(Translated by https://www.hiragana.jp/)
張鼓峰事件 - Wikipedia コンテンツにスキップ

ちょうほう事件じけん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

座標ざひょう: 北緯ほくい4226ふん09びょう 東経とうけい13036ふん40びょう / 北緯ほくい42.435905 東経とうけい130.611005 / 42.435905; 130.611005

ちょうほう事件じけん

ちょうほう事件じけん戦闘せんとう
戦争せんそうにち国境こっきょう紛争ふんそう
年月日ねんがっぴ1938ねん7がつ29にち - 8がつ11にち
場所ばしょまんしゅうこく東南とうなんはしちょうほう
結果けっか8がつ11にち停戦ていせん
交戦こうせん勢力せいりょく
大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう
指導しどうしゃ指揮しきかん
大日本帝国の旗 尾高おだか亀蔵かめぞう
大日本帝国の旗 佐藤さとう幸徳ゆきのり
ソビエト連邦の旗 ヴァシーリー・ブリュヘル
戦力せんりょく
7,000以上いじょう 22,950
損害そんがい
戦死せんし 525
戦傷せんしょう 913
戦死せんし 960
戦傷せんしょう 2,752
せんびょう 527
にち国境こっきょう紛争ふんそう

ちょうほう事件じけん(ちょうこほうじけん、ジャングーファンじけん)は、1938ねん昭和しょうわ13ねん康徳やすのり5ねん)の7がつ29にちから8がつ11にちにかけて、まんしゅうこく東南とうなんはし琿春にあるちょうほう発生はっせいしたソビエト連邦れんぽうとの国境こっきょう紛争ふんそうである。実質じっしつてきには日本にっぽんぐんソ連それんぐん戦闘せんとうであった。なお、ソ連それんがわハサン事件じけんんだ。

背景はいけい

[編集へんしゅう]

20世紀せいき前半ぜんはんだい部分ぶぶん期間きかん、ソビエト連邦れんぽう(ロシア)と、まんしゅうこくおよび大日本帝国だいにっぽんていこくあいだには、現在げんざい中国ちゅうごく東北とうほくせっする国境こっきょうめぐってたか緊張きんちょう状態じょうたいがあった。中国ちゅうごく東北とうほくまんしゅう)には、まんしゅう極東きょくとうロシアむすあずまきよし鉄道てつどうという鉄道てつどうがあり、そこからみなみびる支線しせんみなみまんしゅう鉄道てつどうである。

みなみまんしゅう鉄道てつどうは、にち戦争せんそう、そしてそれにつづにちちゅう戦争せんそうへとつながっていくいくつかの事件じけん、そしてにち国境こっきょう紛争ふんそう原因げんいんひとつであり、またその舞台ぶたいにもなった鉄道てつどうである。1929ねんちゅう紛争ふんそう、1931ねん中間ちゅうかんまんしゅう事変じへんなどがあった。ちょうほう事件じけんは、このような歴史れきしてき経緯けいいからたがいに不信ふしんかんいだ日本にっぽんソ連それんというふたつの強国きょうこくたたかった戦闘せんとうである。

ちょうほう地図ちず

ちょうほうまんしゅうこくりょう大日本帝国だいにっぽんていこく朝鮮ちょうせんソ連それんりょうあいだんだ部分ぶぶんにある標高ひょうこう150メートルの丘陵きゅうりょう稜線りょうせんじょう位置いちした。西方せいほう豆満江とうまんこう東方とうほうハサンとにはさまれた地形ちけいだった。

当時とうじ、この付近ふきん国境こっきょうせんについて、ソ連それんがわまんしゅうこく日本にっぽんがわあいだ認識にんしき相違そういがあった。ソ連それんがわロシア帝国ていこくきよしあいだむすばれた北京ぺきん条約じょうやく(およびその補助ほじょてき国境こっきょうかんする合意ごうい)にもとづき、国境こっきょうせんちょうほう頂上ちょうじょう通過つうかしているとかんがえていた。一方いっぽう日本にっぽんがわちょうほう頂上ちょうじょう一帯いったいまんしゅうりょうであるとの見解けんかいっており、ソ連それんがわ国境こっきょうせん曲解きょっかいしており、国境こっきょうせん標識ひょうしき改竄かいざんされたものだとかんがえていた。いずれにしても、この方面ほうめん防衛ぼうえい担当たんとうしていた朝鮮ちょうせんぐんだい19師団しだん国境こっきょう確定かくてい地帯ちたいとしてちょうほう頂上ちょうじょう兵力へいりょく配置はいちしていなかった。

