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まんしゅう国軍こくぐん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
まんしゅう国軍こくぐん
滿まんしゅう國軍こくぐん
創設そうせつ 1932ねん大同だいどう元年がんねん
解散かいさん 1945ねん康徳やすのり12ねん
派生はせい組織そしき
指揮しきかん
大元帥だいげんすい 康徳やすのりみかどあいしんさとし溥儀ふぎ
そう人員じんいん
徴兵ちょうへい制度せいど 20さいから23さい男子だんし 3年間ねんかん
関連かんれん項目こうもく
歴史れきし
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まんしゅうこく陸軍りくぐんしょく星章せいしょう
陸軍りくぐん中尉ちゅうい正装せいそうあいしんさとし溥傑、1937ねん康徳やすのり4ねん昭和しょうわ12ねん)4がつ3にち東京とうきょう軍人ぐんじん会館かいかん九段会館くだんかいかん)にて

まんしゅう国軍こくぐん(まんしゅうこくぐん)は、まんしゅうこく軍隊ぐんたいである。1932ねん大同だいどう元年がんねん創設そうせつ1945ねん康徳やすのり12ねん解体かいたい

まんしゅう国軍こくぐんは、陸海りくかいぐん條例じょうれい大同だいどう元年がんねん4がつ15にち軍令ぐんれいだい1ごう[1]だい1じょう陸海りくかいぐん國内こくない治安ちあんなみ邊境へんきょう及江うみ警備けいびにんズ」と規定きていされているように、「国内こくない治安ちあん維持いじ」「国境こっきょう周辺しゅうへん河川かせん領海りょうかい警備けいび」をおも任務にんむとしており、正規せいきぐんというよりは関東軍かんとうぐん後方こうほう支援しえん部隊ぶたいあるいは国境警備隊こっきょうけいびたい沿岸えんがん警備けいびたい治安ちあん部隊ぶたいとしての性格せいかくつよかった。後年こうねん関東軍かんとうぐん弱体じゃくたいソビエト連邦れんぽうとの開戦かいせん可能かのうせいから実質じっしつてき国軍こくぐんすすめられたが、そのときむかえることなく終戦しゅうせんむかえ、解体かいたいされた。

組織そしき[編集へんしゅう]

まんしゅうこくでは、憲法けんぽう相当そうとうする「政府せいふ組織そしきほう」(大同だいどう元年がんねん3がつ9にちきょうれいだい1ごう[2]だい12じょう執政しっせい陸海空りくかいくうぐん統率とうそつス」および「陸海りくかいぐん條例じょうれい」(大同だいどう元年がんねん4がつ15にち軍令ぐんれいだい1ごう[1]だい2じょう執政しっせい陸海りくかいぐん統率とうそつス」により、まんしゅうこく執政しっせい統率とうそつした陸軍りくぐんおよ海軍かいぐん組織そしきされた。

みかどせい実施じっしまんしゅう帝国ていこくでは、おなじく憲法けんぽう相当そうとうする「組織そしきほう」(康徳やすのり元年がんねん3がつ1にち制定せいてい[3]だい11じょうで「皇帝こうてい陸海空りくかいくうぐん統率とうそつス」とさだめられ、まんしゅうこく皇帝こうてい統率とうそつした陸軍りくぐん海軍かいぐん飛行ひこうたい空軍くうぐん)が組織そしきされた。

軍制ぐんせい[編集へんしゅう]

指揮しき系統けいとう[編集へんしゅう]

かくぐん当初とうしょは6ぐんのちに11ぐん)のちょう司令しれいかんしょうし、警備けいび司令しれいかん陸軍りくぐん)・艦隊かんたい司令しれいかん海軍かいぐんともまんしゅうこく執政しっせい皇帝こうてい即位そくいまんしゅうこく皇帝こうてい)である溥儀ふぎ直接ちょくせつ指揮しきかれた(溥儀ふぎ天皇てんのう同様どうようぐん統帥とうすいする大元帥だいげんすい地位ちいにあった)。ただし、それはあくまで制度せいどじょうはなしである。日系にっけいぐんかん異動いどう昇格しょうかく人事じんじについては、関東軍かんとうぐん司令しれい承認しょうにん必要ひつようであり、その事項じこうについても、関東軍かんとうぐん指導しどうによるところがおおかった。

階級かいきゅう[編集へんしゅう]

まんしゅうこくでは士官しかん相当そうとうするぐんかん階級かいきゅうを「しょう」「こう」「じょう」のさんとうけ、さらにそれぞれをさんきゅうけてさんとうきゅうきゅうけた。

まんしゅうこく陸軍りくぐん[編集へんしゅう]

1932ねん大同だいどう元年がんねん[編集へんしゅう]

まんしゅうこくでは、1932ねん大同だいどう元年がんねん制定せいてい陸軍りくぐんかんへい等級とうきゅうせきスルけん大同だいどう元年がんねん9がつ16にち軍令ぐんれいだい8ごう[4]により、まんしゅうこく陸軍りくぐん階級かいきゅうさだめられた。ぐんかんさんとうきゅうきゅうせいり、上等じょうとう将官しょうかん中等ちゅうとうこうかん初等しょとう尉官いかんさんとうけ、かくとう上中かみなかしょうさんきゅうけた。将官しょうかん同等どうとうかん佐官さかん)は上等じょうとうだいいちきゅうかずきゅうとし、こうかんおよ尉官いかん同等どうとうかんかくさんきゅういた。ぐんおよへい勤務きんむ標準ひょうじゅんによりかくさんとうけ(准尉じゅんいのぞく)、ぐん上士じょうしちゅう下士かしへい上等じょうとうへい一等いっとうへい二等兵にとうへいとした。軍用ぐんよう文官ぶんかん少将しょうしょう最上級さいじょうきゅうとした。また、将官しょうかん以外いがい大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん同様どうよう兵科へいかまた各部かくぶかんむりしょうした(れい憲兵けんぺいうえこう歩兵ほへいちゅうこう騎兵きへい少尉しょうい工兵こうへい上士じょうし輜重しちょうへい上等じょうとうへいなど)。

陸軍りくぐんかんへい等級とうきゅうひょう:1932ねん大同だいどう元年がんねん)9がつ16にち-1934ねん康徳やすのり元年がんねん)6がつ30にち
上等じょうとう
将官しょうかん
うえすすむ 軍需ぐんじゅ将官しょうかん
同等どうとうかん
軍医ぐんい将官しょうかん
同等どうとうかん
中将ちゅうじょう 軍需ぐんじゅ総監そうかん 軍医ぐんい総監そうかん
少将しょうしょう 軍需ぐんじゅかん 軍医ぐんいかん
中等ちゅうとう
こうかん
憲兵けんぺいうえこう 歩兵ほへいうえこう 騎兵きへいうえこう 砲兵ほうへいうえこう 工兵こうへいうえこう 輜重しちょうへいじょうこう 軍需ぐんじゅこうかん
同等どうとうかん
一等いっとう軍需ぐんじゅただし 軍医ぐんいこうかん
同等どうとうかん
一等いっとう軍医ぐんいただし 一等いっとうやくただし 獣医じゅういこうかん
同等どうとうかん
一等いっとう獣医じゅういただし
憲兵けんぺいちゅうこう 歩兵ほへいちゅうこう 騎兵きへいちゅうこう 砲兵ほうへいちゅうこう 工兵こうへいちゅうこう 輜重しちょうへいちゅうこう とう軍需ぐんじゅただし とう軍医ぐんいただし とうやくただし とう獣医じゅういただし
憲兵けんぺいしょうこう 歩兵ほへいしょうこう 騎兵きへいしょうこう 砲兵ほうへいしょうこう 工兵こうへいしょうこう 輜重しちょうへいしょうこう さんとう軍需ぐんじゅただし さんとう軍医ぐんいただし さんとうやくただし さんとう獣医じゅういただし
初等しょとう
尉官いかん
憲兵けんぺいじょうじょう 歩兵ほへいじょうじょう 騎兵きへいじょうじょう 砲兵ほうへいじょうじょう 工兵こうへいじょうじょう 輜重しちょうへいじょうじょう 軍需ぐんじゅ尉官いかん
同等どうとうかん
一等いっとう軍需ぐんじゅ 軍医ぐんい尉官いかん
同等どうとうかん
一等いっとう軍医ぐんい 一等いっとうやく 獣医じゅうい尉官いかん
同等どうとうかん
一等いっとう獣医じゅうい 軍楽ぐんがく尉官いかん
同等どうとうかん
一等いっとう軍楽ぐんがく
憲兵けんぺい中尉ちゅうい 歩兵ほへい中尉ちゅうい 騎兵きへい中尉ちゅうい 砲兵ほうへい中尉ちゅうい 工兵こうへい中尉ちゅうい 輜重しちょうへい中尉ちゅうい とう軍需ぐんじゅ とう軍医ぐんい とうやく とう獣医じゅうい とう軍楽ぐんがく
憲兵けんぺい少尉しょうい 歩兵ほへい少尉しょうい 騎兵きへい少尉しょうい 砲兵ほうへい少尉しょうい 工兵こうへい少尉しょうい 輜重しちょうへい少尉しょうい さんとう軍需ぐんじゅ さんとう軍医ぐんい さんとうやく さんとう獣医じゅうい さんとう軍楽ぐんがく
准尉じゅんいかん 憲兵けんぺい准尉じゅんい 歩兵ほへい准尉じゅんい 騎兵きへい准尉じゅんい 砲兵ほうへい准尉じゅんい 工兵こうへい准尉じゅんい 輜重しちょうへい准尉じゅんい 准尉じゅんい
同等どうとうかん
准尉じゅんい
同等どうとうかん
看護かんご准尉じゅんい 准尉じゅんい
同等どうとうかん
獣医じゅうい准尉じゅんい
砲兵ほうへいこうちょう
ぐん 憲兵けんぺい上士じょうし 歩兵ほへい上士じょうし 騎兵きへい上士じょうし 騎兵きへいてのひらこう
上士じょうし
砲兵ほうへい上士じょうし 砲兵ほうへいてのひらこう
上士じょうし
砲兵ほうへいくらこう
上士じょうし
砲兵ほうへいやりこう
上士じょうし
砲兵ほうへい木工もっこう
上士じょうし
砲兵ほうへい鍛工たんこう
上士じょうし
工兵こうへい上士じょうし 輜重しちょうへい上士じょうし 輜重しちょうへい
てのひらこう上士じょうし
ぐん 軍需ぐんじゅ上士じょうし ぬいこう上士じょうし くつこう上士じょうし ぐん 看護かんご上士じょうし ぐん 獣医じゅうい上士じょうし ぐん 軍楽ぐんがく上士じょうし
憲兵けんぺいちゅう 歩兵ほへいちゅう 騎兵きへいちゅう 騎兵きへいてのひらこう
ちゅう
砲兵ほうへいちゅう 砲兵ほうへいてのひらこう
ちゅう
砲兵ほうへいくらこう
ちゅう
砲兵ほうへいやりこう
ちゅう
砲兵ほうへい木工もっこう
ちゅう
砲兵ほうへい鍛工たんこう
ちゅう
工兵こうへいちゅう 輜重しちょうへいちゅう 輜重しちょうへい
てのひらこうちゅう
軍需ぐんじゅちゅう ぬいこうちゅう くつこうちゅう 看護かんごちゅう 獣医じゅういちゅう 軍楽ぐんがくちゅう
憲兵けんぺい下士かし 歩兵ほへい下士かし 騎兵きへい下士かし 騎兵きへいてのひらこう
下士かし
砲兵ほうへい下士かし 砲兵ほうへいてのひらこう
下士かし
砲兵ほうへいくらこう
下士かし
砲兵ほうへいやりこう
下士かし
砲兵ほうへい木工もっこう
下士かし
砲兵ほうへい鍛工たんこう
下士かし
工兵こうへい下士かし 輜重しちょうへい下士かし 輜重しちょうへい
てのひらこう下士かし
軍需ぐんじゅ下士かし ぬいこう下士かし くつこう下士かし 看護かんご下士かし 獣医じゅうい下士かし 軍楽ぐんがく下士かし
へい 憲兵けんぺい上等じょうとうへい 歩兵ほへい上等じょうとうへい 騎兵きへい上等じょうとうへい 砲兵ほうへい上等じょうとうへい 工兵こうへい上等じょうとうへい 輜重しちょうへい
上等じょうとうへい
へい 上等じょうとうぬいこう 上等じょうとうくつこう へい 上等じょうとう看護かんごへい へい 軍楽ぐんがく上等じょうとうへい
歩兵ほへい一等いっとうへい 騎兵きへい一等いっとうへい 砲兵ほうへい一等いっとうへい 工兵こうへい一等いっとうへい 輜重しちょうへい
一等いっとうへい
一等いっとうぬいこう 一等いっとうくつこう 一等いっとう看護かんごへい
歩兵ほへい二等兵にとうへい 騎兵きへい二等兵にとうへい 砲兵ほうへい二等兵にとうへい 工兵こうへい二等兵にとうへい 輜重しちょうへい
二等兵にとうへい
とうぬいたくみ とうくつこう とう看護かんごへい
1934ねん康徳やすのり元年がんねん[編集へんしゅう]

