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だい東亜とうあ共栄きょうえいけん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
にちはなみつるきょうじょ天下てんか太平たいへいのポスター
だい東亜とうあ会議かいぎ参加さんかした各国かっこく首脳しゅのうひだりからバー・モウはる)、ちょうけいめぐみみつる)、ひろしちょうめいはな)、東條とうじょう英機ひでき)、ワンワイタヤーコーンやすし)、ホセ・ラウレル)、スバス・チャンドラ・ボースしるし

だい東亜とうあ共栄きょうえいけん(だいとうあきょうえいけん/きゅう字体じたいだい東亞とうあ共榮きょうえいけん英語えいご:Greater East Asia Co-Prosperity Sphere または Greater East Asia Prosperity Sphere[1])は、だい東亜とうあ戦争せんそう連合れんごうこくがわ呼称こしょう太平洋戦争たいへいようせんそう)を背景はいけいに、だい2近衛このえないかく1940ねん昭和しょうわ15ねん〉)から日本にっぽん降伏ごうぶく1945ねん昭和しょうわ20ねん〉)までとなえられた日本にっぽんたいアジア政策せいさく構想こうそうである[2]

だい東亜とうあ戦争せんそう日本にっぽん政府せいふがアジア諸国しょこく協力きょうりょくして提起ていきしたもので[1]欧米おうべい帝国ていこく主義しゅぎくに植民しょくみん支配しはいにあったアジア諸国しょこく解放かいほうして、日本にっぽん盟主めいしゅとした共存きょうぞん共栄きょうえいのアジア経済けいざいけんをつくろうという主張しゅちょうであった[3]東條とうじょう英機ひでき表現ひょうげんによれば、共栄きょうえいけん建設けんせつ根本こんぽん方針ほうしんは「帝国ていこく核心かくしんとする道義どうぎもとづく共存きょうぞん共栄きょうえい秩序ちつじょ確立かくりつ」することにあった[2]先立さきだ1931ねん9月のまんしゅう事変じへん当時とうじには「まん一体いったい[4]1938ねん11月にだい1近衛このえないかくにちちゅう戦争せんそう長期ちょうきけて「東亜とうあしん秩序ちつじょ」の建設けんせつ声明せいめいしており、このときには日本にっぽんまんしゅう中国ちゅうごく限定げんていされた構想こうそうにすぎなかったが、南進なんしんろんつよまるなかで「みつるはな」に東南とうなんアジアインドオセアニアまでのだい東亜とうあ共栄きょうえいけん構想こうそうまれた[5][6]

概要がいよう

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日本にっぽんの10ぜに切手きって(1942ねん発行はっこう)。地図ちず切手きって縦横じゅうおうおさまるようにデフォルメされ、しま大陸たいりく位置いち関係かんけい実際じっさいより縮小しゅくしょう気味ぎみえがかれている
インドネシア地図ちず参照さんしょう)。

だい東亜とうあ共栄きょうえいけんは「日本にっぽん盟主めいしゅとするひがしアジア広域こういきブロック構想こうそうとそれにふくまれる地域ちいき」を[7]だい2近衛このえ文麿ふみまろ内閣ないかく発足ほっそくの「基本きほん国策こくさく要綱ようこう」(1940ねん7がつ26にち)に「だい東亜とうあしん秩序ちつじょ」の建設けんせつとしてかかげられ、国内こくないの「しん体制たいせい確立かくりつなら基本きほん方針ほうしんとされた[7][8]。これはドイツこくの「生存せいぞんけん(Lebensraum)」理論りろん影響えいきょうけており、「共栄きょうえいけん」の用語ようご外相がいしょう松岡まつおか洋右ようすけ由来ゆらいする[7][8]

アジア諸国しょこく一致いっち団結だんけつして欧米おうべい勢力せいりょくをアジアからし、日本にっぽんまんしゅう中国ちゅうごくフィリピンタイビルマインド中心ちゅうしんとし、フランスりょうインドシナふつしるし)、イギリスりょうマラヤイギリスりょうきたボルネオオランダりょうひがしインドらんしるし)、オーストラリアによる政治せいじ経済けいざいてき共存きょうぞん共栄きょうえいはか政策せいさくであった[9]

