フランシスコ・フランコ

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フランシスコ・フランコ・バアモンデ
Francisco Franco Bahamonde


任期にんき 1936ねん10月1にち1975ねん11月20にち

スペインの旗 スペインこく
初代しょだい 首相しゅしょう
任期にんき 1938ねん1がつ30にち1973ねん6月8にち

出生しゅっしょう 1892ねん12月4にち
スペインの旗 スペイン王国おうこく
ラ・コルーニャけん フェロル
死去しきょ (1975-11-20) 1975ねん11月20にち(82さいぼつ
スペインの旗 スペイン マドリード
政党せいとう ファランヘとう
配偶はいぐうしゃ カルメン・ポロ
子女しじょ カルメン・フランコ
署名しょめい

フランシスコ・フランコ・バアモンデFrancisco Franco BahamondeIPA : [fɾan'θしーたisko 'fɾaŋko]1892ねん12月4にち - 1975ねん11月20にち)は、スペイン軍人ぐんじん大元帥だいげんすい)、政治せいじ。1936ねんから1975ねんまで[1]長期ちょうき独裁どくさいいたことでられる[2]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

軍人ぐんじんとして[編集へんしゅう]

フランコは、スペイン北西ほくせいガリシア地方ちほうエル・フェロルまれた。エル・フェロルは海軍かいぐん基地きちのあるまちで、ちち祖父そふ海軍かいぐん軍人ぐんじんであった[3]出生しゅっしょう洗礼せんれいめいフランシスコ・パウリーノ・エルメネヒルド・テオドゥロ・フランコ・バアモンデ・サルガード=アラウホ・イ・パルド・デ・ラマFrancisco Paulino Hermenegildo Teódulo Franco Bahamonde Salgado-Araujo y Pardo de Lama[4]かれは5にん兄弟きょうだい二男じなんで、あにニコラススペインばんいもうとにんピラールスペインばん、マリア・デ・ラ・パス)、おとうとラモンがいた。祖父そふちち海軍かいぐん主計しゅけいじゅんしょうまでなっている[5]はは人生じんせいとしていた。フランコもバアモンデもスペインでは一般いっぱんユダヤけいせいであり、フランコをユダヤけいなすきもある[6]

ちち祖父そふおな海軍かいぐん志望しぼうしていたが、軍縮ぐんしゅく海軍かいぐん募集ぼしゅう中止ちゅうししたため、1907ねんトレド陸軍りくぐん歩兵ほへい士官しかん学校がっこう入学にゅうがくした。1910ねん卒業そつぎょうすると少尉しょういとなった[7]。1912ねんにはモロッコ着任ちゃくにんした[8]スペインりょうモロッコでは原住民げんじゅうみん反乱はんらん頻発ひんぱつしていた[9]。フランコはここで順調じゅんちょう昇進しょうしん[10]、1926ねんにはじゅんしょうとなった。33さい将官しょうかんは、当時とうじ欧州おうしゅうでは最年少さいねんしょうであった[11]。1934ねんアストゥリアス地方ちほう革命かくめい運動うんどうきると、フランコはモロッコ駐留ちゅうりゅうぐん投入とうにゅうして鎮圧ちんあつした[12]。その翌年よくねんの1935ねんには陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょうとなった[13]

スペイン内戦ないせん[編集へんしゅう]

1936ねん2がつ選挙せんきょ左派さは辛勝しんしょう、フランコは参謀さんぼう総長そうちょう解任かいにんされ、カナリア諸島かなりあしょとう司令しれいかん左遷させんされた[14]人民戦線じんみんせんせん政府せいふ社会しゃかい主義しゅぎてき理念りねんもとづく改革かいかく実行じっこう教会きょうかい財産ざいさん没収ぼっしゅうし、ブルジョワたいするけをつよめた。これは農民のうみん労働ろうどうしゃそう支持しじされたが、地主じぬし資本しほんカトリック教会きょうかいなどの保守ほしゅ勢力せいりょく知識ちしきそうとは対立たいりつした。

同年どうねん7がつモロッコ駐留ちゅうりゅうぐん決起けっき、フランコは同地どうちんで指揮しきけん掌握しょうあく[15]、モロッコ部隊ぶたい本土ほんど輸送ゆそうした[16]。この反乱はんらんはスペインを二分にぶんするだい規模きぼ内戦ないせん発展はってんした。人民戦線じんみんせんせん政府せいふにより反乱はんらんぐん(Bando sublevado)とばれた勢力せいりょく(「国民こくみんぐん英語えいごばん」 Bando nacional を自称じしょうした)の中心ちゅうしん人物じんぶつ当初とうしょホセ・サンフルホスペインばん英語えいごばん将軍しょうぐんエミリオ・モラスペインばん英語えいごばん将軍しょうぐんなどであり、フランコは反乱はんらんがわいち指揮しきかんでしかなかった。ホセ・サンフルホが1936ねん飛行機ひこうき事故じこ死亡しぼうし、緒戦しょせん反乱はんらんぐん敗北はいぼくかさねるなど長期ちょうき様相ようそうはじめると、戦功せんこうのあるフランコと、戦前せんぜんから人望じんぼうたかかったモラが反乱はんらんがわ人気にんき二分にぶんするようになる。そのモラも飛行機ひこうき墜落ついらく事故じこ死亡しぼうすると、フランコが反乱はんらんぐん指導しどうしゃとしての地位ちいかためた。

総統そうとう就任しゅうにん[編集へんしゅう]

1936ねん10がつ1にちブルゴスにおいて反乱はんらんぐんそう司令しれいかん指名しめいされ、(一方いっぽうてきな)国家こっか元首げんしゅ就任しゅうにんした。そのさいフランコは、ぐんそう司令しれいかんとして大元帥だいげんすい(Generalísimo、総帥そうすいともやくされる。ぐんにおける最終さいしゅう階級かいきゅう陸海空りくかいくう元帥げんすい英語えいごばん)、国家こっか元首げんしゅとしてカウディーリョ・デ・エスパーニャ(Caudillo de España、以下いか総統そうとう)の称号しょうごうもちいた。また、かり政府せいふとして「国家こっか行政ぎょうせい委員いいんかい」を設置せっち1938ねん1がつ30にちにこれを改組かいそして正式せいしき内閣ないかく制度せいど導入どうにゅう、そのトップとなった。

