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T-34

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
T-34/T-34-85
T-34-85
ソミュール戦車せんしゃ博物館はくぶつかん展示てんじ戦後せんごチェコ生産せいさんがた
性能せいのうしょもと
全長ぜんちょう 8.15 m
車体しゃたいちょう 6.10 m
全幅ぜんぷく 3.00 m
ぜんこう 2.72 m
重量じゅうりょう 32 t
懸架けんか方式ほうしき クリスティー方式ほうしき
速度そくど 50 km/h整地せいち
30 km/h(整地せいち
行動こうどう距離きょり 300 km
主砲しゅほう 54.6口径こうけい85mm戦車せんしゃほう S-53またはZiS-S-53(56はつ
ふく武装ぶそう 7.62 mm DT機銃きじゅう×2(1890はつ
装甲そうこう
砲塔ほうとう
  • 前面ぜんめん 90 mm(曲面きょくめん
  • 側面そくめん 75 mm 傾斜けいしゃ 20 °
  • こうめん 52 mm 傾斜けいしゃ 10 °
車体しゃたい
  • 前面ぜんめん 45 mm 傾斜けいしゃ 60 °
  • 側面そくめん 45 mm 傾斜けいしゃ 50 °
  • こうめん 45 mm 傾斜けいしゃ 47 °
  • 上面うわつら 20 mm
エンジン 4ストロークVがた12気筒きとう水冷すいれいディーゼル
500 馬力ばりき
乗員じょういん 5 めい
しょもとT-34-85(1944ねんがたのもの
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T-34/T-34-85Т-34 テー・トリーッツァチ・チトゥーリィ)は、1939ねん開発かいはつされだい世界せかい大戦たいせんから冷戦れいせん時代じだいにかけてソビエト連邦れんぽう中心ちゅうしん使用しようされたちゅう戦車せんしゃ主力しゅりょく戦車せんしゃひと[1]

開発かいはつ

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背景はいけい

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1930年代ねんだい前半ぜんはん導入どうにゅうされたBTシリーズは、スペイン内戦ないせん(1936ねん~1939ねん)やノモンハン事件じけん(1939ねん)のせんくん機動きどうりょくもうぶんないが、防御ぼうぎょりょく問題もんだいのあることがりとなり、その快速かいそくせいあらたななか戦車せんしゃもとめられるようになった。そこで開発かいはつされたのがT-34である。

1939ねん時点じてんで、ソ連それんぐんもっとかずおおかった戦車せんしゃT-26けい戦車せんしゃと、BTシリーズ快速かいそく戦車せんしゃであった。T-26は、うごきのおそ歩兵ほへい戦車せんしゃで、戦場せんじょう歩兵ほへいおなじペースで進軍しんぐんするように設計せっけいされていた。一方いっぽう、BT戦車せんしゃ巡航じゅんこう戦車せんしゃで、てき歩兵ほへいたたかうのではなくてき戦車せんしゃたたかうために非常ひじょう快速かいそくけい戦車せんしゃとして設計せっけいされていた。少数しょうすうT-35などの砲塔ほうとう戦車せんしゃ存在そんざいしたが、いずれも装甲そうこううすく、小銃しょうじゅう機関きかんじゅう射撃しゃげきたいしてはたい弾性だんせいがあったが、対戦たいせんしゃライフルPaK 36 対戦たいせんしゃほう攻撃こうげきにはえられなかった。いずれも1930年代ねんだい初期しょきからソ連それん外国がいこく設計せっけいもとにして開発かいはつしたもので、T-26はイギリスせいヴィッカース 6トン戦車せんしゃ、BTはアメリカじん技術ぎじゅつしゃジョン・W・クリスティー戦車せんしゃ原型げんけいであった。

ひだりからBT-7M、A-20、T-34 1940ねんしき、T-34 1941ねんしきとしうごとのくるまはば拡大かくだいれる。

1937ねんソ連それんぐん技師ぎしミハイル・コーシュキンをBT戦車せんしゃ後継こうけい戦車せんしゃ開発かいはつチームのリーダーに指名しめいし、その作業さぎょうハルキウ[注釈ちゅうしゃく 1]のハリコフ機関きかんしゃ工場こうじょう (KhPZ) でおこなわれた。

A-20がた別名べつめいBT-20)とばれた試作しさく戦車せんしゃは、装甲そうこうあつみを20 mm とし、45 mm ほう M1934を装備そうびし、ガソリンよりはえにくい軽油けいゆもちいたVがた12気筒きとう新型しんがたエンジンであるV-2ディーゼルエンジンを採用さいようした。また、BT戦車せんしゃの8×2りんのコンバーチブル・ドライブ(道路どうろはし場合ばあいにはくつたいはずして車輪しゃりん走行そうこうできる機能きのう)を継承けいしょうし、A-20では8×6りんのコンバーチブル・ドライブを採用さいようしており、これによりくつたいしでも走行そうこうできた(Zheltov 1999)。この特長とくちょうにより、1930年代ねんだい信頼しんらいせいひくくつたいのメンテナンスや修理しゅうり作業さぎょう大幅おおはば削減さくげんでき、さら舗装ほそう道路どうろじょうでは時速じそく85キロメートルでの走行そうこう可能かのうとなったが、戦闘せんとうにはあまり役立やくだたない特長とくちょうであるともえた。結局けっきょく設計せっけいしゃらは空間くうかん重量じゅうりょう無駄むだであるとかんがえるようになった(Zaloga & Grandsen 1984:66, 111)。

A-20には、先行せんこうする研究けんきゅう(BT-IS および BT-SW-2 計画けいかく)から傾斜けいしゃ装甲そうこうれた。A-20はぜん方向ほうこう傾斜けいしゃ装甲そうこうで、これは垂直すいちょくててある装甲そうこうばんくらべると、とおるきのえだんいてらしやすい[2]

スペイン内戦ないせんやノモンハン事件じけんせんくん

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にち国境こっきょう紛争ふんそうの1938ねん7がつちょうほう事件じけんや1939ねんノモンハン事件じけんで、ソ連それんぐん日本にっぽん陸軍りくぐんたいしてBT-5、BT-7とう多数たすう戦車せんしゃ使用しようした。当時とうじソ連それん戦車せんしゃは、日本にっぽんぐんたい戦車せんしゃほうであるきゅうよんしきさんじゅうななみりめーとるほう[3]によって容易ようい撃破げきはされた。従来じゅうらいソ連それん戦車せんしゃは、日本にっぽん歩兵ほへい火炎瓶かえんびん攻撃こうげき[4]けると容易ようい火災かさいをおこした。当時とうじソ連それん戦車せんしゃはガソリンエンジンを装備そうびしており、被弾ひだんガソリン引火いんかして火災かさいこしやすく、 (Zaloga & Grandsen 1984:111)また車体しゃたい塗装とそうのペンキは可燃かねんせいで、火炎瓶かえんびん攻撃こうげき引火いんか炎上えんじょうしやすかった。スペイン内戦ないせんにおいても、共和きょうわ供与きょうよされたT-26がフランコ火炎瓶かえんびん攻撃こうげき対戦たいせんしゃ砲撃ほうげきおおきな打撃だげきこうむった。さらには、装甲そうこうばんリベットめした部分ぶぶん脆弱ぜいじゃくであることがかった[5]。リベットめの装甲そうこうばんは「破砕はさい」(spalling)の問題もんだいにつながった。これは、てきだんたったとき、そのたまそのもので戦車せんしゃ乗員じょういん無力むりょくできなかったとしてもたまたったとき衝撃しょうげきでリベットや、だんきれした装甲そうこうばん破片はへん車内しゃない飛散ひさん乗員じょういん殺傷さっしょうしてしまう現象げんしょうでもあった。

このせんくんから、赤軍せきぐん指導しどう以後いご戦車せんしゃ塗料とりょう不燃ふねんせいのものとし、装甲そうこうばん電気でんき溶接ようせつ採用さいようし、ディーゼルエンジン搭載とうさいするようになった。これらのせんくんはT-34開発かいはつかされることになった。また歩兵ほへい支援しえん重視じゅうしする守旧しゅきゅうから、独立どくりつした戦車せんしゃ部隊ぶたい集中しゅうちゅう運用うんよう主張しゅちょうする、トハチェフスキーゲオルギー・ジューコフ赤軍せきぐん内部ないぶ主導しゅどうけんにぎり、のちのどくせんにおける戦車せんしゃ用兵ようへい思想しそう影響えいきょうあたえた。

コーシュキン技師ぎしは、ソ連それん指導しどうしゃスターリン説得せっとくしてべつ試作しさく戦車せんしゃ開発かいはつする許可きょかた。それはT-26 および BT戦車せんしゃのいずれの後継こうけい戦車せんしゃにもなりうるようなよりじゅう武装ぶそうじゅう装甲そうこうの「万能ばんのう戦車せんしゃ」を開発かいはつするという計画けいかくであった[注釈ちゅうしゃく 2]。コーシュキン技師ぎし番目ばんめ試作しさく戦車せんしゃを、32 mm の前面ぜんめん装甲そうこうにちなんでA-32と命名めいめいした。A-32には、45 mm ほう M1938または76.2 mm ほう L-10を採用さいようし、A-20とおなじV-2ディーゼルエンジンを採用さいようした(Zaloga 1994:5)。なお、構造こうぞう複雑ふくざつわり実用じつようせいひくクリスティーしき戦車せんしゃゆずりのコンバーチブル・ドライブは、A-32の時点じてん廃止はいしされている。

A-20とA-32は、1939ねんクビンカ性能せいのう試験しけんけた。試験しけん結果けっかりょうくるまとも良好りょうこうで、よりじゅう装備そうびのA-32がA-20と同等どうとう機動きどうせいっていること証明しょうめいされた。そして、スターリンの裁定さいていでA-32がT-32として正式せいしき採用さいようされることになった。

A-34/T-34の誕生たんじょう

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試作しさく戦車せんしゃA-34。のち砲塔ほうとうなどを改良かいりょうされ、1940ねんがたとして量産りょうさんされた。

しかし、ふゆ戦争せんそうでもBTシリーズの装甲そうこう脆弱ぜいじゃくせい問題もんだいとなり、A-32の装甲そうこうを45mmにするとともに、より幅広はばひろくつたい採用さいようされた。また備砲びほうを76.2mmほう L-11に強化きょうかすることとなった。

この改良かいりょう試作しさくしゃA-34の完成かんせいたずに、1939ねん12月にはT-34として正式せいしき採用さいようされた。T-34という名前なまえは、機甲きこう兵力へいりょく拡張かくちょうめいずる命令めいれいされてグリゴリー・オルジョニキーゼ戦車せんしゃ生産せいさんひきいることとなり、コーシュキンが新型しんがた戦車せんしゃかんするアイデアをまとめはじめた1934ねん年号ねんごうにちなんで、コーシュキンが命名めいめいしたものである(Zaloga 1994:6)。

コーシュキンのチームは、1940ねん1がつにT-34の試作しさくしゃを2りょう完成かんせいさせた。T-34は、同年どうねん4がつと5がつハリコフからモスクワまでの2000キロメートルの走行そうこう試験しけんおこなって、クレムリン指導しどうしゃたちに姿すがた披露ひろうしたあと、フィンランドのマンネルハイムせんまで[注釈ちゅうしゃく 3]ミンスクキエフ経由けいゆしてハリコフにもどった(Zaloga 1994:6)。伝動でんどう機構きこう(ドライブトレイン)にいくつか欠点けってんつかり修正しゅうせいされた(Zaloga & Grandsen 1983:6)。ぐん司令しれいからの反対はんたいろんや、生産せいさんコストがたかことについての懸念けねんはフィンランドとのふゆ戦争せんそうにおいて露呈ろていしたソ連それん戦車せんしゃ性能せいのうひくさや、ドイツの電撃でんげきせん有効ゆうこうせいしめすことによって克服こくふくされ、1940ねん9がつ量産りょうさんだい1ごう戦車せんしゃ完成かんせいした。ハリコフ機関きかんしゃ工場こうじょうではT-26、BTシリーズ、そして砲塔ほうとうT-28ちゅう戦車せんしゃ生産せいさんり、すべての生産せいさんラインをT-34に変更へんこうした。コーシュキンは同月どうげつすえに、試験しけん走行そうこうにより悪化あっかしていた肺炎はいえんくなった。後任こうにん主任しゅにん設計せっけい技師ぎしにはT-34の伝動でんどう装置そうち開発かいはつしゃであるアレクサンドル・モロゾフ技師ぎし指名しめいされた。

T-34は、サスペンションには過去かこ設計せっけい延長えんちょうとしてBTシリーズからいだコイルスプリングもちいたクリスティーしきサスペンション採用さいようしていた。駆動くどう部分ぶぶんとしては、重量じゅうりょうたいして比較的ひかくてき出力しゅつりょくたかいエンジンを駆動くどうこうとし、ソ連それん大地だいちてきした幅広はばひろ柔軟じゅうなんくつたいそなえていた。くつたい上滑うわすべりしたときにきもどすしくみはなく、重量じゅうりょうがかさむわり効果こうかひくいコンバーチブル・ドライブは廃止はいしされている。装甲そうこういては、すぐれた傾斜けいしゃ装甲そうこうであった。武装ぶそうについては初期しょきがたは76.2mmほう装備そうびしており、しばしばT-34/76とばれる(だい世界せかい大戦たいせん当時とうじのドイツぐんがわがこの名称めいしょうんだのが初出しょしゅつである。)。1944ねんには2番目ばんめ改良かいりょうがた生産せいさんはじまり、これはT-34-85(あるいはT-34/85)とばれる。これは85mmほう搭載とうさいしたおおきな砲塔ほうとうそなえている。

T-34が実戦じっせん投入とうにゅうされたのは、1941ねん7がつバルバロッサ作戦さくせんからで、初期しょき戦闘せんとうでは乗員じょういん未熟みじゅくさや、無線むせん設備せつび不備ふびにより連携れんけいしての戦闘せんとうができなかったり、トランスミッションを故障こしょうさせ放棄ほうきされたり、性能せいのうてきおとっているはずのドイツぐん戦車せんしゃ突撃とつげきほう[注釈ちゅうしゃく 4]撃破げきはされたりもした。

生産せいさん体制たいせい確立かくりつ維持いじ

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T-34は、ソ連それん工業こうぎょうにとってあらたなる挑戦ちょうせんだった。T-34の装甲そうこうはそれまでつくられていたなか戦車せんしゃのどれよりもあついもので、いくつかの工場こうじょうつくられた部品ぶひんわせてつく必要ひつようがあった。たとえば、V-2エンジンはだい75ハリコフディーゼル工場こうじょう供給きょうきゅうし、レニングラードのキーロフスキー工場こうじょう前身ぜんしんはプティロフ工場こうじょう)が76.2 mm ほう L-11の原型げんけいをつくり、モスクワのダイナモ工場こうじょう電気でんき部品ぶひんつくるといった具合ぐあいである。当初とうしょ、T-34はだい183ハリコフ機関きかんしゃ工場こうじょうのみでつくられたが、1941ねん初期しょきからはスターリングラード・トラクター工場こうじょうがこれにくわわり、ドイツが侵攻しんこうしてきてからしばらくった7がつにはゴーリキー(げんニジニ・ノヴゴロド)の国営こくえいだい112クラスノヤ・ソルモヴォ工場こうじょうでも生産せいさんはじまった。このころ不完全ふかんぜん装甲そうこうばん生産せいさんされる問題もんだいがあった(Zaloga 1983:6)。新型しんがたのV-2エンジンのかず不足ふそくしたため、国営こくえいだい112クラスノヤ・ソルモヴォ工場こうじょうでの初期しょき生産せいさんにおいてはBT戦車せんしゃにも使つかわれたガソリンしきミクーリン M-17航空機こうくうきエンジンや、性能せいのうおとった変速へんそくやクラッチをけていた(Zheltov 2001:40-42)。無線むせん高価こうかであるうえ供給きょうきゅうりょうすくなく、中隊ちゅうたいちょうよう戦車せんしゃにのみけられた。当初とうしょ装備そうびされたL-11ほう期待きたいどおりの性能せいのう発揮はっきしなかったため、ゴーリキーのだい92工場こうじょうにあったワシリー・グラビン技師ぎし設計せっけいチームはよりすぐれたF-34 76mm戦車せんしゃほう設計せっけいした。官僚かんりょうたちは生産せいさんみとめなかったが、だい92工場こうじょうとハリコフ機関きかんしゃ工場こうじょうはそれにかまわず新型しんがたほう生産せいさんはじめた。前線ぜんせん部隊ぶたいからこの新型しんがたほうへの賞賛しょうさんこえとどいたのち、スターリンのソ連それん国家こっか防衛ぼうえい委員いいんかいから、ようやく新型しんがたほう生産せいさん正式せいしき許可きょかとどいたのだった(Zaloga & Grandsen 1984:130)。