だい東亜とうあ日本にっぽん生存せいぞんけん

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日本にっぽんまんしゅうこく中国ちゅうごくをひとつの経済けいざい共同きょうどうたいにちまんささえ経済けいざいブロック)とし、東南とうなんアジア資源しげん供給きょうきゅう地域ちいきに、南太平洋みなみたいへいよう国防こくぼうけんとして位置付いちづけるものとかんがえられており、「だい東亜とうあ日本にっぽん生存せいぞんけん」であると宣伝せんでんされた。ただし、「だい東亜とうあ」の範囲はんいや「共栄きょうえい」の字義じぎなどは当初とうしょかならずしも明確めいかくにされていなかった。

用語ようごとしては陸軍りくぐん岩畔いわぐろ豪雄ひでお堀場ほりば一雄かずおつくったものともいわれ、1940ねん昭和しょうわ15ねん)7がつ近衛このえ文麿ふみまろ内閣ないかく決定けっていした「基本きほん国策こくさく要綱ようこう」にたいする外務がいむ大臣だいじん松岡まつおか洋右ようすけ談話だんわ使つかわれてから流行りゅうこうした。公式こうしき文書ぶんしょとしては1941ねん昭和しょうわ16ねん)1がつ30にちの「たいふつしるしたい施策しさく要綱ようこう」が初出しょしゅつとされる。ただし、このかたりさきんじて1938ねん昭和しょうわ13ねん)には「東亜とうあしん秩序ちつじょ」のかたり近衛このえ文麿ふみまろによってもちいられている。

だい東亜とうあ共同きょうどう宣言せんげん

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1941ねん昭和しょうわ16ねん)に日本にっぽんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくイギリス帝国ていこく宣戦せんせん布告ふこくをしてだい東亜とうあ戦争せんそう太平洋戦争たいへいようせんそう)が勃発ぼっぱつし、アジアに本格ほんかくてき進出しんしゅつすると、日本にっぽんだい東亜とうあ共栄きょうえいけん建設けんせつ対外たいがいてき目標もくひょうかかげることになった[10]だい東亜とうあ建設けんせつ審議しんぎかい参照さんしょう)。1943ねん昭和しょうわ18ねん)には日本にっぽん占領せんりょう地域ちいき欧米おうべい列強れっきょう植民しょくみん支配しはいから「独立どくりつ」させただい東亜とうあ共栄きょうえい圏内けんない各国かっこく首脳しゅのう東京とうきょうあつまってだい東亜とうあ会議かいぎ開催かいさいし、だい東亜とうあ共同きょうどう宣言せんげん採択さいたくされた。

東条とうじょう首相しゅしょう説明せつめい

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1941ねん昭和しょうわ16ねん)12月の開戦かいせん直後ちょくごひらかれただい79かい帝国ていこく議会ぎかい会期かいきちゅう、1942ねん昭和しょうわ17ねん)1がつおこなわれた東條とうじょう英機ひでき首相しゅしょう施政しせい方針ほうしん演説えんぜつで「だい東亜とうあ共栄きょうえいけん建設けんせつ根本こんぽん方針ほうしん」を「だい東亜とうあかく国家こっか及各民族みんぞくをして、各々おのおのしょしめ、帝国ていこく核心かくしんとする道義どうぎもとづ共存きょうぞん共栄きょうえい秩序ちつじょ確立かくりつせんとするにる」[11][12]説明せつめいした。重要じゅうよう資源しげんるためのくにおもまんしゅうこく中華民国ちゅうかみんこくフランスりょうインドシナふつしるし)、タイイギリスりょうビルマイギリスりょうマラヤオランダりょうひがしインドらんしるし)、フィリピンからであった。

