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バルドメロ・エスパルテロ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
アントニオ・マリーア・エスキベル英語えいごばんによる肖像しょうぞう、1841ねん

バルドメロ・エスパルテーロスペイン: Baldomero Espartero, Conde de Luchana, Duque de Victoria, 1792ねん - 1879ねん)は、スペイン軍人ぐんじん政治せいじ。ルチャナはく、ビクトリアこう

生涯しょうがい

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シウダー・レアル人夫にんぷの9にん子供こども一人ひとりとしてまれる。はじめは司祭しさいになるつもりだったがながじて軍人ぐんじんになり、たいナポレオン戦争せんそう参加さんかし、1815ねんからみなみアメリカ植民しょくみん反乱はんらん遠征えんせいたいはいり、8年間ねんかん転戦てんせんした[1]

1833ねんだいいちカルリスタ戦争せんそう英語えいごばん勃発ぼっぱつすると、イサベル2せいのもとの政府せいふぐんぞくし、スペイン北西ほくせい出征しゅっせいした。1836ねん北部ほくぶぐん司令しれいかんとなってビルバオ解放かいほう1839ねんベルガラ協定きょうていむすんで反乱はんらん鎮圧ちんあつした。

政治せいじてきには民主みんしゅてきブルジョワの進歩しんぽとう指導しどうし、1840ねんのクーデターののち首相しゅしょうされ、1841ねんから1843ねんまで摂政せっしょうつとめた。アントニオ・ゴンサーレス内閣ないかく組閣そかくさせ、教会きょうかい財産ざいさん国有こくゆう売却ばいきゃくにむけたほう制定せいていおこなった(エスパルテーロほう)。経済けいざいてきには自由じゆう貿易ぼうえき政策せいさく推進すいしんしようとしたが、保護ほご貿易ぼうえきのぞ勢力せいりょくからの反発はんぱつまねいた。徴兵ちょうへいせい導入どうにゅうをめぐっても、各地かくちはんエスパルテーロの示威じい行動こうどうこった。このように事実じじつじょう独裁どくさいしゃとしてスペインの近代きんだい政策せいさく推進すいしんしたが、1843ねんにおけるラモン・ナルバエスらの革命かくめいによってイギリス亡命ぼうめいした。その、1848ねん帰国きこくゆるされた。

1854ねん革命かくめいでは、レオポルド・オドンネル将軍しょうぐんらとむす政権せいけん樹立じゅりつして自由じゆう主義しゅぎてき改革かいかく推進すいしんした。1856ねんバリャドリードこった暴動ぼうどうへの対応たいおうにおいてオドンゲルとの対立たいりつふかめると、女王じょおうイサベル2せいがオドンネルに政権せいけんまかせたため退陣たいじんした。進歩しんぽ民主みんしゅ武力ぶりょく闘争とうそうはかるが、エスパルテーロ自身じしんはこの事態じたい傍観ぼうかんし、ログローニョもどった。1879ねん1がつ8にち、ログローニョの自宅じたく死去しきょした[1]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b Houghton, A. E. (1911). "Espartero, Baldomero" . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語えいご). Vol. 9 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 772–773.