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江戸えどのぼ

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江戸えどのぼ(えどのぼり)とは、江戸えど幕府ばくふ派遣はけんされた琉球りゅうきゅうこくちゅう山王さんのう慶賀けいが使節しせつのこと。琉球りゅうきゅう使節しせつ(りゅうきゅうしせつ)ともばれる。江戸えどに「のぼる(のぼる)」という表現ひょうげん琉球りゅうきゅうした江戸えどうえであるという前提ぜんていつため、近年きんねんは、史料しりょうおおられる「江戸えどりつ」(えどだち。江戸えど、ともく)という表記ひょうきひろまりつつある[1]

概要がいよう

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江戸えどのぼりは、薩摩さつま琉球りゅうきゅう侵攻しんこう1634ねんから、幕末ばくまつ1850ねんまであいだに18かいおこなわれた。これらには、琉球りゅうきゅう国王こくおう即位そくいさい派遣はけんされる謝恩しゃおん使と、幕府ばくふ将軍しょうぐん襲職しゅうしょくさい派遣はけんされる慶賀けいが使とがあった。

なお、1872ねん明治維新めいじいしん慶賀けいが使上京じょうきょうしたが、これは通常つうじょう江戸えどのぼり」としてはかぞえない。

旅程りょてい道中どうちゅう

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天保てんぽう3ねん1832ねん)の琉球りゅうきゅう使節しせつ

ろくがつごろ季節風きせつふう琉球りゅうきゅう出発しゅっぱつ薩摩さつま山川やまかわこういたる。琉球りゅうきゅうかんにてしばらく滞在たいざいし、きゅうがつごろ薩摩さつま出発しゅっぱつ長崎ながさき下関しものせきからふね瀬戸内海せとないかいけて大阪おおさか上陸じょうりく京都きょうと東海道とうかいどうひがしくだ江戸えどくのはじゅういちがつごろである。1~2ヶ月かげつほど滞在たいざいし、としけてから江戸えど出発しゅっぱつ大阪おおさかまでは陸路りくろ、その海路かいろにて薩摩さつま経由けいゆ琉球りゅうきゅうもどる。ほぼいちねんかりのたびであった。

その道中どうちゅうは「異国いこく支配しはいする薩摩さつまはん」および「異国いこくからの使節しせつ来訪らいほうける幕府ばくふ」を前面ぜんめんすことによって両者りょうしゃ権威けんい高揚こうよう利用りようされた。

文化ぶんか交流こうりゅう

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使節しせつには、琉球りゅうきゅう音楽おんがく演奏えんそうしたり琉球りゅうきゅう舞踊ぶようおどるための要員よういんふくまれており(御座ぎょざたのしこう参照さんしょう)、とく路次ろじたのし江戸えどのぼりのルートじょうにある地域ちいき農村のうそん芸能げいのうにも影響えいきょうあたえ、また将軍しょうぐんまくかくまえでも披露ひろうされた。その随行ずいこういんには和歌わか茶道さどうをはじめとするしょ芸能げいのうつうじているもの派遣はけんされており、これらの人的じんてき交流こうりゅうとおして中国ちゅうごく日本にっぽん文化ぶんか渾然一体こんぜんいったいとなった琉球りゅうきゅう独自どくじ文化ぶんか形作かたちづくられていった。

