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ドイツ陸軍 りくぐん (ドイツ語 ご : Heer 〈ヘーア〉、ドイツ語 ご 発音 はつおん : [heːɐ̯] ( 音声 おんせい ファイル ) 、直訳 ちょくやく : 陸軍 りくぐん )は、1935年 ねん から1945年 ねん までの期間 きかん に設置 せっち されていたドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん の陸軍 りくぐん である。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか に電撃 でんげき 戦 せん やパックフロント 、パンツァーカイル など多 おお くの新 しん 戦術 せんじゅつ を生 う み出 だ し、開戦 かいせん 時 じ の緒戦 しょせん では圧倒的 あっとうてき 優位 ゆうい にあったが、大戦 たいせん 後期 こうき には物量 ぶつりょう の差 さ により連合 れんごう 軍 ぐん に対 たい して劣勢 れっせい に立 た たされた。
ドイツ語 ご では単 たん にヘーア(Heer、陸軍 りくぐん の意味 いみ )と呼 よ ぶ。ドイツ連邦 れんぽう 軍 ぐん 陸軍 りくぐん (西 にし ドイツ陸軍 りくぐん )も同様 どうよう の名称 めいしょう であり、ドイツ語 ご では区別 くべつ されない。
歩兵 ほへい 師団 しだん (Infanterie-Divisionen)
番号 ばんごう 付 つ き歩兵 ほへい 師団 しだん (Nummerierte Infanterie-Divisionen)
名称 めいしょう 付 つ き師団 しだん (Namensdivisionen)
国家 こっか 労働 ろうどう 奉仕 ほうし 団 だん 歩兵 ほへい 師団 しだん (Infanterie-Divisionen des Reichsarbeitsdienstes)
シュトゥルム師団 しだん (Sturm-Divisionen)
要塞 ようさい 師団 しだん (Festungs-Divisionen)
保安 ほあん 師団 しだん (Sicherungs-Divisionen)
猟 りょう 兵 へい 師団 しだん (Jäger-Divisionen)
山岳 さんがく 猟 りょう 兵 へい 師団 しだん (Gebirgsjäger-Divisionen)
滑 すべり 雪 ゆき 猟 りょう 兵 へい 師団 しだん (Skijäger-Division)
装甲 そうこう 師団 しだん (Panzerdivisioen)
装甲 そうこう 師団 しだん (Panzer-Divisionen)
軽 けい 師団 しだん (Leichte Divisionen)
自動 じどう 化 か 歩兵 ほへい 師団 しだん (Infanterie-Division (mot.)) - 旧 きゅう 装甲 そうこう 擲弾兵 へい 師団 しだん (Panzergrenadier-Divisionen)
装甲 そうこう 猟 りょう 兵 へい 師団 しだん (Panzerjagd-Division)
騎兵 きへい 師団 しだん (Kavallerie-Divisionen)
砲兵 ほうへい 師団 しだん (Artillerie-Divisionen)
ブランデンブルク (特殊 とくしゅ 部隊 ぶたい )
野戦 やせん 軍 ぐん の兵科 へいか [ 編集 へんしゅう ]
攻撃 こうげき 部隊 ぶたい (Fechtende Truppe)
司令 しれい 部 ぶ (Kommandobehörden)
要塞 ようさい 参謀 さんぼう (Festungsstammtruppe)
砲兵 ほうへい (Artillerie)
歩兵 ほへい (Infanterie)
山岳 さんがく 兵 へい (Pionieren)
装甲 そうこう 兵 へい (Panzertruppe)
通信 つうしん 兵 へい (Nachrichtentruppe)
煙幕 えんまく 部隊 ぶたい (Nebeltruppe)