ソ連それん陸軍りくぐん保守ほしゅからは「旧式きゅうしきのT-26やBT戦車せんしゃ生産せいさん継続けいぞくすべき」とか、「より発展はってんしたT-34Mの設計せっけいかたまるまでT-34の生産せいさん延期えんきすべき」といった政治せいじてき圧力あつりょくかかった。こうした政治せいじてき圧力あつりょくは、T-34と競争きょうそう関係かんけいにあったKV-1戦車せんしゃIS-2戦車せんしゃ開発かいはつグループが吹聴ふいちょうしたものであった[注釈ちゅうしゃく 5](Sewell 1998)。

1941ねん6がつ22にち、ドイツがソ連それん奇襲きしゅう攻撃こうげきしたバルバロッサ作戦さくせん開始かいしされた(どくせんはじまり。)。これをけてソ連それんぐん戦車せんしゃ改良かいりょう凍結とうけつし、戦車せんしゃ大量たいりょう生産せいさんかじった。

ドイツぐん進撃しんげきはやかったため、それまでに前例ぜんれいがないほどのスケールとはやさで戦車せんしゃ工場こうじょうウラル山脈さんみゃく疎開そかいさせねばならなかった。ハリコフ機関きかんしゃ工場こうじょうニジニ・タギルのジェルジンスキー・ウラル貨車かしゃ工場こうじょう近辺きんぺん移設いせつされることとなり、だい183スターリン・ウラル戦車せんしゃ工場こうじょう改称かいしょうした。キーロフスキー工場こうじょうは、そのいち週間しゅうかんまえにレニングラードから避難ひなんして、ハリコフ・ディーゼル工場こうじょうともチェリャビンスクスターリン・トラクター工場こうじょうとなり、もなくチェリャビンスクには「タンコグラード」(戦車せんしゃまち)という別名べつめいけられた。レニングラードから避難ひなんしただい174ヴォロシーロフ戦車せんしゃ工場こうじょうはウラル工場こうじょう吸収きゅうしゅうされてあらたにだい174オムスク工場こうじょうとしてさい出発しゅっぱつした。いくつかのちいさい工場こうじょうエカテリンブルクのオルジョニキーゼ・ウラルじゅう機械きかい工具こうぐ製作所せいさくしょ(UZTM)に吸収きゅうしゅうされた。これらの工場こうじょう記録きろくてきはやさで移動いどうしているあいだ、スターリングラード・トラクター工場こうじょう周辺しゅうへん工業こうぎょう地区ちくがT-34のぜん生産せいさんりょううちの40パーセントを生産せいさんしていた(Zaloga & Grandsen 1983:13)。この工場こうじょうスターリングラード攻防こうぼうせん激戦げきせんなか包囲ほういされてしまい、状況じょうきょう絶望ぜつぼうてきになった。物資ぶっし不足ふそくにより生産せいさん方法ほうほう変更へんこうせざるをず、塗装とそうされていないT-34が周辺しゅうへん戦場せんじょうったとする主張しゅちょうもある(Zaloga & Sarson 1994:23)。スターリングラードの工場こうじょうは1942ねん9がつまで生産せいさんつづけた。

スターリングラードのように生産せいさん妨害ぼうがいされた場合ばあいべつとして、生産せいさん現場げんばゆるされたのは戦車せんしゃをより簡単かんたんに、よりやすつくるための変更へんこうだけであった。エフゲニー・パトン教授きょうじゅによる技術ぎじゅつ革新かくしんなどにより、いた溶接ようせつおよび硬化こうか自動じどうする方法ほうほう開発かいはつされた[6]F-34 76mm戦車せんしゃほう初期しょきがたでは部品ぶひんすうが861てんあったが、それが614てんまですくなくなった(Zaloga & Grandsen 1984:131)。そのの2年間ねんかんで、戦車せんしゃ生産せいさんコストは1941ねん時点じてんの26まん9500ルーブルから、19まん3000ルーブルへがり、そのさらに13まん5000ルーブルにまでおさえられた(Zaloga & Grandsen 1984:131)。そして戦車せんしゃ生産せいさんようする時間じかんは、熟練工じゅくれんこういん戦場せんじょうおくられて、50パーセントが女性じょせい・15パーセントが少年しょうねん・15パーセントが身体しんたい障害しょうがいしゃ老人ろうじんという勤労きんろうだん生産せいさんおこなうという状況じょうきょうにもかかわらず、1942ねんまつまでに半分はんぶん時間じかんにまで短縮たんしゅくされた。それと同時どうじにT-34は、それまでは「うつくしい外面がいめん仕上しあげで立派りっぱつくられた機械きかいであり、西欧せいおうやアメリカとならつ、あるいはすぐれている」とわれていたが、このころになると表面ひょうめん仕上しあげはざつになっていた。しかし機械きかいてき信頼しんらいせいには妥協だきょうがなかった(Zaloga & Grandsen 1983:17)。

改良かいりょう

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1942ねんになって、すで放棄ほうきされていたT-34M計画けいかくにおいてかんがえられていた六角形ろっかっけい砲塔ほうとう生産せいさんうつことになった。この新型しんがた砲塔ほうとう砲塔ほうとうない窮屈きゅうくつさを解消かいしょうするとともに、くるまちょうぜん方向ほうこう見渡みわたせるように、くるまちょうせきコマンダーズキューポラけられることになった。ゴム供給きょうきゅうりょうかぎられていたため、うたて鋼鉄こうてつせいであった。このころから、改良かいりょうされた5だん変速へんそく変速へんそくとエンジン、そして新型しんがたクラッチが採用さいようされた。

1942ねんには、ちょう砲身ほうしんすぐれた貫徹かんてつりょく75 mm ほう装備そうびしたドイツぐん戦車せんしゃ戦場せんじょう登場とうじょうした。モロゾフ技師ぎし設計せっけいチームはT-34を発展はってんさせたT-43戦車せんしゃ開発かいはつ計画けいかくした。これは、装甲そうこうさら強化きょうかする一方いっぽうで、トーションバーサスペンションさんにんしき砲塔ほうとうといった最新さいしん特徴とくちょうれるねらいを設計せっけいたせていた。T-43はT-34ばかりでなくKV-1じゅう戦車せんしゃ代替だいたいにもなりうるような万能ばんのう戦車せんしゃとして計画けいかくされたため、KV-1じゅう戦車せんしゃ開発かいはつしていたチェリャビンスクのじゅう戦車せんしゃ設計せっけいチームによるKV-13計画けいかく真正面ましょうめんから競争きょうそうすることになった(Zaloga et al. 1997:5)。

1943ねんになると、ソ連それんぐん新型しんがたのドイツぐん戦車せんしゃティーガー戦車せんしゃパンター戦車せんしゃたたかわねばならなくなった。クルスクのたたかにおける経験けいけんにより、T-34の76.2 mm ほうではもはや十分じゅうぶんたたかえないという報告ほうこく前線ぜんせんからとどいていた。また、すでにあった85 mm 高射こうしゃほう新型しんがたドイツぐん戦車せんしゃにも有効ゆうこうであるということかったので、このほう戦車せんしゃ搭載とうさいすることになった(Russian Battlefield 1998b)。しかし、よりあつくしたT-43試作しさくしゃ装甲そうこうでさえもティーガーの88 mm ほうたいしては十分じゅうぶんではなく、また機動きどうせいめんでみても、よりおもい85 mm ほう搭載とうさいするまえ状態じょうたいであったにもかかわらずT-34の機動きどうせいよりもおとっていた。T-43の部品ぶひんは70パーセント以上いじょうがT-34と共通きょうつうであったが、T-43の生産せいさん並行へいこうしておこなうと、生産せいさん速度そくどはかなり低下ていかすること予想よそうされた(Zaloga et al. 1997:5)。

結局けっきょくT-43計画けいかく中止ちゅうしされることになり、ソ連それん司令しれいはT-34の新型しんがた製造せいぞうするように工場こうじょうさい改装かいそうするというむずかしい決断けつだんをした。T-34の新型しんがたでは砲塔ほうとうむターレットリングのみちを1425mmから1600mmにひろげ、よりおおきな砲塔ほうとうけられるようにした。T-43の砲塔ほうとう設計せっけいをクラスノヤ・ソルモヴォ工場こうじょうの V.ケリチェフ技師ぎし急遽きゅうきょやりなおして、T-34にうようにした(Zaloga 1984:166)。こうして完成かんせいした新型しんがたのT-34-85は以前いぜんよりはるかにすぐれたほうち、つい無線むせんきのさんにんしき砲塔ほうとうとなった(無線むせんはそれまで車体しゃたいほうにあった)。これによりくるまちょう砲手ほうしゅ装填そうてんしゅ役割やくわり兼務けんむすることから解放かいほうされ、戦車せんしゃ指揮しき集中しゅうちゅうできるようになった。もうひと重要じゅうようてんはポーランドで戦前せんぜん設計せっけいされ、イギリスでライセンス生産せいさんされていたものをコピーしたヴィッカース 戦車せんしゃようペリスコープ MK.IV戦車せんしゃよう潜望鏡せんぼうきょう)が砲塔ほうとう屋根やねけられたことで、これによりくるまちょうぜん方向ほうこう視野しやことができるようになった。

T-34は85mmほう装備そうびしたT-34-85になっても依然いぜんとしてティーガー戦車せんしゃやパンター戦車せんしゃ不利ふりたたかいをいられたが、それでも火力かりょくしたことにより500メートル前後ぜんこうにまで接近せっきん出来できればティーガー戦車せんしゃやパンター戦車せんしゃ正面しょうめんから有効ゆうこうあたえられるようになったため、正面しょうめんからの撃破げきはがほぼ不可能ふかのうだったそれまでよりは格段かくだんたたかいやすくなった。また、ドイツぐん機甲きこう戦力せんりょく実質じっしつてき主力しゅりょくであったIVごう戦車せんしゃやIIIごう突撃とつげきほうたいして優位ゆういったことがそれ以上いじょうおおきな意味いみった。ソ連それんがわ最新さいしんがた武装ぶそうもとめず、既存きそん設計せっけい発展はってんさせるという決断けつだんをした。このことによって、ソ連それん性能せいのう問題もんだいにならなくなるほどの、大量たいりょう戦車せんしゃ製造せいぞうすること出来できた。1944ねん5がつドイツ国防こくぼうぐん東部とうぶ戦線せんせんで304りょうのパンターをっていただけであったのにたいし、ソ連それんは1200りょう/がつというスピードでT-34-85のかずやしていったのである (Zaloga et al. 1997:6)。

生産せいさん効率こうりつ

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T-34-85の生産せいさんコストは当初とうしょ、16まん4000ルーブルで、これは1943ねんがたより30パーセントたかかったが1945ねんまでに14まん2000ルーブルまでがった(Harrison 2002:181)。戦争せんそう期間きかんちゅうに、T-34の価格かかくは1941ねんの27まんルーブルからほぼ半分はんぶんがった(Harrison 2002:181)。しかもこのあいだ戦車せんしゃさい高速度こうそくどおなじままたもたれ、主砲しゅほう装甲そうこう貫通かんつうりょく砲塔ほうとう前面ぜんめん装甲そうこうあつみはいずれもほぼ2ばいになったのである(Zaloga 1984:113, 184, 225)。

生産せいさん台数だいすう

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1945ねんまつまでに、5まん7,000りょう以上いじょうのT-34がつくられた。このうち3まん4780りょうは1940ねんから1944ねんけて製造せいぞうされた初期しょきがたのT-34で、のこりの2まん2,559りょうは1944ねんから1945ねんけてつくられたT-34-85である(1998a, 1998b)。

もっと生産せいさんりょうおおかったのは当初とうしょハリコフ、そのニジニ・タギルに移転いてんしただい183工場こうじょう (KhUTZ) で、1941ねんから1945ねんにかけて、T-34とT-34-85をわせて2まん8,952りょう製造せいぞうしている。つぎおおかったのはゴーリキーのだい112工場こうじょう(クラスノエ・ソルモヴォ)で、どう時期じきに1まん2,604りょう製造せいぞうしている(Michulec & Zientarzewski 2006:220)。戦後せんごの1946ねんには2701りょう製造せいぞうされ、だい規模きぼ生産せいさんはそこでられた。

そのポーランド人民じんみん共和きょうわこくチェコスロバキア生産せいさん再開さいかいされ、1956ねんまでの集計しゅうけいでそれぞれ1951~1955ねんに1,380りょう、1951~1958ねんに3,185りょうのT-34-85が製造せいぞうされた。その、T-54/55やT-72もまたソ連それんそと製造せいぞうされた。

1960年代ねんだい後半こうはんには、ソ連それんのT-34-85は輸出ゆしゅつよう予備よびやくようとするために近代きんだい改修かいしゅうけ(T-34-85M)、T-54/55シリーズのドライブトレインをまれた。この事実じじつソ連それん戦車せんしゃ設計せっけい標準ひょうじゅん水準すいじゅんたかさをしめひとつの証拠しょうことなるものであった。

T-34はわせて8まん4,070りょう製造せいぞうされたと推定すいていされ、このほかにT-34の車台しゃだいもちいてつくられた1まん3,170もんはしほうがある(Zaloga & Grandsen 1996:18)。これらのうちのいくらかは冷戦れいせんしたこった、朝鮮ちょうせん戦争せんそうなど世界せかい各地かくち軍事ぐんじ衝突しょうとつなかうしなわれた。

特徴とくちょう

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T-34の特徴とくちょうは、

攻撃こうげきりょくにおいて
当時とうじとしては、強力きょうりょく戦車せんしゃほう装備そうびしている。さまざまな時代じだいとおして、ソ連それん・ロシアはほう重視じゅうしする傾向けいこうにある。つね他国たこく戦車せんしゃよりもだい口径こうけいほう装備そうびする傾向けいこうがあり、冷戦れいせん時代じだい主力しゅりょく戦車せんしゃつね西側にしがわ諸国しょこく主力しゅりょく戦車せんしゃ口径こうけいよりもおおきかった。
防御ぼうぎょめんにおいて
防御ぼうぎょじょう有利ゆうりとなる避弾けいはじめ考慮こうりょした傾斜けいしゃ装甲そうこう砲塔ほうとうのサイズと車体しゃたいとのフォルムふくむ)であった。
駆動くどう方式ほうしきにおいて
被弾ひだんしたときにガソリンエンジンにくらべて炎上えんじょうしにくい、燃費ねんぴじょうでも有利ゆうり高性能こうせいのうアルミ合金ごうきんせいディーゼルエンジン使用しよう
高速こうそく走行そうこうてきしたクリスティーしきサスペンションをもちいた大型おおがたてん必要ひつようじゅうふん複雑ふくざつけた無難ぶなん設計せっけい
ソ連それん国内こくないでの戦闘せんとうてきしていた、幅広はばひろ接地せっちあつひくくつたい
生産せいさんせいにおいて
設計せっけい時期じきうごとに徹底的てっていてき簡略かんりゃくされ、結果けっかとしての生産せいさんせいたかさはソ連それん工業こうぎょうりょくかんがみてもおどろくほどの数量すうりょう生産せいさん可能かのうとした

である。

T-34を調査ちょうさしたドイツぐんは、既存きそん戦車せんしゃ改良かいりょうとも新型しんがた戦車せんしゃティーガーパンター)の開発かいはつ促進そくしんすることになる。とくにパンター戦車せんしゃ設計せっけいにはこのT-34の構造こうぞう非常ひじょうつよ影響えいきょうあたえた。ダイムラー・ベンツしゃによるVK3002(DB)はT-34にたシルエットであったが、実際じっさい採用さいようされたのはT-34の影響えいきょうはうかがえるものの、大分だいぶことなった形状けいじょうMANしゃせいのVK3002(M)であった。

さまざまな部分ぶぶんにおいて当時とうじのドイツ戦車せんしゃ圧倒あっとうしていたこの戦車せんしゃであるが、同時どうじおおくの欠点けってんゆうしていた。そのおおくは工作こうさく精度せいど人間にんげん工学こうがくてき問題もんだいである。これはドイツとソ連それん技術ぎじゅつてき問題もんだい同時どうじに、戦車せんしゃによる地上ちじょうせん戦術せんじゅつ思想しそうたいしてのであったといえるであろう。