帝政ていせい移行いこう1934ねん康徳やすのり元年がんねん)、陸軍りくぐん武官ぶかん及兵ノ等級とうきゅうせきスルけん康徳やすのり元年がんねん6がつ8にちみことのりれいだい46ごう[5]制定せいていされ、陸軍りくぐん武官ぶかんおよへい等級とうきゅうさだめられた。階級かいきゅうめいに「陸軍りくぐん」をかんむりしょうし、下士かし呼称こしょうしょう変更へんこうされたほか、騎兵きへい砲兵ほうへい輜重しちょうへい軍需ぐんじゅについては細分さいぶんされていた階級かいきゅう統合とうごうおこなわれた。また、将官しょうかん同等どうとうかんこうかん同等どうとうかんおよ尉官いかん同等どうとうかん階級かいきゅうめい兵科へいか階級かいきゅうめいそろえられた。

陸軍りくぐん武官ぶかん及兵ノ等級とうきゅうひょう:1934ねん康徳やすのり元年がんねん)7がつ1にち-1939ねん康徳やすのり6ねん)2がつ14にち[6]
将官しょうかん うえすすむ ぐんかん 陸軍りくぐんじょうはた ぐん
中将ちゅうじょう 陸軍りくぐん中将ちゅうじょう 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅ中将ちゅうじょう 陸軍りくぐん軍医ぐんい中将ちゅうじょう
少将しょうしょう 陸軍りくぐん少将しょうしょう 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅ少将しょうしょう 陸軍りくぐん軍医ぐんい少将しょうしょう 陸軍りくぐん軍法ぐんぽう少将しょうしょう
こうかん うえこう 陸軍りくぐん憲兵けんぺいうえこう 陸軍りくぐん歩兵ほへいうえこう 陸軍りくぐん騎兵きへいうえこう 陸軍りくぐん砲兵ほうへいうえこう 陸軍りくぐん工兵こうへいうえこう 陸軍りくぐん輜重しちょうへいじょうこう 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅうえこう 陸軍りくぐん軍医ぐんいうえこう りく軍司ぐんじやくじょうこう 陸軍りくぐん獣医じゅういうえこう 陸軍りくぐん軍法ぐんぽううえこう
ちゅうこう 陸軍りくぐん憲兵けんぺいちゅうこう 陸軍りくぐん歩兵ほへいちゅうこう 陸軍りくぐん騎兵きへいちゅうこう 陸軍りくぐん砲兵ほうへいちゅうこう 陸軍りくぐん工兵こうへいちゅうこう 陸軍りくぐん輜重しちょうへいちゅうこう 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅちゅうこう 陸軍りくぐん軍医ぐんいちゅうこう りく軍司ぐんじやくちゅうこう 陸軍りくぐん獣医じゅういちゅうこう 陸軍りくぐん軍法ぐんぽうちゅうこう
しょうこう 陸軍りくぐん憲兵けんぺいしょうこう 陸軍りくぐん歩兵ほへいしょうこう 陸軍りくぐん騎兵きへいしょうこう 陸軍りくぐん砲兵ほうへいしょうこう 陸軍りくぐん工兵こうへいしょうこう 陸軍りくぐん輜重しちょうへいしょうこう 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅしょうこう 陸軍りくぐん軍医ぐんいしょうこう りく軍司ぐんじやくしょうこう 陸軍りくぐん獣医じゅういしょうこう 陸軍りくぐん軍法ぐんぽうしょうこう
尉官いかん うえじょう 陸軍りくぐん憲兵けんぺいじょうじょう 陸軍りくぐん歩兵ほへいじょうじょう 陸軍りくぐん騎兵きへいじょうじょう 陸軍りくぐん砲兵ほうへいじょうじょう 陸軍りくぐん工兵こうへいじょうじょう 陸軍りくぐん輜重しちょうへいじょうじょう 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅじょうじょう 陸軍りくぐん軍医ぐんいじょうじょう りく軍司ぐんじやくじょうじょう 陸軍りくぐん獣医じゅういじょうじょう 陸軍りくぐん軍楽ぐんがくじょうじょう 陸軍りくぐん軍法ぐんぽうじょうじょう
中尉ちゅうい 陸軍りくぐん憲兵けんぺい中尉ちゅうい 陸軍りくぐん歩兵ほへい中尉ちゅうい 陸軍りくぐん騎兵きへい中尉ちゅうい 陸軍りくぐん砲兵ほうへい中尉ちゅうい 陸軍りくぐん工兵こうへい中尉ちゅうい 陸軍りくぐん輜重しちょうへい中尉ちゅうい 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅ中尉ちゅうい 陸軍りくぐん軍医ぐんい中尉ちゅうい りく軍司ぐんじやく中尉ちゅうい 陸軍りくぐん獣医じゅうい中尉ちゅうい 陸軍りくぐん軍楽ぐんがく中尉ちゅうい 陸軍りくぐん軍法ぐんぽう中尉ちゅうい
少尉しょうい 陸軍りくぐん憲兵けんぺい少尉しょうい 陸軍りくぐん歩兵ほへい少尉しょうい 陸軍りくぐん騎兵きへい少尉しょうい 陸軍りくぐん砲兵ほうへい少尉しょうい 陸軍りくぐん工兵こうへい少尉しょうい 陸軍りくぐん輜重しちょうへい少尉しょうい 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅ少尉しょうい 陸軍りくぐん軍医ぐんい少尉しょうい りく軍司ぐんじやく少尉しょうい 陸軍りくぐん獣医じゅうい少尉しょうい 陸軍りくぐん軍楽ぐんがく少尉しょうい 陸軍りくぐん軍法ぐんぽう少尉しょうい
准尉じゅんいかん 准尉じゅんい ぐん 陸軍りくぐん憲兵けんぺい准尉じゅんい 陸軍りくぐん歩兵ほへい准尉じゅんい 陸軍りくぐん騎兵きへい准尉じゅんい 陸軍りくぐん砲兵ほうへい准尉じゅんい 陸軍りくぐん工兵こうへい准尉じゅんい 陸軍りくぐん輜重しちょうへい准尉じゅんい 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅ准尉じゅんい 陸軍りくぐん看護かんご准尉じゅんい りく軍司ぐんじやく准尉じゅんい 陸軍りくぐん獣医じゅうい准尉じゅんい 陸軍りくぐん軍楽ぐんがく准尉じゅんい 陸軍りくぐん軍法ぐんぽう准尉じゅんい
下士官かしかん 上士じょうし 陸軍りくぐん憲兵けんぺい上士じょうし 陸軍りくぐん歩兵ほへい上士じょうし 陸軍りくぐん騎兵きへい上士じょうし 陸軍りくぐん砲兵ほうへい上士じょうし 陸軍りくぐん工兵こうへい上士じょうし 陸軍りくぐん輜重しちょうへい上士じょうし 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅ上士じょうし 陸軍りくぐん看護かんご上士じょうし りく軍司ぐんじやく上士じょうし 陸軍りくぐん獣医じゅうい上士じょうし 陸軍りくぐん軍楽ぐんがく上士じょうし 陸軍りくぐん軍法ぐんぽう上士じょうし
ちゅう 陸軍りくぐん憲兵けんぺいちゅう 陸軍りくぐん歩兵ほへいちゅう 陸軍りくぐん騎兵きへいちゅう 陸軍りくぐん砲兵ほうへいちゅう 陸軍りくぐん工兵こうへいちゅう 陸軍りくぐん輜重しちょうへいちゅう 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅちゅう 陸軍りくぐん看護かんごちゅう りく軍司ぐんじやくちゅう 陸軍りくぐん獣医じゅういちゅう 陸軍りくぐん軍楽ぐんがくちゅう 陸軍りくぐん軍法ぐんぽうちゅう
しょう 陸軍りくぐん憲兵けんぺいしょう 陸軍りくぐん歩兵ほへいしょう 陸軍りくぐん騎兵きへいしょう 陸軍りくぐん砲兵ほうへいしょう 陸軍りくぐん工兵こうへいしょう 陸軍りくぐん輜重しちょうへいしょう 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅしょう 陸軍りくぐん看護かんごしょう りく軍司ぐんじやくしょう 陸軍りくぐん獣医じゅういしょう 陸軍りくぐん軍楽ぐんがくしょう 陸軍りくぐん軍法ぐんぽうしょう
へい 上等じょうとうへい へい 陸軍りくぐん憲兵けんぺい上等じょうとうへい 陸軍りくぐん歩兵ほへい上等じょうとうへい 陸軍りくぐん騎兵きへい上等じょうとうへい 陸軍りくぐん砲兵ほうへい上等じょうとうへい 陸軍りくぐん工兵こうへい上等じょうとうへい 陸軍りくぐん輜重しちょうへい上等じょうとうへい へい 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅ上等じょうとうへい 陸軍りくぐん看護かんご上等じょうとうへい りく軍司ぐんじやく上等じょうとうへい 陸軍りくぐん獣医じゅうい上等じょうとうへい 陸軍りくぐん軍楽ぐんがく上等じょうとうへい
一等いっとうへい 陸軍りくぐん歩兵ほへい一等いっとうへい 陸軍りくぐん騎兵きへい一等いっとうへい 陸軍りくぐん砲兵ほうへい一等いっとうへい 陸軍りくぐん工兵こうへい一等いっとうへい 陸軍りくぐん輜重しちょうへい一等いっとうへい 陸軍りくぐん看護かんご一等いっとうへい
二等兵にとうへい 陸軍りくぐん歩兵ほへい二等兵にとうへい 陸軍りくぐん騎兵きへい二等兵にとうへい 陸軍りくぐん砲兵ほうへい二等兵にとうへい 陸軍りくぐん工兵こうへい二等兵にとうへい 陸軍りくぐん輜重しちょうへい二等兵にとうへい 陸軍りくぐん看護かんご二等兵にとうへい
1939ねん康徳やすのり6ねん[編集へんしゅう]

