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日本にっぽん国旗こっき

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日本にっぽん国旗こっき
日本の旗
用途ようとおよ属性ぞくせい 市民・政府陸上、市民・政府海上?標準旗?
縦横じゅうおう 2:3
制定せいてい
使用しようしょく
根拠こんきょ法令ほうれい
きゅう 郵船ゆうせん商船しょうせん規則きそく
明治めいじさんねん太政官だじょうかん布告ふこくだいじゅうななごう(1870ねん
国旗こっきおよ国歌こっかかんする法律ほうりつ
平成へいせいじゅういちねん法律ほうりつだいひゃくじゅうななごう(1999ねん
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日本にっぽん国旗こっき(にっぽんのこっき、にほんのこっき)は、しろ紅色こうしょくまるえがかれたはた法律ほうりつじょう日章旗にっしょうき(にっしょうき)とばれ、日本にっぽんではふるくから、一般いっぱんてきまる(ひのまる)とばれる。日本にっぽんでは聖徳太子しょうとくたいしずい使たくした文書ぶんしょ以来いらい自国じこくを"日出にっしゅつづるこく"とするかんがかたがあり、あかまる太陽たいよう象徴しょうちょうする。 また紅白こうはく日本にっぽん伝統でんとうしょくで、めでたいものとされており、あか博愛はくあい活力かつりょくしろかみきよし純潔じゅんけつ意味いみするともわれている[1]

1999ねん平成へいせい11ねん)に公布こうふ施行しこうされた「国旗こっきおよ国歌こっかかんする法律ほうりつ」(通称つうしょう国旗こっき国歌こっかほう)の規定きていによれば、「はたかたちたてよこの3ぶんの2の長方形ちょうほうけいにちあきら直径ちょっけいたての5ぶんの3で中心ちゅうしんはた中心ちゅうしん地色じいろ白色はくしょくにちしょう紅色こうしょく」とされている。上下じょうげ左右さゆう対称たいしょうである。

おもきゅう日本にっぽんぐん自衛隊じえいたい使用しようされているにちあきら旭光きょっこう意匠いしょうしたはたについては、「旭日きょくじつはた(きょくじつき)」を参照さんしょう

国旗こっきとしてあつかわれる以前いぜん歴史れきし[編集へんしゅう]

古代こだいから中世ちゅうせい[編集へんしゅう]

日本人にっぽんじん古代こだい信仰しんこうとして神道しんとう分類ぶんるいされる原始げんし宗教しゅうきょうでは自然しぜん崇拝すうはい精霊せいれい崇拝すうはい内包ないほうしており、とく農耕のうこう漁撈ぎょろうにおいて太陽たいよう信仰しんこう対象たいしょうとしてきた。皇祖こうそしんてんあきら大神おおがみ太陽たいようしんである。

弥生やよい時代じだいから古墳こふん時代じだい大和やまと時代じだい)にかけて祭器さいきとして使つかわれたうちぎょうはなぶんきょう模様もよう太陽たいようかがやきをかたどったものとわれ、三種さんしゅ神器じんぎひとはち咫鏡をこのかがみとするせつもある[2]

初代しょだい神武じんむ天皇てんのう東征とうせいとき生駒山いこまやま敗北はいぼくするが、「わたしかみ子孫しそんとしてかって(ひがしかって)たたかうのはよくない、にして(西にしかって)たたかおう」とって熊野くまの(または伊勢いせ[3][ちゅう 1])に迂回うかいして近畿きんき地方ちほう征服せいふくげた。だい10代たかしかみ天皇てんのうは、宮廷きゅうていないまつられていたてんあきら大神おおがみ宮廷きゅうていがいまつるようになり、だい11だいたれじん天皇てんのう在位ざいい初代しょだい斎宮いつきやまとひめいのちによって伊勢いせ鎮座ちんざした。伊勢神宮いせじんぐう祭祀さいしは、未婚みこん内親王ないしんのう女性じょせい皇族こうぞく)をてんあきら大神だいじん御杖みつえだい(みつえしろ、かみけるだい)としてときおうてるようになった。

だい33だい推古天皇すいこてんのう在位ざいい時代じだい聖徳太子しょうとくたいしずい皇帝こうてい煬帝へ、「にち出處しゅっしょ天子てんし…」ではじまる国書こくしょ送還そうかんしている。また、飛鳥あすか時代ときよ末期まっき国号こくごうを「日本にっぽん」(日ノ本ひのもと)と命名めいめいしたところからも、太陽たいよう)を意識いしきしており、「のぼる」という現象げんしょう重視じゅうししていたことがうかがえる。だい40だい天武天皇てんむてんのうみずのえさるらんとき伊勢神宮いせじんぐうもちはいした。これが「勝利しょうりむすびついた」とかんがえられ、在位ざいいちゅう伊勢神宮いせじんぐう遷宮せんぐう制度せいどし、だい41だいもちすべ天皇てんのう在位ざいいだい1かい式年しきねん遷宮せんぐうおこなわれた。日本にっぽん国家こっか統治とうち太陽たいようむすびつきはますますつよくなった。

この太陽たいようかたどったはたもちいるようになったのは、645ねん大化たいか元年がんねん)のおつへん以後いご天皇てんのうによる親政しんせい確立かくりつされたころからとかんがえられる[4]文献ぶんけんとしては、797ねんのべれき16ねん)の『ぞく日本にっぽん』のなかにある文武ぶんぶ天皇てんのう701ねん大宝たいほう元年がんねん)の朝賀ちょうがかんする記述きじゅつにおいて、「正月しょうがつ元旦がんたん儀式ぎしき会場かいじょうかざりつけに『にちぞう』のはたかかげた」とあり、これがまる原型げんけいもっとふるいものといわれているが、「白地しろじ赤丸あかまるではなかった」とられている。

世界中せかいじゅう歴史れきしてき太陽たいようあかえがかれることはすくなく、太陽たいよう黄色おうしょくまたは金色きんいろ、それにたいしてつき白色はくしょくまたは銀色ぎんいろあらわすのが一般いっぱんてきである[ちゅう 2]日本にっぽんでも古代こだいからあかえん太陽たいようあらわすことは一般いっぱんてきではなかったとおもわれる。たとえばこう松塚まつづか古墳こふんキトラ古墳こふんには東西とうざいかべにちぞうがつぞうえがかれているが、ともにちぞうきむつきぞうぎんえんあらわ れている。だい42だい文武ぶんぶ天皇てんのう即位そくい以来いらい宮中きゅうちゅう重要じゅうよう儀式ぎしきではさんそくがらすをかたどったどうがらす幢に日月じつげつ象徴しょうちょうするにちぞう幢とつきぞう幢をともなってかざっていたことがられるが、神宮じんぐう文庫ぶんこの『ぶんやす即位そくい調度ちょうど』(ぶんやす元年がんねん記録きろく)の写本しゃほんからは、このぞう幢がまる金銅かなどうあかがらすえがいたものであったことが確認かくにんされている。また世俗せぞくてきにも『平家ひらか物語ものがたり』などの記述きじゅつなどからも平安へいあん時代じだい末期まっきころまでの「日輪にちりん」の表現ひょうげん通常つうじょう赤地あかじ金丸かねまる」であったとかんがえられている。

あかえん太陽たいよう表現ひょうげんするれいとしては、ふるくは中国ちゅうごくうえかん時代じだい帛画にある(上記じょうきにちぞう幢と同様どうよう内側うちがわくろがらすはいするもの)。日本にっぽんでは法隆寺ほうりゅうじ玉虫たまむし厨子ずし背面はいめん須弥山しゅみせんに、あかえんぞう確認かくにんできる。これは平安へいあん時代じだい密教みっきょう図像ずぞうなどにも見出みいだされる表現ひょうげんであり、大陸たいりくから仏教ぶっきょうとともにもたらされた意匠いしょうであろうと推測すいそくされる。