国境こっきょう曖昧あいまいだった地帯ちたいは、長年ながねんスパイせん使つかわれていた[1]

戦闘せんとう経過けいか

[編集へんしゅう]
擬装ぎそうして進撃しんげきするソ連それんぐん戦車せんしゃたい
ソ連それんぐん戦車せんしゃにくせり攻撃こうげきする川村かわむら上等じょうとうへいひとしすなくさみね
撃破げきはされたソ連それんぐん戦車せんしゃ
ソ連それん軍機ぐんきによるちょうほう爆撃ばくげき
朝鮮ちょうせん上空じょうくう撃墜げきついされたソ連それん軍機ぐんき

1938ねん7がつちょうほう頂上ちょうじょうソ連それんへい進軍しんぐんし、兵力へいりょく次第しだい増強ぞうきょうされた。

ソ連それんぐん(ソビエトぐん)がこの時期じきだい攻勢こうせい背景はいけいについてはっきりした結論けつろんられていないが、現在げんざい有力ゆうりょくせつとして、事件じけんの1かげつまえゲンリフ・リュシコフまんしゅうこく亡命ぼうめいしたことの副産物ふくさんぶつだったのではないか、といわれている。ソ連それん内務ないむ人民じんみん委員いいん (NKVD) 所管しょかん国境警備隊こっきょうけいびたい名誉めいよ挽回ばんかいをめざした、というのである[2]

1938ねん7がつ6にちポシェト地域ちいきソ連それんぐん司令しれいかんからハバロフスクソ連それんぐん司令しれいおくられた電文でんぶん日本にっぽん関東軍かんとうぐん傍受ぼうじゅして解読かいどくした。その電文でんぶんは、朝鮮ちょうせん港湾こうわん都市とし、そして朝鮮ちょうせんまんしゅうむす戦略せんりゃくてき重要じゅうよう鉄道てつどう見渡みわたせる高地こうち占領せんりょうすることはソビエトにとって有利ゆうりであろうということを理由りゆうとして、いまだれ占領せんりょうしていないハサンみずうみ西側にしがわ高地こうちとく係争けいそうちゅうちょうほう高地こうちソ連それんへい確保かくほすることを助言じょげんしていた[3]

7がつ12にち、ソビエト国境警備隊こっきょうけいびたいしょう部隊ぶたいがハサンみずうみ西側にしがわ高地こうち領域りょういきはいり、やまほうゆか観測かんそくごう鉄条てつじょうもう通信つうしん施設しせつなどを建設けんせつするなど、築城ちくじょうをはじめた。13にち、これを監視かんしちゅう松島まつしま伍長ごちょう不法ふほう殺害さつがいした。

その地域ちいき防衛ぼうえいてられていた日本にっぽん朝鮮ちょうせんぐん当初とうしょはソビエトぐん前進ぜんしん無視むししていた。しかし、管轄かんかつ地域ちいきちょうほうかさなっている関東軍かんとうぐんは、ソビエトぐん企図きと疑惑ぎわくがあるとして、もっと対応たいおうするよう朝鮮ちょうせんぐん後押あとおしした。これをけて朝鮮ちょうせんぐんはこのけん東京とうきょうらせ、ソ連それんたいして正式せいしき抗議こうぎするよう助言じょげんした。

日本にっぽん政府せいふは7がつ15にち、モスクワ駐在ちゅうざい日本にっぽん西にし代理だいり大使たいしつうじて、ハサン西方せいほうすな草峰くさみね(ロシアめい: сопка Безымянная, ベジミャナヤ) およびちょうほう(ロシアめい: сопка Заозёрная, ザオジョルナヤ)はソビエトと朝鮮ちょうせんあいだ国境こっきょう地帯ちたいであるとして、これらの地域ちいきからソビエト国境警備隊こっきょうけいびたい退去たいきょさせるようソ連それん政府せいふ要求ようきゅうした。まんしゅうこくも14にち同様どうよう抗議こうぎをおこなった。しかしソ連それんがわは、現地げんちソ連それんりょうであるとしてゆずらず、外交がいこう交渉こうしょう物別ものわかれにわった。現地げんちでは、18にち軍使ぐんしをもって、けむりあき警備けいび司令しれいかん撤兵てっぺい要求ようきゅうしたが、なんら回答かいとうはなかった。