1939ねん康徳やすのり6ねん)の康徳やすのり元年がんねんみことのりれいだいよんじゅうろくごう陸軍りくぐん武官ぶかん及兵ノ等級とうきゅうせきスルけん改正かいせいけん康徳やすのり6ねん2がつ2にちみことのりれいだい11ごう[7]により、全部ぜんぶ改正かいせいされて「陸軍りくぐん武官ぶかん官等かんとう及兵ノ等級とうきゅうせきスルけん」に変更へんこうされ、江上こうじょうへい航空こうくうへいかく兵科へいか技術ぎじゅつ追加ついかされたほか、衛生えいせいししつとむについては階級かいきゅうめい追加ついか変更へんこうおこなわれた。また、上等じょうとうへい上兵かみへい一等いっとうへいちゅうへい二等兵にとうへいしょうへい改称かいしょうした。なお、ほん改正かいせいともない、かく兵科へいか名称めいしょうはじめて記載きさいされている。

陸軍りくぐん武官ぶかん官等かんとう及兵ノ等級とうきゅうひょう:1939ねん康徳やすのり6ねん)2がつ15にち-1941ねん康徳やすのり8ねん)10がつ21にち[8]
兵科へいかべつ 兵科へいか
憲兵けんぺい 歩兵ほへい 騎兵きへい 砲兵ほうへい 工兵こうへい 江上こうじょうへい 航空こうくうへい 輜重しちょうへい 軍需ぐんじゅ 衛生えいせい ししつとむ 技術ぎじゅつ 軍法ぐんぽう 軍楽ぐんがく
将官しょうかん うえすすむ 陸軍りくぐんじょうはた
中将ちゅうじょう 陸軍りくぐん中将ちゅうじょう 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅ中将ちゅうじょう 陸軍りくぐん軍医ぐんい中将ちゅうじょう りく軍司ぐんじやく中将ちゅうじょう 陸軍りくぐん獣医じゅうい中将ちゅうじょう 陸軍りくぐん技術ぎじゅつ中将ちゅうじょう 陸軍りくぐん軍法ぐんぽう中将ちゅうじょう
少将しょうしょう 陸軍りくぐん少将しょうしょう 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅ少将しょうしょう 陸軍りくぐん軍医ぐんい少将しょうしょう りく軍司ぐんじやく少将しょうしょう 陸軍りくぐん獣医じゅうい少将しょうしょう 陸軍りくぐん技術ぎじゅつ少将しょうしょう 陸軍りくぐん軍法ぐんぽう少将しょうしょう
こうかん うえこう 陸軍りくぐん憲兵けんぺいうえこう 陸軍りくぐん歩兵ほへいうえこう 陸軍りくぐん騎兵きへいうえこう 陸軍りくぐん砲兵ほうへいうえこう 陸軍りくぐん工兵こうへいうえこう 陸軍りくぐん江上こうじょうへいじょうこう 陸軍りくぐん航空こうくうへいじょうこう 陸軍りくぐん輜重しちょうへいじょうこう 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅうえこう 陸軍りくぐん軍医ぐんいうえこう りく軍司ぐんじやくじょうこう 陸軍りくぐん獣医じゅういうえこう 陸軍りくぐん技術ぎじゅつうえこう 陸軍りくぐん軍法ぐんぽううえこう
ちゅうこう 陸軍りくぐん憲兵けんぺいちゅうこう 陸軍りくぐん歩兵ほへいちゅうこう 陸軍りくぐん騎兵きへいちゅうこう 陸軍りくぐん砲兵ほうへいちゅうこう 陸軍りくぐん工兵こうへいちゅうこう 陸軍りくぐん江上こうじょうへいちゅうこう 陸軍りくぐん航空こうくうへいちゅうこう 陸軍りくぐん輜重しちょうへいちゅうこう 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅちゅうこう 陸軍りくぐん軍医ぐんいちゅうこう りく軍司ぐんじやくちゅうこう 陸軍りくぐん獣医じゅういちゅうこう 陸軍りくぐん技術ぎじゅつちゅうこう 陸軍りくぐん軍法ぐんぽうちゅうこう
しょうこう 陸軍りくぐん憲兵けんぺいしょうこう 陸軍りくぐん歩兵ほへいしょうこう 陸軍りくぐん騎兵きへいしょうこう 陸軍りくぐん砲兵ほうへいしょうこう 陸軍りくぐん工兵こうへいしょうこう 陸軍りくぐん江上こうじょうへいしょうこう 陸軍りくぐん航空こうくうへいしょうこう 陸軍りくぐん輜重しちょうへいしょうこう 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅしょうこう 陸軍りくぐん軍医ぐんいしょうこう りく軍司ぐんじやくしょうこう 陸軍りくぐん衛生えいせいしょうこう 陸軍りくぐん獣医じゅういしょうこう 陸軍りくぐんじゅうつとむしょうこう 陸軍りくぐん技術ぎじゅつしょうこう 陸軍りくぐん軍法ぐんぽうしょうこう 陸軍りくぐん軍楽ぐんがくしょうこう
尉官いかん うえじょう 陸軍りくぐん憲兵けんぺいじょうじょう 陸軍りくぐん歩兵ほへいじょうじょう 陸軍りくぐん騎兵きへいじょうじょう 陸軍りくぐん砲兵ほうへいじょうじょう 陸軍りくぐん工兵こうへいじょうじょう 陸軍りくぐん江上こうじょうへいじょうじょう 陸軍りくぐん航空こうくうへいじょうじょう 陸軍りくぐん輜重しちょうへいじょうじょう 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅじょうじょう 陸軍りくぐん軍医ぐんいじょうじょう りく軍司ぐんじやくじょうじょう 陸軍りくぐん衛生えいせいじょうじょう 陸軍りくぐん獣医じゅういじょうじょう 陸軍りくぐんじゅうつとむじょうじょう 陸軍りくぐん技術ぎじゅつじょうじょう 陸軍りくぐん軍法ぐんぽうじょうじょう 陸軍りくぐん軍楽ぐんがくじょうじょう
中尉ちゅうい 陸軍りくぐん憲兵けんぺい中尉ちゅうい 陸軍りくぐん歩兵ほへい中尉ちゅうい 陸軍りくぐん騎兵きへい中尉ちゅうい 陸軍りくぐん砲兵ほうへい中尉ちゅうい 陸軍りくぐん工兵こうへい中尉ちゅうい 陸軍りくぐん江上こうじょうへい中尉ちゅうい 陸軍りくぐん航空こうくうへい中尉ちゅうい 陸軍りくぐん輜重しちょうへい中尉ちゅうい 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅ中尉ちゅうい 陸軍りくぐん軍医ぐんい中尉ちゅうい りく軍司ぐんじやく中尉ちゅうい 陸軍りくぐん衛生えいせい中尉ちゅうい 陸軍りくぐん獣医じゅうい中尉ちゅうい 陸軍りくぐんじゅうつとむ中尉ちゅうい 陸軍りくぐん技術ぎじゅつ中尉ちゅうい 陸軍りくぐん軍法ぐんぽう中尉ちゅうい 陸軍りくぐん軍楽ぐんがく中尉ちゅうい
少尉しょうい 陸軍りくぐん憲兵けんぺい少尉しょうい 陸軍りくぐん歩兵ほへい少尉しょうい 陸軍りくぐん騎兵きへい少尉しょうい 陸軍りくぐん砲兵ほうへい少尉しょうい 陸軍りくぐん工兵こうへい少尉しょうい 陸軍りくぐん江上こうじょうへい少尉しょうい 陸軍りくぐん航空こうくうへい少尉しょうい 陸軍りくぐん輜重しちょうへい少尉しょうい 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅ少尉しょうい 陸軍りくぐん軍医ぐんい少尉しょうい りく軍司ぐんじやく少尉しょうい 陸軍りくぐん衛生えいせい少尉しょうい 陸軍りくぐん獣医じゅうい少尉しょうい 陸軍りくぐんじゅうつとむ少尉しょうい 陸軍りくぐん技術ぎじゅつ少尉しょうい 陸軍りくぐん軍法ぐんぽう少尉しょうい 陸軍りくぐん軍楽ぐんがく少尉しょうい
准尉じゅんいかん 准尉じゅんい 陸軍りくぐん憲兵けんぺい准尉じゅんい 陸軍りくぐん歩兵ほへい准尉じゅんい 陸軍りくぐん騎兵きへい准尉じゅんい 陸軍りくぐん砲兵ほうへい准尉じゅんい 陸軍りくぐん工兵こうへい准尉じゅんい 陸軍りくぐん江上こうじょうへい准尉じゅんい 陸軍りくぐん航空こうくうへい准尉じゅんい 陸軍りくぐん輜重しちょうへい准尉じゅんい 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅ准尉じゅんい 陸軍りくぐん療工准尉じゅんい 陸軍りくぐん衛生えいせい准尉じゅんい 陸軍りくぐんじゅうつとむ准尉じゅんい 陸軍りくぐん技術ぎじゅつ准尉じゅんい 陸軍りくぐん軍法ぐんぽう准尉じゅんい 陸軍りくぐん軍楽ぐんがく准尉じゅんい
下士官かしかん 上士じょうし 陸軍りくぐん憲兵けんぺい上士じょうし 陸軍りくぐん歩兵ほへい上士じょうし 陸軍りくぐん騎兵きへい上士じょうし 陸軍りくぐん砲兵ほうへい上士じょうし 陸軍りくぐん工兵こうへい上士じょうし 陸軍りくぐん江上こうじょうへい上士じょうし 陸軍りくぐん航空こうくうへい上士じょうし 陸軍りくぐん輜重しちょうへい上士じょうし 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅ上士じょうし 陸軍りくぐん療工上士じょうし 陸軍りくぐん衛生えいせい上士じょうし 陸軍りくぐんじゅうつとむ上士じょうし 陸軍りくぐん技術ぎじゅつ上士じょうし 陸軍りくぐん軍法ぐんぽう上士じょうし 陸軍りくぐん軍楽ぐんがく上士じょうし
ちゅう 陸軍りくぐん憲兵けんぺいちゅう 陸軍りくぐん歩兵ほへいちゅう 陸軍りくぐん騎兵きへいちゅう 陸軍りくぐん砲兵ほうへいちゅう 陸軍りくぐん工兵こうへいちゅう 陸軍りくぐん江上こうじょうへいちゅう 陸軍りくぐん航空こうくうへいちゅう 陸軍りくぐん輜重しちょうへいちゅう 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅちゅう 陸軍りくぐん療工ちゅう 陸軍りくぐん衛生えいせいちゅう 陸軍りくぐんじゅうつとむちゅう 陸軍りくぐん技術ぎじゅつちゅう 陸軍りくぐん軍法ぐんぽうちゅう 陸軍りくぐん軍楽ぐんがくちゅう
しょう 陸軍りくぐん憲兵けんぺいしょう 陸軍りくぐん歩兵ほへいしょう 陸軍りくぐん騎兵きへいしょう 陸軍りくぐん砲兵ほうへいしょう 陸軍りくぐん工兵こうへいしょう 陸軍りくぐん江上こうじょうへいしょう 陸軍りくぐん航空こうくうへいしょう 陸軍りくぐん輜重しちょうへいしょう 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅしょう 陸軍りくぐん療工しょう 陸軍りくぐん衛生えいせいしょう 陸軍りくぐんじゅうつとむしょう 陸軍りくぐん技術ぎじゅつしょう 陸軍りくぐん軍法ぐんぽうしょう 陸軍りくぐん軍楽ぐんがくしょう
へい 上兵かみへい 陸軍りくぐん憲兵けんぺい上兵かみへい 陸軍りくぐん歩兵ほへい上兵かみへい 陸軍りくぐん騎兵きへい上兵かみへい 陸軍りくぐん砲兵ほうへい上兵かみへい 陸軍りくぐん工兵こうへい上兵かみへい 陸軍りくぐん江上こうじょうへい上兵かみへい 陸軍りくぐん航空こうくうへい上兵かみへい 陸軍りくぐん輜重しちょうへい上兵かみへい 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅ上兵かみへい 陸軍りくぐん療工上兵かみへい 陸軍りくぐん衛生えいせい上兵かみへい 陸軍りくぐんじゅうつとむ上兵かみへい 陸軍りくぐん軍楽ぐんがく上兵かみへい
ちゅうへい 陸軍りくぐん歩兵ほへいちゅうへい 陸軍りくぐん騎兵きへいちゅうへい 陸軍りくぐん砲兵ほうへいちゅうへい 陸軍りくぐん工兵こうへいちゅうへい 陸軍りくぐん江上こうじょうへいちゅうへい 陸軍りくぐん航空こうくうへいちゅうへい 陸軍りくぐん輜重しちょうへいちゅうへい 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅちゅうへい 陸軍りくぐん衛生えいせいちゅうへい
しょうへい 陸軍りくぐん歩兵ほへいしょうへい 陸軍りくぐん騎兵きへいしょうへい 陸軍りくぐん砲兵ほうへいしょうへい 陸軍りくぐん工兵こうへいしょうへい 陸軍りくぐん江上こうじょうへいしょうへい 陸軍りくぐん航空こうくうへいしょうへい 陸軍りくぐん輜重しちょうへいしょうへい 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅしょうへい 陸軍りくぐん衛生えいせいしょうへい
1941ねん康徳やすのり8ねん[編集へんしゅう]