江戸えどのぼり18かい詳細しょうさい

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  • だい1かい江戸えどのぼりでは、実際じっさい京都きょうと滞在たいざいし、江戸えど下向げこうはなかった。
  • だい1かいだい7かいだい8かい慶賀けいが使謝恩しゃおん使同時どうじ派遣はけんされた(下表かひょう参照さんしょう)。
  • だい11かい慶賀けいが使薩摩さつまはんがわ引率いんそつしゃ平田ひらた靱負ゆきえ
江戸えどのぼ一覧いちらんひょう明治維新めいじいしん慶賀けいが使ふくむ)
かい 年代ねんだい
西暦せいれき干支えと中国ちゅうごく元号げんごうれき
国王こくおう 将軍しょうぐん 目的もくてき 正使せいし 副使ふくし
1 1634ねんきのえいぬたかしただし7ねん寛永かんえい11ねん なおゆたか 徳川とくがわ家光いえみつ 慶賀けいが使 佐敷さしき王子おうじちょうえき尚文なおふみ なし
謝恩しゃおん使 金武かなたけ王子おうじあささだなおもり なし
2 1644ねんきのえさる順治じゅんじ元年がんねん寛永かんえい21ねん なおけん 徳川とくがわ家光いえみつ 謝恩しゃおん使 国頭くにがみ王子おうじ正則せいそくうまこくたかし なし
3 1649ねんおのれうし順治じゅんじ6ねん慶安けいあん2ねん なおしつ 徳川とくがわ家光いえみつ 謝恩しゃおん使 具志川ぐしかわ王子おうじあさみつるなおとおる なし
4 1653ねん癸巳きし順治じゅんじ10ねんうけたまわおう2ねん なおしつ 徳川とくがわ家綱いえつな 慶賀けいが使 国頭くにがみ王子おうじ正則せいそくうまこくたかし なし
5 1671ねんからしかん10ねん寛文ひろふみ11ねん なおさだ 徳川とくがわ家綱いえつな 謝恩しゃおん使 金武かなたけ王子おうじ朝興ともおきなお熙) 越来ごえく親方おやかたあさまことむかいよしざい
6 1682ねんみずのえいぬかん熙21ねん天和てんわ2ねん なおさだ 徳川とくがわ綱吉つなよし 慶賀けいが使 名護なご王子おうじちょうもと尚弘なおひろひとし 恩納おんな親方おやかた安治やすじこくみず
7 1710ねんかのえとらかん熙49ねん宝永ほうえい7ねん なおえき 徳川とくがわ家宣いえのぶ 慶賀けいが使 美里みさと王子おうじあさただし尚紀なおき 富盛とみもり親方おやかたもりとみおうみち
謝恩しゃおん使 豊見城とみぐすく王子おうじあさただしなおゆう 与座よざ親方おやかたやすこのみもうぶんすぐる
8 1714ねんきのえうまかん熙53ねん正徳まさのり4ねん なおたかし 徳川とくがわ家継いえつぐ 慶賀けいが使 与那城よなぐすく王子おうじあさじきなおかん 知念ちねん親方おやかたあさじょうむかいたもつ嗣)
謝恩しゃおん使 金武かなたけ王子おうじあさゆうなおえいきょう 勝連かつれん親方おやかたもりゆうもうおうおおとり
9 1718ねんつちのえいぬかん熙57ねんとおる3ねん なおたかし 徳川とくがわ吉宗よしむね 慶賀けいが使 越来ごえく王子おうじちょうけいなおもり 西平にしだいら親方おやかたあさじょこう和声わせい
10 1748ねんつちのえたついぬいたかし13ねんのべとおる5ねん寛延かんえい元年がんねん なおたかし 徳川とくがわ家重いえしげ 慶賀けいが使 具志川ぐしかわ王子おうじあさなおうけたまわもと 与那原よなばる親方おやかたりょうとおるうまもとれつ
11 1752ねんみずのえさるいぬいたかし17ねんたかられき2ねん なおきよし 徳川とくがわ家重いえしげ 謝恩しゃおん使 今帰仁なきじん王子おうじ朝忠ちょうちゅうなおせん謨)[2] 小波津こはつ親方おやかた安蔵あぞうもう文和ふみかず
12 1764ねんきのえさるいぬいたかし29ねん明和めいわ元年がんねん なおきよし 徳川とくがわ家治いえはる 慶賀けいが使 読谷よみたんさん王子おうじちょうつねなお 湧川わくがわ親方おやかたあさたかしむかいくにかなえ
13 1790ねんかのえいぬいぬいたかし55ねん寛政かんせい2ねん なおきよし 徳川とくがわ家斉いえなり 慶賀けいが使 宜野湾ぎのわん王子おうじ朝陽あさひなおよう[3] 幸地こうち親方おやかたりょうあつしうま克義かつよし
14 1796ねんへいたつよしみけい元年がんねん寛政かんせい8ねん なおぬる 徳川とくがわ家斉いえなり 謝恩しゃおん使 だいむべ王子おうじちょうぶんまわしなおつとむ 安村やすむら親方おやかたりょうあたまうまぶんはし
15 1806ねんへいとらよしみけい11ねん文化ぶんか3ねん なお 徳川とくがわ家斉いえなり 謝恩しゃおん使 読谷よみたんさん王子おうじちょう敕(なおふとれつ[4] 小禄おろく親方おやかた良和よしかずうまおうあきら
16 1832ねんみずのえたつみちこう12ねん天保てんぽう3ねん なおいく 徳川とくがわ家斉いえなり 謝恩しゃおん使 豊見城とみぐすく王子おうじあさはるなお楷)[5] 沢岻たくし親方おやかたやすおもんみしん
17 1842ねんみずのえとらみちこう22ねん天保てんぽう13ねん なおいく 徳川とくがわ家慶いえよし 慶賀けいが使 浦添うらぞえ王子おうじちょう憙(なおもと魯) 座喜味ざきみ親方おやかたもりひろしもう達徳たつのり
18 1850ねんかのえいぬみちこう30ねんよしみひさし3ねん なおやすし 徳川とくがわ家慶いえよし 謝恩しゃおん使 玉川たまがわ王子おうじちょうたちなおまき 野村のむら親方おやかたあさよろしむかいもと
番外ばんがい 1872ねんみずのえさるどう11ねん明治めいじ5ねん なおやすし 明治天皇めいじてんのう 慶賀けいが使 伊江いえ王子おうじあさじきなおけん むべわん親方おやかたあさむかい有恒ありつね