九鬼くき嘉隆よしたか造船ぞうせんした日本にっぽんまる中心ちゅうしん九鬼くき水軍すいぐん陣容じんようえがいている。

日本にっぽんで「白地しろじ赤丸あかまる」が日章旗にっしょうきとしてもちいるようになった経緯けいい諸説しょせつあり正確せいかくには不明ふめいである。

一説いっせつには源平げんぺい合戦かっせんうけたまわ寿ことぶきひさしらん)の結果けっか影響えいきょうしているとわれている。平安へいあん時代じだいまで、朝廷ちょうてい象徴しょうちょうであるにしきはた赤地あかじかね日輪にちりんぎん月輪げつりんえがいてある。平安へいあん時代じだい末期まっきに、たいらみずか官軍かんぐん名乗なのはたいろである赤旗あかはた使用しようし、それに対抗たいこうする源氏げんじ白旗はっきかかげて源平げんぺい合戦かっせんひろげた。古代こだいから国家こっか統治とうち太陽たいよう密接みっせつ関係かんけいであることから日輪にちりん天下てんか統一とういつ象徴しょうちょうであり、たいらはたにちなんで「赤地あかじ金丸かねまる」を、みなもとは「白地しろじ赤丸あかまる」を使用しようした。たいら滅亡めつぼうし、みなもとによって武家ぶけ政権せいけんができると代々だいだい将軍しょうぐんみなもと末裔まつえい名乗なのり、「白地しろじ赤丸あかまる」のまる天下てんか統一とういつげたもの象徴しょうちょうとしてがれていったとわれる。 なお、日本にっぽんでは「紅白こうはく」がめでたい配色はいしょくとされてきた。一説いっせつには民俗みんぞくがくてきハレとケ感覚かんかく(ハレ=あか、ケ=しろ)にあるとするせつや、これも源平げんぺい合戦かっせん由来ゆらいするとするせつなどがある。

現存げんそん最古さいこ日章旗にっしょうきとしては山梨やまなしけん甲州こうしゅうきれ石山いしやまくも峰寺みねでら所蔵しょぞうの「まるはた(みはた)」がられている[5][6]てら伝承でんしょうでは、このはたてん4ねん1056ねん)に後冷泉天皇ごれいぜいてんのうより源頼義みなもとのよりよし下賜かしされ、頼義よりちか三男さんなんしん三郎さぶろう義光よしみつから甲斐かいはじめ宗家そうけ甲斐かい武田たけだ相伝そうでんされ、だてよろいたい家宝かほうとされてきた[5]。『甲斐かいこくこころざし』ではながろくしゃくよんぬのとあるが、現在げんざいやく1/4が欠損けっそんしている[5]。またおなじく中世ちゅうせい日章旗にっしょうきとされるものとしては、奈良ならけん五條ごじょう賀名かななま皇居こうきょあと堀家ほりいえ住宅じゅうたく)つたわる後醍醐天皇ごだいごてんのう下賜かしのものがられる[7]

近世きんせい[編集へんしゅう]

旗印はたじるし馬印うまじるし
江戸えど屏風びょうぶ』(1624 - 1644。黒田くろだ日出男ひでおによれば1634 - 1635、松平まつだいら信綱のぶつないのちによる製作せいさく。)。日本にっぽんまる改造かいぞうした大龍おおたつまるなどの幕府ばくふ船団せんだんまるのぼりてている。
御船みふね安宅あたかまる。19世紀せいきえがかれた想像そうぞうには、船尾せんび複数ふくすうまるえる。

近世きんせいには、「白地しろじ赤丸あかまる」は意匠いしょうのひとつとして普及ふきゅうしていた。

戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう旗印はたじるし馬印うまじるしとして「白地しろじ赤丸あかまる」を使用しようしていた。

江戸えど時代じだい絵巻物えまきものなどにはしばしば白地しろじ赤丸あかまるおうぎられるようになっており、とく狩野かのなどもあかまるで「旭日きょくじつ」の表現ひょうげん多用たようするようになり、江戸えど時代じだい後半こうはんには縁起物えんぎもの定番ていばんとして認識にんしきされるにいたっていた。徳川とくがわ幕府ばくふ公用こうようとして使用しようし、家康いえやすゆかりの熱海あたみ江戸城えどじょうまではこばせるさいまるててはこぶなどした。そこから「熱海あたみよいとこまるたてて本丸ほんまるへとおく」といううたまれたりした。

近世きんせいにおけるふねはた関連かんれん資料しりょうとしては、寛永かんえい(1624 - 1644ねん)にえがかれた江戸えど屏風びょうぶ[8]幕府ばくふ船団せんだんのぼりがある。船団せんだん中央ちゅうおうには、日本にっぽんまる改造かいぞう改名かいめいした大龍おおたつまるなどがえがかれておりまるのぼりてている[9]。また、1635ねん寛永かんえい12ねん)に江戸えど幕府ばくふ建造けんぞうした史上しじょう最大さいだい安宅あたかせん天下てんかまる」(通称つうしょう安宅あたかまる」)で「まる」ののぼり使用しようされているのがられている[10]東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん所蔵しょぞうする『御船みふね』(江戸えど時代じだい・19世紀せいきさく)にも安宅あたかまるえがかれており、船尾せんび複数ふくすうまるのぼりえがかれている。江戸えど幕府ばくふ所持しょじせん船印ふなじるしとして、一般いっぱんには徳川とくがわ家紋かもんまるあおい」をもちいたが、将軍家しょうぐんけ所持しょじせんにはまるもちいることもあった。

また、1673ねん寛文ひろふみ13ねん)に、江戸えど幕府ばくふ一般いっぱん廻船かいせん天領てんりょうからの年貢ねんぐまいしろまい)を輸送ゆそうするしろまい廻船かいせん区別くべつするために「しろまい回漕かいそうれいじょう」を発布はっぷしたさい、そのなかで「しろまい船印ふなじるしぬのにてなりとも、木綿もめんにてなりとも、しろ四半しはんだいなるしゅまるけ、其脇に面々めんめん苗字みょうじめいけ、出船しゅっせんより江戸えどまでこうさまこれ申付もうしつけらるこう」と、しろまい廻船かいせん船印ふなじるしとして「しゅまる」ののぼり掲揚けいようするように指示しじし、幕末ばくまつまでつづいた。

18世紀せいきすえから19世紀せいきにかけてロシア帝国ていこく南下なんか政策せいさく警戒けいかいした幕府ばくふ蝦夷えぞ天領てんりょう北方ほっぽう警備けいびとうのため派遣はけんした用船ようせん商船しょうせん軍船ぐんせんなど)もまるしるしたはた使用しようしていた[11]

日本にっぽん国旗こっきとしての歴史れきし[編集へんしゅう]

幕末ばくまつ[編集へんしゅう]

船舶せんぱくよう国籍こくせきとしての制定せいてい[編集へんしゅう]

国旗こっきとしてのまるは、幕末ばくまつ江戸えど幕府ばくふ幕府ばくふ陸軍りくぐん御国みくにそうしるべ」(軍旗ぐんきとして幕府ばくふ海軍かいぐん船舶せんぱくよう国籍こくせき標識ひょうしき」(そう船印ふなじるしとして導入どうにゅうされ、その船舶せんぱくようかぎらず国籍こくせきしめはたとして一般いっぱんした。幕末ばくまつにおける船舶せんぱくようとしての制定せいてい経緯けいいとしては、つぎふたつのせつがある。

