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キトラ古墳こふん

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キトラ古墳こふん

墳丘ふんきゅう
所在地しょざいち 奈良ならけん高市たかいちぐん明日香あすかむら
位置いち 北緯ほくい3427ふん05びょう 東経とうけい13548ふん19びょう / 北緯ほくい34.45125 東経とうけい135.805278 / 34.45125; 135.805278 (キトラ古墳こふん)座標ざひょう: 北緯ほくい3427ふん05びょう 東経とうけい13548ふん19びょう / 北緯ほくい34.45125 東経とうけい135.805278 / 34.45125; 135.805278 (キトラ古墳こふん)
形状けいじょう えんふん
規模きぼ 上段じょうだん
直径ちょっけい9.4 m
たかさ2.4 m
下段げだん
直径ちょっけい13.8 m
たかさ90 cm
埋葬まいそう施設しせつ 石棺せっかん
出土しゅつどひん 壁画へきが
築造ちくぞう時期じき 7世紀せいきから8世紀せいき
被葬ひそうしゃ 不明ふめい
史跡しせき 特別とくべつ史跡しせき
特記とっき事項じこう 壁画へきが保存ほぞん事業じぎょうすすんでいる
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キトラ古墳の位置(日本内)
キトラ古墳
キトラ古墳こふん

キトラ古墳こふん(キトラこふん)は、奈良ならけん高市たかいちぐん明日香あすかむら南西なんせい阿部山あべやまきずかれた古墳こふんくに特別とくべつ史跡しせきかめとら古墳こふん表記ひょうきもある[1]

墳丘ふんきゅうにある石室いしむろない壁画へきが発見はっけんされこう松塚まつづか古墳こふんとも保存ほぞん事業じぎょうすすめられている。

概要がいよう

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だんちくなりづくりのえんふんである。墳丘ふんきゅう小高こだか阿部山あべさんみなみ斜面しゃめん位置いちしている。

えんふんであり、よんかみえがいた壁画へきががあるなどこう松塚まつづか古墳こふんとの類似るいじてんがある。

名称めいしょうの「キトラ(かめとら)」の由来ゆらい

  • くちから内部ないぶ観察かんさつするとかめとらかべえることから。
  • 古墳こふん南側みなみがわ小字こあざ北浦きたうらきたうら)」がなまった。
  • 古墳こふん明日香あすかむら阿部山あべやま集落しゅうらく北西ほくせい方向ほうこうにあることから、よんかみきたつかさど玄武げんぶかめ)と西にしつかさど白虎びゃっことら) から命名めいめいされた。

などのせつがある[1]

現在げんざいではカタカナ表記ひょうきの「キトラ古墳こふん」がおお使つかわれている[2][1]

年代ねんだい

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壁画へきがなどにみられるとう文化ぶんかてき影響えいきょうこう松塚まつづか古墳こふんほどには色濃いろこくないことから、遣唐使けんとうし日本にっぽん帰国きこく(704ねん)する以前いぜんの7世紀せいきまつから8世紀せいきはじごろつくられた古墳こふんであるとられている[1]

1983ねん11月7にち石室いしむろない彩色さいしき壁画へきが玄武げんぶ発見はっけんされ、高松たかまつづか古墳こふんいで2れいとなる大陸たいりくふう壁画へきが古墳こふんとして注目ちゅうもくあつめる[3]

1998ねん探査たんさあおりゅう白虎びゃっこ天文てんもん確認かくにんされ[3]、2001ねんには朱雀すじゃく十二支じゅうにしぞう確認かくにんされた[3]。カビなどの被害ひがい発生はっせいしていたため壁画へきがははぎとられて保存ほぞんされている[3]

2000ねん7がつ31にちくに史跡しせき指定していされ、同年どうねん11月24にちには特別とくべつ史跡しせき指定していされた。

2013ねん石室いしむろ考古学こうこがくてき調査ちょうさ終了しゅうりょうしたため石室いしむろもどされて墳丘ふんきゅう復元ふくげん整備せいびおこなわれている[3]

2018ねん10がつ31にちけで壁画へきが出土しゅつどひんくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされ、[4]、2019ねんには壁画へきが国宝こくほう指定していされた[5][6]

被葬ひそうしゃ

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だれ埋葬まいそうされているかはいま判然はんぜんとしていない[1]

