]
2008年 ねん 10月 がつ 16日 にち 、当時 とうじ の予審 よしん 判事 はんじ バルタサール・ガルソンによって、独裁 どくさい 政権 せいけん 時 じ の他 ほか の幹部 かんぶ とともにフランコは「人道 じんどう に対 たい する罪 つみ 、理由 りゆう なき違法 いほう 拘禁 こうきん の恒久 こうきゅう 的 てき 犯罪 はんざい 」の咎 とがめ で起訴 きそ された[63] 。この予審 よしん 決定 けってい (予審 よしん 判決 はんけつ )書 しょ で判事 はんじ は「市民 しみん 戦争 せんそう から戦後 せんご にかけて、政治 せいじ 的 てき 、イデオロギー的 てき 、宗教 しゅうきょう 的 てき 、またはその他 た の所属 しょぞく に関係 かんけい なく、激 はげ しい暴力 ぼうりょく 行為 こうい 、虐殺 ぎゃくさつ 、重大 じゅうだい な権利 けんり 侵害 しんがい を被 こうむ った全 すべ ての被害 ひがい 者 しゃ に最大限 さいだいげん の敬意 けいい を払 はら う」とした上 うえ で、裁判 さいばん の任務 にんむ は「内戦 ないせん の司法 しほう 審査 しんさ を行 おこな うこと」ではないと述 の べた。決定 けってい 事項 じこう 書 しょ は以下 いか のように続 つづ いた。
上記 じょうき および1936年 ねん 7月 がつ 18日 にち 以降 いこう 実際 じっさい に行 おこ なわれた武装 ぶそう 蜂起 ほうき または反乱 はんらん 、それは完全 かんぜん に計画 けいかく された決定 けってい であり、当時 とうじ のスペイン政府 せいふ を終結 しゅうけつ させ、国家 こっか 組織 そしき に責任 せきにん を負 お う被害 ひがい 者 しゃ の逮捕 たいほ 、拘留 こうりゅう 、拷問 ごうもん 、強制 きょうせい 的 てき な失踪 しっそう 、政治 せいじ 的 てき 、イデオロギー的 てき 理由 りゆう による何 なん 千 せん 人 にん もの人々 ひとびと の身体 しんたい 的 てき 排除 はいじょ 、また何 なん 千 せん 人 にん もの人々 ひとびと の亡命 ぼうめい と追放 ついほう を促進 そくしん するための手段 しゅだん として、あるいは少 すく なくともその不可欠 ふかけつ なステップとして、内戦 ないせん 終了 しゅうりょう 後 ご の数 すう 年 ねん に渡 わた り、国内外 こくないがい 、大 だい 規模 きぼ または小規模 しょうきぼ に続 つづ いた状況 じょうきょう をこの調査 ちょうさ で具体 ぐたい 化 か させようと試 こころ みる。そしてそれぞれの事件 じけん で行為 こうい 者 しゃ と責任 せきにん 者 しゃ を個別 こべつ 化 か し、すでに死亡 しぼう した被告 ひこく に対 たい する刑事 けいじ 責任 せきにん の可能 かのう 性 せい を解決 かいけつ する。 [...]人道 じんどう に対 たい する犯罪 はんざい のカテゴリーは、基本 きほん 的 てき かつ基礎 きそ 的 てき な原則 げんそく から始 はじ まる。これらの行動 こうどう は、生命 せいめい 、完全 かんぜん 性 せい 、尊厳 そんげん 、自由 じゆう など市民 しみん 社会 しゃかい が構成 こうせい されている柱 はしら や法治 ほうち 国家 こっか そのもの、最 もっと も基本 きほん 的 てき な権利 けんり において人間 にんげん に属 ぞく するものを最 もっと も残忍 ざんにん な形 かたち で攻撃 こうげき する[64] 。
2008年 ねん 10月 がつ 16日 にち 、国家 こっか 裁判所 さいばんしょ 第 だい 5号 ごう 中央 ちゅうおう 裁判所 さいばんしょ 決定 けってい [63]
そののち、同年 どうねん 11月 がつ 18日 にち 、同 どう 裁判所 さいばんしょ は死亡 しぼう 認定 にんてい の後 のち 、その責任 せきにん を消滅 しょうめつ させることを決定 けってい した[65] 。
Exhumación (墓 はか の掘 ほ り起 お こし) [ 編集 へんしゅう ]