ソ連それんぐんは29にちちょうほう北方ほっぽうすな草峰くさみねにも越境えっきょうし、陣地じんち構築こうちくしようとして日本にっぽん守備しゅびたい撃退げきたいされた。

30にち夜半やはんから31にちにかけて、ちょうほうおよびすな草峰くさみね付近ふきん大挙たいきょしてソ連それんぐん来襲らいしゅうしてきたが、これにたいして日本にっぽんがわ守備しゅびたい反撃はんげきくわ占領せんりょう奪回だっかいしてまんしゅうこく領土りょうど回復かいふくした。しかし、ソ連それんがわはさらに兵力へいりょく増強ぞうきょうし、執拗しつよう侵攻しんこうくわだてて、朝鮮ちょうせん古城こじょうこしきさんなどを砲撃ほうげきした。

7がつ31にちソビエト連邦れんぽう陸海りくかいぐん人民じんみん委員いいんクリメント・ヴォロシーロフだい1沿岸えんがんぐん戦闘せんとう準備じゅんびしたれいし、あわせて太平洋艦隊たいへいようかんたいにも動員どういんれいはっした。

日本にっぽんだい19師団しだんはいくらかのまんしゅう国軍こくぐん部隊ぶたいとともに、グリゴリー・シュテルン指揮しきのソビエトだい39狙撃そげき軍団ぐんだん最終さいしゅうてきにはだい32だい39、だい40狙撃そげき師団しだんだい2独立どくりつ機械きかい旅団りょだん)と相対あいたいした[4]。このとき日本にっぽんがわ指揮しきかん一人ひとりが、歩兵ほへいだい75連隊れんたいちょう佐藤さとう幸徳ゆきのり大佐たいさであった。佐藤さとう部隊ぶたい夜襲やしゅうおかにいるソビエト部隊ぶたい撃退げきたいした。ここで実施じっしされた夜襲やしゅう戦法せんぽう日本にっぽんぐんてき陣地じんちおそさいのモデルケースとなったものである。

また、ちょうほう事件じけんあいだ日本にっぽんがわけい戦車せんしゃちゅう戦車せんしゃ組織そしきして前線ぜんせん攻撃こうげきしたが、即座そくざにソビエトぐん戦車せんしゃ砲兵ほうへい反撃はんげきけたという報告ほうこくもある[注釈ちゅうしゃく 1]。1933ねんには日本にっぽん臨時りんじ装甲そうこう列車れっしゃ設計せっけい製造せいぞうしていた。これがまんしゅうだい装甲そうこう列車れっしゃたい配備はいびされており、ちょうほう事件じけんにも参加さんかして、戦場せんじょうすうせんへい輸送ゆそうした。

8がつ1にちからはソビエトぐん航空こうくうたい出動しゅつどうし、日本にっぽんがわだい一線いっせんばくげきおこない、さらに編隊へんたいんで朝鮮ちょうせんひろしけいきょうこしきさん古城こじょうなどを爆撃ばくげきした。これにたいして、日本にっぽんがわソ連それんぐん猛攻もうこう損害そんがいけつつも奮戦ふんせんし、なんとか国境こっきょうせん確保かくほした。結果けっかてきにはソ連それんぐんおおきな損害そんがいこうむることとなった。8月2にち、ソビエトがわ極東きょくとう戦線せんせん司令しれいかんヴァシーリー・ブリュヘル前線ぜんせん到着とうちゃくした。かれ指揮しきした増援ぞうえん部隊ぶたい紛争ふんそう地域ちいきおくまれ、8がつ6にちになってソ連それんぐんだい部隊ぶたいちょうほう頂上ちょうじょう付近ふきんそう攻撃こうげき開始かいしした。その北方ほっぽうすな草峰くさみねでもソ連それんぐん攻勢こうせい仕掛しかけ、りょう高地こうちをめぐってはげしい争奪そうだつせん展開てんかいされた。一連いちれん戦闘せんとう日本にっぽんぐん高地こうち維持いじしているも、おおきな打撃だげきけ、停戦ていせん交渉こうしょうもとめた。