だい東亜とうあ共栄きょうえいけん実態じったい評価ひょうか

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だい東亜とうあ共栄きょうえいけん最大さいだい版図はんと領域りょういき大日本帝国だいにっぽんていこく領域りょういきみなみ樺太からふと千島ちしま朝鮮ちょうせん台湾たいわんふくむ)はあか、その「同盟どうめいこく」はくら赤色あかいろ従属じゅうぞくこく占領せんりょううすあか表示ひょうじされる。

だい東亜とうあ共栄きょうえいけんは、アジアの欧米おうべい列強れっきょう植民しょくみんをその支配しはいから独立どくりつさせ、大日本帝国だいにっぽんていこくまんしゅうこく中華民国ちゅうかみんこく中心ちゅうしんとする国家こっか連合れんごう実現じつげんさせるものであるとされた。だい東亜とうあ共同きょうどう宣言せんげんには、『相互そうご協力きょうりょく独立どくりつ尊重そんちょう』などのむね明記めいきされている。

当初とうしょは、アジアは日本にっぽん勢力せいりょくけんであるとどく認識にんしきさせることが目的もくてきであったことから、国策こくさくでありながら抽象ちゅうしょうてき理念りねんやスローガンが先行せんこうし、詳細しょうさい計画けいかくからつくるという泥縄どろなわしきとなっていた[13]だい東亜とうあ建設けんせつ審議しんぎかいでは企画きかくいん商工しょうこうしょう対立たいりつはげしくなったことで計画けいかく調整ちょうせいがつかなかったが、実施じっし段階だんかい問題もんだいきることを認識にんしきしながら資源しげん確保かくほかんして曖昧あいまい内容ないよう決定けっていおこなった[13]計画けいかく曖昧あいまいなことから軍部ぐんぶとの調整ちょうせいもつけられず、資源しげん輸送ゆそう使つか大型おおがた船舶せんぱく事態じたいとなった[13]戦線せんせん拡大かくだいするとぐんによる船舶せんぱく徴用ちょうようすすんだため、かぎられた船舶せんぱく使つかった資源しげん輸送ゆそう終始しゅうしした[13]

だい東亜とうあ共栄きょうえいけん構成こうせいしていたフィリピンだい共和きょうわこくラオス王国おうこくビルマこくまんしゅうこく中華民国ちゅうかみんこくかく政府せいふは、実際じっさいにはいずれも日本にっぽん政府せいふ日本にっぽんぐん指導しどうしたかれた傀儡かいらい政権せいけんまたは従属じゅうぞくこくであるとされることもあり、「実質じっしつてきには日本にっぽんによる植民しょくみん支配しはい目指めざしたものにぎなかった」とする意見いけんもある。とくに、フィリピンとビルマにかんしては戦前せんぜんには民選みんせんによる自治じち政府せいふ存在そんざいし、日本にっぽん影響えいきょうかれただい東亜とうあ共栄きょうえい圏内けんないにあっては選挙せんきょなどの民主みんしゅてき手続てつづきによらず、政府せいふ首脳しゅのうには日本にっぽんがわ選任せんにんした人物じんぶつ親日しんにちてき協力きょうりょくてき人物じんぶつ)が就任しゅうにんしていたため、「実質じっしつてき独立どくりつからはむしろとおざかったのではないか」という批判ひはんもある。