宣伝 せんでん 部隊 ぶたい (Propagandatruppe)
技術 ぎじゅつ 部隊 ぶたい (Technische Truppen)
鉄道 てつどう 部隊 ぶたい (Eisenbahntruppe)
鉄道 てつどう 輸送 ゆそう 部隊 ぶたい (Eisenbahnbetriebstruppen)
秘密 ひみつ 野戦 やせん 警察 けいさつ (Geheime Feldpolizei)
前線 ぜんせん 偵察 ていさつ 部隊 ぶたい (Frontaufklärungstruppe)
地図 ちず 測量 そくりょう 部隊 ぶたい (Karten- und Vermessungstruppe)
補給 ほきゅう 部隊 ぶたい (Versorgungstruppen)
野戦 やせん 装備 そうび 部隊 ぶたい (Feldzeugtruppen)
自動車 じどうしゃ 部隊 ぶたい (Kraftfahrparktruppen)
補給 ほきゅう 部隊 ぶたい (Nachschubtruppen)
秩序 ちつじょ 部隊 ぶたい (Ordnungstruppen)
衛生 えいせい 部隊 ぶたい (Sanitätstruppen)
管理 かんり 部隊 ぶたい (Verwaltungstruppen)
獣医 じゅうい 部隊 ぶたい (Veterinärtruppen)
給水 きゅうすい 部隊 ぶたい (Wasserversorgungstruppen)
治安 ちあん 部隊 ぶたい (Sicherungstruppen)
統一 とういつ ドイツ初 はつ の近代 きんだい 陸軍 りくぐん はプロイセン陸軍 りくぐん (Preußische Armee)の流 なが れをくむドイツ帝国 ていこく 陸軍 りくぐん (Deutsches Heer)である。
ヴェルサイユ条約 じょうやく はドイツ陸軍 りくぐん は以下 いか の制約 せいやく を課 か された。
編制 へんせい する師団 しだん の上限 じょうげん は7個 こ 歩兵 ほへい 師団 しだん 、3個 こ 騎兵 きへい 師団 しだん
軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ は2個 こ まで、参謀 さんぼう 本部 ほんぶ は組織 そしき してはならない
兵力 へいりょく 10万 まん 人 にん まで、うち士官 しかん は4000人 にん まで
また戦車 せんしゃ の保有 ほゆう も禁止 きんし されていたが、戦車 せんしゃ に関 かん する研究 けんきゅう は1920年代 ねんだい から続 つづ けられており、1931年 ねん から快速 かいそく 部隊 ぶたい 兵 へい 監 かん (Inspekteur der Schnelltruppen)オスヴァルト・ルッツ (英語 えいご 版 ばん ) 少将 しょうしょう とハインツ・グデーリアン 中佐 ちゅうさ が中心 ちゅうしん となって、戦車 せんしゃ 部隊 ぶたい の運用 うんよう 研究 けんきゅう に取 と り組 く んでいた。農業 のうぎょう 用 よう トラクター の名目 めいもく で1号 ごう 戦車 せんしゃ が開発 かいはつ され、製造 せいぞう 業者 ぎょうしゃ に戦車 せんしゃ の開発 かいはつ 、量産 りょうさん のノウハウを習得 しゅうとく させた。乗員 じょういん はソビエト連邦 れんぽう との密約 みつやく によりソ連 それん 領 りょう の奥地 おくち カザン で養成 ようせい されていた。I号 ごう 戦車 せんしゃ の正式 せいしき 発注 はっちゅう はヒトラー政権 せいけん の誕生 たんじょう した1933年 ねん であった。
1935年 ねん 、ヒトラー はヴェルサイユ条約 じょうやく を破棄 はき し、再 さい 軍備 ぐんび を宣言 せんげん 、翌年 よくねん には非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい であるフランス 国境 こっきょう のラインラント に軍 ぐん を進 すす めた(ラインラント進駐 しんちゅう )。この時 とき に英 えい 仏 ふつ は戦争 せんそう も辞 じ さないとの確固 かっこ たる態度 たいど をとらなかった。ヒトラーはこの時 とき のことを「自分 じぶん の一生 いっしょう の中 なか で最 もっと も神経 しんけい を痛 いた めた」と、回想 かいそう している。ドイツ はこれ以降 いこう 主権 しゅけん 回復 かいふく の要求 ようきゅう をエスカレートさせる。