関係かんけい著書ちょしょ論文ろんぶん一覧いちらん

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琉球りゅうきゅう使節しせつ自体じたいげたもの

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  • 沖縄おきなわけん文化ぶんか振興しんこうかい公文書こうぶんしょかん管理かんり史料しりょう編集へんしゅうしつ へん江戸えどのぼ琉球りゅうきゅう使節しせつ江戸えど参府さんぷ沖縄おきなわけんビジュアルばん、2001ねん
  • 紙屋かみやあつしこれ琉球りゅうきゅう使節しせつ最後さいごかんする考察こうさつ」(『まくはんせい国家こっか琉球りゅうきゅう支配しはい校倉あぜくら書房しょぼう、1990ねん所収しょしゅう)。
  • 紙屋かみやあつし琉球りゅうきゅう使節しせつ解体かいたい」(『琉球りゅうきゅう王国おうこく評定ひょうじょうしょ文書ぶんしょだい5かん、1990ねん
  • 紙屋かみやあつし琉球りゅうきゅう使節しせつ江戸えどのぼり」(『大君おおきみ外交がいこうひがしアジア』吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1997ねん所収しょしゅう
  • 紙屋かみやあつし琉球りゅうきゅう慶賀けいが使について」『歴史れきし地理ちり』530ごう、1999ねん
  • 玉井たまいけん也「琉球りゅうきゅう使節しせつ派遣はけん準備じゅんび解体かいたい過程かてい―「最後さいご」の琉球りゅうきゅう使節しせつつうじて―」『交通こうつう研究けんきゅう』67ごう、2008ねん
  • 宮城みやぎさかえあきら琉球りゅうきゅう使者ししゃ江戸えどのぼり』だいいち書房しょぼう、1982ねん
  • 宮城みやぎさかえあきらだいいちかい江戸えどのぼり」『琉大史学しがく』11ごう、1980ねん
  • もりたけしよしみながさんねん琉球りゅうきゅう使節しせつ江戸えど参府さんぷ」(『ひろしとも』6ごう沖縄おきなわ県立けんりつ博物館はくぶつかんともかい、1992ねん所収しょしゅう)。
  • 横山よこやままなぶ琉球りゅうきゅうこく使節しせつ渡来とらい研究けんきゅう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1987ねん