1943ねん昭和しょうわ18ねん5月31にち御前ごぜん会議かいぎ決定けっていされた「だい東亜とうあ政略せいりゃく指導しどう大綱たいこう」ではイギリスりょうマラヤオランダりょうひがしインドらんしるし)は日本にっぽんりょう編入へんにゅうすることとなっていた(ただし、らんいんについては、1944ねん昭和しょうわ19ねん9月7にち小磯こいそ声明せいめい将来しょうらいてき独立どくりつ約束やくそくした)。とくにイギリスりょうマラヤの一部いちぶであったシンガポールは、日本にっぽんへの編入へんにゅう見越みこして昭南しょうなん特別とくべつ改称かいしょうされた。この「だい東亜とうあ政略せいりゃく指導しどう大綱たいこう」にはこれらの地域ちいき日本にっぽんりょうとする理由りゆうが「重要じゅうよう資源しげん供給きょうきゅうげん」とするためと明確めいかくうたわれており(だい ろく (イ))、しかもこれについては「当分とうぶん発表はっぴょうセス」とされていた。だい東亜とうあ政略せいりゃく指導しどう大綱たいこうによる日本にっぽん政府せいふ意図いととしては、だい東亜とうあ共栄きょうえいけんはあくまで日本にっぽん戦争せんそう遂行すいこうするためのものであった。また、当時とうじ日本にっぽん知識ちしきじんも「だい東亜とうあ民族みんぞく解放かいほう民族みんぞくすめらぎ運動うんどうである」[14]、「だい東亜とうあ共栄きょうえいけん構想こうそういては、個別こべつ国家こっか観念かんねんゆるされるべきではない」[15]などと明言めいげんしており、大日本帝国だいにっぽんていこく頂点ちょうてんとした階級かいきゅうてき組織そしき構造こうぞうにアジア各国かっこくんでいく構想こうそうであったことがうかがえる。

フィリピンは1944ねん独立どくりつがすでに約束やくそくされており、日本にっぽん1943ねん5月に御前ごぜん会議かいぎでフィリピンを独立どくりつさせた。1945ねん日本にっぽん敗戦はいせん1946ねんのマニラ条約じょうやくによりフィリピンだいさん共和きょうわこく独立どくりつした。

1941ねんにドイツのつよ影響えいきょうにあったヴィシー・フランス植民しょくみんインドシナ連邦れんぽうふつしるし)においては、日本にっぽんぐんはヴィシー政府せいふ協定きょうていむすんでインドシナに駐留ちゅうりゅうし(ふつしるし進駐しんちゅう)、フランス植民しょくみん政府せいふによる支配しはい1945ねん昭和しょうわ20ねん3月9にちあかりごう作戦さくせん発動はつどうまで承認しょうにんした。日本にっぽん敗戦はいせん、インドシナ支配しはい回復かいふくしたフランスと独立どくりつ目指めざベトミンあいだだいいちインドシナ戦争せんそう勃発ぼっぱつし、ながインドシナ戦争せんそう時代じだいむかえることになった。

日本にっぽん共栄きょうえい圏内けんないにおいて日本語にほんごによるすめらぎみん教育きょういく宮城みやぎ遥拝ようはい推奨すいしょう神社じんじゃ造営ぞうえい人物じんぶつ両面りょうめん資源しげん収奪しゅうだつなどをおこなったこともあり、実質じっしつてき独立どくりつあたえないまま敗戦はいせんしたことから、日本にっぽんもかつての宗主そうしゅこくおなじかそれ以上いじょう加害かがいしゃであったという見方みかたがある。一方いっぽうで、日本にっぽんきゅう宗主そうしゅこく支配しはい排除はいじょし、現地げんちじんからなる軍事ぐんじりょく創設そうせつしたことが戦後せんご独立どくりつつながった、よって加害かがいしゃではなく解放かいほうしゃであったという評価ひょうかや、基本きほんてきには日本にっぽん加害かがいしゃとしつつも、だい東亜とうあ共栄きょうえいけん様々さまざま施政しせい改善かいぜん学校がっこう教育きょういく拡充かくじゅう現地げんち公用こうよう在来ざいらい民族みんぞく高官こうかん登用とうよう華人かじんインドじんなどの外来がいらいしょ民族みんぞく権利けんり剥奪はくだつ制限せいげんなど)がおこなわれたため、きゅう宗主そうしゅこくよりはマシな統治とうちしゃであったという見方みかたもある。また、計画けいかく曖昧あいまいさと政府せいふ軍部ぐんぶ調整ちょうせい不十分ふじゅうぶんにより、すめらぎみん教育きょういく宗教しゅうきょう政策せいさく不完全ふかんぜんなままわり、現地げんちでは日本語にほんご宮城みやぎ遥拝ようはい定着ていちゃくしなかった。