スペイン統一とういつ[編集へんしゅう]

総統そうとうたるフランコの紋章もんしょう

その、フランコはドイツイタリアポルトガル[17]支援しえんけて、共和きょうわ勢力せいりょくたたかった。反乱はんらんぐん主力しゅりょく陸軍りくぐんで、そら海軍かいぐんだい部分ぶぶん共和きょうわこくがわについたため反乱はんらんぐんはモロッコ駐留ちゅうりゅうぐん本土ほんどおくることができなかった。フランコは状況じょうきょう打開だかいするためにどく政府せいふ協力きょうりょくあおぎ、それを承諾しょうだくした両国りょうこく輸送ゆそうをモロッコに派遣はけん現地げんち反乱はんらんぐん部隊ぶたいをスペイン本土ほんど空輸くうゆした。また日本にっぽんはドイツとイタリアにいでフランコ政権せいけん承認しょうにんした列強れっきょうであり、フランコ政権せいけんまんしゅうこく承認しょうにんしたのはその見返みかえりであるとされている。

なお、フランコにたいする人民戦線じんみんせんせん政府せいふ内部ないぶ共和きょうわ主義しゅぎしゃ共産きょうさん主義しゅぎしゃ政府せいふ主義しゅぎものかかえていたため、統一とういつせいけた。フランス当初とうしょ人民戦線じんみんせんせん支援しえんしたものの国内こくない反発はんぱつ即座そくざ中止ちゅうし、また人民戦線じんみんせんせんソ連それん国際こくさい旅団りょだん(イギリスやアメリカなど各国かっこく義勇ぎゆうへい)の支援しえんけるも、どくぐん、そして両国りょうこく政府せいふからの強力きょうりょく支援しえんける反乱はんらんぐんたいする劣勢れっせいくつがえせなかった。

1938ねんの3がつ反乱はんらんぐんアラゴン攻勢こうせい英語えいごばん開始かいしし、4がつには地中海ちちゅうかい到達とうたつして共和きょうわこく支配しはい地域ちいき南北なんぼく分断ぶんだんすること成功せいこうした。この危機ききてき状況じょうきょう打破だはするために共和きょうわこくがわ7がつ25にち仕掛しかけただい攻勢こうせいエブロがわたたか英語えいごばん」が失敗しっぱいわったことで、フランコの勝利しょうり決定的けっていてきになった。同年どうねんれから国際こくさい旅団りょだん中心ちゅうしんとなっていたカタルーニャ地方ちほうそう攻撃こうげき開始かいしよく1939ねん1がつにはバルセロナ陥落かんらく3月27にちマドリード陥落かんらくしたことにより人民戦線じんみんせんせん政府せいふ崩壊ほうかい、31にちにはスペイン全土ぜんど制圧せいあつ4がつ1にちにフランコは内戦ないせん終結しゅうけつ宣言せんげんはっした。これによりスペインの混乱こんらん一応いちおう終息しゅうそくむかえたが、内戦ないせんによって軍民ぐんみんわせてすうじゅうまんにん死亡しぼうし、国土こくど荒廃こうはいいちじるしかった。フランコには同年どうねん8がつ8にち公布こうふされた「国家こっか元首げんしゅほう」によって緊急きんきゅう立法りっぽうけん付与ふよされ、強大きょうだい権限けんげんって国家こっか再建さいけんむこととなる。

だい世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

枢軸すうじくこくりの「中立ちゅうりつ[編集へんしゅう]

つまとともに地方ちほう視察しさつおこなうフランコ(1940ねん
ハインリヒ・ヒムラーとともに(1940ねん

内戦ないせん終結しゅうけつ直前ちょくぜんの1939ねん3がつ27にち、フランコはにちどく防共ぼうきょう協定きょうてい加入かにゅうし、同年どうねん5がつには国際こくさい連盟れんめいから脱退だったいした[18]一方いっぽう、9月にだい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつすると、フランコは国家こっか内戦ないせんにより荒廃こうはいしたために国力こくりょく参戦さんせんえられないと判断はんだんして中立ちゅうりつ宣言せんげんした。しかし緒戦しょせんにおけるドイツの勝利しょうり優勢ゆうせいて、1940ねん6がつ10日とおかイタリアの参戦さんせん直後ちょくご中立ちゅうりつ放棄ほうき交戦こうせん宣言せんげんした。これによって枢軸すうじくこくがわちかづき、情報じょうほう提供ていきょうどく艦船かんせんへの補給ほきゅうなどで便宜べんぎはかった。交戦こうせん宣言せんげんより数日すうじつには国際こくさい管理かんり都市としであったタンジェ侵攻しんこう、11月これをスペインりょうモロッコ一部いちぶとして併合へいごうした。並行へいこうしてフランコはたいえいせん参戦さんせん準備じゅんびおこない、イギリス降伏ごうぶく直前ちょくぜんいち週間しゅうかんにスペインが参戦さんせんすることで、講和こうわ戦後せんご処理しょり会議かいぎにおける発言はつげんけん確保かくほしようと思考しこうした。同時どうじどくえい休戦きゅうせん仲介ちゅうかいをすることで、ジブラルタルきたアフリカの領土りょうど要求ようきゅうをドイツにみとめさせようとしたのだが、アドルフ・ヒトラー反応はんのう冷淡れいたんだった[19]

ドイツがフランス全土ぜんど占領せんりょうし、連合れんごうぐんがヨーロッパ大陸たいりくからされた直後ちょくごの1940ねん10がつ、ヒトラーとアンダイエ会談かいだんし、その蜜月みつげつ関係かんけい世界中せかいじゅうたい誇示こじした。ヒトラーはスペインの領土りょうど要求ようきゅうたいし、ふつりょうきたアフリカの大幅おおはば割譲かつじょうはできないとしながら、たいえいせん英国えいこく植民しょくみん処理しょり代償だいしょうあたえられるので領土りょうど調整ちょうせい可能かのうべた。フランコはこのときヒトラーが要求ようきゅうしたえいりょうジブラルタル攻略こうりゃく作戦さくせんフェリックス作戦さくせん)のための地上ちじょうルート提供ていきょうや、どく鋼鉄こうてつ同盟どうめい参加さんか将来しょうらいてきにちどくさんこく同盟どうめいへの参加さんか約束やくそくし、条件じょうけんとして軍事ぐんじ経済けいざいの「莫大ばくだい戦略せんりゃく物資ぶっし」を要求ようきゅうしつつ、参戦さんせん意思いし宣誓せんせいした[20]。しかし、バトル・オブ・ブリテン地中海ちちゅうかい戦線せんせんとくギリシャ戦線せんせんでのイギリス有利ゆうり状況じょうきょうと、経済けいざいてきえいべいとの依存いぞん関係かんけいはフランコの参戦さんせん意欲いよく減退げんたいさせ、翌年よくねんかれはこの合意ごうい無効むこうとし[21]、その参戦さんせん要求ようきゅうをのらりくらりとかわしつづけた。

