くろシャツたい

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Milizia Volontaria per la Sicurezza Nazionale
国防こくぼう義勇軍ぎゆうぐん
camicie nere
くろシャツたい
1941ねん制定せいていされた紋章もんしょう
創設そうせつ1919ねん
国籍こくせきイタリア王国の旗 イタリア王国おうこく
ぐんしゅじゅん軍事ぐんじ組織そしき
民兵みんぺい義勇ぎゆうへい
任務にんむ国内こくない警備けいび民兵みんぺい訓練くんれん陸軍りくぐん支援しえん
上級じょうきゅう部隊ぶたい国家こっかファシストとう
渾名あだなカミーチェ・ネーレ
スクァドリスモ
義勇軍ぎゆうぐん
おも戦歴せんれきだい世界せかい大戦たいせん
著名ちょめい司令しれいかんイタロ・バルボ空軍くうぐん元帥げんすい
エミーリオ・デ・ボーノ陸軍りくぐん元帥げんすい

くろシャツたい(くろシャツたい、イタリア: Camicie Nere、カミーチェ・ネーレ、CCNN)は、イタリアファシズム主導しゅどうした国家こっかファシストとう民兵みんぺい組織そしきとう創設そうせつしゃで、首相しゅしょう国家こっかすべりょうつとめたベニート・ムッソリーニによってとう軍事ぐんじ部門ぶもん行動こうどうたい(スクァドリスモ)、Squadrismo)」を統合とうごうして組織そしきされた。ファシストとう政権せいけん獲得かくとくは「国防こくぼう義勇軍ぎゆうぐんMilizia Volontaria per la Sicurezza NazionaleMVSN)」と改称かいしょうされ、陸海空りくかいくうぐんカラビニエリぐ「だい5のぐん」となった。さら大戦たいせん前夜ぜんや兵員へいいん充足じゅうそく一環いっかんとして陸軍りくぐん編入へんにゅうされてかく戦線せんせん投入とうにゅうされ、イタリア社会しゃかい共和きょうわこく成立せいりつ国家こっか警備けいびぐん(Guardia Nazionale Repubblicana、GNR)として再編さいへんされた。

ファシズムやその関連かんれん思想しそうかかげる団体だんたいはこうした「とう私兵しへい」を組織そしきするさい、その制服せいふくとしてくろシャツたい模倣もほうしていろがらのシャツを使用しようする伝統でんとうができた。ナチス突撃とつげきたいも、くろシャツたい影響えいきょうけ「褐色かっしょくシャツたい(Braunhemden)」と呼称こしょうされた。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

くろシャツをわか兵士へいしたち。1929ねん
1936ねん

だいいち世界せかい大戦たいせん1919ねん3月、ムッソリーニは、ファシストとう前身ぜんしんであるイタリア戦闘せんとうしゃファッシ設立せつりつした。戦闘せんとうファッシの中核ちゅうかくだいいち世界せかい大戦たいせん退役たいえき軍人ぐんじんで、一種いっしゅ義勇ぎゆうへいてき色彩しきさいがあった。かれらの制服せいふくはイタリア陸軍りくぐんがドイツ陸軍りくぐん突撃とつげき部隊ぶたい参考さんこうにして創設そうせつしたアルディーティたい英語えいごばんイタリアばんくろ軍服ぐんぷくをそのまま流用りゅうようしており、かつてガリバルディせんにんたいふくいろから「あかシャツたい」と通称つうしょうされたのにならって「くろシャツたい」という呼称こしょう定着ていちゃくした[1]

くろシャツたい隊員たいいんおおくの退役たいえき軍人ぐんじん中核ちゅうかくとしたが、農民のうみん運動うんどう共感きょうかんした政治せいじ、それに反共はんきょう主義しゅぎ利益りえきしょう地主じぬしなどもくわわっていた。戦闘せんとうファッシが勢力せいりょく拡大かくだいするにつれて、くろシャツたいはその私兵しへい部隊ぶたいとしておおきな騒乱そうらんこしていくようになる。1921ねん5がつそう選挙せんきょでムッソリーニは賛同さんどうしゃ35めい当選とうせんさせ、同年どうねん11がつ戦闘せんとうしゃファッシは「ファシストとう」に改組かいそされた。くろシャツたいも1922ねん10がつ29にちのローマ進軍しんぐん時点じてん隊員たいいんすう20まんめいかぞえるほどにきゅう成長せいちょうげ、いくつかの連隊れんたいけられてそれぞれの部隊ぶたいはた保有ほゆうした。