設計せっけいじょう問題もんだい

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  • おおきさがかぎられている問題もんだいについて、
    • 傾斜けいしゃした装甲そうこうもちいるということは全体ぜんたいてき容積ようせき減少げんしょうくわえ、デッドスペースがえることで利用りよう可能かのう容積ようせきらすことになる。前面ぜんめん傾斜けいしゃ前方ぜんぽうにいる操縦そうじゅうしゅ機銃きじゅうしゅ影響えいきょうあたえ、側面そくめん傾斜けいしゃ装備そうびめんでの制限せいげんをもうける要因よういんとなった。これにより大小だいしょうさまざまな運用うんようじょう影響えいきょうあたえた。
    • ひくいシルエットの砲塔ほうとう防御ぼうぎょてんにおいては有利ゆうりだが、居住きょじゅうせいわるく、砲弾ほうだん床下ゆかした収納しゅうのうされていたので砲塔ほうとうバスケットは採用さいようされていなかった。とくに1940/41ねんがたでは砲塔ほうとうないせまいため主砲しゅほう操作そうさするハンドルはうで交差こうささせてまわすという使つかいにくい配置はいちであった。この問題もんだいは1942/43ねんがた砲塔ほうとう改善かいぜんされた。砲塔ほうとうにおける2人ふたり・3やくくるまちょう砲手ほうしゅ装填そうてんしゅ体制たいせい戦車せんしゃちょう独立どくりつせいについては、3めいよう大型おおがた砲塔ほうとう採用さいようしたT-34-85で解消かいしょうされた。
    • ディーゼルエンジンはガソリンエンジンにくらべサイズがおおきく、車体しゃたいサイズにめるエンジン・変速へんそくスペースがおおきくなり、どう時代じだいのほぼどうサイズのⅣごう戦車せんしゃやM4ちゅう戦車せんしゃくらべて乗員じょういん搭乗とうじょうする戦闘せんとうしつのスペースはせまかった(エンジンサイズに影響えいきょうけた前後ぜんごはばくわえ、クリスティーしきサスペンションのコイルスプリングスペースにより左右さゆうはばせまかった)。
  • 主砲しゅほう俯角ふかくがほとんどつけられず、近距離きんきょりにおいてはひく対戦たいせんしゃほう突撃とつげきほう歩兵ほへいパンツァーファウストなどを使つかった肉薄にくはく攻撃こうげき[注釈ちゅうしゃく 6]対抗たいこうできなかった。また車体しゃたい前方ぜんぽう機銃きじゅう視界しかいかいせまく、あまり効果こうかてきではなかったという。
  • シンプルな乾式かんしきクラッチ・ブレーキしき操行そうこう装置そうちは、生産せいさん整備せいびらくである反面はんめんとく前期ぜんきの4だん変速へんそくがた操作そうさ大変たいへんおも操縦そうじゅうしゅ疲労ひろうさせる。片腕かたうでちからだけではうごかせず、同時どうじかたひざしながらうごかさなくてはいけないほどだった。長時間ちょうじかん行軍こうぐんさいは、となり無線むせんしゅがギアチェンジのときしてやったほどであり、疲労ひろう体重たいじゅうが2~3 kg もるとまでわれた。とくにバックにれるときはハンマーでレバーを打撃だげきしてれたという証言しょうげんもある。また直進ちょくしん速度そくどたしかにはやいが、構造こうぞうてき左右さゆうこまかく機動きどうするのは苦手にがてで、大回おおまわりになりがちであった。高速こうそく走行そうこうしながらなめらかにがるという機動きどう不可能ふかのうである。さらにクラッチ接続せつぞくのタイミングもむずかしく、性急せいきゅう操作そうさにより破損はそんする危険きけんおおきかった。しかしこれは、ドイツ戦車せんしゃ同様どうようシンクロメッシュ機構きこうれた5だん変速へんそくがた登場とうじょうにより、かなり改善かいぜんされている。
  • 排気はいきかんマフラーるいく、ディーゼルエンジンはラバーマウントをかいさず直接ちょくせつ車体しゃたい固定こていされ振動しんどう騒音そうおんがひどい。また、下向したむきの排気はいきかんにより乾燥かんそうした場所ばしょでははげしく土埃つちぼこり発生はっせいする。
  • ディーゼルエンジン炎上えんじょうがたいというふれこみで採用さいようされ、事実じじつ乗員じょういんもそうかんがえていたが、実際じっさい統計とうけいではガソリンエンジンの戦車せんしゃくらべ、燃料ねんりょう爆発ばくはつはおこさないまでもとくえにくいということはなかった。たしかにガソリンエンジンと比較ひかくするとれとそれにたいして火炎瓶かえんびんなどによる攻撃こうげきたいしては軽油けいゆ・ディーゼルエンジンは安全あんぜんであったといえる。しかしながら、とおるかぶと榴弾りゅうだんのような対戦たいせんしゃ火器かきによる攻撃こうげきでは容易ようい着火ちゃっかしたし、一度いちど炎上えんじょうすると砲弾ほうだん誘爆ゆうばくをおこしやすく、乗員じょういんただちに退避たいひする必要ひつようがあった。朝鮮ちょうせん戦争せんそうでは、T-34-85の乗員じょういん死因しいんじつに75パーセントが車輌しゃりょう火災かさいによる。
  • ラジエーター虚弱きょじゃくで、被弾ひだん衝撃しょうげき簡単かんたん冷却れいきゃくすいれをおこしやすく、またエアフィルター性能せいのうひくちり除去じょきょしきれず、エンジンの寿命じゅみょうちぢめている。

運用うんようじょう問題もんだい

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  • 当時とうじソ連それんぐん装備そうび人員じんいんども不足ふそくしており、1938ねん入隊にゅうたいしたAK-47設計せっけいしゃとして著名ちょめいミハイル・カラシニコフ操縦そうじゅうけん整備せいびとして訓練くんれんけていたが、1941ねんどくせん開始かいしによりすぐに戦車せんしゃちょう任命にんめいされるなど、おおくの部隊ぶたいでは経験けいけん不足ふそく新兵しんぺい主体しゅたいとなって運用うんようすることになった[注釈ちゅうしゃく 7]
  • 戦車せんしゃちょう砲手ほうしゅねるため、周囲しゅういかん戦車せんしゃ全体ぜんたい指揮しき専念せんねんしにくかった[注釈ちゅうしゃく 8]。なお、T-34を鹵獲ろかく使用しようしたフィンランドぐんでは、戦車せんしゃちょうが(通常つうじょう一番いちばん経験けいけんあさ兵士へいし役割やくわりであった)装填そうてんしゅねるように役割やくわりえていた。ソ連それんぐんでも、操縦そうじゅうしゅあがりの戦車せんしゃちょう砲塔ほうとう乗員じょういん死傷ししょうりつたかさをきらって、戦車せんしゃちょうけん操縦そうじゅうしゅという変則へんそくてき配置はいちえらんだれいもある。だが、砲塔ほうとうでのさんにん体制たいせいというのはドイツぐん各国かっこく先立さきだってんだことであり、とく時代遅じだいおくれということでもなかった。この問題もんだい砲塔ほうとう大型おおがたされたT-34-85では戦車せんしゃちょう砲手ほうしゅかれるように改善かいぜんされた。
  • どくせん初期しょきには無線むせんしょう隊長たいちょうしゃまで、あるいは中隊ちゅうたいちょうしゃにしか装備そうびされていない場合ばあいもあった。しかも乗員じょういん訓練くんれん不足ふそくでこれに習熟しゅうじゅくしておらず、連携れんけいした行動こうどういちれつ縦隊じゅうたい突進とっしんするのがやっとだった。のち無線むせん常設じょうせつとなるが、兵員へいいん不足ふそく無線むせんしゅ搭乗とうじょうしていないこともおおかった[注釈ちゅうしゃく 9]。しかし大戦たいせん後期こうきにアメリカから部品ぶひん供給きょうきゅうされるようになると無線むせんはほぼぜん車両しゃりょう普及ふきゅうし、ソ連それんばん電撃でんげきせんであるバグラチオン作戦さくせん成功せいこうにT-34のたか機動きどうせいとも一役ひとやくことになった。

製造せいぞう技術ぎじゅつじょう問題もんだい

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  • ペリスコープしつわるくレンズに気泡きほうはいっている場合ばあいがあった。また前期ぜんきかたには周辺しゅうへん監視かんしようのコマンダーズ・キューポラもい。主砲しゅほう交換こうかん燃料ねんりょうタンクよう巨大きょだいした砲塔ほうとう上面うわつらハッチが前方ぜんぽう視界しかいふさいでしまうため、周囲しゅうい確認かくにんのためした戦車せんしゃちょう格好かっこう標的ひょうてきとして狙撃そげきされた。またこのハッチはきわめておもいため、負傷ふしょうするとけられず脱出だっしゅつ大変たいへん困難こんなんであった。1942ねんがたからハッチが戦車せんしゃちょうけん砲手ほうしゅよう装填そうてんしゅよう別々べつべつかれ、のちには直視ちょくしがた防弾ぼうだんガラスはいりスリットのあるキューポラを装備そうびした1943ねんがた生産せいさんされ、視界しかいはある程度ていど改善かいぜんされたが、それでもハッチがおもいので現地げんちではロック機構きこうのスプリングをはずすなどしている。
  • 精密せいみつ機器ききとして場合ばあいおおくの問題もんだいがあった。トランスミッション故障こしょうしやすく寿命じゅみょうみじかかったり、防水ぼうすい加工かこう不十分ふじゅうぶん砲弾ほうだんらしたり電気でんきけい漏電ろうでんする危険きけんがあり、砲塔ほうとう回転かいてんようのモーターが負荷ふか火花ひばないたり、砲塔ほうとう回転かいてんギアの材質ざいしつ工作こうさく精度せいどわる破損はそんしたりした。これらの問題もんだいてんはアメリカに1りょう提供ていきょうされ、現在げんざいもアバディーンに展示てんじされている1941ねん戦時せんじ簡易かんいがた調査ちょうさでもあきらかになり、アメリカぐんにより記録きろくされている。しかしながら、のちにアメリカから提供ていきょうされた工作こうさく機械きかいなどにより改善かいぜんされた部分ぶぶんもある。
  • てきだん口径こうけいによっては被弾ひだんすると、てきだん貫通かんつうしてもしなくてもホプキンソン効果こうかにより装甲そうこう内壁ないへき剥離はくりしてり、乗員じょういん殺傷さっしょうする危険きけんがあった。これは、レンドリースされたべいえいせい戦車せんしゃニッケルおおふく装甲そうこう比較ひかくして顕著けんちょであった。当時とうじ乗員じょういんはなしによると、とく砲塔ほうとう乗員じょういん死傷ししょうりつたかかったという。大戦たいせん製造せいぞうされたT-34のほとんどが戦況せんきょう逼迫ひっぱくするなか急造きゅうぞうされたものであり、製造せいぞう使用しようされた素材そざいスクラップにされた旧式きゅうしき戦車せんしゃ自動車じどうしゃとう機械きかいるいをいったんかしてからさい利用りようされるのがほとんどであったことが理由りゆうとしてげられる。あたらしくニッケルとう素材そざい調合ちょうごうして装甲そうこうざい製造せいぞうする余裕よゆうが、戦時せんじソ連それんでは大戦たいせん後期こうきのぞいてあたえられなかったためだからこそである。

生産せいさんせい

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T-34は非常ひじょうたか生産せいさんせいほこり、損害そんがい上回うわまわかず次々つぎつぎ戦場せんじょう投入とうにゅうされた。

T-34は大戦たいせんちゅうだけで3まん5,000りょうあまり、T-34-85は2まん9,480りょう生産せいさんされ、合計ごうけいすると6まんりょう以上いじょうのぼり、アメリカぐんM4シャーマン生産せいさんすうをも上回うわまわ当時とうじ世界せかい最多さいた生産せいさんすうほこった。このため生産せいさんすうだけを最優秀さいゆうしゅう戦車せんしゃであるという意見いけんもある。しかしながら当時とうじソ連それんはレンドリースによってアメリカなどから戦車せんしゃジープ、トラックなどの提供ていきょうけ、生産せいさんりょく主力しゅりょく兵器へいきすべ振向ふりむけることができた。このことがこの生産せいさんすうおおきな要因よういんであったといわれる。

だい世界せかい大戦たいせん、T-34-85はチェコポーランドでも生産せいさんされ、共産きょうさんけん諸国しょこく中東ちゅうとう諸国しょこくとう輸出ゆしゅつされた。これら東欧とうおうせいは1944ねんがた製造せいぞうラインをいでつくられたが、表面ひょうめん仕上しあげや工作こうさく精度せいど大戦たいせんちゅうソ連それんせいよりく、また鋳型いがた変更へんこうされたため砲塔ほうとう形状けいじょうなどに微妙びみょうちがいがられる。

戦闘せんとう歴史れきし

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だい世界せかい大戦たいせん

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どくせん

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1941ねん6がつ22にち、ドイツはたい侵攻しんこう作戦さくせん、バルバロッサ作戦さくせん開始かいしした。ドイツぐん兵士へいしらは装備そうびおとったソ連それんぐんたたかうだけだとかんがえていたが、1941ねんなつにT-34が戦場せんじょうあらわれたことにより心理しんりてきなショックをけた(T-34ショック)。T-34は当時とうじ就役しゅうえきしていたドイツぐん戦車せんしゃのどれよりもすぐれており、ドイツぐん当初とうしょT-34を撃破げきはするのにかなり苦労くろうした。当時とうじのドイツぐん標準ひょうじゅんてき対戦たいせんしゃほうではT-34の分厚ぶあつ傾斜けいしゃ装甲そうこうには有効ゆうこうあたえられなかったからである。アルフレート・ヨードル日記にっきでも、リガにT-34があらわれたときはおどろいたようである。そのため、T-34はしばしばどくせんにおけるソ連それんぐん反撃はんげき象徴しょうちょうとされる。[7]。また、現代げんだい歩兵ほへい戦闘せんとうしゃのようにT-34のくるまじょうにタンクデサントとして歩兵ほへいせて移動いどうすることがあった。このれいはスターリングラードなどでられる。

1941ねんはT-34はドイツぐんすべての戦車せんしゃ有効ゆうこうたたかことができた。しかし新型しんがた戦車せんしゃであるT-34には深刻しんこく問題もんだいがあった。初期しょきのPomonフィルターにはほとんど防塵ぼうじん効果こうかく、ちりすながエンジンにはい故障こしょうさせた。変速へんそくとクラッチにも深刻しんこく機械きかいてきトラブルが頻発ひんぱつした。1941ねんなつ戦車せんしゃ損失そんしつすくなくとも半数はんすうは、ドイツぐん攻撃こうげきによるものではなく、故障こしょうによる損失そんしつであった(ただし、この統計とうけいにはT-34以前いぜんふる戦車せんしゃふくまれている)[7]修理しゅうりよう器材きざい不足ふそくしたため初期しょきのT-34はエンジンデッキのうえにスペアの変速へんそくんで戦場せんじょうかうのがめずらしいことではなかった。

1941ねんから1942ねんにかけてのふゆ、T-34はどろゆきなかでもうずまらずに移動いどうできる特長とくちょうかしてドイツぐん戦車せんしゃたいしてふたた優位ゆういった。T-34はドイツぐん戦車せんしゃ移動いどうできないような地形ちけいでも移動いどうできたのである。IVごう戦車せんしゃ性能せいのうおとリーフしきサスペンションせまくつたい使つかっていたためふかどろゆきなかしずやすかった[8]

当時とうじのドイツ歩兵ほへい部隊ぶたいだい部分ぶぶんPaK 36(37ミリたい戦車せんしゃほう)を装備そうびしていたが、これはT-34には効果こうかがなかった。バトル・オブ・フランスでは、PaK 36 はもっとうす部類ぶるい装甲そうこう以外いがいなに貫通かんつうできず、ただたい戦車せんしゃほう位置いちてきらせるだけでしかなかったため、「ドア・ノッカー」という異名いみょうったものだった。東部とうぶ戦線せんせんたたかっていたドイツぐん兵士へいしらはソ連それんぐん戦車せんしゃたたかうにはこの対戦たいせんしゃほうでは力不足ちからぶそくであるとかんがえ、よりおおきな牽引けんいんしきほう火力かりょくたよらねばならなかった。たとえば、かずすくないが効果こうかてきな5.0 cm ほうPaK 38新型しんがたでより強力きょうりょくな7.5 cm ほうPaK 4088ミリ高射こうしゃほうなどがあるが、88ミリ高射こうしゃほう戦場せんじょうはこむのが容易よういではなかった。しかしながら、それでもT-34がおおきな戦果せんかげるにはいたらなかった。それはソ連それんぐん戦車せんしゃ乗員じょういん練度れんどひくく、ソ連それんぐん指揮しきかん指揮しきつたなく、またT-34の配置はいちまばらであったからだった。当時とうじソ連それん戦車せんしゃ戦術せんじゅつ理解りかいあらい練度れんどてんでドイツぐんよりおとっていた。