一方いっぽうでヒトラーがバルバロッサ作戦さくせん発動はつどうすると、国中くになか熱狂ねっきょうてきなファシスト1まんにんちかくをあつめてあお師団しだん創設そうせつし、ドイツ国防こくぼうぐん義勇ぎゆう部隊ぶたいとして東部とうぶ戦線せんせんおくんでいる(国内こくないには、ドイツ・イタリアに共感きょうかんする参戦さんせん推進すいしん存在そんざいし、それはフランコかられば中立ちゅうりつ政策せいさく国内こくない安定あんていあやうくしかねない不穏ふおん分子ぶんしともえた。そのため両国りょうこく好感こうかん、かつそうした反動はんどう分子ぶんし一掃いっそうする方法ほうほうとして、あお師団しだん創設そうせつ派遣はけん一石二鳥いっせきにちょうであった[22])。さらに内戦ないせん経緯けいいもあって、ソ連それん仇敵きゅうてきなす国内こくない世論せろんとこれまでの自身じしん言動げんどう無視むしできないめん内戦ないせんにおけるドイツ援助えんじょへの返礼へんれいてき意味合いみあいもあった。

1941ねん12月真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきさいして日本にっぽん祝電しゅくでんおくり、アメリカの不興ふきょうった[23]一方いっぽうきゅう植民しょくみん権益けんえき存在そんざいしたフィリピン日本にっぽんぐん侵攻しんこうすると、同地どうちのこ利権りけんあつかいをめぐり、両国りょうこくあいだ軋轢あつれきまれた[24]

連合れんごうこくへの傾斜けいしゃ[編集へんしゅう]

1943ねんごろよりヨーロッパおよびアフリカ戦線せんせんにおいて完全かんぜん連合れんごうこく優勢ゆうせいになると、ふたた中立ちゅうりつ固持こじするという日和見ひよりみ姿勢しせい終始しゅうしした。1944ねんごろになると、あお師団しだんについて連合れんごうこくがわ各国かっこくから非難ひなんあつまったためフランコは撤兵てっぺい約束やくそく国内こくないたいして反対はんたいするもの厳罰げんばつしょする、と声明せいめいした。さらに太平洋たいへいよう戦線せんせんにおいても日本にっぽんぐん完全かんぜん劣勢れっせいとなった1945ねんきたマニラのたたかにおいては、在留ざいりゅうスペインじん損害そんがい問題もんだい理由りゆう日本にっぽん断交だんこうした[25]

フランコはだい世界せかい大戦たいせんつぎのようにていた。「世界せかいではまったべつふたつの戦争せんそうたたかわれている。だいいちにヨーロッパではソ連それんたいする戦争せんそうであり、だい太平洋たいへいようでは日本にっぽんたいする戦争せんそうである」とし、どくべいえいふくむ「ぜんキリスト教きりすときょう世界せかい」は、野蛮やばん東洋とうようてき共産きょうさん主義しゅぎてきなロシアを共通きょうつうてきとしてたたかうべきであるとした。かれはこのかんがえに沿って連合れんごうこくとドイツの講和こうわ調停ちょうていおこなった[26]

サン・セバスティアン視察しさつするフランコ(1941ねん
Francisco Franco and Carmen Polo.jpg
フランコとカルメン夫人ふじん(1968ねん

なお、この工作こうさくにおいて「アジアにおけるヨーロッパの権益けんえき完全かんぜん回復かいふくするべきものである」としており、キリスト教きりすときょうこくである日本にっぽん要求ようきゅう考慮こうりょれていなかった[27]。また、枢軸すうじくこく劣勢れっせいあきらかとなった1943ねん7がつ28にち、アメリカに和平わへい調停ちょうていもうたが、そのさいにはちゅうスペインアメリカ大使たいしカールトン・J・H・ヘイズ英語えいごばんたいして「かれら(日本人にっぽんじん)は基本きほんてき蛮族ばんぞくである。かれらは最悪さいあく帝国ていこく主義しゅぎしゃであり、中国ちゅうごくおよび極東きょくとう全域ぜんいき支配しはいをもくろんでいる。フィリピンに独立どくりつ保証ほしょうするというかれらの最近さいきん約束やくそくまった信頼しんらいできない。スペインは日本にっぽんなにらのシンパシーをいておらず、もし軍事ぐんじてき弱体じゃくたいでなければ太平洋戦争たいへいようせんそうにおいてよろこんでアメリカと協力きょうりょくしたいところである」とべている[28]。しかし、連合れんごうこくもドイツもスペインの調停ちょうていにはみみさなかった[29][30]

スペインの中立ちゅうりつ隣国りんごくのポルトガルのアントニオ・サラザール影響えいきょうおおきくけていたとされ[31][32][33]、フランコはサラザールのことを「わたしっているもっと尊敬そんけいあたいするもっと完璧かんぺき政治せいじはサラザールだ」ともひょうしていた[34]

結果けっかとしてスペインは、大戦たいせんちゅうは「中立ちゅうりつこく」としてうことにより、自国じこくおよ植民しょくみん戦禍せんかまぬかれたが、その風見鶏かざみどりてき姿勢しせい連合れんごうこくとくにアメリカに不信ふしんかんけることとなった[35]

独裁どくさいしゃフランコ[編集へんしゅう]