政権せいけん獲得かくとくしたムッソリーニとファシストとうは、くろシャツたいたいする処遇しょぐう検討けんとうしなければならなかった。これはのナチス政権せいけん突撃とつげきたい (SA)関係かんけい類似るいじするが、ナチスは1934ねん6がつ30にち~7がつ2にちながいナイフのよる事件じけん既存きそん国軍こくぐん (Reichswehr)[2]とヒトラーに忠実ちゅうじつ親衛隊しんえいたい (SS)優先ゆうせんして突撃とつげきたいてたのにたいして、ファシストとうくろシャツたい正式せいしき国家こっか機関きかんとして運用うんようすること約束やくそくした。1923ねん1がつ14にち、イタリアの国王こくおうヴィットーリオ・エマヌエーレ3せいくろシャツたい陸海空りくかいくうぐん警察けいさつぐんおなじく「おう軍隊ぐんたい」としてみとめる宣言せんげんした。これをけて1923ねん2がつ1にちファシストとうくろシャツたい国防こくぼう義勇軍ぎゆうぐん(Milizia Volontaria per la Sicurezza Nazionale、MVSN)に改称かいしょう、「だい5のぐん」として国防省こくぼうしょう管理かんりいた。

国防こくぼう義勇軍ぎゆうぐんおも国外こくがい問題もんだい担当たんとうする陸海空りくかいくうぐん国内こくない問題もんだい担当たんとうする警察けいさつぐんたいして、青少年せいしょうねん中高年ちゅうこうねんといった正規せいきぐん兵役へいえき年齢ねんれい合致がっちしないそう予備よび戦力せんりょくとして訓練くんれんすること目的もくてきとした。したがって従来じゅうらい退役たいえきへいだけでなく単純たんじゅんとう青年せいねんだん少年しょうねん志願しがんへい中高年ちゅうこうねん民兵みんぺいなども合流ごうりゅう、1936ねんまでに14師団しだん・133連隊れんたい編成へんせいした。

1935ねん10月、だいエチオピア戦争せんそうはじまるとくろシャツたい参加さんか翌年よくねん5月1にちには正規せいきぐんとともにエチオピア首都しゅとアディスアベバ入城にゅうじょうたした[3]

1939ねん10月、資金しきん不足ふそくから悪名あくめいたかい2連隊れんたい制度せいどはん師団しだん制度せいど)が常態じょうたいしていた陸軍りくぐんたいして、ムッソリーニは陸軍りくぐん国防省こくぼうしょう反対はんたいって陸軍りくぐん国防こくぼう義勇軍ぎゆうぐん統合とうごう宣言せんげんした。師団しだん規模きぼ部隊ぶたいかんしてはそのまま「義勇ぎゆう師団しだん」の名称めいしょう兵科へいか配属はいぞくされ、さら戦力せんりょく不足ふそく師団しだんには「義勇ぎゆうへい連隊れんたい」が補充ほじゅうへいとして配置はいちされた。しかし兵員へいいんしつ問題もんだいがあることくわえ、指揮しき系統けいとう装備そうびちがいが完全かんぜんには是正ぜせいされなかったこと義勇ぎゆうへい存在そんざいはしばしば陸軍りくぐんない弱点じゃくてんとなった。このことはスペイン派兵はへい正規せいきへいからなる「リットリオ旅団りょだん」にくらべ、のこりの義勇ぎゆうへいからなる3旅団りょだん戦意せんい問題もんだいがあることを露呈ろていしたことでもあきらかであった。

1943ねん8がつにムッソリーニが失脚しっきゃくし、イタリアが連合れんごうこく降伏ごうぶくすると、国家こっか組織そしきとしてのくろシャツたい終焉しゅうえんむかえた。その、ムッソリーニがイタリア社会しゃかい共和きょうわこく(RSI)を樹立じゅりつすると、国防こくぼう義勇軍ぎゆうぐん国家こっか警備けいびぐん(Guardia Nazionale Repubblicana、GNR)として再編さいへんされた。“M”を名称めいしょうかんした野戦やせん部隊ぶたいもGNRの一部いちぶとして編成へんせいされ、なかには戦車せんしゃ師団しだん空挺くうてい部隊ぶたいなどもあった。また一部いちぶきゅうくろシャツ隊員たいいん独自どくじ義勇ぎゆうへい組織そしきしてパルチザン戦闘せんとう開始かいししたので、1944ねん6がつにこれらの義勇軍ぎゆうぐんもGNRの補助ほじょ部隊ぶたいとして正規せいき組織そしきとなり、「くろ旅団りょだん」(ブリガーデ・ネーレ)とばれた。