1942ねんから1943ねんにかけて、ソ連それんぐんは1941ねん損害そんがい挽回ばんかいすること目指めざし、作戦さくせんめんでも進歩しんぽしつつあった。T-34の生産せいさん台数だいすう急増きゅうぞうしたが、生産せいさん能率のうりつげるための改善かいぜんおこなわれただけで、その設計せっけいはほぼ「凍結とうけつ」されたままだった。ソ連それん設計せっけいしゃらはいくつかの設計せっけいじょう欠点けってん修正しゅうせいする必要ひつようせい認識にんしきしていたが、その改良かいりょうおこなうと生産せいさんようする時間じかんながくなるため、改良かいりょう実施じっしされなかった。1943ねん、T-34の生産せいさんりょう平均へいきんで1300りょう/つきたっした[9]。これはドイツの1ヶ月かげつたりの戦車せんしゃ生産せいさんりょうよりかなりおおい。しかしながら、ソ連それんぐんつづ作戦さくせんめんでのつたなさによりドイツぐんよりもかなりおお戦車せんしゃうしなっていた。

圧倒的あっとうてきかずのT-34が戦場せんじょうあらわれ、重火器じゅうかき必要ひつようせいしたため、ドイツぐんほうこう初速しょそくおおきい PaK 40(75ミリたい戦車せんしゃほう牽引けんいんしきはししき両方りょうほうがあった)を多数たすう配置はいちするようになり、これらが1943ねんまでのたい戦車せんしゃほう主力しゅりょくとなった。また、おそくとも1942ねんまつごろから1943ねんちゅうごろにいたるまで、ドイツぐん強力きょうりょくティーガーじゅう戦車せんしゃおよびパンターちゅう戦車せんしゃ配備はいびはじめた。これらのことによって、T-34の改良かいりょう必要ひつようせいもまたたかまることとなった。こうしてできたT-34の改良かいりょうがたにはふたつの主要しゅよう形式けいしきがあった。ひとつは装甲そうこう強化きょうかした1942/43ねんがたで、燃料ねんりょう容量ようりょう信頼しんらいせい向上こうじょうし、砲塔ほうとう改良かいりょうされた。もうひとつは 85 mm 戦車せんしゃほうD-5(のちにZiS-S-53)を採用さいようしたあたらしい砲塔ほうとうつT-34-85である。T-34-85の火力かりょくはそれまでのF-34 76mm戦車せんしゃほうくらべるとおおきく向上こうじょうした。T-34につよ要望ようぼうされていた攻撃こうげきりょく強化きょうかはこのT-34-85において達成たっせいされたことになる。

それまでのすうねんたたかいのなかでは、ソ連それんぐん作戦さくせんはドイツぐん作戦さくせんくらべるとつたなかったが、ソ連それんぐん運用うんよう戦術せんじゅつ技術ぎじゅつたかめつつあり、また戦車せんしゃかずにおいて優位ゆういっていたことから、損害そんがいりつ減少げんしょうしていった[10]。1944ねん初期しょきから登場とうじょうしたT-34-85がたは、ドイツぐんIVごう戦車せんしゃIIIごう突撃とつげきほうよりも装甲そうこう機動きどうせいにおいてすぐれていたが、パンターほう装甲そうこうよりはおとっていた。ソ連それんがわ有利ゆうりてんは、T-34にくらべればパンターの台数だいすうはるかにすくなく稼動かどうりつひくてんであった。したがって、練度れんどたか乗員じょういん戦術せんじゅつてき条件じょうけんととのえば、T-34-85によってパンターを撃破げきはしえた。

開戦かいせん当初とうしょ、T-34はソ連それん戦車せんしゃうちのわずかすうパーセントにぎなかったが、終戦しゅうせんまでにソ連それん膨大ぼうだい戦車せんしゃ生産せいさん台数だいすうすくなくとも55パーセントをめるまでになっている([11]より。Zheltov 2001はよりおおきな数字すうじげている。)。終戦しゅうせんまでにはT-34は旧式きゅうしき戦車せんしゃわり、おおくの台数だいすう配備はいびできた。攻撃こうげきりょく防御ぼうぎょりょくではパンター、ティーガーらドイツぐん新鋭しんえい戦車せんしゃおとっていたものの、かず上回うわまわことができたのである。

ソ連それん満州まんしゅう侵攻しんこう (1945ねん8がつ)

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1945ねん8がつ9にち未明みめい機甲きこう部隊ぶたい通過つうか不可能ふかのう地形ちけい日本にっぽんぐんがわかんがえていた地帯ちたいとおってソ連それんぐん日本にっぽん占領せんりょう満州まんしゅう侵攻しんこうした。赤軍せきぐんしょ兵科へいか連合れんごう部隊ぶたい完全かんぜん奇襲きしゅう成功せいこうし、古典こてんてきじゅう包囲ほういせんがたなかで、T-34-85、IS-2IS-3ISU-152先鋒せんぽうとする強力きょうりょく長距離ちょうきょり貫入かんにゅう攻撃こうげき展開てんかいした。たいする日本にっぽんぐんは、すで精鋭せいえい部隊ぶたい戦線せんせんかれたのち兵力へいりょく減少げんしょうしており、さい配備はいび途上とじょうであった。日本にっぽんぐんのこされていた戦車せんしゃすべ後方こうほうかれ、戦闘せんとうには使用しようされなかった。日本にっぽんぐん陸軍りくぐん飛行ひこう戦隊せんたい工兵こうへい通信つうしんへいからの支援しえんもあまりられなかった。日本にっぽんぐんはある程度ていど抵抗ていこうしめしたが、かずしつども圧倒あっとうされた。これをけ、昭和しょうわ天皇てんのうは8がつ14にち降伏ごうぶく伝達でんたつしたが、関東軍かんとうぐんは8がつ17にちまで正式せいしき停戦ていせん命令めいれいっていなかった[12]

だい世界せかい大戦たいせん

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だい24歩兵ほへい師団しだんウィリアム・F・ディーン将軍しょうぐんみずからがM20スーパー・バズーカ撃破げきはした北朝鮮きたちょうせんぐんのT-34-85。

ソ連それんぐんでは後継こうけいT-54が1950ねん正式せいしき採用さいようされるまで、主力しゅりょく戦車せんしゃでありつづけた。T-34-85がたなどは、だい世界せかい大戦たいせんソ連それんから輸出ゆしゅつされて各地かくち使用しようされた。

たとえば、1950ねん6がつ朝鮮ちょうせん戦争せんそうにおける北朝鮮きたちょうせんぐん侵攻しんこう先鋒せんぽうは、やく120りょうのT-34-85を装備そうびしただい105機甲きこう旅団りょだんであった。だいいち侵攻しんこう部隊ぶたい韓国かんこくはいってからのちさらにT-34がおくまれた[13]

T-34はM24けい戦車せんしゃM4ちゅう戦車せんしゃM26パーシングちゅう戦車せんしゃM46パットンちゅう戦車せんしゃたたかったが、国連こくれんぐんセンチュリオン戦車せんしゃとは、いずれもたたかっていない。北朝鮮きたちょうせんぐんだい105機甲きこう旅団りょだんは、戦争せんそう初期しょきには韓国かんこくぐん歩兵ほへいや、アメリカぐんのスミス支隊したい、M24けい戦車せんしゃなどにたいして劇的げきてき勝利しょうりをおさめた。アメリカぐんだい世界せかい大戦たいせん時代じだいの2.36インチバズーカ依然いぜんとして使つかっていたが、これはT-34には無力むりょくであった[14]。しかしアメリカぐんのM26ちゅう戦車せんしゃ航空機こうくうきによる地上ちじょう攻撃こうげき、そしてアメリカぐん歩兵ほへいがアメリカから急遽きゅうきょ空輸くうゆされた3.5インチ・スーパー・バズーカ使つかはじめたことなどにより、北朝鮮きたちょうせんぐんのT-34の進撃しんげき速度そくど鈍化どんかした。

ともだい世界せかい大戦たいせん連合れんごうこく代表だいひょうする存在そんざいとなったM4ちゅう戦車せんしゃとのたたかいにおいては、主力しゅりょくとなった52口径こうけい76.2mm戦車せんしゃほうM1A2を搭載とうさいしたM4A3E8(イージーエイト)と59かい戦車せんしゃせんたたかい、T-34が47りょう撃破げきはされたのにたいして、M4ちゅう戦車せんしゃ完全かんぜん損失そんしつは10りょう10りょう損傷そんしょうしたが修理しゅうり復帰ふっき)であり、圧倒あっとうされている。、M26パーシングやM46パットンなどもふくめた、T-34たいアメリカぐん戦車せんしゃたたかいのキルレシオとしては、T-34が97りょう撃破げきはされたのにたいしてアメリカぐん戦車せんしゃ損失そんしつは34りょう(うち半数はんすう修理しゅうり復帰ふっき)であり、アメリカぐんがわ圧勝あっしょうわっている[15]

一連いちれん戦闘せんとう北朝鮮きたちょうせんぐんだい部分ぶぶん戦車せんしゃうしなった一方いっぽう国連こくれんぐんがわにはあたらしい装備そうび供給きょうきゅうされつづけ、1950ねん8がつになると形勢けいせい国連こくれんぐん有利ゆうりとなった。アメリカぐんによる9がつ15にち仁川にがわ上陸じょうりく作戦さくせんによって北朝鮮きたちょうせん補給ほきゅうられ、北朝鮮きたちょうせんぐん機甲きこう兵力へいりょく歩兵ほへいには燃料ねんりょう弾薬だんやく・その物資ぶっし補給ほきゅうされなくなった。その結果けっかとして北朝鮮きたちょうせんぐん退却たいきゃく余儀よぎなくされ、おおくのT-34と重火器じゅうかき放棄ほうきされた。北朝鮮きたちょうせんぐん朝鮮ちょうせん南部なんぶから撤退てったいしたこのときまでに、239りょうのT-34と74りょうSU-76うしなわれた[14]。その北朝鮮きたちょうせんぐん戦車せんしゃとはまれにしか出会であわなくなった[16]

フィンランド・パロラ戦車せんしゃ博物館はくぶつかん展示てんじされているT-34-76(手前てまえ)とT-34-85(おく)。
両者りょうしゃ砲塔ほうとう横部よこべには、継続けいぞく戦争せんそう当時とうじのフィンランドぐん国籍こくせきマークであったハカリスティえがかれている。

フィンランドぐん攻撃こうげきしてきたソ連それんぐんから鹵獲ろかくしたものや、ドイツぐんから戦中せんちゅう戦後せんごにかけて購入こうにゅうしたT-34を1960ねんまで使用しようしていた。それらは光学こうがくけいなどをフィンランドや西側にしがわ装備そうびによって改良かいりょうされていた。

またおおくの東欧とうおう諸国しょこくワルシャワ条約じょうやく機構きこう)の陸軍りくぐんでも採用さいようされ、1953ねん6がつ17にちひがしドイツにおける蜂起ほうきや1956ねんハンガリー動乱どうらん鎮圧ちんあつ使用しようされた。

ベトナム軍事ぐんじ博物館はくぶつかん展示てんじされているT-34-85。

T-34は、中東ちゅうとう戦争せんそうベトナム戦争せんそうチェコ事件じけんソマリア紛争ふんそう中越なかごえ戦争せんそうなどでも使つかわれ、1974ねんキプロス紛争ふんそうでは、キプロス国家こっか守備しゅびたいユーゴスラビアから供給きょうきゅうされた35りょうほどのT-34-85を装備そうびしていた。それは、民主みんしゅてき選挙せんきょ劇的げきてきにキプロス大統領だいとうりょうえらばれたマカリオス3せいギリシャキプロス合邦がっぽう運動うんどう中心ちゅうしん人物じんぶつされていた)が(ギリシャ軍事ぐんじ政権せいけんにとって。)想定そうていがい現実げんじつ主義しゅぎてき政策せいさくったため、ギリシャ(およ西側にしがわ諸国しょこく)との関係かんけい急速きゅうそく悪化あっかした。孤立こりつしたキプロスは、武器ぶき調達ちょうたつきゅうユーゴスラビアなどきゅう東側ひがしがわ諸国しょこくもとめ、少量しょうりょう装備そうび供与きょうよされた。T-34もそうした装備そうびひとつであった。しかし、そのマカリオスにたいして、皮肉ひにくにもギリシャ軍事ぐんじ政権せいけん煽動せんどうした1974ねん7がつ15にちのクーデターにおいてT-34がもちいられた。7がつ20日はつかのトルコぐんのキプロス侵攻しんこうにおいても、これらのT-34が広範囲こうはんい活動かつどうしたのが目撃もくげきされており、そのうちおもたたかいは20日はつかキオネリ英語えいごばんキュレニア英語えいごばんふたつのたたかいである(Drousiotis 2006)。

1996ねんユーゴスラビア紛争ふんそう使つかわれたセルビアじん勢力せいりょくのT-34-85。

冷戦れいせん終結しゅうけつのユーゴスラビア紛争ふんそうにおけるボスニア・ヘルツェゴビナ紛争ふんそうひとし地域ちいき紛争ふんそうにおいてもなお使つかわれている。1995ねん5がつ、ボスニアにおいてセルビアじんのT-34が国際こくさい連合れんごう保護ほごぐんのイギリス陸軍りくぐん王立おうりつ工兵こうへい(Royal Engineers)だい21連隊れんたい前哨ぜんしょう攻撃こうげきし、イギリスじん兵士へいし負傷ふしょうさせた[17]クロアチアはユーゴスラビアから25りょう乃至ないし30りょういだが、すで退役たいえきさせている。コソボ紛争ふんそうではユーゴスラビア陸軍りくぐんがT-34をNATO空爆くうばくたいするおとりとして使つかった。また、コソボ解放かいほうぐん若干じゃっかんすうのT-34を使用しようしていた。

アフガニスタンでもT-34は時々ときどき利用りようされている(T-34が有志ゆうし連合れんごうぐん(Coalition Force)にたいする攻撃こうげきもちいられたかどうかは不明ふめい)。イラクぐんは1990年代ねんだい初期しょきまでT-34を使用しようしていた。アンゴラソマリアなどのいくつかのアフリカ諸国しょこくにおいてもT-34-85を近年きんねんでも使用しようしている。キューバのT-34-85がアフリカで作戦さくせん行動こうどうをしているのも目撃もくげきされている。

レバノン内戦ないせんでは、PLOイスラム教いすらむきょう左派さは民兵みんぺい組織そしきおも運用うんようし、さらには一部いちぶキリスト教きりすときょう民兵みんぺい組織そしきイスラエルから供給きょうきゅうされたM50スーパーシャーマンとうとも使用しようしていた。

21世紀せいきはいっても実働じつどうするT-34-85が実戦じっせん使つかわれているれい存在そんざいしており、2011ねんリビア内戦ないせんでも前線ぜんせん活用かつようされたとの情報じょうほう多数たすうはいっている[よう出典しゅってん]

2006ねん、ハンガリーでのデモ活動かつどう市民しみんがわ展示てんじされていたT-34-85を稼働かどうさせたという情報じょうほうもある。

2015ねんには内戦ないせん状態じょうたいおちいったイエメンにおいて、T-34-85がSU-100ととももちいられているのが目撃もくげきされている[18]。イエメンのT-34-85は、主砲しゅほうだんに、戦中せんちゅう使つかわれていたとおるかぶとだんよりもはるかに強力きょうりょくな、戦後せんご開発かいはつの3UBK1つばさ安定あんてい成形せいけい炸薬さくやくだん使用しようしており、T-55程度ていど余裕よゆう貫徹かんてつ可能かのうであり、こうした新型しんがた弾薬だんやく使つかえば、大戦たいせん戦車せんしゃでも十分じゅうぶん脅威きょういとなる。

2019ねん1がつ10日とおかには、ラオス人民じんみんぐん配備はいびされていた30りょう退役たいえきし、ロシアに返還へんかんされた[19][20]

2020ねん、ロシア陸軍りくぐんだい4親衛しんえい戦車せんしゃ師団しだん「カンテミーロフスカヤ」にてT-34-85からなるT-34戦車せんしゃ大隊だいたい設立せつりつされた。

2022ねんロシアのウクライナ侵攻しんこうにおけるリシチャンシクのたたかでも、公園こうえんでモニュメントとしてかざられていたT-34-85がウクライナぐんにより稼働かどうさせられたものの放棄ほうきされ、ロシアぐん鹵獲ろかくされて検問けんもんしょかかしとして使用しようされている[21]