1941ねん康徳やすのり8ねん)の康徳やすのり元年がんねんみことのりれいだいよんじゅうろくごう陸軍りくぐん武官ぶかん官等かんとう及兵ノ等級とうきゅうせきスルけんちゅう改正かいせいけん康徳やすのり8ねん10がつ22にちみことのりれいだい259ごう[9]で、憲兵けんぺい以外いがい歩兵ほへい騎兵きへい工兵こうへい江上こうじょうへい航空こうくうへい輜重しちょうへい兵科へいか統合とうごうされた。

陸軍りくぐん武官ぶかん官等かんとう及兵ノ等級とうきゅうひょう:1941ねん康徳やすのり8ねん)10がつ22にち-終戦しゅうせん[8]
兵科へいかべつ 兵科へいか
軍需ぐんじゅ 衛生えいせい ししつとむ 技術ぎじゅつ 軍法ぐんぽう 軍楽ぐんがく
将官しょうかん うえすすむ 陸軍りくぐんじょうはた
中将ちゅうじょう 陸軍りくぐん中将ちゅうじょう 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅ中将ちゅうじょう 陸軍りくぐん軍医ぐんい中将ちゅうじょう りく軍司ぐんじやく中将ちゅうじょう 陸軍りくぐん獣医じゅうい中将ちゅうじょう 陸軍りくぐん技術ぎじゅつ中将ちゅうじょう 陸軍りくぐん軍法ぐんぽう中将ちゅうじょう
少将しょうしょう 陸軍りくぐん少将しょうしょう 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅ少将しょうしょう 陸軍りくぐん軍医ぐんい少将しょうしょう りく軍司ぐんじやく少将しょうしょう 陸軍りくぐん獣医じゅうい少将しょうしょう 陸軍りくぐん技術ぎじゅつ少将しょうしょう 陸軍りくぐん軍法ぐんぽう少将しょうしょう
こうかん うえこう 陸軍りくぐんうえこう 陸軍りくぐん憲兵けんぺいうえこう 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅうえこう 陸軍りくぐん軍医ぐんいうえこう りく軍司ぐんじやくじょうこう 陸軍りくぐん獣医じゅういうえこう 陸軍りくぐん技術ぎじゅつうえこう 陸軍りくぐん軍法ぐんぽううえこう
ちゅうこう 陸軍りくぐんちゅうこう 陸軍りくぐん憲兵けんぺいちゅうこう 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅちゅうこう 陸軍りくぐん軍医ぐんいちゅうこう りく軍司ぐんじやくちゅうこう 陸軍りくぐん獣医じゅういちゅうこう 陸軍りくぐん技術ぎじゅつちゅうこう 陸軍りくぐん軍法ぐんぽうちゅうこう
しょうこう 陸軍りくぐんしょうこう 陸軍りくぐん憲兵けんぺいしょうこう 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅしょうこう 陸軍りくぐん軍医ぐんいしょうこう りく軍司ぐんじやくしょうこう 陸軍りくぐん衛生えいせいしょうこう 陸軍りくぐん獣医じゅういしょうこう 陸軍りくぐんじゅうつとむしょうこう 陸軍りくぐん技術ぎじゅつしょうこう 陸軍りくぐん軍法ぐんぽうしょうこう 陸軍りくぐん軍楽ぐんがくしょうこう
尉官いかん うえじょう 陸軍りくぐんじょうじょう 陸軍りくぐん憲兵けんぺいじょうじょう 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅじょうじょう 陸軍りくぐん軍医ぐんいじょうじょう りく軍司ぐんじやくじょうじょう 陸軍りくぐん衛生えいせいじょうじょう 陸軍りくぐん獣医じゅういじょうじょう 陸軍りくぐんじゅうつとむじょうじょう 陸軍りくぐん技術ぎじゅつじょうじょう 陸軍りくぐん軍法ぐんぽうじょうじょう 陸軍りくぐん軍楽ぐんがくじょうじょう
中尉ちゅうい 陸軍りくぐん中尉ちゅうい 陸軍りくぐん憲兵けんぺい中尉ちゅうい 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅ中尉ちゅうい 陸軍りくぐん軍医ぐんい中尉ちゅうい りく軍司ぐんじやく中尉ちゅうい 陸軍りくぐん衛生えいせい中尉ちゅうい 陸軍りくぐん獣医じゅうい中尉ちゅうい 陸軍りくぐんじゅうつとむ中尉ちゅうい 陸軍りくぐん技術ぎじゅつ中尉ちゅうい 陸軍りくぐん軍法ぐんぽう中尉ちゅうい 陸軍りくぐん軍楽ぐんがく中尉ちゅうい
少尉しょうい 陸軍りくぐん少尉しょうい 陸軍りくぐん憲兵けんぺい少尉しょうい 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅ少尉しょうい 陸軍りくぐん軍医ぐんい少尉しょうい りく軍司ぐんじやく少尉しょうい 陸軍りくぐん衛生えいせい少尉しょうい 陸軍りくぐん獣医じゅうい少尉しょうい 陸軍りくぐんじゅうつとむ少尉しょうい 陸軍りくぐん技術ぎじゅつ少尉しょうい 陸軍りくぐん軍法ぐんぽう少尉しょうい 陸軍りくぐん軍楽ぐんがく少尉しょうい
准尉じゅんいかん 准尉じゅんい 陸軍りくぐん准尉じゅんい 陸軍りくぐん憲兵けんぺい准尉じゅんい 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅ准尉じゅんい 陸軍りくぐん療工准尉じゅんい 陸軍りくぐん衛生えいせい准尉じゅんい 陸軍りくぐんじゅうつとむ准尉じゅんい 陸軍りくぐん技術ぎじゅつ准尉じゅんい 陸軍りくぐん軍法ぐんぽう准尉じゅんい 陸軍りくぐん軍楽ぐんがく准尉じゅんい
下士官かしかん 上士じょうし 陸軍りくぐん上士じょうし 陸軍りくぐん憲兵けんぺい上士じょうし 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅ上士じょうし 陸軍りくぐん療工上士じょうし 陸軍りくぐん衛生えいせい上士じょうし 陸軍りくぐんじゅうつとむ上士じょうし 陸軍りくぐん技術ぎじゅつ上士じょうし 陸軍りくぐん軍法ぐんぽう上士じょうし 陸軍りくぐん軍楽ぐんがく上士じょうし
ちゅう 陸軍りくぐんちゅう 陸軍りくぐん憲兵けんぺいちゅう 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅちゅう 陸軍りくぐん療工ちゅう 陸軍りくぐん衛生えいせいちゅう 陸軍りくぐんじゅうつとむちゅう 陸軍りくぐん技術ぎじゅつちゅう 陸軍りくぐん軍法ぐんぽうちゅう 陸軍りくぐん軍楽ぐんがくちゅう
しょう 陸軍りくぐんしょう 陸軍りくぐん憲兵けんぺいしょう 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅしょう 陸軍りくぐん療工しょう 陸軍りくぐん衛生えいせいしょう 陸軍りくぐんじゅうつとむしょう 陸軍りくぐん技術ぎじゅつしょう 陸軍りくぐん軍法ぐんぽうしょう 陸軍りくぐん軍楽ぐんがくしょう
へい 上兵かみへい 陸軍りくぐん上兵かみへい 陸軍りくぐん憲兵けんぺい上兵かみへい 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅ上兵かみへい 陸軍りくぐん療工上兵かみへい 陸軍りくぐん衛生えいせい上兵かみへい 陸軍りくぐんじゅうつとむ上兵かみへい 陸軍りくぐん軍楽ぐんがく上兵かみへい
ちゅうへい 陸軍りくぐんちゅうへい 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅちゅうへい 陸軍りくぐん療工ちゅうへい 陸軍りくぐん衛生えいせいちゅうへい 陸軍りくぐん軍楽ぐんがくちゅうへい
しょうへい 陸軍りくぐんしょうへい 陸軍りくぐん軍需ぐんじゅしょうへい 陸軍りくぐん療工しょうへい 陸軍りくぐん衛生えいせいしょうへい 陸軍りくぐん軍楽ぐんがくしょうへい

まんしゅう国軍こくぐんではぐんかん学校がっこう日本にっぽん士官しかん学校がっこう相当そうとう)を卒業そつぎょう、まず少尉しょうい任官にんかんする。少尉しょういまん2ねん中尉ちゅうい中尉ちゅういまん2ねんうえじょううえじょうまん3ねんしょうこうしょうこうまん3ねんなかこうちゅうこうまん3ねんうえこううえこうを4ねん少将しょうしょう少将しょうしょうを3ねん中将ちゅうじょう中将ちゅうじょうを4ねんうえしょうへとそれぞれ昇進しょうしんしていく。うえすすむぐん最高さいこうであり、終身しゅうしんしょくでもある。

うえすすむうえには日本にっぽん元帥げんすい相当そうとうする将軍しょうぐん設置せっちされており、これは名誉めいよ称号しょうごうである。1934ねん康徳やすのり元年がんねん)の「将軍しょうぐん設置せっちれい」(康徳やすのり元年がんねん11がつ15にちみことのりれいだい159ごう[10]だい1じょう陸海りくかいぐんじょうはたニシテれき官有かんゆうねんくんせきたくちょナルしゃニハとく将軍しょうぐん称号しょうごうみことのり授ス」により、ちょうけいめぐみちょううみおおとり于芷やまよしきょうの4にんに「将軍しょうぐん」の称号しょうごうあたえられた。

肩章けんしょう[編集へんしゅう]

肩章けんしょうは「陸軍りくぐんふくせい」(大同だいどう元年がんねん12がつ28にち軍令ぐんれいだい9ごう[11]なかの「肩章けんしょう様式ようしきひょう」で制定せいていされた。当初とうしょ地質ちしつ徽章きしょう絨緋絨で、せんあきら銀地ぎんじ金線きんせん星章せいしょう金属きんぞく星章せいしょうへい黄色おうしょく星章せいしょう)だったが、1937ねん康徳やすのり4ねん)の陸軍りくぐんふくせいちゅう改正かいせいけん康徳やすのり4ねん5がつ12にちみことのりれいだい85ごう[12]で、地質ちしつ鳶色とびいろ絨(中国ちゅうごく表記ひょうきではふか紫紅しこうしょく)に改正かいせいされた。大元帥だいげんすいたるまんしゅうこく皇帝こうてい肩章けんしょうは「陸軍りくぐんしき海軍かいぐんしきふく制式せいしき」(康徳やすのり元年がんねん12がつ24にち帝室ていしつれいだい15ごう[13]で、金色きんいろ金属きんぞくせいらんはな紋章もんしょうおよ金色きんいろ金属きんぞくせい星章せいしょうかく3す(通常つうじょう礼装れいそう場合ばあい)、天皇てんのう大元帥だいげんすい肩章けんしょう金色きんいろ菊花きっか紋章もんしょうおよ金色きんいろ星章せいしょうかく3)と同様どうようしき制定せいていされた。