薩摩さつま藩主はんしゅ島津しまつ斉彬なりあきら提唱ていしょうせつ
まるかかげる幕府ばくふ海軍かいぐんのぼり平丸ひらまる
中黒なかぐろ」のはた白地しろじくろたていち文字もじ

歴史れきし学者がくしゃ松本まつもと健一けんいち国文学こくぶんがくしゃあきらたかし康隆やすたかなど、複数ふくすう学者がくしゃとなえるこのせつ定説ていせつとされている。

1854ねんよしみひさし7ねん)3がつ日米にちべい和親わしん条約じょうやく調印ちょういん日本にっぽんせん外国がいこくせん区別くべつするための標識ひょうしき必要ひつようとなり、日本国にっぽんこく共通きょうつう船舶せんぱく日本にっぽんそう船印ふなじるし)を制定せいていする必要ひつようしょうじた。 幕臣ばくしんいたる当初とうしょ中黒なかぐろ」(徳川とくがわ先祖せんぞである新田にった家紋かもんだい中黒なかぐろ新田にったひとつ引」に手心てごころくわえてアレンジした、「白地しろじくろたていち文字もじ」の「中黒なかぐろ」)を日本にっぽんそう船印ふなじるしかんがえていたが、薩摩さつま藩主はんしゅ島津しまつ斉彬なりあきら幕府ばくふ海防かいぼう参与さんよ徳川とくがわ斉昭なりあきらの進言しんげんによって、「まる」ののぼりもちいることになり、1854ねん8がつ2にちよしみなが7ねん7がつ9にち)、老中ろうじゅう阿部あべ正弘まさひろにより布告ふこくされた[12]

島津しまつ斉彬なりあきら老中ろうじゅう首座しゅざ阿部あべ正弘まさひろに、まる日本国にっぽんこくそう船印ふなじるしもちいるべきだという建白けんぱくしょ提出ていしゅつするにあたって、水戸みとはん徳川とくがわ斉昭なりあき宇和島うわじまはん伊達だて宗城むねなり佐賀さがはん鍋島なべしま閑叟といった有力ゆうりょく大名だいみょうたちにも同意どういていた。 しかし反対はんたい意見いけんすくなくなかった。とくに守旧しゅきゅう幕府ばくふ体制たいせいにこだわる人々ひとびとには「日本にっぽんこく」という意識いしきとぼしく、そう船印ふなじるし徳川とくがわの「中黒なかぐろ」 をもちいればよいではないかとする意見いけんすくなくなかった。しかし開明かいめいてき藩主はんしゅたちの後押あとおしをて、「まる」が日本にっぽんこくそう船印ふなじるしさだめられたのである[13]

1854ねん8がつ4にちよしみひさし7ねん7がつ11にち)、「まる」を日本国にっぽんこくそう船印ふなじるしさだめる、とする布達ふたつには、つぎのようにかれている。

大船おおふな製造せいぞうについては、異国いこくせんまぎれざるよう、日本国にっぽんこくそう船印ふなじるし白地しろじまるのぼりしょうようそうろうようおおせせいだされこう。かつ、公儀こうぎ御船みふねしろ絹布けんぷ交のながちゅうばしらあいて、白地しろじ中黒なかぐろおおづけられこう
旭日きょくじつまるえがいた(1856ねん制作せいさく

島津しまつ斉彬なりあきら鹿児島かごしまじょううちから桜島さくらじまからのぼ太陽たいよううつくしくおもい、これを国旗こっきにしようと家臣かしんったといわれている。また薩摩さつまはんから洋式ようしき軍艦ぐんかんのぼり平丸ひらまる」を幕府ばくふ献上けんじょうするため、1855ねん1がつ安政あんせい2ねん2がつ江戸えど回航かいこうされたさいまる船尾せんび掲揚けいようされた[14]。これがまる日本にっぽんふねとして掲揚けいようしただいいちごうとされる[13][15]

海事かいじ学者がくしゃ石井いしい謙治けんじは「斉彬なりあきら提唱ていしょうせつ」をげつつも、まる江戸えど幕府ばくふ用船ようせんもちいられた事実じじつから、まる日本にっぽんせん船印ふなじるし提唱ていしょうされたのは自然しぜんのこととしている[16]

まくかく徳川とくがわ斉昭なりあき提唱ていしょうせつ
まるかかげる幕府ばくふ海軍かいぐん鳳凰ほうおうまる。なお、白地しろじ中黒なかぐろ幕府ばくふせん標識ひょうしき

海事かいじ学者がくしゃ安達あだち裕之ひろゆきは、上記じょうきせつ俗説ぞくせつぎないとしている。『水戸みとはん史料しりょうとうまくかく斉昭なりあき書簡しょかん仕様しようちょうといった当時とうじ史料しりょうから、安達あだち考察こうさつしたまる制定せいてい経緯けいいつぎのようになる。

1853ねん7がつ8にちよしみなが6ねん6月3にち)の黒船くろふね来航らいこうは、これまで低調ていちょうであった大船おおふな建造けんぞうきん廃止はいしによる西洋せいようせん建造けんぞう推進すいしんさせた。このさい問題もんだいとされたのが外国がいこくせんとの識別しきべつ方法ほうほうで、同年どうねん9がつ初旬しょじゅん同年どうねん8がつ)に従前じゅうぜんより「白地しろじ中黒なかぐろ」(白地しろじくろよこいち文字もじ)を幕府ばくふせん船印ふなじるしにした浦賀うらが奉行ぶぎょうが、あおいはやぶさまる下田しもだまるだいふね鳳凰ほうおうまる)へ白地しろじ中黒なかぐろとはべつまるかかげることを起工きこうまえ検討けんとうしており[17]まる日本にっぽんせん船印ふなじるしにすることを企図きとしている。

1853ねん10月6にちよしみなが6ねん9月4にち)に老中ろうじゅう浦賀うらが奉行ぶぎょう作成さくせい鳳凰ほうおうまる図面ずめん評定ひょうじょうしょ一座いちざ勘定かんじょう奉行ぶぎょう大目おおめづけ目付めつけわたし、そう船印ふなじるしまる採用さいようすることを諮問しもんしている。これにたいして評定ひょうじょうしょ一座いちざ大目おおめづけ目付めつけは、白地しろじ中黒なかぐろそう船印ふなじるしまる幕府ばくふせん船印ふなじるしにすることを、また勘定かんじょう奉行ぶぎょうそう船印ふなじるし白地しろじ中黒なかぐろしるし幕府ばくふせん白黒しろくろの吹貫を提案ていあんした。かれらがまる不可ふかとした理由りゆうは、しろまいせんぎんどう運搬うんぱんする幕府ばくふ用船ようせんまるを200ねんちか伝統でんとうてきもちいたこと、まるべに退色たいしょくやすいことをげている。

その外交がいこう問題もんだい処理しょり優先ゆうせんされ評議ひょうぎ中断ちゅうだんしたが、鳳凰ほうおうまるが1854ねん6がつ6にちよしみなが7ねん5がつ10日とおか)に竣工しゅんこうし、幕府ばくふそう船印ふなじるし決定けっていせまられた。幕府ばくふは、勘定かんじょう奉行ぶぎょう勘定かんじょう吟味ぎんみやく目付めつけからなる大船おおぶね製造せいぞうかけ昨年さくねん9がつ評議ひょうぎあん審議しんぎさせ、そう船印ふなじるし白黒しろくろの吹貫、しるし白地しろじ中黒なかぐろ幕府ばくふせんまるのぼりとの答申とうしんた。1854ねん6月29にちよしみなが7ねん6月5にち)に老中ろうじゅう首座しゅざ阿部あべ正弘まさひろ幕府ばくふ海防かいぼう参与さんよ徳川とくがわ斉昭なりあきへこの答申とうしん諮問しもんしたところ斉昭なりあき白地しろじ中黒なかぐろ徳川とくがわ先祖せんぞである新田にったしるしで、まる国名こくめいである日本にっぽんしめしるしであり、ぎゃくにするべきと提言ていげんした。その1かげつあまりのあいだ斉昭なりあき幕府ばくふあいだ折衝せっしょうおこなわれた結果けっか斉昭なりあき意見いけんれられ、1854ねん8がつ2にちよしみなが7ねん7がつ9にち)に白地しろじまるのぼりを「日本にっぽんそう船印ふなじるし」とすることが通達つうたつされた[18]竣工しゅんこうしたばかりの「鳳凰ほうおうまる」にはまるはたかかげられ、白地しろじ中黒なかぐろ装備そうびされた。