陸軍 りくぐん 上層 じょうそう 部 ぶ には、プロイセン陸軍 りくぐん 以来 いらい のユンカー (ドイツ騎士 きし 団 だん の伝統 でんとう を汲 く む地主 じぬし の子弟 してい )が多 おお く、軍 ぐん の地位 ちい が脅 おびや かされない限 かぎ り、政治 せいじ には中立 ちゅうりつ 的 てき であった。しかしチェコスロバキア 領内 りょうない のドイツ人 じん の多 おお く居住 きょじゅう するズデーテンラント のドイツ帰属 きぞく を巡 めぐ ったヒトラーが戦争 せんそう も辞 やめ せずとイギリス ・フランス と対立 たいりつ した1938年 ねん に戦争 せんそう 準備 じゅんび が充分 じゅうぶん でないとする陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう ルートヴィヒ・ベック 大将 たいしょう を中心 ちゅうしん とする政府 せいふ 転覆 てんぷく 計画 けいかく が練 ね られたが、英 えい 仏 ふつ の譲歩 じょうほ により計画 けいかく 実施 じっし には至 いた らなかった。
ポーランドへの侵攻 しんこう を行 おこな った1939年 ねん 9月時点 じてん でも、英 えい 仏 ふつ の譲歩 じょうほ が予想 よそう されていた。これがイギリス・フランスとの長期 ちょうき にわたる戦争 せんそう につながるとは誰 だれ も予想 よそう していなかった。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 初期 しょき [ 編集 へんしゅう ]
初戦 しょせん であるポーランド侵攻 しんこう では、殲滅 せんめつ 戦 せん 理論 りろん に基 もと づいた全面 ぜんめん 攻勢 こうせい によって、『東欧 とうおう の大国 たいこく 』 ポーランド をわずか27日 にち で降伏 ごうぶく に至 いた らしめた。また当時 とうじ 世界 せかい 最強 さいきょう と謳 うた われていた騎兵 きへい 旅団 りょだん 「ポモルスカ」を全滅 ぜんめつ させ、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん についで、戦車 せんしゃ の力 ちから を世界 せかい に知 し らしめた。
1940年 ねん の春 はる には、ドイツ軍 ぐん はデンマーク 、ノルウェー を立 た て続 つづ けに占領 せんりょう した。その後 ご のフランス戦 せん では、ドイツ軍 ぐん は、強固 きょうこ な『マジノ線 せん 』が敷 し かれていた独 どく 仏 ふつ 国境 こっきょう を避 さ け、ベルギー 、ルクセンブルク を制圧 せいあつ して通過 つうか することにより迂回 うかい してフランスに侵攻 しんこう した。ドイツ軍 ぐん は、その地形 ちけい から機甲 きこう 師団 しだん の通行 つうこう は不可能 ふかのう と見 み なされ、防御 ぼうぎょ が手薄 てうす になっていたアルデンヌの森 もり を戦車 せんしゃ を中心 ちゅうしん とする機甲 きこう 師団 しだん で突破 とっぱ し、そのままベネルクス方面 ほうめん に展開 てんかい する連合 れんごう 軍 ぐん を包囲 ほうい 。怒涛 どとう の勢 いきお いで進軍 しんぐん するドイツ軍 ぐん を前 まえ に連合 れんごう 軍 ぐん は混乱 こんらん に陥 おちい り、英 えい 仏 ふつ 軍 ぐん は短期間 たんきかん で壊滅 かいめつ させられた。ドイツ軍 ぐん は電撃 でんげき 戦 せん によりフランスを圧倒 あっとう し、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 時 じ に四 よん 年 ねん の歳月 さいげつ を費 つい やしても勝 か つことのできなかったフランスを、戦闘 せんとう 開始 かいし から僅 わず か一 いち ヶ月 かげつ 半 はん で降伏 ごうぶく させた。