戦没 せんぼつ 者 しゃ の谷 たに にあったフランコの墓 はか
2018年 ねん 8月 がつ 24日 にち 、スペイン政府 せいふ は内戦 ないせん 犠牲 ぎせい 者 しゃ から離 はな れた別 べつ の場所 ばしょ へと墓 はか を移動 いどう させるため、戦没 せんぼつ 者 しゃ の谷 たに (Valle de los Caídos)からフランコの遺骸 いがい を改葬 かいそう する法案 ほうあん を承認 しょうにん した。ペドロ・サンチェス 首相 しゅしょう は2007年 ねん に承認 しょうにん された歴史 れきし 記憶 きおく 法 ほう (la Ley de memoria histórica )の適用 てきよう に基 もと づき、国際 こくさい 組織 そしき からの勧告 かんこく 同様 どうよう 、民主 みんしゅ 国家 こっか に独裁 どくさい 者 しゃ を高 たか く評価 ひょうか する公的 こうてき 建造 けんぞう 物 ぶつ が存在 そんざい する必要 ひつよう があるとは思 おも わないとした[66] 。
2018年 ねん 9月 がつ 13日 にち 、下院 かいん 議会 ぎかい は政府 せいふ が提示 ていじ した法案 ほうあん を検証 けんしょう した。PSOE 、ウニードス・ポデモス 、PNV 、ERC、PDeCAT、コンプロミス、EH Bildu、カナリア連合 れんごう と新 しん カナリアらによる172の賛成 さんせい 票 ひょう を受 う けて可決 かけつ された[67] [68] 。
2019年 ねん 6月 がつ 4日 にち 、最高裁判所 さいこうさいばんしょ は棺 かん の掘 ほ り起 お こしに反対 はんたい する同 どう 総統 そうとう の子孫 しそん による上訴 じょうそ が検討 けんとう されている間 あいだ 、掘 ほ り起 お こしを一時 いちじ 中断 ちゅうだん する判断 はんだん を下 くだ したが[69] 、訴 うった えは退 しりぞ けられ[70] 、10月24日 にち 、掘 ほ り起 お こされた遺体 いたい は戦没 せんぼつ 者 しゃ の谷 たに から移送 いそう され、ミンゴルビオ墓地 ぼち にある総統 そうとう の妻 つま の墓 はか のそばに再 さい 埋葬 まいそう された[71] 。
^ 1958年 ねん の "Agenda de Rivara"として知 し られている回避 かいひ 事例 じれい では、その金額 きんがく は700億 おく ペセタにも上 のぼ った。
^ スペイン総 そう 選挙 せんきょ フランコ独裁 どくさい 以来 いらい の「極右 きょくう 」国政 こくせい 参画 さんかく か、焦点 しょうてん に
^ “スペイン最高裁 さいこうさい 、フランコ総統 そうとう の遺体 いたい 掘 ほ り起 お こし認 みと める ”. AFPBB News (2019年 ねん 9月 がつ 24日 にち ). 2020年 ねん 7月 がつ 21日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Payne, Stanley G.; Palacios, Jesús (24 November 2014). Franco: A Personal and Political Biography . Madison: en:The University of Wisconsin Press . p. 263. ISBN 978-0-299-30210-8 . https://books.google.es/books?id=rn6aBAAAQBAJ&pg=PA263
^ 川成 かわなり 洋 よう 「フェロール時代 じだい のフランシスコ・フランコ」/ 坂東 ばんどう 省 しょう 次 じ ・桑原 くわばら 真夫 まさお ・湯浅 ゆあさ 武和 たけかず 編著 へんちょ 『スペインのガルシアを知 し るための50章 しょう 』明石書店 あかししょてん 2012年 ねん 72-73ページ
^ P. Preston, Franco. A Biography , New York 1994, p.1.