また、石井いしい行夫ゆきお安達あだちせつ踏襲とうしゅうしつつ、「鳳凰ほうおうまる」が「のぼり平丸ひらまる」よりもはやまるかかげるためおおやけためし一部いちぶ省略しょうりゃくしたこと、浦賀うらが奉行ぶぎょうから提出ていしゅつされたまる試案しあん存在そんざいしたことをげている[19]

国旗こっきとしての汎用はんよう[編集へんしゅう]

咸臨丸かんりんまる(1861ねんごろ

1858ねん安政あんせい5ねん)、幕府ばくふ目付めつけ岩瀬いわせ忠震ただなり下田しもだ奉行ぶぎょう井上いのうえきよしただしは、日章旗にっしょうきかかげて神奈川かながわおき停泊ていはくちゅうポーハタンごうわたり、孝明天皇こうめいてんのう勅許ちょっきょないまま、日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく調印ちょういん署名しょめいした。

よく1859ねん安政あんせい6ねん)、幕府ばくふ縦長たてながのぼり正確せいかくにはよん半旗はんき)から横長よこながはたえて日章旗にっしょうきを「御国みくにそうしるべ」にするというきをした。日章旗にっしょうき事実じじつじょう国旗こっき」としての地位ちい確立かくりつしたのはこれが最初さいしょである。

1860ねん万延まんえん元年がんねん)、日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく批准ひじゅんしょ交換こうかんのため、外国がいこく奉行ぶぎょう新見にいみゆたかぜん守正もりまさきょう正使せいしとする幕府ばくふ使節しせつだんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく派遣はけんされ、アメリカ軍艦ぐんかんポーハタンごう日章旗にっしょうきかかげた咸臨丸かんりんまる分乗ぶんじょうして太平洋たいへいよう横断おうだんした。使節しせつだんサンフランシスコ到着とうちゃくさら陸路りくろ海路かいろ経由けいゆして首都しゅとワシントンD.C.到着とうちゃくし、当時とうじアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうジェームズ・ブキャナン謁見えっけんして批准ひじゅん しょ交換こうかんえた。その使節しせつだんいちぎょうニューヨーク訪問ほうもんするが、日章旗にっしょうき星条旗せいじょうきかかげられたブロードウェイパレードする模様もようつたえられている[20]。これが国旗こっきとして日本にっぽん国外こくがいはじめてかかげられた日章旗にっしょうきとされる。

こうして、「日本国にっぽんこくそう船印ふなじるし」は国旗こっきとほぼ同様どうよう使つかかたをされることになり、次第しだいに「くにしるし」(1863ねん文久ぶんきゅう3ねん))とかたわっていった[21]

賊軍ぞくぐんはた[編集へんしゅう]

まるかかげる幕府ばくふ陸軍りくぐん部隊ぶたい(1864ねん

幕府ばくふ海軍かいぐんつづき、1862ねん文久ぶんきゅう2ねん)に創設そうせつされた幕府ばくふ陸軍りくぐん軍旗ぐんきまる採用さいようしたことが、2ねんだい長州ちょうしゅう征伐せいばつころ幕府ばくふ陸軍りくぐんえがいた1864ねん10月8にちづけえい週刊しゅうかん新聞しんぶんイラストレイテド・ロンドン・ニュース』の挿絵さしえよりうかがえる。以降いこう幕府ばくふ陸軍りくぐんまる軍旗ぐんきとして使用しようしていた[22]

戊辰戦争ぼしんせんそうにおいては、鳥羽とば伏見ふしみたたかの2にち慶応けいおう4ねん1がつ4にちに、薩長さっちょう同盟どうめいもとづく薩摩さつまはん長州ちょうしゅうはん中心ちゅうしんとする軍勢ぐんぜい朝廷ちょうていから「にしきはた」をさづけられて正式せいしき官軍かんぐん天皇てんのう皇室こうしつ朝廷ちょうていぐん)になったのにたい[ちゅう 3]、それ以降いこうきゅう江戸えど幕府ばくふぐん賊軍ぞくぐん朝敵ちょうてきとなり、戦局せんきょく決定的けっていてき影響えいきょうあたえた。きゅう幕府ばくふかたあきらたい会津あいづはん白虎隊びゃっこたいなど)、奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい一部いちぶなどは、自分じぶんたちの共通きょうつうはたとして上述じょうじゅつの「御国みくにそうしるべ」たる日章旗にっしょうきかかげてたたかった[23]

明治めいじ大正たいしょうから昭和しょうわ初期しょき終戦しゅうせんまで[編集へんしゅう]

松島まつしまでの帝国ていこく検査けんさちゅう進展しんてん歌川うたがわ広重ひろしげ (3代目だいめ)(1876ねん
武内たけうち桂舟けいしゅう東天紅とうてんこう」、1909ねん

明治維新めいじいしんにより国家こっか体制たいせい一新いっしんした日本にっぽんだが、国旗こっき変更へんこうおこなわれずそのまま使用しよう継続けいぞくされた。

商船しょうせん規則きそく[編集へんしゅう]

1870ねん2がつ27にち明治めいじ3ねん1がつ27にち制定せいてい商船しょうせん規則きそく明治めいじ3ねん太政官だじょうかん布告ふこくだい57ごう)に「國旗こっき」として規定きていされ、上述じょうじゅつ幕府ばくふによる「御国みくにそうしるべ」を継承けいしょうして日本にっぽんせん目印めじるしとして採用さいようされた。規格きかく現行げんこうとは若干じゃっかんことなり、縦横じゅうおうは7たい10、にちあきらはた中心ちゅうしんから旗竿はたざおがわよこながさの100ぶんの1ずれた位置いちとされていた。この記念きねんして国旗こっき協会きょうかい国旗こっき制定せいてい記念きねん制定せいていし、国旗こっき掲揚けいようとしている。

陸軍りくぐん国旗こっき[編集へんしゅう]

陸軍りくぐん国旗こっき意匠いしょう

日本にっぽん陸軍りくぐんにおいて、1870ねん6月13にち明治めいじ3ねん5月15にち制定せいてい陸軍りくぐん国旗こっきあきらなみしょはたあきら及兵しょうまく提灯ぢょうちんしるしていム(明治めいじ3ねん太政官だじょうかん布告ふこくだい355ごう)に「陸軍りくぐん国旗こっき陸軍りくぐん國旗こっき)」として旭日きょくじつはたさだめられた。

海軍かいぐん国旗こっき[編集へんしゅう]