8がつ10日とおか日本にっぽんちゅう公使こうし重光しげみつまもる停戦ていせんもうれ、マクシム・リトヴィノフ会談かいだんによって8がつ11にちになってモスクワで停戦ていせん合意ごういされ、交戦こうせん状態じょうたいは8がつ11にち終了しゅうりょうした[5][6]。その結果けっかだい19師団しだんりょう高地こうち頂上ちょうじょう死守ししゅしていた状態じょうたいでの停戦ていせんまった。

停戦ていせん

[編集へんしゅう]
ちょうほう守備しゅびする日本にっぽんぐん将兵しょうへい

停戦ていせん合意ごういにおける協定きょうていつぎとおりである。

  • ソ連それん沿海州えんかいしゅう時間じかんUTC+10)11にち正午しょうご双方そうほう戦闘せんとう行為こうい中止ちゅうしする
  • にちりょうぐんは、ソ連それん沿海州えんかいしゅう時間じかん11にち午前ごぜんれい現在げんざいせん維持いじする
  • 実行じっこう方法ほうほう現地げんちにおける双方そうほう軍隊ぐんたい代表だいひょうしゃあいだにおいて協議きょうぎする。

現地げんちでは、11にち午後ごご8ごろ、日本にっぽんぐん代表だいひょう歩兵ほへいだい74連隊れんたいながちょういさむ大佐たいさソ連それん極東きょくとうぐん参謀さんぼうちょうシュテルン大将たいしょうちょうほう方面ほうめんソ連それんぐん陣地じんちないにおいて会見かいけんし、停戦ていせん実現じつげんした。よく12にち午後ごご930ふん文書ぶんしょをもってつぎのような現地げんち協定きょうてい覚書おぼえがき交換こうかんした。

  • ちょうほう稜線りょうせん北部ほくぶにおける現状げんじょうにつき、さしあたり両国りょうこく政府せいふ報告ほうこくすること。
  • にちりょうぐん指揮しきかんは、軍事ぐんじ行動こうどう停止ていしかんし、両国りょうこく政府せいふ決定けっていにより、今後こんごちょうほう付近ふきんにおいてはいかなる事件じけんはっせざるため、万全ばんぜん処置しょちることを保証ほしょうす。
  • 1938ねん8がつ12にち午後ごご8より、にちりょうぐんちょうほう稜線りょうせん北部ほくぶにおいて、にちりょうぐん主力しゅりょく稜線りょうせんより80m以上いじょうせん後退こうたいせしむべし。

現地げんち調査ちょうさ結果けっかソ連それんぐん日本にっぽんぐんちょうほう頂上ちょうじょう確保かくほしていることを確認かくにんし、協定きょうていどお双方そうほう部隊ぶたい後退こうたい完了かんりょうした。これをもって戦闘せんとう状態じょうたい終熄しゅうそくした。

結果けっか影響えいきょう

[編集へんしゅう]
捕虜ほりょとなったソビエトへい日本にっぽん憲兵けんぺい

このはげしい紛争ふんそう日本にっぽんがわ戦死せんし526めい負傷ふしょうしゃ914めい損害そんがいした。この事件じけんは、だいいち世界せかい大戦たいせん激戦げきせんをほとんど経験けいけんしなかった日本にっぽんにとって、にち戦争せんそううしろでははじめての欧米おうべい列強れっきょうとの本格ほんかくてき戦闘せんとうであった。日本にっぽんぐんにち戦争せんそうシベリア出兵しゅっぺい経験けいけんから、ロシアの軍隊ぐんたい過小かしょう評価ひょうかしていたが、この紛争ふんそう高度こうど機械きかいされた赤軍せきぐん実力じつりょく痛感つうかんする結果けっかとなった。しかし、当時とうじささえ事変じへんにちちゅう戦争せんそう)の只中ただなかであった日本にっぽん陸軍りくぐんにとっては、中国ちゅうごく国民党こくみんとうぐんしゅてきであったため、あまり積極せっきょくてき機械きかいすすめようとしなかった。そのため、ノモンハン事件じけん太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう)にいて、機械きかいすすんだ欧米おうべい列強れっきょう苦戦くせんいられることとなった。