1943ねん昭和しょうわ18ねん)7がつ1にち厚生省こうせいしょう研究所けんきゅうじょ人口じんこう民族みんぞくげん国立こくりつ社会しゃかい保障ほしょう人口じんこう問題もんだい研究所けんきゅうじょ)が作成さくせいした報告ほうこくしょでは、日本人にっぽんじんはアジアしょ民族みんぞく家長かちょうとして「永遠えいえんに」アジアを統治とうちする使命しめいがあるとしるされているが、欧米おうべい列強れっきょう詳細しょうさい長期ちょうき計画けいかくもとづいて実行じっこうした植民しょくみん主義しゅぎによる支配しはいとはことなり、だい東亜とうあ共栄きょうえいけん曖昧あいまい計画けいかく実現じつげん疑問ぎもん指摘してきされているなど、2022ねん時点じてんでも議論ぎろんつづいている[13]

肯定こうていてき評価ひょうかとしては、イギリスの歴史れきし学者がくしゃトインビーが1956ねん10がつ28にち英紙えいしオブザーバー』に発表はっぴょうした以下いかのような分析ぶんせきられている[16][17][18][19][20][21]

だい世界せかい大戦たいせんにおいて、日本人にっぽんじん日本にっぽんのためというよりも、むしろ戦争せんそうによって利益りえき国々くにぐにのために、偉大いだいなる歴史れきしのこしたといわねばならない。その国々くにぐにとは、日本にっぽんかかげた短命たんめい理想りそうであっただい東亜とうあ共栄きょうえいけんふくまれていた国々くにぐにである。日本人にっぽんじん歴史れきしじょうのこした業績ぎょうせき意義いぎは、西洋せいようじん以外いがい人類じんるい面前めんぜんにおいて、アジアとアフリカを支配しはいしてきた西洋せいようじんが、過去かこひゃくねんあいだかんがえられていたような、不敗ふはいはんかみでないことをあきらかにしめしたてんにある。 — アーノルド・J・トインビー 英紙えいし『オブザーバー』11めん、1956ねん10がつ28にち[16][17][注釈ちゅうしゃく 1]

計画けいかく破綻はたんとその

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日本にっぽん敗戦はいせんまえにして計画けいかく棚上たなあ状態じょうたいとなっており、敗戦はいせんまえ破綻はたんしていたという意見いけんもある[13]

終戦しゅうせんにはオランダイギリスフランスなどのきゅう宗主そうしゅこく植民しょくみん支配しはい再開さいかいはかったが、インドネシアインドシナ、さらにはインドなどでも日本にっぽん占領せんりょう創設そうせつされた民族みんぞくぐんなどが独立どくりつ勢力せいりょくとしてきゅう宗主そうしゅこくたたか独立どくりつたすことになる。日本にっぽんぐんによる占領せんりょうをきっかけとするかく民族みんぞく独立どくりつ機運きうんたかまりにより、きゅう宗主そうしゅこくによる植民しょくみん支配しはい終焉しゅうえんへとつながったとする見解けんかいもしばしば主張しゅちょうされる。一方いっぽうでフィリピンのフクバラハップベトナムベトミンのような現地げんち住民じゅうみんによる抗日こうにちゲリラもしばしば発生はっせいしており、これらがこう独立どくりつ運動うんどうあたえた影響えいきょうおおきい。

八紘はっこう一宇いちう

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だい東亜とうあ共栄きょうえいけんかたじょう重要じゅうよう概念がいねんにこのかたりがある。このかたり日本にっぽんだい東亜とうあ共栄きょうえいけん建設けんせつ推進すいしんするための政策せいさく標語ひょうごスローガン)としてひろかかげられた。