年代ねんだいなどから、天武天皇てんむてんのう皇子おうじ、もしくは側近そっきん高官こうかん可能かのうせいたかいとられている[1]かね象眼ぞうがん出土しゅつどしたことから身分みぶん地位ちいたか人物じんぶつであるが[1]ぎんそう金具かなぐ出土しゅつどしたこう松塚まつづか古墳こふん埋葬まいそうしゃよりも身分みぶん地位ちいひく人物じんぶつ埋葬まいそうされていると推測すいそくされる。

白石しらいし太一郎たいちろうは、被葬ひそうしゃ右大臣うだいじん阿倍あべ主人しゅじんであったと推定すいていし、その根拠こんきょとして、古墳こふん周辺しゅうへん一帯いったいが「阿部山あべさん」という名前なまえ地名ちめいであることをげている。きし俊男としおなどもその蓋然性がいぜんせいきわめてたかいとかんが支持しじしている。直木なおき孝次郎こうじろう阿部あべ主人しゅじんだいいちげ、皇族こうぞくでは弓削ゆげ皇子おうじかんがえられるとした[7]阿倍あべ主人しゅじん大宝たいほう3ねん703ねん)4がつ右大臣うだいじんしたがえ、69さいぼっした(『ぞく日本にっぽん』『公卿くぎょう補任ほにん』)。

京都きょうとたちばな大学だいがく猪熊いのくまけんかちは、天武天皇てんむてんのう皇子おうじ高市皇子たけちのおうじというせつ主張しゅちょうしている。

千田せんだみのるは、百済くだらから渡来とらいした百済くだらおうあきらなり(しょうじょう)を被葬ひそうしゃげる。

構造こうぞう

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石室いしむろレプリカ(キトラ古墳こふん壁画へきが体験たいけんかん よんかみかん

だんちくなりえんふんである。上段じょうだん直径ちょっけい9.4m、たかさ2.4m、テラスじょう下段げだん直径ちょっけい13.8m、たかさ90cm。

内部ないぶ構造こうぞうよここうしき石槨せっかく天井てんじょういえがたになっている。石槨せっかく凝灰岩ぎょうかいがん切石きりいしわせてつくられており、内部ないぶはばやく1m、ながやく2.6m、たかやく1.3m。 おくかべ側壁そくへき天井てんじょう全面ぜんめんには漆喰しっくいられ、壁画へきががほどこされている。

壁画へきが

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東西とうざい南北なんぼく四壁しへき中央ちゅうおうよんかみあおりゅう白虎びゃっこ朱雀すじゃく玄武げんぶえがかれている。

ひがしかべあおりゅう西にしかべ白虎びゃっこ右向みぎむきであり、すなわちあおりゅうみなみかべ朱雀すざくのほうをいており、白虎びゃっこきたかべ玄武げんぶのほうをいている。しかし中国ちゅうごくにおいては、これとはことなりあおりゅう白虎びゃっこもいずれもみなみかべ朱雀すざくのほうをいている。

よんかみしたに、それぞれ3たいずつ十二支じゅうにしししめんししあたま人身じんしんぞうえがかれていると想定そうていされているが、きたかべ玄武げんぶの「(ね)」、ひがしかべあおりゅうの「とら(とら)」、西にしかべ白虎びゃっこの「いぬ(いぬ)」、みなみかべ朱雀すざくの「うま(うま)」「(み)」など6たい発見はっけんとどまっている[8]

どう時代じだい中国ちゅうごく朝鮮半島ちょうせんはんとうではししあたま人身じんしんかたどったりや土人どじんがた埋葬まいそうされたはか発見はっけんされているため、キトラ古墳こふん中国ちゅうごく朝鮮半島ちょうせんはんとうなどの文化ぶんかてき影響えいきょうけていたとかんがえられている。しかし、2005ねんになって発見はっけんされた「うま」の衣装いしょうは、おなみなみかべえがかれている朱雀すざくおな朱色しゅいろであった。このことは、十二支じゅうにしぞうがそれぞれのぞくする方角ほうがくによってよんかみ同様どうようけられていることを推測すいそくさせる[8]。これは中国ちゅうごく朝鮮ちょうせんれいにはられない特色とくしょくである。2021ねんには蛍光けいこうXせん分析ぶんせきにより「」の衣装いしょう塗料とりょう水銀すいぎん使つかわれていることが確認かくにんされ、朱色しゅいろだったと推測すいそくされている[8]