アメリカアイゼンハワー大統領だいとうりょうとともに(1959ねん

1959ねん12月には、アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー大統領だいとうりょう会見かいけんする。戦中せんちゅうは「中立ちゅうりつこく指導しどうしゃ」という立場たちばながら、枢軸すうじくこく劣勢れっせいになる1944ねんころまでは一貫いっかんしてしんドイツの立場たちばたもっていたフランコと、そのドイツをてき連合れんごうぐん最高さいこう司令しれいかんとしてたたかっていたアイゼンハワーの会見かいけんは、序盤じょばんこそぎこちなかったものの、おたが軍人ぐんじん出身しゅっしんという出自しゅつじや、上記じょうきのようなアメリカがわ事情じじょうもあり、最終さいしゅうてきには2人ふたりともけ、わかれのさいには抱擁ほうようをかわしたほどだった。これにより、両国りょうこく関係かんけい飛躍ひやくてき改善かいぜんされる。

その独裁どくさいつづけるフランコを支援しえんすることにたいする国内こくない世論せろんからの批判ひはんけたアメリカなどの意向いこう配慮はいりょして、任命にんめいせい議員ぎいん一部いちぶ選挙せんきょせいえるなど(1966ねん)、冷戦れいせん影響えいきょうをうけて左右さゆううご国内こくない社会しゃかい不安ふあん緩和かんわつとめた。しかし、カタルーニャやバスク地方ちほうにおける独立どくりつ意識いしきぐために、おおやけいえなか以外いがいのすべての場所ばしょ)でのカタルーニャバスク使用しよう禁止きんしするなど、一部いちぶでは強硬きょうこう姿勢しせいっており、このようなフランコの姿勢しせいたいしてバスク祖国そこく自由じゆう(ETA)によるテロなどが活発かっぱつした。

後継こうけいしゃ指名しめい王制おうせい復活ふっかつ[編集へんしゅう]

カルロス・アリアス・ナバーロとともに(1975ねん

フランコは政権せいけんのありかたについて、最終さいしゅうてきには王制おうせい移行いこうするべきだとかんがえていた。これは、フランコ政権せいけんが「個人こじんてき独裁どくさいせい」なので、フランコの死後しご政権せいけん枠組わくぐみをそのままのかたち何者なにものかに継承けいしょうすることができないことにくわえ、議会ぎかいせい民主みんしゅ主義しゅぎがこの当時とうじのスペインでは失敗しっぱいつづけてきたため、王制おうせい復活ふっかつ最良さいりょうだとしたのである[36]。ただし、あらたな王家おうけむかえるのか、きゅう王家おうけボルボン(ブルボンによる王政おうせい復古ふっことするのかはフランコもめかねていた。かつてスペインをおさめていたアブスブルゴ(ハプスブルクなどへの接触せっしょくもあったといわれる。

1947ねんに、フランコは「王位おうい継承けいしょうほう」を制定せいていし、スペインを「王国おうこく」とすること、フランコが国家こっか元首げんしゅとなること、後継こうけい国王こくおう指名しめいけん付与ふよされることなどをさだめた。王位おうい継承けいしょうほうは7がつ16にち国民こくみん投票とうひょう成立せいりつし、かれは「摂政せっしょう」として終身しゅうしん国家こっか元首げんしゅ地位ちい[37]

フランコ後継こうけいとして、支持しじ基盤きばんであった陸軍りくぐん内部ないぶにはボルボン復帰ふっきもとめるこえつよく、亡命ぼうめいさきのイタリアで死去しきょしたぜん国王こくおうアルフォンソ13せい息子むすこで、ボルボン家長かちょうとなっていたバルセロナはくもど次期じき国王こくおうとするのが自然しぜんであったが、フランコは「かんがかた容共ようきょうてきすぎる」としてこれを退しりぞけた。さらに一部いちぶにはフランコのむすめマリア・デル・カルメン・フランコみずからの地位ちいがせ、腹心ふくしんルイス・カレーロ・ブランコをそのしたにつけるという意見いけんもあったが、王制おうせい移行いこう希望きぼうするかれにより否定ひていされたうえ1973ねんにカレーロ・ブランコがETAによるテロでっていた自動車じどうしゃごと爆殺ばくさつされた英語えいごばんため、この計画けいかく頓挫とんざした。[よう出典しゅってん]

最終さいしゅうてきに、フランコは1969ねんにアルフォンソ13せいまご・バルセロナはく長男ちょうなんであるフアン・カルロスみずからの後継こうけいしゃ皇太子こうたいし)に指名しめいした[38]以降いこう心身しんしんおとろえを自覚じかくするようになり[39]1975ねん11月20にちがんのため死去しきょした[40]。フアン・カルロスはフランコの遺言ゆいごんしたがって同年どうねん11月22にち即位そくいし、王制おうせい復活ふっかつさせた。

イデオロギー[編集へんしゅう]

のスペイン歴史れきしじょう支配しはいしゃだれよりもおおくの権力けんりょく獲得かくとくした[41]」フランコは社会しゃかいのあらゆる分野ぶんや介入かいにゅうする権力けんりょく行使こうしした。政治せいじ学者がくしゃ歴史れきしのアルベルト・レイグ・タピア(Alberto Reig Tapia)によれば、フランコは政治せいじてき・イデオロギーてきに「否定ひていてき特徴とくちょう」、すなわち「はん自由じゆう主義しゅぎ」、「はん=フリーメーソン」、「はんマルクス主義まるくすしゅぎ」などで定義ていぎされているとする[42][43]。これはかれがスペインをこれらの「危機きき[44]」からすくうためにえらばれたというフランコの信念しんねん一致いっちする。イデオロギーそのものは定義ていぎされていないが、ざされた個人こじんてき性質せいしつをさらにかんがえてくことは困難こんなんである[45]

フランコ自身じしんによる1930年代ねんだい議会ぎかい政治せいじ否認ひにんはよくられており[46]、そのおも強迫きょうはく観念かんねんはスペイン権益けんえきたいする「インターナショナル(自由じゆう主義しゅぎ)」、「ユダヤ―フリーメーソン」、「共産きょうさん主義しゅぎマルクス主義まるくすしゅぎ)」、の陰謀いんぼう想定そうていにあった[47]。「ぐん世界せかい」と「てつ宗教しゅうきょう」にかんするものに敬意けいいあらわし、陰謀いんぼう恐怖きょうふむすびつけた[48]かれ武装ぶそう勢力せいりょく指導しどうしゃとして任命にんめいされて以来いらい大衆たいしゅうこえき、ほぼ日常にちじょうてきにロザリオをかかげていのり、イデオロギーてき枠組わくぐみをていた[49]実際じっさい、フランコ政権せいけんにおいてぐんつね重要じゅうよう役割やくわりたし、カトリック教会きょうかい積極せっきょくてき道徳どうとくてき正当せいとうせい提供ていきょうし、社会しゃかい規範きはんをモデルしようとつとめた[50]