日本にっぽん海軍かいぐんについては、1870ねん10がつ27にち明治めいじ3ねん10がつ3にち制定せいてい太政官だじょうかん布告ふこく海軍かいぐん御旗おはたあきら国旗こっきあきらなみしょはたしょうていム」(明治めいじ3ねん太政官だじょうかん布告ふこくだい651ごう)において、各種かくしゅはたしょうひとつとしてかん掲揚けいようする海軍かいぐん国旗こっきとして白布しろぬのべにあきらさだめられ、幕末ばくまつから使用しようされていたまるつづ使用しようされた。規格きかく現行げんこうおなじく、縦横じゅうおうは2たい3、にちあきらはた中心ちゅうしんとされていた。また、幕末ばくまつには「くにしるし」とばれるようになっていたまるは、どう布告ふこくのとおり、国際こくさいほうにもとづいて「国旗こっき」とばれるようになった[13]

国旗こっきとしての使用しよう法律ほうりつ制定せいてい検討けんとう[編集へんしゅう]

検閲された新聞
オリジナルの写真
まる抹消まっしょうした1936ねん8がつ25にちづけ夕刊ゆうかん東亜日報とうあにっぽう

以後いご日章旗にっしょうき国旗こっきとしてあつかわれるようになったが、「国旗こっき」としての法的ほうてき裏付うらづけは太政官だじょうかん布告ふこくのままであり、法律ほうりつとしては存在そんざいしなかった。1931ねん昭和しょうわ6ねん)2がつだい59かい帝国ていこく議会ぎかいにおいてぜん11じょうおよ附則ふそくからなる「大日本帝国だいにっぽんていこく国旗こっき法案ほうあん」が衆議院しゅうぎいん議員ぎいん石原いしはらよし三郎さぶろうにより提案ていあんされ、同年どうねん3がつ26にち衆議院しゅうぎいんほん会議かいぎにおいて可決かけつされた。しかしながら貴族きぞくいん送付そうふの3がつ28にち会期かいき終了しゅうりょうともな帝国ていこく議会ぎかい閉会へいかいにより審議しんぎ未了みりょう廃案はいあんとなり、つづだい60かい帝国ていこく議会ぎかいさい提出ていしゅつされたものの衆議院しゅうぎいん解散かいさんにより再度さいど廃案はいあんとなり、結局けっきょく成立せいりつしなかった。

日章旗にっしょうき抹消まっしょう事件じけん[編集へんしゅう]

1936ねん昭和しょうわ11ねん)のベルリンオリンピックにおいては、大日本帝国だいにっぽんていこく外地がいち朝鮮ちょうせん出身しゅっしんまごもとただし日本にっぽん代表だいひょう選手せんしゅとして男子だんしマラソン出場しゅつじょう優勝ゆうしょうしたさいに、日本にっぽん統治とうちきょうしろ現在げんざいソウル)で創刊そうかんされた東亜日報とうあにっぽう日章旗にっしょうき抹消まっしょうした写真しゃしん掲載けいさいしてそれをほうじ、11かげつ停刊ていかん処分しょぶんけた(日章旗にっしょうき抹消まっしょう事件じけん)。

占領せんりょうにおける日章旗にっしょうき掲揚けいよう禁止きんし[編集へんしゅう]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)、連合れんごう国軍こくぐんそう司令しれい(GHQ/SCAP)の指令しれいにより日章旗にっしょうき掲揚けいよう原則げんそく禁止きんしされた。このあいだ商船しょうせんはたとしては国際こくさい信号しんごうはたEはたもとづいたはた代用だいようされた。祝日しゅくじつ限定げんていした特例とくれいとしての日章旗にっしょうき掲揚けいよう許可きょかて、1949ねん昭和しょうわ24ねん)1がつ1にちダグラス・マッカーサー日本にっぽん国旗こっき使用しよう自由じゆうとするむね声明せいめい発表はっぴょう。これより正式せいしき日章旗にっしょうき自由じゆう掲揚けいようみとめられるようになった。

国旗こっき国歌こっかほう以前いぜん法令ほうれいによるあつか[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせんから1999ねん平成へいせい11ねん)の国旗こっきおよ国歌こっかかんする法律ほうりつ国旗こっき国歌こっかほう制定せいていまでのあいだ、「はんまる」を主張しゅちょうする勢力せいりょく日本にっぽん教職員きょうしょくいん組合くみあい日本にっぽん共産党きょうさんとうなどの革新かくしん勢力せいりょく)は、日章旗にっしょうき国旗こっきとしての法的ほうてき正当せいとうせい疑義ぎぎとなえてきた。これにたい日章旗にっしょうき国旗こっきみとめる勢力せいりょく自民党じみんとう日本にっぽん会議かいぎなどの保守ほしゅ)は、日章旗にっしょうき日本にっぽん国旗こっきであることは一種いっしゅ慣習かんしゅうほうかんがえられることなどを主張しゅちょう、その根拠こんきょとして前出ぜんしゅつ商船しょうせん規則きそく大喪たいそうちゅう国旗こっき掲揚けいようかたのほかにも複数ふくすう法令ほうれい条文じょうぶんちゅうに「国旗こっき」の文字もじ使用しようされ「日本にっぽん国旗こっき存在そんざいすることが当然とうぜん前提ぜんていとされている」ことをげていた。国旗こっき国歌こっかほう制定せいていまえ法律ほうりつ日本にっぽん国旗こっき意味いみする「国旗こっき」の文字もじふくんでいた事例じれいつぎのとおり(当該とうがい条文じょうぶんのち部分ぶぶんてき文言もんごん改正かいせいされたものもあるがここでははつ制定せいていのものを掲載けいさい国会こっかい審議しんぎない命令めいれい政令せいれい以下いか)での使用しようれい省略しょうりゃくきゅう字体じたい新字しんじ置換ちかん)。

  • 1899ねん船舶せんぱくほう明治めいじ32ねん法律ほうりつだい46ごうだい2じょう日本にっぽん船舶せんぱくサレハ日本にっぽん国旗こっきヲ掲クルコトヲとくス」ほか複数ふくすう条項じょうこう登場とうじょう
  • 1948ねん海上保安庁かいじょうほあんちょうほう昭和しょうわ23ねん法律ほうりつだい28ごうだい4じょうだい3こう海上保安庁かいじょうほあんちょう船舶せんぱくは、番号ばんごうおよ船舶せんぱくあきらかに識別しきべつるような標識ひょうしきし、国旗こっきおよ海上保安庁かいじょうほあんちょうはたかかげなければならない。」
  • 1952ねん保安庁ほあんちょうほう昭和しょうわ27ねん法律ほうりつだい265ごうだい83じょうだい1こう保安庁ほあんちょう使用しようする船舶せんぱくは、番号ばんごうおよ船舶せんぱくあきらかに識別しきべつるような標識ひょうしきし、国旗こっきおよ長官ちょうかんさだめるはたかかげなければならない。」
  • 1954ねん自衛隊じえいたいほう昭和しょうわ29ねん法律ほうりつだい165ごうだい102じょうだい1こう自衛じえいかんその自衛隊じえいたい使用しようする船舶せんぱくは、長官ちょうかんさだめるところにより、国旗こっきおよだいよんじょうだいいちこう規定きていにより交付こうふされた自衛じえいかんはたそのはたかかげなければならない。」
  • 1959ねん商標しょうひょうほう昭和しょうわ34ねん法律ほうりつだい127ごうだい4じょうだい1こうだい1ごう国旗こっき菊花きっか紋章もんしょう勲章くんしょう褒章ほうしょうまた外国がいこく国旗こっき同一どういつまた類似るいじ商標しょうひょう

国旗こっき国歌こっかほう成立せいりつ[編集へんしゅう]