近世きんせい日本にっぽんとの政治せいじてき関係かんけい

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  • 梅木うめき哲人てつと琉球りゅうきゅう国王こくおう書翰しょかん検討けんとう」『地方ちほう研究けんきゅう』197ごう、1985ねん
  • 紙屋かみやあつしまくはん体制たいせいにおける琉球りゅうきゅう位置いちまくはん・琉三しゃ権力けんりょく関係かんけい―」(『まくはんせい国家こっか琉球りゅうきゅう支配しはい校倉あぜくら書房しょぼう、1990ねん所収しょしゅう)。
  • 喜舎場ちしゃば一隆かずたか江戸えど幕府ばくふと薩流関係かんけい」(どうちょ近世きんせい薩琉関係かんけい研究けんきゅう国書刊行会こくしょかんこうかい、1993ねん
  • ゆたか見山みやま和行かずゆき江戸えど幕府ばくふ外交がいこう琉球りゅうきゅう」『沖縄おきなわ文化ぶんか』65ごう、1985ねん
  • 広瀬ひろせ隆久たかひさ琉球りゅうきゅう王国おうこく使節しせつと「琉球りゅうきゅうじん来朝らいちょうしき」」(『東京学芸大学とうきょうがくげいだいがく附属ふぞく高等こうとう学校がっこう研究けんきゅう紀要きよう』41ごう、2004ねん
  • 真栄平まえひらぼうあきらまくはんせい国家こっか外交がいこう儀礼ぎれい琉球りゅうきゅう」『歴史れきしがく研究けんきゅう』620ごう、1991ねん
  • 宮城みやぎさかえあきら正徳しょうとく4ねん江戸えどのぼきた書翰しょかん問題もんだい」『沖縄国際大学おきなわこくさいだいがく文学部ぶんがくぶ紀要きよう 社会しゃかい学科がっかへん』9-1ごう、1981ねん

