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ちかいの休暇きゅうか

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ちかいの休暇きゅうか
Баллада о солдате
キネマ旬報きねまじゅんぽう』1960ねん10がつ下旬げじゅんごう掲載けいさいされた広告こうこく
監督かんとく グリゴーリ・チュフライ
脚本きゃくほん ワレンチン・エジョフ
グリゴーリ・チュフライ
製作せいさく M・チェルノバ
出演しゅつえんしゃ ウラジーミル・イワショフ
ジャンナ・プロホレンコ
音楽おんがく ミハイル・ジフ
撮影さつえい ウラジーミル・ニコラーエフ
エラ・サヴェリエワ
編集へんしゅう マリーヤ・ティモフェイェバ
製作せいさく会社かいしゃ モスフィルム
公開こうかい 1959ねん12月1にち
上映じょうえい時間じかん 88ふん
製作せいさくこく ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう
言語げんご ロシア
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ちかいの休暇きゅうか』(ちかいのきゅうか、Баллада о солдатеえいだいBallad of a Soldier)は、1959ねん制作せいさくされたソビエト連邦れんぽう映画えいがモスフィルム制作せいさくし、『おんな狙撃そげきへいマリュートカロシアばん英語えいごばん』のグリゴーリ・チュフライ監督かんとくした。1960ねんカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさい最優秀さいゆうしゅうしょう青少年せいしょうねん映画えいがしょうを、また、サンフランシスコ国際こくさい映画えいがさい監督かんとくしょうロンドン国際こくさい映画えいがさい監督かんとくしょうダヴィッド・ディ・ドナテッロしょう(チュフライ監督かんとく)、ミラノ国際こくさい映画えいがさい名誉めいよしょう、イタリア批評ひひょう連盟れんめいしょうぜん映画えいがさいだい1しょう、1960ねんキネマ旬報きねまじゅんぽう外国がいこく映画えいがベストテンだい10獲得かくとくした。

あらすじ

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通信つうしんへいアリョーシャは、戦場せんじょうで2りょうてき戦車せんしゃ対戦たいせんしゃライフル撃破げきはした勲功くんこうにより将軍しょうぐんから受勲じゅくんされるが、わりに故郷こきょうははのもとに帰省きせいすることねがて、特別とくべつに6日間にちかん休暇きゅうかもらった。アリョーシャのしん故郷こきょうへとはやるが、戦場せんじょう見知みしらぬ僚友りょうゆうからつまへの伝言でんごんたのまれるなど、帰郷ききょうみちのりは困難こんなんした。さらに途中とちゅう復員ふくいんする傷病しょうびょうへいたすけたりしているうちに列車れっしゃぎがおくれ、休暇きゅうかまたたぎてく。

にく缶詰かんづめ哨兵しょうへいまるみ、やっとんだ軍用ぐんよう貨物かもつ列車れっしゃなかで、アリョーシャは少女しょうじょシューラと出会であう。列車れっしゃなか干草ほしくさ片隅かたすみで、たばあいだだがにんしんかよわせる。途中とちゅうみずみにったアリョーシャはぐん戦局せんきょくかんする放送ほうそうにききいっているうちに貨物かもつ列車れっしゃりにされ、シューラとはなばなれになる。老婆ろうば運転うんてんするトラックにせてもらいシューラののちうアリョーシャは、到着とうちゃくしたえき彼女かのじょ再会さいかいする。ほっと一息ひといきついて食事しょくじをしたときに、見知みしらぬ僚友りょうゆうからのたのまれことおもしたアリョーシャはいそぎシューラとまちちゅうる。こうしておとずれたアパートに夫人ふじんすでべつおとこかこっていた。僚友りょうゆうつまへの信頼しんらい裏切うらぎられたことったアリョーシャは、いちわたした土産みやげ石鹸せっけんかえしてアパートをった。そして僚友りょうゆう父親ちちおやたず石鹸せっけん手渡てわたし、本当ほんとうなにらぬ僚友りょうゆうつくばなしをしてかせるのだった。