バルセロナの歴史れきし学者がくしゃハビエル・トゥセル(Javier Tusell)は「明確めいかくなイデオロギーが存在そんざいしないからこそ、フランコ政権せいけん独裁どくさいからのものへと移行いこうすることができ、40年代ねんだいはファシズム、60年代ねんだいには発展はってん主義しゅぎへとうつりかわった[51][52]」とべた。

また、英国えいこく歴史れきしポール・プレストン(Paul Preston)は、「フランコの歴史れきしについてのもっと重要じゅうようなポイントは、スペインがおどろくほど簡単かんたん民主みんしゅ主義しゅぎえらび、スペインの未来みらいにおける独裁どくさいしゃ計画けいかくすみいやったことだ[53]」とした。その著作ちょさくCaudillo de Españaでは「フランコはそのまで、市民しみん戦争せんそうでの勝者しょうしゃ敗者はいしゃあいだうらふか分裂ぶんれつ維持いじ[53]」し、「1936ねんから1939ねんまでの市民しみん戦争せんそう無慈悲むじひ戦争せんそう努力どりょくによって左派さはてき殲滅せんめつもとめ、のちかれの「てつ意志いし」がのこったことはわすれてはいなかった[54]」とべた。つづけて「フランコ独自どくじ特徴とくちょうは、本能ほんのうてき狡猾こうかつ冷酷れいこく冷静れいせいさと気難きむずかしさをちあわせ、政権せいけんちから関係かんけいでライバルをあやつり、ラモン・セラーノ・スニェール(Serrano Suner)からバルセロナはくドン・ホアンDon Juan)まで、知性ちせい完全かんぜんせいめんすぐれていた人々ひとびと挑戦ちょうせんなんなく敗北はいぼくさせたことだった。 フランコの業績ぎょうせきは、国家こっか恩人おんじんといったていのものではなく、つね自分じぶん利益りえき奉仕ほうしした熟練じゅくれんした権力けんりょく操縦そうじゅうしゃのそれであった[54]」とくわえた。さらにこの著者ちょしゃは「だい世界せかい大戦たいせんちゅう中立ちゅうりつせいとスペイン経済けいざい奇跡きせきはフランコのリーダーシップに起因きいんするものではない。フランコが1945ねんドン・ホアンみちひら寛大かんだいさと愛国心あいこくしんっていたとすれば、スペインはマーシャルプラン恩恵おんけいけ、NATOEEC設立せつりつかちうため、立憲りっけん君主くんしゅせいになっていたはずだ[55]」と主張しゅちょうしている。

独裁どくさい政権せいけん時代じだい汚職おしょく[編集へんしゅう]

フランコ独裁どくさい政権せいけん家族かぞくとくあにニコラス・フランコスペインばんいもうとピラール・フランコスペインばんかれむすめ婿むこだい10代ビリャベルデ侯爵こうしゃくクリストバル・マルティネス=ボルディウ)において、おおくの汚職おしょく存在そんざいしていた。しかしフランコはきに政治せいじてき友愛ゆうあいによる寛容かんよううったえ、スキャンダルをもみしていた。これは報道ほうどう抑圧よくあつされ、自由じゆうがなかったために可能かのうだった。

たとえば、「マドリレーニャ・金属きんぞく製造せいぞう工業こうぎょう事件じけん(Corrupción en España参照さんしょう)」の場合ばあいには、かれ兄弟きょうだい閣僚かくりょう刑事けいじ会議かいぎ恩赦おんしゃけた。フランコのいもうとピラールは未亡人みぼうじんで10にん子供こどもははだったため適度てきど年金ねんきんだけが収入しゅうにゅうげんだったが、にもかかわらず膨大ぼうだい財産ざいさん蓄積ちくせきした。最終さいしゅうてきにピラールはフランコのまでに年金ねんきんとして1250まんペセタをった。

とりわけ、企業きぎょうソフィコ(SOFICO)による不動産ふどうさん詐欺さぎ、マテッサによる輸出ゆしゅつ援助えんじょ詐欺さぎ(Caso Matesa)、コンフェクシオン・ジブラルタル事件じけん、400まんリットルの国有こくゆう石油せきゆ消滅しょうめつ事件じけんCaso Reace)などはとく重要じゅうようなスキャンダルだった[56][57]

内戦ないせん終結しゅうけつ破壊はかい飢饉ききんから国境こっきょうえたやみ市場いちばなど違法いほう取引とりひき拡大かくだいした。その経済けいざい発展はってんによりくにゆたかになったが、「パラド宮殿きゅうでん」を中心ちゅうしんとする周辺しゅうへん公式こうしき住居じゅうきょをもついわゆる「パルド一族いちぞく」の影響えいきょう利用りようしていた。一族いちぞく蓄積ちくせきされた資本しほんおもにスイスへと回避かいひさせた[注釈ちゅうしゃく 1]

ホセ・アントニオ・マルティネス・ソレルはつぎのようにべている。

独裁どくさいしたではコンスタントかつ広範こうはん汚職おしょく存在そんざいしていた」。

フランコは「Pazo de Meirás」やガリシア邸宅ていたくPalacio de Cornide」、マドリードちかくの 「El Canto del Pico」といった不動産ふどうさん建築けんちくぶつなど、独裁どくさい時代じだい莫大ばくだい財産ざいさん蓄積ちくせきした。その財産ざいさんについてのリサーチ・ブックを出版しゅっぱんしているマリアーノ・サンチェス・ソラーによると、その家族かぞくは150以上いじょうことなる企業きぎょうと3600〜6000まんユーロにものぼ資産しさんっていたとされる[58]