琉球りゅうきゅう使節しせつ国内こくない関係かんけい

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  • 飯沼いいぬま雅行まさゆき朝鮮ちょうせん通信使つうしんし琉球りゅうきゅう使節しせつ通航つうこう綱引つなひきじょさとかわ両国りょうこく中心ちゅうしんに‐」『交通こうつう研究けんきゅう』54ごう、2004ねん
  • 飯沼いいぬま雅行まさゆき幕府ばくふ広域こういきやく実現じつげん過程かてい個別こべつ領主りょうしゅ地域ちいき 琉球りゅうきゅう使節しせつ綱引つなひき組合くみあい大塚おおつかぐみ事例じれい」『地方ちほう研究けんきゅう』56-6、2006ねん
  • 飯沼いいぬま雅行まさゆき幕府ばくふ広域こういきやく命令めいれい情報じょうほう伝達でんたつ-琉球りゅうきゅう使節しせつ通航つうこう綱引つなひきやく場合ばあい-」(『ヒストリア』217ごう、2009)
  • 市毛いちげ弘子ひろこ琉球りゅうきゅう王子おうじ清見寺きよみでら」『地方ちほう静岡しずおか』21ごう、1992ねん
  • 大島おおしま延次郎のぶじろう琉球りゅうきゅう使節しせつ江府こうふさんれい」『日本にっぽん交通こうつう論叢ろんそう』1939ねん
  • 太田おおた三郎さぶろう琉球りゅうきゅう使節しせつ江戸えど参府さんぷ触書ふれがき」『沖縄おきなわけん研究けんきゅう紀要きよう』2ごう、1996ねん
  • 紙屋かみやあつし岡山おかやまはん対外たいがい関係かんけい」『いちきゅうきゅうよんいちきゅうきゅう年度ねんどけん報告ほうこくしょ 岡山おかやまはん支配しはい方法ほうほう社会しゃかい構造こうぞう』1996ねん
  • 木村きむらよしさとししも鍛冶たんやなおしんへん琉球りゅうきゅう使節しせつ江戸えどのぼりと御手洗みたらし私家版しかばん、1999ねん
  • 佐藤さとうけん朝鮮ちょうせん通信使つうしんし琉球りゅうきゅう使節しせつ日光にっこうまいり さん使つかい日記にっきから日光にっこう道中どうちゅう随想ずいそうしゃ、2007ねん
  • 下関しものせき立長りっちょう博物館はくぶつかん へんひがしアジアのなかの下関しものせき 近世きんせい下関しものせき対外たいがい交渉こうしょう特別とくべつてん)』1996ねん
  • 玉井たまいけん也「琉球りゅうきゅう使節しせつ通行つうこうたいする「つかまつ構」態勢たいせいについて―伊予いよこく津和地つわじとう事例じれいとして―」『早稲田大学わせだだいがく大学院だいがくいん文学ぶんがく研究けんきゅう紀要きようだい51輯第4分冊ぶんさつ、2006ねん
  • 玉井たまいけん也編『近世きんせい日本にっぽんにおける外国がいこく使節しせつ社会しゃかい変容へんよう―『まもるせい日記にっき』をむ』紙屋かみやあつしこれ研究けんきゅうしつ、2006ねん
    • 上里うえさと隆史たかし「『まもるせい日記にっき』と関連かんれん史料しりょうについて」
    • 鈴木すずき孝幸たかゆき天保てんぽうさん年度ねんど琉球りゅうきゅう使節しせつ派遣はけん延期えんき背景はいけい
    • 安藤あんどう奈々なな江戸えどのぼりの装束しょうぞく路次ろじらく荷物にもつかんするいち考察こうさつ
    • 杉村すぎむらただしきの琉球りゅうきゅう使節しせつ編成へんせい運営うんえい
    • 玉井たまいけん也「琉球りゅうきゅう使節しせつ通航つうこうかんする情報じょうほう収集しゅうしゅうについて」
    • まごあかつきつや琉球りゅうきゅう使者ししゃ江戸えどのぼりにおける死者ししゃ墓参ぼさん問題もんだい
    • 清水しみず光明こうめい琉球りゅうきゅう使節しせつ外交がいこう儀礼ぎれいと「朝拝ちょうはいぶんまわししき」」
    • 金井かない貴司たかし琉球りゅうきゅう使節しせつの「習禮」について」
    • 山上さんじょう至人しじん江戸えどちゅうにおける琉球りゅうきゅう使節しせつ行列ぎょうれつ
  • 玉井たまいけん也「朝鮮ちょうせん通信使つうしんし琉球りゅうきゅう使節しせつ通航つうこう情報じょうほう接待せったい応対おうたい伊予いよこく津和地つわじとう事例じれいとして―」『風俗ふうぞく史学しがく』36ごう、2007ねん
  • 玉井たまいけん也「近世きんせい琉球りゅうきゅう使節しせつ通航つうこう海域かいいきをめぐる情報じょうほう伊予いよこく津和地つわじとう事例じれいとして―」『日本にっぽん歴史れきし』727ごう、2008ねん
  • 豊橋とよはし二川ふたがわ宿本しゅくほんじん資料しりょうかん へん琉球りゅうきゅう使節しせつてん図録ずろく』2001ねん
  • づか達朗たつろう琉球りゅうきゅうじんはかたずねて―江戸えどのぼりルートをたどる―」『地域ちいき文化ぶんか』75ごう、1993ねん
  • 真栄平まえひらぼうあきら江戸えどのぼりのたび墓碑銘ぼひめい」『沖縄おきなわ文化ぶんか研究けんきゅう』21ごう、1995ねん
  • 三宅みやけ英利ひでとし琉球りゅうきゅう使節しせつ小倉こくらはん」『北九州大学きたきゅうしゅうだいがく文学部ぶんがくぶ紀要きようB系列けいれつ』21ごう、1989ねん
  • 福山ふくやま鞆のうら歴史れきし民俗みんぞく資料しりょうかんへんられざる琉球りゅうきゅう使節しせつ 国際こくさい都市とし・鞆のうら』2006ねん
  • 横山よこやままなぶ「琉使名古屋なごや通行つうこう貸本かしほんだいそう」(南島なんとう学会がっかいへん南島なんとう―その歴史れきし風土ふうど―Ⅱ』だいいち書房しょぼう、1979ねん所収しょしゅう