平成へいせい初期しょきから学校がっこう入学にゅうがくしき卒業そつぎょうしきにおける日章旗にっしょうき掲揚けいようかかわる問題もんだい頻発ひんぱつ掲揚けいよう反発はんぱつする日本にっぽん教職員きょうしょくいん組合くみあい通称つうしょう日教組にっきょうそ)・全日本ぜんにほん教職員きょうしょくいん組合くみあい所属しょぞく教職員きょうしょくいん管理かんりしょく教職員きょうしょくいんのトラブルから高校こうこう校長こうちょう自殺じさつしゃるにいたった。背景はいけいには教育きょういく現場げんばにおけるまる掲揚けいようきみ斉唱せいしょうたいする反対はんたい運動うんどうがあった[24]。このことに対処たいしょするため、1999ねん平成へいせい11ねん)には国旗こっきおよ国歌こっかかんする法律ほうりつ国旗こっき国歌こっかほう)が公布こうふされ、正式せいしき国旗こっきとしてさだめられた。

なお、天皇てんのう崩御ほうぎょによる大喪たいそう一般いっぱんでいう葬儀そうぎ掲揚けいよう方法ほうほうは、大喪たいそうちゅう国旗こっき掲揚けいようかた1912ねん大正たいしょう元年がんねんかくれいだい1ごう)にさだめられている。

教育きょういく現場げんば日章旗にっしょうき掲揚けいようをめぐる国会こっかい議事ぎじ[編集へんしゅう]

国旗こっき国歌こっかほう成立せいりつ一部いちぶ教育きょういく現場げんばにおいて国旗こっき掲揚けいようたいする賛成さんせい反対はんたい対立たいりつつづいた[ちゅう 4]。このため、2006ねん平成へいせい18ねん10月31にちには衆議院しゅうぎいん教育きょういく基本きほんほうかんする特別とくべつ委員いいんかいにおいて自民党じみんとう稲田いなだ朋美ともみ議員ぎいんから「学習がくしゅう指導しどう要領ようりょう国旗こっき国歌こっか条項じょうこうにのっとって教職員きょうしょくいんには入学にゅうがくしき卒業そつぎょうしきにおいて国旗こっきかって起立きりつ国歌こっか斉唱せいしょうする職務しょくむじょう義務ぎむがあるかどうか」との質問しつもんされた。この質問しつもんたいしてだい1安倍あべ内閣ないかく安倍晋三あべしんぞう首相しゅしょう)の伊吹いぶき文明ふみあき文科ぶんか大臣だいじん民主党みんしゅとう藤村ふじむらおさむ議員ぎいんりょうとも「教職員きょうしょくいんにはその義務ぎむがある」と答弁とうべんしている。

日章旗にっしょうきのデザイン[編集へんしゅう]

日章旗にっしょうき制式せいしき
附則ふそくみとめる日章旗にっしょうき

正式せいしき規格きかく[編集へんしゅう]

国旗こっき国歌こっかほう本則ほんそくさだめられている日章旗にっしょうきは、縦横じゅうおうが2たい3の白色はくしょく紅色こうしょくあきら (直径ちょっけい: たてぶんさん中心ちゅうしん: はた中心ちゅうしん) をえがいたものである。なお、にちしょういろさだめられている「紅色こうしょく」の具体ぐたいてき色味いろみについて国旗こっき国歌こっかほう定義ていぎはない。JIS慣用かんようしょくめいにおける紅色こうしょくマンセルしょく体系たいけいで3R 4/14であるが、実際じっさいはよりあかるいいろ使つかわれることがおおい。

特例とくれい日章旗にっしょうき[編集へんしゅう]

ながらく慣行かんこう商船しょうせん規則きそくさだめられた制式せいしき)として、縦横じゅうおうを7たい10とし、にちしょうはた中心ちゅうしんより旗竿はたざおがわよこながさの100ぶんの1ずらしたてん中心ちゅうしんとしてえがくものが使用しようされてきたため、国旗こっき国歌こっかほう附則ふそくだい3こう当分とうぶんあいだこの制式せいしきもちいることができるむね特例とくれいさだめられている。両者りょうしゃ縦横じゅうおう最小公倍数さいしょうこうばいすう換算かんさんすると、本則ほんそく:14たい21、特例とくれい:14たい20となり、本則ほんそくほうがやや横長よこなが(あるいは特例とくれいほう縦長たてなが)となる。このちがいをげる意見いけんには、にちしょう白地しろじのバランスとしては特例とくれいほう安定あんていしている、ふうにはためくとき見栄みばえはにちしょう旗竿はたざおっているほううつくしい、とするものがある[よう出典しゅってん]。ちなみに、バングラデシュの国旗こっきパラオの国旗こっきえん中心ちゅうしんより旗竿はたざおがわっている。

直径ちょっけいたての2/3の日章旗にっしょうき[編集へんしゅう]

なお、1998ねん平成へいせい10ねん)の長野ながの五輪ごりんでは、「えん直径ちょっけいたての2/3(本来ほんらいは3/5)」のまるかかげた。この比率ひりつ1962ねん昭和しょうわ37ねん)の日本にっぽん宣伝せんでん美術びじゅつかいてんでの永井ながい一正かずまさほか2めいによる提案ていあんでもあったが、1964ねん昭和しょうわ39ねん)の東京とうきょう五輪ごりんでは採用さいよう見送みおくられた(2021ねん東京とうきょう五輪ごりんでは1999ねん平成へいせい11ねん)に法制ほうせいされた「3/5」を使用しようした)[27][28][29]

日章旗にっしょうき軍用ぐんようはた[編集へんしゅう]

帝国ていこく陸軍りくぐん歩兵ほへい連隊れんたい軍旗ぐんき

大日本帝国だいにっぽんていこく国軍こくぐんおよび天皇てんのう軍隊ぐんたいとしてけんぐんされた日本にっぽんぐん陸海りくかいぐん)の軍旗ぐんきとして、帝国ていこく陸軍りくぐんは1870ねん6がつ13にち明治めいじ3ねん5がつ15にち)の明治めいじ3ねん太政官だじょうかん布告ふこくだい355ごうとにおいて、日章旗にっしょうきとはべつに「陸軍りくぐん国旗こっき」として16じょう光線こうせんじゅうろくじょう旭日きょくじつ)をはな図案ずあん意匠いしょうとするはた(「旭日きょくじつ」、にちしょうはた中央ちゅうおう)を日本にっぽん史上しじょうはじめて考案こうあん採用さいよう制定せいていした。1879ねん明治めいじ12ねん太政官だじょうかん布告ふこくだい130ごうにおいてこの「陸軍りくぐん国旗こっき」は旭日きょくじつ意匠いしょうはほぼそのままに、寸法すんぽうちいさくしぼうをつけたものに変更へんこうされ名称めいしょうを「軍旗ぐんき」としあらためて制定せいていされた。

他方たほう帝国ていこく海軍かいぐんについては、1870ねん10がつ27にち明治めいじ3ねん10がつ3にち制定せいてい太政官だじょうかん布告ふこく海軍かいぐん御旗おはたあきら国旗こっきあきらなみしょはたしょうていム」(明治めいじ3ねん太政官だじょうかん布告ふこくだい651ごう)において、かんよう海軍かいぐん国旗こっきおよ船首せんしゅはたしょうとして白布しろぬのべにあきらさだめられ、幕末ばくまつ以来いらい単純たんじゅんまる使用しようされていた。しかし、帝国ていこく陸軍りくぐんより19ねん1889ねんに、明治めいじ22ねんみことのりれいだい111ごうにおいて帝国ていこく陸軍りくぐん軍旗ぐんきである旭日きょくじつはた模倣もほうするかたちで、にちしょう位置いちことなるじゅうろくじょう旭日きょくじつにちしょうはた左辺さへんり)を「軍艦ぐんかんはた」として、またかんくびとして日章旗にっしょうき制定せいていなおした。