区分くぶん 皇帝こうてい ぐんかん
将官しょうかん こうかん 尉官いかん
位階いかい 大元帥だいげんすい 将軍しょうぐんじょうはた うえすすむ 中将ちゅうじょう 少将しょうしょう うえこう ちゅうこう しょうこう うえじょう 中尉ちゅうい 少尉しょうい
肩章けんしょう
区分くぶん ぐん へい
准尉じゅんいかん 下士官かしかん
位階いかい 准尉じゅんい 上士じょうし ちゅう しょう 上兵かみへい ちゅうへい しょうへい
肩章けんしょう

まんしゅうこく海軍かいぐん[編集へんしゅう]

1934ねん康徳やすのり元年がんねん[編集へんしゅう]

帝政ていせい移行いこうの1934ねん康徳やすのり元年がんねん)、海軍かいぐん武官ぶかん及兵ノ等級とうきゅうせきスルけん康徳やすのり元年がんねん4がつ19にちみことのりれいだい28ごう[14]制定せいていされ、海軍かいぐん武官ぶかんおよへい等級とうきゅうさだめられた。まんしゅうこく陸軍りくぐんとは若干じゃっかんことなり、ぐんかんおよ佐官さかん士官しかんじゅん士官しかんぐん士官しかんけた。士官しかん将官しょうかんこうかん尉官いかんさんとうけ、かくとう上中かみなかしょうさんきゅうけた。まんしゅうこく陸軍りくぐんではじゅん士官しかんは「准尉じゅんい」としょうしたが、まんしゅうこく海軍かいぐんでは「士長しちょう」としょうした。ぐん上士じょうしちゅうしょうさんきゅうけ、へい上兵かみへいちゅうへいしょうへい練兵れんぺいよんきゅうけた。

海軍かいぐん武官ぶかん及兵ノ等級とうきゅうひょう:1934ねん康徳やすのり元年がんねん)4がつ19にち-1937ねん康徳やすのり4ねん)3がつ17にち[15]
べつ 兵科へいか 輸機 軍医ぐんい 軍需ぐんじゅ みやつこおさむ 軍楽ぐんがく
士官しかん 将官しょうかん ぐんかん 海軍かいぐんじょうはた 佐官さかん
海軍かいぐん中将ちゅうじょう 海軍かいぐん輸機中将ちゅうじょう 海軍かいぐん軍医ぐんい中将ちゅうじょう 海軍かいぐん軍需ぐんじゅ中将ちゅうじょう 海軍かいぐんづくりおさむ中将ちゅうじょう
海軍かいぐん少将しょうしょう 海軍かいぐん輸機少将しょうしょう 海軍かいぐん軍医ぐんい少将しょうしょう 海軍かいぐん軍需ぐんじゅ少将しょうしょう 海軍かいぐんづくりおさむ少将しょうしょう
こうかん 海軍かいぐんうえこう 海軍かいぐん機上きじょうこう 海軍かいぐん軍医ぐんいうえこう 海軍かいぐん軍需ぐんじゅうえこう 海軍かいぐんづくりおさむうえこう
海軍かいぐんちゅうこう 海軍かいぐん輸機ちゅうこう 海軍かいぐん軍医ぐんいちゅうこう 海軍かいぐん軍需ぐんじゅちゅうこう 海軍かいぐんづくりおさむちゅうこう
海軍かいぐんしょうこう 海軍かいぐん輸機しょうこう 海軍かいぐん軍医ぐんいしょうこう 海軍かいぐん軍需ぐんじゅしょうこう 海軍かいぐんづくりおさむしょうこう
尉官いかん 海軍かいぐんじょうじょう 海軍かいぐん輸機じょうじょう 海軍かいぐん軍医ぐんいじょうじょう 海軍かいぐん軍需ぐんじゅじょうじょう 海軍かいぐんづくりおさむじょうじょう 海軍かいぐん軍楽ぐんがくじょうじょう
海軍かいぐん中尉ちゅうい 海軍かいぐん輸機中尉ちゅうい 海軍かいぐん軍医ぐんい中尉ちゅうい 海軍かいぐん軍需ぐんじゅ中尉ちゅうい 海軍かいぐんづくりおさむ中尉ちゅうい 海軍かいぐん軍楽ぐんがく中尉ちゅうい
海軍かいぐん少尉しょうい 海軍かいぐん輸機少尉しょうい 海軍かいぐん軍医ぐんい少尉しょうい 海軍かいぐん軍需ぐんじゅ少尉しょうい 海軍かいぐんづくりおさむ少尉しょうい 海軍かいぐん軍楽ぐんがく少尉しょうい
じゅん士官しかん 士長しちょう 海軍かいぐん甲板かんぱん士長しちょう 海軍かいぐん輸機士長しちょう 海軍かいぐん看護かんご士長しちょう 海軍かいぐん軍需ぐんじゅ士長しちょう 海軍かいぐん軍楽ぐんがく士長しちょう
ぐん士官しかん 上士じょうし 海軍かいぐん甲板かんぱん上士じょうし 海軍かいぐん輸機上士じょうし 海軍かいぐん看護かんご上士じょうし 海軍かいぐん軍需ぐんじゅ上士じょうし 海軍かいぐん軍楽ぐんがく上士じょうし
ちゅう 海軍かいぐん甲板かんぱんちゅう 海軍かいぐん輸機ちゅう 海軍かいぐん看護かんごちゅう 海軍かいぐん軍需ぐんじゅちゅう 海軍かいぐん軍楽ぐんがくちゅう
しょう 海軍かいぐん甲板かんぱんしょう 海軍かいぐん輸機しょう 海軍かいぐん看護かんごしょう 海軍かいぐん軍需ぐんじゅしょう 海軍かいぐん軍楽ぐんがくしょう
へい 上兵かみへい へい 海軍かいぐん甲板かんぱん上兵かみへい 海軍かいぐん輸機上兵かみへい へい 海軍かいぐん看護かんご上兵かみへい 海軍かいぐん軍需ぐんじゅ上兵かみへい 海軍かいぐん軍楽ぐんがく上兵かみへい
ちゅうへい 海軍かいぐん甲板かんぱんちゅうへい 海軍かいぐん輸機ちゅうへい 海軍かいぐん看護かんごちゅうへい 海軍かいぐん軍需ぐんじゅちゅうへい 海軍かいぐん軍楽ぐんがくちゅうへい
しょうへい 海軍かいぐん甲板かんぱんしょうへい 海軍かいぐん輸機しょうへい 海軍かいぐん看護かんごしょうへい 海軍かいぐん軍需ぐんじゅしょうへい 海軍かいぐん軍楽ぐんがくしょうへい
練兵れんぺい 海軍かいぐん甲板かんぱん練兵れんぺい 海軍かいぐん輸機練兵れんぺい 海軍かいぐん看護かんご練兵れんぺい 海軍かいぐん軍需ぐんじゅ練兵れんぺい 海軍かいぐん軍楽ぐんがく練兵れんぺい
1937ねん康徳やすのり4ねん[編集へんしゅう]

1937ねん康徳やすのり4ねん)の海軍かいぐん武官ぶかん及兵ノ等級とうきゅうせきスルけんちゅう改正かいせいけん康徳やすのり4ねん3がつ18にちみことのりれいだい37ごう[16]により、まんしゅうこく陸軍りくぐんわせて海軍かいぐん士官しかんぐんかんおよぐん)は将官しょうかんこうかん尉官いかんのみとし、ぐん士官しかん下士官かしかん改称かいしょうした。じゅん士官しかんについては「士長しちょう」と同列どうれつで「じょう」の階級かいきゅう制定せいていした。また、軍医ぐんい階級かいきゅう軍医ぐんいつかさやく医務いむ分割ぶんかつした。

海軍かいぐん武官ぶかん及兵ノ等級とうきゅうひょう:1937ねん康徳やすのり4ねん)3がつ18にち-終戦しゅうせん[17]
べつ 兵科へいか 輸機 軍医ぐんい 軍需ぐんじゅ みやつこおさむ 軍楽ぐんがく
将官しょうかん うえすすむ ぐんかん 海軍かいぐんじょうはた ぐん
中将ちゅうじょう 海軍かいぐん中将ちゅうじょう 海軍かいぐん輸機中将ちゅうじょう 海軍かいぐん軍医ぐんい中将ちゅうじょう 海軍かいぐん軍需ぐんじゅ中将ちゅうじょう 海軍かいぐんづくりおさむ中将ちゅうじょう
少将しょうしょう 海軍かいぐん少将しょうしょう 海軍かいぐん輸機少将しょうしょう 海軍かいぐん軍医ぐんい少将しょうしょう 海軍かいぐん軍需ぐんじゅ少将しょうしょう 海軍かいぐんづくりおさむ少将しょうしょう
こうかん うえこう 海軍かいぐんうえこう 海軍かいぐん機上きじょうこう 海軍かいぐん軍医ぐんいうえこう 海軍かいぐんやくじょうこう 海軍かいぐん軍需ぐんじゅうえこう 海軍かいぐんづくりおさむうえこう
ちゅうこう 海軍かいぐんちゅうこう 海軍かいぐん輸機ちゅうこう 海軍かいぐん軍医ぐんいちゅうこう 海軍かいぐんやくちゅうこう 海軍かいぐん軍需ぐんじゅちゅうこう 海軍かいぐんづくりおさむちゅうこう
しょうこう 海軍かいぐんしょうこう 海軍かいぐん輸機しょうこう 海軍かいぐん軍医ぐんいしょうこう 海軍かいぐんやくしょうこう 海軍かいぐん医務いむしょうこう 海軍かいぐん軍需ぐんじゅしょうこう 海軍かいぐんづくりおさむしょうこう 海軍かいぐん軍楽ぐんがくしょうこう
尉官いかん うえじょう 海軍かいぐんじょうじょう 海軍かいぐん輸機じょうじょう 海軍かいぐん軍医ぐんいじょうじょう 海軍かいぐんやくじょうじょう 海軍かいぐん医務いむじょうじょう 海軍かいぐん軍需ぐんじゅじょうじょう 海軍かいぐんづくりおさむじょうじょう 海軍かいぐん軍楽ぐんがくじょうじょう
中尉ちゅうい 海軍かいぐん中尉ちゅうい 海軍かいぐん輸機中尉ちゅうい 海軍かいぐん軍医ぐんい中尉ちゅうい 海軍かいぐんやく中尉ちゅうい 海軍かいぐん医務いむ中尉ちゅうい 海軍かいぐん軍需ぐんじゅ中尉ちゅうい 海軍かいぐんづくりおさむ中尉ちゅうい 海軍かいぐん軍楽ぐんがく中尉ちゅうい
少尉しょうい 海軍かいぐん少尉しょうい 海軍かいぐん輸機少尉しょうい 海軍かいぐん軍医ぐんい少尉しょうい 海軍かいぐんやく少尉しょうい 海軍かいぐん医務いむ少尉しょうい 海軍かいぐん軍需ぐんじゅ少尉しょうい 海軍かいぐんづくりおさむ少尉しょうい 海軍かいぐん軍楽ぐんがく少尉しょうい
じゅん士官しかん じょう 海軍かいぐん甲板かんぱんじょう 海軍かいぐん輸機じょう 海軍かいぐん医務いむじょう 海軍かいぐん軍需ぐんじゅじょう 海軍かいぐん軍楽ぐんがくじょう
士長しちょう 海軍かいぐん甲板かんぱん士長しちょう 海軍かいぐん輸機士長しちょう 海軍かいぐん看護かんご士長しちょう 海軍かいぐん軍需ぐんじゅ士長しちょう 海軍かいぐん軍楽ぐんがく士長しちょう
下士官かしかん 上士じょうし 海軍かいぐん甲板かんぱん上士じょうし 海軍かいぐん輸機上士じょうし 海軍かいぐん看護かんご上士じょうし 海軍かいぐん軍需ぐんじゅ上士じょうし 海軍かいぐん軍楽ぐんがく上士じょうし
ちゅう 海軍かいぐん甲板かんぱんちゅう 海軍かいぐん輸機ちゅう 海軍かいぐん看護かんごちゅう 海軍かいぐん軍需ぐんじゅちゅう 海軍かいぐん軍楽ぐんがくちゅう
しょう 海軍かいぐん甲板かんぱんしょう 海軍かいぐん輸機しょう 海軍かいぐん看護かんごしょう 海軍かいぐん軍需ぐんじゅしょう 海軍かいぐん軍楽ぐんがくしょう
へい 上兵かみへい 海軍かいぐん甲板かんぱん上兵かみへい 海軍かいぐん輸機上兵かみへい 海軍かいぐん看護かんご上兵かみへい 海軍かいぐん軍需ぐんじゅ上兵かみへい 海軍かいぐん軍楽ぐんがく上兵かみへい
ちゅうへい 海軍かいぐん甲板かんぱんちゅうへい 海軍かいぐん輸機ちゅうへい 海軍かいぐん看護かんごちゅうへい 海軍かいぐん軍需ぐんじゅちゅうへい 海軍かいぐん軍楽ぐんがくちゅうへい
しょうへい 海軍かいぐん甲板かんぱんしょうへい 海軍かいぐん輸機しょうへい 海軍かいぐん看護かんごしょうへい 海軍かいぐん軍需ぐんじゅしょうへい 海軍かいぐん軍楽ぐんがくしょうへい
練兵れんぺい 海軍かいぐん甲板かんぱん練兵れんぺい 海軍かいぐん輸機練兵れんぺい 海軍かいぐん看護かんご練兵れんぺい 海軍かいぐん軍需ぐんじゅ練兵れんぺい 海軍かいぐん軍楽ぐんがく練兵れんぺい