なお、このような十二支じゅうにしししあたま人身じんしんあらわ事例じれいは、奈良なら法蓮ほうれん佐保山さほやまにある「隼人はやとせき」がられている[9]

天井てんじょうにはさんじゅうえん同心どうしん内規ないき赤道あかみちそとぶんまわし)と黄道こうどう、その内側うちがわには北斗七星ほくとしちせいなどの星座せいざえがかれ、傾斜けいしゃには西にしつきぞうひがしにちぞうはいした本格ほんかくてき天文てんもんがある。この天文てんもんは、中国ちゅうごく蘇州そしゅうにあるみなみそう時代じだい13世紀せいき)のじゅんゆう天文てんもんよりやく500ねんふるく、現存げんそんするものではひがしアジア最古さいこ天文てんもんになる[10]えがかれているほし総数そうすうは、277である。

保存ほぞん事業じぎょう

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キトラ古墳こふん仮設かせつ保護ほごくつがえ
整備せいびされた墳丘ふんきゅう/2016ねん撮影さつえい
キトラ古墳こふん壁画へきが体験たいけんかん よんかみかん

研究けんきゅう保存ほぞん公開こうかいなどは奈良ならにある奈良なら文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょおもとなっている。

発掘はっくつ湿気しっけのため石室いしむろないにカビが発生はっせいし、壁画へきが変質へんしつ進行しんこうしていることが判明はんめいした。このため壁画へきがをはぎ保存ほぞんする作業さぎょうおこなわれることとなった。文化庁ぶんかちょう2004ねん8がつより、損傷そんしょうはげしいものから順次じゅんじはぎ作業さぎょう開始かいし同庁どうちょうによれば、2007ねん2がつ15にちまでにみなみかべ朱雀すざくがはぎられ、確認かくにんされている壁画へきがのはぎ作業さぎょうは(天井てんじょう天文てんもんのぞき)完了かんりょうした。壁画へきが一部いちぶ2009ねん5月8にちからどう24にちまで奈良なら文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ飛鳥あすか資料しりょうかんにて一般いっぱん公開こうかいされた。2010ねん11がつまでにはぎ作業さぎょう完了かんりょう[3]

2013ねん3がつまでに石室いしむろ考古学こうこがくてき調査ちょうさ終了しゅうりょう[3]同年どうねん8がつには石室いしむろ一般いっぱん公開こうかい実施じっしされた[3]。1983ねん石室いしむろみなみかべにあった盗掘とうくつあなたかさ65cm、はば25〜40cm、奥行おくゆき49cm)からのファイバースコープ撮影さつえい壁画へきが発見はっけんされ石室いしむろ調査ちょうさがスタートしたが[3]、2013ねん石室いしむろ調査ちょうさ終了しゅうりょうによってあな二上山にじょうざんさん凝灰岩ぎょうかいがん2封印ふういんされた[3]あな封印ふういんしている石材せきざいには「キトラ古墳こふん石室いしむろ盗掘とうくつこう閉塞へいそくする」の文字もじきざんだ銅板どうばんけられている[3]古墳こふん一帯いったい国営こくえい飛鳥あすか歴史れきし公園こうえんキトラ古墳こふん周辺しゅうへん地区ちくとして整備せいびすすめられ、2016年度ねんどまでに「体験たいけん学習がくしゅうかん仮称かしょう)」が建設けんせつされ墳丘ふんきゅう遺構いこう整備せいびされることとされた[3]。「体験たいけん学習がくしゅうかん仮称かしょう)」は2016ねん9がつ、「キトラ古墳こふん壁画へきが体験たいけんかん よんかみかん」として開館かいかんした。同館どうかんの1かい文化庁ぶんかちょうキトラ古墳こふん壁画へきが保存ほぞん管理かんり施設しせつとなっており、地階ちかいには石室いしむろのレプリカとう展示てんじがある[11]

文化財ぶんかざい

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特別とくべつ史跡しせき

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  • キトラ古墳こふん - 2000ねん11月24にち指定してい