バリエーション

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T-34は、その生産せいさん工場こうじょうちがいと改良かいりょうにより細部さいぶことなるすうおおくのバリエーションがある。主砲しゅほう口径こうけいにより、T-34-76T-34-85大別たいべつされ、さらに(おも西側にしがわ研究けんきゅうにより)おも生産せいさんねん製造せいぞう工場こうじょうめい細分さいぶんされる。

なお、T-34-76はソ連それんではもともとたんT-34呼称こしょう、85 mm ほう搭載とうさいがた登場とうじょう区別くべつのためにT-34-76と呼称こしょうされるようになった。かつて、西側にしがわではT-34/76、T-34/85とう表記ひょうきするのが普通ふつうだったが、ソ連それん崩壊ほうかい以降いこう公表こうひょうされているロシアはつ資料しりょうではT-34-76、T-34-85とうとなっている。

各車かくしゃ比較ひかく[22]
形式けいしき T-34
1940ねんがた
T-34
1941ねんがた
T-34
1942ねんがた
T-34
1943ねんがた
T-43試作しさく T-34-85 T-44
重量じゅうりょう 26トン 26.5トン 28.5トン 30.9トン 34トン 32トン 31.9トン
主砲しゅほう 76.2 mm L-11 76.2 mm F-34 85 mm ZiS-S-53
搭載とうさいだんすう 76はつ 77はつ 77はつ 100はつ 60はつ 58はつ
燃料ねんりょう 460リットル 460リットル 610リットル 790リットル 810リットル 642リットル
航続こうぞく距離きょり 300 km 400 km 400 km 465 km 300 km 340 km 300 km
装甲そうこう 15 – 45 mm 20 – 52 mm 20 – 65 mm 20 – 70 mm 16 – 90 mm 20 – 90 mm 15 – 120 mm
生産せいさんコスト 27まん ルーブル 19まん3,000 ルーブル 13まん5,000 ルーブル 16まん4,000 ルーブル

1940ねん - 1941ねん

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アバディーンのアメリカ陸軍りくぐん兵器へいき博物館はくぶつかん展示てんじされているT-34-76 1941ねんがた。ドイツぐん鹵獲ろかくして、フランスで訓練くんれんようもちいていたものをアメリカぐんさい鹵獲ろかくかえった。後方こうほうソ連それんからおくられた1941ねん戦時せんじ簡易かんいがたえる。

その形状けいじょうから、「ピロシキ」とばれたひくい1940/41ねんがた砲塔ほうとう当初とうしょ圧延あつえん鋼板こうはん溶接ようせつがたのみであったが、じか量産りょうさんせいすぐれた鋳造ちゅうぞうせい砲塔ほうとう並行へいこう生産せいさんされるようになった。当時とうじソ連それん大型おおがた部品ぶひん鋳造ちゅうぞう技術ぎじゅつではドイツをおおきく上回うわまわっており、以後いごのT-34改良かいりょうがたIS-2などに積極せっきょくてき鋳造ちゅうぞうせい砲塔ほうとう採用さいようした。

しかし鋳造ちゅうぞう装甲そうこう製法せいほうじょうおなあつさの圧延あつえん鍛造たんぞう装甲そうこうよりいちわりほど強度きょうどおとり、鋳造ちゅうぞう砲塔ほうとう被弾ひだんすると、れることもすくなくなかった。また大戦たいせんちゅう粗製そせい濫造らんぞうのため空洞くうどう)が装甲そうこうなか発生はっせいし、さら強度きょうどとしていたれいもある。このため、当時とうじ乗員じょういんは「鋳造ちゅうぞう砲塔ほうとうは37 mm 高射こうしゃ機関きかん砲弾ほうだん程度ていど被弾ひだんですら安全あんぜんではなかったと」証言しょうげんしている。一方いっぽう圧延あつえん鍛造たんぞう傾斜けいしゃ装甲そうこう採用さいようしている車体しゃたい前面ぜんめん装甲そうこう乗員じょういんたちからおおくの信頼しんらいている。

T-34 1940ねんがた
1940ねん9がつより、ハリコフ機関きかんしゃ工場こうじょうだい183工場こうじょう)で最初さいしょ量産りょうさんされたかたで、30.5口径こうけい76.2 mm L-11戦車せんしゃほう搭載とうさいする。当初とうしょ溶接ようせつ砲塔ほうとうのみだったが、のちにほぼ同様どうようのスタイルの鋳造ちゅうぞう砲塔ほうとう搭載とうさいがた並行へいこう生産せいさんされるようになる。
T-34 1941ねんがた
1940ねんがたりゃく同型どうけい車体しゃたい砲塔ほうとうに41.6口径こうけいF-34 76mm戦車せんしゃほう初期しょき一部いちぶ車両しゃりょうはF-32)を搭載とうさいしたタイプで、当初とうしょ指揮しきかんしゃとして1940ねんがた並行へいこう生産せいさんのち完全かんぜんわった。生産せいさん途上とじょう新型しんがた操縦そうじゅうしゅハッチの導入どうにゅうなど各部かくぶしょう改良かいりょう逐次ちくじ導入どうにゅうされた。とく新型しんがた操縦そうじゅうしゅようハッチ導入どうにゅう車体しゃたいについては、従来じゅうらい1942ねんがたばれることがおおかったが、最近さいきんの(とくにロシア・ソースの)資料しりょうでは1941ねんがたふくめる。これらはおも生産せいさん簡略かんりゃくのための改修かいしゅうであったので、これをとくに1941ねん戦時せんじ簡易かんいがたぶことがある。ハリコフ機関きかんしゃ工場こうじょうつづき、スターリングラードトラクター工場こうじょう、さらにだい112工場こうじょうなどでも生産せいさんおこなわれるようになった。
T-34駆逐くちく戦車せんしゃ(T-34-57)
こう初速しょそくのZIS-4 57 mm たい戦車せんしゃほうZiS-2 57mmたい戦車せんしゃほう戦車せんしゃ搭載とうさいがた)を41ねんがた砲塔ほうとう搭載とうさいしたT-34駆逐くちく戦車せんしゃ資料しりょうによってはT-34-57とされるが、ソ連それんぐんにおける正式せいしき名称めいしょうではない)が1941ねん10がつから少数しょうすう量産りょうさんされ、だい21戦車せんしゃ旅団りょだん配備はいびされそのふゆモスクワのたたか投入とうにゅうされたが、戦果せんかげつつも11月ちゅう全滅ぜんめつしている。1943ねんには改良かいりょうがた57mmほうろくかく砲塔ほうとう搭載とうさいし、推定すいてい100りょう以上いじょうだい183ウラル戦車せんしゃ工場こうじょうさい生産せいさんされ、8がつ実戦じっせん投入とうにゅうされたが、T-34-85の量産りょうさんともな生産せいさん終了しゅうりょうした。

1942ねん - 1943ねん

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T-34-76(1943ねんがた)。

1942ねんがた以降いこうでは「チェリャビンスク砲塔ほうとう」とばれる六角形ろっかっけいじょう新型しんがた砲塔ほうとう使用しようされた。この砲塔ほうとう試作しさく戦車せんしゃT-34Mの砲塔ほうとうもと設計せっけいされ、鋳造ちゅうぞうせい外周がいしゅう圧延あつえん鋼板こうはんからなるてんばんわせた構造こうぞうをしていた。また、「チェリャビンスク砲塔ほうとう」に形状けいじょうであるものの、外周がいしゅう上面うわつらとのあいだなく、一体いったい成型せいけいされた「フォルモチカ」とばれる砲塔ほうとうがウラルマシ(国営こくえいだい9ウラルじゅう機械きかい工具こうぐ製造せいぞうしょ、UZTM[注釈ちゅうしゃく 10])で生産せいさんされていた。

「フォルモチカ」砲塔ほうとうかんしては、むかしからの鋳造ちゅうぞう一体いったい成型せいけいせつプレスでのねつあいだ鍛造たんぞうせつがあった。後者こうしゃは1994ねんにスティーヴン・ザロガの著書ちょしょにより発表はっぴょうされた。当初とうしょは 5000トンフォージングプレスもちいたとされたが、側面そくめんで52 mm もある装甲そうこう成型せいけい不可能ふかのう指摘してきされ、ザロガも翌年よくねん、1まんトンプレスであると訂正ていせいした。しかし、当時とうじソ連それん存在そんざいしない 2まんトンプレスでないと不可能ふかのうとする異論いろん、また現代げんだいのプレス業者ぎょうしゃからても不合理ふごうり工程こうていであるとの意見いけんもあり、いま真相しんそうはハッキリしていない。一説いっせつ[23]では52 mmあつというのは鋳造ちゅうぞうせいナットがた砲塔ほうとうでの数値すうちであり、実際じっさいにはよりうすい25~30 mm程度ていど鋼板こうはんをプレスしたもので、ウラジオストックで記念きねんとして展示てんじされている砲塔ほうとう [2] のように、うす装甲そうこう主砲しゅほう発射はっしゃ反動はんどうえられず、次第しだい下端かたん特徴とくちょうてきなたわみが発生はっせいするのではないか、とわれている。一方いっぽう他所よそでもこの砲塔ほうとうにキューポラきのT-34 [3]展示てんじされているが、こちらには下端かたんのたわみ具合ぐあいちいさい。

T-34 1942ねんがた
それまでのひくい、避弾けいはじめにはすぐれるもののせますぎた「ピロシキ」がた砲塔ほうとうわり、たかほうみみべつからだとなった「ナット」砲塔ほうとう搭載とうさいするタイプである。砲塔ほうとう上面うわつらおおきな1まいハッチは2まいちいさなまるハッチにあらためられ、それをけた姿すがたからドイツぐんには"ミッキーマウス"砲塔ほうとう通称つうしょうされた。1942ねんちゅうにフィンランドやドイツぐんがわ夏季かき攻勢こうせいであるブラウ作戦さくせんときから姿すがたあらわしている。なお、「ナット」砲塔ほうとう搭載とうさいがたを(下記かきの1943ねんがたわせて)1943ねんがたとする分類ぶんるいほうもあり、現在げんざいでもこの呼称こしょう採用さいようしている資料しりょうおおいので、混同こんどう留意りゅういする必要ひつようがある。
T-34 1943ねんがた
それまでのT-34のくるまちょう視界しかいわるさをあらためるため、「チェリャビンスク砲塔ほうとう砲塔ほうとう上面うわつら左側ひだりがわにキューポラを装着そうちゃくしたタイプ。

1943ねん以降いこう

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T-34-85。
T-34-85の後部こうぶフライング・ヘリテージ・コレクション
T-34-85 1943ねんがた
1943ねん12月に試作しさく完成かんせいした最初さいしょの 85 mm 戦車せんしゃほう搭載とうさいがたで、試作しさくちゅう戦車せんしゃT-43の砲塔ほうとうもとさら改良かいりょうした大型おおがた3にんよう砲塔ほうとうつ。搭載とうさいほう予定よていのZiS-53が完成かんせいせず、暫定ざんていてきにD-5Tが搭載とうさいされた。1944ねん1がつから3がつごろまでのみじか期間きかんだい112工場こうじょう生産せいさんされた。
T-34-85 1944ねんがた
T-34-85の戦中せんちゅうがたしゅ量産りょうさんがたで、ZiS-53の改良かいりょうがた、85 mm 戦車せんしゃほうZiS-S-53を搭載とうさい。1944ねん3がつごろから年末ねんまつまで、だい183工場こうじょう中心ちゅうしんおおくの工場こうじょう生産せいさんされた。
T-34-85 1945ねんがた
1944ねんから45ねんにかけて生産せいさんされた、戦中せんちゅうがたでは最終さいしゅうがた砲塔ほうとう旋回せんかい電動でんどうされたほかくるまちょうようハッチが大型おおがたいちまいものになり、フロントフェンダーがかくがたになった。また、車体しゃたい後部こうぶ煙幕えんまく展開てんかいようのタンクが装備そうびされるようになった。

1946ねん以降いこう

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T-34-85M(スターフィッシュホイール装備そうび
T-34-85 1946ねんがた
エンジンを V-2-34M に改良かいりょうとう
T-34-85 1960ねんがた
エンジンを V-2-3411 に改良かいりょうとう
T-34-85 1969ねんがた
T-34-85Mとも呼称こしょうされる。T-54/T-55けい形状けいじょうのスターフィッシュホイールの採用さいようとう

ドイツぐんでの分類ぶんるい

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ドイツぐんでも独自どくじに1940ねんがたをT-34A、1941ねんがたをT-34B、1941ねん戦時せんじ簡易かんいがたをT-34C、1942ねんがたをT-34D、1943ねんがたをT-34E、そして1942ねんがた砲塔ほうとう上面うわつらまで一体いったい成型せいけいされたタイプをT-34Fと分類ぶんるいした。もっとも、前述ぜんじゅつとおソ連それんでは76.2 mm ほう搭載とうさいがたすべてがたんに"T-34"であり、こまかい分類ぶんるいはされなかった。またソ連それんぐん新型しんがた戦車せんしゃ開発かいはつしていることをったドイツぐんは、あらたにあらわれたT-34-85をあやまって(べつ戦車せんしゃである)T-43んだ[注釈ちゅうしゃく 11]

ドイツぐん鹵獲ろかくしたT-34をPanzerkampfwagen T-34 747(r)づけ使用しようした(「Panzerkampfwagen」を「PzKpfw」と略記りゃっきする場合ばあいもある)[4]。そのまま使用しようしただけでなく、くるまちょうようキューポラやサイドスカートを増設ぞうせつしたり、対空たいくう戦車せんしゃなどにも改造かいぞうして使用しようしたれいもあった。

Panzerkampfwagen T-34 747(r)
ドイツぐんないでの鹵獲ろかくT-34の呼称こしょう
Flakpanzer T-34(r)
T-34-76車体しゃたい破損はそんした対空たいくうハーフトラックに搭載とうさいされていた2cm Flakvierling38 4連装れんそうたい空砲くうほう搭載とうさいした現地げんち改修かいしゅうモデル。だい653じゅう戦車せんしゃ駆逐くちく大隊だいたいによって製作せいさくされ、大隊だいたい本部ほんぶ運用うんようされた。

派生はせいがた

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大戦たいせんちゅうにもT-34MT-43(このしゅ戦車せんしゃまったくの別物べつものだが、ふる資料しりょうでは混同こんどうされている)といった装甲そうこう強化きょうかがた試作しさくおこなわれたが、それ以上いじょう火力かりょく増強ぞうきょう必要ひつようとされて却下きゃっかされ、わってT-34-85や後継こうけい戦車せんしゃとして開発かいはつされたT-44生産せいさんされた。

ソ連それんでは派生はせいしゃとして、下記かきはしほう生産せいさんされている(形式けいしき番号ばんごう搭載とうさい火砲かほう口径こうけいしめしている)。SU-85やSU-100は対戦たいせんしゃ戦闘せんとうした駆逐くちく戦車せんしゃ性格せいかくつよいが、ソ連それんではまとめてSU(СУ)=はしほう分類ぶんるいされている。