対 たい 英 えい 戦 せん ・バルカン半島 ばるかんはんとう [ 編集 へんしゅう ]
フランス降伏 ごうぶく 後 ご 、ドイツ はイギリス本土 ほんど 上陸 じょうりく 作戦 さくせん (アシカ作戦 さくせん )を計画 けいかく したが、空軍 くうぐん による英 えい 本土 ほんど 攻撃 こうげき (バトル・オブ・ブリテン )が失敗 しっぱい したため果 は たせなかった。まだその帰趨 きすう も明 あき らかでなかった8月 がつ のうちに、スペイン に領内 りょうない 通過 つうか を求 もと めて英 えい 領 りょう ジブラルタル を攻略 こうりゃく する計画 けいかく も起草 きそう されたが、スペインの同意 どうい を得 え られず同年 どうねん 末 まつ までに立 た ち消 ぎ えとなった。しかしそれらすべてと並行 へいこう して、ヒトラーは同年 どうねん 7月 がつ 末 まつ からソ連 それん 侵攻 しんこう 計画 けいかく (バルバロッサ作戦 さくせん )の検討 けんとう も命 めい じていた。
しかしイタリア軍 ぐん のギリシャ での敗退 はいたい により、1941年 ねん 春 はる 、ドイツ軍 ぐん はバルカン半島 ばるかんはんとう 制圧 せいあつ に向 む かった。バルカン半島 ばるかんはんとう での戦闘 せんとう は僅 わず か3週間 しゅうかん で決着 けっちゃく が付 つ いたが、バルカン侵攻 しんこう はヒトラーにとって戦略 せんりゃく 上 じょう の大 だい 誤算 ごさん であり、その後 ご の対 たい ソ連 それん 戦略 せんりゃく に大 おお きな影 かげ を落 お とした。
1940年 ねん 8月 がつ から10月 がつ までに編成 へんせい された歩兵 ほへい 師団 しだん 群 ぐん は、あらゆる任務 にんむ に適 てき するドイツ歩兵 ほへい 師団 しだん としては事実 じじつ 上 じょう 最後 さいご のものとなった。1941年 ねん 以降 いこう に編成 へんせい された歩兵 ほへい 師団 しだん はフランス沿岸 えんがん などの防衛 ぼうえい 用 よう に戦力 せんりょく を削 けず られたもので、それ以前 いぜん に編成 へんせい された師団 しだん を一 ひと つでも多 おお く前線 ぜんせん に送 おく り出 だ す交代 こうたい 用 よう の師団 しだん か、壊滅 かいめつ した師団 しだん の兵員 へいいん を中核 ちゅうかく とする再建 さいけん 師団 しだん であったから、ドイツの動員 どういん 力 りょく はこのころひとつの限界 げんかい に突 つ き当 あ たったと言 い えよう。戦時 せんじ 経済 けいざい もこのころを境 さかい に、総 そう 力戦 りきせん 体制 たいせい へと最後 さいご の傾斜 けいしゃ を始 はじ める。
バルバロッサ作戦 さくせん (ソ連 それん 侵攻 しんこう ) [ 編集 へんしゅう ]
1941年 ねん の6月 がつ にドイツは、当初 とうしょ の予定 よてい から1ヵ月 かげつ 遅 おく れて対 たい ソ連 それん 侵攻 しんこう 作戦 さくせん バルバロッサ作戦 さくせん (独 どく ソ戦 せん )を開始 かいし する。ソビエトは当時 とうじ のドイツ戦車 せんしゃ を圧倒 あっとう できるT-34 戦車 せんしゃ やKV-1 重 じゅう 戦車 せんしゃ をすでに保有 ほゆう していたが、組織 そしき ・運用 うんよう 面 めん の問題 もんだい が開戦 かいせん で一気 いっき に露呈 ろてい し、ドイツに序 じょ 戦 せん の快 かい 進撃 しんげき を許 ゆる した。
しかし広大 こうだい なソビエトに散在 さんざい する戦略 せんりゃく 目標 もくひょう 群 ぐん はドイツ首脳 しゅのう 部 ぶ を迷 まよ わせ、秋 あき の雨 あめ がもたらす泥 どろ 、そして冬将軍 ふゆしょうぐん がドイツ軍 ぐん の足 あし を止 と めるまでに、ドイツはモスクワ とレニングラード のいずれも奪取 だっしゅ することができなかった。