ポツダム宣言せんげん受諾じゅだくによる日本にっぽんぐん解体かいたいにより軍旗ぐんきおよ軍艦ぐんかん廃止はいしされたが、自衛隊じえいたい設立せつりつともな陸上りくじょう自衛隊じえいたい帝国ていこく陸軍りくぐん軍旗ぐんきとは意匠いしょう一部いちぶ変更へんこうしたはちじょう旭日きょくじつはたを「自衛隊じえいたいはた」として、海上かいじょう自衛隊じえいたい帝国ていこく海軍かいぐん同一どういつ意匠いしょうの「自衛じえいかんはた」を1954ねん昭和しょうわ29ねん)にそれぞれ制定せいていした。自衛隊じえいたいはたおよ自衛じえいかんはた自衛隊じえいたいほう施行しこうれい昭和しょうわ29ねん政令せいれいだい179ごう)の別表べっぴょうだいいち[30]規定きていされている。なお、自衛隊じえいたい航空機こうくうきとうしるされている国籍こくせきマークは、きゅう日本にっぽんぐん時代じだい同様どうようしろ縁取へりとりがほどこされたまる使用しようされていた(きゅう日本にっぽんぐん時代じだいしろ縁取へりとりが場合ばあいもあった)が、近年きんねんてい視認しにんせいステルスせいためF-35では赤丸あかまるしろ縁取へりと以外いがい国籍こくせきマークがおこなわれるようになってきた。また自衛隊じえいたい戦闘せんとうふくでも、近年きんねんてい視認しにんせいため赤丸あかまるしろ縁取へりと以外いがい国籍こくせきマークがけられるようになってきた。

税関ぜいかんはた[編集へんしゅう]

あおうみそらしろりくで、接点せってん税関ぜいかんがあることをあらわしている。1892ねん明治めいじ25ねん)に制定せいてい

日章旗にっしょうき造形ぞうけいかんする逸話いつわ[編集へんしゅう]

やすもと著作ちょさく国旗こっき歴史れきし』に、「明治めいじ時代じだいイギリスまたはフランスオランダまる意匠いしょうろうとした」という記述きじゅつがある。

また、このまる買収ばいしゅうはなしは、もと俊二しゅんじ著作ちょさく国旗こっき まる』では、「1874ねん明治めいじ7ねん)のはるごろにイギリスが買収ばいしゅう当時とうじの500まんえん)をもうて、寺島てらしまはじめのり外務がいむきょう相手あいて交渉こうしょうした」としている[31]。ただしこのせつ吹浦ふくら忠正ただまさ著書ちょしょ『「まる」を科学かがくする』のなかで「真偽しんぎ不明ふめいとはいえ、わたしたんなるジョークないし外交がいこう辞令じれいじょうのものではなかったのではないかとほとんど無視むしすることにしている」[32]結論けつろんづけている。

国民こくみん感情かんじょう[編集へんしゅう]

天皇誕生日てんのうたんじょうび皇居こうきょでの一般いっぱん参賀さんが(2017ねん平成へいせい29ねん〉12月23にち

まるは、国旗こっき国歌こっかほうによって公式こうしき国旗こっきとされている。ほう制定せいてい以前いぜんにも、1974ねん昭和しょうわ49ねん)12月に実施じっしされた内閣ないかく政府せいふ広報こうほうしつ世論せろん調査ちょうさ[ちゅう 5]において、対象たいしょうしゃの84.1%が「まる日本にっぽん国旗こっきくにはた)としてふさわしい」と回答かいとうする一方いっぽうで、「ふさわしくない」と回答かいとうしたのは8.9%だった[33]

テレビ朝日てれびあさひが1999ねん7がつった世論せろん調査ちょうさでも、日章旗にっしょうき日本にっぽん国旗こっきとすることに賛成さんせいは83%、反対はんたいは8%だった[34]

積極せっきょくてき掲揚けいよう[編集へんしゅう]

フェイスペインティング(2006ねんFIFAワールドカップ
国立こくりつ霞ヶ丘かすみがおか陸上りくじょう競技きょうぎじょう日本にっぽん国旗こっき決勝けっしょうせんひがしアジアサッカー選手権せんしゅけん(2010ねん2がつ14にち)。
国旗こっき掲揚けいようしているJR九州きゅうしゅう有田ありたえき
Osaka Metro(大阪おおさか高速こうそく電気でんき軌道きどう)の車両しゃりょうない掲揚けいようされる国旗こっき
国旗こっき運転うんてんだい真上まうえまえから左上ひだりうえ)にかかげられている東急とうきゅうバス

だい世界せかい大戦たいせん祝祭日しゅくさいじつ国際こくさい試合しあいなどでは積極せっきょくてき掲揚けいようされている。

沖縄おきなわけんにおいて日章旗にっしょうき1945ねん昭和しょうわ20ねん)の沖縄おきなわせんから1972ねん昭和しょうわ47ねん5月15にち沖縄おきなわ返還へんかんまでのアメリカぐん統治とうち時代じだいにはおおくの住民じゅうみんあいだ本土ほんど復帰ふっきもとめる象徴しょうちょうであり[35]かく家庭かていではまる大切たいせつ所持しょじしていた。

サッカーバレーボール国際こくさい試合しあいにおいて、日章旗にっしょうきをモチーフとしたフェイスペインティング2002ねん平成へいせい14ねん)のFIFAワールドカップころさかい一般いっぱんしている。

なお、天皇誕生日てんのうたんじょうびなどの一般いっぱん参賀さんがでの国旗こっき皇居外苑こうきょがいえん周辺しゅうへん配布はいふされているが、これはあくまで民間みんかん一般いっぱん社団しゃだん法人ほうじん国旗こっき協会きょうかいの「皇居こうきょ参賀さんが協力きょうりょく委員いいんかい」で提供ていきょうしており、行政ぎょうせい機関きかんである宮内庁くないちょう無関係むかんけいである。

公共こうきょう施設しせつ

官公庁かんこうちょう公共こうきょう施設しせつでは、祝祭日しゅくさいじつ以外いがいにもよく日常にちじょう掲揚けいようされる。

国旗こっきあつかいについてはかく自治体じちたいさだめており、都道府県とどうふけんはた市町村しちょうそんはたおなたかさか、一段いちだんたか掲揚けいようされる。

公共こうきょう交通こうつう機関きかん

国旗こっき掲揚けいよう祝日しゅくじつかぎられ、振替ふりかえ休日きゅうじつ国民こくみん休日きゅうじつには掲揚けいようまた表記ひょうき)しないことがおおい。振替ふりかえ休日きゅうじつ国民こくみん休日きゅうじつ祝日しゅくじつとはことなり、こよみじょう日取ひど以外いがい休日きゅうじつの「いわ意味合いみあい」がないためとおもわれる。

くにあきら損壊そんかいざいについての議論ぎろん[編集へんしゅう]

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく、フランス、ドイツ、イタリア中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく大韓民国だいかんみんこくなどは公然こうぜん掲揚けいようされているもしくは公衆こうしゅうでの国旗こっき裁断さいだんや、焼却しょうきゃくなどの国旗こっきくにあきらおかせ瀆する行為こういには刑罰けいばつ規定きていしている。このうちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく、イタリア、大韓民国だいかんみんこくはあらゆるでの国旗こっき損壊そんかいたいして罰則ばっそくもうけている(→en:Flag desecration[36][37]。ただしアメリカでは「テキサスしゅうたいジョンソン裁判さいばん」において自国じこく国旗こっきやした活動かつどうen:Gregory Lee Johnson)にたいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく憲法けんぽう修正しゅうせいだいいちじょう言論げんろん自由じゆう)により無罪むざいとする判決はんけつている。日本にっぽんでは自国じこく国旗こっきくにしょう損壊そんかいすることを処罰しょばつする法律ほうりつ[38]外国がいこく国旗こっきくにしょう損壊そんかいかんしては外国がいこくこくあきら損壊そんかいざい規定きていしている(外国がいこくこくあきら損壊そんかいざい外国がいこく在日ざいにち大使館たいしかんなど公的こうてきくにあきら損壊そんかいにしか運用うんようされていない。くわしくは外国がいこくこくあきら損壊そんかいざい参照さんしょう)。