アジア主義しゅぎとの関係かんけい

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だい東亜とうあ共栄きょうえいけん構想こうそうは、アジアが一体いったいとなって欧米おうべい対抗たいこうすべきであるというひろしアジア主義しゅぎ影響えいきょうけている。ひろしアジア主義しゅぎとなえた近代きんだい日本にっぽん思想家しそうかとしてはきた一輝いっき石原いしはら莞爾かんじなどがあげられる。また、江戸えど時代じだい後期こうき経世けいせい佐藤さとう信淵のぶひろにその思想しそうてきルーツをもとめる見解けんかいもある[22]

自民党じみんとう議員ぎいん鹿島建設かしまけんせつ会長かいちょう鹿島かしま守之もりゆきすけは、外交がいこうかんつとめていた戦前せんぜんより「ひろしアジア」を提唱ていしょうしていた。その「ひろしアジア」を外交がいこうかん時代じだい鹿島かしま熱心ねっしんいたのは、「ひろし欧州おうしゅう」をかかげる欧州おうしゅう連合れんごうちちクーデンホーフ=カレルギー伯爵はくしゃくである[23]鹿島かしまだい世界せかい大戦たいせんちゅう、「ひろしアジア」とだい東亜とうあ共栄きょうえいけん同一どういつはじめた[24]鹿島かしまは『帝国ていこく外交がいこうだい東亜とうあ共栄きょうえいけん』(翼賛よくさん図書としょ刊行かんこうかい、1943ねん)において、クーデンホーフ=カレルギー伯爵はくしゃくひろしアジア主義しゅぎいていたと証言しょうげんしている[25]

だい東亞とうあ共榮きょうえいけん建設けんせつわたしじゅう年来ねんらい持論じろんでありまた理想りそうである。そもそもこれ實現じつげんせしむべく熱心ねっしんいたもの日本人にっぽんじんははおうひろしこく貴族きぞくクーデンホーフカレルギーはくであつた。 — 鹿島かしま守之もりゆきすけ、『帝國ていこく外交がいこうだい東亞とうあ共榮きょうえいけん』(翼贊よくさん圖書としょ刊行かんこうかい、1943ねん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ちなみにヘンリー 2012, pp. 127–128での日本語にほんごやくでは以下いかのようにかれている。
    日本にっぽんだい世界せかい大戦たいせんにおいて、自国じこくではなく、だい東亜とうあ共栄きょうえいけんほか国々くにぐにおもいがけないめぐみをもたらした。それまでアジア・アフリカを200ねんながきにわたって支配しはいしてきた西洋せいようじんは、無敵むてきで、あたかもかみのような存在そんざいだとしんじられてきたが、日本人にっぽんじん実際じっさいにはそうではなかったことを、人類じんるい面前めんぜん証明しょうめいしてしまった。これは、まさに歴史れきしてき偉業いぎょうであった。…日本にっぽん白人はくじんのアジア侵略しんりゃくめるどころか、帝国ていこく主義しゅぎ植民しょくみん主義しゅぎ人類じんるい差別さべつ終止符しゅうしふつことをなしとげた。 — アーノルド・J・トインビー 英紙えいし『オブザーバー』1956ねん10がつ28にち[21]