SU-122
SU-85以前いぜん開発かいはつされた、122 mm 榴弾りゅうだんほう M-30搭載とうさいしたはし榴弾りゅうだんほう
SU-85
85 mm たい戦車せんしゃほうD-5Sを搭載とうさいする駆逐くちく戦車せんしゃ
SU-100
強力きょうりょくな100 mm たい戦車せんしゃほうD-10Sを搭載とうさいするため、SU-85の戦闘せんとうしつ改良かいりょうしたもの。SU-100の車体しゃたい流用りゅうようし85 mm ほう搭載とうさいした車両しゃりょうはSU-85Mとばれる。
OT-34火焔かえん放射ほうしゃ戦車せんしゃ
T-34の車体しゃたい機銃きじゅうわりにATO-41火焔かえん放射ほうしゃのちにATO-42)を搭載とうさいしたもの。ベース車体しゃたいは1941ねんがた戦時せんじ簡易かんいがた)から1943ねんがたまで各種かくしゅある。1かいあたり10リットルの燃料ねんりょうもちいて10分間ふんかんに3かいと、あまりおお放射ほうしゃできるものではなかった。
OT-34-85火焔かえん放射ほうしゃ戦車せんしゃ
OT-34同様どうよう、T-34-85にATO-42火焔かえん放射ほうしゃ搭載とうさいしたもの。
PT-34
T-34やT-34-85の車体しゃたい前面ぜんめんにアタッチメントを装着そうちゃく、PT-3ローラーをけた地雷じらい処理しょりしゃ
T-34-T
戦闘せんとうしつ上面うわつら荷台にだいのあるタイプ。
T-34-T(TT-34)
T-34の砲塔ほうとうはずした牽引けんいん回収かいしゅう車両しゃりょう一部いちぶ重砲じゅうほう牽引けんいんしゃとしてももちいられた。
なお、“T-34-T”のばれる牽引けんいん回収かいしゅう車両しゃりょうにはいくつかのタイプがあり、たん砲塔ほうとうはずしただけのものから、砲塔ほうとうはずしてターレットリングの開口かいこうふさぎキューポラを設置せっちしたもの(キューポラのないタイプもある)、荷台にだい設置せっちしたものなど、種類しゅるいのバリエーションがある。
ひがしドイツぐんではT-34-Tの戦闘せんとうしつじょうにウィンチを装備そうびした改良かいりょうがた独自どくじ開発かいはつし、「T-34-TB」の名称めいしょう装備そうびした。
T-34-TO(TO-34)
T-34-Tの派生はせいがたで、各種かくしゅ整備せいび機材きざい搭載とうさいし、機関きかんしつ上面うわつらにデッキを新設しんせつしきのデリッククレーンを標準ひょうじゅん装備そうびとした整備せいび支援しえん車両しゃりょう。 1958ねんより余剰よじょうとなったT-34-85を改装かいそうして装備そうびされた。
SPK-5
SPK-5
T-54/55の部隊ぶたい装備そうび開始かいし余剰よじょうとなったT-34-85を改装かいそうしたもので、砲塔ほうとう撤去てっきょぜん周旋しゅうせんかい可能かのうなジブしきクレーン(能力のうりょく10トン)を搭載とうさいしたそう軌式はしクレーンしゃ。1955ねんより既存きそんしゃ改装かいそう装備そうびされた。
SPK-5/10M
SPK-5のクレーンを電気でんき油圧ゆあつ制御せいぎょしきとした改良かいりょうがた
AT-42
T-34の車体しゃたい流用りゅうようしたほう牽引けんいんしゃ操縦そうじゅうせき部分ぶぶんふく戦闘せんとうしつ大型おおがたし、機関きかんしつじょうほういん砲弾ほうだん搭載とうさいするために荷台にだい増設ぞうせつしている。
自重じちょうは17トンで、最大さいだい牽引けんいん重量じゅうりょうは15トン、さらに3トンまでの砲弾ほうだんおよ貨物かもつ搭載とうさいして時速じそく33キロで走行そうこう可能かのうであった。
1940ねんより開発かいはつ開始かいしされ、1941ねんには試作しさくしゃ完成かんせい実用じつよう試験しけん開始かいしされたが、どくせん開戦かいせんにより「T-34の生産せいさん担当たんとうする工場こうじょう生産せいさんりょく戦車せんしゃ生産せいさん以外いがいもちいるべきではない」と結論けつろんされたため、試作しさくのみにわった。
AT-45
AT-42同様どうようT-34の車体しゃたい流用りゅうようしたほう牽引けんいんしゃ。AT-42とはことなり、ソ連それんほか装甲そうこうがたほう牽引けんいんしゃおなじく、ボンネットトラックさま操縦そうじゅうせきキャビン荷台にだいつ。エンジンはT-34とことなり350馬力ばりきのディーゼルエンジンが搭載とうさいされている。自重じちょう19トンで、最大さいだい牽引けんいん重量じゅうりょう22トン、貨物かもつ搭載とうさいりょうは6トンで、最高さいこう時速じそく35キロで720kmの走行そうこう可能かのうであった。
ニジニ・タギル疎開そかいしていたハリコフ蒸気じょうき機関きかんしゃ工場こうじょう(ハリコフ機関きかんしゃ工場こうじょう、KhPZ)において1944ねんより開発かいはつされ、1945ねん奪還だっかんされ復興ふっこうしたハルキウだい75工場こうじょうにおいて量産りょうさん開始かいしされる計画けいかくであったが、T-44の開発かいはつ完了かんりょうともな生産せいさん体制たいせいがT-34からT-44に全面ぜんめんてきわることが決定けっていしたため、T-34の派生はせいがたであるほんしゃ量産りょうさん中止ちゅうしされ、やはり試作しさくのみにわった。
BLG-34
ひがしドイツぐん独自どくじ開発かいはつした架橋かきょう戦車せんしゃ。T-34の車体しゃたい大型おおがたしき(シザースしき)の戦車せんしゃきょう搭載とうさいしている。試作しさくのみ。

戦後せんごエジプトシリアなどでも、ソ連それんせいやチェコせいのT-34-85を独自どくじはしほうたい空自くうじはしほう改造かいぞうし、製作せいさく使用しようした。

T-34-100 (T-100)
T-34-100(T-100)
エジプトぐんが、余剰よじょうとなったT-34-85の砲塔ほうとうおおきくいて、ソ連それんせいBS-3/M1944 100 mm 野砲やほう搭載とうさいした対戦たいせんしゃ車輌しゃりょう駆逐くちく戦車せんしゃ)。砲塔ほうとうはオリジナルのT-34-85にたいして前後ぜんごぎゃくになっている。
T-34-122 (T-122)
T-34-100同様どうよう、エジプトぐん余剰よじょうとなったT-34-85の砲塔ほうとう側面そくめんこうめん切断せつだんし、溶接ようせつばこみの戦闘せんとうしつしてD-30 122mm榴弾りゅうだんほう搭載とうさいしたはしほう砲塔ほうとう容積ようせきはオリジナルの2ばいちかくに拡大かくだいしている。
T-34/D-30
シリアぐん車両しゃりょう
T-34/122(T-34/D-30)
シリアぐんでは砲塔ほうとう完全かんぜん撤去てっきょし、D-30 122 mm榴弾りゅうだんほう車体しゃたいじょううしきに搭載とうさいしたはしほうつくられている。キューバでは、T-34-85の砲塔ほうとう前半ぜんはんいて、どうほう前向まえむきに搭載とうさいしたはしほうつくられている。前面ぜんめん防弾ぼうだんばんも、D-30榴弾りゅうだんほうものがそのまま使つかわれている。これらは“T-34/122”もしくは“T-34/D-30”と呼称こしょうされている。 

なお、大戦たいせんちゅうソ連それんぐんにも、T-34-85をベースに砲塔ほうとう形状けいじょうそのあらため、試験しけんてきに100 mm 戦車せんしゃほう搭載とうさいした「T-34-100」が存在そんざいする。また、1942ねんにU-12 122mm榴弾りゅうだんほう搭載とうさいした車両しゃりょう計画けいかく試作しさくされ、これは「T-34Г(T-34G)」もしくは「T-34щ(T-34Sh)」の名称めいしょう計画けいかくされたが、“T-34-122”と通称つうしょうされていた。

主要しゅよう生産せいさん工場こうじょう

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どくせんによるドイツぐんソ連それん領内りょうない侵攻しんこうで、工場こうじょうだい規模きぼ疎開そかいおこなって生産せいさんつづけることとなった。これら数カ所すうかしょあった工場こうじょうによって砲塔ほうとう車体しゃたい構成こうせいなどがことなることがわかっている。

だい183工場こうじょう
ハリコフにあったハリコフ機関きかんしゃ工場こうじょうげんV・O・マールィシェウ記念きねん工場こうじょう)でT-34の設計せっけい試作しさくおこなわれ、初期しょきのT-34/1940ねんしき生産せいさんおこなわれた。この国営こくえいだい183ハリコフ機関きかんしゃ工場こうじょう別名べつめい コミンテルン、KhPZ)がどくせん開始かいしウラル山脈さんみゃく東方とうほうニジニ・タギル疎開そかいして現地げんちのウラル貨車かしゃ工場こうじょうウラルヴァゴンザヴォート)と併合へいごう国営こくえいだい183ウラル戦車せんしゃ工場こうじょう別名べつめい ヨシフ・スターリン、UTZ)に改名かいめいして操業そうぎょう。T-34の開発かいはつ工場こうじょうであり、戦中せんちゅうとおしT-34生産せいさん中核ちゅうかくになった。
スターリングラード・トラクター工場こうじょう別名べつめい F.ジェルジンスキー、STZ)
スターリングラード(げんヴォルゴグラード)にあった。立地りっち条件じょうけん問題もんだいか、独自どくじ形状けいじょう起動きどう緩衝かんしょうゴム内蔵ないぞうはがねせいリムてん[注釈ちゅうしゃく 12]独特どくとく装甲そうこうばん構成こうせい砲塔ほうとう車体しゃたいなど、生産せいさんすすむに独特どくとく仕様しようおお車両しゃりょう生産せいさんした。工場こうじょう疎開そかいのため生産せいさんラインがじてしまい、一時期いちじきはT-34を生産せいさんしている唯一ゆいいつ工場こうじょうとなった。このためスターリングラード攻防こうぼうせん最中さいちゅうにも生産せいさんつづけられ、塗装とそうもされていないT-34が工員こういんにより直接ちょくせつ前線ぜんせんかったとのせつもある。結局けっきょく施設しせつ灰燼かいじんかえし、生産せいさん再開さいかいしたのは戦後せんごになってからであった。
だい112工場こうじょう国営こくえいだい112クラスノヤ・ソルモヴォ工場こうじょう
ゴーリキー(げんニジニー・ノヴゴロト)にあった。なお、この工場こうじょう生産せいさんされたT-34(1941ねん戦時せんじ簡易かんいがた)の初期しょき638りょうは、わるくV-2ディーゼルエンジンの製造せいぞう工場こうじょう疎開そかいちゅう入手にゅうしゅ困難こんなんだったため、やむをM-17TガソリンエンジンBT-7ようにライセンス生産せいさんしていた、BMW航空機こうくうきようエンジンを戦車せんしゃよう改造かいぞうしたもの)を搭載とうさいしている。外見がいけんじょう後部こうぶまる点検てんけんハッチが標準ひょうじゅんがたよりやや小径しょうけい車体しゃたい中央ちゅうおうっており、ハッチを固定こていするボルトが4つしかないことで識別しきべつできる。もっとおそくまで「ピロシキ」がた砲塔ほうとう搭載とうさいの1941ねん戦時せんじ簡易かんいがた生産せいさんした一方いっぽうで、最初さいしょにT-34-85を生産せいさんした工場こうじょうでもある。
だい100工場こうじょう国営こくえいだい100キーロフスキー工場こうじょう
レニングラードげんサンクトペテルブルク)にあった。どくせん開始かいし、ウラル山脈さんみゃく東方とうほうチェリャビンスク疎開そかい。もともと現地げんちにあったトラクター工場こうじょう合体がったいし、巨大きょだい戦車せんしゃ生産せいさんコンビナートタンコグラード形成けいせいする。
だい9工場こうじょう国営こくえいだい9ウラルじゅう機械きかい工具こうぐ製造せいぞうしょ、UZTM)
スヴェルドロフスクげんエカテリンブルク)にあった。当初とうしょはシャーシ、砲塔ほうとうのみの製造せいぞうおこな工場こうじょうだったが、のち独自どくじ生産せいさん
だい174工場こうじょう国営こくえいだい174工場こうじょうヴォロシーロフ製造せいぞうしょ
レニングラードの工場こうじょうオムスク疎開そかいして成立せいりつ

ライセンス生産せいさん

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だい世界せかい大戦たいせん、「友好国ゆうこうこく」に生産せいさんラインの設備せつび譲渡じょうとされ、ライセンス生産せいさんもおこなわれている。

生産せいさんこく

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ポーランドの生産せいさんがた、T-34-85M2
ポーランド
T-34-85の1944ねんがたが1951ねんから1955ねんにかけて生産せいさんされ、おおくがワルシャワ条約じょうやく同盟どうめいこく売却ばいきゃくされた。ソ連それんせいのT-34のかなりのかず戦時せんじ急増きゅうぞうによる粗製そせい乱造らんぞうひんであったため、それらにくらべて戦後せんご生産せいさんがたであるポーランドせい車両しゃりょうしつたかく、設計せっけい本来ほんらい性能せいのう発揮はっきできた、と評価ひょうかされている。ポーランドせい車両しゃりょうは、ソ連それんせいのどの工場こうじょうせいとも微妙びみょうことなる外形がいけい砲塔ほうとうち、砲塔ほうとう表面ひょうめん鋳造ちゅうぞうはだなめらかになっている。
T-34-85M1
T-34-85 1960ねんがたじゅんじたかた。スパイダーホイールが使用しようされている。
T-34-85-M2
T-34-85 1969ねんがたじゅんじたかた渡渉としょう能力のうりょく追加ついかされており、T-54/55けいたツールボックスやシュノーケルを装備そうびするなど、改良かいりょうほどこされている。T-54/T-55けい形状けいじょうのスターフィッシュホイールが採用さいようされた。
WPT-34
CW-34
後述こうじゅつのチェコスロバキアせい回収かいしゅうしゃがた、VT-34にじゅんじてポーランドで製造せいぞうされた戦車せんしゃ回収かいしゅうしゃ
WPT-34
CW-34の能力のうりょく向上こうじょうがたとして1960ねんより装備そうびされた戦車せんしゃ回収かいしゅうしゃ。より大型おおがた固定こていしき戦闘せんとうしつとシュノーケル装置そうち装備そうびしている。大半たいはん車両しゃりょうはSU-85およびSU-100を改造かいぞうして生産せいさんされた。
チェコスロバキア
チェコ生産せいさんがたのT-34-85の車体しゃたい後部こうぶ
1958ねんまでポーランドより多数たすう生産せいさん中東ちゅうとう輸出ゆしゅつされた。とくシリアぐん中東ちゅうとう戦争せんそう使用しようしたT-34-85はほぼすべてがチェコ生産せいさんがたである。ポーランドせい車両しゃりょう同様どうように、ソ連それんせいのものにくらべて工業こうぎょうてき品質ひんしつたかいと評価ひょうかされた。ポーランドせい車両しゃりょう同様どうよう、チェコ生産せいさんがたソ連それんせいのどの工場こうじょうせいとも微妙びみょうことなる外形がいけい砲塔ほうとうち、砲塔ほうとう表面ひょうめん鋳造ちゅうぞうはだなめらかになっている。
チェコスロバキアの生産せいさんがたはT-34-85CZと通称つうしょうされており、車体しゃたいリアパネルのヒンジが、ソ連それんだい174工場こうじょう同様どうようおおきなもので、排気はいきかんカバーは通称つうしょう柏葉はくようがたとうばれる、ボルト取付とりつけのみが突出とっしゅつしている形状けいじょうもの使用しようしている(柏葉はくようがた排気はいきかんカバーは戦時せんじちゅうソ連それん生産せいさんがたにもられるバリエーション)。
MT-34
T-34の車体しゃたいしき(シザースしき)のPM-34戦車せんしゃきょう搭載とうさいした架橋かきょう戦車せんしゃ。1950ねんより生産せいさん
JT-34
JT-34
大戦たいせんチェコスロバキアが独自どくじ開発かいはつしたそう軌式はしクレーンしゃ砲塔ほうとうわりにぜん周旋しゅうせんかい可能かのうなブームしきクレーンを搭載とうさいしている。1957ねんより開発かいはつ計画けいかくはじまり、1963ねんから1966ねんにかけてやく80りょう生産せいさんされた。チェコスロバキアのインドとモロッコにも少数しょうすう輸出ゆしゅつされて使用しようされた。
VT-34
VT-34
チェコスロバキアが独自どくじ開発かいはつした戦車せんしゃ回収かいしゅうしゃ大型おおがた固定こていしき戦闘せんとうしつ増設ぞうせつ車内しゃないにはウィンチを装備そうびし、車体しゃたいめんには作業さぎょう車体しゃたい安定あんていさせるための大型おおがたちゅうすき装備そうびしている。
中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく
中国ちゅうごくではソ連それん技術ぎじゅつ指導しどうもとにT-34-85をフルコピーしたものを58しき戦車せんしゃとして生産せいさんした。中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく建国けんこく当初とうしょであり、工業こうぎょう技術ぎじゅつ基盤きばん整備せいび発達はったつであったため、ソ連それんせいよりも工作こうさく精度せいどひくいものがおおく、工業こうぎょう製品せいひんとしての信頼しんらいせい問題もんだいがあるものがおおかった。にもかかわらず、人民じんみん解放かいほうぐん主力しゅりょく戦車せんしゃとするべく大量たいりょう生産せいさん企画きかくされ、独自どくじ改良かいりょうがた生産せいさんされたが、制式せいしき翌年よくねんにはT-54A戦車せんしゃのコピー生産せいさんひんである59しき戦車せんしゃ完成かんせいしたため、58しき生産せいさんほどなく中止ちゅうしされ、生産せいさんラインは59しきえられた。
58しき戦車せんしゃ(Type58)
T-34-85 1945ねんがたのフルコピー生産せいさんがたのちだい多数たすうはIIがた改装かいそうされた。
58しき戦車せんしゃIがた(Type58-I)
くるまちょうようハッチをドームがたのものとし、12.7mm機関きかんじゅうのマウントを標準ひょうじゅん装備そうびとしたかた
58しき戦車せんしゃIIがた
58しき戦車せんしゃIIがた(Type58-II)
装填そうてんしゅようハッチもくるまちょうようおなじく12.7mm機関きかんじゅうマウントを装備そうびしたキューポラがたとしたかた