^ Beevor, Antony. The Spanish Civil War. p. 97. ISBN 0911745114
^ クレーブス(2000) 、281p
^ クレーブス(2000) 、282、283p
^ クレーブス(2000) 、285-286p
^ クレーブス(2000) 、287p
^ 『シリーズ20世紀 せいき の記憶 きおく 』<第 だい 2次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん ・欧州 おうしゅう 戦線 せんせん ―1939-1945(毎日 まいにち ムック―シリーズ20世紀 せいき の記憶 きおく )>毎日新聞社 まいにちしんぶんしゃ
^ クレーブス(2000) 、288p
^ クレーブス(2001) 、242p
^ クレーブス(2001) 、258p
^ クレーブス(2001) 、238p
^ クレーブス(2001) 、246p
^ クレーブス(2001) 、249p
^ クレーブス(2001) 、246-247p
^ クレーブス(2001) 、249-250p
^ Hoare, Samuel (1946). Ambassador on Special Mission. Collins; First Edition. pp. 124, 125. pp. 124–125.
^ Kay, Hugh (1970). Salazar and Modern Portugal. New York: Hawthorn Books. p. 123.
^ Rendel, Sir George (1957). The Sword and the Olive – Recollections of Diplomacy and Foreign Service 1913–1954 (First ed.). John Murray. ASIN B000UVRG60.
p.37
^ Lochery, Neill (2011). Lisbon: War in the Shadows of the City of Light, 1939–1945. PublicAffairs; 1 edition. p. 19. ISBN 978-1586488796 .
^ クレーブス(2001) 、258p
^ 色摩 しかま 力夫 りきお 『フランコ-スペイン現代 げんだい 史 し の迷路 めいろ 』中央公論 ちゅうおうこうろん 新 しん 社 しゃ 、2000年 ねん
^ El poder más amplio y absoluto que nunca, a lo largo de la Historia, haya tenido español alguno . Tusell 1996, pág. 137
^ Reig Tapia 1996, pág. 150
^ Política e ideológicamente Franco se define sobre todo por rasgos negativos: antiliberalismo , antimasónico , antimarxista , etc.
^ Bachoud, 2000 , p. 15. «Los testimonios de apoyo sin duda le confirman en la idea de que ha sido designado para llevar a cabo una misión superior».
^ Bachoud, 2000 , p. 132.
^ Tusell Gómez, 1996 , p. 121.
^ Tusell Gómez y 1996 , pp. =122-123.
^ Tusell, 1996 , p. 117-120.
^ Franco: Caudillo de España . Ensayo, Historia. Traducción de Teresa Camprodón Alberca y Diana Falcón Zás Revisión de Eva Rodríguez Halffter (1.ª edición). Barcelona: Debolsillo. ISBN 978-84-9759-477-6 .
^ Tusell Gómez, 1996 , p. 181. «Franco confió muy especialmente en personalidades del mundo del ejército. Como es lógico, así sucedía no solo en los niveles más altos de la administración sino también en los inferiores».
^ Tusell Gómez, 1999 .
^ la ausencia de un ideario definido le permitió [a Franco] transitar de unas fórmulas dictatoriales a otras, rozando el fascismo en los cuarenta y a las dictaduras desarrollistas en los sesenta
^ a b Preston, 2004 , p. 844.
^ a b Preston, 2004 , p. 845.
^ el mercado negro y la corrupción fueron característicos de la economía española hasta bien avanzada la década de 1950. Si Franco hubiera tenido la magnanimidad y el patriotismo de dejar paso a don Juan en 1945, España se habría convertido en una Monarquía constitucional a tiempo de compartir los beneficios del Plan Marshall y de una pronta incorporación a la OTAN y a la CEE
^ Prieto, Carlos (19 de noviembre de 2015). «La corrupción compulsiva del clan Franco». es:El Confidencial .
^ "Los escándalos económicos del franquismo".Coproducción televisiva. Varios (TVE - History Channel) 2005. Emitida por TVE 2 el día 30 de junio de 2006, 23:30 horas.
^ Mariano Sánchez Soler: "Los Franco, S. A." (2003).