変遷へんせん[編集へんしゅう]

まんしゅう国軍こくぐん創設そうせつ当時とうじ(1932ねん4がつ[編集へんしゅう]

1932ねん大同だいどう元年がんねん)4がつ15にち公布こうふの「陸海りくかいぐん條例じょうれい」(大同だいどう元年がんねん4がつ15にち軍令ぐんれいだい1ごう[1]により、まんしゅうこく国軍こくぐん創設そうせつされた。当初とうしょ当時とうじ奉天ほうてん軍閥ぐんばつぐん日本にっぽんぐんから派遣はけんされたまんしゅう国軍こくぐん軍事ぐんじ顧問こもんえただけの構成こうせいであり、その主要しゅよう任務にんむは「國内こくない治安ちあんなみ邊境へんきょう及江うみ警備けいび」(陸海りくかいぐん條例じょうれいだい1じょう)であった。

また、同年どうねん9がつ15にち締結ていけつの「まん議定ぎていしょ」には、まんしゅうこく国防こくぼうまんしゅう日本にっぽん共同きょうどうになうべく、日本にっぽんぐん(ここでは関東軍かんとうぐん)の駐屯ちゅうとん公式こうしきみとめている。これによって「関東軍かんとうぐん」と「関東軍かんとうぐん支援しえんぐんとしてのまんしゅう国軍こくぐん」が公式こうしき成立せいりつしたことになる。このようにまんしゅうこくはその防衛ぼうえいのほとんどを日本にっぽんぐんになっていた。

部隊ぶたい構成こうせい[編集へんしゅう]

かく警備けいび司令しれい担任たんにん区域くいき規定きていスルけん」(大同だいどう元年がんねん4がつ15にち軍令ぐんれいだい2ごう[18]により、洮遼警備けいび司令しれいかんおよ各省かくしょう警備けいび司令しれいかん担任たんにん区域くいきとその指揮しきぞくするぐん規定きていされた。部隊ぶたい構成こうせい下記かきとおり。洮遼警備けいび司令しれいかん担任たんにん区域くいきのぞき、それまでの軍閥ぐんばつ配置はいちをそのまま踏襲とうしゅうしている部分ぶぶんもある。

  • 軍政ぐんせいへいすう:130にん
中央ちゅうおう軍政ぐんせい掌握しょうあくしていた部局ぶきょく
  • 洮遼警備けいびぐんへいすう:16,200にん
担当たんとう区域くいきつうりょうけんたてまつたいらけんあきらけんなしじゅけんふところとくけんそう山県やまがたりょうみなもとけん開通かいつうけんきもにれけん安広やすひろけん鎮東けん洮安けん洮南けんはたらいけん突泉けんひがしはんけいぼしけん西南せいなんはん
しんきょう西側にしがわきたチチハル南側みなみがわみなみ奉天ほうてん北側きたがわまでを管轄かんかつしていた)
その指揮しきぞくする軍隊ぐんたいきゅうちょううみおおとりぐん
  • 奉天ほうてんしょう警備けいびぐんへいすう:17,153にん
担当たんとう区域くいき:洮遼警備けいび司令しれいかん担当たんとう区域くいき以外いがい奉天ほうてんしょう
その指揮しきぞくする軍隊ぐんたいげん奉天ほうてんしょう駐在ちゅうざいする軍隊ぐんたいちゅうあらたに洮遼警備けいび司令しれいかん指揮しきぞくする軍隊ぐんたい以外いがい全部ぜんぶ
  • 吉林きつりんしょう警備けいびぐんへいすう:44,692にん
担当たんとう区域くいき吉林きつりんしょう
その指揮しきぞくする軍隊ぐんたいげん吉林きつりんしょう駐在ちゅうざいする軍隊ぐんたい
  • 黒龍江こくりゅうこうしょう警備けいびぐんへいすう:43,485にん
担当たんとう区域くいき黒龍江こくりゅうこうしょうはたらいけんおよけいぼしけん西南せいなんはんのぞく)
その指揮しきぞくする軍隊ぐんたいげん黒龍江こくりゅうこうしょう駐在ちゅうざいする軍隊ぐんたいちょううみおおとりぐんのぞく)
担当たんとう区域くいききょうやすしょう
1932ねん大同だいどう元年がんねん)5がつうちこうむ自治じちぐんから改編かいへん設置せっち
担当たんとう区域くいき黒龍江こくりゅうこうアムールがわ)・がらす里江さとえウスリーがわ)といった国境こっきょう河川かせんおよ渤海沿岸えんがん

なお、上記じょうき部隊ぶたい要員よういんすうは1932ねん大同だいどう元年がんねん)9がつ時点じてんのものであり、まんしゅうこく軍政ぐんせい最高さいこう顧問こもん多田ただ駿しゅん少将しょうしょう陸軍りくぐんしょうてた報告ほうこくしょ[19]したがった。

日系にっけいぐんかん[編集へんしゅう]

まんしゅう国軍こくぐんには創設そうせつ当初とうしょから日本人にっぽんじん顧問こもん教官きょうかんとして所属しょぞくしていた。軍事ぐんじ顧問こもん以外いがい部隊ぶたい長等ながらにも日本にっぽんぐんから転籍てんせきしてきた日系にっけいぐんかんはいされることがあった。

顧問こもんなかに、1928ねん昭和しょうわ3ねん/みんこく17ねん)のちょうさく爆殺ばくさつ事件じけん首謀しゅぼうしゃである東宮とうぐう鉄男てつお大尉たいい当時とうじ)のられる。

海軍かいぐん兵力へいりょく[編集へんしゅう]

起源きげんは1932ねんみんこく21ねん)2がつ発足ほっそくしたこうぼう艦隊かんたい陸軍りくぐんとして編成へんせいされた軍閥ぐんばつ所有しょゆうしていた5せき軍艦ぐんかん小型こがた砲艦ほうかん警備けいびてい)を編成へんせいしたものだった。1932ねん大同だいどう元年がんねん)4がつ15にち公布こうふの「陸海りくかいぐん條例じょうれい」(大同だいどう元年がんねん4がつ15にち軍令ぐんれいだい1ごう)により、まんしゅうこく海軍かいぐん編入へんにゅう当初とうしょおも河川かせん国境こっきょう警備けいび担当たんとうしていたため、河川かせん凍結とうけつする冬季とうきには、海軍かいぐんへい上陸じょうりくして陸戦りくせんたいとして勤務きんむしていた。1934ねん康徳やすのり元年がんねん)11月のこうぼう艦隊かんたいれい康徳やすのり元年がんねん11がつ24にち軍令ぐんれいだい8ごう[20]により正式せいしきまんしゅうこくこうぼう艦隊かんたい発足ほっそくした。軍事ぐんじ顧問こもんとしてまんしゅう駐在ちゅうざい日本にっぽん海軍かいぐんであるちゅうまん海軍かいぐん支援しえんしていたが、その日本にっぽん海軍かいぐんこうぼう艦隊かんたいからき、海辺うみべ警察けいさつたいのち海上かいじょう警察けいさつたい改称かいしょう)の支援しえんまわったため、1939ねん康徳やすのり6ねん)2がつ陸海りくかいぐん條例じょうれいちゅう改正かいせいけん康徳やすのり6ねん2がつ17にち軍令ぐんれいだい2ごう[21]により、江上こうじょうぐんあらためて陸軍りくぐん一部いちぶたいとなった。ただし、海軍かいぐん軍令ぐんれい援用えんようスルノけん康徳やすのり6ねん2がつ17にち軍令ぐんれいだい1ごう[21]により、陸軍りくぐん本務ほんむおよ法令ほうれい抵触ていしょくしない条項じょうこうかぎり、海軍かいぐん軍令ぐんれい江上こうじょうぐんかんして一律いちりつ援用えんようされた。

このため、実質じっしつてき海上かいじょう兵力へいりょく海辺うみべ警察けいさつたいになっており、独自どくじ航空こうくうたい存在そんざいした。主力しゅりょく艦船かんせんは「うみきゅうで、日本にっぽん海軍かいぐん駆逐くちくかんかし」がわたされたものである。この海辺うみべ警察けいさつたい領海りょうかい警備けいび密輸みつゆ取締とりしまりなど沿岸えんがん警備けいびたいてき組織そしきであるが、終始しゅうし日本にっぽん海軍かいぐん支援しえんしており、士官しかん技術ぎじゅつしゃ航空こうくうたいパイロットは日本にっぽん海軍かいぐん出身しゅっしん日本人にっぽんじんおおかった。このように、海辺うみべ警察けいさつたい沿岸えんがん警備けいびたいというよりは海軍かいぐんとしての性格せいかくつよかった。

こうした状況じょうきょう原因げんいんは、黄海こうかい以上いじょう黒龍江こくりゅうこうひとしソ連それん方面ほうめん河川かせん生命せいめいせんかんがえられていたこと、指導しどう支援しえん立場たちばにあった関東軍かんとうぐんちゅうまん海軍かいぐん利害りがい関係かんけい対立たいりつがあったことひとしといわれる。

軍備ぐんび拡大かくだい(1935ねんごろ[編集へんしゅう]

まんしゅうこくはその最初さいしょの5年間ねんかんにちちゅう戦争せんそう開始かいしまで)は国家こっかとしての体制たいせいづくりの時期じきであり、まんしゅう国軍こくぐんについても随時ずいじ増強ぞうきょうすすめられていた。