だい45かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょにおける、2009ねん平成へいせい21ねん8がつ8にち鹿児島かごしまけん霧島きりしまおこなわれた民主党みんしゅとう皆吉みなよし稲生いのう候補こうほ集会しゅうかい[39]で、国旗こっき2まい裁断さいだんして支持しじしゃ作成さくせいしたとされる“とう”を壇上だんじょう掲揚けいようした[38]8がつ18にち皆吉みなよしは、衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ出陣しゅつじんしきで「国旗こっき使用しよう方法ほうほうとしては不適切ふてきせつふかくおわびする」と謝罪しゃざいした。同日どうじつ民主党みんしゅとう幹事かんじちょう当時とうじ)・岡田おかだ克也かつやみなきち口頭こうとう注意ちゅういした。皆吉みなよし後援こうえんかいは、とう本部ほんぶ県連けんれんおよび支援しえん団体だんたいに「国旗こっき尊厳そんげんをおとしめる意図いとまったくなく、主催しゅさいしゃ不手際ふてぎわ原因げんいん」と謝罪しゃざいする文書ぶんしょ送付そうふした[40]くわしくは民主党みんしゅとう (日本にっぽん 1998-2016)#国旗こっき問題もんだい参照さんしょう)。この問題もんだいけて、ひゃくあきら日本にっぽん大学だいがく教授きょうじゅは、民主党みんしゅとう行為こうい批判ひはんしつつ「国旗こっきへの侮辱ぶじょく行為こうい刑事けいじばつされない日本にっぽん世界せかいてき異常いじょう」とし、国旗こっきたいする敬意けいい教育きょういくおしえることがもっといが、日本にっぽん国旗こっき反対はんたいする日本にっぽん教職員きょうしょくいん組合くみあいちから教育きょういくかいではそれもむずかしく、ほうさだめる必要ひつようもあるのではないかと指摘してきした。

日本にっぽん国旗こっき類似るいじする国旗こっき[編集へんしゅう]

バングラデシュ[編集へんしゅう]

バングラデシュの国旗こっきは、日本にっぽん国旗こっきのデザインが参考さんこうにされている。初代しょだい首相しゅしょうシェイク・ムジブル・ラフマン国旗こっきめるさい吹浦ふくら忠正ただまさ聖心女子大学せいしんじょしだいがく講師こうし。ユーラシア21研究所けんきゅうじょ理事りじちょう初代しょだいバングラデシュ日本人にっぽんじんかい会長かいちょう)は意見いけんもとめられており、日本にっぽん国旗こっき意味いみについて解説かいせつしている。吹浦ふくらバングラデシュ独立どくりつ戦争せんそうとき国際こくさい赤十字せきじゅうじ仕事しごと現地げんち滞在たいざいしていた[41]初代しょだいバングラデシュ大統領だいとうりょうムジブル・ラフマンむすめシェイク・ハシナ首相しゅしょうは、「ちち日本にっぽんまる参考さんこうにした。」とべた[42]バングラデシュ独立どくりつ戦争せんそう時代じだい国旗こっきから地図ちず絵柄えがらはぶいたデザインで、インドの穀倉こくそううたわれたゆたかな大地だいちを、あかまる太陽たいよう独立どくりつながされた表現ひょうげんしている。

パラオ[編集へんしゅう]

パラオの国旗こっき日本にっぽん国旗こっきており、パラオが日本にっぽん国旗こっき真似まねしたのかどうか2010ねん10月もと埼玉さいたま県立けんりつ大学だいがく教授きょうじゅ国旗こっきくわしい吹浦ふくら忠正ただまさげんユーラシア21研究所けんきゅうじょ理事りじちょう)が、パラオに出向でむき、国旗こっきをデザインしたジョン・ブラウ・スキーボングにインタビューをおこなったところ、吹浦ふくらが「パラオの国旗こっきまる模倣もほうではないのか」「まる太陽たいよう遠慮えんりょしてつきにしたのではないのか」「まる遠慮えんりょしてつき中心ちゅうしんよりずらしたのではないのか」のさんてんについて質問しつもんしたところ、スキーボングは「全部ぜんぶちがうね。わたしはもちろんまるっているが、特別とくべつにそれを意識いしきしてデザインしたわけではない。日本にっぽん日本にっぽん、パラオはパラオだ。」とし、さらに「パラオのうつくしいつき表現ひょうげんしたもの」とし、関係かんけいいとした[43]パラオ共和国ぱらおきょうわこく内務省ないむしょう国旗こっきかんしての文書ぶんしょはデザインの類似るいじせい記載きさいはない。

ギャラリー[編集へんしゅう]

国旗こっき国歌こっかほう本則ほんそくにおける日章旗にっしょうき[編集へんしゅう]

国旗こっき国歌こっかほう附則ふそくみとめる日章旗にっしょうき[編集へんしゅう]

歴代れきだい日本にっぽん国旗こっき一覧いちらん[編集へんしゅう]

その[編集へんしゅう]

ヒノマルテッポウエビ
Alpheus soror
まる弁当べんとう

符号ふごう位置いち[編集へんしゅう]

記号きごう Unicode JIS X 0213 文字もじ参照さんしょう 名称めいしょう
🇯🇵 U+1F1EF U+1F1F5 🇯🇵
🇯🇵
国旗こっき日本にっぽん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 熊野くまのからではきたかってたたかことになる。このため鈴木すずきしんねんのように、「伊勢いせまでって西にしから大和やまと盆地ぼんち侵攻しんこうした」とするせつもある。
  2. ^ つよ傾向けいこうではなく、バングラデシュの国旗こっきグリーンランドのはたでは太陽たいようあかしめし、パラオの国旗こっきではつき黄色おうしょくしめしている(#日章旗にっしょうきとデザインが類似るいじしているはた参照さんしょう)。
  3. ^ ただしこのとき錦旗きんきは、事前じぜん岩倉いわくら具視ともみ薩摩さつまはん用意よういしていたものである。錦旗きんきあたえる手続てつづ自体じたい朝廷ちょうてい正式せいしき決定けっていている。
  4. ^ 学習がくしゅう指導しどう要領ようりょうにおいては「入学にゅうがくしき卒業そつぎょうしきなどにおいては、その意義いぎまえ、国旗こっき掲揚けいようするとともに、国歌こっか斉唱せいしょうするよう指導しどうするものとする。」としるされており、『学習がくしゅう指導しどう要領ようりょう解説かいせつ』(文部もんぶ科学かがくしょう著作ちょさくぶつ)には、「国際こくさい進展しんてんともない、日本人にっぽんじんとしての自覚じかくやしない、くにあいするしんそだてるとともに、児童じどう生徒せいと)が将来しょうらい国際こくさい社会しゃかいにおいて尊敬そんけいされ、信頼しんらいされる日本人にっぽんじんとして成長せいちょうしていくためには、国旗こっきおよ国歌こっかたいして一層いっそうただしい認識にんしきをもたせ、それらを尊重そんちょうする態度たいどそだてることは重要じゅうようなことである。(後略こうりゃく)」ともしるされている[25][26]
  5. ^ しん情報じょうほうセンター委託いたく調査ちょうさした。
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出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]