その

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  • 喜瀬きせまきひとし「「江戸えどのぼり、史跡しせき探索たんさくたび」に参加さんかして 琉球りゅうきゅう音楽家おんがくか視点してんより』『沖縄県立芸術大学おきなわけんりつげいじゅつだいがく紀要きよう』6ごう、1998ねん
  • 土田つちた良一りょういち近世きんせい宿駅しゅくえき歴史れきし地理ちりがくてき研究けんきゅう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1994ねん
  • 中澤なかざわ伸弘のぶひろ近世きんせい後期こうき琉球りゅうきゅう和歌わか受容じゅよう」(『神道しんとう宗教しゅうきょう』197ごう、2005ねん
  • 外間ほかま正幸まさゆき江戸えど時代じだい琉球りゅうきゅう使節しせつ音楽おんがく舞踊ぶようについて」『琉球りゅうきゅう政府せいふりつ博物館はくぶつかんかんほうだい2ごう、1969ねん
  • 真栄平まえひらぼうあきら琉球りゅうきゅうにおける家臣かしんだん編成へんせい貿易ぼうえき構造こうぞう―「たびやく知行ちぎょうせい分析ぶんせき―」(藤野ふじのたもつへん九州きゅうしゅう藩政はんせい2』国書刊行会こくしょかんこうかい、1984ねん所収しょしゅう
  • 真栄平まえひらぼうあきら近世きんせい琉球りゅうきゅうにおける航海こうかい信仰しんこう―「たび」の儀礼ぎれい中心ちゅうしんに―」『沖縄おきなわ文化ぶんか』77ごう、1993ねん
  • 宮城みやぎさかえあきら「「江戸えどのぼ史料しりょうちゅう芸能げいのう史料しりょう」『沖縄おきなわ文化ぶんか研究けんきゅう』3ごう、1976ねん

その国外こくがい

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  • 紙屋かみやあつし北京ぺきん琉球りゅうきゅう使節しせつ」『月刊げっかん 歴史れきし手帖てちょうだい23かん6ごう、1995ねん
  • しゅよしひめきよしだい琉球りゅうきゅうこく進貢しんこう使かんせい病死びょうしおよはかそうこう」『だいかい琉球りゅうきゅう中国ちゅうごく交渉こうしょうかんするシンポジウムろん文集ぶんしゅう』1995ねん
  • 西里にしざと喜行よしゆき「咸豊・どう(幕末ばくまつ維新いしん)のなか琉日關係かんけい再考さいこうなおたいさつふう問題もんだいとその周邊しゅうへん」『東洋とうよう研究けんきゅう』64-4ごう、2006ねん
  • 深澤ふかさわあきじんふくしゅうにおける琉球りゅうきゅう使節しせつ構造こうぞうしんだいそんとめ通事つうじぞう中心ちゅうしんに」『歴代れきだいたからあん研究けんきゅう』9ごう、1998ねん
  • 深澤ふかさわあきじん近世きんせい琉球りゅうきゅうにおけるわたりから使節しせつ編成へんせい―19世紀せいき事例じれい中心ちゅうしんに―」『沖縄おきなわ文化ぶんか研究けんきゅう』26ごう、2000ねん
  • 深澤ふかさわあきじん近世きんせい琉球りゅうきゅうわたりから使節しせつにおける特使とくし様相ようそう--清朝せいちょうとの通交つうこう中心ちゅうしんに」『沖縄キリスト教短期大学おきなわきりすときょうたんきだいがく紀要きよう』29ごう、2000ねん
  • 深澤ふかさわあきじん琉球りゅうきゅう使節しせつ北京ぺきん滞在たいざい期間きかん : 清朝せいちょうとの通交つうこう中心ちゅうしんに」『沖縄国際大学おきなわこくさいだいがく総合そうごう学術がくじゅつ研究けんきゅう紀要きよう』8-1ごう、2004ねん
  • 真栄平まえひらぼうあきら琉球りゅうきゅう使節しせつ異国いこく体験たいけん中国ちゅうごく大陸たいりくさんせんキロのたび−」(えいつもる洋子ようこへん『「鎖国さこく」を見直みなおす』、国際こくさい文化ぶんか交流こうりゅう推進すいしん協会きょうかい、1999ねん所収しょしゅう
  • 真栄平まえひらぼうあきら北京ぺきんにおける琉球りゅうきゅう使節しせつむらさきひかりかく」『がじゅまる通信つうしん』41ごう、2005ねん
  • 松浦まつうらあきらよしみやすしじゅうさんねん(いちさんよん)朝鮮ちょうせん使節しせつ北京ぺきん邂逅かいこうした琉球りゅうきゅう使節しせつ」『南島なんとう史学しがく』72ごう、2008ねん