なお、59しき戦車せんしゃ完成かんせいは59しきよう装備そうびひんが58しき戦車せんしゃにも追加ついか装備そうびされ、サーチライトとその架台かだい新型しんがた照準しょうじゅんなどが装着そうちゃくされている。それらの改修かいしゅう車両しゃりょう西側にしがわ分類ぶんるいでは“Type58-IIM”と呼称こしょうされている。

65しきたい空自くうじはしほう
アバディーンのアメリカ陸軍りくぐん兵器へいき博物館はくぶつかん展示てんじされている65しきたい空自くうじはしほう
中国ちゅうごくぐんが58しき戦車せんしゃ車体しゃたいに65しき対空たいくうほうソ連それん61-K 37mmたい空砲くうほう国産こくさん発展はってんがた)を搭載とうさいしたたい空自くうじはしほうベトナム戦争せんそう投入とうにゅうされた。ふる文献ぶんけんでは「きたベトナム現地げんち改修かいしゅうかたち独自どくじ製作せいさくした」と記述きじゅつされているが、中国ちゅうごくぐん制式せいしき装備そうびである。

これらのほか、T-34-Tがソ連それんより供与きょうよおよ購入こうにゅうされて使用しようされており、58しき戦車せんしゃ一部いちぶ同様どうよう戦車せんしゃ回収かいしゅうしゃ改装かいそうされて使用しようされた。

生産せいさん中止ちゅうしこく

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  • ユーゴスラビア - T-34-85を供与きょうよされたユーゴスラビアでは、これをリバースエンジニアリングうえ参考さんこうにした「Teski Tenk Vozilo A(じゅう戦車せんしゃAがた[注釈ちゅうしゃく 13]」を製作せいさくし、量産りょうさんする予定よていであったが、ソ連それんとの関係かんけい悪化あっかで9りょう試作しさくしたところで中止ちゅうしされた。しばしばT-34-85と間違まちがわれることもあるが、車体しゃたい前面ぜんめん左右さゆう傾斜けいしゃ砲塔ほうとう形状けいじょう主砲しゅほうのマズルブレーキなどがことなる、ユーゴスラビアが独自どくじ製造せいぞうした唯一ゆいいつ戦車せんしゃである。かわりにアメリカからM4シャーマン供与きょうよけている。T-34-85の装備そうび自体じたいはそのながらくつづけられた。
  • 北朝鮮きたちょうせんでは朝鮮ちょうせん戦争せんそうもT-34の装備そうび継続けいぞくしたが、自国じこくでの生産せいさん一切いっさいおこなっていない。


運用うんようこく

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現在げんざい運用うんようこくあお)と過去かこ運用うんようこくあか

現在げんざい運用うんようこく

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現存げんそんする車両しゃりょう

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モスクワにおけるどくせん戦勝せんしょう記念きねんパレード(2018ねん

T-34は大量たいりょう生産せいさんされたため、はん世紀せいき現在げんざいでもすうひゃく程度ていど現存げんそんしている。だいさん世界せかいぐんにおいてだいせんきゅう兵器へいきとして保管ほかんされている車両しゃりょうおもにT-34-85)は、21世紀せいきはいった現在げんざいでも数多かずおおくあるとられている。

2010ねんのモスクワにおけるロシアたいナチス・ドイツ戦勝せんしょう65周年しゅうねんパレードでは現存げんそんするT-34やSU-100などがパレードにはし参加さんかした。2015ねん10がつ北朝鮮きたちょうせん平壌ぴょんやん開催かいさいされた朝鮮ちょうせん労働党ろうどうとう70しゅうねん記念きねん軍事ぐんじパレードでも、起動きどうくつたいをT-54/55のものにかわそうしたT-34-85の近代きんだい改修かいしゅうがた参加さんかしている。

よりふるいT-34-76にかんしては、現存げんそんする有名ゆうめいなものとしてはアメリカ・メリーランドしゅうアバディーンアメリカ陸軍りくぐん兵器へいき博物館はくぶつかん所蔵しょぞうする1941ねんがたのT-34がある。これはきゅう西側にしがわ現存げんそんする車輛しゃりょうとしては最古さいこきゅうのものだった。さらふるい76mm L-11ほう搭載とうさいした1940ねんがたのT-34は、ロシア、ベラルーシにすくなくともかく1りょう、1941ねんがたおよび1941ねん戦時せんじ簡易かんいがた最近さいきんになってむかし戦場せんじょうから回収かいしゅうされたものをふくすくなくとも10りょう以上いじょう現存げんそんする。フランスソミュールにある「Musée des Blindés(ソミュール戦車せんしゃ博物館はくぶつかん」では2輛のT-34を保有ほゆうしており、そのうちいち輛は完全かんぜん稼働かどうする状態じょうたいで、それはなつの「Carrousel」戦車せんしゃ走行そうこう展示てんじかいにおいて、走行そうこうする様子ようす展示てんじされる。フィンランドが継続けいぞく戦争せんそうちゅう鹵獲ろかくした1941ねんがた(Ps.231-1)も走行そうこう可能かのう状態じょうたいとなっている[24]。ナット砲塔ほうとう搭載とうさいした1942ねんがた・1943ねんがたはさらにおおく、走行そうこう可能かのう状態じょうたいまでレストアされたものもおおい。

T-34の耐久たいきゅうせいは、最近さいきん修復しゅうふく作業さぎょうにおいてもしめされた。エストニアで56年間ねんかんにわたってぬまそこにあった1943ねんがたのT-34が、2000ねん復活ふっかつした[25]。その戦車せんしゃはドイツぐんによって鹵獲ろかくされ、退却たいきゃくちゅうのドイツぐん使用しようしたが、その燃料ねんりょうれたところでドイツぐんぬまなか投棄とうきしたものであった。あぶられ・さび・そのすいによる機械きかい系統けいとうへの損傷そんしょう徴候ちょうこうられなかった。エンジンは完全かんぜん稼働かどうする状態じょうたい回復かいふくした[26]

2019ねん1がつ10日とおかにはラオス稼働かどう状態じょうたいだった30りょうのT-34/85が退役たいえきし、協定きょうていによりロシアに返還へんかんされるとほうじられた[27]戦後せんごにチェコスロバキアで生産せいさん輸出ゆしゅつされた型式けいしきでベトナムに納入のうにゅう、ラオスにわたされたものという[28]。ロシアでは博物館はくぶつかん展示てんじのほか、戦争せんそう映画えいが軍事ぐんじパレードでもちいられる予定よてい。その2020ねん6がつ24にちにロシアの戦勝せんしょう記念きねんパレードではしする大量たいりょうのT-34-85がかくメディアで報道ほうどうされた。 2023ねん5がつのモスクワでおこなわれたパレードには、このうちの1りょうのみが、ほんパレード唯一ゆいいつ戦車せんしゃとして登場とうじょうしたと報道ほうどうされており、未確認みかくにんながらT-34-85がウクライナへの軍事ぐんじ侵攻しんこう使用しようされている可能かのうせいしめされている(一方いっぽう地域ちいきでのパレードには複数ふくすう戦車せんしゃ登場とうじょうしたという報道ほうどうもあり、本当ほんとうにロシアがT-34-85をウクライナに出撃しゅつげきさせているのかについては不明ふめいてんおおい)。

民間みんかんにおける現存げんそん車両しゃりょう

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T-34のかくかたは、世界せかい各地かくち軍事ぐんじ博物館はくぶつかん収蔵しゅうぞうひんとして展示てんじされているほか、100輛以じょう戦争せんそう記念きねんのモニュメントとして展示てんじされている。コレクターやマニアの私有しゆうぶつとして保有ほゆうされている車両しゃりょうもあり、武装ぶそうされて運転うんてん可能かのう状態じょうたい戦車せんしゃは、2まんから4まんあめりかドルあいだ取引とりひきされている。

そのに、民間みんかんおも映画えいが製作せいさく使用しようされているものもある。だい世界せかい大戦たいせん題材だいざいとしたおおくの映画えいがたとえば『ネレトバのたたか』『戦略せんりゃくだい作戦さくせん』『ちかいの休暇きゅうか』『プライベート・ライアン』など)では、T-34-85戦車せんしゃティーガーI戦車せんしゃえるように改装かいそうして使用しようした。これは実働じつどうするティーガーIを撮影さつえいようもちいることがむずかしかったためである。

これらの改造かいぞうティーガーは改造かいぞう度合どあいにもよるが、ティーガーIにそれなりにている。しかし車体しゃたいはばせまさ、砲塔ほうとう位置いち(T-34の砲塔ほうとう車体しゃたいのかなりぜんりにある。)、うたてくつたい形状けいじょうなどから見分みわけられる。

べつ有名ゆうめいれいとして、マンデラ・ウェイのT-34戦車せんしゃがある。これは個人こじん所有しょゆうのT-34-85で、それがかれているとおりのにちなんで、こうばれている。マンデラ・ウェイはロンドンのBermondseyちかくにある。このT-34は画家がか落書らくが芸術げいじゅつたちによって、頻繁ひんぱんえられている。

登場とうじょう作品さくひん

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T-34は、だい世界せかい大戦たいせんにおけるソ連それんぐん主力しゅりょく戦車せんしゃの1つであり、だい世界せかい大戦たいせんあつかった作品さくひんには頻繁ひんぱん登場とうじょうしている。

映画えいが

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T-34は現存げんそん車両しゃりょうおおいこともあり、だい世界せかい大戦たいせんあつかった戦争せんそう映画えいがには数多かずおお登場とうじょうする。ソ連それんぐん戦車せんしゃとしてのほかに、外観がいかんはそのままにドイツぐん国籍こくせき標識ひょうしきえがかれて「ドイツ戦車せんしゃ」として登場とうじょうするれいおおい。「現存げんそんする車輛しゃりょう」のこうべたように、だい改造かいぞうほどこされてティーガーIそののドイツ戦車せんしゃした外観がいかん改装かいそうされて登場とうじょうしているれいもある。

邦画ほうが

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ゴジラvsモスラ
怪獣かいじゅうバトラ陸上りくじょう自衛隊じえいたい名古屋なごや交戦こうせんするシーンで、なぜか1りょう74しき戦車せんしゃ61しき戦車せんしゃなどの自衛隊じえいたい戦車せんしゃじって一瞬いっしゅんだけ登場とうじょう登場とうじょうしているのは砲塔ほうとう形状けいじょうより76で、撮影さつえい実物じつぶつではなく模型もけい使用しようした特撮とくさつとなっている。どうシーンをよくると自衛隊じえいたい戦車せんしゃではないレオパルト1M48パットンらしき戦車せんしゃじっていることから、T-34もふくめてすうわせで登場とうじょうさせられたとみられる。
戦争せんそう人間にんげん
だいさん完結かんけつへん』においてノモンハン事変じへんのシーンに登場とうじょう。なお、登場とうじょうしているのは85だが、ノモンハン事変じへん時点じてんでT-34自体じたいがまだ実戦じっせん投入とうにゅうされていないので、歴史れきし考証こうしょうてきにはあやまりである。
このシーンはモスフィルムとの提携ていけいにより、ソ連それんロケを敢行かんこうしてソ連それんぐん全面ぜんめん協力きょうりょくした撮影さつえいされた。『ヨーロッパの解放かいほう』のフィルムからも映像えいぞう流用りゅうようされている。

外国がいこく映画えいが

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Czterej pancerni i pies』(『4にん戦車せんしゃへいと1ひきいぬ』)
ポーランドのテレビ映画えいが。1966ねん・1969ねん・1970ねんわたり3シリーズ、けい21制作せいさくされて放映ほうえいされた。
主人公しゅじんこうたちの戦車せんしゃとして85が全編ぜんぺんにわたって登場とうじょうする。原作げんさくストーリーでは、102号車ごうしゃ「RUDY」ごうは、当初とうしょは76mmほうがた乗員じょういん4めい)であるが、テレビ映画えいがでは、当時とうじ手配てはい容易よういだった85mmほうがたが、全編ぜんぺんにわたり「RUDY」ごうえんじている。
なお、この作品さくひん主人公しゅじんこう乗車じょうしゃする「RUDY」ごうとして、車体しゃたい砲塔ほうとう各所かくしょひらいたカットモデルも撮影さつえいよう使つかわれており、現在げんざいもポーランドの博物館はくぶつかん現存げんそんしている[注釈ちゅうしゃく 14]
また、ティーガーIじゅう戦車せんしゃ改造かいぞうされたものがおもだい3もちいられる。この改造かいぞうティーガーはツィンメリット・コーティングほどこされているほか車体しゃたい側面そくめんのフェンダー(泥除どろよけ)を下方かほうれる形状けいじょうにアレンジしてうたてだい部分ぶぶんかくしているので、T-34の改造かいぞうだということが一見いっけんではわかりづらいものとなっている(だい3シリーズには改造かいぞう程度ていど小規模しょうきぼ(85であることがはっきりとわかるもの)も登場とうじょうしている)。だい1シリーズにはパンターちゅう戦車せんしゃ改造かいぞうされたものも登場とうじょうする。
アントマン
縮小しゅくしょうした85をハンクがキーチェーンで携帯けいたいしていた。クライマックスで、ピムおやむすめ拡大かくだいさせて搭乗とうじょうし、爆薬ばくやく爆破ばくは時間じかんせまるピム・テック本社ほんしゃから脱出だっしゅつする。
サンチャゴにあめ[注釈ちゅうしゃく 15]
チリ・クーデター題材だいざいとしたフランスブルガリア合作がっさく映画えいが。ロケブルガリアぐん車両しゃりょうチリぐん装備そうびしていたM41けい戦車せんしゃせて改造かいぞうした車両しゃりょう登場とうじょう
戦闘せんとうシーンのフィルムは松竹しょうちく映画えいが皇帝こうていのいないはちがつ』にも流用りゅうようされている。
戦争せんそうのはらわた
ソ連それんぐん戦車せんしゃとして85が登場とうじょう。ロケユーゴスラビアぐん所属しょぞく戦後せんごせい車両しゃりょうである。
地下水ちかすいどう
ポーランド映画えいが外観がいかん改装かいそうされドイツぐん戦車せんしゃとして登場とうじょう作中さくちゅう台詞せりふでは「タイガー戦車せんしゃ」とばれている。
ナバロンのあらし
ドイツぐん戦車せんしゃとして登場とうじょう。『戦争せんそうのはらわた』とおなじく、ロケのユーゴスラビアぐん車両しゃりょうである。
はし
外観がいかん改装かいそうされ「M4 シャーマン」として登場とうじょう
むらさき
満州まんしゅう侵攻しんこう舞台ぶたいとした中国ちゅうごく映画えいが。58しき戦車せんしゃIIがたソ連それんぐんの85として登場とうじょう
ソ連それん・ロシア映画えいが
[編集へんしゅう]
T-34 ナチスがおそれた最強さいきょう戦車せんしゃ
主任しゅにん設計せっけいしゃミハイル・コーシュキン主人公しゅじんこうにした作品さくひん
T-34 レジェンド・オブ・ウォー
冒頭ぼうとう主人公しゅじんこうらがる76が一両いちりょう登場とうじょう多数たすうのドイツ戦車せんしゃ相手あいて奮戦ふんせんするが戦闘せんとう不能ふのうとなり、主人公しゅじんこうらもドイツぐん捕虜ほりょとなる。その捕虜ほりょとなった主人公しゅじんこうらがドイツぐん鹵獲ろかくした85にせられ、ドイツぐん戦車せんしゃ演習えんしゅう標的ひょうてきやくとなるなかで、85とともに収容しゅうようしょ脱出だっしゅつ演習えんしゅう相手あいてだった士官しかん候補こうほせい車両しゃりょうや、主人公しゅじんこうらを追撃ついげきするドイツのVごう戦車せんしゃパンター撃破げきはする活躍かつやくせる。
おに戦車せんしゃT-34
76が登場とうじょう。フィルム流用りゅうよう関係かんけいじょう、カットによっては85が登場とうじょうする。
ホワイトタイガー ナチス極秘ごくひ戦車せんしゃ宿命しゅくめい砲火ほうか
76および85が登場とうじょう
『モスクワだい攻防こうぼうせん
76が登場とうじょう。1940ねんがたおよび1941ねんがた登場とうじょうするが、これらは85、それも戦後せんごがた生産せいさんしゃ車体しゃたい砲塔ほうとうだけをかわそうしたもので、本来ほんらいの1940/1941ねんがた車両しゃりょうとは車体しゃたい各所かくしょことなっている。また、T-34をだい改造かいぞうしたBT-5も登場とうじょうしている。
ヨーロッパの解放かいほう
76および85が登場とうじょう。なお、クルスクのたたかのシーンに85が大挙たいきょ登場とうじょうしているが、歴史れきし考証こうしょうてきにはあやまりである。