2008ねん左派さは政党せいとうUnidaは国家こっかへの財産ざいさんけん返還へんかん要求ようきゅう議会ぎかい法案ほうあんとして提出ていしゅつしたが、最終さいしゅうてき当時とうじ社会労働党しゃかいろうどうとう(PSOE)政権せいけんは、それは「文化ぶんかてき関心事かんしんじ」であるし、市民しみんによる訪問ほうもん許可きょかされるものの(その所有しょゆうは)フランコ権限けんげんにとどまるとした。このけんかんして、保守ほしゅ政党せいとう国民党こくみんとう(PP)は提示ていじされたイニシアチブのいずれにも反対はんたいした。

フランコぼつのスペイン[編集へんしゅう]

王政おうせい復古ふっこ民主みんしゅ[編集へんしゅう]

1975ねんにフランコがくなると、かれ遺言ゆいごんどおりにスペインにボルボン王朝おうちょう復活ふっかつした。国王こくおう即位そくいしたフアン・カルロス1せいは、かれのもとで帝王ていおうがく教育きょういくけていたこともあり、そのまま独裁どくさい政治せいじぐかとおもわれたが、一転いってんして政治せいじ民主みんしゅすすめ、西欧せいおうがた自由じゆう主義しゅぎ国家こっかへの転換てんかんはかった。1977ねんには41ねんぶりにそう選挙せんきょおこなわれ、1978ねんしん憲法けんぽう承認しょうにんされてスペインは立憲りっけん君主くんしゅせい国家こっかとして再建さいけんされた。

フランコの一人娘ひとりむすめであるカルメン・フランコ・イ・ポール王政おうせい復古ふっこ直後ちょくごフランコおんな公爵こうしゃく叙位じょいされた[59]

歴史れきし記憶きおくほう[編集へんしゅう]

サンタンデールのフランコぞう(2006ねん

2007ねん10月31にち、スペイン下院かいん議会ぎかいはスペイン内戦ないせんとフランコ政権せいけん犠牲ぎせいしゃ名誉めいよ回復かいふくおおやけでのフランコ崇拝すうはい禁止きんしなどをんだ「内乱ないらん独裁どくさい迫害はくがい暴力ぼうりょくけた人々ひとびとのための権利けんり承認しょうにん措置そちさだめたほう(La Ley por la que se reconocen y amplían derechos y se establecen medidas en favor de quienes padecieron persecución o violencia durante la Guerra Civil y la Dictadura)」、通称つうしょう歴史れきし記憶きおくほうスペインばん」を与党よとう社会労働党しゃかいろうどうとうなどの賛成さんせい多数たすう可決かけつHistorical Memory Bill)。同年どうねん上院じょういんでも可決かけつ成立せいりつした。

2008ねん10月より、「歴史れきし記憶きおくほう」にもとづき、バルタサール・ガルソン予審よしん判事はんじ内戦ないせん被害ひがいしゃ調査ちょうさ着手ちゃくしゅ。10月には、スペインない戦中せんちゅうとフランコ政権せいけん初期しょきに、反乱はんらんぐんによって住民じゅうみん虐殺ぎゃくさつされるなどの人道じんどうたいするつみ戦争せんそう犯罪はんざいおこなわれたとして、スペイン全土ぜんどに1,400かしょあるとおもわれる犠牲ぎせいしゃめられている集団しゅうだん墓地ぼち発掘はっくつ関係かんけいしゃ訴追そついなど、人道じんどう犯罪はんざい調査ちょうさおこなうと発表はっぴょうした。一方いっぽう、ハビエル・サラゴサ検事けんじ局長きょくちょうは、1977ねん制定せいていされた特赦とくしゃほう移行いこう協定きょうてい」により恩赦おんしゃ成立せいりつしているとして、フランコ政権せいけん犯罪はんざいはすべて免責めんせきされているとの立場たちばしめし、対立たいりつきた。

10月16にち、ガルソン判事はんじは、内戦ないせんちゅうおよ独裁どくさい政権せいけん時代じだい住民じゅうみん殺害さつがい拉致らちめいじたとして、すでに死去しきょしているフランコ以下いか35にん政権せいけん要人ようじんを、人道じんどうたいするつみとう起訴きそした。

11月6にち、ガルソン判事はんじ調査ちょうさ終了しゅうりょうし、全国ぜんこく25カ所かしょ集団しゅうだん墓地ぼちからの犠牲ぎせいしゃ発掘はっくつめいじた。よく7にち、サラゴサ検事けんじ案件あんけん全国ぜんこく管区かんく裁判所さいばんしょ管轄かんかつがいだとして異議いぎもうてをおこない、これをけて11月28にちぜんかんさい刑事けいじ法廷ほうてい集団しゅうだん墓地ぼちからの遺体いたい発掘はっくつ命令めいれい停止ていしすると決定けっていした。どう法廷ほうていのペドラサ判事はんじ異議いぎもうての処理しょり終了しゅうりょうするまでガルソン判事はんじ発掘はっくつ命令めいれいとフランコ裁判さいばん中止ちゅうしすべきと要請ようせいどう法廷ほうてい全体ぜんたい会議かいぎにかけられ、これがみとめられた[60]

アムネスティ・インターナショナルは、内戦ないせんちゅうおよびフランコ政権せいけん市民しみん11まん4せんにん殺害さつがいしくは行方ゆくえ不明ふめいになっているとして、スペイン政府せいふ犠牲ぎせいしゃのための真実しんじつ解明かいめいするようもとめている。

スペインにはすうおおくのフランコぞうがあったが、2008ねん12月、サンタンデール広場ひろばにあった7メートルのブロンズぞう(1964ねん建立こんりゅう)を最後さいごに、本土ほんどからすべて撤去てっきょされた[61]

2021ねん2がつ23にちモロッコかこまれたスペインのりょうメリリャから、スペインの国土こくどのこ公共こうきょう最後さいごのフランコぞう撤去てっきょされた[62]

人道じんどうたいするつみ[編集へんしゅう]