1942年 ねん 、ソビエトの春季 しゅんき 攻勢 こうせい が挫折 ざせつ すると、ドイツは南方 なんぽう で急 きゅう 進撃 しんげき し、スターリングラード を攻撃 こうげき するとともにコーカサス 方面 ほうめん に戦線 せんせん を広 ひろ げた。しかし延 の び切 き った戦線 せんせん を支 ささ えるだけの兵力 へいりょく はすでになく、旧式 きゅうしき 装備 そうび のルーマニア軍 ぐん が強襲 きょうしゅう を受 う け、ドイツは第 だい 6軍 ぐん を中心 ちゅうしん とする30万 まん 人 にん の兵士 へいし を包囲 ほうい され、失 うしな った。
イタリアの敗北 はいぼく と北 きた アフリカ戦 せん [ 編集 へんしゅう ]
少 すこ し時間 じかん を遡 さかのぼ って1941年 ねん 2月 がつ 12日 にち 、エジプト に侵攻 しんこう し大 だい 規模 きぼ な敗北 はいぼく を迎 むか えたイタリア軍 ぐん の救援 きゅうえん のため、エルヴィン・ロンメル 中将 ちゅうじょう を指揮 しき 官 かん としたドイツアフリカ軍団 ぐんだん をリビア に送 おく った。ロンメルは怒涛 どとう の進撃 しんげき で戦線 せんせん を押 お し戻 もど していった。その後 ご イギリス軍 ぐん は圧倒的 あっとうてき 物量 ぶつりょう で敵 てき を押 お しつぶす『バトルアクス作戦 さくせん 』および『クルセーダー作戦 さくせん 』を実行 じっこう し物量 ぶつりょう に劣 おと るドイツ・イタリア軍 ぐん を押 お し戻 もど していく。
連合 れんごう 軍 ぐん は暗号 あんごう 解読 かいどく の努力 どりょく を地中海 ちちゅうかい に集中 しゅうちゅう し、海路 かいろ の補給 ほきゅう を妨害 ぼうがい するとともに、豊富 ほうふ な補給 ほきゅう で巻 ま き返 かえ しを図 はか った。1942年 ねん のエル・アラメイン戦 せん を境 さかい に、ドイツ軍 ぐん はここでも退潮 たいちょう を迎 むか えた。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 大戦 たいせん 中期 ちゅうき [ 編集 へんしゅう ]
パンツァーカイル 戦術 せんじゅつ の図 ず 。
国内 こくない のために政治 せいじ 的 てき な勝利 しょうり を欲 ほっ していたヒトラー(当初 とうしょ は現地 げんち の独軍 どくぐん 司令 しれい 官 かん もだが)は東部 とうぶ 戦線 せんせん の突出 とっしゅつ 部 ぶ であるクルスク攻撃 こうげき を企画 きかく する、この際 さい の作戦 さくせん でツァイツラー 参謀 さんぼう 総長 そうちょう 、クルーゲ 元帥 げんすい の主張 しゅちょう が通 とお り、グデーリアン 将軍 しょうぐん やマンシュタイン 元帥 げんすい の提案 ていあん はあまり考慮 こうりょ されず、ドイツ軍 ぐん は強大 きょうだい な防御 ぼうぎょ 陣地 じんち を築 きず いたソ連 それん 軍 ぐん と闘 たたか わざるを得 え なかった。
戦力 せんりょく 不足 ふそく ながらもティーガー戦車 せんしゃ によるパンツァーカイル戦法 せんぽう などで奮戦 ふんせん した。しかし結果 けっか 的 てき には大 おお きな戦果 せんか を上 あ げたものの、自軍 じぐん もまた甚大 じんだい な損害 そんがい を受 う け、ほとんど前進 ぜんしん できないまま撤退 てったい する結果 けっか となる。
ソ連 それん 軍 ぐん の反撃 はんげき [ 編集 へんしゅう ]
クルスクの戦 たたか いで戦力 せんりょく が激減 げきげん したドイツ東方 とうほう 軍 ぐん に対 たい し、ソ連 それん は圧倒的 あっとうてき な物量 ぶつりょう で反撃 はんげき に出 で た。その戦力 せんりょく 差 さ はドイツ軍 ぐん 3個 こ 軍 ぐん 集団 しゅうだん に対 たい しソ連 それん 軍 ぐん 8個 こ 方面 ほうめん 軍 ぐん というまさに圧倒的 あっとうてき な差 さ であった。