国宝こくほう

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  • キトラ古墳こふん壁画へきが 5めん東西とうざい南北なんぼくかべおよ天井てんじょう) - 2018ねん10がつ31にち重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定してい、2019ねん7がつ23にち国宝こくほう指定してい[5][12]

重要じゅうよう文化財ぶんかざい

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  • 奈良ならけんキトラ古墳こふん出土しゅつどひん - 2018ねん10がつ31にち指定してい
    • 金銀きんぎんそうたい金具かなぐ残欠ざんけつ 1てん
    • 金属きんぞく製品せいひん 16てん
    • 琥珀こはくだま 6てん
    • ガラス製品せいひん 一括いっかつ
  • 以下いか指定してい
    • 金属きんぞく製品せいひん残欠ざんけつ 6てん
    • うるしぬり製品せいひん残欠ざんけつ 27てん
    • 金箔きんぱくへん 一括いっかつ
    • 石室いしむろ石材せきざい残欠ざんけつ 1てん
    • 土師器はじき 3てん

記念きねん発行はっこうぶつ

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80+10えん付加ふかきん特殊とくしゅ切手きってが2種類しゅるい2003ねん10月15にち発行はっこうされた。

脚註きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g キトラ古墳こふん”. 国営こくえい飛鳥あすか歴史れきし公園こうえん (2018ねん3がつ6にち). 2021ねん8がつ6にち閲覧えつらん
  2. ^ キトラ古墳こふん壁画へきが体験たいけんかん よんかみかん キトラ古墳こふん壁画へきが保存ほぞん管理かんり施設しせつ”. www.nabunken.go.jp. 2021ねん8がつ6にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e f g h i j k l “はぎ修理しゅうり石室いしむろもどし - 発見はっけんから30ねん/キトラ古墳こふん 極彩色ごくさいしょく壁画へきが. 奈良なら新聞しんぶん. (2013ねん11月7にち). https://www.nara-np.co.jp/news/20131107094352.html 2013ねん11月8にち閲覧えつらん 
  4. ^ 平成へいせい30ねん10がつ31にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい208ごう
  5. ^ a b れい元年がんねん7がつ23にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい22ごう
  6. ^ 文化ぶんか審議しんぎかい答申とうしん国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい美術びじゅつ工芸こうげいひん)の指定していおよ登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい美術びじゅつ工芸こうげいひん)の登録とうろくについて~
  7. ^ 直木なおき孝次郎こうじろうかめとら古墳こふん被葬ひそうしゃ」。
  8. ^ a b c キトラ古墳こふん石室いしむろみなみかべ水銀すいぎん確認かくにん 十二支じゅうにし痕跡こんせきか:朝日新聞あさひしんぶんデジタル”. 朝日新聞あさひしんぶんデジタル. 2021ねん8がつ31にち閲覧えつらん
  9. ^ 橿原考古学研究所かしはらこうこがくけんきゅうしょ 2001, p. 109.
  10. ^ 明日香あすかむら教育きょういく委員いいんかい発行はっこう 「キトラ古墳こふん」 1998ねん 10がつ
  11. ^ キトラ古墳こふん周辺しゅうへん地区ちくおもどころ”. 国営こくえい飛鳥あすか歴史れきし公園こうえん (2018ねん3がつ6にち). 2021ねん8がつ6にち閲覧えつらん
  12. ^ 文化ぶんか審議しんぎかい答申とうしん国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい美術びじゅつ工芸こうげいひん)の指定していおよ登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい美術びじゅつ工芸こうげいひん)の登録とうろくについて〜」文化庁ぶんかちょうサイト、2019ねん3がつ18にち発表はっぴょう

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 直木なおき孝次郎こうじろうかめとら古墳こふん被葬ひそうしゃ」、『日本にっぽん古代こだい国家こっか成立せいりつ』(講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ)、1996ねん初出しょしゅつは『明日香あすかふう』10ごう、1984ねん1がつ
  • 図録ずろく せき文化ぶんか 古代こだい大和やまと石造せきぞうぶつ」『橿原かしはら考古学こうこがく協会きょうかい調査ちょうさ研究けんきゅう成果せいかだい5かん橿原考古学研究所かしはらこうこがくけんきゅうしょ、2001ねん9がつ1にち、101-109ぺーじNCID BA54760690 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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