出典しゅってん

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  1. ^ a b 長谷川はせがわ啓之ひろゆきだい東亜とうあ共栄きょうえいけん」『現代げんだいアジア事典じてんぶん眞堂しんどう、2009ねん7がつ20日はつか だいはんだいさつ発行はっこうISBN 978-4-8309-4649-3、624ぺーじ
  2. ^ a b ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてんだい東亜とうあ共栄きょうえいけん』 - コトバンク
  3. ^ 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)
  4. ^ だい東亜とうあ共栄きょうえいけん コトバンク
  5. ^ 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だいはんリンク表示ひょうじめい省略しょうりゃく』 - コトバンク
  6. ^ 山本やまもとゆうづくり『「だい東亜とうあ共栄きょうえいけん経済けいざい研究けんきゅう名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい、2011ねん がつ9にち30にち 初版しょはんだいさつ発行はっこうISBN 978-4-8158-0680-4、iiぺーじ
  7. ^ a b c 日立ひたちソリューションズ・クリエイト 「だい東亜とうあ共栄きょうえいけん」『世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だいはん日立ひたちソリューションズ・クリエイト
  8. ^ a b アジれきトピックス - I 戦争せんそう事件じけん - 太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう - だい東亜とうあ共栄きょうえいけん”. www.jacar.go.jp. 2021ねん2がつ2にち閲覧えつらん
  9. ^ 日立ひたちソリューションズ・クリエイト 「だい東亜とうあ共栄きょうえいけん」『百科ひゃっか事典じてんマイペディア』 日立ひたちソリューションズ・クリエイト
  10. ^ Akira Iriye (1999), Pearl Harbor and the Coming of the Pacific War: A Brief History with Documents and Essays, Boston and New York: Bedford/ St. Martins, p.6.
  11. ^ 遠山とおやま茂樹しげき今井いまい清一せいいち藤原ふじわらあきら(1959)『昭和しょうわ』[新版しんぱん]、岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ355〉、216ページ
  12. ^ だい東亜とうあ宣言せんげん世界せかいてき意義いぎ東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん、1942ねん1がつ23にち神戸大学こうべだいがく電子でんし図書館としょかんシステム)
  13. ^ a b c d e f コロナ対策たいさく戦時せんじ状況じょうきょうつうそこ 東北大とうほくだいいん安達あだち宏昭ひろあき教授きょうじゅが「だい東亜とうあ共栄きょうえいけん刊行かんこう”. 河北かわきた新報しんぽうオンラインニュース (2022ねん8がつ3にち). 2022ねん8がつ4にち閲覧えつらん
  14. ^ だい東亜とうあすめらぎ理念りねん国防こくぼう科学かがく研究けんきゅう叢書そうしょ 富士ふじ書店しょてん 1942ねん
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  16. ^ a b アーノルド・J・トインビー「Historian en Route The Shopkeepers From China」、英紙えいしオブザーバー』11めん(1956ねん10がつ28にち
  17. ^ a b 水間みずま 2013, p. 1
  18. ^ レファレンス共同きょうどうデータベースI160803181420
  19. ^ レファレンス共同きょうどうデータベースI140304191445
  20. ^ 日本にっぽんせられた 西洋せいよう知性ちせい】アーノルド・J・トインビー 西洋せいよう無敵むてきでないことしめした日本にっぽん(zakzak、2015ねん3がつ18にち
  21. ^ a b ヘンリー 2012, pp. 127–128
  22. ^ ロバート・D・エルドリッヂ『硫黄いおうとう小笠原おがさわらをめぐる日米にちべい関係かんけい』、南方みなかたしんしゃ、31ページ
  23. ^ 平川ひらかわ, ひとし (名古屋大学なごやだいがく経済けいざいがく研究けんきゅう教授きょうじゅ) (2011ねん2がつ15にち), 鹿島かしま守之もりゆきすけとパン・アジアろんへのいち試論しろん, SGRAレポート 58 (公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん 渥美あつみ国際こくさい交流こうりゅう財団ざいだん 関口せきぐちグローバル研究けんきゅうかい): p. 5, https://web.archive.org/web/20141129012955/http://www.aisf.or.jp/sgra/member/gcitizen/report/SGRAreport58.pdf 2014ねん12月9にち閲覧えつらん 
  24. ^ 平川ひらかわ 2011, pp. 31–33
  25. ^ 平川ひらかわ 2011, p. 15

参考さんこう文献ぶんけん

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  • ヘンリー・スコット・ストークス; 加瀬かせ英明ひであき しる藤田ふじた裕行ひろゆき やく『なぜアメリカは、たいにち戦争せんそう仕掛しかけたのか』祥伝社しょうでんしゃ新書しんしょ、2012ねん8がつISBN 978-4396112875 
  • 水間みずま政憲まさのり『ひとでわかる「アジア解放かいほう時代じだい日本にっぽん精神せいしんPHP研究所けんきゅうじょ、2013ねん8がつISBN 978-4569813899 

関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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