これらの作品さくひん以外いがいにもT-34の登場とうじょうする映像えいぞう作品さくひんおおい。

ARMA 2
ゲリラ陣営じんえい戦闘せんとう車両しゃりょうの1つとして登場とうじょうし、プレイヤーやAI操作そうさ可能かのう
War Thunder
ソ連それん陸軍りくぐんちゅう戦車せんしゃツリーに登場とうじょう通常つうじょうツリーにT-34-76は1940ねんがた, 1941ねんがたおよびその装甲そうこう強化きょうかがたのT-34 STZ・1942ねんがた・T-34-85(D-5T)・T-34-85・T-34-57(1941)、プレミア車両しゃりょうに、試作しさくがた・T-34E・T-34-57(1942)・T-34-85E(スペースドアーマいちとして金網かなあみけたもの)・T-34-100などが実装じっそうされている。ドイツ陸軍りくぐんプレミアム車両しゃりょうにT-34 747(r)として42ねんがた装甲そうこう強化きょうかがたくるまちょうようキューポラをけたものが購入こうにゅう可能かのう中国ちゅうごく陸軍りくぐん通常つうじょうツリーにT-34(1943)・T-34-85 Gai(12.7mmDshkじゅう機関きかんじゅうをキューポラにけたもの)・T-34-85(S-53)・対空たいくう戦車せんしゃとしてT-34の車体しゃたい使用しようしたType 65 SPAAがプレミアム車両しゃりょうにT-34-85(No.215)が購入こうにゅう可能かのう開発かいはつまたは購入こうにゅうすることでプレイヤーが操作そうさ可能かのうになる。
World of Tanks
ソ連それんちゅう戦車せんしゃとしてT-34・T-34-85のほか、派生はせい車両しゃりょうのA-43・T-43ソ連それんけい戦車せんしゃとして原型げんけい車両しゃりょうのA-20が開発かいはつ可能かのう開発かいはつすることで使用しようできる。に「Rudy」(前記ぜんき『Czterej pancerni i pies』参照さんしょう)・ソ連それんちゅう戦車せんしゃT-34-85M(装甲そうこう強化きょうかがた)が販売はんばいされており、購入こうにゅうすることで使用しようできる。
このほかに中国ちゅうごくちゅう戦車せんしゃとしてType T-34・Type 58(前記ぜんき58しき戦車せんしゃ参照さんしょう)、チェコスロバキアちゅう戦車せんしゃとしてKonŠtrukta T-34/100が開発かいはつ可能かのうで、こちらも開発かいはつすることで使用しようできる。
グランド・セフト・オートV
85がオブジェクトとして登場とうじょう。スクラップかれている。オブジェクトなので操縦そうじゅう出来できず、外観がいかん全体ぜんたいてきびている。
コール オブ デューティシリーズ
CoD
ソ連それんぐん戦車せんしゃとして登場とうじょう一部いちぶステージではプレイヤーも操縦そうじゅうできる。
CoD:UO
ソ連それんぐん戦車せんしゃとして85が多数たすう登場とうじょうする。
CoD:FH
ソ連それんぐん主人公しゅじんこうニコライが搭乗とうじょうスターリングラードでドイツぐん戦火せんかまじえる。
CoD:WaW
ソ連それんぐん使用しよう。85が登場とうじょう。プレイヤーも1つのミッションで操縦そうじゅう可能かのうだが、機銃きじゅうではなく火炎かえん放射ほうしゃ搭載とうさいのため、厳密げんみつにはOT-34-85とおもわれる。
だい戦略せんりゃくシリーズ
85が登場とうじょう
トータル・タンク・シミュレーター
1941ねんがたちゅう戦車せんしゃT-34として、85があらためちゅう戦車せんしゃT-34-85として登場とうじょう
トロピコ5
バトルフィールド1942
ソ連それんぐんなか戦車せんしゃとして85が、じゅう戦車せんしゃとして76が登場とうじょうする。何故なぜ性能せいのうが76と85でわっているほか車載しゃさい機銃きじゅうとしてMG42搭載とうさいされている。
パンツァーフロント
76および85が登場とうじょう。76は1941がたと1942がたがそれぞれ登場とうじょう。また、架空かくう車両しゃりょうとしてT-34をベースに122mmほう搭載とうさいした駆逐くちく戦車せんしゃSU-122Sが登場とうじょうする(SU-122とは別物べつもの)。
パンツァーフロント Ausf.B
76が登場とうじょう。フランス戦線せんせんきたアフリカ戦線せんせん舞台ぶたい作品さくひんなので、おまけとしての意味合いみあいがつよい。
むしけら戦車せんしゃ
76および85が登場とうじょうし、アリほどのおおきさになったドイツぐんのプレイヤーがフィールドじょうちている車両しゃりょうつけることで使用しよう可能かのうになる。85の解説かいせつでは前述ぜんじゅつ映画えいがおに戦車せんしゃT-34』を意識いしきしたとおもわれる解説かいせつがされている(ただ、前述ぜんじゅつとおり『おに戦車せんしゃT-34』に85はフィルム流用りゅうよう登場とうじょうするだけで主役しゅやくは76である)。
また、ちいさくなった連合れんごうぐんは76を装備そうびしている。
メダル・オブ・オナー ヨーロッパ強襲きょうしゅう
ソ連それんぐん兵器へいきとして登場とうじょう
メタルサーガニューフロンティア
プレイヤーの搭乗とうじょう戦車せんしゃの1だいとして登場とうじょう

小説しょうせつ

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Czterej pancerni i pies』(『よんにん戦車せんしゃへいいちひきいぬ』)
ソ連それんぐん志願しがんし、ポーランドぐん大佐たいさなどの経歴けいれきつポーランドの作家さっかJanusz Przymanowskiによる小説しょうせつで、同名どうめいのテレビ映画えいがシリーズの原作げんさく。T-34の102号車ごうしゃRudyごう搭乗とうじょうするポーランドじん戦車せんしゃへいらが主要しゅよう登場とうじょう人物じんぶつ
鏖殺おうさつきょうとり』(文庫ぶんこめい:『きょうとり〈フッケバイン〉 ヒトラー最終さいしゅう指令しれい』)
ソ連それんぐん戦車せんしゃとして85が登場とうじょう。ドイツ領内りょうない墜落ついらくした国籍こくせき不明ふめい回収かいしゅう派遣はけんされた武装ぶそう親衛隊しんえいたいのティーゲル戦闘せんとうだん遭遇そうぐう交戦こうせんし、多数たすう撃破げきはされる。さらにべいぐんB-17による不明ふめいへのばくげきまれたり、不明ふめいからの攻撃こうげき多大ただい被害ひがいす。序盤じょばんでも主人公しゅじんこうふくむドイツ国防こくぼうぐん交戦こうせんし、主人公しゅじんこうがわ勢力せいりょく多大ただい損害そんがいあたえつつも、被害ひがいおおきかったため撤退てったいしている。
機動きどう要塞ようさい大和やまと
だい世界せかい大戦たいせんときタイムスリップした現代げんだい日本にっぽん列島れっとう北海道ほっかいどう上陸じょうりくしたり、関東軍かんとうぐん攻撃こうげきのため満州まんしゅう派遣はけんされる。
征途せいと
戦後せんご日本にっぽん分断ぶんだん国家こっかになった世界せかいで、ソ連それんから東側ひがしがわ陣営じんえい日本にっぽん民主みんしゅ主義しゅぎ人民じんみん共和きょうわこく北日本きたにっぽん)に供与きょうよされた85が人民じんみん赤軍せきぐん戦車せんしゃとして登場とうじょう。1950年代ねんだい北海道ほっかいどう戦争せんそうにて、西側にしがわ陣営じんえい日本にっぽんこくみなみ日本にっぽん警察けいさつ予備よびたいM4A3E8シャーマン・イージー・エイト特車とくしゃ交戦こうせんする。
ねじまきとりクロニクル
だい3鳥刺とりさおとこへん」にて、登場とうじょう人物じんぶつ1人ひとり間宮まみや徳太郎とくたろうにより言及げんきゅうされる。

アニメ・漫画まんが

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ウクライナ混成こんせい旅団りょだん
単行本たんこうぼんまぼろしひょう The Panther in Ukraina 1950」または「独立どくりつ戦車せんしゃたい収録しゅうろく作品さくひんラーゲリに3りょう配備はいびされており、UPA暴動ぼうどうさい出撃しゅつげきするが、1りょう火炎瓶かえんびんによる攻撃こうげき無力むりょくされ、のこる2りょうVごう戦車せんしゃパンター攻撃こうげきけて撃破げきはされる。
その、Vごう戦車せんしゃおかまで5りょう追撃ついげきするが、かえちにい、全車ぜんしゃ撃破げきはされる。
ガールズ&パンツァー
TVアニメばん劇場げきじょうばん劇場げきじょうばん最終さいしゅうあきら漫画まんが(プラウダ戦記せんき)にプラウダ高校こうこう主力しゅりょく戦車せんしゃとして76 1942ねんがたと85が登場とうじょう。85はカチューシャとクラーラが乗車じょうしゃしている。プラウダ戦記せんきではT-34-Tも保有ほゆうしている。
旭日きょくじつ艦隊かんたい』『紺碧こんぺき艦隊かんたい
後世こうせい世界せかい登場とうじょう。コミックばんではインド派遣はけんイギリスぐんとして登場とうじょう。コミックばんOVAはんではまたがじょうへいせた状態じょうたいでドイツ戦車せんしゃ破壊はかいされるほか、ティーガーIIへのれい距離きょり射撃しゃげきおこなうもかれてしまう。
銀河ぎんが英雄えいゆう伝説でんせつ
作中さくちゅうの「歴史れきし資料しりょう」の映像えいぞうに85が登場とうじょうする。
ココロ図書館としょかん
アニメばんだい11てきぐん戦車せんしゃたいとして2りょう登場とうじょう
宮崎駿みやざきはやおざつそうノート』シリーズ
ぶたとら』で76、『ハンスの帰還きかん』で85、『どろまみれのとら』で76と85が登場とうじょう
みりたり!
メインキャラの1人ひとり、ルトガルニコフの愛車あいしゃとして登場とうじょうおおきくデフォルメされてえがかれているため特徴とくちょうがわかりづらいが、設定せっていじょうは85とされている。
小林こばやしはじめぶん作品さくひん
代表だいひょうさく『パンツァーフォー!』『くろ騎士きし物語ものがたりだい世界せかい大戦たいせんどくせん舞台ぶたい作品さくひんにはかなら登場とうじょうしている。『オメガ7』でもセルビア勢力せいりょくのものらしき85が登場とうじょうする。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 「ハルキウ」とは、ウクライナもとづくカタカナ表記ひょうき日本にっぽんでは、ソ連それん時代じだいでは標準ひょうじゅんてきだったロシア発音はつおんもとづく「ハリコフ」の呼称こしょうもちいられることがおおい。
  2. ^ レニングラードのチームも T-26 の後継こうけいとなる戦車せんしゃ開発かいはつんでいたが、技術ぎじゅつてき問題もんだい政治せいじてき改革かいかくにより開発かいはつすすんでいなかった。最終さいしゅうてきに1941ねんふゆになって、シベリアオムスクT-50けい歩兵ほへい戦車せんしゃやく69りょう製造せいぞうされたが、そのころにはなんせんりょうものT-34が戦場せんじょうっており、歩兵ほへい戦車せんしゃのコンセプトは放棄ほうきされた (Zaloga 1984:114)
  3. ^ 実戦じっせん運用うんよう試験しけんのためにフィンランド戦線せんせんに1りょうおくられたが、ふゆ戦争せんそう終結しゅうけつによりモスクワにおくかえされている
  4. ^ バルバロッサ作戦さくせん開始かいしにおけるドイツ機甲きこう部隊ぶたい主力しゅりょく戦車せんしゃは、戦闘せんとう中核ちゅうかくとなるように開発かいはつされた主力しゅりょく戦車せんしゃである IIIごう戦車せんしゃ(E~Jがた)と、その支援しえんよう開発かいはつされた IVごう戦車せんしゃ(D~Fがた)であった。もっともよりふるいIVごう戦車せんしゃA~Cがたいまだに使つかわれており、本来ほんらい訓練くんれんようとしてつくられたIごう、IIごう戦車せんしゃやチェコせいの35(t)、38(t)けい戦車せんしゃ全体ぜんたい半分はんぶんちかくをめていた。
  5. ^ おな仕様しよう要件ようけんたそうとして、ことなる戦車せんしゃ設計せっけい開発かいはつしている設計せっけいグループや工場こうじょう複数ふくすうあったため、これら相互そうごあいだ軋轢あつれき戦後せんごになってもながあいだつづいた。T-55、T-64、T-72、T-80の時代じだいいたってもなお、ソ連それん最高さいこう評議ひょうぎかいなか別々べつべつ政治せいじてき支援しえんしゃらをバックとして、べつ戦車せんしゃ生産せいさんされつづけていた
  6. ^ パンツァーファウストなどの成形せいけい炸薬さくやくだん対策たいさくとして、大戦たいせん末期まっきには現地げんち調達ちょうたつ金網かなあみやベッドスプリングを車体しゃたい周辺しゅうへん設置せっちしているれいおおられる。なかにはIVごう戦車せんしゃJ後期こうきがた金網かなあみせいシュルツェンであるトーマ・シールドを鹵獲ろかくして装着そうちゃくしたものまであった。
  7. ^ カラシニコフはハッチからして周囲しゅうい様子ようすうかがっていたとき至近しきん距離きょり着弾ちゃくだんした砲弾ほうだん破片はへん負傷ふしょうしている
  8. ^ クルスクでのプロホロフカ戦車せんしゃせんにおいて、1りょうのIVごう戦車せんしゃ突破とっぱしてきたT-34のただちゅうのこされ、ともにドイツぐんがわきながら前進ぜんしん、このIVごう戦車せんしゃうしろからT-34をじゅん撃破げきはしていったが、まえしかていないT-34がわはこれにまったづかなかった。
  9. ^ これはソ連それんぐん編成へんせいじょう問題もんだいであるが、どういち部隊ぶたいないでもロシアほぐさない少数しょうすう民族みんぞく出身しゅっしん乗員じょういんおおかったため、車輌しゃりょうごとに伝言でんごんゲームのように命令めいれいつたえることもある有様ありさまだった。
  10. ^ ふる資料しりょうでのせつもとづいたタミヤの1/35スケールプラモデルの商品しょうひんめいでは「チェリヤビンスク」砲塔ほうとうがたになっている。
  11. ^ ティーガー戦車せんしゃのエースであるオットー・カリウス戦後せんごのインタビューでT-34-85をT-43とんでおり、前線ぜんせんのドイツぐん兵士へいしあいだでは間違まちがった呼称こしょうあらためられず使つかわれていた可能かのうせいもある。
  12. ^ のちにほぼ同型どうけい緩衝かんしょうゴム内蔵ないぞうてんが、だい183工場こうじょうせい1942ねんがたでも(おもだい2~だい4てんとして)使つかわれている。
  13. ^ commons:Category:Teški Tenk Vozilo A tank in the Belgrade Military Museum
  14. ^ File:Rudy_102_RB1.JPG
  15. ^ 日本にっぽんでのはつビデオソフトのタイトルは『特攻とっこう要塞ようさい都市とし

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 「T-34/76ちゅう戦車せんしゃ 1941-1945」「T-35/85ちゅう戦車せんしゃ 1944-1994」(スティーブン・ザロガ+ジム・キニア/ちょ だい日本にっぽん絵画かいが
  • "Я дрался на Т-34"(『わたしはT-34でたたかった』 アルチョーム・ドラプキン/へん日本語にほんごやくのあるサイト [5]
  • ウェブサイト"RUSSIAN BATTLEFIELD" [6]
  • ウェブサイト"T-34 maniacs" [7]
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  • Perrett, Bryan (1987). Soviet Armour Since 1945, London: Blandford. ISBN 0-7137-1735-1.
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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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