海軍かいぐん兵力へいりょく補充ほじゅう[編集へんしゅう]

  • 1934ねん康徳やすのり元年がんねん)9がつ - 日本にっぽんせいじゅんてんきゅう砲艦ほうかんじゅんてん」「やしなえみん」を配備はいび
  • 1935ねん康徳やすのり2ねん)9がつ - 日本にっぽんせいていあたりきゅう砲艦ほうかんていあたり」「親仁おやじ」を配備はいび

陸軍りくぐん組織そしき改編かいへん[編集へんしゅう]

当初とうしょぐん編成へんせいがそれまでの軍閥ぐんばつのテリトリーそのままであったこともあり、1934ねん康徳やすのり元年がんねん)7がつ陸海りくかいぐん條例じょうれいちゅう改正かいせいけん康徳やすのり元年がんねん7がつ26にち軍令ぐんれいだい6ごう[22]により、まんしゅうこく行政ぎょうせい区画くかく沿って陸軍りくぐんさい編成へんせい実施じっしした。

  • だい一軍いちぐん管区かんくへいすう:12,321にん)、だい一軍いちぐん管区かんく司令しれいかん陸軍りくぐんじょうはた于芷やま
  • だいぐん管区かんくへいすう:13,185にん)、だいぐん管区かんく司令しれいかん陸軍りくぐんじょうはたよしきょう
  • だい三軍さんぐん管区かんくへいすう:13,938にん)、だい三軍さんぐん管区かんく司令しれいかん陸軍りくぐん中将ちゅうじょうちょうぶん
  • だいよんぐん管区かんくへいすう:17,827にん)、だいよんぐん管区かんく司令しれいかん陸軍りくぐんじょうはた于琛澂けんきたまん鉄路てつろまもるぐんそう司令しれい
  • だいぐん管区かんくへいすう09,294にん)、だいぐん管区かんく司令しれいかん陸軍りくぐんじょうはたちょううみおおとり
  • きょう安東あんどう警備けいびぐんへいすう:929にん
  • きょう安西あんざい警備けいびぐんへいすう:858にん
  • きょうやすみなみ警備けいびぐんへいすう:1,052にん
  • きょうやすきた警備けいびぐんへいすう:656にん
  • こうぼう艦隊かんたいへいすう:719にん

飛行ひこうたい創設そうせつ[編集へんしゅう]

1937ねん康徳やすのり4ねん)に飛行ひこうたい創設そうせつ

にちちゅう戦争せんそう開始かいし(1937ねん以降いこう[編集へんしゅう]

にちちゅう戦争せんそう全面ぜんめん戦争せんそうになったのち日本にっぽん陸軍りくぐん関東軍かんとうぐん将兵しょうへい続々ぞくぞくささえ派遣はけんぐん異動いどうさせ、中国ちゅうごく戦場せんじょう(この場合ばあい山海さんかいせき以南いなん戦場せんじょう)に投入とうにゅうした。このため、従来じゅうらいのように「関東軍かんとうぐん主軸しゅじくとした国防こくぼう構想こうそうからまんしゅう国軍こくぐんは「自力じりきでの国防こくぼう」に方針ほうしん転換てんかんしていった。

くに兵法ひょうほう制定せいてい(1940ねん[編集へんしゅう]

一般いっぱんてきにいう「徴兵ちょうへいせい」の施行しこうである。国内こくないの20さいから23さい男子だんしを3年間ねんかん軍務ぐんむにつかせて軍事ぐんじ訓練くんれんほどこし、補充ほじゅう工兵こうへい堡塁ほうるい構築こうちく、あるいは地方ちほう警察けいさつ補助ほじょとうおこなわせた。毎年まいとしはるに20まんにん招集しょうしゅうし、軍務ぐんむ不適ふてきおうとみなされたもの土木どぼく工事こうじとう3年間ねんかん勤労きんろう奉仕ほうしをさせた。

ぐんかん学校がっこう[編集へんしゅう]

1939ねん康徳やすのり6ねん)には、しんきょう特別とくべつ陸軍りくぐんぐんかん学校がっこう設立せつりつされ、将校しょうこう養成ようせいになった。まんけい生徒せいとのほか、日系にっけい生徒せいと(ここでは内地ないちじんほか朝鮮ちょうせんじん台湾たいわんじんふくまれる)も入学にゅうがくした。だい1入学にゅうがく生徒せいとちゅう日系にっけい生徒せいとは172めいにものぼる。

朝鮮ちょうせんじん受験生じゅけんせいたいしても優遇ゆうぐう措置そちられていた。のち韓国かんこく大統領だいとうりょうになったぼく正煕せいきは、国民こくみん学校がっこう訓導くんどうであった23さい当時とうじに、資格しかく年齢ねんれいが16さい以上いじょう19さい以下いかであるまんしゅう国軍こくぐんかん学校がっこう願書がんしょ提出ていしゅつし、2資格しかく不足ふそく受験じゅけんできなかったが、3度目どめには、志願しがんしょとともに「日本人にっぽんじんとしてぢざるだけの精神せいしん氣魄きはくとをもっ一死いっし奉公ほうこうかた決心けっしんでございます」[23]などとしるした血書けっしょ提出ていしゅつしたため、特別とくべつ日系にっけいわく採用さいよう試験しけん受験じゅけん許可きょかされ、合格ごうかく任官にんかんしている[24][25][26][27]

地理ちりてきちかさからぐんかん学校がっこう生徒せいとには朝鮮ちょうせんじんすくなくなかった。かれらのおおくはだい世界せかい大戦たいせんのち創設そうせつされた韓国かんこくぐん入隊にゅうたいし、日本にっぽん陸軍りくぐん出身しゅっしんしゃとも韓国かんこくぐん基幹きかんとなる。また大統領だいとうりょうとなったぼく正煕せいき国会こっかい議長ぎちょう国務こくむ総理そうりなどを歴任れきにんしたひのといちけんなど、政治せいじとして活躍かつやくした人物じんぶつもいる。

ぐんかん学校がっこう出身しゅっしんしゃなかには、すで中国共産党ちゅうごくきょうさんとう情報じょうほういんであるりょ殿どのもと中心ちゅうしんまんしゅうからの日本にっぽん勢力せいりょく排除はいじょ主権しゅけん回復かいふく目指めざ秘密ひみつ結社けっしゃ東三ひがしさんしょう主権しゅけん領土りょうど恢復かいふくかい」を結成けっせいするものもいた。結社けっしゃ参加さんかした卒業生そつぎょうせいは、全員ぜんいん前線ぜんせんではなく江上こうじょうぐん配属はいぞくされたが、かれらは江上こうじょうぐん将兵しょうへい感化かんかしたため、江上こうじょうぐん終戦しゅうせん直前ちょくぜん日本人にっぽんじん将校しょうこう殺害さつがいして解散かいさんした[28]

軍医ぐんい学校がっこう[編集へんしゅう]

また、当時とうじまんしゅうでは医師いし養成ようせい機関きかんまんしゅう医科いか大学だいがくのみで、軍医ぐんい不足ふそくいちじるしかったため、まんしゅうこく軍医ぐんい学校がっこう設立せつりつされている。これは日本にっぽん陸軍りくぐん軍医ぐんい学校がっこうとはちがい、中等ちゅうとう教育きょういく修了しゅうりょうしゃ入学にゅうがくさせて医学いがく教育きょういくほどこし、4ねん軍医ぐんい少尉しょうい任官にんかんさせるものであり、内地ないちにおける医学いがく専門せんもん学校がっこう近似きんじするものであった。このけんがく思想しそうだい世界せかい大戦たいせん防衛医科大ぼうえいいかだい学校がっこうにもがれている。

太平洋戦争たいへいようせんそう開始かいし[編集へんしゅう]

1941ねん康徳やすのり8ねん)12月の太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう勃発ぼっぱつ関東軍かんとうぐん続々ぞくぞく南方なんぽうかれ弱体じゃくたいしていった。それに反比例はんぴれいして、まんしゅう国軍こくぐん規模きぼ拡大かくだいしていった。1944ねん康徳やすのり11ねん)には、鉄道てつどう警護けいごたい編入へんにゅうされて鉄道てつどう警護けいごぐん改称かいしょうされた。

1945ねん康徳やすのり12ねん)4がつには、軍事ぐんじ顧問こもんによるこうむぐん以外いがい騎兵隊きへいたい歩兵ほへいあらため、31個いっこ工兵こうへいたいと17自動車じどうしゃたい新設しんせつする、機関きかんじゅう大砲たいほうなどの重火器じゅうかき関東軍かんとうぐんわたす、通信つうしんけん剥奪はくだつするといった改革かいかくあん提出ていしゅつされたが、まんしゅう国軍こくぐん本格ほんかくてき関東軍かんとうぐん補助ほじょ戦力せんりょく位置いちづけるものだった。6月には、軍事ぐんじ大臣だいじん邢士れんから、かくぐん管区かんく関東軍かんとうぐんかく方面ほうめんぐん指揮しき命令めいれいされた[28]解散かいさん直前ちょくぜん段階だんかいで、まんしゅう国軍こくぐんそう兵力へいりょくは「まんしゅうこく陸軍りくぐん指導しどう要綱ようこう」の6まんにんを2ばい以上いじょうえる15まんにんにまでふくがっていた[28]

解散かいさん[編集へんしゅう]

1945ねん康徳やすのり12ねん)8がつ9にちにち中立ちゅうりつ条約じょうやく破棄はきした赤軍せきぐんソ連それんぐん)がたいにち参戦さんせんすると、まんしゅう国軍こくぐん関東かんとうぐんとともにまんしゅうこく防衛ぼうえい従事じゅうじすることになったが、まんしゅう国軍こくぐん士気しきひくく、脱走だっそう反乱はんらん相次あいついだ。だいよんぐん管区かんくは7がつ将兵しょうへい日本にっぽんがわ傘下さんかき、4,000にん哈爾はま戦車せんしゃごう構築こうちくしていたが、8がつ15にち玉音ぎょくおん放送ほうそうともない、司令しれいかんぶんりゅう将兵しょうへい自発じはつてき武装ぶそう解除かいじょしてソ連それんぐん投降とうこうした。だいじゅうぐん管区かんくは、きょうやすみね移動いどうしてソ連それんぐん進行しんこうめるようめいじられたが、指揮しきかんかくぶんりん中将ちゅうじょう参謀さんぼうたちがはなって、8がつ10日とおかしんどろかわソ連それんぐん投降とうこうすることにした。すると、11にちあさ部隊ぶたいにいた日本人にっぽんじん将兵しょうへい軍属ぐんぞくが「なぜかはからないが」発砲はっぽうしてきたため、反撃はんげきして射殺しゃさつした。だいじゅうぐん管区かんくは12にち午前ごぜん10ソ連それんぐん投降とうこうした[28]江上こうじょうぐんは、江上こうじょうぐん司令しれい緊急きんきゅう会議かいぎおこなっているあいだ武装ぶそう蜂起ほうきこし、日本人にっぽんじん将兵しょうへい殺害さつがい、8がつ16にちに「東北とうほく国民こくみんだい一軍いちぐん」に改称かいしょうして解散かいさんした[28]親日しんにちてきられていたきょうやすぐんかん学校がっこう生徒せいとたいも、日系にっけいぐんかん殺害さつがいして逃亡とうぼうした。