ソ連 それん の反撃 はんげき は長期間 ちょうきかん にわたり、レニングラード、ハリコフ 、キエフ などの重要 じゅうよう な都市 とし および軍事 ぐんじ 拠点 きょてん は次々 つぎつぎ に奪還 だっかん された。既 すで にドイツ東方 とうほう 軍 ぐん に組織 そしき 的 てき な機動 きどう 防御 ぼうぎょ 力 りょく はなく、マンシュタイン 元帥 げんすい は全面 ぜんめん 撤退 てったい を要求 ようきゅう するが、ヒトラーは逐次 ちくじ 撤退 てったい しか認 みと めず、クリミア半島 くりみあはんとう の軍 ぐん には死守 ししゅ 命令 めいれい を発令 はつれい した。
後退 こうたい するドイツ軍 ぐん にとって天然 てんねん の防衛 ぼうえい 線 せん として映 うつ ったのは父 ちち なるドニエプル川 がわ である。1943年 ねん 末 すえ には、ソビエトはキエフ付近 ふきん でわずかにドニエプル以西 いせい の地 ち を噛 か みとっていたに過 す ぎなかった。ソビエトはまず南方 なんぽう で攻勢 こうせい に移 うつ り、春 はる までにはウクライナ の大 だい 部分 ぶぶん を奪回 だっかい してルーマニア 国境 こっきょう を越 こ えた。ヒトラーは敗戦 はいせん の責任 せきにん をマンシュタイン南方 なんぽう 軍 ぐん 集団 しゅうだん 司令 しれい 官 かん に押 お し付 つ け、1944年 ねん 3月 がつ に罷免 ひめん した。春 はる の泥 どろ の季 き 節 ぶし を迎 むか えたとき、ドイツ中央 ちゅうおう 軍 ぐん 集団 しゅうだん の戦線 せんせん は不気味 ぶきみ な突出 とっしゅつ 部 ぶ となっていたが、それに対応 たいおう して何 なに かをする力 ちから はもうドイツにはなかった。対応 たいおう すべき別 べつ のものが、西方 せいほう に迫 せま っていたからである。
チュニジアの戦 たたか いとアフリカ、シシリーの失陥 しっかん [ 編集 へんしゅう ]
1942年 ねん 11月、トーチ作戦 さくせん によりアルジェ に連合 れんごう 軍 ぐん が上陸 じょうりく しフランス領 りょう チュニジア を脅 おど かしたため、アフリカ軍団 ぐんだん はエル・アラメインを引 ひ き払 はら って長 なが い退却 たいきゃく 行 ぎょう を開始 かいし し、リビア を放棄 ほうき してチュニジアを確保 かくほ した。一時 いちじ は連合 れんごう 軍 ぐん に大 だい 損害 そんがい を与 あた えて攻勢 こうせい を頓挫 とんざ させたものの、1943年 ねん 5月 がつ にはチュニジアの全 ぜん 部隊 ぶたい が降伏 ごうぶく する事態 じたい となった。連合 れんごう 軍 ぐん はこれに続 つづ いてハスキー作戦 さくせん を発動 はつどう し、シシリー島 とう を制圧 せいあつ した。本土 ほんど の一部 いちぶ たるシシリー島 とう を失 うしな ったイタリアではムッソリーニ が失脚 しっきゃく した。連合 れんごう 軍 ぐん は9月にイタリア本土 ほんど に上陸 じょうりく を開始 かいし し、直後 ちょくご にイタリア政府 せいふ は降伏 ごうぶく したが、ドイツが直 ただ ちにイタリアを占領 せんりょう して新 しん 政権 せいけん をローマ から追 お い、イタリア戦線 せんせん が形成 けいせい された。
グスタフ線 せん 、アンツィオ [ 編集 へんしゅう ]