組織そしき[編集へんしゅう]

組織そしきとしては基本きほんてきイタリアおうそう司令しれいかんとする陸海空りくかいくうぐんおよびカラビニエリ(ただし、正規せいきぐんのちだいいち元帥げんすいとしてムッソリーニが統帥とうすいけんている)にたいして、とう私兵しへい部隊ぶたいとしての歴史れきしからムッソリーニを唯一ゆいいつそう司令しれいかんとするてん特徴とくちょうてきであった[4]部隊ぶたい単位たんいについてはサルデーニャぐん時代じだいからの近代きんだいてき呼称こしょう採用さいようしている正規せいきぐんとはちがい、古代こだいローマ官職かんしょくめいなどをもちいている。

部隊ぶたい単位たんい[編集へんしゅう]

  • 3スクァドラ = 1個いっこマニプルス
  • 3マニプルス = 1個いっこケントゥリア
  • 3ケントゥリア = 1個いっこコホルス
  • 3コホルス = 1個いっこレギオ
  • 3レギオ = 1個いっこゾーナ

階級かいきゅう[編集へんしゅう]

創設そうせつしゃであるムッソリーニは「Comandante Generale」(そう司令しれいかん)としての地位ちい兼任けんにんしていた。また盟友めいゆうであるアドルフ・ヒトラー会談かいだんしたさいかれに「Caporale Onorario」(名誉めいよ伍長ごちょう)をあらたに創設そうせつして授与じゅよしている。

国防こくぼう義勇軍ぎゆうぐんよう軍装ぐんそうにつけるベニート・ムッソリーニ(ユーゴスラビア

戦闘せんとう序列じょれつ[編集へんしゅう]

くろシャツたい時代じだい兵員へいいんは15師団しだんけられたうえで1331個いっこ連隊れんたい(3大隊だいたいから編成へんせい)にけて配属はいぞくされ、また、これとはべつ師団しだんぞくさない独立どくりつ連隊れんたいが10連隊れんたい存在そんざいしていた。1929ねん組織そしき再編さいへんぜん部隊ぶたい統括とうかつする4つの方面ほうめんぐん(raggruppamenti)が上位じょうい部隊ぶたいとして創設そうせつされたのをのぞけば1920年代ねんだいはこうした制度せいど維持いじされた。

1936ねんあらたな再編さいへんおこなわれ、1個いっこ連隊れんたいは2大隊だいたいせい変更へんこうされた。2大隊だいたいうち片方かたがたとう青年せいねんだん青少年せいしょうねんへいからあつめられ、もう片方かたがた古参こさん退役たいえきへい老年ろうねん召集しょうしゅうへいから編成へんせいされるという年齢ねんれいべつ区分くわけが実施じっしされた。また党内とうない親衛しんえい部隊ぶたい相当そうとうする統帥とうすい警備けいび大隊だいたい本土ほんど編入へんにゅうされたアルバニア方面ほうめんの4連隊れんたいおよびアフリカ方面ほうめんの7連隊れんたい増設ぞうせつされた。くわえて警察けいさつぐん補佐ほさやくとして治安ちあん維持いじあらたな任務にんむとされ、そのため治安ちあん維持いじ部門ぶもん創設そうせつされている。

だい1師団しだんからだい6師団しだんまではだいエチオピア戦争せんそう投入とうにゅうされ、だい7師団しだん戦争せんそう途中とちゅう編成へんせいわった。スペイン内戦ないせんでは一部いちぶ兵員へいいん抽出ちゅうしゅつして4義勇ぎゆうへい師団しだんうち3旅団りょだん編成へんせいだい4義勇ぎゆう旅団りょだん「リットリオ」は正規せいきぐん)したが、戦争せんそうちゅう戦力せんりょく消耗しょうもう現地げんち義勇ぎゆうへいとの混合こんごう部隊ぶたいとして再編さいへんされている。1940ねん時点じてん国防こくぼう義勇軍ぎゆうぐんくろシャツたい)は34まんめい兵員へいいんち、きたアフリカ戦線せんせんあたらしく編成へんせいしただい1師団しだんだい2師団しだんだい4師団しだん援軍えんぐんとして派遣はけん、これは英軍えいぐんとの戦闘せんとう壊滅かいめつした。戦争せんそう後半こうはんにはだい4師団しだん「M」とだい5師団しだん「アフリカ」が戦場せんじょう展開てんかいした。