関係かんけい史料しりょう

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  • 池宮いけみや正治しょうじ資料しりょう紹介しょうかいまもるせい日記にっき』」『琉球大学りゅうきゅうだいがく法文学部ほうぶんがくぶ紀要きよう 日本にっぽん東洋とうよう文化ぶんか論集ろんしゅう』1ごう、1995ねん
  • 小野おのまさ二川ふたかわ宿やど本陣ほんじん資料しりょうかん江戸えどのぼ関係かんけい資料しりょう」『史料しりょう編集へんしゅうしつ紀要きようだい27ごう、2002ねん
  • 紙屋かみやあつし徳川とくがわ家康いえやす琉球りゅうきゅうおう対面たいめんかんするいち史料しりょう」『日本にっぽん攷究』22ごう、1996ねん
  • 津波つなみきよし岐阜ぎふ県内けんない江戸えどのぼり」関係かんけい資料しりょう調査ちょうさについて」『沖縄おきなわけん研究けんきゅう紀要きよう』2ごう、1996ねん

書評しょひょう

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  • 横山よこやままなぶ書評しょひょう 宮城みやぎさかえあきらちょ琉球りゅうきゅう使者ししゃ江戸えどのぼり」(南島なんとう文化ぶんか叢書そうしょ4)」『南島なんとう史学しがく』21・22ごう、1983ねん
  • 和田わだ久徳ひさのり書評しょひょう琉球りゅうきゅうこく使節しせつ渡来とらい研究けんきゅう横山よこやままなぶ」『南島なんとう史学しがく』30ごう、1987ねん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 以下いか上原うえはらけんぜん「Ⅲ 寛永かんえい琉球りゅうきゅう使節しせつ」(『日本にっぽん近世きんせい生活せいかつ引 : 琉球りゅうきゅうじん行列ぎょうれつ江戸えどへん』、神奈川大学かながわだいがく日本にっぽん常民じょうみん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ文字もじ資料しりょう研究けんきゅうセンター、2020ねん)より引用いんよう引用いんよう開始かいし謝恩しゃおんおんしゃ使つかい慶賀けいがけい使つかい島津しまつ藩主はんしゅひきいられて江戸えど参向さんこうすることはふるくから「江戸えどじょう(のぼ)り」といいならわされてきたが、史料しりょうじょうそのように表記ひょうきしたれいはあまりられない。むしろおおくみられるのは「江戸えどりつ(だち)」である。琉球りゅうきゅう使節しせつ江戸えどくことを「江戸えどのぼり」とよんだのは、鹿児島かごしまくことを「うえこく」としょうしたことに由来ゆらいするのではとおもうが、事実じじつ関係かんけいについては今後こんごめていく必要ひつようがある。ともかくここでは史料しりょうじょう表記ひょうきにしたがって「江戸えどりつ」の表現ひょうげん使つかうことにする。」引用いんよう終了しゅうりょう
  2. ^ 朝忠ちょうちゅう」から、のちに「あさよし」にあらためる。
  3. ^ 朝陽あさひ」から、のちに「あささち」にあらためる。
  4. ^ あさ敕」から、のちに「ちょうえい」にあらためる。
  5. ^ 往路おうろ鹿児島かごしまにて死去しきょ急遽きゅうきょ普天間ふてんまおや雲上うんじょうあさてんが「だま」となり豊見城とみぐすく王子おうじやくつとめた。

関連かんれん項目こうもく

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