山 やま がちのイタリア半島 はんとう を端 はし から攻 せ め上 のぼ る格好 かっこう となった連合 れんごう 軍 ぐん は、ドイツ軍 ぐん の粘 ねば り強 づよ い抵抗 ていこう に前進 ぜんしん 速度 そくど を鈍 なま らせた。特 とく にローマ南方 なんぽう のグスタフ線 せん (英語 えいご 版 ばん ) と呼 よ ばれる防衛 ぼうえい 線 せん はなかなか突破 とっぱ できず、ローマ攻略 こうりゃく を阻 はば んだ。連合 れんごう 軍 ぐん はグスタフ・ラインを迂回 うかい してローマの南方 なんぽう 50キロのアンツィオ に上陸 じょうりく してローマ占領 せんりょう を目論 もくろ んだ。ところが上陸 じょうりく 時 じ の指揮 しき 官 かん が慎重 しんちょう すぎ、ドイツ軍 ぐん に上陸 じょうりく 地点 ちてん を重囲 じゅうい する余裕 よゆう を与 あた えてしまった。ドイツ軍 ぐん は長 なが い消耗 しょうもう 戦 せん の末 すえ 、1944年 ねん 5月 がつ になってようやくアンツィオ包囲 ほうい 網 もう とグスタフ・ラインを放棄 ほうき したので、連合 れんごう 軍 ぐん は1944年 ねん 6月 がつ にローマ入城 にゅうじょう を果 は たすことができた。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 大戦 たいせん 後期 こうき [ 編集 へんしゅう ]
人的 じんてき 資源 しげん の枯渇 こかつ [ 編集 へんしゅう ]
ドイツ陸軍 りくぐん は多 おお くのHiWi(補助 ほじょ 志願 しがん 者 しゃ )をソビエト軍 ぐん 捕虜 ほりょ などから受 う け入 い れて非 ひ 戦闘 せんとう 任務 にんむ につかせたほか、志願 しがん 者 しゃ から成 な る歩兵 ほへい や(後方 こうほう のパルチザン 対策 たいさく に当 あ たる)コサック騎兵 きへい を多数 たすう 軍務 ぐんむ につけた。徴兵 ちょうへい 年齢 ねんれい は引 ひ き下 さ げられ、兵役 へいえき 期 き をとうに過 す ぎた成年 せいねん 男子 だんし も動員 どういん されたが、アメリカ ・ソビエトといった敵国 てきこく との人口 じんこう 差 さ はカバーできず、量的 りょうてき な劣勢 れっせい はぬぐえなかった。
小 しょう 火器 かき 、戦車 せんしゃ といった各種 かくしゅ の兵器 へいき は、個々 ここ には性能 せいのう で優 すぐ れるものがあったが、ドイツはもはや生産 せいさん 能力 のうりょく と輸送 ゆそう 能力 のうりょく を破壊 はかい され、戦局 せんきょく を転換 てんかん させるほどの影響 えいきょう は持 も ち得 え なかった。
東部 とうぶ 戦線 せんせん の崩壊 ほうかい [ 編集 へんしゅう ]
1944年 ねん のバグラチオン作戦 さくせん によってドイツ中央 ちゅうおう 軍 ぐん 集団 しゅうだん は崩壊 ほうかい し、北方 ほっぽう のドイツ軍 ぐん はリガ に取 と り残 のこ された。ルーマニアは1944年 ねん 8月 がつ に枢軸 すうじく を離 はな れ、ハンガリー は12月から首都 しゅと を攻撃 こうげき された。ドイツ軍 ぐん は局地 きょくち 的 てき にはソビエト軍 ぐん に大 だい 損害 そんがい を与 あた えても、繰 く り返 かえ される攻撃 こうげき に対 たい して受 う け身 み になるほかなかった。
1944年 ねん 6月 がつ のノルマンディー上陸 じょうりく 作戦 さくせん (オーバーロード作戦 さくせん )、8月 がつ のドラグーン作戦 さくせん によって、ドイツはフランスの北 きた と南 みなみ に上陸 じょうりく を受 う け、連合 れんごう 軍 ぐん の航空 こうくう 優勢 ゆうせい 下 か をドイツ国境 こっきょう まで退却 たいきゃく した。早期 そうき 決着 けっちゃく をあせったイギリス軍 ぐん は一気 いっき にライン川 がわ を渡 わた ろうと空挺 くうてい 作戦 さくせん を仕掛 しか け失敗 しっぱい し、バルジの戦 たたか い では連合 れんごう 軍 ぐん に予期 よき せぬ損害 そんがい を与 あた えたものの、ドイツ陸軍 りくぐん は航空 こうくう 優勢 ゆうせい を失 うしな って行動 こうどう を制約 せいやく され、個々 ここ の兵器 へいき や小 しょう 部隊 ぶたい 指揮 しき 官 かん の熟達 じゅくたつ といった優位 ゆうい を生 い かせなかった。