師団しだん編成へんせい[編集へんしゅう]

1935ねん[編集へんしゅう]

  • 師団しだん司令しれい
  • 3連隊れんたい
    • 1個いっこ機関きかんじゅう中隊ちゅうたい機関きかんじゅう12てい
    • 2義勇ぎゆうへい大隊だいたい
  • 1個いっこ砲兵ほうへい大隊だいたい
  • 1個いっこ工兵こうへい大隊だいたい
  • 2予備よび大隊だいたい
  • 1個いっこ衛生えいせい部隊ぶたい
  • 1個いっこ食料しょくりょう部隊ぶたい
  • 1個いっこうま輸送ゆそう部隊ぶたい
  • 1個いっこ機械きかい輸送ゆそう部隊ぶたい

義勇軍ぎゆうぐん師団しだんは3歩兵ほへい大隊だいたい保有ほゆうしたがちゅう機関きかんじゅう(MMG)は配備はいびされず、1個いっこ小隊しょうたいに3ていけい機関きかんじゅうがあるのみであった。また予備よび部隊ぶたいについては1個いっこ小隊しょうたいにつき、1ていけい機関きかんじゅうしか配備はいびされていない[7]

1940ねん[編集へんしゅう]

  • 師団しだん司令しれい
  • 2連隊れんたい
    • 3大隊だいたい
    • 1個いっこ迫撃はくげきほう部隊ぶたい
    • 1個いっこ対戦たいせんしゃ部隊ぶたい
  • 1個いっこ機関きかんじゅう大隊だいたい
  • 1個いっこ砲兵ほうへい連隊れんたい
    • 2砲兵ほうへい部隊ぶたい(75mm/27)
    • 1個いっこ砲兵ほうへい部隊ぶたい(100mm/17)
    • 2たい空砲くうほう部隊ぶたい
  • 1個いっこ工兵こうへい大隊だいたい
    • 1個いっこ衛生えいせい部隊ぶたい
    • 3野戦やせん病院びょういん
    • 1個いっこ補給ほきゅう部隊ぶたい
  • 1個いっこ輸送ゆそう部隊ぶたいt[8]

影響えいきょう[編集へんしゅう]

ムッソリーニが創始そうししたファシズムとともに、それを主導しゅどうするとう私兵しへい部隊ぶたいいろそろえたシャツ示威じい行動こうどうをするという様式ようしきおおくのファシズム勢力せいりょく模倣もほうされた。

冒頭ぼうとうべたナチとう褐色かっしょくシャツたいかぎらず、おおくのくに時代じだいわず様々さまざまいろの「シャツたい」が編成へんせいされ、制度せいど位置付いちづけや服装ふくそう様式ようしき模倣もほうした組織そしきおおい。

原型げんけいとなった組織そしき[編集へんしゅう]

模倣もほうした組織そしき[編集へんしゅう]

資料しりょう[編集へんしゅう]

引用いんよう[編集へんしゅう]

  1. ^ Bosworth, R.J.B, Mussolini's Italy: Life Under the Fascist Dictatorship, 1915-1945, Penguin Books, 2005, P. 117
  2. ^ の1935ねんドイツさい軍備ぐんび宣言せんげんともに、ドイツ国防こくぼうぐん (Wehrmacht)に改称かいしょう
  3. ^ イタリアぐん首都しゅとアジス・アベバを占領せんりょう大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん昭和しょうわ11ねん5がつ2にち
  4. ^ たような事例じれいとして、ドイツの親衛隊しんえいたい忠誠ちゅうせい宣誓せんせいドイツ国防こくぼうぐんのそれにくらべて、ヒトラー個人こじんたいする忠誠ちゅうせいしん強調きょうちょうした文面ぶんめんになっている。
  5. ^ The Blackshirt Division Order of Battle comes from "Storia delle Unita Combattenti della MVSN 1923-1943" by Ettore Lucas and Giorgio de Vecchi, Giovanni Volpe Editore 1976 pages 63 to 116 plus errata.
  6. ^ Italian Army Infantry Regulation of 1939 (Page 472/473)I
  7. ^ The Blackshirts Division TO&E comes from an original document (order sheet "Ministero della Guerra, Comando del Corpo di Stato Maggiore - Ufficio Ordinamento e Mobilitazione . Prot.2076 del 18-06-1935").
  8. ^ The Blackshirts Division TO&E comes from an original document (order sheet "Ministero della Guerra, Comando del Corpo di Stato Maggiore - Ufficio Ordinamento e Mobilitazione. dated 1939").

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]