2008ねん10がつ16にち当時とうじ予審よしん判事はんじバルタサール・ガルソンによって、独裁どくさい政権せいけんほか幹部かんぶとともにフランコは「人道じんどうたいするつみ理由りゆうなき違法いほう拘禁こうきん恒久こうきゅうてき犯罪はんざい」のとがめ起訴きそされた[63]。この予審よしん決定けってい予審よしん判決はんけつしょ判事はんじは「市民しみん戦争せんそうから戦後せんごにかけて、政治せいじてき、イデオロギーてき宗教しゅうきょうてき、またはその所属しょぞく関係かんけいなく、はげしい暴力ぼうりょく行為こうい虐殺ぎゃくさつ重大じゅうだい権利けんり侵害しんがいこうむったすべての被害ひがいしゃ最大限さいだいげん敬意けいいはらう」としたうえで、裁判さいばん任務にんむは「内戦ないせん司法しほう審査しんさおこなうこと」ではないとべた。決定けってい事項じこうしょ以下いかのようにつづいた。

上記じょうきおよび1936ねん7がつ18にち以降いこう実際じっさいおこなわれた武装ぶそう蜂起ほうきまたは反乱はんらん、それは完全かんぜん計画けいかくされた決定けっていであり、当時とうじのスペイン政府せいふ終結しゅうけつさせ、国家こっか組織そしき責任せきにん被害ひがいしゃ逮捕たいほ拘留こうりゅう拷問ごうもん強制きょうせいてき失踪しっそう政治せいじてき、イデオロギーてき理由りゆうによるなんせんにんもの人々ひとびと身体しんたいてき排除はいじょ、またなんせんにんもの人々ひとびと亡命ぼうめい追放ついほう促進そくしんするための手段しゅだんとして、あるいはすくなくともその不可欠ふかけつなステップとして、内戦ないせん終了しゅうりょうすうねんわたり、国内外こくないがいだい規模きぼまたは小規模しょうきぼつづいた状況じょうきょうをこの調査ちょうさ具体ぐたいさせようとこころみる。そしてそれぞれの事件じけん行為こういしゃ責任せきにんしゃ個別こべつし、すでに死亡しぼうした被告ひこくたいする刑事けいじ責任せきにん可能かのうせい解決かいけつする。 [...]人道じんどうたいする犯罪はんざいのカテゴリーは、基本きほんてきかつ基礎きそてき原則げんそくからはじまる。これらの行動こうどうは、生命せいめい完全かんぜんせい尊厳そんげん自由じゆうなど市民しみん社会しゃかい構成こうせいされているはしら法治ほうち国家こっかそのもの、もっと基本きほんてき権利けんりにおいて人間にんげんぞくするものをもっと残忍ざんにんかたち攻撃こうげきする[64]

2008ねん10がつ16にち国家こっか裁判所さいばんしょだい5ごう中央ちゅうおう裁判所さいばんしょ決定けってい[63]

そののち、同年どうねん11がつ18にちどう裁判所さいばんしょ死亡しぼう認定にんていのち、その責任せきにん消滅しょうめつさせることを決定けっていした[65]

Exhumación (はかこし)[編集へんしゅう]

戦没せんぼつしゃたににあったフランコのはか

2018ねん8がつ24にち、スペイン政府せいふ内戦ないせん犠牲ぎせいしゃからはなれたべつ場所ばしょへとはか移動いどうさせるため、戦没せんぼつしゃたに(Valle de los Caídos)からフランコの遺骸いがい改葬かいそうする法案ほうあん承認しょうにんした。ペドロ・サンチェス首相しゅしょうは2007ねん承認しょうにんされた歴史れきし記憶きおくほうla Ley de memoria histórica)の適用てきようもとづき、国際こくさい組織そしきからの勧告かんこく同様どうよう民主みんしゅ国家こっか独裁どくさいしゃたか評価ひょうかする公的こうてき建造けんぞうぶつ存在そんざいする必要ひつようがあるとはおもわないとした[66]

2018ねん9がつ13にち下院かいん議会ぎかい政府せいふ提示ていじした法案ほうあん検証けんしょうした。PSOEウニードス・ポデモスPNV、ERC、PDeCAT、コンプロミス、EH Bildu、カナリア連合れんごうしんカナリアらによる172の賛成さんせいひょうけて可決かけつされた[67][68]