ブリュヘルは、国境こっきょう紛争ふんそう拡大かくだい反対はんたい立場たちばをとり、当初とうしょ自国じこく国境警備隊こっきょうけいびたいによる国境こっきょう侵犯しんぱん事実じじつたしかめ、責任せきにんしゃ処罰しょばつ要求ようきゅうしていた。そのため、戦闘せんとう本格ほんかくしてもソ連それんがわ兵力へいりょく集中しゅうちゅうははかどらず、スターリンいかりをって粛清しゅくせいされた[2]

なお、この戦闘せんとうくわわった歩兵ほへいだい75連隊れんたい連隊れんたいちょうインパール作戦さくせんでのこういのちられる佐藤さとう幸徳ゆきのり大佐たいさであった。ほかにも歩兵ほへいだい74連隊れんたい連隊れんたいちょう沖縄おきなわせんでのだい32ぐん参謀さんぼうちょうられるちょういさむ大佐たいさであり、山砲さんぽうへいだい25連隊れんたい連隊れんたいちょう東京とうきょう裁判さいばんでの検事けんじがわ証人しょうにんられる田中たなか隆吉りゅうきち大佐たいさであった。

損害そんがい

[編集へんしゅう]

従来じゅうらい機密きみつ指定していされていたソ連それんぐん文書ぶんしょ公開こうかいされたことで、従来じゅうらいソ連それんがわ損害そんがい過小かしょう報告ほうこくされていたことがあきらかになっている [7]ソ連それんがわ規模きぼは、将校しょうこうが1636にん下士官かしかんが3442にん兵士へいしが17,872にん合計ごうけい22,950にんだった。日本にっぽんがわ損害そんがいは、戦死せんし行方ゆくえ不明ふめいやく500にん戦傷せんしょうせんびょうやく900にんだった。ソ連それんがわ損害そんがいは、戦死せんし行方ゆくえ不明ふめいが792にん戦傷せんしょうせんびょうが3279にんだった。このことをソ連それんぐん将校しょうこう死者ししゃすう全体ぜんたいの18%と特筆とくひつしておおいと指摘してきされている。

ギャラリー

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ ソ連それんぐんはT-26けい戦車せんしゃ257りょう、BT-5快速かいそく戦車せんしゃ81りょう、SU-5はしほう13りょう投入とうにゅうなかでもT-26はけい85りょう戦闘せんとう不能ふのうとなる損害そんがいし、9りょうぜんそん、37りょう回収かいしゅうされ後送こうそう、39りょう軽度けいど損傷そんしょう故障こしょうにより現地げんち修理しゅうりされている。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ 大陸たいりく縦断じゅうだん 山本やまもと実彦さねひこ 1938ねん
  2. ^ a b 平井ひらい友義ともよし『ユーラシアブックレット174 スターリンの赤軍せきぐん粛清しゅくせい東洋とうよう書店しょてん、2012ねん、54-55ぺーじISBN 978-4-86459-039-6 
  3. ^ Alvin Coox, Nomonhan (Stanford University Press, 2003), p124
  4. ^ John Erickson (historian), The Soviet High Command, MacMillan & Co. Ltd, 1962, p.497ー8
  5. ^ Хасан // Советская военная энциклопедия (в 8 томах) / под ред. А. А. Гречко. том 8. М.: Воениздат, 1976. стр.366?367
  6. ^ А. А. Кошкин. ≪Кантокуэн≫ ? ≪Барбаросса≫ по-японски. Почему Япония не напала на СССР. М., ≪Вече≫, 2011.
  7. ^ General-Lieutenant G.F.KRlVOSHEYEV (1993ねん). “SOVIET ARMED FORCES LOSSES IN WARS,COMBAT OPERATIONS MILITARY CONFLICTS”. MOSCOW MILITARY PUBLISHING HOUSE. p. 62. 2013ねん11月23にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]