ソ連それんたいにち参戦さんせん時点じてんで、まんしゅう国軍こくぐん事実じじつじょう解体かいたい状態じょうたいおちいっていった。8月11にちまんしゅうこく政府せいふしんきょうからつう移動いどうしたため、軍事ぐんじ次長じちょう鶴吉つるよし中将ちゅうじょうそう指揮しきかんとした前線ぜんせん指揮しきしょ残存ざんそん部隊ぶたいひきいて、機密きみつ文書ぶんしょ焼却しょうきゃくしんきょうひがし南部なんぶ防衛ぼうえいおこなった。14にちよる前線ぜんせん指揮しきしょつう移動いどうする予定よていだったが、よく15にち正午しょうご重大じゅうだい放送ほうそうがあるので待機たいきするよう命令めいれいがあったためしんきょうとどまった。そのよる近衛このえへいである禁衛きんえいたいのうち、きこりめいとおひきいる部隊ぶたい日本人にっぽんじん将校しょうこう射殺しゃさつするという事件じけんきた。きこりめいとおひきいる部隊ぶたいしんきょう脱出だっしゅつしたのち、16にちしんきょうもどって「長春ちょうしゅん警備けいび司令しれい」を名乗なのり、無断むだん布告ふこくして治安ちあん維持いじおこなった。8月15にち玉音ぎょくおん放送ほうそう以降いこうは、しんきょう市内しない抵抗ていこうつづける日本にっぽんぐんまんしゅう国軍こくぐんあいだ銃撃じゅうげきせん勃発ぼっぱつし、兵士へいしなかには徽章きしょうはずしたり軍服ぐんぷくてるものもいた[28]

1945ねん康徳やすのり12ねん8がつ18にち日本にっぽん降伏ごうぶくの3にち)に皇帝こうてい溥儀ふぎ退位たいい宣言せんげんし、まんしゅうこく解散かいさんしたことで、まんしゅう国軍こくぐん同月どうげつ20にち正式せいしき解散かいさんされた。まんしゅう国軍こくぐん要人ようじんおおくは、19にちしんきょう到着とうちゃくしたソ連それんぐん空挺くうてい部隊ぶたい捕虜ほりょとなったのち中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくわたされ、なでじゅん戦犯せんぱん管理かんりしょ収監しゅうかんされた。構成こうせいいんソ連それん撤退てったい国共こっきょう内戦ないせん発生はっせいしたさいに、おおくが人民じんみん解放かいほうぐん編入へんにゅうされ、一部いちぶ国民党こくみんとうぐんにも編入へんにゅうされた。

国軍こくぐんとしての実態じったい[編集へんしゅう]

おおくの民族みんぞく構成こうせいされ、拡充かくじゅうすすめられたまんしゅう国軍こくぐんではあったが、事実じじつじょう関東軍かんとうぐん支配しはいにあった。日本にっぽんとの共同きょうどう防衛ぼうえいのために用語ようご日本にっぽんとの統一とういつはかられ、1940ねん康徳やすのり7ねん)から号令ごうれい全部ぜんぶ日本語にほんごになり、命令めいれい指示しじもできるだけ日本語にほんごおこなうことが推進すいしんされた[29]兵器へいき日本語にほんごんだ[29]公文書こうぶんしょ日本語にほんごで、一部いちぶまんしゅう中国ちゅうごく)を併用へいようした[29]

こうした実態じったい不満ふまん軍人ぐんじんおおく、離反りはんしゃたなかった。1936ねん康徳やすのり3ねん)1がつかねしょうみぞ事件じけんや、ノモンハン事件じけんでのいしらん支隊したい歩兵ほへいだい14だんだい1営による反乱はんらん事件じけんこっている。1945ねん8がつだい世界せかい大戦たいせん末期まっきソ連それんぐん侵攻しんこうしてくると反乱はんらん命令めいれい拒否きょひ無断むだんはなれたい逃亡とうぼう)する将兵しょうへいソ連それんぐん投降とうこうするもの相次あいついだ。

一方いっぽうで、朝鮮ちょうせん統治とうちした日本にっぽん影響えいきょうにあり「大日本帝国だいにっぽんていこく不可分ふかぶんてき関係かんけいゆうする独立どくりつ国家こっか」だった[30]まんしゅう国軍こくぐん出身しゅっしんしゃ韓国かんこくぐん基幹きかん構成こうせいし、政治せいじてきにも影響えいきょうりょく行使こうししたこと問題もんだいするこえ以前いぜんより存在そんざいしている。2005ねん8がつ29にちはん民族みんぞく特別とくべつほうによって民族みんぞく問題もんだい研究所けんきゅうじょ親日しんにち人名じんめい辞典じてん編纂へんさん委員いいんかい発表はっぴょうした親日しんにち人名じんめい辞典じてん名簿めいぼ3090にんのなかにまんしゅう国軍こくぐん将校しょうこう勤務きんむれきのある朝鮮ちょうせんじん親日しんにちとしてリストアップされた。

  • はくよし朝鮮ちょうせんじん):1941ねん康徳やすのり8ねん奉天ほうてんぐんかん学校がっこう卒業そつぎょう中尉ちゅういとして終戦しゅうせんむかえる。のち韓国かんこく陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょう韓国かんこく陸軍りくぐん最初さいしょ大将たいしょうとなる。
  • ぼく正煕せいき朝鮮ちょうせんじん):1940ねん康徳やすのり7ねん)4がつしんきょう陸軍りくぐんぐんかん学校がっこう入学にゅうがく(2期生きせい)、1942ねん康徳やすのり9ねん)に首席しゅせき卒業そつぎょう。1942ねん昭和しょうわ17ねん)10がつ日本にっぽん陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう(57)に派遣はけんされ、1944ねん昭和しょうわ19ねん)4がつ卒業そつぎょう中尉ちゅういとして終戦しゅうせんむかえる。のち韓国かんこく大統領だいとうりょうとなる。

戦役せんえき[編集へんしゅう]

まんしゅう国軍こくぐん参戦さんせんした戦役せんえき

軍装ぐんそう[編集へんしゅう]

軍旗ぐんき[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c まんしゅうこく政府せいふ公報こうほうやくだい2ごう、1932ねん大同だいどう元年がんねん)4がつ15にち、5ぺーじ
  2. ^ まんしゅうこく政府せいふ公報こうほう邦譯ほうやくだい1ごう、1932ねん大同だいどう元年がんねん)4がつ1にち、7-10ぺーじ
  3. ^ 政府せいふ公報こうほうやく号外ごうがい、1934ねん康徳やすのり元年がんねん)3がつ1にち、2-4ぺーじ
  4. ^ まんしゅうこく政府せいふ公報こうほうやくだい46ごう、1932ねん大同だいどう元年がんねん)9がつ16にち、6-7ぺーじ
  5. ^ 政府せいふ公報こうほうやくだい80ごう、1934ねん康徳やすのり元年がんねん)6がつ8にち、53-57ぺーじ
  6. ^ 実際じっさいには陸軍りくぐん武官ぶかん等級とうきゅうひょうだいいちごうひょう)、陸軍りくぐんへい等級とうきゅうひょうだいごうひょう)の2つのひょう規定きていされている。
  7. ^ 政府せいふ公報こうほうだい1445ごう、1939ねん康徳やすのり6ねん)2がつ2にち、23-25ぺーじ
  8. ^ a b 実際じっさいには陸軍りくぐんぐんかん官等かんとうひょうひょうだいいちひょう)、陸軍りくぐん准尉じゅんい官軍かんぐん官等かんとうひょうひょうだいひょう)、陸軍りくぐんへい等級とうきゅうひょうひょうだいさんひょう)の3つのひょう規定きていされている。
  9. ^ 政府せいふ公報こうほうだい2237ごう、1941ねん康徳やすのり8ねん)10がつ22にち、388-390ぺーじ
  10. ^ 政府せいふ公報こうほうやくだい213ごう、1934ねん康徳やすのり元年がんねん)11月15にち、209-210ぺーじ
  11. ^ まんしゅうこく政府せいふ公報こうほうやくだい82ごう、1932ねん大同だいどう元年がんねん)12月28にち、3-20ぺーじ
  12. ^ 政府せいふ公報こうほうだい933ごう、1937ねん康徳やすのり4ねん)5がつ12にち、163-172ぺーじ
  13. ^ 政府せいふ公報こうほうやくだい246ごう、1934ねん康徳やすのり元年がんねん)12月24にち、215-249ぺーじ
  14. ^ 政府せいふ公報こうほうやくだい38ごう、1934ねん康徳やすのり元年がんねん)4がつ19にち、151-152ぺーじ
  15. ^ 実際じっさいには海軍かいぐん武官ぶかん等級とうきゅうひょうだいいちごうおよ海軍かいぐんへい等級とうきゅうひょうだいごう)の2つのひょう規定きていされている。
  16. ^ 政府せいふ公報こうほうだい888ごう、1937ねん康徳やすのり4ねん)3がつ18にち、335-337ぺーじ
  17. ^ 実際じっさいには海軍かいぐん士官しかん等級とうきゅうひょうだいいちひょう)、海軍かいぐんじゅん士官しかん下士官かしかん等級とうきゅうひょうだいひょうおよ海軍かいぐんへい等級とうきゅうひょうだいさんひょう)の2つのひょう規定きていされている。
  18. ^ まんしゅうこく政府せいふ公報こうほうやくだい2ごう、1932ねん大同だいどう元年がんねん)4がつ15にち、5-6ぺーじ
  19. ^ 国立こくりつ公文書こうぶんしょかんアジア歴史れきし資料しりょうセンターまんしゅうこく軍事ぐんじ顧問こもんなみ軍事ぐんじ教官きょうかん一覧いちらんひょうがいけん
  20. ^ 政府せいふ公報こうほうやくだい221ごう、1934ねん康徳やすのり元年がんねん)11月24にち、333-334ぺーじ
  21. ^ a b 政府せいふ公報こうほうだい1456ごう、1939ねん康徳やすのり6ねん)2がつ17にち、261ぺーじ
  22. ^ 政府せいふ公報こうほうやくだい120ごう、1934ねん康徳やすのり元年がんねん)7がつ26にち、195ぺーじ
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  24. ^ 일 육사 졸업 뒤 항일연합군 공격“임정 입장서 박정희는 적군 장교”민족문제연구소 ‘박정희 친일 행적’ 신문 공개 ハンギョレ 2009ねん11月5にち
  25. ^ 日本にっぽん陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう卒業そつぎょう 抗日こうにち連合れんごうぐん攻撃こうげき ハンギョレサランバン 2009ねん11月5にち
  26. ^ 박정희 만주군관학교 지원때 “목숨바쳐 충성” 혈서 사실로 민족문제연구소, 당시 신문 공개 ハンギョレ 2009ねん11月6にち
  27. ^ ぼくただし満州まんしゅうぐんかん学校がっこう 志願しがんとき "いのちささげて忠誠ちゅうせい" 血書けっしょ事実じじつ ハンギョレサランバン 2009ねん11月6にち
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  29. ^ a b c 情報じょうほうきょく写真しゃしん週報しゅうほうだい180ごう、1941ねん8がつ6にち発行はっこう、16ぺーじ
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 国務こくむいん総務庁そうむちょうまんしゅうこく政府せいふ公報こうほうやく』、1932ねん大同だいどう元年がんねん)- 1934ねん大同だいどう3ねん
  • 国務こくむいん総務庁そうむちょう政府せいふ公報こうほうやく』、1934ねん康徳やすのり元年がんねん)- 1935ねん康徳やすのり2ねん
  • 国務こくむいん総務庁そうむちょう政府せいふ公報こうほう』、1936ねん康徳やすのり3ねん)- 1945ねん康徳やすのり12ねん
  • 国務こくむいん法制ほうせいしょへんまんしゅう国法こくほうれい輯覧』だいいちまき基本きほんほう 帝室ていしつへん」「官制かんせいへん」、まんしゅう行政ぎょうせい学会がっかい、1943ねん康徳やすのり10ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]