2019ねん6がつ4にち最高裁判所さいこうさいばんしょかんこしに反対はんたいするどう総統そうとう子孫しそんによる上訴じょうそ検討けんとうされているあいだこしを一時いちじ中断ちゅうだんする判断はんだんくだしたが[69]うったえは退しりぞけられ[70]、10月24にちこされた遺体いたい戦没せんぼつしゃたにから移送いそうされ、ミンゴルビオ墓地ぼちにある総統そうとうつまはかのそばにさい埋葬まいそうされた[71]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 1958ねんの "Agenda de Rivara"としてられている回避かいひ事例じれいでは、その金額きんがくは700おくペセタにものぼった。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ スペインそう選挙せんきょ フランコ独裁どくさい以来いらいの「極右きょくう国政こくせい参画さんかくか、焦点しょうてん
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  5. ^ 川成かわなりよう「フェロール時代じだいのフランシスコ・フランコ」/ 坂東ばんどうしょう桑原くわばら真夫まさお湯浅ゆあさ武和たけかず編著へんちょ『スペインのガルシアをるための50しょう明石書店あかししょてん 2012ねん 72-73ページ
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  40. ^ 色摩しかま 2000, pp. 304, 318.
  41. ^ El poder más amplio y absoluto que nunca, a lo largo de la Historia, haya tenido español alguno. Tusell 1996, pág. 137
  42. ^ Reig Tapia 1996, pág. 150
  43. ^ Política e ideológicamente Franco se define sobre todo por rasgos negativos: antiliberalismo, antimasónico, antimarxista, etc.
  44. ^ Bachoud, 2000, p. 15. «Los testimonios de apoyo sin duda le confirman en la idea de que ha sido designado para llevar a cabo una misión superior».
  45. ^ Bachoud, 2000, p. 132.
  46. ^ Tusell Gómez, 1996, p. 121.
  47. ^ Tusell Gómez y 1996, pp. =122-123.
  48. ^ Tusell, 1996, p. 117-120.
  49. ^ Franco: Caudillo de España. Ensayo, Historia. Traducción de Teresa Camprodón Alberca y Diana Falcón Zás Revisión de Eva Rodríguez Halffter (1.ª edición). Barcelona: Debolsillo. ISBN 978-84-9759-477-6.
  50. ^ Tusell Gómez, 1996, p. 181. «Franco confió muy especialmente en personalidades del mundo del ejército. Como es lógico, así sucedía no solo en los niveles más altos de la administración sino también en los inferiores».
  51. ^ Tusell Gómez, 1999.
  52. ^ la ausencia de un ideario definido le permitió [a Franco] transitar de unas fórmulas dictatoriales a otras, rozando el fascismo en los cuarenta y a las dictaduras desarrollistas en los sesenta
  53. ^ a b Preston, 2004, p. 844.
  54. ^ a b Preston, 2004, p. 845.
  55. ^ el mercado negro y la corrupción fueron característicos de la economía española hasta bien avanzada la década de 1950. Si Franco hubiera tenido la magnanimidad y el patriotismo de dejar paso a don Juan en 1945, España se habría convertido en una Monarquía constitucional a tiempo de compartir los beneficios del Plan Marshall y de una pronta incorporación a la OTAN y a la CEE
  56. ^ Prieto, Carlos (19 de noviembre de 2015). «La corrupción compulsiva del clan Franco». es:El Confidencial.
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  63. ^ a b バルタサール・ガルソン (16 de noviembre de 2008).«Juzgado Central de Instrucción n.º 5. Audiencia Nacional. Madrid. Diligencias previas (proc. abreviado) 399/2006 V. Auto». Administración de Justicia. Archivado desde el original el 24 de octubre de 2012.
  64. ^ De lo dicho anteriormente y de los hechos que acontecieron posteriormente al 18 de julio de 1936, se constata que el alzamiento o insurrección armada que se materializó en esa fecha, fue una decisión perfectamente planeada y dirigida a acabar con la forma de Gobierno de España, en ese momento, atacando y ordenando la detención e incluso la eliminación física de personas que ostentaban responsabilidades en los altos Organismos de la Nación y ello, como medio o al menos como paso indispensable para desarrollar y ejecutar las decisiones previamente adoptadas sobre la detención, tortura, desaparición forzada y eliminación física de miles de personas por motivos políticos e ideológicos, propiciando, asimismo, el desplazamiento y exilio de miles de personas, dentro y fuera del territorio nacional, situación que continuó, en mayor o menor medida, durante los años siguientes, una vez concluyó la Guerra Civil, y cuya realidad pretende concretarse en esta investigación, así como los autores, en cada caso, con el fin de individualizar las conductas y los responsables de las mismas, y resolver sobre la extinción de su posible responsabilidad penal, de haber fallecido. [...] La categoría de crimen contra la humanidad parte de un principio básico y fundamental, que estas conductas agredan en la forma más brutal a la persona como perteneciente al género humano en sus derechos más elementales como la vida, la integridad, la dignidad, la libertad, que constituyen los pilares sobre los que se constituye una sociedad civilizada y el propio Estado de Derecho. Auto del 16 de octubre de 2008 del Juzgado Central de Instrucción n.º 5 de la Audiencia Nacional
  65. ^ バルタサール・ガルソン (18 de noviembre de 2008).«Juzgado Central de Instrucción n.º 5. Audiencia Nacional. Madrid. Sumario (proc. ordinario) 53/2008 E. Auto».Administración de Justicia. Archivado desde el original el 5 de septiembre de 2015.
  66. ^ https://elpais.com/politica/2018/08/24/actualidad/1535104789_556975.html エルパイス(マドリッド)2018ねん8がつ24にちづけ
  67. ^ https://elpais.com/politica/2018/09/13/actualidad/1536818667_370836.html エルパイス (マドリッド)2018ねん9がつ13にちづけ
  68. ^ "Parliament approved the exhumation, 172 to 2, with 164 abstentions, and the two who voted against were reported to have done so in error. The two main center-right opposition parties refused to take part in the vote, and the conservative Popular Party plans to appeal the decision before the Constitutional Court, arguing that Prime Minister Pedro Sánchez unjustifiably fast-tracked the measure." ニューヨークタイムズ 2018ねん9がつ13にちづけ
  69. ^ フランコ総統そうとう遺体いたいこしを一時いちじ中断ちゅうだん、スペイン最高裁さいこうさい判断はんだん”. www.afpbb.com. 2021ねん12月29にち閲覧えつらん
  70. ^ フランコ総統そうとうかんこしてべつはかへ スペイン”. CNN.co.jp. 2021ねん12月29にち閲覧えつらん
  71. ^ スペインの独裁どくさいしゃフランコ総統そうとう遺体いたいこされる つまのそばに埋葬まいそう”. www.afpbb.com. 2021ねん12月29にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • ゲルハルト・クレープス田嶋たじま信雄のぶお井出いで直樹なおきわけ「<翻訳ほんやく>だい世界せかい大戦たいせん日本にっぽん=スペイン関係かんけい諜報ちょうほう活動かつどう(1)(みなみひろしかた先生せんせい古稀こき祝賀しゅくが記念きねんごう)」『成城せいじょう法学ほうがくだい63かん成城大学せいじょうだいがく、2000ねん、279-320ぺーじNAID 110000246510 
  • ゲルハルト・クレープス/田嶋たじま信雄のぶお井出いで直樹なおきやく「<翻訳ほんやく>だい世界せかい大戦たいせん日本にっぽん=スペイン関係かんけい諜報ちょうほう活動かつどう(2・かん)(しょう政志まさし先生せんせい古稀こき祝賀しゅくが記念きねんごう)」『成城せいじょう法学ほうがくだい64かん成城大学せいじょうだいがく、2001ねん、237-268ぺーじNAID 110000246520 
  • 色摩しかま力夫りきお『フランコ スペイン現代げんだい迷路めいろ中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公叢書ちゅうこうそうしょ〉、2000ねん 

関連かんれん書籍しょせき[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
マヌエル・アサーニャ
スペインの旗 国家こっか元首げんしゅ総統そうとう
1939ねん - 1975ねん
次代じだい
アレハンドロ・ロドリゲス・デ・バルカルセル英語えいごばん
摂政せっしょう会議かいぎ議長ぎちょう
先代せんだい
フアン・ネグリン
スペインの旗 首相しゅしょう
1939ねん - 1973ねん
次代じだい
ルイス・カレーロ・ブランコ