ついにシューラとのわかれのときがやってた。本当ほんとうはおたがいに好意こういせていたのだが、なにわぬままアリョーシャは列車れっしゃ彼女かのじょわかれをげた。列車れっしゃたび故郷こきょうちかづいたとき不運ふうんにも空襲くうしゅう鉄橋てっきょう破壊はかいされ、さきすすめなくなったアリョーシャは、かわいかだわたりトラックをつかまえて故郷こきょうへといそいだ。そして故郷こきょうむらにたどりいたとき休暇きゅうかはもうかえりの時間じかんのこすのみであった。村人むらびとから歓待かんたいされ母親ははおやわずかな言葉ことばわしただけで、アリョーシャは「かならかえってくるよ、ママ」といいのこし、あわただしく麦畑むぎばたけみち戦場せんじょうへとかえした。しかし、戦争せんそうわってもアリョーシャはむらかえってこなかった。年老としおいたはは今日きょうもまた、麦畑むぎばたけかたわらでかえらぬ息子むすこちわびる。

キャスト

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括弧かっこない日本語にほんご吹替(テレビばん初回しょかい放送ほうそう1973ねん2がつ25にち日曜にちよう洋画ようが劇場げきじょう』)

背景はいけい

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チュフライは、しろぐん将校しょうこうこいちた赤軍せきぐんおんな兵士へいしえがいた『おんな狙撃そげきへいマリュートカロシアばん英語えいごばん』で1957ねんカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさい特別とくべつしょう受賞じゅしょうしデビューをかざる。ほんさくのアイデアはこのカンヌ映画えいがさいかんだという。チュフライは「わたしはカンヌ映画えいがさい出席しゅっせきして、そこで人々ひとびと我々われわれソヴィエトひとたいして非常ひじょう興味きょうみっている、ということがわかりました。おおくの人々ひとびとにとって、戦争せんそうはまだ記憶きおくあたらしいことでありましたし、あのファシズムたいしてだい勝利しょうりをおさめた国民こくみんとはどんな人々ひとびとなのか、というさぐるような視線しせん我々われわれけられたのです。これは、ソヴィエトの兵士へいしについての映画えいがつくらなくてはならないと、わたしはそこでおもったのです」[1]べている。

脚本きゃくほんいたワレンチン・エジョフとチュフライは、「我々われわれ提起ていきした課題かだいは、兵士へいしすぐれた兵士へいしだった、ということことではなかった。このことはすでに周知しゅうちことである。我々われわれまえにあったのは、べつ課題かだい―――我々われわれ兵士へいしたちはどんな人々ひとびとだったのか、そして我々われわれのヒーローはどんな人間にんげんだったか、ということえがいた物語ものがたりことであった。我々われわれえがきたかったのは、ソヴィエト社会しゃかいそだち、主義しゅぎ忠実ちゅうじつで、無垢むくで、素朴そぼくで、おもいやりがふか母親ははおや祖国そこくあいし、善意ぜんいち、人間にんげんとしての美点びてん魅力みりょくとにあふれた若者わかもの世界せかいである。こうした資質ししつこそ、作者さくしゃたちしんずるところでは、ソヴィエト兵士へいし資質ししつならぬ。ソヴィエトのヒロイズムはこれらの資質ししつからまれた結果けっかである」[2]いており、こうした意図いと沿って主人公しゅじんこうのアリョーシャはおよそ戦時せんじ兵士へいしらしからぬ状況じょうきょうなかえがかれている。

関連かんれん項目こうもく

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参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ 「グリゴーリー・チュフライの世界せかい編集へんしゅう野原のはらまち日本海にほんかい、1990ねん
  2. ^ 「ソビエト映画えいが」 V・ジダン、高田たかだなんじろうやくさんいち書房しょぼう、1971ねん
  3. ^ シネマヴェーラ渋谷しぶや特集とくしゅう上映じょうえいウクライナ大地だいちから(2022ねん6がつ4にちから6がつ17にち) http://www.cinemavera.com/preview.html?no=277#id3

外部がいぶリンク

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