^ “カルメン・フランコさん死去 しきょ スペインのフランコ元 もと 総統 そうとう の1人 ひとり 娘 むすめ ” . 共同通信 きょうどうつうしん . https://www.iza.ne.jp/kiji/world/news/171229/wor17122921500023-n1.html 2017年 ねん 12月29日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 2008年 ねん 11月7日 にち のニュース
^ 朝日新聞 あさひしんぶん 、2008年 ねん 12月23日 にち 朝刊 ちょうかん 、東京 とうきょう 版 ばん 、11面 めん 。
^ “スペインの独裁 どくさい 者 しゃ フランコ総統 そうとう 、最後 さいご の銅像 どうぞう を撤去 てっきょ ”. CNN.co.jp . 2021年 ねん 12月29日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b バルタサール・ガルソン (16 de noviembre de 2008).«Juzgado Central de Instrucción n.º 5. Audiencia Nacional. Madrid. Diligencias previas (proc. abreviado) 399/2006 V. Auto». Administración de Justicia . Archivado desde el original el 24 de octubre de 2012.
^ De lo dicho anteriormente y de los hechos que acontecieron posteriormente al 18 de julio de 1936, se constata que el alzamiento o insurrección armada que se materializó en esa fecha, fue una decisión perfectamente planeada y dirigida a acabar con la forma de Gobierno de España, en ese momento, atacando y ordenando la detención e incluso la eliminación física de personas que ostentaban responsabilidades en los altos Organismos de la Nación y ello, como medio o al menos como paso indispensable para desarrollar y ejecutar las decisiones previamente adoptadas sobre la detención, tortura, desaparición forzada y eliminación física de miles de personas por motivos políticos e ideológicos, propiciando, asimismo, el desplazamiento y exilio de miles de personas, dentro y fuera del territorio nacional, situación que continuó, en mayor o menor medida, durante los años siguientes, una vez concluyó la Guerra Civil, y cuya realidad pretende concretarse en esta investigación, así como los autores, en cada caso, con el fin de individualizar las conductas y los responsables de las mismas, y resolver sobre la extinción de su posible responsabilidad penal, de haber fallecido. [...] La categoría de crimen contra la humanidad parte de un principio básico y fundamental, que estas conductas agredan en la forma más brutal a la persona como perteneciente al género humano en sus derechos más elementales como la vida, la integridad, la dignidad, la libertad, que constituyen los pilares sobre los que se constituye una sociedad civilizada y el propio Estado de Derecho.
Auto del 16 de octubre de 2008 del Juzgado Central de Instrucción n.º 5 de la Audiencia Nacional
^ バルタサール・ガルソン (18 de noviembre de 2008).«Juzgado Central de Instrucción n.º 5. Audiencia Nacional. Madrid. Sumario (proc. ordinario) 53/2008 E. Auto».Administración de Justicia . Archivado desde el original el 5 de septiembre de 2015.
^ https://elpais.com/politica/2018/08/24/actualidad/1535104789_556975.html エルパイス紙 し (マドリッド)2018年 ねん 8月 がつ 24日 にち 付 づけ
^ https://elpais.com/politica/2018/09/13/actualidad/1536818667_370836.html エルパイス 紙 し (マドリッド)2018年 ねん 9月 がつ 13日 にち 付 づけ
^ "Parliament approved the exhumation, 172 to 2, with 164 abstentions, and the two who voted against were reported to have done so in error. The two main center-right opposition parties refused to take part in the vote, and the conservative Popular Party plans to appeal the decision before the Constitutional Court, arguing that Prime Minister Pedro Sánchez unjustifiably fast-tracked the measure." ニューヨークタイムズ紙 し 2018年 ねん 9月 がつ 13日 にち 付 づけ
^ “フランコ総統 そうとう の遺体 いたい 掘 ほ り起 お こしを一時 いちじ 中断 ちゅうだん 、スペイン最高裁 さいこうさい が判断 はんだん ”. www.afpbb.com . 2021年 ねん 12月29日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “フランコ総統 そうとう の棺 かん 、掘 ほ り起 お こして別 べつ の墓 はか へ スペイン ”. CNN.co.jp . 2021年 ねん 12月29日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “スペインの独裁 どくさい 者 しゃ フランコ総統 そうとう の遺体 いたい 、掘 ほ り起 お こされる 妻 つま のそばに埋葬 まいそう へ ”. www.afpbb.com . 2021年 ねん 12月29日 にち 閲覧 えつらん 。
全般 ぜんぱん 国立 こくりつ 図書館 としょかん 芸術 げいじゅつ 家 か 人物 じんぶつ その他 た